第三章

「小さな光」



 翌朝、ひとまずバイクの修理は諦めて、自分の脚で行動する事にした俺は、手がかりのある可能性の高い場所を訪ねまわる事にした。全身を叩くような蝉時雨に包まれて、町外れの山の上にある神社へと続く石段を、汗を拭いつつ登って行く。

 やがて、石段を登り切った時、うっそうとした木立に囲まれた境内が目の前に広がる。普段は滅多に人が訪れないのか、宮司すら訪れた気配のないその神社は、熱を帯びた空気を振動させる、激しい蝉の声に包まれながらも、どこか時間の流れから隔絶されているような静けさを漂わせていた。

 無意識にカメラを構えようとした時、俺は、そこでもまた、この地の記憶の気配を感じり、疲労感にも似た気分で、カメラを下ろした。

「まただ・・・・・・一体どうなっているんだ、この町は・・・・・・」

 まさかここまでとは。正直、思っても見なかった事態に、俺は思わず呻き声をもらした。これほどまでに強い想いが残っている地を、俺は見たことが無かった。

 確かに、俺は人とは違うものを見る目を持っている。だが、それでも、この銀色の目とライカがあればどこでも、なんでも見える訳ではない。

 俺が見ることが出来るもの、正確に言えば、曽祖父の代から家に伝えられていた、骨董品のライカのレンズを通して見えるもの。それで初めて俺の目に映る、現世には既に存在しないもの。それは、この星自身の記憶のような気がしてならない。だが、なぜそれが俺に見えるのか、それは、俺が教えて欲しいくらいだ。

 どうしても忘れられない、あるいは忘れたくないほどに。この星に、そう思わせるに足るだけの、強く純粋な思いがもたらした記憶。俺は、それを見ているのではないかと思う時がある。

 さすがに、自分自身でも正気を疑うような、突飛な考えなのはわかっている。だが、そうでもなければ、俺はライカのファインダーを覗くたび、その場所で起こった出来事を、いちいち目にしなければならない。

 この星が、忘れたくないと思わせるほどの記憶。それがなぜ、俺に見えるのかはまったくわからない。このライカとて、年代物には違いないが、一応現行機種のフィルムに対応出来るように作られている。もしかしたら、俺の親父辺りが手を加えたものかもしれないが、それでも俺が見る限り、何の変哲もない骨董品だ。

 いや、何の変哲もないというのは違うかもしれない。もし、後世に残すため手を加えられたものなら、そうまでして伝えなければならないものだったと言う事になる。そうだとすれば、このライカは、いつからこうして、この星の記憶を見続けて来たのだろうか。

 だが、そんなのは、今この場にあって何の足しにもならない話だ。俺は、黙ってライカをバッグにしまった。とてもではないが、これでは仕事にならない。他人の記憶を覗き見るつもりも無ければ、歴史の生き証人を気取るつもりもない。しかし、この町には何かがあると思ったのも事実だ。不意に、高野山の老僧の言葉が脳裏をよぎる。

 白き翼を持ちし少女

 それが一体何を意味するのか、俺にはまったくわからない。額面通りに受け取るのなら、鳥のような翼を生やした少女と言うことになる。そんな、生物学を根底から無視するような、おとぎ話紛いの人間が存在し得るのだろうか。

 そもそも、どうして俺は、そんな言葉の意味をわざわざ確かめるように、この町を訪れたのだろう。あの時は、年寄りの昔話程度にしか思っていなかったはずなのに。

 わからない、わからない事ばかりだ。この町に来てから、俺の中で、どこかが、何かが、確実におかしくなっている。別に目に見える異常がある訳ではない。だが、自分の意志の及ばない、何か他の力に引寄せられているような、そんな違和感が抜けない。

「くそっ、どうかしている・・・・・・!」

 割れんばかりの蝉時雨、時の流れが止まってしまったかのような境内、そんな空気の中で、俺は、まるで行くべき道を見失ったように、いつまでもそこに立ちすくんでいた。




 山から降りて来た俺は、いつのまにか馴染みの場所と化した防波堤の上で、ぼんやりと海を眺めていた。この町は、どこかおかしい。別に、治安が悪いとか、異常な住民がいるとか、そう言う訳ではない。

 むしろ、この町は優しすぎるくらい穏やかだ。それはちょうど、傾き始めた夕暮れの日差しのように、柔らかく、そして暖かい空気のように。

 だが、風が止んだ瞬間のような、空気だけでなく、時間までもが止まってしまったかのような、脆弱な、頼りない感覚。そんな空気がこの町全体には漂っているような気がした。それくらい、穏やか過ぎる町。

 いつまでも終わなく彷徨い続けなければならない、終わりのない空間を巡り続ける、クラインの壷。

 いつまでも、いつまでも、同じ時間を回り続ける幻惑めいた錯覚。

「どうなってるんだ、この町は・・・・・・」

 言い知れぬ不安、正体のわからない恐怖に似た感覚。

「・・・・・・まあいい、こいつを使わなければいい事だ」

 見たくないものを見てしまう不安に囚われているのなら、その不安を呼び起こさせるものに触れなければいいだけだ。ライカでなくても写真は撮れる。俺はそう割りきると、いくぶん軽くなった気持ちに安堵しつつ、昼食でも調達しようかと、何気なく視線を動かした時だった。

「・・・・・・何?」

 視界を移した先に、見た事もないものがあった。どうやら生き物らしいそれは、防波堤の脇に座り込んで、大粒のビー玉のような目でこちらを見上げていた。

「・・・・・・お前、何だ?」

 俺は、ようやくそれだけを口にする。事実、そうとしか言い様がない。神尾の言葉を借りれば、『けったい』な生き物だった。

「ぴこっ!」

「・・・・・・・・・・・・何?」

 そいつは確かに、『ぴこ』と鳴いた。そうとしか聞きようがない、それ以外に聞こえる者がいたら、是非教えてほしかった。

「ぴこぴこっ!」

「・・・・・・・・・・・・むう」

 聞き違いなどではない、確かにこの生き物は『ぴこ』と鳴いている。

「・・・・・・お前、何だ?」

 間抜けのように、同じ言葉を繰り返す。俺の腰かけている防波堤の渡り通路に座っている、真っ白な毛玉のような生き物。その真ん丸い頭部には、黒いビー玉のような目と、小さな逆三角形の鼻がついている。大まかな見解をすれば、全体的な姿は、犬と言う生き物にやや近い。と言うよりも、玩具屋で売られているような、犬のぬいぐるみそのものの姿をしていた。ただし、それは確かに生き物だった。

「ぴこぴこっ、ぴこぴこぴこっ!」

 珍しい、実に珍しい。だが、いくら珍しいとは言え、この得体の知れない生き物に対して、油断する気にはなれない。無論、これほど珍しい生き物を目の当りにしたにもかかわらず、これを写真に残そうと言う気も起こらなかった。

 幸い、特異なのは外見だけで、身体能力については、このサイズの小動物一般の平均値程度しかない様だ。この白い異形の生き物は、高さ1メートル程のコンクリートの壁を超える事が出来ず、こちらを見上げたまま、うろうろと歩き回っているだけだった。

 俺は、関わり合いになる前に、この場を立ち去ろうとカメラバッグを肩にかけ直した。そして、防波堤の上を歩き出した時だった。

「ポテト!こんなとこにいたんだ」

 階段を駆け上がってくる軽快な足音と共に、この生き物の関係者と思しき声がした。何気なく振り向いた瞬間、その声の主と目が合ってしまった。

「あれ?」

 学校の制服を着込んだ、高校生くらいのその少女は、こちらを興味深そうに見つめてくる。

「むむむむむ・・・・・・」

 そして、彼女はしばらく難しい顔で考えた末、真顔で問いかけて来た。

「もしかして、旅人さん?」

「・・・・・・何?」

 飼犬は主人に似るというが、この白い毛玉といいこの少女といい、どうにも変わった個性の持ち主らしい。

「ずっと前にもね、この町に旅人さんが来たことがあったんだよ」

 彼女は、足元に近付いてきた白い毛玉を抱き上げながら、俺にそんな事を言ってきた。

「旅人・・・・・・か、なるほど、なかなか風流だな」

「でもね、人形劇がなかなかウケなくて、とっても困ってたんだ」

「人形劇?大道芸人か何かだったのか」

「うん、そんなとこだよー」

 おそらく高校生ぐらいなのだろうが、見かけの割には幼いもののしゃべり方をする。そして、右手の手首には、ファッションか、それとも何かのおまじないか、黄色いバンダナが巻きつけられている。

「ねえ、旅人さん」

「何だ?」

「旅人さんは何をしている人?」

 無邪気そうな外見にたがわず、物怖じせず質問を向けてくる。そういうのは嫌いではないが、どうも、この町の住人は、そういったおおらかな性格が多いらしい。

「ああ、俺はカメラマンだ」

「カメラマン・・・・・・?じゃあ、写真屋さん?」

「似ているが違う」

「むむむ・・・・・・、難しいよぉ・・・・・・」

「・・・・・・そうか?」

 なにやら真剣な表情で悩みだした彼女の足元で、先ほどの白い毛玉が心配そうに、その様子を見上げている。

「カメラマンは、雑誌や写真集に載せる写真を撮るのが仕事で、写真屋は、客から預かったフィルムを現像して、写真を渡すのが仕事だ。似ているかもしれんが、やっていることは違う」

 まさか本気で悩んでいるわけでもないだろうが、一応注釈くらいは入れておく。そうでもしないと、本当にいつまでも考え込んでいそうな雰囲気だったからだ。

「なんなら、一枚撮ってみるか?プロの腕前を実感してみるのも面白いと思うぞ」

「むむむ・・・・・・そうなると、かのりん、脱がなきゃいけないのかなぁ・・・・・・。それは、ちょっと恥ずかしすぎるよぉ」

「・・・・・・何?」

「だって、モデルさんって、裸になるか、水着になるかのどっちかでしょ?それは、ちょっと勇気がいるなぁ・・・・・・」

「・・・・・・何を言っているんだか。そうしたいのなら止めはせんが、とりあえず、そのままで充分だ。それと、そこの友達も一緒に写るといい」

 勘違いもはなはだしいことで悩む彼女に、俺は思わず苦笑しながら、その足元でうろうろとしている、白い毛玉を指差した。

 そもそも、彼女には悪いが、ヌードだろうとセミヌードだろうと、そんなものを取るつもりは毛頭無い。いや、全く撮ったことが無いとは言わないが、あんな不愉快な仕事は、よほど食い詰めた時意外はやりたくない。

「なんだ、びっくりしたよぉ」

「びっくりしたのはこっちだ、で、どうする?まあ、無理にとは言わないが」

「そんなこと無いよ!それじゃ、ポテトも一緒でいい?」

「ああ、その方が、いい絵になる」

「わあ、よかったね、ポテト!」

「ぴこぴこっ」

 彼女は、ポテトと呼ばれた、その白い子犬らしきものを抱き上げると、子供のように無邪気な笑顔を浮かべて、くるくると踊るように小さくステップを踏む。

「あ、そうだ、忘れてたよぉ」

 彼女は、俺のほうに向き直ると、少しだけ表情を改めた。

「あたし、霧島佳乃っていいます。それで、この子は友達のポテト!それじゃ、よろしくお願いします!」

「ああ、俺は南風原宋玄。こちらこそよろしく頼む。それじゃ、自分の好きな場所で、好きなように動いてくれ。その方が、自然な絵になる」

「うん、わかったよぉ!」

 そう答えると、霧島はごく自然な様子で、防波堤やその周囲を、ポテトと一緒に歩き始めた。俺は、予備として持っていた、ニコンのファインダーを覗き、当然ながら、何事も無いことを確認すると、わかりきった安堵感に苦笑しつつも、ポイントを選んでシャッターを切った。




 霧島のスナップを取り終えたついでに、ちょうど使い切った分のフィルムをまとめ、それらを、帰りがてらに写真屋に現像に出すことにした。

 本来なら、事務所に持って帰り、自分で現像までこなしたい所だが、遠野や霧島、そして神尾に渡す写真の件もある。それは日数を置いてもいいものではないし、当人達にしても、なるべく早めに渡すほうがいいだろう。

 グレードは数段落ちるが、それは大目に見てもらうしかない。それでも、普通の人間が写したものよりは、格段にいいものが撮れたという自信はある。

「ただいま」

 商店街に寄ったついでに、スーパーで軽くつまめそうなものを買った袋をぶら下げ、ここしばらく世話になっている神尾の自宅に戻る。

「おかえり、早かったなぁ」

「ああ、とりあえず、今日はこの町の地理を覚える程度にしておいた」

「こない小さな町、覚えるほどのモンでもないやろ。ははあ、さては、ウチに早よあいたくて、途中で仕事切り上げてきたんやろ?」

「それもまた悪くない話だ」

「ハハッ、せやろ?」

 軽く切り返す俺の言葉に、神尾は猫のような表情で笑う。

「まあ、それはそうとして。晩酌のツマにはなるだろう、とっておいてくれ」

「なんやおもろないなぁ、ま、これはこれで、ありがたくもらっとくで」

「そうしてくれ」

 あれから、結局俺は、当面の間、晴子の家に逗留することになった。最初、いかばかりかの手間代を、と思ったのだが、彼女はこれをかたくなに拒否、というよりも、取り合おうともしなかった。それどころか、

『金がどうこうっちゅう問題やないんや、どうしても金握らすつもりなら、他んとこ探し』

と言うから恐れ入る。もっとも、受け取りを拒否するのは現金のみで、飲食物その他の物品に関してはその限りではないようだ。だから、取材から帰るときは必ず、晩酌のつまみなり、夕食後の甘味なりを買って帰ることにしている。

「宗玄――っ!今から夕飯の支度するさかい、縁側で適当に涼んどってや――!」

「ああ、わかった」

 台所から聞こえてくる晴子の声に返事を返し、カメラバッグの中身を縁側に広げ、F3の手入れをして時間をつぶすことにした。レンズや本体についた埃を慎重に落とす作業を続けながら、ふと、庭の片隅にたたずむ2台のバイクに目を向けた。

 そこには、相も変わらず、特に自己主張するでもなく、その場に解け込むようにたたずんでいる彼らが居た。そして、この町に来て以来、エンジンに火を灯すことを忘れた俺のバイク。彼もまた、何事もなかったかのように、まるで、そこにあることが当たり前であるかのように、その身を静かに休ませている。

 もちろん、あれから何もしなかったわけではない。時間を見つけては、もう一度各部を点検したり、晴子のつてで、本職のバイク屋にも見てもらったりした。だが、いずれにしても、結果は芳しいものではなかった。

 確かに、年季の入った中古車であることに間違いはないが、まさか、ここまで見事なまでに故障してくれるとは、正直考えても見なかった。実際、ここまでの道のりは、何の不調も訴えずに走り続けていただけに、こうなると、もう万策尽きた感があった。

「・・・・・・まさか、このまま廃車。なんてことはないだろうな」

「なんや、宗玄。アンタ、虫歯でも悪くしとんのかいな?」

 誰に言うともないつぶやきに、ある意味、約束じみたボケを入れてきた晴子の声が返ってきた。

「別に、歯が痛いわけじゃない。俺のバイク、あれはもう駄目かもしれないと思っただけだ」

「そんなんわかっとるがな。それより、夕飯できたで」

「すまない、ご馳走になる」

「いまさら何言っとんねん、気にせんでええから、はよ来ぃや」

「わかった」

 実際、軽く流せる話でないのは確かなのだが、ここで深刻に悩んでみても、それで故障が回復するわけでもない。どうにもすっきりしないものを感じつつも、卓袱台の前に腰を下ろした。

「ところで、神尾」

「ん?なんやの」

 俺は、箸を持つ手を止めて、差し向かいに座る神尾に声をかける。

「霧島診療所を知っているか?」

「なんやねん、それ。それくらい知らんかったら、病気かました時、完全アウトやで」

 知っているなら知っているで、普通にそう言えばいいものを。とも思うが、一応、こちらは質問する立場だから黙っておく。

「で、どっか具合でも悪くしたんかいな」

「いや、そこの家族に、写真を届けようと思っていた」

「写真?そらまた手の早いこっちゃなぁ」

「・・・・・・どういう意味だ」

 神尾は、意地悪く笑みを浮かべると、箸の先をくるくる回しながら俺のほうに向ける。

「霧島診療所の美人姉妹言ぅたら、この町じゃ、ちっとは知れとる話やで?」

「なるほど、そうなのか」

「せやで、まったく、ウチという女がいときながら、なにしとんねん、アンタは」

「言ってる意味がよくわからん。そのつもりがあるなら、いちいち話したりなんかしない」

 悪気があるわけではないのは、十分承知しているが、どうしてこうも余計な一言が出てくるのだろう。まあ、それも彼女の性分と言ってしまえば、それまでなわけだが。

「霧島・・・佳乃といったか、彼女が連れている動物、あれは、犬なのか?」

「なに言ぅてんねん、アンタは。あれが犬やなかったら、クジラとか言うつもりかいな」

「・・・・・・せめて、羊か何かにまからないのか?」

「つまらんなぁ、座布団取るで?」

「それは、関東系じゃないのか?」

「おもろいからええねん。アンタ、もちっと笑いの勉強した方がええで」

「結構だ、カメラで十分食っていける」

「ほんま、おもろないなぁ・・・・・・」

 俺の言葉に、神尾はしらけきった目を俺に向ける。どうにも、扱いづらいことこの上ない。と、思っていたら、神尾はつと席を立つと、台所に引っ込んだかと思ったら、本屋の紙袋を手に戻ってきた。

「仕事の帰りに、本屋に寄ってみたんやけどな」

 包みを手に、腰を下ろした神尾は、バリバリと袋を破り捨てると、一冊の写真集を取り出した。

「これ、あんたの本やろ?他にも何冊か置いとったけど、うち的には、これが一番やわ」

「わざわざ買ったのか、言ってくれれば、送らせてもらうのに」

「アホ言いな、ええもんに金使うんは当たり前や」

 そう言うと、神尾は写真集をぱらぱらとめくり、南国の風景を眺めている。だいぶ前に出させてもらったものだった。確か、この時期を境に、田舎には帰らなくなった。

「同じ海や山やのに、こんなに違うんやな・・・・・・」

 神尾は、食事を忘れたように、写真の中の風景に見入っている。だが、そんな神尾を、俺は複雑な思いで見るしかなかった。

「いっぺん、行ってみたいとこやな・・・・・・」

「ツアーなら、ピンキリで組まれているからな。暇と余裕があるなら、考えてみるといい」

「アホ、ここは『俺が連れてってやる』言うとこやねん」

 つまらなさそうな目で俺を睨む神尾に、俺は苦笑いを返すしかなかった。




 その夜、俺は、例の如く神尾の晩酌に付き合わされた。だが、最近はあまり口にしていなかった。という言葉どおり、一合か二合そこそこの量で、すっかり寝入ってしまった神尾を自室に運んだ後、俺は、庭の外へと足を運んだ。

 虫の声と、夜風に揺れる草木のさざめきが満ちる闇の中で、まるで、黒いビロードの上に、ガラスの粒を振りまいたような夜空を見上げる。何千何万何億、その、視界に収まりきらないほどに広がる星々を眺めていると、つい、つまらないことを思い出してしまう。

 人は、死ぬとその魂は天に上がり、そして、星となる。

 まったく、今時流行りようもない、陳腐の極みを尽くした言葉。しかし、万に一つでも、それが真実であるとしたら。

 星の光は、それこそ何億年も前の輝きだと言うことは、今の時代にあって、それに異を唱える愚者はいない。しかし、あの輝きが、何億年も前に生きた、命の輝きの証だったとしたら。

 それならば、神尾の娘も、何億年未来の空で、ささやかな、しかし、澄んだ輝きで地上を照らすのだろうか。

 俺は、感傷に浸るような自分自身に苦笑する。

 けれども、どこかで、そうあって欲しいと呟き続ける何かがいた。今まで、その存在すら忘れていた、幽かな何か。まるで、この町の空気に誘われて、自分の存在を思い出し、浮かび上がってきたかのような。

 まったく、何を柄にも無いことを。酔っている。ただ、それだけのことだ。

 明日は、出来上がっているはずの写真を、それぞれの場所へ届けに行く。そして、取材を続ける。ただ、それだけ。

 そう、ただ、それだけだ。