第二章

「町行かば」



 翌朝、割れんばかりの蝉の合唱を目覚まし替りに目を覚まし、今日一日の予定を頭の中で組み立てる。取り敢えずは、相棒の修理の続きをするべきだろう。俺はマットの上から体を起こすと、駅舎の前に止めたバイクの前に工具を並べて見た。

 丁度いい場所があったものだ、ここなら日差しを気にする事無く修理に専念できる。おまけに、吹き抜けて行く山風が肌に心地よい。

 だが、いくら環境が整っていようが、修理の成功判定とはまた別物であるらしい。ほとんど完全分解した状態から組み上げたにもかかわらず、我が相棒はウンともスンとも言わない。こうなったら、本職の整備工でもない俺にとっては、完全にお手上げだった。

 無駄に油で汚れただけの手や顔をぶら下げながら、俺はキャンピングマットに戻ると手足を投げ出した。

 これ以上機械いじりに専念している訳にも行かない。こうなったら自分の足で動き回りながら、探し物を見付けるしか手は無さそうだ。山風に乗って流れる蝉の合唱を聞きながら、今さらながらにのどの渇きと空腹感に気付く。腕の時計を見ると、既に正午近くを差していた。

 買出しに行かねばならない、しかし、その前にこの油で汚れた手や顔をまず先に何とかせねばなるまい。気だるい疲労感が包む頭で、そんな事をぼんやりと考えていた時だった。

「にょわっ?誰かいるっっ!」

 奇妙な言葉遣いで、驚きの声を上げる子供の声に、俺は何事かと目を開けた。恐らく遊び場に来た子供にでも見つかったのだろうと、そう思った時だった。

「ぐわっっ?」

 いきなり視界に星が散った。それが、自分の頭を蹴りつけられたと言うことに気付いたのは、それからたっぷり1分近く経ってからだった。

 まだ少し痛む頭を押さえ、努めて冷静に言葉を組み立てた俺の視界に映ったのは、やや赤みがかかった長い髪を、頭の両側で結い上げた10歳くらいの少女だった。彼女は、驚きと、そして少々の敵意を大きな瞳に浮かべ、じっと俺を睨み付けている。

「・・・・・・何をする?遊び場を占領した事は謝るが、ここまでする必要があるのか」

「う・・・・・・・・・!」

 少女は多少うろたえたように一瞬視線を泳がせるが、それでも攻撃的な色は、少しも色褪せる事は無かった。

「俺は何も、ここに居座ろうと言うつもりはない。ここから立ち退いて欲しいのなら、そう言ってもらえれば、すぐにでもここから立ち退こう。だが、何の断りも無く人の頭を蹴り付けるのは、いくら子供でも許される事だとは思えんのだがな」

 俺は、別に子供が嫌いな訳ではない。かと言って、特段子供好きと言う訳でもない。子供は子供として、それなりの対応をする自信はあった。だが、警告も何も無しに、こうも理不尽な攻撃を加えられて、笑って済ませられるほど、人間が熟成していると言う自信はまったく無い。

「むむむ・・・・・・・・・」

 それでも、少女は頑なに俺の方を睨み付けている。子供らしいといえばらしいのだが、その特筆に価する頑迷振りに、俺はほとほと呆れつつ彼女の顔を見返した時だった。

「お前・・・・・・」

 俺はその少女の顔に、なぜか引っかかるものを感じた。どこかで見たことがある、そう思った時だった。その疑問の答えは、不意に現れた。

「・・・・・・みちる?」

「あっ!美凪っ!」

 不思議そうな様子で首を傾げている美凪、そして、彼女に駆け寄る少女。2人は、どこと無くその雰囲気が似ていた。恐らく、姉妹なのだろう。それで先ほどの引っかかりが消え失せ、同時に、頭部を強打されたことに対する憤りも薄れていった。

「・・・・・・お早うございます、宗玄さん」

「ああ、また会ったな、遠野」

 何事も無かったかのような朝の挨拶、恐らく俺は、この姉妹の取っておきの場にあつかましくも寝転んでいたのだろう。それなら、先ほどの実力行使もとりあえず納得した。

「・・・・・・どうかなされましたか?」

「いや、何でもない」

 遠野の訪ねる声に、俺はそう答える。見ると、遠野の傍らに張り付いている、みちると言う名の少女の表情に、微かな驚きの表情が浮かんでいる。恐らく、俺が姉の顔見知りとは、知らなかったのだろう。

「・・・・・・もしかして、昨夜はここに?」

「ああ、知らずとは言え、勝手に大事な場所に上がり込んで、本当に済まなかった」

 俺は遠野にそう答えながら、昨日の内に広げたマットやカンテラを片付け、撤収の支度を始めた。別に卑屈になるつもりはないが、昨日見た光景の事もあり、これ以上ここにいるべきではないと思った。

「宗玄さん」

「ん?」

「・・・・・・痛かったで賞」

「遠野、お前・・・・・・」

 昨日のように、またも茶封筒を差出す遠野に、俺は我ながら複雑な表情をしていたと思う。一方、みちるの方もまた、ばつの悪そうな表情を浮かべている。

「遠野、お前が気にする事じゃない」

 俺が遠野の名を口にした時だった。

「馴れ馴れしいぞーっ!」

 その一言が気に入らなかったのか、みちるが憤慨した表情で突っかかってくる。だが、子供の力などたいした脅威にはなり得ない。取り敢えず、次々と繰り出されてくる蹴りを、軽く払いのけるように受け流しながら、最後の荷物を荷台にくくり付けた。

「遠野、気持ちとしては、昨日貰った分で十分感謝している。今回の賞は、その気持ちだけで十分有り難い」

「・・・・・・そうですか」

「ああ、済まないな」

「・・・・・・がっかり」

 本当にがっかりしているのかどうか、どうにも判別し難い表情で肩を落とす遠野。そして、そのあと予想通りのみちるの反応が迫ってきた。

「美凪をがっかりさせるなーっ!」

 みちるの声に振り向きながら、軽く腹筋に力を入れ、その蹴りを腹で受け止める。狙ったのかそれとも偶然か、みちるの蹴りは正確にみぞおちを狙うものだったが、子供の力であると言う事と、山歩きで鍛えられた腹筋のおかげで、さしたる衝撃は感じなかった。

「そうだな、悪かった」

 俺は、驚いた表情のみちるに軽く頭を下げる。形や手段はどうあれ、みちるが真剣に姉を思った上での行動であることには違いはない。それとも、それに対して、敢えて彼女の怒りを受けるのは、やはり偽善だろうか。

「宗玄さん」

 バイクを引いて歩き出そうとした俺に、遠野の声がかけられる。

「・・・・・・写真、できあがったら、お見せいただけますか?」

「ああ、約束だからな。その時は、ここに持ってくる」

「はい」

「じゃあな」

 そう言葉を残し、俺は動かないバイクを押しつつ、町へと下る坂道を歩き出した。




 武田商店なる雑貨店で、数個のパンと、そして店頭の自動販売機で見かけた、変わった飲み物を買い、昨日の防波堤の上で朝食と昼食を兼ねた食事を取ることにする。パン自体は別段どこの店でも売っているようなものだったが、飲み物の方は、他所ではなかなかお目にかかれない、実に愉快な代物だった。

『どろり濃厚 ピーチ味』

 と表記された、パッケージ自体は何の変哲もない120ミリリットル入りの紙パックだったが、その中身が、真価を俄然発揮している。

 まさに銘柄通り、どろりとした口当たりの、液体と言えるかどうかも怪しいそれは、煮込み過ぎた雑炊のような粘度を誇り、それでいて味自体はしっかり桃の風味が生きているという、稀代の傑作清涼飲料水だった。もっとも、これを清涼飲料水と言いきる人間は、そう滅多にいないであろう事は、容易に見当がついた。

 しかし、これもミキサーで作った生ジュースと思えば、それほど違和感もない。それに、俺の田舎では、白米を原料にした玄米ジュースなるものが存在する。玄米をドロドロになるまで煮込んだそれは、ほとんど糊と変らない粘度を誇る。しかもそれらはちょっとした店なら、簡単に手に入れられる程ポピュラーなものだ。それに比べれば、このどろり濃厚シリーズなど可愛いものだ。

 そう思いながら、俺は最後のパンを飲み下し、どろり濃厚ジュース片手に、防波堤から望む海原を眺めていた。

「なんや、あんたもまた、けったいなもん飲んどるなぁ」

 聞き覚えのある声に降り返ると、そこには4、5歳くらいの子供を大勢引き連れた神尾が、呆れたような笑顔を向けていた。

「・・・・・・保母をしていたとはな。正直、驚いた」

「アハハハ、みんなそう言うで」

「いや、なかなか適職そうでなによりだ」

「よう言ぅわ、腹ん中はどうやら」

 会話を始めた俺と神尾の気配を察したのだろう、保育園児と思しき子供達は、それぞれに散らばると植え込みや立ち木の周りでめいめいに遊び始める。だが、普段からのしつけがいいのか、神尾の目の届かない場所に行こうとする者は皆無だった。

「それよりアンタ、バイクの方はもう直ったんか?」

 油で汚れた俺の手や顔を見ながら、神尾はそう訪ねてくる。

「いや、相変わらず駄目だ。原因もわからん」

「そうなん?それで、昨日はどないしとったんや」

「町外れの廃駅、そこで一晩軒を借りた」

「ハハハ、災難やな」

「まったくだ」

 口さがないのは相変わらずだったが、神尾の性格はもう把握しているから、別段腹が立つこともない。

「子供達の散歩か?」

「せや、天気がいいから、外連れてけ言ぅてやかましいねん」

「そうか、御苦労な事だ」

 保母と言うより、姉御肌そのものの表情が出た神尾の笑顔に、俺はふと思い付いたようにカメラバッグからライカを取り出した。

「写真でもどうだ、子供達にはいい思い出になると思うが」

「いきなり商売かいな、金はあらへんで」

「馬鹿な事を言うな、金なんか要らん」

 当然冗談なのだろうが、関西弁のイントネーションで言われると、どこまで本気なのかわからないのは、俺の偏見がなせるわざだろうか。

「余計な御世話と言うなら、無理にとは言わんが」

「まあ待ちや、ええ大人がそない短気起こしてどないすんねや」

 ライカをしまおうとした俺に、神尾が苦笑交じりで声をかけた。

「せやね、おっきく伸ばして保育園に飾っとくと、イケとるかもわらへんな。よっしゃ、いっちょ頼んでみよか」

「わかった」

 性格なのかどうなのか、どうにも、この神尾と言う女性は一筋縄な性格では無さそうだ。だが、それでも保育園の保母を務められる辺り、世界は驚きに満ちている。

「・・・・・・アンタ、なんか失礼な事考えとったやろ」

「人の厚意を疑うのは、心が貧しい証拠だ」

「フン、言ぅとれ」

 神尾は憮然とした表情で鼻を鳴らしたが、すぐに保母の顔になると、周囲に散らばっていた園児達に集合をかけた。

「ほら、あんたら!プロカメラマンの先生が記念写真撮ってくれる言ぅとるで!早ぉ集まりや!」

 さすがにと言うか、神尾の一声で、彼女の元に一斉に園児達が駆け戻ってくる。その子供ながらに統率の取れた動きに、どうも神尾の教育方針が見えて来たような気がした。

「よし・・・・・・左端の君、もう少し隣に寄って。後ろの君、前の子に隠れているから、前に出て来て」

 神尾を中心として、ワイワイと集まる園児達に声をかけて、どうにか全員をファインダーに収める。見ると、神尾のそばにいる子供達は、皆一様に彼女の腕や腰に取り付いている辺り、彼女はかなり園児達に慕われている事が見て取れた。

「よし、それじゃ行くぞ。はい、笑って・・・・・・!」

俺は、ファインダー越しに見える神尾と、それぞれ、自分だけの笑顔を浮かべている子供達に声をかけてシャッターを切った。




「今日は、つき合わせてもうてスマンかったわ、フィルムもだいぶ使わしてもうたやろ?」

「構わん、気にするな。それより、写真が出来あがったら、どこに持って来ればいい?」

 その後、俺は最後まで、神尾と園児達の臨時専属カメラマンとして、浜辺で遊ぶ園児達の撮影をする事になった。始めの内は神尾の持ち前のノリでけしかけられたものの、フィルムを3本近くも使うと言う、本格的な撮影会と化した事を知ると、さすがに申し訳なさそうな様子だった。

「せやね・・・・・・あ、せや!アンタ、そう言えばバイクまだ直ってへんかったんよね?」

「ああ、そうだが」

「せやったら、直るまでうちに置いといてええで、他所に置いとったら、無くならへんか心配やろ?」

「そうだな、そうしてくれるなら助かるが・・・・・・」

「よっしゃ、決まりや。あんたもうちに来たらええで、なに、気にする事あらへん。前にもいっぺん、居候が居付いとったことがあったしな、それに今日のもそうやけど、昨日も夕飯おごってもろたし、そのお礼や!」

 突然、予想外の事を言い出す神尾に、俺は心底驚かされる羽目になった。バイクを預かってくれるまでは有り難いが、女性の住まいに転がり込む余所者など、神尾の周りに悪い噂を立てかねない。

「そんなん気にする事あらへん、困った時はお互い様言うやろ」

 もう既に神尾の中では決定事項となっているのだろう、彼女の満足げな表情を見ていると、今さら辞退しても、徒に神尾の機嫌を損ねるだけ。と言うような気がした。取り敢えず、長居はしない方針で、俺は神尾の厚意に与かることにした。

 夕刻、神尾の勤務が終わる時間に、待ち合わせの場所で落ち合った俺は、その案内で彼女の自宅へとおもむくことになった。彼女の家は、古くからのたたずまいを残す、木造住宅の立ち並ぶ一角にあった。

「バイクは、納屋の辺りにでも置いといたらええで。部屋は居間が空いとるから、そこで適当に休んどったらええわ」

「済まんな、厄介になる」

 俺の言葉に、神尾はククッと子供のような笑いをこぼすと、屈託のない表情で答える。

「かまへんよ、子供らも喜んどったし、アンタの仕事の話も聞いてみたかったしな」

「そうか」

「そんなら、夕食の支度をするさかい、テレビでも見てゆっくりしとってや」

「ああ」

 奥の部屋に引っ込んでしまった神尾を見送り、居間に残された俺は、今時よく生き残っていると言いたくなるような、ダイヤルチャンネル式のテレビを眺めたが、どうにもゆっくりテレビを見て座っている気にもなれず、俺は縁側のサンダルを突っかけると、納屋の前に止めたバイクの前に足を運ぶ。

 そのすぐ隣には、神尾の愛車であるドゥカティが、その真紅のボディを静かに休ませている。都会的で洒落たデザインが売りのドゥカティも、何故か神尾家にあると、この穏やかな風景に何の違和感も無く馴染んでいる。

 不思議な町だ。

 初めてこの町に来た時から、何となく感じていたもの。拒絶する事を知らず、全てがあるがままに解け込んで行くような、近過ぎるでも遠過ぎるでもない、あくまでも穏やかな夕凪のような町。

「南風原ーっ、夕飯の支度が出来たでーっ」

 そんなとりとめもない事を考えていた時、居間の方から神尾の声が響く。

「わかった、今行く」

 そう答え、俺は、バイクの前を離れ、居間へと歩き出した。




「ところで、アンタ。こんな田舎町に、一体何を撮りにきたんや」

 焼きアジとほうれん草のおひたし、そして豆腐の味噌汁と言う、質素だが典型的な家庭料理を前に、食事の手を動かしていた俺に、神尾の相変わらずな直球の質問が来る。

「そうだな、まあ、自分でも掴み所がない話とは思うが・・・・・・」

 茶碗に残った最後の一口を放りこむと、箸を置いて神尾に向き直った。

「この町に古くから伝わっている伝説があるらしい、俺は、その伝説にまつわるものを探しにきた」

「伝説?そらまたけったいな話やね」

 当然と言えば当然の神尾の反応に、俺は苦笑を浮かべるしかない。

「けど、伝説ってなんやの?」

「白い翼を持った娘、そんな伝説がこの辺りに伝わっているらしい。もし差し支えなければ、何か知っていたら教えて欲しいんだが」

 俺の言葉に、神尾は一瞬視線を泳がせて黙り込む。が、しかし、すぐにいつもの表情に戻ると、いつもの苦笑いを浮かべた。

「差し支えも何も、ウチ、昔からこの町に住んでるけど、そない羽が生えとるっちゅう子供の話なんか聞いた事もあらへん」

「そうか・・・・・・」

 これもまた、当然と言えば当然の答えだっただけに、たいして落胆は無かった。実際、それを捜していると言う俺自身でさえ、その伝説については、正直、未だに眉唾物として捉えているのだ。ならば、なぜここまで来てしまったのだろうか、と、最初に考えた自問自答を繰り返す事になる。

「でもまあ、ウチが知らんだけで、この町の爺さんや婆さんをとっ捕まえてみれば、何か聞けるかもわからへんよ。その仕事には、締め切りとかはあるんかいな?」

「いや、これは俺がフリーでやっている仕事だ。手応えがないとわかるまでは、取り敢えず続けるつもりだが・・・・・・」

「そうかいな、まあ、継続は力なり言うしね。宿の事は気にせんでええから、いっちょ頑張って見いや」

「そうか?済まん」

 神尾の言葉に、俺はただ頭を下げるしかなかった。バイクは動かず、かと言って民宿らしいものも見当たらず、キャンプ装備一式は揃っているとは言え、序盤戦からかなり厳しい展開になって来たと思っていた矢先だったので、神尾の心遣いは、正直言って非常に有り難いものだった。

「あっ、アカン!うちの子に飯出すん、すっかり忘れとったわ!」

 神尾は慌てて立ちあがると、程無くして台所から戻ってきた。そして、彼女の手には、小さな茶碗に盛られた白米と、昼に俺が防波堤の上で飲んでいたものと同じ、紙パックのジュースがあった。

「いやぁ、観鈴、堪忍な。なんせ久し振りの客やさかい、お母ちゃん、ちと舞いあがってもうたで。ホンマ、堪忍な」

 優しい声で、小さな仏壇に白米とジュースを供える神尾。この仏壇に関して言えば、この居間に通された時からその存在は目に入っていたが、俺がどうこう言える筋合いでもなかったので、敢えて話題にも上げなかったものだった。

「娘さんがいるとは聞いていたが、随分大きな娘さんだったんだな」

 位牌の前で、合掌を解いた神尾は、俺の言葉に苦笑を浮かべて応えた。

「ハハハ、まあ、娘っちゅうとるけど、ホントはこの子、うちの姉やんの子やねん。姉やんが死んで、この子を引き取ったんやけどな。まあ、なんちゅうか、この子も姉やんと同じ病気でな・・・・・・」

 迂闊だった、どんな事情があるにせよ、この手の話は決してすべきものではなかった。俺は、今さらながらにほぞを噛む。

「そないへこまんでもええよ、あれから一年以上たっとるし、だいぶ心ん中の整理も出来とるからね。ハハハ、アンタ、無愛想なくせに、結構可愛いとこあんねんな」

 神尾は屈託のない表情で笑いながら、俺の肩をバシバシと叩きながら立ちあがり、台所から先ほどのジュースをひとつ持ってくると、それを俺の前に置いた。

「ほれ、アンタもこれ、好きなんやろ?いやぁ、こないけったいなもん飲むんは、うちの観鈴だけやと思うとったんやけどなぁ」

 俺は、目の前に置かれたピンク色の紙パックを前にして、これも神尾なりの心遣いなのだと了解して、かすかに水滴のつき始めたそのパックを手に取った。

「済まない、有り難く頂かせてもらう」

「ああ、ええで。そんかわし、それ飲み終わったら次はこれやで」

 そう言うと、神尾はいつの間に持ち出してきたのか、まだ半分以上中身の残った一升瓶を、どかんと卓袱台の上に乗せた。そして、御丁寧にも湯呑みも2人分用意してあった。

「わかった、俺で良ければつきあおう」

 俺は、何故か救われた気分になりながら、ピンク色の紙パックにストローを差し込んだ。