第一章

 「小さな町」



 流れ落ちる汗が目に染みる、それを苛立ち紛れに乱暴にぬぐうと、眉でせき止められていた大量の汗が、堰を切るかのように流れ込んで俺を閉口させる。

 子供の時分までは、故郷より暑い所は存在しないだろうと思っていたが、そんな考えは改めなければならない。じりじりと背中や首筋を焼く日差しが、否が応でもここ数年帰った事のない沖縄の太陽を思い出させる。

 道の途中で突然その動きを止めてしまった我が愛車を、溜息混じりに見る。いい加減故障の多いバイクである事は常々承知していたが、こう言った状況でヘソを曲げられると、まさにお手上げだった。

 海岸沿いの白く焼けたコンクリートの防波堤で、何の前触れもなしに己が役割を放棄してしまった相棒。車載工具を広げて見るが、こんな所で出来ることはたかが知れている。

 しかも、こんな時に限って彼女の機嫌はなかなか直ろうとはしなかった。何の為にここまで来たのやら、苛立ちと疲労の混じった不快感が全身を包む。

 ここは瀬戸内海を望むとある町、背中には緑の山々を頂き、膝元には青く輝く海をたたえる。どこか懐かしさを感じさせる小さな町、俺はどうしてあんな話を真に受けてこんな所まで来てしまったのだろうか。

 高野山の仏閣や山々の姿を撮って欲しいと言う、小さな出版社から受けた本当に些細な仕事。そして、俺は金剛峯寺でひとりの老僧からある話を聞いた。齢70を超えるにもかかわらず、かくしゃくとした老人で俺の案内役を買って出てくれた僧侶だった。そして思い出す、あの老僧が俺に聞かせてくれた不可思議な話を。

 白き翼をもった少女

 それだけ口にして見れば、三流小説かマンガにしか出てこないような、陳腐で使い古された言葉。だが、自責とも慙愧の念ともつかない、どこか翳りをさす老僧の言葉に、俺は何故かそれを一笑に付すことが出来ず、俺は10年落ちの愛車を駆り、この地図にも載っていないような町にやって来た。

「あのクソ坊主、何が翼を持った少女だ。ふざけるなよ、畜生」

 半ばヤケ気味に工具を持つ手を動かす、ガソリンタンクを取り外し、いよいよ完全分解に取り掛かる覚悟をした時だった。

「コラ、そこの部品泥棒。あんた、一体そこでなにしとんねん?」

 聞くだけでも快調そのものとわかる、ドゥカティの特徴的なエンジン音と共に、はすっぱだが、明らかに土地の言葉とは違う声に、俺は作業の手を止め、声の方を振り返った。いきなり人を捕まえて、部品泥棒とは一体何事か。

「部品泥棒とは何だ、これは俺のバイクだ。何なら、車検証と免許証で確認するか?」

 数時間の炎天下での作業で相当苛立っていた俺は、つい余計な事まで口走ってしまう。

 泥棒だろうが強盗だろうが、言いたい奴には好きなように言わせておけばいいのだ。苛立ち紛れに吐いた言葉とは言え、警官相手でもあるまいし、見ず知らずの人間にそこまでしてやる義理などないと言うものだ。俺はそれっきり無視を決め込むと、1秒でも早く相棒に機嫌を直してもらう為の作業を再開した。

 が、案の定立ち去る様子はなく、こちらへ近付いてくる気配がした。まだこれ以上何かあるのか、言い足りない事でもあるのか、俺は何故だか無性に腹が立ってくるのを感じた。

「それ、故障しとるんか?」

「見ればわかるだろう」

「あんた、旅行者かいな?」

「違う、ここには仕事で来た」

「仕事?何やねん、それ」

 つくづくはすっぱな女だ、俺は顔を上げるのも面倒臭くなり、傍らに置いてあったカメラバッグを開けて、その中身を見せるとすぐに閉じた。厳重に梱包してあるとはいえ、予備のフィルムに、この痛烈な直射日光をいつまでも当てておくわけには行かない。

「あんた、カメラマンなんかいな?」

「そうだ」

「しっかしまあ、今の、ライカとか言う奴やろ?今時随分古臭いもん使ぅとるもんやねぇ」

 ライカを知っているのは大したものだと言ってもいいが、その後が余計だ。まったくもって一言多い女だ。俺は返事をする気も失せ、そのまま作業を続ける。だが、さっきからこの減らず口の相手をしていると言う事が、俺の体温を確実に上昇させて行った。

「済まないが、泥棒でないとわかったなら、もういいだろう。こう見えても、こっちはそれほど暇はしていないんだ」

 苛立ちを感じさせる相手とは言え、初対面の人間に感情を炸裂させるほど、馬鹿ではないつもりだ。俺は言葉を選びながら、背後に立つ女に声をかけ、被っていた帽子をタオル替りにして滝のような汗を拭った。

 その時、背後の女が息を呑む気配が伝わり、それを不審に思う暇も無く、俺は、いきなりがっしりと肩を掴まれた。

「なっ!何を・・・・・・!」

 まったく予想外の出来事に、俺は思わず跳び上がって驚き、今度こそ堪忍袋の緒が切れかけて振り向いた瞬間だった。

「居候!」

「な、何だと?」

 言っては悪いが、俺は他人様の住処に転がり込んで世話になった事は一度もない。気心も知れない人間の世話になるような真似をするくらいなら、人の迷惑にならないところで野宿をする方を選ぶ。事実、今まで全国を渡り歩いて写真を撮ってきた時は、ずっとそうして来た。

 それをいきなり、見ず知らずの女から居候呼ばわりされるいわれはどこにもない。俺は完全に腹を立てて女の顔を睨みつけた。

「部品泥棒の次は居候か?人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」

「あんたこそ何言ってるんや!今までどこほっつき歩いとったんや!!」

「・・・・・・ちょっと待ってくれ、あんた、もしかして人違いをしてないか」

 彼女が口走った、その聞いた事もない名前に、俺は急に怒りの焦点がずれて行くのを感じた。こいつは絶対に人違いをしている。俺はそれを確信し、それを立証して、この得体の知れない女を追っ払うことを選択した。

「アンタがおらん間にな・・・・・・観鈴はなぁ・・・観鈴はなぁ・・・・・・!」

 だが、そんな俺の思惑とは関係無く、事態はおかしな方向へと進み始めているようだった。女は俺の両肩をがっしり掴んだまま、いきなりボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。

「待て、一体何を言っている?俺はお前に会った事はないし、観鈴なんて子も知らない。大体、この町に来たばかりの俺が、そんなことわかる訳がないだろう?」

 俺は、女の肩を押し返しながら弁明を並べる。おそらく傍目から見れば随分おかしな光景に見えるだろう、当事者がそう思っているのだから間違いない。ただ救いだったのは、ここにはほとんど人通りが無いと言う事だ。

「とにかく落ち着いてくれ、あんたは何か思い違いをしているみたいだが、別の場所で説明させてくれ」

 俺は、一方的ながらもどうにか女を説き伏せ、半眼で睨みつける視線を感じながら、半分以上分解してしまったバイクを手早く組み立てた。まだ故障したままだが、どの道こんな状況では修理どころの騒ぎではない。俺は重い溜息をつきながら最後に残ったシートをはめ込んだ。




 なんとか探し当てたラーメン屋で、俺と件の女は対面になって座り、俺は三杯目のお冷やを飲み干しながら、さてこれからどうしたものかと考えあぐねていた。

「ビールでも頼むか?」

「あんなジュースもどき、うちは日本酒しか飲まへんねん」

「そうか、まあ俺は押して帰ればいいが、あんたはそうはいかないからな」

 正直、友好的とは言えない女の視線と言葉を軽くかわしながら、俺は店の主人を呼んだ。

「ラーメンセット大盛りとウーロン茶の大を頼む。・・・で?あんたはどうする、払いは俺が持つから、好きな物を頼んでくれ」

 そう言うと、女は心底驚いた表情で俺の顔を見る。まるで信じられないものを見たとでも言うような顔だ。理由は分からないが、何となく馬鹿にされているような気がして、前言を撤回しようかとも考えた。

「おっちゃん、うちはチャーハンセットな」

 ・・・・・・まあ、いいだろう。俺が自分で言い出したことだから。それはともかくとして、俺は表情を改めると差し向かいに座る女に向き直った。こんな暑い日に、黒系の上下を着込んでいる。正直言って見ている方まで暑くなって来る。

「それじゃ、話していいか?どうやらあんたは、なにか勘違いをしているみたいだったからな」

「せやね、うちも少し取り乱しとったみたいやし、背格好は似とっても、髪の色とか顔とか、よぉ見たら別人やもんな。それに、あんたが本当にあいつだったら、うちにメシを奢るなんて言わへんわ。って言うか、どう逆立ちしたってでけへんこっちゃ」

「・・・・・・その居候と言うのも、随分な言われようだな」

「せやね、うちも今まで生きてて、あんな甲斐性無しは見たことあらへん」

「そう言うものか」

「せや、あんたとは大違いや」

 だいぶ落ち着いてきたのだろう、女は猫のような屈託のない笑顔を浮かべて話し始めた。

「一応俺の事を説明しておこう、俺は南風原宗玄、フリーのカメラマンで食っている。ここには俺個人の仕事で来た。それで、乗って来たバイクが故障して、それを修理していた所を、あんたに部品泥棒と居候に間違えられたと言う訳だ」

 そう言って、俺は残り少なくなっていた名刺を女の前に差出した。

「ふ〜ん・・・・・・は、ハエ・・・・・・?」

「食い物屋の中で変なこと言うな、『はえばる』だ、変な区切り方をするんじゃない」

 いい加減慣れたとは言えど、あまりいい気分ではない事には変わらない。

「変な名前やねぇ」

「人の名前を捕まえて変とか言うな、沖縄じゃ珍しくもない名前だ」

「へえ、あんた、沖縄から来たんかいな?」

「ここ何年かは帰ったことはないがな」

 俺の名前と事務所兼住居のアドレスが印刷された白い紙片を手に取り、女はふんふんとそれを一通り眺めると、それをスーツの胸ポケットにしまった。

「これ、貰っとくで?」

「好きにしろ、そのつもりで出した」

「それはそうと、うちも自己紹介がまだやったね。うちは、神尾晴子。ま、どこにでもいる勤め人やねん」

「なるほど、神尾晴子、か」

「惚れたらあかんで」

「惚れはしないが、一応、これで誤解が解けたと解釈していいんだな」

 カミオハルコ、は少しつまらなさそうな表情を浮かべたが、仕方なさそうに溜息をつきながら、小さく笑って見せた。そうしてしばらく話していたが、注文の料理が届いたので、俺達は取り敢えず食事にすることになった。

「・・・・・・なあ、あんた」

「なんだ?」

 食事の手を止めて、不意に神尾が俺の顔を覗きこんで怪訝そうな表情を浮かべる。

「その目、変わっとるなぁ。片っぽだけ、カラコンにでもしてるんかいな?」

「右目のことか」

「せや、片っぽだけ銀色なんて、ごっつ珍しいわ」

 俺の目は、どう言う訳か生まれつき左右の色が違う。左目は日本人の典型のような茶色なのだが、右目に関してはなぜか銀色をしていた。子供の頃はこれをネタに、近所の悪ガキにからかわれたりと、嫌な思い出には事欠かない。人と少しでも違う所があれば、程度の大小はあれ、それを攻撃しようとするのは人間のさがとは言え、だ。

 それにしても、今まで俺の目を気にする奴は珍しくは無かったが、こうまで直球で聞いてくる奴も珍しい。まあ、この女のがさつさは既に了承済みだったから、別に気になりはしない。

 だが・・・まあ・・・・・・、いや、いいだろう。こんな事は他人に言っても仕方がない。こんな話、真面目にしたが最後、正気を疑われても文句は言えない。ここはただ単に生まれつき、と言うことで通しておけばいい、何もわざわざ自分から変人扱いされるような事を言う必要もない。

「まあいいさ、変っとる言ぅたら、うちの娘や、あの居候も似たようなもんやったしね」

「そうか」

 目玉の話をあっさりと打ちきると、神尾は食事の続きに移ったので、俺も麺が伸びない内に丼の中身を片付けることにした。

 ビールは飲まないとか言っていたような気がしたが、俺と神尾の座っている席のテーブルには、ビール瓶が空となって林立している。とりたてて好きではないが、他に飲むものがない場合、飲めない事もないと言うことなのだろう、早い話が酒好きなのだろう。だが、表に停めてあるドゥカティは、いったいどうするつもりなのだろうか。

「・・・・・・ほいでな、うちは言ってやったんや。あんたが逃した魚は、実は人魚や、ってな」

「なるほど、だが、人魚だろうとジュゴンだろうと、それで相手の男が戻ってこないなら、結局神尾の負けだろう」

「・・・・・・あんたも嫌なこと言うなぁ」

「まあ、気持ちはわからんでもない。まだ若いから、そのうち望みも出てくるだろう」

「なんやねん?あんた、うちを口説いとるん?」

「そう聞こえたなら謝るが、そんなつもりはないから安心してくれ」

「・・・・・・ホンマにおもろないやっちゃね、そないとこは居候にそっくりや」

 さっきから神尾の言葉の端々に出て来る、『居候』なる人物。俺にとって何の関わりもない男には相違ないが、どうやら彼女にとって、居候以上の存在であった事は薄々感じ取る事が出来た。

「そうか・・・・・・、ん?もうこんな時間か。俺はここの勘定を済ましていく、先に失礼させてもらうぞ」

「はあ、そうかい。・・・・・・で、南風原。あんたは今日、どないすんねん」

「適当に見つけるさ、じゃあな」

 そう言って、俺は支払いを済ませ、店の前に停めてあったバイクを押しながら、夜露をしのげそうな場所を探すため歩き出した。




 あれから1時間弱、俺はある廃駅の建物の前へと辿り付いた。長年の経験上、田舎町で一晩の宿を手に入れるには、ローカル線の駅舎に来れば結構なんとかなるものだ。旅人と駅舎という取り合わせは、都会では邪魔者扱い以外の何者でもないが、こう言った田舎町では極自然な風景の一部として認識されやすい。それに、たとえ無人駅であったとしても、屋根があるのとないのとでは大違いだ。

 ともあれ、辿り付いた駅舎は、とうの昔に廃駅となってしまっていたようだ。閉めきられた窓やドア、そして、埃をかぶった改札口の向こうに見える、真赤に錆びた線路。それらが夕暮れ時の紅い光に照らされて、どこか突き動かされるような郷愁を感じさせた。

「・・・・・・いい風景だ」

 職業柄だろうか、目の前にたたずむ駅舎を前にして、何もしないのがどうにも勿体無く感じられた俺は、カメラバッグからライカを取り出しファインダーを覗き込む。

 人の流れが絶えて久しいはずなのに、それでも、暖かい息吹を感じるのはなぜだろう。気のいい若い駅員達、おおらかな笑顔を絶やすことのない駅長。そして、父親を迎えに来たのであろう幼い少女。

 まただ、俺の右目に流れ込んでくる映像。それはこのカメラを使う時、見えない筈の光景が浮かぶ。強い想いを残した場所、忘れ得ぬ想いを残した場所、そんな場所に残り続ける記憶の欠片。それらのこの地が忘れ得ぬ記憶は、ライカのファインダーを通して俺の右目に飛び込んでくる。

「大切な、場所。か・・・・・・」

 俺はシャッターを切る事無く、ライカを下ろした。いや、正確には、シャッターを切る事が出来なかった。理由はどうあれ、誰かの想いを他人が覗き見ていい訳がない。俺は、ライカをバッグにしまうと、代りに予備のニコンを取り出して数回シャッターを切った。

「・・・・・・写真屋さん?」

「とわっっ!?」

 いつからそこにいたのか、俺の背後にひとりの少女が立っていた。すらりと背が高く、艶やかな黒髪が印象的な、少女というにはどこか大人びた表情を浮かべている。彼女は特に何を言うでもなく、俺の方をじっと見つめている。

「・・・・・・どうした、俺に何か用か?」

「いえ、特に用と言うほどのものでもないのですが」

「ふむ?」

「写真を撮っていらっしゃる姿が、とても楽しそうでしたので・・・・・・」

「なるほど」

 彼女は大人しそうな見かけに寄らず、なかなか好奇心旺盛な性格をしているらしかった。それで、駅舎を写している俺の姿を見て、興味が湧いたと言うところだろう。

「ああ、いい絵が撮れそうだ。偶然見付けた駅舎だが、とても優しい匂いがする」

「そうですか・・・・・・」

 彼女はどこか満足げにうなずくと、おもむろにスカートのポケットを探り出し、そこから一枚の茶封筒を取り出した。

「どうぞ、進呈です」

「・・・・・・これは?」

「いい絵が撮れたで賞・・・、ぱちぱち」

 彼女の雰囲気に呑まれ、訳も分からず差出された封筒を受け取ったが、その中に入っていたお米券を確認すると、俺はそれを封筒にしまい直し丁寧に彼女に差し返した。

「心遣いは嬉しいが、見ず知らずの子に、これだけのものを貰う理由がない。済まないが、気持ちだけもらっておく」

 すると、彼女はすっと身を引くと、封筒から体を遠ざける。

「・・・・・・では、こうしましょう。駅の写真、それが出来たら、私にも1枚分けていただけますか?それは、そのお礼として納めて下さい」

 理由はわからないが、彼女は、どうあってもこのお米券を受け取らせたいらしい。写真が出来たらとは言え、それをキャビネサイズに引き伸ばし、額縁付きで送ったとしても、この5キロ分相当の米と換えられる商品券とは、どう考えても等価とはなり得ない。

 しかし、この少女の気持ちを無碍にするのも、いささか心苦しいものがある。ここは、素直にこの少女の厚意を受けとる事にした。

「わかった、写真が出来たら、是非進呈させてもらう。それで・・・・・・」

「はい、私は、遠野美凪と申します」

 マイペースな話し口調からして、のんびりとした性格と思っていたが、やはり理知的な外見通り、頭の回転は速い方らしい。遠野美凪と名乗った彼女は、こちらの言わんとした事を察して自己紹介をする辺り、どうにも掴めない性格だと思った。

「・・・・・・カメラマンさん・・・ですか?」

 俺の足元にあったカメラバッグに気付いたのだろう、彼女は小首を傾げながら、珍しそうに訪ねる。

「南風原宗玄、フリーのカメラマンだ」

「・・・・・・びっくり」

「・・・・・・何でだ?」

 言葉の意味ほど、感情の抑揚のない遠野の呟きに、俺はどう対応したものか分からず、ただ間の抜けた返事を返す事しか出来なかった。そして、気が付けば既に日も沈み、辺りは群青色の闇に包まれ始めていた。

「それはそうと、もう暗くなってきた。家の方が心配するだろうから、君はもう帰った方がいい」

「・・・・・・そうですね、それでは宗玄さん、お先に失礼します」

「ああ、気を付けてな」

 遠野は丁寧にお辞儀をすると、帰宅の途につき始めた。その後ろ姿を見送り、俺はねぐらの確保を始めた。

寝るにはまだ早過ぎる時間だが、他にこれと言ってすることもない。それに、昼間の炎天下での機械いじりと、終始バイクを押しっぱなしで移動した事で、いったん落ち着くと、それらの疲労が一気にあふれ出てきた。

 キャンピングマットを敷き、電池式のカンテラを灯しながら、厚手のマットの上に寝転ぶ。もうすっかり闇に包まれた駅舎の周囲は、夜風にそよぐ草の音と、鈴を転がすような虫の音が心地よく流れていた。

 この町を訪れてまだ初日だと言うのに、実に色々な事があった。部品泥棒と勘違いされたかと思えば、居候なる人物に間違えられた事。そして、物静かな、日本人形のような清楚さながらも、見かけに寄らず、好奇心たくましく人見知りしない少女。

 今まで色々な場所を巡って来たつもりだったが、この町には、今までとは何かが違う雰囲気とでも言うべきものを感じつつあった。

 この町には、記憶の欠片が残っている。それも、強くひたむきな、限りなく純粋な記憶が。夕暮れ時、ライカのファインダーを駅舎に向けた時、そのレンズを通して右目に見えた、あの駅舎の光景。

 あれだけ鮮明に、そして暖かく映った記憶の欠片が見えた事は今まで無かった。美しいものを美しいと言えて、楽しかった事を楽しいと言える、そんな素直で純粋な記憶。惜しむらくは、俺にはそう言う夢の欠片を見る事は出来ても、踏み込む資格はまったくないと言う事だ。

 だが、それはそれでいいのかもしれない。遠い記憶、それは何人たりとも触れてはならないものだから。

 ああ、そう言えば。

 そんな事を考えながら、ふとある事に気がついた。

 あの駅舎の光景、あの中にいた幼い少女。あれは、どこか遠野の面影を漂わせていた。もしかしたら、あの少女は遠野本人ではなかったのだろうか。

 やはり、ライカをしまって正解だった。もし本当にそうだとすれば、それは俺の手で形にしたりするべきではないからだ。

 そんな事を考えている内に、俺の意識は虫の音に包まれるように、ゆっくりと夜の帳の中へと沈んで行った。