戦艦大和 

大和の主砲轟く時

海軍旗 ヨシオのエッセイ
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特に若い世代の人たちには戦艦 大和 は特攻出撃を行った悲劇的戦艦 としてのみ有名で 果たして実戦で活躍の場があったのかどうか についてはあまり知られていないのではないでしょうか? 

時は 昭和19年10月。 場所は フィリピン沖。
海軍旗 戦況が悪化の一途をたどっていた時、 日本海軍は米軍に対して最後ともいうべき大反撃を試みました。  それがフィリッピンの レイテ沖海戦といわれる一連の海戦です。 
複雑な戦術を組んでおりましたが、 今はそうしたことは省略します。

大和を旗艦として、 戦艦4、 巡洋艦8、 駆逐艦11 の艦隊は レイテ湾という所を目指して南下をしていました。
既に 前日の米軍の大群の航空機攻撃で 大和と同型の巨大戦艦 武蔵 を失っていました。 また 重巡洋艦3、 駆逐艦4 が戦線を離脱していました。 
南下中の多くの艦艇も空爆により大なり小なり損傷を負っていました。

出発当初は 戦艦5 巡洋艦12 駆逐艦15 その他 という編成でした。 
戦艦5隻のそろい踏みを含む空前絶後ともいうべき大艦隊です。  しかし 大艦隊ではあっても何かが欠けていたのです。  この中には航空母艦の姿が無かったのです。
つまり 航空戦力不足のため、 この艦隊には航空機による護衛はありませんでした。  各艦とも死を覚悟した決死の出撃だったのです。 

昭和19年10月25日早朝。
サマール島という島の沖で、 大和は35キロばかり向こうに多数の敵艦のマストを発見しました。 航空母艦数隻を含み 米軍主力の機動部隊らしき大艦隊と見受けられました。 
「全軍突撃せよ」 
の号令が発せられました。
大和は生涯で初めて世界最大の 46センチの主砲 を敵艦船に向けて発射する機会を得たのです。    1.5トンもある巨弾で 敵艦の厚い装甲をぶち抜いて炸裂する徹甲弾といわれるものです。
大和の 主砲 が初めて敵艦に対して炸裂した歴史的瞬間でした。 

戦艦 長門 以下各艦とも主砲や副砲などによる砲撃を開始しました。
ちなみに 長門 は 大和と武蔵  という巨艦完成以前では日本海軍を代表する戦艦でした。
米軍機 空母からの米軍航空機の反撃あり、 米艦隊を隠すスコールあり、 巧みな米艦隊の逃走あり などとても混乱した中を2時間ばかりの戦闘が続きました。 
混乱状態の中 司令長官は艦隊を集結させ、 この海戦を終了させました。 
味方に或る程度の被害はあったものの、 米軍の空母4隻、 巡洋艦や駆逐艦など数隻は撃沈したと計算し 十分な戦果を挙げたと判断したせいでしょうか。
追撃を続けるべき、 という上級士官の意見もあったようなのですが。 

対空攻撃ではなく敵艦艇に対して 大和の主砲が轟く 機会はあったということです。  「サマール島沖海戦」 と呼ばれる戦いです。
巨大な主砲を備え 敵艦艇と戦うべく運命ずけられた戦艦大和の 唯一の晴舞台 だったと思われます。
米軍機 大和 長門以下の当艦隊は 空母その他の艦船に主砲副砲によるすさまじい砲撃を浴びせました。  混乱した戦場でどの艦がどの敵艦に命中弾を与えたかのか明確な特定はできません。
うち、 大和は米駆逐艦を 主砲一斉射で撃沈した と言われています。
また 徹甲弾は威力があり過ぎて 空母の船腹の薄い装甲を通り抜けてしまったともされています。

その後、 よく分からない理由から この艦隊は戦線から離脱し基地に引き返してしまいました。  前日に大和の姉妹艦の 武蔵 を失っていたショックも原因の一つだったのかも知れません。
いずれにしても 敵と刺し違えて死ぬ という覚悟の大艦隊出撃は 中途半端に終わってしまいました。

その後、 大和には主砲による敵艦艇攻撃の機会はありませんでしょた。
そして誰もが知るように昭和20年3月、 沖縄を目指して特攻出撃をし、 多数の航空機に襲われ沈没します。
就役後わずか三年少しの 無念の最後でした。


 

終戦後行われた調査検証で、 大和以下が遭遇したのは米軍の輸送船を護衛する 護送空母群 であったことが判明しました。 というのは米艦隊主力ではなく、 二線級の空母艦隊でした。 
米側はほとんど全艦 多大な損傷をうけましたが、  沈没にまで至ったのは 空母1隻、 駆逐艦3隻でした。  日本側は戦果を過大評価したことになります。  
それでも 日本側が戦闘をやめず追撃を続けたら 米側の損害は遥かに大きなものになっていただろう、 と米側は述べています。
艦隊司令部の 消極性 判断の甘さ が悔やまれます。

「サマール島沖海戦」 と名ずけられたこの海戦のやや後にも、 当艦隊司令部は 謎の戦線離脱をしています。 
本作戦自体が全艦とも  死を覚悟しての大博打  だったのですから、  それをよく認識し、 猛追をかけるべきだったと思われます。
そうした場合 日本側の損害も甚大だったでしょう。
ですが、 航空機全盛の時代を迎えて、 時代遅れになりつつあった大和以下の戦艦達には 主砲によって大戦果を挙げる絶好のチャンスだったのです。   巨艦たちに 本当の死場所 を与えてやることになったのではないでしょうか。

ゼロ戦 なお、 このフィリピンでのレイテ沖海戦の時、 初めて 神風特別攻撃隊 が生まれています。

大和 が完成し就役したのは開戦後の昭和17年初頭で、 一般国民にはその姿を見る機会はありませんでした。 姉妹艦 武蔵 もそうです。
ですから 当時の少年達によく知られ人気があったのは 戦艦 長門 だったそうです。

ちなみに 長門 は 日本海軍が保有していた12隻の戦艦の中で 比較的無事な状態で終戦まで生き残った唯一の戦艦です。
終戦翌年、 米国による ビキニ環礁での原爆実験の標的艦に使われました。  大和とは別の意味で 長門 も悲劇の戦艦といえるのではないでしょうか。

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長門

海軍零式戦闘機   (ゼロ戦) 
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