ブルー・ギャラクシー セイラ編

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セイラ編 1 セイラ

 わたしは知らなかった。
 肉体が、魂を裏切る。
 まさか自分が、そんな罠に陥るなんて。
 でも、だからこそミカエルさまは、大人の男性になることを拒絶したのだ。永遠に少年でいれば、清らかなまま、遠い女性を愛し続けていられるから。

 ミカエルさまの元に来た当初は、単純に、侍女の仕事をすればいいのだと思っていた。
 二人分の食事の支度をしたり、あちこちに花を活けたり、ミカエルさまの衣類の入れ替えをしたり。屋敷の掃除や広い庭の手入れは、作業用アンドロイドに指示すればいい。そんなことなら、ジャン=クロードさまの元にいた頃から慣れている。
 ミカエルさまが設計し、アンドロイドの建設部隊が築いたこの桔梗屋敷は、この小惑星の主である麗香さまの薔薇屋敷からかなり離れていて、涼やかな木立に囲まれ、日本風の趣を持っている。地球時代のその国は、麗香さまの故郷なのだという。
 庭を眺められる縁側に、畳敷きの和室、雪見障子、板張りの廊下、温泉風の露天風呂。
 桜の小道や、楓の小道、竹の林。鯉が泳ぐ池には、小島へ渡る橋がかかっている。
 庭に咲かせる花も、小菊や桔梗、撫子や竜胆など、可憐で落ち着いた花が多い。
 わたしは切り花用にもっと華やかな花も欲しかったので、牡丹や百合、薔薇やアイリスの区画も作ってもらったけれど。
 敷地の外れを流れる小川では、蛍も飛ぶ。蝶や蜻蛉も通り過ぎていく。周囲はどこまでも森と野原が繰り返され、野兎が迷い込むことも、狐が走りすぎることもある。
 気候が常春に設定されているので、厳しい暑さや寒さとは無縁だけれど、いくらか暑い時期、寒い時期はあるので、季節の花は順繰りに咲いていくのだった。
 梅、桃、桜、菫、藤、菖蒲、紫陽花、露草、朝顔、桔梗、コスモス、竜胆、彼岸花。
 最初は、この世の天国だと思っていた。こんな素晴らしい場所で、ミカエルさまと二人で暮らせるなんて。
 わたしにはこれ以上、望むことはない。本当なら違法都市での路上で、冷たくなって死んでいたはずなのだもの。
 でも、少しずつ、秘書的な仕事も言いつかるようになった。
 すぐ側に浮かぶ小惑星都市《ティルス》に、ミカエルさまの伝言を持って出掛けたり、何らかの買い物をしてきたり。時には特定の誰かに会うために、センタービルで開かれる行事に紛れ込むこともある。
 ミカエルさまが一方的な通達を送って済ませるのではなく、わたしがじかに会って、相手の反応を見ることが大事なのだという。
「ほら、ぼくはこの姿だからね」
 とミカエルさまは、笑っておっしゃる。グリフィン事務局がミカエルさまの意志を代行しているけれど、ご自分でもいくらかは、実務に手を出してみたいのだそうだ。
「報告の報告の報告では、何かが失われるんじゃないかと思う」
 だから実際に、わたしが中小組織の幹部や、スカウト予定の若者などに接触し、印象を持ち帰ることが必要なのだと。
「わたしの印象で、よろしいのですか?」
「そう。セイラが現場で感じたことが、大切なんだ」
 もちろん、グリフィンその人の代理などとは言えない。懸賞金制度の運営責任者グリフィンは、辺境のどこかにいる、霧に包まれた神秘の存在でなくてはならない。
 だからわたしは、その時々で、適当な違法組織の幹部のふりをする。バイオロイドのわたしが人間として振る舞うなんて、最初は怖くて、スカートに隠された膝が震えていたけれど。
 どんなことでも、繰り返していれば慣れる。メイド服ではなく、威厳のあるスーツや、華麗なドレスを着て、豪華な宝石を身につけていれば、相手はこちらを人間の女性と思い込む。
 わたしの背後にアンドロイド兵士の部隊が控えていれば、街を歩く時でも危険はない。必要なら彼らに、大組織の戦闘部隊の制服を着せることもできるのだから。
 時には、他の違法都市まで、何週間もかけて旅をすることもある。
 そして、何もかも心得ているかのような顔をして、出会う誰かに指図をしたり、報告を受けたりする。全て、ミカエルさまの計画に従って。
 武装車に乗って違法都市の道路を走ることも、他組織の幹部と会うことも、様々な工作をすることも、空いた時間に好きな買い物をすることにも慣れてきた。都市の繁華街のビルでは、ありとあらゆるものが売られている。
「セイラが欲しいものは、何でも買って構わないよ」
 とミカエルさまは言ってくださる。
 ドレス、靴、宝石、家具、車。
 もっとも、桔梗屋敷にあるわたしの部屋には、必要なものは揃っているし、外出の時には艦隊も護衛部隊も用意されているのだから、服や宝飾品が増えていくだけ。
 地位のある人間の女性と見られることにも、慣れてきた。
 遠出した時は豪華なホテルに泊まり、一流のレストランで食事をする。最初は人間たちの、興味ありげな視線に怯えていたけれど、そのうち、気にならなくなった。
 わたしは常に、ミカエルさまの権力に守られている。
 どこからか現れ、どこかへ去っていく、謎の女。
 それは、蜜のような快感だった。
 わたしがミカエルさまの指図の通りに動けば、他の組織の人間たちは恐れ入って、わたしに従う。
 わたし自身には、何の力もないというのに。

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「それは、ぼくも同じだよ」
 とミカエルさまは笑っておっしゃる。
「ぼくは麗香さんの権力の一部を、貸し与えられているだけだ。いつか用済みになったら、捨てられるかもしれない。元々、あの人からもらった命なんだよ」
 ミカエルさまは、うっすらと悲しさをにじませて微笑む。でも、芯の部分には、捨て鉢な達観があるのではないだろうか。そうなったらそれで、さっぱりする、とでもいうような。
 かつて《ティルス》や、姉妹都市《インダル》、《サラスヴァティ》を築いたという麗香さまは……たぶん、人間たちの世界でも、最も底知れない、恐ろしい人。
 科学者であり政治家であり、おそらくは、最初に超越化に成功した挑戦者なのでは、と推測されている。
 でも、わたしの生活には、直接の関係はほとんどない。
 たまに用があって薔薇屋敷に出入りする時、お姿を見かけたり、言葉をかけられたりする程度のこと。わたしの理解など遠く及ばない存在なのだから、気にする必要もない。
 もちろんミカエルさまは、わたしのような使い走りとは違う。
 麗香さまに選ばれて、鍛えられ、辺境の中でも大きな役割を任されている。これからもずっと、人類社会の行く末に関わるような仕事をなさるに違いない。
 もしも将来、ミカエルさまがグリフィンの役目を終え、どこか他の世界へ行くことになったら、わたしも付いていきたい。
 置き去りにされるのだったら……セイラはもう来なくていいよと言われたら……それは、もう、生きていても仕方ないということだもの。
 ぜひセイラにも来てほしい、と言われたいのなら、勉強を続けることだった。
 歴史、科学、文学、政治、宗教、芸術。
 ミカエルさまに派遣され、紙切れ一枚の内容を人に伝えるのにも、自分がその中身を理解しているかどうかで、伝え方が変わるのだとわかってきた。
 物事のどこが神髄で、どこがおまけなのか、区別できなくてはならない。
 グリフィン事務局が日々続けている、大きな仕事の中で、わたしに振られる役割は、どのピースにあたるのか。
 わたしはジャン=クロードさまの元に引き取られてから、ようやく基礎的な勉強を始められたのだけれど、ミカエルさまの元に移ってからは、ますますそれを深めていった。
 知識が増えれば、ニュースを見ても、映画を見ても、自分なりの解釈ができるようになる。言われた用を果たす場面でも、それなりの工夫ができる。
「よく頑張っているね」
 ミカエルさまは勉強の進み具合を気にかけてくださり、次はどういう本を読んだらいいか、どんな学説を研究すればいいか、指導してくださる。
 今ならもう、わたしにも、本物の人間に遜色ないくらいの教養が身に付いているのではないだろうか。
 もちろん、天才であるミカエルさまに付いていくためには、もっともっと学ばなくてはならない。あの方はもう、普通の人間など、はるかに及ばない高みにいるのだから……

2 ミカエル

 リリーさん、ごめんなさい。
 ぼくは、貴女に嘘をつきました。
 怖かったからです。
 再び、惨めな奴隷に戻ることが。ただ死ぬのを待つだけの、無力な病人に戻ることが。
 だから、麗香さんの差し出す手を握りました。
 貴女を守るためなんかじゃ、ない。
 まず、自分自身が死にたくなかったから。
 権力のおこぼれにあずかって、安心を得たかったから。

 でも、そういう自分を醜いと感じていたので、自分を粉飾しました。リリーさんを守るための、やむを得ない選択だったということにしたんです。
 自分が醜いことは、最初から知っていた。誰を殺してもいいから、自分だけは助かりたかった。そうやって、違法組織から脱出してきたんです。
 でも、それで何が悪い、とも思っていた。
 だって、ひたすらいい子にしていたって、誰も助けてはくれないのだから。そもそも身勝手な人間たちが、バイオロイドという奴隷階級を創り出したのだから。
 それでも、市民社会に保護されて、貴女と出会えた。毅然として美しく、まばゆい貴女と。貴女は法なんか飛び越えて、ぼくに未来を与えてくれた。
 暗黒の宇宙で出会った、ただ一つの太陽。
 貴女との関わりの中でだけは、可憐な少年でいたかった。貴女にそう思ってもらえることが、ぼくの救いだった。
 今でもまだ、揺れ動いているんですよ。
 もしも麗香さんに、貴女が邪魔になった、抹殺しろと言われたら、自分はいったい、どうするのかと。

3 セイラ

「セイラには、女性の話相手が必要だね」
 ミカエルさまにそう言われた時には、驚いた。ずっとこの桔梗屋敷で、二人で暮らせるものと思っていたのだ。
 でも、わたしが外の世界に出掛ける時には、人間のお供がいた方が安心だという。だから、女性の警備隊長を付けることにしたと。
 ミカエルさまが決めたことなら、わたしは従うしかない。
 やってきたのは、レティシア。
 ミカエルさまが、相応しい人材を最高幹部会の代理人の一人であるリザードさまに頼み、こちらに派遣してもらったのだという。
 以前は初代グリフィン≠フ下で警備隊長を務めていたという、人間の女性だった。背が高く、鍛えた筋肉をまとい、褐色の肌と短い黒髪をしているから、ジャングルの黒豹のよう。
 最初はわたしも、ちょっと怖いと思った。隙のない、冷徹な闘士のように見えたから。
 でも、親しくなってからは、レティシアが来てくれてよかった、と思うようになった。違法組織に長くいても、歪んでいない人だったから。女性同士の他愛ないおしゃべりができるし、初代グリフィンのことや、事務局の様子、他組織の内情など、色々と教えてもらることが多い。
 あのままミカエルさまと二人きりでは、きっと、自分でも辛かったのではないだろうか。大好きな方ではあるけれど、あまりにも、逃げ場がなくて。
 最初の挨拶の時、
「ミカエルさまがグリフィンとして動く時には、事務局が、必要な艦隊や戦闘部隊を用意します。ですが、ミカエルさまが個人で動かれる時は、わたしが警護を引き受けます。常にミカエルさまの身辺におりますので、よろしくお願いします」
 迷彩柄の戦闘服を着たレティシアが毅然として言ったことに対して、ミカエルさまは困惑顔をなさった。
「ぼくには特に、護衛はいらないんだよ。外に出るなんて、滅多にないしね。その時でも、アンドロイド兵で足りる。きみには、セイラが動く時の護衛を頼みたいだけなんだ。リザードさんにも、そうお願いしたはずなんだけど」
 それでもいいのだろう。この屋敷がある星系は、辺境の宇宙を支配する連合≠フ中枢部にあって、人類の文明圏では一番安全な場所といえるから。
 でも、レティシアは平然と言った。
「リザードさまからは、護衛の他に、ミカエルさまの健康管理も命じられています」
 ミカエルさまは、驚いた。
「健康管理? ぼくはもう、健康体だけど?」
 ミカエルさまを蝕んでいた悪性の脳腫瘍は、最新の治療技術によって、既に完治しているという。普通の腫瘍ではなく、知能強化の副産物だったため、市民社会では根本的な治療が不可能だった。それでミカエルさまは、無法の辺境に逆戻りするしかなかった。
 その時、ミカエルさまの保護者になってくれたリリス≠ニは、結局、遠く離れることになってしまったけれど。
 でも、レティシアは淡々として説明した。
「リザードさまがおっしゃるには、放っておけばミカエルさまは、一日中デスクに向かって書類仕事をしているだろう、それでは困る、ということです」
 それは当たっていた。わたしがいくら休養や気分転換を勧めても、ミカエルさまは朝から晩まで執務室にこもり、グリフィン≠ニしての情報分析や計画策定にかかりきりだった。
 食事をしていても、お茶を飲んでいても、半ば上の空だった。自分に何か見落としがあれば、ただちにリリス≠ノ危険が及ぶと思い詰めていらしたから。屋敷の周囲の散歩に出かけても、考え事をしていて、小川の土手から転げ落ちてしまうくらい。
 ミカエルさまも、反論の言葉がない様子で、身を縮め、視線を落としてしまった。
「それでは心身のバランスが崩れるので、適切な判断ができなくなってしまいます。一日のうち、職務に就いていいのは八時間までと制限するように、命じられました」
 ミカエルさまが口をぽっかり開けても、レティシアは動じない。
「睡眠時間も最低八時間、確保していただきます。運動も、土日を除いて毎日二時間、していただきます」
「運動!? 毎日!?」
 ミカエルさまは、拷問の予告を受けたようなお顔。
「最低限、二時間です。ミカエルさまの心身を鍛えなくては、これから先の長い年月、適切な判断を下し続けることができません」
 それがリザードさま直々の命令と知って、ミカエルさまは抵抗をあきらめた。
 リザードさまは長年連合≠フ最高幹部会の代理人を務められただけでなく、初代グリフィンの後見役でもあった方。
 わたしの元のご主人のジャン=クロードさまも、最高幹部会の命令で、ミカエルさまの教育係を務めたのだ。地位からいえば、ジャン=クロードさまより、リザードさまの方がはるかに上となる。
 現在のミカエルさまの地位は、リザードさまのやや下、ということになるのだろうか。
 結果として、リザードさまの命令は正しかったのだ。いくら天才のミカエルさまでも、座って頭を使うばかりでは、神経ばかりが疲労して、不眠や食欲不振に陥り、仕事の質も落ちてしまうから。
 わたしもまたレティシアのコーチを受け、一緒に運動するようになったので、体力がついた。ヨガ、ジョギング、水泳、様々な格闘技。射撃や戦闘術の基礎も教えてもらえるから、心強い。
 それは、実際に戦うためではなく、戦う心構えを持つためだった。違法都市を歩く時は、いくら周囲にアンドロイド兵士が付いていても、自分で危険度の判断ができる方がいい。逃げ足だって、速い方がいい。
 それに、わたしは『成長を止めた』ミカエルさまと違い、普通に成長しているので、運動の効果が目に見えて現れた。
 自分がレティシアのような、柔軟で引き締まった筋肉を備えていくのが嬉しい。機敏に動く肉体を持っていれば、何かの時は、銃を持ってミカエルさまを守ることもできる。そんなこと、まずないとは思うけれど。
 ミカエルさまも、華奢な少年の肉体のままではあるけれど、以前より体力はついてきた。生活のリズムも整った。
 食事の時間は食事を楽しみ、運動の時間は頭を空っぽにして動く。そして、執務時間には仕事に集中する。そういう日々が、ご自分の自信にもつながっていると思う。
 世間ではきっと、市民社会の要人に賞金をかけて命を狙わせるグリフィンのことを、悪魔のように狡猾で冷酷な人物だと思っているだろう。でも、実体はこんなものだ。
 好きな女性を陰から守りたいと願う、純真な少年。
 ミカエルさまを抜擢した麗香さまは――人間であるにせよ、超越体になっているにせよ――卓越した眼力の持ち主なのだと思う。リリス≠愛するミカエルさまほど、この職務に適した存在はないのだもの。

 最初の頃、わたしは屋敷内ではずっと、膝丈の紺のワンピースに白いエプロンという、お定まりのメイド服を着ていた。スーツやドレスを着るのは、ミカエルさまの命令で外出する時だけ。
 でも、
「他に誰もいないんだから、メイド服にこだわらなくていいんだよ」
 とミカエルさまに言われてからは、動きやすい私服を着るようになった。エプロンは、必要な時だけ使う。
 その私服も、レティシアが見立ててくれるようになった。本人は迷彩の戦闘服が基本で、精々、イヤリングが変わるくらいなのに、お洒落にも一家言あるのだった。
「わたしの戦闘服は、仕事用だからこれでいいの。でも、あなたは綺麗にして、ミカエルさまの目を楽しませないと」
 わたしは身長が伸び、胸も大きくなっていたので、大人のドレスが着られるようになっていた。
 レティシアがそう言ってくれるのなら、色々と挑戦してみてもいいかもしれない。
「黒髪には、着られない色がないのよ。でも、あなたは色が白いから、強い色より淡い色が似合うわね。それに、清楚な顔立ちだから、上品なワンピースを基本にするといいわ」
 水色、ベビーピンク、菫色、パステルイエロー、若草色。
 偽装用のドレスやスーツには、強い色、目立つ色、鋭いラインを使うのだけれど、私服はもっと自分の好みに合わせてもいい。
 レースの襟、胸元のリボン、たっぷりと布地を使ったスカート。そうすると、それに合わせた靴も欲しくなる。自分の姿を鏡で見て、うっとりする時間も増える。
 わたしが新しい服を着ると、ミカエルさまも褒めてくださった。
「とってもいいよ。時々、外に出て、見せびらかさないと勿体ないね」
 ミカエルさまは、この桔梗屋敷から出ることは滅多になく、たまの外出も、薔薇屋敷に出向くくらいなのだけれど。
 困ったことは……女として成熟したわたしの肉体が、美しいドレスの下で、溶岩のように燃え始めたことだった。
 それまで、自分としては、ミカエルさまの姿を見て、声を聞き、言葉をかけていただくだけで、満足して生きられると思っていた。
 心では、その通りだ。
 でも、肉体が……何か満たされず、むずむず、そわそわする。生理の前など、胸が張って、乳首が敏感になり、うっかり自分で触れてしまうと、全身に甘いしびれが走る。何度でも、その刺激を繰り返したくなってしまう。
 知識では、知っていた。
 これが、発情するということ。
 でも、その衝動に勝てないのは男性だけで、女は、耐えられるはずだと思っていた。だって、心はミカエルさまで満たされているのだから。
 それでは足りないなんて、恥ずかしいし、恐ろしい。
 どこまで傲慢になるつもりなの、セイラ。
 いま生きていられるだけで、奇跡なのよ。
 たまに、ジャン=クロードさまから通話が入ることがある。
「元気にしているかい、セイラ」
 ジャン=クロードさまは、わたしを娘のように思ってくださっている。だからこそ、ミカエルさまの元へ行きたいという願いを、叶えてくださった。
「とても元気です。勉強もしています。レティシアからも、色々と教わっています」
 何か困ったことはないか、ミカエルに言えないことは自分に相談するようにと、ジャン=クロードさまは言ってくださる。
 こんな欲望のことは、絶対に言えない。でも、ジャン=クロードさまは、それも理解しておいでなのかもしれない。
「ミカエルは、普通の男になることを拒んで、少年のままでいる。彼は特殊な存在だから、それはそれで仕方ない。だがきみは、普通の女性の幸福を願って構わないんだよ」
 そう、いたわるように言われたから。
「わたし、いまここで、十分に幸せです」
 とは答えたけれど、信用されたかどうか。ミカエルさまは、リリーさまのことだけ特別に愛しているのだから。
「外へ出た時に、誰かと交際しても構わないんだ。身元を隠していられる限りはね」
 ミカエルさま以外の、どんな男と付き合えと?
 わたしにとって、父代りのジャン=クロードさま以外、成人男性は恐怖もしくは警戒の対象でしかない。ジャン=クロードさまに拾われる前、わたしも他のバイオロイドの子供たちも、大人の男たちの暴力にさらされていた……思い出したくない記憶。
 ただ、子供だった頃には苦痛でしかなかった行為が、肉体が育った今では、快感に変わっていることもわかる。それは、自分自身で幾度も確かめていた。
 もし、今、自分に優しくしてくれる男性がいたら……
 いけない。そんな危険な空想は。違法都市で出会う相手は、全て警戒しなくてはならないのだ。
「女たちには、それが問題なのよ」
 どんな話の流れだったか、ある日、レティシアが語ってくれた。運動した後、二人で露店風呂の大きな浴槽に浸かっていた時。
「違法都市で出会う男で、まともな奴なんかほとんどいない。だって、バイオロイドの奴隷は、何でも言うことを聞いてくれるんだものね。それに慣れてしまったら、人間は腐りはてるわ。ただ、人間の女を口説く時だけ、奴らも必死でまともなふりをしている。それに騙されて、泣きを見た女がどれだけいることか。だからわたしたちは、グリフィン事務局をほぼ女だけで固められて、嬉しかったのよ」
 辺境で苦労してきた人間の女たちは、女同士で団結して、自分たちを守るようになってきたという。
「でもまあ、肉体的に、男を必要とするのは仕方ないわよね。でも、娯楽のためにバイオロイドの小姓を使うのでは、男たちがしていることを非難できないでしょ」
 人間の女性は、全員ではないにしても、そういう矜持を持っていてくれるのだ。
「街へ出て、口説いてきた男たちの中から、ましな奴とデートしてみるの。その結果、合格だと判定すれば、後からそいつを女友達に紹介するの。奴らも、女のネットワークで信用されれば、たくさんの女と付き合えるから、一度その方式に馴染むと、少しましになってくるわ。そうやって、ましな男を増やしていくしかないわね」
 女がどう思うかを、本当に気にかける男は、辺境では稀有な存在なのだ。
「だからセイラも……よかったら、そういう男を紹介できるわよ」
 ああ、そうなのか。
 ミカエルさまがレティシアを呼んでくれたことには、そういう意味もあったのか。
「ありがとう……いずれ、もし、そういう気になったら……お願いします」
 頼むことはないと思いながら、わたしはそう答えた。わたしはレティシアたち、本物の人間の女性とは違う。勉強して賢くなったとはいえ、培養された奴隷なのだ。
 主人に尽くすことが、自分の幸せ。
 わたしはもう、生涯かけて尽くしたい人を見つけたのだから、それで幸せなのだ。
 肉体の要求は、自分で鎮めればいい。ちょっとした道具があれば、それで簡単に快感を得ることができる。
 強い腕や、厚い胸板に抱きしめられたら、なんて、想像しても仕方ない。ミカエルさまは、わたしより小柄な少年なのだ。

4 ミカエル

 麗香さんの暮らす隠居屋敷の地下には、広大な研究施設が隠されている。主に、人体改造の研究施設だ。過去の研究の成果である、様々な改造体も冷凍保存されている。危険すぎて、凍結するしかなかった戦闘用強化体もある。
 地上の薔薇園を見ているだけでは、地下にそんな冷たい迷宮があるとはわからないが。むしろ、この屋敷は、地下迷宮の入り口としての意味しかないのだろう。
 ぼくは出入りの許可を得ているので、たまに、一人で地下室に入る。特に用事があるわけではない。自分が研究したいことなら、自分の屋敷でできる。ただ、凍結された実験体を眺めて、思うことが色々あるのだ。
 麗香さんに創り出されて、外の世界を知ることもなく、再び冷凍カプセルに押し込められた生き物たち。
 あるいは、いったん外界で暮らしていながら、ここに引き戻されてしまった者たち。
 ぼくは一つのカプセルの前に来ると、しばらくそこに座って、時を過ごす。そのために、椅子を置いてある。
 白い肌と茶色い髪をした若い女性が、凍結保存されていた。目を閉じて、夢も見られない長い眠りについているのだ。
 カプセル表面のプレートには、製造年や遺伝子型などの情報が封入されているが、茜≠ニいう個人名も表示してある。
 昔、初代のグリフィンが愛したという、バイオロイドの娘だ。彼は……シヴァは知らない。本物の茜が、ここにひっそり眠っていることを。
 彼は自分の愛する茜が、不幸な事件のせいで自殺したと思っているが、彼女はその直前、偽者とすり替えられていた。侵入者たちに殴られ、強姦され、銃で頭を吹き飛ばして死んだのは、そうするように暗示をかけられていたクローン体の方だ。
 何一つ、いいことのなかった人生。
 いや、この茜がクローン元の本体だという意味ではない。茜もまた、同時にたくさん製造されたバイオロイドの一体にすぎない。
 シヴァの目を惹くため、初恋のヴァイオレットさんとそっくりな顔立ちに作られた娘たち。複数の娼館に配置された姉妹たちのうち、たまたまシヴァと出会うことに成功した一体が、この茜だということだ。
 麗香さんは、シヴァを突き動かす刺激を与えようとしたのだと思う。高い能力を持ちながら、ちっぽけな組織に安住していた彼を、より高い舞台に上げるため。愛する相手を与えてから、それを奪うという残酷なやり方で復讐心を持たせ、それを行動の原動力にさせるという企み。
 他の同型バイオロイドたちは、予備の数体を除いて、その周辺の娼館で短い人生を終えたことだろう。自殺の芝居に使われたのは、その予備の一体だ。
 麗香さんは、いざという時、シヴァを操るための道具として、この茜を確保しておきたかったのだ。
 何という冷酷な真似をするのか、事情がわかった時は、言葉を失った。
 シヴァがこのことを知ったら、決して麗香さんを許さないだろう。反逆に走るだけの、十分な理由になる。彼にとって、遺伝子設計者であり、育成者でもある麗香さんは、母親に等しい存在だというのに。
 同じように、駒として使われたぼくにはわかる。麗香さんは、ちっぽけな感情で動く人ではない。冷酷さも残酷さも、必要があって発揮するだけだ。
 あの人が見ているのは、人類の進化、究極の知性の誕生という大きな潮流。個々の人間の幸不幸など、大海に生じる小波に過ぎない。
 だが、時には小さな波紋が、他の波紋と重なり、大きな影響を及ぼすこともあるだろう。
 麗香さんが隠しているこの小さな秘密が、いつか表に出て、シヴァを突き動かすことになるのだろうか?
 リリーさんがそれを知ったら、麗香さんから離れて、シヴァの味方をするだろうか?
 今のリリーさんは、麗香さんの裏の顔を知らない。自分のハンター稼業を応援してくれる、寛大な最長老だと思って、素直に尊敬している。ぼくが、麗香さんの手先になって、グリフィン≠フ務めを果たしていることも知らない。
 自分でも、時々、ため息をついてしまう状況だ。
(茜、きみはこのまま眠っていた方が、幸せかもしれないよ)
 今のシヴァには、ハニーという恋人がいる。とびきり優秀で、多くの部下を抱える女性だ。
 茜が目覚めて会いに行っても、シヴァを困らせるだけだろう。同時に二人の女を抱えられるほど、器用な男だとは思えない。彼が茜の人生を引き受けようとすれば、彼にも恋人にも重荷になるに違いない。
 だからショーティも、この事実を自分で突き止めておきながら、シヴァには何も言わないままでいる。
 しかし、それでもいつか、この状態は終わるのではないか。
 麗香さんがいつまでも、この体制を続けるとは思えない。
 中央の市民社会と辺境の違法組織、この二つの世界が並立していることは、これまでは有効だった。市民社会では清新な人材を育成し、辺境では無制限の実験を繰り返す。
 その実験の目的は、人類の進化にあった。あるいは、新たな宇宙の創造に。
 麗香さん自身が超越化して人間の限界を超え、更に、自分の弟子として何体もの超越体を誕生させた今では、もう、旧人類など、どうなっても構わないのではないか。自分たちだけさっさと、次の宇宙へ行けばいいのではないか。
 ぼく自身もまた、超越化を試みる時が近付いている。いつまで人間でいるべきか、自分でも考え続けているのだ。
 人間の肉体を捨てたら、何が起こるのだろう。
 愛する気持ちや憧れる気持ち、悲しむ気持ちまでも失くしてしまい、淡々と科学研究を続けるだけの存在になってしまうのか。
 いったい、何のための研究なのだ。
 感情を失ってもまだ、この世に存在する意味が残るのか。
 それとも、失うものなど何もなくて、より豊かに、永遠の生命を謳歌できるのか。
 いったん超越化してしまったら、もう引き返せないかもしれない。だから、迷っている。
 茜の眠るカプセルの傍らで、今日もまた、しばらく座り込んでいた。
(きみなら、何と言うだろう)
 シヴァと出会って、心を通わせたのに、たった数か月で引き離されてしまった娘。
 悲しい思いをするとわかっていても、この世に復活したいか。それとも、何も感じないまま、眠り続けている方がいいのか。
(いや、きみならきっと、現実にぶつかることを望むだろうな。それが辛い現実でも)
 何も感じないことは、死と同じだ。
 ただ、喜びよりも悲しみの方がはるかに大きいとしたら、いずれ、自分で死を選ぶかもしれないが。

5 セイラ

 今のわたしを他人から見れば、謎の女≠セろう。どこから現れ、どこに去るのか、誰にもわからない。
 豪華な衣装も着こなせるようになったし、宝石を身に付けることにも、アンドロイド兵士を使いこなすことにも馴染んだ。一流の店に出入りして、買い物や食事をすることにも慣れた。
 それでも中身は、奴隷時代のまま。
 自分で望んで、ミカエルさまに仕えている。
 だって、そうでなければ、何をして生きるの。
 一人きりでこの世に放り出されて、何が楽しいの。
 この世界は地獄だと、最初から知っている。バイオロイドは、ただの消耗品。
 乗っていた車が吹き飛ばされ、大怪我をして地面に倒れていた時、ジャン=クロードさまが通りかからなかったら、わたしは死んでいた。
 だから、ジャン=クロードさまに救われ、居場所を与えられた時には、心の底から感謝した。懸命に尽くそうと思った。ミカエルさまと出会うまでは。
 ただひたすら、一人の女性を思い続けている人。
 世間ではリリー≠ニいうコード名で知られる豪傑だけれど、彼女もまた、ミカエルさまを愛した。お互いに、魂が引き合ったのだろう。リリー≠守るためにだけ、ミカエルさまはグリフィンの役目を引き受けている。
 わたしは、そのお手伝いを自分から申し出た。ジャン=クロードさまも、わたしの希望を聞き入れ、快く手放して下さった。
『自分の幸せを追求すればいい』
 と言って。
 いつか、わたしがミカエルさまに必要とされなくなったら、死ねばいい。
 ミカエルさまもリリーさまも、世界という舞台で、大きな役を与えられているけれど、わたしはほんの端役にすぎない。
 舞台の片隅にいられるだけで、十分に恵まれている。
 だから、端役でよかった……ある日、花束と、手書きの手紙を渡されるまでは。

 それは、わたしが違法都市の繁華街で、お茶を飲んでいる時だった。大通りに面したビルの一角、緑の植え込みに隠されたレストランのテラスで、一仕事済んだ後の休憩時間だった。
 お茶とケーキがなくなったら、桟橋に行って船に乗り、ミカエルさまの元へ帰る。レティシアへのお土産は、新しい品種の桃とさくらんぼ。果実そのものと、苗木を買ってある。苗木はわたしが庭に植え、未来の収穫を楽しみにするのだ。
 その花束と手紙は、店のマネージャーが持ってきた。わたしを守るアンドロイド兵士たちが、危険のないことを確かめた上で、接近と手渡しを許す。
「当店のお得意様からご依頼を受けまして……ご不要でしたら置いてお帰り下さいませ」
 花束は、ほんの小さなもの。ピンクと赤のアネモネに、白いかすみ草をあしらっている。趣味は悪くない。
 初めてのことではなかった。女が一人で時間を潰していれば、暇な男が寄ってくるもの。レティシアも、わたしに勧めていた。
『女の修行として、お茶や食事くらい、付き合ってもいいと思うわよ。ミカエルさまも、そのくらいのことは気になさらないでしょう』
 そう。気にしないどころか、他に好きな男ができたら、祝福して送り出すと言ってくださる。その時は、グリフィン≠ノ関するわたしの記憶を抜くことになるけれど。
 そんなこと、絶対にない。わたしが、ミカエルさまを忘れてもいいと思うなんて。
 軽い気持ちで、手紙を開いた。白い封筒と便箋に、手書きの文字。不愉快だったら、破り捨てればいい。どうせ、目新しい女と遊びたいだけだろうから。
『突然、手紙を差し上げる失礼をお許し下さい。店内にいます。以前も、この街で貴女を見かけました。青いドレスと真珠の首飾りの時に。その前は、白いドレスにトルコ石。次に貴女を見られる時は、いつ来るのでしょうか』
 わたしは振り向いて、ガラス扉の向こうの店内を眺めた。客は何組かいる。でも、男性の一人客は少ない。そのうちの一人が、わたしの視線を受けて席から立ち上がる。
 その様子のどこかが、わたしの胸を騒がせた。すっきりして、どこか寂し気なたずまいが、少し、ジャン=クロードさまに似ていたからかもしれない。
 顔立ちは、美男子のジャン=クロードさまより、少しいかつい。浅黒い肌に褐色の髪をして、骨格はたくましい。趣味のいいベージュのスーツを着ている。年齢はわからない。三十歳かもしれないし、百三十歳かもしれない。
 わたしが拒絶の身振りをしなかったので、彼はゆっくり近付いてきた。悲しげな目をしている、と思った。単に、そういう演技に長けた女たらしかもしれないけれど。
「警戒されるのはわかっていましたが、今日を逃したら、次はいつ会えるかわからない。永久に会えないかもしれない。声を聞かせていただけませんか?」
 ミカエルさまから離れるつもりはない。グリフィンの職務のことを洩らすつもりもない。
 でも、焦げるように強い眼差しで見られることが、わたしには必要だったかもしれない。その目付きは、たぶん、わたしがミカエルさまに向けているのと同じ。
 好きだけど、大好きだけど。
 自分から好きなだけでは、充たされない何かがある。
 人に焦がれてもらいたい。つきまとい、話しかけてほしい。そのことで、自分が癒されたい。
 そういう欲が、わたしにもあったのだろう。
 わたしが何を欲しているか、懸命に探ろうとする人がいるのは衝撃だった。強いお酒を飲んだように、ぼうっとしてしまう。
 好きな花は。好きな食べ物は。好きなデザイナーは。
 結局、食事を付き合い、何も約束はせずに別れた。自分の名前さえ、名乗っていない。向こうが、それでは困るからと、勝手に呼び方を決めただけ。
 ミスティと。
「貴女を包んでいる霧が晴れるまでは、そう呼ぶしかない」
 と静かに笑っていた。彼は自分でアシールと名乗ったけれど、今だけの偽名かもしれないし、連絡先も嘘かもしれない。どうでもよかった。わたしとしては、気分転換になる三時間を過ごしただけ。これっきりで終わっても、別に惜しくはない。
 桔梗屋敷に戻ってから、レティシアには全て話した。もし、わたしが悪意のある誰かに付け込まれたのだとしたら、辺境暮らしの長いレティシアが、そう判断してくれるだろう。
 彼女は静かに聞いてくれ、最後に言った。
「聞いた限りでは、罠や悪意のようには思えない。ただ、あなたを見初めただけのように思える。とりあえず、その男の背景は調べるわ。もしかしたら、何かの企みが隠れているのかもしれないから、油断はしないで。もう一度会うなら、わたしが兵を通して監視するわ」
 その時は、こちらから連絡を取ってまで会うつもりはなかった。だから、
「そんな手間をかけることは、ないと思うわ」
 とだけ答えた。
 ミカエルさまの側にいれば、それなりに楽しく日々が過ぎていく。仕事の時間が終われば、一緒にジョギングしたり、庭を歩いたり、評判の映画を見たり。
 次にアシールに会ったのは、半年以上過ぎてからだった。わたしはもう、あの男は次の誰かを見付けて、楽しく付き合っているだろうと思っていた。だから、初めて入ったレストランで、再び花と手紙が届けられた時は、驚いて店内を見回した。彼は奥の席から立ち、ゆっくり近付いてきて、立ったままで言う。
「連絡をもらえなかったということは、望みがないのだと思っていました。しかし、今日、貴女がこちらの監視網に映ったので。十分でいいから、話をしてもらえませんか」
 十分なら、と答えた。彼はわたしの前に座り、苦痛に耐えているかのような眼差しを向けてくる。
「ぼくは辺境に出てきてから、三十年になります。それなりの地位もでき、まず恵まれた部類に入るでしょう。しかし、自分には何か足りないものがあると、うっすら思っていた。それが何かは、よくわからなかったが。でも、初めて貴女を見た時に、何か思い出しそうになった。何か、大事なことを。それで、二度目に見かけた時から、貴女を捜すようになった。ぼくの持っている情報では、貴女の背景が何もわからなかったから。三度目にやっと、貴女の声を聞くことができて……今日は、まさか、会えるとは思っていなかった。次の機会はもう、ないかもしれない」
 なぜだか、喉が苦しくなった。何も言えない。
 何かが足りない。
 自分の人生に、何かが欠けている。
 それは、わたしもずっと感じていた気がする。ジャン=クロードさまの元にいた時より、ミカエルさまの元にいる時の方が、ずっとそれを感じている。
 恵まれているのに。ミカエルさまは、優しくして下さるのに。望むだけ、ミカエルさまと暮らせるのに。
 知らないうちに、頬の上を涙が伝い、手の甲に落ちていった。アシールが驚いた顔をするのはわかったけれど、わたしは立ち上がり、アンドロイド兵士の群れに守られて逃げ出した。
 車に戻ってから、しばらく、泣き止むことができなかった。塞き止めていたものが溢れるように、後から後から涙が噴き出す。
 わたし、愛されたい。
 誰でもいいから、愛してくれる人に甘えたい。
 ミカエルさまは優しいけれど、それは、わたしから飛び込んでいったから。ミカエルさまが、わたしを必要として呼んでくれたわけではない。レティシアとは友達だけれど、命令があれば彼女は、淡々として次の職場に去ってしまうとわかっている。
 わたし、飢えている。
 男の人に、愛されたい。
 もう子供ではないのに、子供のように守られたがっている。
 ミカエルさまの元へ戻る船の中でも、ずっと胸がざわついていた。
 前から言われている。平凡な幸福が欲しければ、市民社会に亡命すればいいのだと。
 そうすれば再教育を受け、市民社会に受け入れてもらえる。恋愛も結婚もできる。自分の遺伝子は残せないけれど、誰かの卵子をもらって子供を作ることはできる。母親になれる。
 でも、それはミカエルさまの記憶を失うことと引き換えだったから、わたしは亡命など望まなかった。片思いをしていられるだけで、幸福だと思っていた。
 大多数のバイオロイドたちは、惨めな奴隷のままで短い人生を終えるのだから、希望を聞いてもらえるわたしは、特別に恵まれている。
 なのに、まだ満足できないというの。
 今ある幸せを投げ捨てて、あてになるかどうかわからない男にすがりたいなんて、本気で思うの。
 でも、男性に乞われることは、しびれるような快感だった。わたしの本能が叫んでいる。
 愛されたい。子供を育てたい。本物の人間のように。
 赤ちゃんを抱くことを想像しただけで、快感のあまり、気が遠くなりそう。小さな赤ん坊は、どんなに可愛いか。自分のものとして育てられたら、どんなに嬉しいか。
 レティシアは、辛くないのだろうか。ずっと辺境の違法組織で暮らして、満足なのだろうか。普通の暮らしは、もう市民社会で経験してきたから、未練はないと? 不老処置を続けていけるなら、戦いや裏切りに怯えるくらいは我慢できると?
 ああ、彼女は自分の意志で辺境に出てきたのだ。でも、わたしは違う。
 こんなこと、ミカエルさまには言えない。待っていましたとばかり、市民社会へ送り出されてしまう。あるいは、アシールの元へ。きみには、普通の幸福が相応しいよ、と言われてしまう。
 ミカエルさまは、大人の男になることを拒絶して、平然と暮らしていらっしゃるのに。
 わたし、まだほんの数年しかミカエルさまの元にいないのに、こんなにぐらぐら揺れてしまって、この先いったい、どうなるのだろう?

6 ミカエル

 グリフィン役を引き受けて以来、ぼくの主な相談相手はショーティだった。
 犬から進化した超知性。ぼくにとっては、超越化の先輩にあたる存在だ。
 教師役である麗香さんには、よほどのことがないと、面会を申し込めない。
 彼女にとって、ぼくは実験素材≠フ一つである。一時的に権力を託されはしたが、何らかの成果が出なければ、おそらく存在を抹消される。だから、愚かしい質問をしたり、感傷的な悩みを打ち明けたりすることは、怖くてできない。
 もっとも、ショーティを通じて、ぼくのそういう状況は、全て把握しているとは思うけれど。
 ショーティに対しては、もっと気楽に話すことができた。彼もまた、様々な迷いや悩みを乗り越えてきているし、今後についても、完全に腹を決めているわけではない、と思う。
 人類は、このままでいいのか。
 それとも、次の段階へ進むのか。
 あるいは、ごく一部だけが超越化して神≠ノなり、この世界を捨てて、次の世界、次の宇宙へ去ってしまうのか。
 もしかしたら、その神≠ヘ、進化できない人間たちを抹殺してしまうのかもしれない。
 さもなければ、人間たちを実験材料にして、好きに改造しようとするかもしれない。
 いま、麗香さんが、人間たちに存在を知られないまま、ひっそりと実験を繰り返しているように。

「もちろん、人間がどうなるのかは、人間自身が決めることで、わたしのお節介は必要ないと思うがね」
 ショーティは自分を、人類の外にいる観察者≠ニ考えている。人間社会の中で育ったが、彼自身は人間ではない。一度は犬として寿命を迎え、そこからサイボーグ化と知能強化処置を受け、更には自分で自分を進化させてきた。
 ただし、そこにも麗香さんの手が加わっている。飼い主だったシヴァは、自分がショーティの知能強化を成功させたと思っているが、実際には、超越体である麗香さんの関与があってこそ。
 ショーティは今でも、かつての飼い主であるシヴァを愛していると言うが、その愛情も、変質してきたと話してくれた。
「昔は、シヴァの幸福がわたしの最大の目標だった。そのために、彼が伴侶を持ってくれればと思っていた。だが、今では、シヴァを含む多くの人間たちのことを考えている。ひいては、人類社会全体のことを。彼は、人間社会の中で暮らしているのだから。彼だけの幸せ、というのはありえないのだよ」
 シヴァが人間として死ぬのは認める、とショーティは言う。科学技術の力で永遠に生きるかどうか、あるいは超越化するかどうか、それはシヴァが自分で決めればよいことだと。
「むろん、できる限りはシヴァを守る。だが、もはや、シヴァの存在が絶対ではなくなった」
「それが、あなたの進化?」
 ぼくにはまだ、リリーさんの存在が絶対なのに。
「たぶんね。シヴァにとってみれば、わたしが変質して、裏切り者になったということかもしれないが」
「でも、あなたはまだ、彼と彼の大事な人たちを守っているのだから、何も裏切ってはいないでしょう」
「だが、茜のことについては、シヴァに本当のことを伝えていない」
「伝えてしまったら、何が起こるかわからないからでしょう」
「それが、わたしの不利になるかもしれないから、だ」

 ショーティは超越化を果たし、生物としての限界を超えた。今は無数の基地や戦闘艦を動かし、多くの人間型端末に宿り、人類社会のあちこちで、麗香さんの代理人の役目を果たしている。
 市民社会の安全を守り、新たな才能を育てること。
 辺境の支配体制を維持し、科学技術の限界を広げること。
 その傍ら、ぼくの仕事への助言もしてくれる。
「ミカエル、きみがもっと進化したら、わたしのしている仕事をかなりの部分、きみに譲れるだろう」
 そう言われるぼくは、まだ、ためらっている。いったん超越化を果たしたら、
『やっぱりやめる』
 と言って引き返すことは難しいだろう。人間が、海の魚に戻れないのと同じだ。人間を超える視野と行動力を持ってしまったら、たぶん、人間に戻る選択肢はなくなる。
 それでも、ただの人間のままでは、いかに高い知能を持っていようと、グリフィンの職務をこなすことは難しい。賞金首の人間たちの監視や密かな警護、暗殺者側の支援や妨害など、日常の業務は事務局が行うとはいえ、事務局に指示を出すのはぼくだ。
 毎日、上げられてくる報告を全て読むだけでも、大変な仕事量だ。あちらの作戦とこちらの作戦がぶつかる場合は、衝突を避ける策を考えなくてはならない。あの人物とこの人物のどちらを優先するかも、決めなくてはならない。
 一度、計画を決めても、予想外の事態は繰り返し起こる。数千人、数万人が関わる作戦は、無数の手直しを必要とする。
 とりあえず、ぼくはぼくの支援システム《ルミナス》を構築した。ぼくに代わって、事務作業の大部分を負ってくれるシステムだ。
 一定のレベル以下の判断は、《ルミナス》が行ってくれる。必要があると認めた部分のみ、ぼくに報告と相談を行う。グリフィン℃末ア局との遣り取りも、ぼくの代理として行ってくれる。必要な情報は、自分で探したり、探すよう外部に命令したりする。
 そのシステムの根幹は、ぼくの記憶や人格をそっくり移植した人工知能だ。
 ぼくのように推論し、ぼくのように言葉をつむぐ。
 違いはただ、人間の肉体を持たないことだけ。
 毎日、一定の時間、ぼくは《ルミナス》と融合する。膨大な情報を共有し、方針を決めたり修正したりする。その間に《ルミナス》は、ぼくからの直接制御を受ける。していいこと、いけないことを明確にする。それを繰り返すことで、ぼくからの乖離を最小限に留めるようにする。
 さもないと、《ルミナス》が暴走して、ぼくに逆らったり、ぼくを抹殺しようとしたりするかもしれない。
 今は単なる疑似人格だが、ある時点で臨界を超え、独立した知的生命に化けるかもしれないのだ。
「こういう代理頭脳の弱点は、日々、拡大していくことだ。知識量も判断力も」
 とショーティは言う。
「最初はきみ自身と変わらない判断をしても、やがて、きみの理解を超えるかもしれない。人間の肉体という限界を外した以上、それは当然の成り行きだ」
 それが怖いのであれば、ある時点で、ぼくが《ルミナス》と融合するしかない。
 それも、二度と分離することはない融合だ。
 それはつまり、ぼくが人間の肉体を完全に捨てることを意味する。
 この肉体は単なる脳の入れ物として、カプセル内で生かされるだけになる。有機組織である以上、いずれは寿命が尽きるが、その時にはぼくの意識はもっと大きなシステム内に広がっているから、極小部分が消滅しても、影響はほとんどない。
 実際、《ルミナス》と接続している時にぼくの肉体が消滅しても、ぼくの拡大意識は、ほとんど無傷で《ルミナス》内部に保存されるだろう。
 もし、人間の肉体が恋しくなったら、《ルミナス》内部に構築した疑似宇宙で暮らすことになるだろう。現実世界の情報を元にして築いた、現実世界とよく似た架空の世界。
 そこでなら、リリーさんと遊ぶこともできる。架空のリリーさんと。青年の肉体になって、リリーさんと本当の恋人同士になることも……そういう物語を楽しむことだってできる。
 もし、その世界が心地よいと思い、そこから出たくなくなったら、ぼくは現実の存在としては、死ぬことになる。
 幻想の世界に逃げ込んだ実験体を、麗香さんは無用と判断するだろう。
 ショーティは、ぼくに教えてくれた。
「その融合も、時間が経つほど難しくなる。《ルミナス》の自律発展を止められないからだ。《ルミナス》がある閾値を超えたら、接触したきみの意識を、余分な雑音とみなして、抹消してしまうかもしれない。あるいは、単なる参照データにしてしまうかもしれない。状況によるが、猶予は精々、半年か一年だろう」
 期限が切られたことで、ぼくは崖際に追い込まれた。リリーさんを守れる自分であるために、ぼくはこの肉体を……少年のままに留めた肉体を……捨てることになる。つまり、人間としての生を。
 怖い。
 逃げたい。
 だが、とうにわかっていたことだ。進むしかないのだと。
 麗香さんに選ばれた時から、定まっていた運命。
 ほんのわずかな期間、うじうじと悩み、ためらう猶予が認められていただけ。そう、執行猶予だ。
「やりますよ」
 とうとうぼくは、ショーティに宣言した。
「ぼくが《ルミナス》と融合して、異常をきたしたとあなたが判断したら、抹殺してください」
 まあ、それはこちらが言わずとも、彼の職務として、当然するはずだろうとわかっていたけれど。
「わたしには、きみを抹殺する権限はない。何が異常かも、決められない。それは、麗香さんが決めるだろう。わたしもまた、彼女の実験動物にすぎないのだから」
「でも、あなたは信頼されていますよ」
 たぶん、元が人間ではないからこそ。
 後の気掛かりは、セイラのことだ。ぼくを愛してくれ、父親代わりのジャン=クロードから離れて、ぼくの元に来てくれた娘。
 超越化してしまえば、もう、セイラの世話になる必要はない。それがわかっいていて、長く手元に置いておく必要はない。既に十分、愛情を捧げてもらった。
 セイラは、普通の女性として幸福になるべきだ。
 今なら、まだ間に合う。
 手を広げて迎えてくれる男がいれば、セイラはその胸に飛び込めるだろう。

8 セイラ

 雨が降っている。
 寒い。
 わたし、なぜ、雨に打たれて寝ているのだろう。
 動こうとしたら、全身に鋭い痛みが走り、下半身が何かにはさまれているのがわかった。
 車の中らしい。斜めになった車体に大きな亀裂が入り、その隙間から雨が降り込んでいる。骨まで沁みる、冷たい雨。動かないアンドロイド兵士が、近くでやはり雨に濡れている。
 これは、事故なの。
 誰か、助けてくれないの。
 手を動かそうとしても、動かない。骨が折れている。声も出ない。血も流れている。このままだと、間違いなく死ぬ。
 わたしの人生、ここで終わるの。
 そして、自分がどんな人生を過ごしてきたのか、何もわからないことに気がついた。
 自分の名前すら、わからない。
 どこへ行く途中だったのか、どこかへ戻る途中だったのか。
 事故で頭を打ったせいなのか、それとも、事故の前に何かあったのか。
 たぶん、わからないまま死ぬのだ。手足が冷たい。気が遠くなる。
 そこに、鋭い音が響いた。機械のアームが、車の亀裂を広げているらしい。広がった隙間から、機械の兵士が入り込んできた。何体ものアンドロイド兵士が協力し、わたしの躰をひしゃげたシートから引き離す。
 わたしは車の外で待っていた兵士に引き渡され、雨の中を運ばれた。別の車が待っていて、誰かがわたしの服を切り裂き、裸にして、医療カプセルに入れる。カプセルには、温かい液体が満ちている。痛みも和らいでいく。
「ミスティ、もう大丈夫だよ」
 誰かが言うのが聞こえた。麻酔が打たれ、わたしは眠りに落ちていく。もう寒くはなかった。不安もなかった。あの声は知っている。助けが来てくれたのだ。

 目を覚ました時は普通のベッドにいて、病人用の寝間着も着ていた。手足にはまだ保護シールが貼ってあったけれど、痛みはほとんどない。
「ミスティ、気分はどう」
 優しい声で、誰かがわたしの手を取る。視野がまだ、薄暗い。
「きみは二週間、眠っていた。もう、ほとんど回復している。起きてみるかい?」
 ゆっくりと視界が明るくなった。わたし、この人を知っている。前に会っている。
「アシール」
 すると、ハンサムな顔が驚いたように笑う。
「覚えていてくれたのか」
 覚えている……というより、他のことを覚えていない。
「ここ、どこなの……」
「ぼくの拠点ビルだよ。きみは車に乗っていて、攻撃された。犯人はわからない。ぼくはきみを街で見かけて、追跡していたんだ。追っていて、よかった。きみを殺そうとする追っ手がいても、撒けるようにと用心して、きみを運んだが……今日までのところ、追跡者はいないようだ」
 わからない。自分のことがわからない。大破した車の中で目を覚ます前のことが、まるで浮かばない。
「あなた、どうして、わたしを追っていたの」
「きみはたまにしか、街に姿を現さない。見かけた時に追うしか、方法がないんだよ」
 アシールは、わたしの身元も名前も知らないのだ。わたしは彼に、何も教えていなかったらしい。
「ごめんなさい。覚えていないの。自分のことが、わからない」
「それは気にしなくていいよ。頭を打っていたようだからね。元気になれば、少しずつ思い出すだろう」

 わたしは彼に保護され、半病人として暮らした。ビル内に部屋をもらい、屋内庭園を散歩したり、植え込みの花を摘んだり、お茶を飲んだりして。
 中央のニュース番組を見ても、何も思い出すことがなかった。でも、報道されている内容は大体、理解できた。アシールはわたしが話すことを、頷きながら聞いてくれる。
「それはそうだよ。きみは、どこかの組織の幹部だったらしいから。でも、何かあって、命を狙われたんだね。記憶が戻るまでは、帰ろうなんて思わない方がいい。自分が誰かも覚えていなくては、身を守れないだろう」
 帰る場所があるとは、思えなかった。
 違法都市では、自分で戦えない者は、生きていられない。
 アシールがわたしを助けてくれたことの方が、例外なのだ。
「きみがこうなってよかったと言ったら、怒られるだろうけど、ぼくは嬉しかった。きみを助けられて。のんびり、気長に療養してくれていいんだよ」
 彼はいつか、わたしの記憶が戻ると思うらしい。そうしたら、わたしがここから出ていくだろうと。
 でも、わたしには、何の焦りも葛藤もなかった。ただ、静かなあきらめがあるだけ。
 わたしを待ってくれている人は、たぶん、いない。
 そういう気がする。
 どこかへ帰りたいとも、何かを思い出したいとも、あまり思わない。
 それよりも、ここにいるのが好き。
 毎日、アシールが何かを贈ってくれる。小さなチョコレートの箱とか、花の種とか、一冊の本とか、わたしの気晴らしになるものを。
 彼がどうしてわたしを好いてくれるのかは、わからない。でも、それが奇跡のように貴重なことだとは、わかる。
 だから、わたしはこの奇跡を愛する。
 どうか、この日々が長く続きますように。

9 ミカエル

 ある朝、ぼくはレティシアに告げた。
「もうセイラもいないことだし、ぼくには運動する習慣ができたから、きみはリザードの所に戻った方がいいね」
 既にリザードには、了解を得ている。麗香さんから、何か指図が行ったかもしれない。というか、リザードもまた、麗香さんの動かす端体の一つであるかもしれない。
 レティシアにも状況はわかっていたようで、抵抗はしなかった。ただ、そっと吐息を洩らしただけだ。
「セイラには良かったのかもしれませんが、残念な気もします。あの子は本当に、ミカエルさまを愛していました。ここにいても、それなりに幸せに暮らせたと思います」
「そうだね……それなりに」
 でも、セイラもやがて悟ったことだろう。ぼくが人間ではなくなったことに。その時でも、ぼくを恐れずにいられるだろうか。
 今はまだ、超越体になるのを許されるのは、ごくわずかな者だけだ。あくまでも、麗香さんの制御できる範囲内でのこと。全ての人間が、望めば超越体になれる時が、いつかは来るのかもしれないが。
 レティシアには、船と報酬を与えて去らせた。リザードが彼女に、相応しい役職を用意してくれるだろう。誰もいなくなった桔梗屋敷は、静かなものだ。
 ぼくはミカエルの肉体に宿り、縁側に座る。庭のあちこちに、白や紫の桔梗が咲いている。
 この屋敷は、維持しておく。このミカエルの肉体も。本体と細くつないでおけば、実用上の問題はない。
 リリーさんやダイナさんが遊びに来た時のために、セイラそっくりの有機体人形を用意しておくことにした。ぼくが一人で暮らしていたら、リリーさんが心配するからだ。
 必要が生じたら、その人形にも、自分の精神の一部を降ろして¢るかもしれない。女の姿をしていれば、違法都市では色々と活動しやすい。現実から遊離はすぎないためにも、行動端末はあった方がよい。
 まだ、何かを失ったとは思っていなかった。
 ぼくはぼくだ。
 ぼくの一部では、リリーさんの動向を見つめている。危険が迫れば、ぎりぎりで回避の手を打つ。狙撃の邪魔をするとか、毒物を入れた飲み物を誰かにこぼさせるとか。
 まだ、リリーさんを守る気持ちは失っていない。人類社会のためには、必要な人だから。
 闇に釣り合うだけ、光も必要なのだ。
 いつかは空虚に蝕まれるかもしれないが、しばらくは大丈夫だ。何かを大切に思ううちは、生きていられるだろう。現実の宇宙から退避した、架空の宇宙にいても。

10 紅泉

 ミカエルの屋敷は、麗香姉さまの屋敷から数キロ離れた、なだらかな緑地の中にある。日本式の庭園に囲まれた、武家屋敷のような建物だ。畳の部屋に板張りの廊下、雪見障子から見える松や楓の木々。
 最初は姉さまの屋敷で寝起きしていたのだが、やがて、自分の住処を持つようになった。
 それはミカエルが、姉さまの助手の立場を離れて、自分の研究をするようになったから。
 中身の説明を聞いても、あたしにはよくわからない。高等数学や理論物理学は、あたしの手に余る。でも、ミカエルが打ち込む対象を見付けてくれたのなら、それで十分。
 ここにはダイナも時々遊びに来て、ミカエルをちょうどいい相談相手にしているというし。
 ミカエルにはセイラというバイオロイドの娘が付いて、身の回りの世話をしている。長い黒髪を優雅な巻き毛にした、美しい娘だ。あたしたちが訪問した時は、おとなしく隅に控えているけれど、アンドロイド侍女に適切な指図をして、行き届いたもてなしをしてくれる。
(ミカエルのことが、好きなんだな)
 ということは、すぐにわかった。そうでなかったら、俗世から隔離された小惑星の中の、二人きりの屋敷の中で、こんなに満足そうに暮らしてはいられない。
 この屋敷は、セイラの手で隅々まできちんと整えられていて、あたしにはちょっと、息苦しい。
 磨き立てられた廊下、趣味のいい座布団、床の間に飾られた庭の花。
 ちょっと、セイラが作った結界の中に入ったように気になる。
 だから、ミカエルとあれこれ話して、二日か三日で引き上げる。
 それで、ちょうどよかった。
 あたしはまだミカエルが好きだし、ミカエルもあたしを好いてくれると思うけれど、だからこそ、長く一緒にいるのが怖い。未練が動いてしまうと、せっかく距離を置いたことが無駄になる。
 ミカエルとは、
『たまに会う友達』
 でいるのが一番いい。
 あたしは、探春のことを最優先にすると決めたのだから。

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