紫の姫の物語3

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3 光源氏の章

 朱雀帝あにうえに退出のご挨拶を済ませ、渡殿わたどのに出ようとしたところで、若い女房たちから声をかけられた。
「もうお帰りですの、源氏の君」
「この後は、どなたの所へいらっしゃるのかしら」
 わたしは軽く振り向き、口許に蝙蝠かわほりを当ててにっこりする。
「家に帰って寝るだけですよ」
 すると、彼女たちは笑いさざめく。
「まあ、そんなこと、信じられませんわ」
「本当はどなたか、光君をお待ちの方がいらっしゃるのでしょ」
「もしかして、二か所か三か所、掛け持ちではありませんの」
 わたしはなるべく無駄な浮名を流さないようにしているが、それでも、あちこちから噂が漏れて、尾鰭付きで広まるものだった。あそこの姫も、こちらの北の方も、わたしに陥落したと。
「とんでもない。わたしを待って下さる方がいたら、こんな遅くまで内裏にいませんよ。それとも、あなた方のうちのどなたかが、わたしを哀れと思し召して、こっそり局に入れて下さいますか?」
 すうっと流し目を送りながら言うと、彼女たちは、揃ってきゃあっと歓声を上げる。
「光君さまなら、わたくし、いつでも喜んでお迎えしますわ」
「ええもう、同室の同輩を追い出してでも」
「それは嬉しいお言葉ですね。胸に刻んでおきましょう。独り寝が寂しくなった時に、思い出せるように」
 と、わたしはにっこりする。
 軽薄なようだが、四人、五人の前で、冗談として言うなら安全なのだ。つれなく通り過ぎるよりも、こうして話相手になった方が、恨まれなくて済む。
 何といっても、亡くなったお祖母さまに、繰り返し言い聞かされているのだ。
『――宮中というのは、華やかに見えて、恐ろしい所。そなたの母は、他の女人たちに呪い殺されたようなものです。同じ間違いを繰り返してはなりませんよ。敵を作らないように、誰にでも愛想よく振る舞い、抜かりなくお勤めなさい』
 もちろん、その頃のわたしはまだ小さかったから、言われた内容が理解できたのは、もっと後になってからのこと。
 母上が本当に呪い殺されたのかどうかはともかく、愛想よく振る舞うのは大事なことだ。尾を振る犬は叩かれぬ、と言う。
 皇族から臣下の立場に降ろされたわたしが、浮き沈みの激しい貴族社会で長く生き抜いていくには、立ち回りの知恵が必須である。表向き親切そうな人間が、陰ではわたしのことを何と言っているか、わかりはしない。
 既にもう、兄上の生母である弘徽殿さまからは敵視されているのだから、この上、余計な敵を増やすことはできない。
 そこへ、後ろからぐいと、首に腕を回された。
「こいつは、わたしがもらった!」
 わたしにこんな馴れ馴れしい態度をとる男は、宮中でもただ一人しかいない。
とう中将ちゅうじょう
 やはり、がっしりして男くさい容姿の、年上の貴公子がそこにいる。彼はわたしの首を抱き寄せたまま、にやにやしてささやいた。
「もう離さないぞ。今夜はこのまま、一緒に来てもらおうか」
 まるで口説き文句だ。わたしが女だったら、ぐらりとよろめいてしまうかも。
「わかった。わかったから、離してくれ。男と抱き合う趣味はない」
 見ていた女房たちが、きゃっきゃと笑いさざめいた。
「あら、それも絵になるかもしれませんわ」
「当代きっての貴公子お二人ですもの」
「誰か、そういう物語を書いてくれないかしら。わたくし、愛読者になってしまうわ」
 やれやれ。なぜ、男などと浮名を立てられなくてはならないのだ。
 貴族社会には、女より男がいいと言う男もいるが、わたしには想像もつかない。相手がよほどの美少年なら、少しは考えないこともないが。
「では、今夜はこれで失礼」
 我々は、女房たちに見送られて車宿りに向かった。
「きみの車は帰したまえ。わたしの車に乗ればいい」
 と頭の中将。
「わかったよ。逃げやしないから、袖を離してくれ」
「これは失礼。しかし、きみは飽きた女からは、いつもするりと逃げるだろう」
「見てきたようなことを言う。わたしの方が、いつも女に逃げられているのに」
「あっはっは。見え透いた謙遜はやめたまえ。都中の女が、きみに声をかけられたいと熱望しているじゃないか」
 と、ばしばし背中を叩かれる。わたしは苦笑するしかない。
「そんなにもてはやされているなら、苦労はないよ」
 肝腎のあの方は、わたしを避けよう、避けようとなさっておられる。
「何を言う。天下の色男がする苦労は、女から逃げる苦労だけだろう。わたしもあやかりたいね。さあ、こっちだ」
 頭の中将がわたしを捕まえ、強引に自分の牛車ぎっしゃに連れ込む理由は、よくわかっていた。わたしが彼の妹、あおいの上の婿になっているからだ。
 葵の上は、左大臣家の秘蔵の姫。
 この結婚は、父上が在位中にお膳立てして下さったものだ。左大臣家がわたしの後見に付けば、父上が退位なさった後でも、先行きに心配はないというご配慮。
 本当なら、心底から有り難く思い、もっとしげしげ通わなくてはならないところなのに、つい足が遠のきがちだから、左大臣も、嫡男ちゃくなんである頭の中将も心配するのだ。
 冗談口に紛らせてはいても、彼は真面目な男。前後に幾つもの松明を並べさせ、夜道を照らして進む牛車の中で、わたしと二人きりになると、真摯な顔で頼み込んできた。
「なあ、源氏の君。きみが我が家に寄り付きにくい気持ちは、わたしにもわかるんだ。葵はあの通り、強情で扱いにくい性格だからな。兄であるわたしでも、時々むっとするくらいだ」
 こういう点、彼は正直で、付き合いやすい男である。
「きみもやはり、色々と不満な点があるだろう。しかし、あれでも本当は、女らしくて優しいところがあるんだ。生意気な部分は、どうか大目に見てやってくれないか。子供でもできたら、きっといい母親になるはずだから」
 そういう姿は、どうもうまく想像できない。子供は乳母に任せ、自分は物語でも読んでいるのではないだろうか。
「まさか、不満などと。葵の上は、申し分のない姫君だよ。わたしには勿体ない方だと、いつも思っている」
 美貌、品格、教養。
 きちんと揃いすぎて、逆に可愛くない、というのがわたしの正直な気持ちだが。
 それをそのまま言えないのは、お祖母さまに聞かされた貴族社会の恐ろしさが、骨身に染みているからだ。
 むろん、幼いうちにお祖母さまと死に別れたわたしが、お説教の内容を正確に覚えているわけではない。ただ、断片的な言葉の幾つかと、その場の重苦しい雰囲気が心に残っている。
 宮中に渦巻く恨み、憎しみ。迂闊な者は長生きできない。わたしの母のように。
「いや、無理をしなくていい。あいつがきみにつんけんしているのは、よくわかっているんだ。男なら、もっと可愛い女がいいさ、誰だって」
 頭の中将のこういう明快さ、気取りのなさは、名門の御曹司という安心感からきている。
 立派な両親に頼もしい兄弟たち、従兄弟たち。先祖代々の屋敷に、莫大な財産。少しくらいまずいことが起きても、一族の結束で乗り切れると思っている。
 だが、家族のいないわたしには、そういう安心感がない。今はまだ父上が――桐壺院がいて下さるが、既に退位なさった身。人々もやがては、老いた父上より、現在の帝である兄上の方を向くだろう。そして兄上は、母君の弘徽殿さまには逆らえない方。
 兄上ご自身はたいそう寛大であられ、異母の弟であるわたしに優しくして下さるが、それもおそらく、桐壺院が健在のうちだけだろう。あの弘徽殿さまが、院という重しを外されたらどんなことになるか、あまり考えたくない。
「何しろ、子供の頃から回り中にちやほやされて、いずれは中宮にもなれると思っていた娘だからな」
 と頭の中将は嘆息する。事実、兄上が東宮の頃、葵の上を妃にと望まれたこともあるという。
 けれど、左大臣は葵の上を入内じゅだいさせず、大事に取っておいて、わたしの妻にして下さった。
 そのことでも、弘徽殿の大后はわたしを恨んでいるらしい。ひいては、左大臣一族のことも。
 あの方の憎しみは、そもそも、わたしの母が、父上の寵愛を独り占めしていたことから来ているらしいのだが。
 そんな昔の話、今頃言われても困るというものだ。わたしが生まれる前のことではないか。
「そういう望みのあった姫君が、ただの臣下の妻では、面白くないだろうね。わかるよ」
 わたしがあぐらをかいた姿勢で言うと、向かいに座る頭の中将は、首を横に振る。
「いいや、あいつはきみに惚れている」
 やむなく、悲しい事実を告げるかのような言い方だった。わたしもつい、真顔になってしまう。
(あの葵の上が、わたしを慕っているというのか?)
 いや、それは頭の中将の考え過ぎだろう。だったら、ああいう冷ややかな態度が繰り返されるはずはない。
 今もってまだ、入内できなかったことを恨めしく思っているのだ、あの人は。中宮になり、国母になるのが、貴族の娘の最高の夢なのだから。
「――だから余計、素直になれないんだ。きみに、本命の女がいるのを知っているからな。正妻としては、絶対に許せないことだろう」
 ぎくりとした。
 まさか、知られているのか。
 わたしの、秘めた想いのことが。
 いや、違う。あのことだけは、誰にも悟られているはずがない。これでも、用心に用心を重ねてきたのだから。わたしとあの方のことを知っているのは、あの方の腹心の女房、王の命婦おうのみょうぶだけ。
「で、どこの誰なんだい、きみが邸に引き取った女人というのは。わざわざ手元に置くなんて、相当のご執心なんだろ」
 しゃくの向こうからにやりと問われ、ほっと気抜けした。あの方――藤壺さまのことではないのだ。『藤のゆかりの若紫の姫』のことが、世間に知れ始めているらしい。
「いや、ただの遠縁の娘だよ。親を亡くして、なりゆきで引き取ることになっただけで、そういう相手ではないんだ」
 事実、まだ、女人というほどの年齢でもない。花ならば、ようやくほころびかけた青い蕾というところ。いずれ美しく咲き匂うことは確かだが、あとしばらく待たなければ、摘めそうにない。
「そうか? 噂では何やら、大層な美女だとか」
 妹の話題から離れると、頭の中将も、普段通りの色好みの顔になってくる。都の公達きんだちの関心は、誰がどこの姫を手に入れるかだ。どこの邸の婿になれるか、また、妻になる娘が正妻腹の姫か脇腹の姫かで、将来の出世が大きく左右されるからである。
 次の左大臣の座が約束された頭の中将の場合は、それ以上、出世しようがないが。
 彼がその先を欲張るのならば、自分の娘を入内させて、次の帝を生ませるということになる。そうなると対抗上、わたしも娘を儲けて、入内させ、皇子を誕生させなければならないわけか‥‥‥やれやれ、遠い道程みちのりだ。
 頭の中将は、興味津々の顔で言う。
「西の対に気の利いた女房を大勢集めて、衣装も道具類も、贅を尽くしたものばかり揃えているらしいな。まるで、皇族の姫君のような扱いだと聞いているぞ。いったい、どこの邸からさらってきたんだ? この都に、きみがそこまで入れ揚げる美女が隠れていたとは、大いに驚いたよ。身分のある姫なら、とうに噂になっていただろうに」
 皇族という言葉には、ひやりとした。
 紫の姫の実家から、うちの姫を返せなどと言われないよう、女房たちには厳重な箝口令を敷いているのに。こういうことは、やはり、どこからか洩れるものらしい。
 だが、誰にどう疑われようと、紫の姫はわたしのもの。
 あの方の血筋だからというのは勿論だが、あの姫が邸の内にいるだけで、まるで春の風が吹き通るように、明るく楽しい空気が広がるのだから。
 直接仕える女房たちだけでなく、雑色や婢女、門番までもが姫の武勇伝を聞き、微笑んでいるという。やれ、池で涼もうとして水に落ちただの、花を折ろうとして桜の木によじ登っただの、子犬を拾って飼おうとして、母犬に追いかけられただの。
 とてものこと、高貴な生まれの姫君がすることではないが、だからこそなお、貴重な宝玉である。右大臣方の若者たちに、聞こえよがしの陰口を浴びせられた時も、つまらない嫌がらせをされた時も、邸に帰って姫の顔を見れば、全て吹き飛んでしまう。
「とんでもない。誰だい、そういう無責任な噂を流すのは。きみまで、そんな噂を本気にしないでくれ」
 と、しらを切った。
 ここできちんと防壁を築いておかねば、姫の身が危ない。わたしが妻にする前に、他の男に忍び込まれでもしたら一大事である。
「しかしなあ。気になるじゃないか。天下の色男が、まるで掌中の珠のように慈しんでいるとは」
「いやいや、きみが興味を持つような相手じゃないよ。いずれ、それなりの婿が見付かるまでと思って、やむなく世話しているだけなんだから」
「それなら、わたしだって、婿の候補にしてくれてもよさそうなものだ」
 と頭の中将は言う。むろん、本気の申し出ではない。ただ、わたしを困らせるのが楽しいのだ。
「まさか、天下の左大臣家の長男にはふさわしくないよ。ほんの田舎娘なんだから。だいたい、きみは既に右大臣家の婿じゃないか」
「それは政治だ。恋愛は別。文くらい、差し上げてもいいだろう?」
 まったく、人のことは言えないが、男というのはどうしてこう、美女の噂に弱いのだ。
 確かに、あの子はいずれ、わたしの母上にも劣らない美女になるだろうが(母上は、楊貴妃にもなぞらえられる美女だったという)、今はまだ、面倒だから髪を切りたい、などと平気で言う幼さなのだ。せっかく、長く伸びてきた見事な黒髪なのに。
「な、本当のことを教えてくれよ。きみの想い人なんだろ。だったら、わたしも潔くあきらめる」
 とは白々しい。もしもわたしの愛人なら、あきらめるどころか、余計にそそられて、忍び込むつもりのくせに。
 それはまあ、わたしも彼の愛人を密かに横取りしたことがあるので、お互いさまというものだが。
 頭の中将の正妻に嫌がらせをされて逃げ出した、その美女――おっとりして愛らしかった夕顔ゆうがおは、わたしが連れ込んだ廃屋同然の空き家で、あっけなく急死してしまった。そのことを、わたしはまだ頭の中将に打ち明けられないでいる。
 何かの持病があったのだろうか、夕顔はまだ若く美しい盛りだったのに、信じられない事件だった。わたしが悪い。ささやかな冒険のつもりだったが、あんな寂しい場所に連れ出さなければ、手当ても間に合ったかもしれないのに。死なせてしまってからでは、どんな言い訳もできはしない。
 痛い思い出を脇へ押しやり、わたしは咳払いした。
「本当のところはだな」
「うん、うん」
「色が黒くてなまりの抜けない、遠縁の田舎娘だ。もう少し教養を身に付けさせて、田舎臭さが抜けてからでないと、恥ずかしくて、文に返事も書かせられないよ」
 本当のことなど、言えるか。姫がまだほんの子供の時に目を付けて、虎視眈々と狙っていた、なんて。それこそ、変質者扱いされてしまう。
 姫のお祖母さまの尼君にも、わたしの真剣さを信じてもらえるまで、ずいぶんかかったものだ。
 最初は、尼君の静養先の北山だった。
 ちょうど、兄君にあたる僧都そうずの元に身を寄せられていたのだが、わたしもまた、病後の静養のため、近くの寺に滞在していたのである。惟光を連れ、ふらりと散策に出た夕方、桜の下で駆け回って遊んでいる姫と、偶然に出会ったのだ。
 というより、好奇心で尼君のいおりを覗いていたわたしを姫が発見し、近寄ってきて、まじまじ観察してくれたのである。ついさっきは、雀の子を誰かが逃がしたとか言って、べそをかいていたくせに。
『お兄ちゃま、どこの方!? こんな綺麗な男の人、初めて見たわ!! まるで、噂の光君みたい!! 光君って、都で一番の美男なんですって!!』
 夕顔を亡くした痛手を引きずっていたわたしは、姫の元気さ、清らかな愛らしさにひどく驚き、目が醒める思いをした。
 明らかに、あの方の面差しを受け継ぐ顔立ち。
 身元を調べて、あの方の姪にあたると知った時は、天に昇る心地がした。まさしく、神仏のお導きに違いない。
 わたしは尼君のおられる僧坊にしげしげと通い、姫に手土産を渡して顔を売り込み、女房たちにも贈り物を積んだ。尼君が都の邸に戻られてからも、何度も通い、将来の縁組をお願いした。一生大事にしますから、どうぞ姫君を託して下さいと。
 しかし尼君には、丁重に謝絶されるばかりだった。
『有り難いお気持ちですが、そんなお話は、この子がもっと大きくなりましてから、改めてということに』
 無理もないことだが、幼い姫に対するわたしの打ち込みようは、いささか常軌を逸する、と思われたようだ。
 お付きの少納言にも、最初のうちは、
(まだやっと十歳の姫さまに、でれでれ、べたべたするなんて、この男、本当に正常なのかしら)
 という疑惑の目付きで見られていた。
(あの方の姪にあたる姫だから)
 と正直に言えないばかりに、余計な冷や汗をかいたものである。
 現在ですら、わたしが紫の姫を養育していることは、姫の父上の兵部卿の宮もご存じないこと。
 ありていに言えば、保護者である尼君が亡くなったどさくさに、わたしは姫をさらってきたのである。明日は父君の邸に引き取られるという、前の晩に。
 乳母である少納言も、最初は、やむなく姫に付いてきただけのこと。桐壺帝の息子であるわたしを、人さらいとして訴えることはできないからだ。
 ようやく少納言に信用してもらえるようになったのは、わたしが大勢の女房や女の童めのわらわを手配し、最上の品々で姫の周囲を埋め、手ずから書画や琴や琵琶を教えるようになってからだろう。
(どうやら、本気で姫さまを大事になさるおつもりらしいわ。それなら、ここに腰を据えてもいいかしら)
 と思ってくれたらしい。
 兵部卿の宮は、今なお、愛人に生ませた姫は行方不明と思っておられる。
 それでも、表立って騒ぎにしないのは、父君の側に弱みがあるからだ。少納言の話では、姫の母君は、嫉妬深く気の強い北の方にいびられ、そのために病気になって死んだのだという。
 それで兵部卿の宮は、
(おおかた、幼い姫まで苛め殺されてたまるか、と考えて、お付きの女房たちが姫を隠したのだろう)
 という風に解釈しておられるようだ。だから、こっそりため息をついて、あきらめておられる。
 宮中で何度もお会いしているのでわかるが、兵部卿の宮はお気弱な方だった。正妻と妾をきちんと仲良くさせることができなかったのは、やはり、男としての器量不足であろう。
 もちろん、わたしはその轍を踏まないよう、今から心している。いずれ、紫の姫を妻にしたら、きちんと兵部卿の宮にご報告するつもりである。悪質な人さらいとは違うのだ。
 ただ、姫が十歳の時点では、とても父宮から結婚の許可は得られないだろうと思ったまでのこと。
 わたしだって、姫を実質的な妻にするのはもっと後のつもりだったが、それを説明して、わかってもらえる気がしなかったのだ。
 姫本人は、父上の邸の片隅に押し込められ、継母にいびられるより、わたしの手元にいた方が、はるかに幸せなのである。
 最高の教育、最高の衣装、最高の食事。
 他の誰が、これほど姫を愛せるか。少し油断したら、馬で飛び出して行方不明になるおてんばを。
 去年の脱走騒ぎで懲りて、姫が馬に乗りたがる時は、わたしが付き添うだけでなく、腕の立つ舎人を何人か、馬で待機させておくようになった。姫が好きなだけ走っても、必ず誰かが追走し、きちんと誘導して邸に戻れるように。
 少納言は渋い顔だが、あの姫の場合、下手に行動を禁止するよりも、制限付きで認めた方が安全なのだ。外出禁止だの、乗馬禁止だのと言ったら、塀をよじ登ってでも脱走するだろうから。
 夜道をがたごとと進む牛車の中、
「あくまでも、ただの遠縁と言い張るか。まあ、そういうことにしておいてもいいが」
 信じない顔で、頭の中将はにやりとする。
「しかし、きみは六条の方とも長いだろ。あちらのご不快はどうかねえ。きみが自邸に女を置いているというだけで、あれこれと悪い想像をなさるんじゃないかねえ」
 首筋がひやりとした。
 六条の御息所みやすどころは、わたしに男女の仲のあれこれを教えて下さった方。
 わたしより一回り近く年上の貴婦人で、対等な恋人というよりは、わたしの母代わり、姉代わり、もしくは人生の師とでも呼ぶべき方だった。
 ご機嫌を損じると怖いが(冷たく、ただ一言だけ、ぴしりときついことをおっしゃる)、しかし、六条邸で歓迎されるということは、男の勲章である。女主人以下、美しく才気溢れる女房たちがずらりと揃っていて、格の高い客人も多く、季節の行事なども華やかに行われる。都の貴族や文人で、六条邸に憧れない者はない。
「あの方は、つまらないことで気をもんだりはなさらないよ」
 なさるかもしれないが、それはほとんど表に出さない。常に優雅で冷静。山奥の深い沼のように、底知れないところがある。わたしもこの方の前では、しばしば、物慣れなかった少年時代の気分に引き戻される。他所では恋の手錬れのふりができても、この方にだけは通用しない。
「さあ、それはどうかな。いくら教養高い貴婦人でも、女は女。光君の第一の恋人の座を他の女に奪われるとなったら、心の底は乱れているんじゃないかな」
 わたしの弱みをつつくことを、頭の中将は楽しんでいる。わたしがいなければ、自分こそが文句なく天下一の貴公子だという思いがあるのだろう。
 だからといって、我々は敵対しているわけではなく、むしろ、絶好の遊び仲間、張り合い仲間なのだった。同じ女性に同時に文を贈ったり、互いの恋人を盗もうとしたり。現在は、わたしの方がやや勝ち越している、というところだろうか。
「しかし、あちらにとって、わたしはほんの小僧だからね」
「おいおい、天下の色男に謙遜は似合わないぞ。どっぷり惚れられているという、もっぱらの噂じゃないか」
 わたしは勝利感を隠すための咳払いをした。
「ただの噂だよ、噂」
 実は、六条の御息所に惚れられているのは、事実だと思う。この都に、今を盛りの貴公子が何十人いようとも、あの方の厳しい基準に合格するのは、わたし一人だけなのだ。頭の中将も、幾度も文を出しては、軽くあしらわれている。
「色めいた付き合いというよりも、むしろ風雅の友……花につけ、紅葉につけ、情趣ある文の遣り取りを楽しんでいるだけだよ」
 頭の中将は、ふっと皮肉な笑みを浮かべた。
「ま、そうやって葵に言い訳するんだな。きみが月に何回、六条に通っているか、妹はちゃんと噂を集めて知っているぞ」
 わたしはつい、首をすくめてしまった。やはり、女は怖い。
 葵の上は誇り高い美女であるだけに、いったん機嫌を損ねてつんとされると、氷の塊を相手にしている気分になってしまう。六条の御息所よりは若いが、わたしよりは四つ年上なので、なおやりにくい。腹の底ではきっと、
(この若造が、いい気になって)
 と思っているだろう。
 もっとも、えいと覚悟を決めて、体当たりでその氷を砕いてしまえば、中身はそれなりに熟れた、場合によっては、熱いとさえ言える女なのだが。
 それにしても、他の女人にやきもちを焼く必要などないだろう。世間が認めるわたしの正妻は、葵の上ただ一人なのだから。

 左大臣邸に着くと、まず、篝火や釣灯篭つりとうろうで明々と照らされた釣殿つりどのに案内された。
「宮中の宴席では、落ち着いて御膳を召し上がるお暇がなかったでしょう。ささ、こちらでどうぞ、ごゆっくり」
 左大臣自ら、わたしの手を取るようにして、席に着かせて下さる。着飾った女房たちが酒を注いでくれ、山ほどの料理を勧めてくれた。頭の中将や異腹の兄弟たちも一緒に飲み食いし、琵琶や高麗笛こまぶえしょうが持ち出され、にぎやかな宴になる。
 わたしは母の顔を覚えていず、祖母とも早くに死に別れたので、こういう家庭の団欒というものに縁が薄い。ここへ来ると、つんけんした葵の上と向き合うよりも、男同士の気取らない付き合いの方が楽しいのだ。
 ついつい浮かれ騒いで過ごしてしまい、葵の上の待つ寝所へ入ったのは、かなり遅い時刻だった。
 今夜は、上品な荷葉かようの香りが焚きしめられている。ここには趣味のいい女房が揃っているから、薫物たきものの調合にも神経が行き届いていた。調度類も完璧なら、明かりの配置も申し分ない。難点はただ一つ、その中で待つ不機嫌な姫君である。
「遅くなって、すみません」
 とまず、高燈台たかとうだいに照らされた、豪華な衣装の後ろ姿に向かって謝った。
 こちらを向かないまま、無言で座っているのが怖い。左大臣も、北の方の大宮さまも、温厚で思いやり深い方々なのに、この姫だけ、途方もなく気位が高いのだ。
「つい、兄君たちとの宴席が楽しくて、酒を過ごしてしまい……あまりに酒臭い男ではご不快だろうと、気後れしてしまって」
 葵の上のご機嫌が悪いから、つい足が遠のく。するとまた、次に会った時、余計にご機嫌が悪くて気まずい。この人との間は、ずっとその悪循環が続いていた。もう少し優しく、にこやかに出迎えてくれれば、こちらも気軽に立ち寄れるのだが。
「わかっていますわ。女房たちとお遊びになる方が、気が張らなくて、お好きなのでしょう」
 顔を背けられたままの台詞だったが、少なくとも、しゃべってくれる気はあるわけだ。
「そんなことはありません。会えない時間には、いつもあなたのことを思っています。今日も宮中で引き留められまして、なかなか退出できず……本当はもっと早く、伺いたかったのですが」
 そろそろと近づき、やや強引に手を取った。教養の高い姫君であるから、無下に振り払うようなことはしない。ただ、長い黒髪と、幾重にも重ねた衣の袖に、顔を隠す身振りをするだけだ。
 嫌がるとか恥じらうとかいうよりも、この人の場合は、勿体ぶるのが高貴な女の正しい態度、と思っているらしい。お妃教育の、悪しき名残だろう。それは違う、男は素直な女が好ましいのだ、といくら説明しても通じない。
「どうか、お顔を見せて下さい」
 ぐいと引き寄せ、肩を抱いた。ひんやりする髪をかきわけ、白い顔を上げさせる。
 あれこれしゃべるよりも、押し倒した方が早かった。この人がつんけんしてみせるのは、高価なに埋もれている時だけで、いったん脱がせて覆いかぶさってしまえば、ぐんと素直になり、扱いやすくなる。わたしの妻になって、かなりの年月が流れているので、女としては熟れてきているのだ。これはさすがに、左大臣や頭の中将には言えないことだが。
 ところが今夜は、本気で逆らう身動きがあった。
「わたくし、今夜は気分がすぐれませんの。離れて寝ていただけませんか」
 これはやはり、大幅にご機嫌を損ねているらしい。六条の方のせいか、紫の姫のせいか。それとも、他の忍び歩きの噂を聞いているのだろうか。
「そう、つれないことをおっしゃらず。次はまた、公務や方違かたたがえで、いつ来られるかわからないのですから」
 本当は、来るつもりなら毎晩でも来られるが、この人の相手は疲れるのだ。紫の姫と遊んでいる方が、はるかに楽しい。
 それにまた、肉体の相性でいえば、六条の御息所との方が、より深いのだった。底無しの悦楽というのはこういうものか、と幾度も溺れて思った経験がある。それはつまり、あの方がわたしを、思う通りの男に仕込んだ、ということかもしれないが。
 とにかく、来た以上は義務を果たさねばならぬ。子供はまだかと、左大臣も楽しみにしておられるのだから。
「そんな、無理を押していらっしゃらなくても、結構ですのよ。あれこれお忙しいことは、よく存じていますもの」
 冷ややかに言う女を、問答無用で押し倒した。
「まあ。何をなさいます」
 何をって、よくわかっているくせに、なぜそう気取るかなあ。
「夫婦ですよ、わたしたちは」
 軽い抵抗を封じて袴の紐を解き、前をはだけさせ、胸に手を入れる。豊かで柔らかく、張りきった乳房だった。こちらの掌を押し返すような弾みがある。
 どの女人であっても、わたしはいつも、乳房の感触に感動するのだった。幼子に糧を与える、命の泉。男が安らげる古里。
 もしかしたらわたしは、自分の記憶にはない母上の胸を探っているのかもしれない。
 葵の上は恥じらうように顔を背け、目を閉じた。よし、このままいける。
「お言葉は冷たいのに、肌は熱いのですね」
 と、耳元でささやいた。その他にも、女をとろかす効力のある言葉をあれこれ。これまでの経験で、女がやや強引な、時には下卑た行為に弱いことはわかっている。
「だめです。やめて下さい。今夜は、本当に気分が……」
 そんな言い訳でひるんでいたら、天下の色男の名がすたる。
「苦しいのはどこですか。お楽にして差し上げますよ。さあ、わたしに任せて」
 こちらの動きに応じて、葵の上は頭を振り、のけぞり、長い髪を乱して身をくねらせた。元々、こういうことが嫌いではないのだ。ただ、后候補として育てられた誇りのため、素直になることができないのだろう。
『待っていたのよ。寂しかったわ。もっと来て下さらなくちゃ、いや。今夜はもう、離さないで』
 とでも可愛く言ってくれれば、こちらも、ここへ向かう足が軽くなるのに。
 ところが、調子が出てきたところで、いきなり、ぐいと押しやられた。
「どいて!!」
 わたしを突き飛ばしておいて、葵の上は、御帳台の外に半裸の半身を出す。異音が続いて、わたしはぎょっとした。胸の悪くなるような匂いもする。
 大変だ。どうしよう。何か、深刻な病気ではないか。
 慌ててひさしの間に転がり出て、控えていた女房たちに助けを求めた。たちまち騒ぎになり、たくさんの明かりが灯され、葵の上の母君の、大宮さまも駆けつけてこられる。
「まあまあ、どうなさったというのです。いつから、ご気分が悪かったのですか。我慢などせず、早く言うものですよ」
 わたしはどうしていいやらわからず、乱れた単衣ひとえ姿のまま、隅でうろうろしていたが、やがて、年配の女房たちがにこにこと報告に来た。
「ご心配はいりませんわ、光君さま」
「どうやら、おめでたのようでございます」
 えっ、何!?
 何だって!?
「明るくなりましたら、医師や陰陽師おんみょうじを手配いたしましょう」
「安産の御修法みずほうも、今からあちこちにお願いしておかなくては」
「これは、明日から忙しくなりますわ」
「何と嬉しい、おめでたいこと」
「さ、光君さまはお疲れでございましょう。こちらでごゆっくり、お休み下さいませ」
 塗籠ぬりごめに寝床を用意されたが、わたしは混乱し、しばらく呆然として、眠るどころではなかった。
 わたしの子供。
 子供が生まれるのか。
 わたしがまた、人の親になる。
 もちろん嬉しかったが(そのために何年も努力して、葵の上のご機嫌を取り結んできたのだ!)、素直に喜べない気持ちもあった。
 この子は、大勢に祝福されて生まれる。この左大臣家の皆に、可愛がってもらえる。わたしからも、できる限りのことをしてやれる。しかしわたしは、もう一人の子供とは、未来永劫、父子の名乗りができないのだ。
 世間の誰も知らないことだが、わたしは既に、一人の子供の父親になっている。その子はいま、宮中で東宮として育てられている。
 桐壺院の御子。
 藤壺さまの生んだ皇子。
 本当の父親が誰であるかは、わたしと、あの方と、密会に関わった王の命婦しか知らない秘密である。
 我々は、死ぬまでその秘密を抱えていくつもりだった。望んで、父上を裏切ったのではない。父上のお心を、傷つけたくはない。だからわたしは、葵の上に子供が生まれることを、心底から喜んでみせなくてはならないのだ。

「ええっ、赤ちゃん!?」
 紫の姫は、目を丸くした。
「お兄さまの子供!?」
「そうでなかったら困るよ。夫婦なんだから」
 わたしが苦笑で言うと、しばらく首をかしげて悩んでいる。もしや、どうしたら子供を授かるのかという、根源的な疑問をぶつけてくるつもりでは。
 乳母めのとの少納言には、その方面のことは、あまり教えないようにと指示してある。早くから余計な知恵を付けさせて、この無邪気さを損ないたくない。それはいずれ、わたし自身が実地で教えればいいことなのだから。
「どうしてそんな、難しい顔をしているの」
 と尋ねたら、真摯な返答。
「だって、お産て大変なことなんでしょう。それで、命を落とす人もいるんですもの。葵の上さまを、大切にして差し上げてね」
 思わず、じんとくる。何と素直で、気立てのいい娘なのだろう。わたしの育て方が良かったのだ、としみじみ嬉しい。
 本当のところ、男のわたしがじかに教え育てたことで、世間の姫君とはやや異なる姫に育ってしまったが、それはまたそれで愛しいもの。おてんばさえ除けば、ほぼ理想の通りに育っている、と言っていいのではないか。
「それにしても、痛いだろうなあ」
 緋色のはかまに隠れた自分の腹部に手を当てて、愛しい姫は深刻な顔をした。
「お臍から赤ちゃんが出てくるなんて、大変なことよねえ。お腹の皮が破けてしまわないのかしら」
 御簾の外側に控えていた惟光や良清が、ぷっと吹き出した。少納言や女房たちは、呆れ顔で上を見たり、横を向いたりしている。
(もうそろそろ、きちんと教えておかなくてはいけない時期なのに)
 と、少納言には、わたしの教育方針に不満があるらしい。
 いいではないか、もう少しの辛抱だ。姫はもう十四歳。あと半年か一年したら、晴れてわたしの妻。それまでは、汚れのない新雪のような乙女でいてほしいのだ。

 数日おいて、六条邸を訪問した。
 葵の上が懐妊したことで、どんな皮肉を言われるか、内心でつい身構えてしまう。むきつけに嫉妬する方ではないが、それでも、たまにちくりと刺されることはあるのだ。
 寝殿でわたしと対面した貴婦人は、美しい紅花べにばな染めの小袿こうちき姿で、斜め後ろに置いた大殿油おおとなぶらの明かりに照らされ、端正な白い顔を半ば影にしていた。
 くゆらせてある香りは、優しい侍従じじゅうであるが、この方に一番似合うのは、重々しい黒方くろぼうだと思う。華やかさや親しみやすさよりは、威厳の方が勝った理知的な美女である。このわたしでさえ、腹に力を入れていないと、気後れしてしまうほど。
「噂が聞こえて参りましたわ。葵の上さまがご懐妊とか。おめでとうございます」
 いきなりずばりと挨拶され、すっかり狼狽してしまった。
「いや、何というか、その、突然のことで。わたしもどうしていいか」
 しかし、向こうは悠然と微笑んでいる。
「ご夫婦ですもの、当然のことですわ。楽しみですことね」
 本当に、怒っていないのだろうか。
 本来ならば、わたしはこの方と、正式の結婚をしてもいいくらいの仲なのだ。
 むろん葵の上が正妻だが、第二の妻という扱いはできる。事実、この六条邸の女房たちは、揃ってそう期待しているのがわかる。
(貴族の殿方なら、複数の妻がいても当たり前ですもの)
(うちのお方さまとなら、申し分ないご縁組ですわ)
(いったいいつになったら、結婚を申し込んで下さるのかしら)
(左大臣家に遠慮していらっしゃるのでしょうけど、光君さまは帝の御子。ご意志を通されてよいはずですわ)
 という熱気が、邸内に濃く立ち込めている。誰も露骨な催促はしないが、取り次ぎの言葉の端々、もてなしの態度に、それは匂ってくるものだ。
 けれど、わたしには近々、紫の姫を妻にする心積もりがあるから、この方まで抱え込むことはしたくない。今のまま、最も深い仲の恋人でちょうどいいのだ。この方がそれで、納得して下さっている限り。
 御息所は桧扇の向こうで、艶然と微笑む。
「わたくしにも娘がおりますから、よくわかります。子供が一番の宝ですわ。生きる張り合いというものです」
 この方が、さきの東宮との間にできた姫を大切に育てていることは、わたしもよく知っている。
 実は、ここへ来る時は、その姫の気配だけでもうかがえないか、密かに楽しみにしていたのだが、いつも用心深く奥に隠されていたし、残念なことに、新しい斎宮いつきのみやに決まってしまい、手の届かない方になってしまった。口には出せないが、本当に惜しい。女房たちから洩れ聞く限り、実にゆかしく、愛らしい姫君らしいから。
「これで光君さまも、一門を背負う覚悟がおできになるでしょう。いよいよ、本腰を入れて、宮中のお勤めもなさらなくてはね。いつまでも、左大臣さまに頼りきりではいけませんことよ。長生きしていただけるように、ご負担を軽くして差し上げないと」
 これはいつも通りのお説教だが、温かく励まして下さる口調だった。どうやら、本気で祝福して下さるらしい。やや緊張が解けた。
「いやあ、これは。そんなに浮ついて、遊び惚けているようにお思いでしたか」
 と恐縮してみせる。
「聞こえてくる噂からは、そう思うほかありませんわね。あなたの冒険談だけで、物語が幾つも書けますわ」
 高雅な美女は、からかう微笑みだった。
「公務が後回しになるのも、無理はありませんわね。そうやって、都中の女に夢と希望を振り撒いていらっしゃるんですもの」
「いや、そんな」
 御息所は、嫉妬のふりで面白がっておられる。こういう余裕は、葵の上には逆立ちしても真似できない。
「お相手が幅広くていらっしゃる点が、また、女たちの期待にぴったりなのですわ。もしかしたら、自分の所へも、と夢が持てますもの。お祖母さまのような女官でさえ、相手にしていただけるんですものね」
 この邸には大勢の者が出入りするから、あれこれの噂は真っ先に入ってくるのだ。お色気たっぷりの老女、源典侍げんのないしのすけに翻弄された後も、女房たちのくすくす笑いで迎えられたものである。
 あの時は、頭の中将と二人して、彼女を取り合う喧嘩騒ぎを演じてみせ、モテるつもりで鼻高々のお婆さまを驚かせ、からかったつもり……だったのだが。
 噂が広まってみると、名前を上げたのは、あちらの方だった。若い男と噂になったというだけで、お婆さまの勝利だったのである。父上のお耳にも届いて笑われてしまったし、
まったく、歴戦の女性は侮れない。
「そう苛めないで下さい。過去の不徳は反省しますから」
 と頭を下げて頼んだ。
「ええ、よろしいですわ。これからの父親振りを期待しましょうか。遊び人は、いったん落ち着くと、いい父親になると言いますから」
 明るい声でそう言われると、わたしも何となくその気になってくる。
「実は、わたしも楽しみです。女の子だったらそうの琴を教えようとか、男の子だったら厳しく学問を仕込もうとか、あれこれ考え始めてしまって」
 御息所は頷かれ、人生の先達の態度でおっしゃる。
「どういう教育を授けるかは、大事な問題ですわ。しっかりした乳母も見付けないといけませんし。何といっても、乳母子めのとごとは、生涯の付き合いになりますからね」
 そう、わたしと惟光のように。夕顔が急死した時は、内密に済ませるしかない葬儀のために、彼がどれほど奔走してくれたか。
 わたしは衝撃で半病人になってしまって、馬に乗ればずり落ちるありさま、何の役にも立たなかった。紫のゆかりの姫に会えずにいたら、きっと今でも嘆きを引きずっていただろう。姫の女房たちに贈り物を積むのも、西の対を整えるのも、惟光の手配がなければ、もっと手間取っていたはずだ。忍び歩きに付き添ってくれるのも、内密の連絡を受け持ってくれるのも、心を許せる乳母子ならでは。
「ことに女の子は、難しいですわね。賢すぎるのも困りますが、頼りないのはもっと困りますし。教養や見識は高く、なおかつ、それをひけらかさないというのが理想ですけれど。これはなかなか……」
「そう珍しくもありませんよ。いつも見ています。あなたがまさに、女の理想でいらっしゃる」
 と笑うと、
「まあ。だとしたら、男の理想はどなた?」
 と向こうも笑いを含んだ声で応じてくれる。葵の上とでは、こういう会話の楽しさはない。
「もちろん、このわたしでしょう」
 と応じたら、華やかに笑われた。
「それはまた、しょってらっしゃること。浮名ばかりでなく、自惚れも都一でいらっしゃるわ」
「いやいや、冗談です。当代ではやはり、桐壺の院でしょう。わが父上ながら、お心が広く、穏やかで、慕わしいお人柄です。若手では、頭の中将かな。豪快で、頼もしい。彼はまだ、こちらに文を寄越していますか?」
 少しは嫉妬の気配を見せた方が、女心をくすぐるはず。
「ええ、折々に、季節の便りをね。大胆で、男らしい御手。なかなかの情熱家でいらっしゃるわ」
 と御息所も、悪戯な笑みを浮かべられる。わたしも笑って応じた。
「どうか、甘い顔をなさいませんように。油断なさると、忍び込まれてしまいますよ。あっと気付いた時には、手遅れです」
「ご自分がそうだから、人のことも疑われるのね。困ったお癖ですこと。まだ忍び込んでいないお邸が、この都にどれだけ残っていることやら」
「ひどいなあ。たまには失敗もしますけれど、わたしは元々、真面目な男ですよ。そうでなければ、ここに出入りさせていただけるはずがない。伊勢の斎宮さいぐうに立たれる姫のご実家に、不埒な者が出入りしては、神罰を蒙るでしょうから」
「あら、そういうあかしの立て方があるのですか。これはわたくしが、一本取られましたわね」
 御息所は、楽しげに笑われた。どうやら、葵の上のことも、紫の姫のことも、さしたる問題ではないらしい。
 それからしばらく、子育てについての話を聞かせてもらい、たいへん勉強になった。この方の所へ来ると、こうやって教わることが多い。
「あの、そちらへ寄っていいですか」
 頃合いをみて、いつものように甘えることにした。葵の上に対して、こんな真似は絶対にできないが、実はわたしは、この方の膝の上に頭を載せるのが楽しみなのだった。邪魔な冠を外し、焚きしめた香のいい匂いがする膝に甘えて、頭を撫でてもらうと、顔も知らない母上の元にたどり着いたような気がする。
 もっとも、この方ならば、誰かに意地悪などされたら、毅然としてやり返すだろうから、衰弱して病になる、などということはないだろうが。
「大きななりをして、子供のような方ね。もうそろそろ、本物の大人にならないといけませんよ」
 と優しく笑われるのも嬉しい。
「子供になれるのは、あなたといる時だけです」
 もちろん、それだけでは訪問の意味がないので、続きは御帳台の中でする。少年の頃のわたしに、あれこれと手ほどきしてくれたのは、生娘だった葵の上ではなく、更に年上のこの方だった。この方に教わった知恵のあれこれ、技巧のあれこれを、わたしは片端から他の女人で試して、更に磨きをかけてきたのである。
「あなたは、本当に、教え甲斐のある坊やだわ……」
「師匠の教え方がいいからですよ」
 その師匠がわたしの下で乱れ、頭を振り、長い黒髪を腕にからめ、声をこらえきれなくなるのが、わたしの誉れというもの。
 現在のわたしがあるのは、この方の薫陶の賜物、ともいえる。
 父上からは男の覚悟というものを教わったが、この方からは、女の秘密をあれこれと教わった。そのお返しとして、できる限り楽しんでいただきたいと思っている。この方の喜びはそのまま、わたしの喜びともなるのだし。

 明け方、満足しきってぐったりと横になっている貴婦人の側から、そっと身を起こして滑り出た。
 薄闇の中での身支度は、中将の君が手伝ってくれる。御息所の信頼が厚い、心利いた、美しい女房だ。この時刻でも、一筋の乱れもない姿をしているのはさすがである。
「女房の鑑だな。ありがとう」
 と労い、案内されて渡殿に出た。御息所から聞こえない所まで離れてから、顔を寄せてささやく。
「今度また、どこかでゆっくり会いたいな。宿下がりの時は、そっと知らせておくれ」
 中将は柔らかく微笑みはしたが、わたしの手はそっとはぐらかす。
「それより、こちらへ、まめにお運び下さいませ。葵の上さまのご懐妊のこと、お方さまはあれでも、気にしていらっしゃいますのよ」
「え、そうなのか?」
 いつも通り、余裕たっぷりのたたずまいだったが。
「当たり前ですわ。やはりまだ、女心がおわかりではありませんのね」
 と苦い微笑みを見せるのは、自分のことも含めて怨じているのか。
「辛い時こそ、毅然としてみせるのが、女の意地ですのよ」
 おい、やめてくれ。ここでもまた、意地だなんて。
「しかし、何もお気になさることはないのに。あちらの子供と、こちらのことは、別に関係ないのだから」
「そういうものではありません。あちらとのえにしが深まれば、その分、こちらへの足が遠のくかもしれませんもの」
 それはまあ、多少は、そういうことになるかもしれないが。
「それに、女はいつも、老いを恐れるものですわ。何かあればすぐ、自分の衰えにつなげて考えてしまいますのよ。年上の女の辛さ、物思いの深さ、お若い光君さまには、おわかりいただけないかもしれませんが」
 年上の辛さ、ねえ。
 では、もしかして、藤壺さまがわたしを避けようとなさるのも、一つには、それがあるのかもしれない。自分は年上だから、と。
 でも、わたしにとって、あの方は永遠の憧れ。これから何十年経っても、変わらず輝く日の宮≠ナいらっしゃるはず。
 帰りの牛車の中で、しみじみ考えた。六条の御息所が不安になっておられるのなら、なるべく足を運ぶようにするべきだろうな。
 しかし御息所は、わたしにとっては心の故郷のような方。わたしの師匠として、どっしり構えていて下さればよいのだ。すねてそっぽを向く女は、葵の上だけでたくさんなのだから。
 いや、でも、葵の上も、これから母親の自覚が出てくれば、頭の中将の言うように、もっと優しく、女らしくなってくれるかもしれない。
 それを期待して、まめに訪ねるとするか。何といっても、世間に祝福してもらえる子供としては、初めての子なのだから。

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