ブルー・ギャラクシー ミオ編

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ミオ編 16 探春

 パーシスの祖父の所有だという別荘は、なだらかな山地に囲まれた美しい中規模の湖に面した、何百軒かの別荘の一つで、貫禄のある丸太を組み上げた、古典的なログハウスだった。
「どうぞ、こちらの部屋を使ってください」
 先に着いて、掃除や料理の準備をしていたパーシスとタケルが、湖を見渡す二階の客室に案内してくれる。
「まあ、いい眺め」
 と、わたしは礼儀正しく喜んだ。実際に、青い湖水の対岸はなだらかな森林地帯で、空気がしんと澄んでいる。紅葉も、山の頂から中腹あたりまで降りてきている。
「いい所ね、来られてよかったわ」
「ほんと、天気もいいし」
 そう同意した紅泉は、あとはほとんどミオにつききりだった。ウィンナコーヒーとチーズケーキでもてなされながら、近くにある鍾乳洞の話、湖で釣れる魚の話、有名人の来る別荘の話などを聞いている。
 ミオが笑う度、紅泉を嬉しそうに見上げる度、わたしは胸がキリキリ痛む。
 知らなかった。紅泉が男性を口説くのを見るより、女の子に優しくする方がずっと辛いなんて。
 それは、わたしにとって、男性が嫌悪の対象でしかないからだろう。紅泉もそれを知っているから、いくらか遠慮する部分がある。でも、ミオは女の子だから、一緒に行動しても、わたしが不愉快になるはずがないと安心しているのだ。
 それは違うわ。男だろうが女だろうが、わたしは、わたしから紅泉の関心を奪う者が憎いのよ。
 他のことでは冷静な計算ができるのに、この一点でだけは、わたしは狂っている。
 でもまた、その狂熱がなかったら、わたしはたぶん、この世に生きていても意味がないだろう。
 他の誰が死のうが生きようが、どうでもいい。人類だって、滅びるなら、滅びて構わない。ただ、紅泉さえ、わたしといてくれるなら。
 もちろん紅泉は、人類が滅びることを望まないから、わたしもまた、ハンターの仕事に協力しているのだ……
「夕食はぼくらが支度しますから、散歩でもなさったら」
 という男性たちの勧めで、わたしたちは、三人で夕暮れの湖のほとりに出た。岸辺をたどる遊歩道の脇には、コスモスやロベリアや小菊の群落。桜、楓、黄櫨、花水木の並木が続く。白樺の林も美しい。
 ミオは白い小菊と、青紫のデルフィニウムを少し摘んだ。
「あとで、あなたの寝室に飾るわ」
 と紅泉を見上げて可愛く言う。わたしはお腹の底が焼けただれる気がしたけれど、知らん顔して、少し先を歩いていた。
 いつもなら、そういうことを言うのは、わたしの役回りなのよ。
 ただ、むくれているように思われてはしゃくなので、わたしも野草の花を摘みながら、散歩を楽しむふりをしていた。意地でもミオに、弱みは見せられない。あなたがどんなに甘えようと、紅泉のパートナーは、このわたししかいないのだから。
 空が赤く染まると、湖もそれを反射して薔薇色に輝く。周囲にぽつぽつと建つ別荘やホテルのうち、明かりがつくのは半分くらい。
「夏はもっと人がいるんだけど、今は中途半端な時期だから。本格的な紅葉には、まだ早いでしょ。冬になったらまた、スキーやスケートができるんだけど」
「いや、今の時期もいいよ。人が少ないのは静かでいい」
 紅泉とミオは、睦まじく話しながら遊歩道を歩いていく。時折、ミオがわたしに話しかけるのも業腹だった。
「ヴァイオレットさんは、スキーはお好きですか」
 わたしをそっちのけにしては、紅泉に、気の利かない娘だと思われるからだろう。
「いいえ、それほど。サンドラが山岳スキーをしている時は、ロッジで待っているわ」
 誰も下ったことのない急斜面で大滑降なんて、とても付き合いきれないもの。よく今まで、雪崩で死ななかったものだわ。クレバスに落ちたことはあるけれど、怪我もせず、自力で這い上がってくる人だし。
 そう話すと、ミオは目を丸くしている。
「サンドラって、そんな危険なことをするの」
「いやあ、ちゃんと端末ははめてるから。埋まったら、警察が掘り出してくれるよ」
 紅泉は、あははと笑う。ミオがますます、尊敬の眼差しになるじゃないの。いつでも救助に行けるように、用意万端整えて、ロッジで待機しているのは誰だと思うの。
 すっかり暗くなった空の下を別荘に帰り着くと、窓からは暖かそうな光がこぼれ、食堂には夕食の支度がほとんど出来上がっていた。青いシャツの袖をまくり、紺のエプロンをかけたパーシスが、パンを盛った籠をテーブルに置く。
「タケル、ワインは何がいいか、ご婦人方に聞いてくれ」
 自分はまた、厨房に戻っていく。パーシスがシェフで、タケルが助手であるらしい。
「彼は何でもできるのよ」
 とミオが自慢する。
「頭もいいし、スポーツ万能、料理も得意」
「唯一の問題は、タケルが恋人ってとこだな」
 と紅泉が笑う。できる男性を見ると、どうしても征服欲が湧くらしい。
 ミオは、仕方なさそうに微笑んでいた。愛されている本人は、自分の態度がミオを傷つけていることを、ちっとも理解していない。
「サンドラさん、地下にワイン蔵があるんですけど、一緒に見てくれませんか。ぼく、よくわからないので」
 とタケルが言うので、わたしたちはぞろぞろ降りていき、棚一杯のワインに感嘆した。パーシスのお祖父さまの趣味らしい。明らかに高価な品は避けて、手頃なテーブルワインを選ぶ。
 こんなことなら、お土産に何本か、いいワインを持ってくればよかった。急なお誘いだったし、ミオの方に気をとられていたので、ついうっかりして。どうせ、後で何らかのお礼はするつもりだけれど。
 わたしたちが食堂に上がっていくと、テーブルは完成していた。海老とサーモンのクリームパスタ、詰め物をしたローストポーク、チキンと野菜のグリル、トマトのファルシー、アスパラガスのサラダ。
 しかも、明かりは数箇所に置いた古風なオイルランプ。室内に陰影ができて、誰もが美男美女に見える。
「デザートには、焼き林檎とジンジャーケーキを用意してます。さあ、どうぞ」
 盛り付けは、男性の料理らしく豪快で、味もよかった。野菜は、通り道にある農場で買ってきたばかりだという。
「主菜はぼくで、デザートはタケル。二十人くらいまでのパーティなら、ぼくらだけで準備しますよ」
 とパーシスは笑う。
「いいなあ、料理のうまい男って最高。どっちか一人、あたしと結婚しない? 両方でもいいけどさ」
 紅泉は冗談を飛ばして陽気に飲み食いし、ミオがいそいそと世話を焼いた。パンを取ったり、ワインを注いだり、紙ナプキンを渡したり。
 紅泉が何かからかうと、ミオは頬を染めて喜ぶ。肌が内側から照り輝くような若さ。黒い瞳が、ランプの光を映してきらきら光る。
 あの、ふわふわした長い黒髪をつかんで、引き倒してやりたい。きれいな肌を、血が出るほど引っ掻いてやりたい。いっそ、また強姦されて泣き叫べばいいのに。
 そこまで考える自分に、自分で慄然とした。それがどんなに辛いことか、自分の身でよく知っているくせに。
 気をつけなければ。わたしの頭の中身を、もしも紅泉にのぞかれたら、本当に嫌われてしまうわ。
 でも、このくらいの冷酷さがないと、ハンター稼業に付き合えないのも事実。わたしが本当に、ただ優しいだけの女だったら、単純な紅泉なんか、とっくに違法組織の罠に落ちて死んでいるわ。

 夕食が済むと、片付けは家事用のアンドロイドに任せて、しばらく雑談をした。まだ寒いという気温ではないけれど、パーシスが暖炉に火を入れてくれたので、毛皮の敷物の上で、温かなオレンジ色の炎を眺められる。
「屋内で火を眺められるって、最高の贅沢ね」
 と、わたしは微笑んだ。
「人類の祖先はきっと、寒風の中で焚火を囲んでいたんでしょうからね」
 と安楽椅子でくつろぐパーシス。
「安全な小屋や洞窟で定住するようになるまでは、焚火だけが、獣から身を守る武器だったんでしょう」
「はるかな地球の物語だね」
 白いシャツに、薄手のカーディガンを羽織るタケルが笑った。
「その頃の夜は、本当に真っ暗闇だったでしょうね。闇に光るのは、獣の目ばかり」
 と、わたし。
「だから、月を頼りにしていたんでしょう」
 とパーシス。
「あんな大きな月を持つ惑星は、滅多にないものね」
「月のおかげで、人類は宇宙への足掛かりを築くことができた。まず、宇宙の神秘を解く手掛かりとして。そして、宇宙開発の第一歩として」
 パーシスが言うと、タケルが応じる。
「今の植民星でも、手頃な小惑星を引っ張ってきて、月の代用にしているもんね。空に月がないと、人類は満足しないんだね」
 その通り、地球から出発した人類は、どこへ行っても、そこで地球を再現しようとする。惑星に小惑星を衝突させて、自転周期を二十四時間に近づけたり、氷の塊である彗星核を幾つも落として、海の面積を広げたり。
 空気の組成を調整し、荒野に微生物や植物の種子を蒔き、動物や昆虫を放し、生態系が安定した頃に移民たちがやってくる。
 それでも近頃は、新しい植民惑星の開発はめっきり減っていた。人類はもう、必要なだけの新天地を手に入れたのだ。
 人口増加もほとんどないし、問題は、辺境との諍いだけ。
 それはもう、犯罪というよりも、『人類という種の分化』なのだと思う。古い人間の形を守り続けようとする市民たちと、遺伝子操作や機械との融合で進化しようとする辺境の住人たち。
 どちらが正しい、とは言えない。
 だから、どちらも選べるようにしておくのが一番いい。
 人間の形にこだわる人々は、いずれ、ネアンデルタールのように滅びていくのかもしれないけれど、それは仕方のないこと。わたしは当面、この姿で満足だわ。紅泉が、可愛いと言ってくれるから。
 その紅泉はといえば、近くのソファでミオの隣に座り、夢の農場で何を飼うかという、他愛のない話を親身に聞いてやっている。
 この、天然プレイボーイ。
 いちいち本気で女に優しくするから、女ものぼせてしまうのよ。もしも本当に男だったら、きっと歴史に名を残すプレイボーイになっていたわ。
 ――いいえ、それは違うわね。
 女だから、女の望むことがわかるのよ。そして、その通りに騎士を演じてやっているだけ。
 紅泉こそ、本当は誰より女らしいのだから。戦闘時には邪魔になる髪を、あえて長く伸ばしているのも、
(これ以上、男らしくなりたくない)
 という、ささやかな歯止めのようなもの。
 世界が平和になったら、紅泉は喜んで武器を捨て、美しいものだけを身にまとうだろう。いつでも走れる靴≠ホかりでなく、華奢なハイヒールも履けるようになる。今は、故郷の屋敷でしか、本当に安心することはできないから……
 そのうち、パーシスが裏山にある露天風呂の話をした。
「川に沿ってしばらく登ると、このあたりの別荘主が共同で管理している露天風呂があるんですよ。源泉に近いですから、豪快です。星もよく見えるし。みんな大抵、昼間に行くので、夜は誰もいませんけど」
 するとたちまち、体力のありあまる紅泉が関心を示す。
「夜でも、道はわかるかな?」
「ええ、川まで行けば、あとは一本道ですから。でも、途中は明かりがなくて、真っ暗ですよ。女の人が夜行くのは、怖いと思います」
 もちろん、紅泉が夜の山道を怖がるはずはない。たとえ虎が出ると言われても、恐れる必要がないのだもの。
「ライトがあれば大丈夫。ミオ、せっかくだから一緒に行こ。ヴァイオレットもさ」
 とんでもないわ。紅泉と二人ならともかく、ミオがいると、笑顔を保つのに疲れてしまう。顔がひきつるのが、自分でもわかるのだ。
 きっとミオには、わたしの悪意がはっきり伝わっているに違いない。わたしには、お義理でしか話しかけてこないもの。
「わたしはいいわ。二人で行ってきて」
 この別荘にも、小さいけれど、露天風呂を作ってあるというのだから。シルクのブラウスに丈の長いスカートという姿で、夜の山道など歩きたくない。
「じゃあ、行ってくるね」
 最初からジーンズ姿の紅泉は、道を知るミオを連れ、ライトを持って裏山に消えていった。残ったわたしに、パーシスがにっこりする。
「ヴァイオレットさんも、裏庭の風呂へどうぞ。単純な食塩泉ですが、温まりますよ。誰ものぞきに行く男はいませんから、ごゆっくり」
 二人とも、女性には興味ない、という意味らしい。
 だからといって、こういう男性が望ましいとも思わない。男同士で愛し合うのは、極度の女性蔑視の結果ということがある。女々しいものを拒絶して、そうなるのだ。別に、この二人がそのタイプと決まったわけではないけれど。
「ありがとう。入らせていただくわ」
 わたしはいったん客室に戻り、真珠のイヤリングと、お揃いの指輪を外してから、タオルとポーチを持ち、タケルに案内されて別荘の裏側に出た。母屋から続く渡り廊下の先に、小さいけれど、手入れの行き届いた脱衣所がある。
 丸いすべすべした岩を積んだ露店風呂は、その脱衣所を背に、山に向かって作ってあった。昼間なら、森と山の眺めが美しいだろうけれど、今夜は月がないので(植民者たちが、後から周回軌道に乗せた小惑星だけど)、地上はほとんど闇である。
 服を脱いで岩の床に降り、浴槽からこんこんと溢れるお湯の温度を確かめて、手桶にすくい、全身をざっと洗い流した。それからゆっくり、透明な湯の中に沈んでいく。
 いいお風呂だった。成分がきつすぎない。硫黄泉だと、目にしみるくらい強いこともあるから。
 手足を伸ばして、ゆっくり暖まった。
 一人では勿体ないわ。紅泉が帰ってきたら、夜中でもいいから引っ張って、もう一度ここへ来ようかしら。
 ミオにばかり構わないで。
 わたしの機嫌もとって。
 でも、そんなことを言ったら、まるで子供ね。
 わたしは子供の頃から、聞き分けのいい、大人受けのするいい子≠セった。気がついたら、そうなっていたのだ。だからこそ、思う存分暴れ回って遊ぶ紅泉がうらやましかった。警備犬と走り回ったり、三階から庭木に飛び移ったり、自転車で崖から滑り降りたり。
 一族の大人たちも、紅泉の無茶を叱りはするけれど、内心では、タフなお転婆ぶりに目を細めていた。次に何をやらかすか、密かに楽しみにしていたのに違いない。
 優等生は、つまらない。自分で自分を抑えてしまって、本当の望みが言えないのだもの。
 人にどう思われようが、自分のしたいようにする……その覚悟ができたら、人生はうんと楽になるのかもしれない。
 ううん、そうしたら、人の欲とぶつかって、トラブル続きになるのかもしれない。
 今度の件、唯一の救いといえば、紅泉は、ミオに同情しか感じていない、ということだろう。ミオもいずれ、それに気がつくはずだ。あきらめて、離れてくれればいい。
 わたしは片思いで構わない。ただ、紅泉の側にいられれば。
 ミカエルの時だけは、もう駄目かと絶望しかけたけれど……
 彼は、自分から身を引いてくれた。そのことにだけは、感謝する。紅泉はまだ時折、黙ってミカエルのことを考えているけれど。
 四、五人は入れる岩の浴槽で、わたしは一人、星を見上げた。余計な明かりがないので、本当に降るような星。白い雲のような銀河が、斜めに空を横切っている。
 いつも、あの星空の中を、紅泉と二人で飛び回っているのだ。こうなると、次の仕事が待ち遠しい。まさか、仕事にまでミオを連れて行くとは言わないでしょう。もし、そう言い出しても、良識論で反対できるし。
 木々の梢を涼しい風が渡り、顔をひんやり撫でた。躰が熱くなっているから、気持ちいい。
 紅泉はもう、山の源泉に着いたかしら。ミオとお湯の中で、いちゃついているかしら。あの子、本当に綺麗な躰をしているものね……紅泉だって、じっくり鑑賞したくなるかもしれないわ。
 その時、闇に沈んだ植え込みの向こうに、人の気配があった。木々のざわめきや、湯が流れる音に紛れているけれど、落ち葉や小枝を踏む、わずかな足音がわかる。
 あの二人の青年は、女の裸には興味がないはずだけれど。
 不審に感じた時、ヒュッと空気を裂いて、小さな何かが飛んできた。キャンプ用のライターか、小型バッテリーのようなもの。
 それがぽちゃりと、湯気の立つ水面に落ちた途端、強い電気ショックが走った。
 衝撃で、全身の毛が逆立つ。手足が突っ張り、心臓の鼓動が狂う。
 放電はすぐに終わったけれど、わたしが普通人だったら、たぶん即死していただろう。
 いったん跳ね上がったわたしは、大きな波紋を立てて水中に落ち、熱い湯の中に仰向けに浮いた。薄目を開けたまま。
「やった!」
 植え込みの陰から現れたタケルは、白いシャツを黒いセーターに着替えていた。最初から、計画していたことらしい。では、パーシスも共犯ね。
 まだ少年といっていい若者は、靴のまま濡れた岩の床に上がり、わたしの上体を乱暴に浴槽から引き上げた。お尻が縁の岩にこすれて痛いけれど、我慢するしかない。膝から下だけ、お湯の中に残る。気味の悪いしびれは残っているけれど、心臓は無事だった。もう数秒待てば、何とか動ける。
 この坊やたちが、わたしたちをリリス≠ニ見抜いたのだろうか。それとも、どこかの組織にそそのかされたのだろうか。どちらにしても、グリフィンが関わってくる。
 タケルはまた草むらに降り、闇の中から、手頃な石を抱え上げた様子。あれで、わたしの頭を潰すつもりだ。いつか、わたしが瀕死の男にとどめを刺したように。
 それを因果応報とあきらめる気は、少しもない。わたしはまだ、生きて人生を楽しみたいの。紅泉と二人でね。
 タケルが重い石を持ち上げて、わたしの横まで戻ってきた時、わたしは跳ね起き、彼の背中に蹴りを入れた。タケルが石を落としてよろめいたところで、首筋に手刀を打ち込み、昏倒させる。たとえ死んでも、わたしのせいではない。
 腕の端末で、ナギを呼ぼうとした。ところが、さっきの電撃で壊れている。脱衣所に入り、そこの通話画面で呼んだ。レンタルのキャンピングカーで、近くの路上に待たせてある。
「襲撃されたわ、司法局に通報して!! 犯人の一人はタケル・バーンズ。たぶん、パーシス・ウェインも共犯よ」
「了解しました。そちらの端末が機能停止した時点で、既に応援要請はしています。私もそちらへ急行中です」
 感情のない、おっとりした返答だけれど、安堵した。既に首都からも、地元警察からも救援が出発しているのだ。
 このあたりの道路は全面封鎖、市民は全て足止めされる。どれだけ仲間がいようと、グリフィンの援護があろうと、管理の行き届いた植民惑星からは、そう簡単には逃げられない。
「また、つい一分ほど前に、ミス・サンドラからの非常発信を受信しました。既に司法局にも伝わっています」
 紅泉も襲われたのね。ああ、そのはずだわ。パーシスの姿が見えないもの。
「サンドラ!!」
 紅泉の端末に通話しても、応答がない。どんな山中でも、電波は衛星経由で届くのに。まして、この別荘地なら、地上の電波塔だけで届くはず。
「ミオ!!」
 ミオの端末もだめ。表示を見たら、受信側の故障とある。これはもう、一刻の猶予もない。
 わたしはタケルの呼吸を確かめることもせず、濡れた躰にブラウス一枚を羽織った。
「武器を持って追ってきて!!」
 とナギに命じる。あとはサンダルだけ履いて、暗い山道に飛び出す。
 無事でいて。
 無事でいて。
 紅泉一人なら、むしろ安心なのだ。でも、今夜はミオがいる。あの子が足手まといになっていたら、許さないから。

17 紅泉

「片道一キロ近くあるのよ。明日にすればいいのに」
 ミオは呆れたように言うが、それでもあたしが行きたいと言うと、露天風呂への案内役を引き受けてくれた。
 あたしはとにかく、躰を動かしたい。ドライブや湖畔の散歩程度では、あたしのエネルギーは消化しきれない。本当は、ミオをかついで走っていってもいいくらいだ。
 二人それぞれにペンライトを持ち、別荘の裏手の山道を登っていった。強化された視力を持つあたしは、星明かりだけで平気だが、そうと認めることはできないし、ミオには明かりが必要である。
 建物が見えない場所まで来ると、頭上に木々がかぶさる小道は、ほとんど闇だった。木々が風に揺さぶられ、ざわざわいっている。
「わたし一人だったら、怖くて絶対来られないわ」
 とミオは肩をすくめて言う。
 しかし、あたしにはその、夜道が怖いという感覚がよくわからない。ジェットコースターにしろ、お化け屋敷にしろ、本物の戦闘のスリルとは比較にならないではないか。
「熊とか虎とか、出るわけじゃないでしょ」
 出たところで、脅威ではない。あたしが石ころを拾って投げれば、銃で撃ったのと同じ結果になる。野生動物をやたら殺してはいけないので、逃げられる限りは逃げるが。
「それは、いないと思うけど……猪はいるわよ。いつか見たもの。それに、もっと奥に入れば、狼もいるんですって」
 人間が入植する星では、地球型の生態系を再現してあるから、大型の肉食動物も、一定の数は生息する。草食動物だけでは、自然界のバランスがとれない。
 それにまた、人類自身も増えすぎないように自制している。
 個人が意図して子供を減らそうとしているわけではないが(子供好きな男女は、何人でも生んでいる)、子供を持たない独身者も多く、自然に増減のバランスが取れているのだ。
 かつて、地球上で人口爆発を起こした反省が、無意識の領域に染みついているのかもしれない。この銀河もまた、有限だからである。他の銀河に溢れ出してもいいが、そこには他の文明が存在しているかもしれない。
「大丈夫、猪が出たら捕まえて、明日は焼き肉パーティにするから。お腹に野菜ともち米を詰めて、丸焼きにすると美味しいんだよ。あとは、猪鍋だね」
「もう、サンドラったら」
 ミオは冗談と思ったらしいが、あたしは半分、本気である。年に一度、ナイフ一本で山籠もりをして、野生の勘を研ぎ澄ます時は、猪も捕まえるし鳥も落とす。文明生活の垢を落として、原始人に戻るのが気持ちいい。
 それをしないと、いくらあたしでも、文明生活に馴れてしまって、戦士としての勘が鈍ってしまうから。
 目隠しをして、盲目状態で過ごす修行もする。最初はあちこちぶつけたり転んだりするが、半日もすれば、ちゃんと勘が働くようになるのだ。一人で獣道を歩くことも、川で魚を取ることもできるようになる。
 もっとも、それで大きな事故がないのは、探春とナギが付き添っていてくれるからだけど。
「夜の山なんて、探険みたいで面白いじゃない」
「サンドラが楽しいなら、それでいいけど……」
 ミオは何か、沈んでいるようだった。あたしとしては、精一杯、笑わせたり、楽しませたりしてきたつもりなのだが。
「どうしたの、何か心配?」
 立ち止まって尋ねたら、ミオはライトを足元に向けたまま、顔を曇らせている。
「あの、わたし……」
 何かもじもじ、言いにくそうだ。
「何なの、言ってみれば? 別にあたしは怒らないから」
 ミオはためらった挙句、口を開いた。
「わたし、ヴァイオレットさんに嫌われていると思うの」
 あたしはやや、虚を突かれる。そこが問題なのか。
 それはまあ、ミオを歓迎していないのは確かだ。でも、それは、あたしたちが正規の市民ではないという事情があるから。もしもミオがあたしたちの正体を知り、家族や友達に何か洩らしたら、と探春は心配しているのだ。
「あのね、別に、嫌ってるわけじゃないよ。ただその、長いこと二人で暮らしてきたものだから、他人が交じるのに慣れていなくてね」
 しまった。ミオの顔が更に暗くなる。ああいうことをした後で、他人と言われては、確かにショックかも。
「ごめん、今のは失言」
 あたしはミオを抱き寄せ、あごの下に手を当てて仰向かせ、さくらんぼのような唇に軽いキスをした。
 探春が見たら怒るだろうけれど、半端な同情≠セからまずいのだ。どうせ同情するなら、徹底して、本格的に≠キればいいわけでしょ。
 半年でも一年でも、ちやほやしてやればいいのだ。そうすれば、ミオは若くて健康なのだから、段々と回復して、本来の生活に戻れるはず。
「もう他人じゃないよね、大丈夫、わかってる」
 すると、ミオはぎゅっと抱きついてきた。長い髪から、ほんのり甘い香りがする。
「ごめんなさい。迷惑かけて」
 迷惑といえば迷惑なのかもしれないが、さすがにそうは言えない。ミオに落ち度はないのだ。なまじ可愛いために目をつけられ、寄ってたかってぼろぼろにされた被害者。
 それが、あたしに対して幾度も謝るのでは、かえって可哀想ではないか。
「ミオはそんな心配しなくていい。こうして、あたしがついてるでしょ。好きなだけ、あたしに甘えていいんだよ」
 内心で、ヤバイかなと思いつつ、あたしはそう言っている。
 あたしが男なら、このままミオを恋人にしてもいいだろう。けれど、女であるあたしは、ミオに恋愛感情を持つことはない。これは、迷子を保護するようなもの。
「それじゃ、あの、今夜も一緒に寝てくれる?」
 ミオがおずおず言うので、あたしは微笑んだ。
「もちろん、抱っこして寝てあげるよ。でも、今夜は声を抑えてね。外に洩れたら、みんなびっくりする」
 すると、ミオは狙い通り、
「いや、そんなこと言わないで」
 と身をすくめて恥ずかしがる。男の気持ちがわかるなあ。恥じらう女の子というのは、つい苛めたくなるものだ。
「いや、昨夜ゆうべの乱れ方はすごかった。自分で覚えてる? 何度も、殺されるみたいな声をあげたよ。ミオは感じやすいんだね」
 すると、可愛く小さな悲鳴を漏らす。
「だって、だって、あれはサンドラが……」
「ちょっと触っただけで、すごく反応するんだもの。こっちが驚いた。おかげで、触り甲斐があったけど」
「いや、もう言わないで」
 と顔を隠して背中を向ける。いまにも泣きそうだ。
「じゃ、今夜はしなくていいの?」
「知らない、いじわる」
 うーん、我ながら、恥ずかしいことをやっている。
 潔癖な探春が見たら、それこそあたしを軽蔑するかも。
『あなたとは長年の付き合いだけど、そこまで悪乗りする人とは知らなかったわ』
 なんて。
 まあ、これはミオのリハビリだから、と自分で言い訳する。日にちぐすり、と言うではないか。こうやってふざけているうちに、時間が過ぎればいいのである。

18 パーシス

 何をやってるんだろうな、まったく。
 暗い山中に先回りして、ぼくたちは準備を整えていたが、ミオとサンドラは山道の途中で立ち止まり、何やらいちゃついているようだ。登山用の暗視ゴーグルで見ていると、キスしたり、抱き合ったりして、一向に道の先へ進まない。
 まさか、罠の位置まで行かないうちに引き返す、ということにはならないだろうな。既にタケルがヴァイオレットを仕留めているのだから、サンドラはここで倒さなくては。
 それにしても、リリス≠フ主力と言いながら、呑気なものだ。グリフィンからの資料では、純然たる男好きということだったが、女もいけるらしい。
 柔軟性があるというのは、しぶとい証拠だ。
 ぼくは昼間、サンドラとヴァイオレットの両方に、血圧降下剤入りのウィンナコーヒーを飲ませていた。祖父母のための常備薬である。あの量なら、ただちに脳貧血状態になって、ふらつくはず。
 だが、二人とも何ともなかったのだ。薬を飲まされたことにすら、気づいていない。
 間違いなく、違法強化体。それが市民社会で探偵を名乗っているなら、リリス≠ノ間違いない。
 グリフィンの代理と名乗った男にも、そう保証された。幸運な出会いだ。懸賞金制度の元締めという後ろ盾を得れば、怖いものはない。
 辺境のどこかで基地を築き、適切な不老処置を選び、バイオロイドの美女や美少年をかしずかせ、『永遠』を楽しむことができるのだ。自分で自分を改造し、進化させていけば、何億年の命でも望めるのだから。

19 ミオ

 サンドラが一緒だと、暗い山道でも躰がほかほかする。
 ヴァイオレットさんのことは、あまり気に病まないことにしよう。サンドラは、わたしが救いを求める限り、応えてくれるのだもの。それがいつまで続くかなんて、今から心配していたら、身が保たないし。
 心配なことは、何でも率直に聞けばいいのよ。サンドラなら、できることはできる、できないことはできないと、はっきり答えてくれるわ。
 動きやすいミニスカートとレギンスという格好で、再び夜道を歩きながら、わたしは気掛かりだったことを尋ねてみた。
「あの、聞いてもいいかしら……あなたが次のお仕事に行ったら、わたしはどうすればいいの。一緒についていけるのかしら」
 うーん、それは、とサンドラも悩むらしい。
「仕事によるなあ。辺境に出ることもあるし、違法組織とドンパチもあるし」
 わたしは驚いた。サンドラは、本当に精鋭の捜査官なのだ。軍の艦隊でさえ、滅多に中央星域からは出ないというのに。
「それじゃ、違法都市に行ったりもするの」
「えー、まあ、逃げた犯人を追う時とか、誘拐された市民を助ける時とかね」
 ますますびっくり。
「そんなことしてるの、リリス≠セけかと思ったわ。普通の捜査官も、辺境に行くなんて」
 サンドラは肩をすくめた。
「そりゃ、リリス≠セけに、全ての事件を任せるわけにもいかないでしょ。本来は、軍人や司法局員のすることなんだから」
「それはそうよね。でも、それなら、リリス≠セけを英雄扱いすることないのに。サンドラだって、ヴァイオレットさんだって英雄だわ。他の司法局員も」
 するとサンドラは照れるのか、頭をぽりぽり掻いてよそを向く。
「まあ、司法局としては、わかりやすい看板スターがいてくれた方がいいんだ……違法組織の恨みも、そっちへ向くわけだし」
「あ、そうね。普通の司法局員が恨まれるより、その方がいいわよね。リリス≠ヘきっと、家族なんかもいなくて、身軽なんでしょうから」
 サンドラは、よそを向いたまま咳払いした。
「とにかく、あたしが仕事で出掛ける時は、ミオは家族と一緒にいてくれた方がいいな。その方が、あたしも安心だし」
 この星で待てというの。これまで通りの生活をして。それは、待てと言われる限り待つけれど、やっぱり寂しい。
「お仕事中は、通話もなるべくしない方がいいんでしょ? 休暇になったら、会いに来てくれるの?」
 つい、声が震えてしまう。
「それはそう、もちろん会いに来るよ……まとまった休暇が取れたらね」
 サンドラは軽く言うけれど、その話ばかりは信用できない、と思った。だって、サンドラは、まだ仕事が終わらなくて、とか、まとまった休みが取れなくて、とか、わたしに言い訳することができる。
 側にいるヴァイオレットさんが、そう言わせるのではないだろうか。
 いったん遠く離れてしまったら、わたしに会いにきてくれる頻度は、みるまに低下するに違いない。
 恋愛はやはり、近くにいる者の勝利だ。ここはやはり、少しくらい無理でも強引でも、自己主張しなくては。
「あの、わたし、あなたについていきたいの。たとえ辺境に出るような任務でも、できる限り一緒にいたいわ。違法都市へ行く時でも、船の片隅に乗せてください。でないと、あなたといられる時間なんて、ほとんどないはずだもの。七夕みたいに、一年に一度だけなんていや」
 サンドラの腕にすがり、下から見上げて頼んだ。
「わたし、邪魔にならないよう努力するわ。今から捜査官になるなんて無理だけど、あなたの助手が務まるくらいには勉強します。銃だって撃てるようになるわ。取れというなら、パイロットライセンスだって取るし」
 サンドラは、返事に困るらしかった。明らかに、わたしには無理、と思っている。
 それに、資格のない者を捜査活動に同行することは、もちろん望ましいことではないだろう。その結果、捜査に支障が出たら、サンドラの責任問題になってしまう。
「ミオ、それはね、今からそんなに思いつめなくていいことだよ」
 やはりサンドラは、なだめる態度で言う。
「ミオには元々、農場を作る夢があるでしょ。それは、とてもいいことだと思うな。あたしが時々、そこへ訪ねていくという形が、一番いいのかもしれないし……」
 それが良識なのは、わかる。わかるけれど、待てない。
「時々って、何年に一度? 休暇ごとに、絶対来てくれる保証がある?」
「いや、それは……」
 サンドラを困らせてはいけない。それはよくわかっているけれど、食い下がらないと、わたしは置き去りにされてしまう。サンドラにとって、わたしはまだ、同情の対象にすぎないのだもの。
「ま、ま、歩きながら話そう」
 サンドラはわたしの手を引き、また山道を歩きだす。
「止まってばかりいると、夜が明けちゃうからね」
 わたしが仕方なく歩きだすと、サンドラは手を放した。わたしより少し前を歩きながら、子供を諭すように言う。
「ねえミオ、次の仕事がどの星になるか、この休暇がいつまで続くか、あたしにもわからないんだ。だから、何も確かなことは言えない。ただ、次の仕事が終わった時にまだ生きていたら、ミオに連絡を取る。それだけは約束するから」
 まだ、生きていたら?
「そんな言い方、しないで。怖いわ。サンドラ、いつも、死ぬかもしれないと思って生きてるの?」
「そりゃ、そうだよ。そういう仕事だもの」
 だめ。
 いや。
 一人で危険な所へ行かないで。
 ああ、違うわ。ヴァイオレットさんが一緒なんだ。あの人は、どんな時でも一緒について行くんだわ。だとしたら、わたしなんか、ヴァイオレットさんの百万分の一も『大事な存在』になれない。
 その時、足元に違和感があった。この道、少し窪んでいる。前来た時は、もっと平らだった気がするけれど。
 いきなり、ドンと何かが吹き飛ぶような音がして、闇の中から液体が降りかかってきた。得体の知れないものが、頭にも肩にも、腰にも脚にも降り注ぐ。
 それがみるまに粘つき、足にからみついてきた。腕もこわばる。髪が固まる。地面に落ちたライトが、そのまま粘着質の池に埋められていく。
「何、これ!?」
「ミオ!!」
 少し離れていたサンドラが、わたしに手を伸ばしてきた。その瞬間、視界が赤くなる。
 わたしたちは、燃え上がる炎に包まれていた。

20 紅泉

 ――基礎工事用の凝固剤か!!
 専用のタンクから放出されると、空気に触れて、すぐさま固まっていく。通る者を感知したら、吹き出す仕組み。
 どこかでリリス≠ニ知られたようだ。一千億クレジットの懸賞金が手に入ると思えば、普通の市民でも、司法局の捜査官でも、トチ狂って不思議はない。
 それでも、反射的に飛び退されば、まだ間に合っただろう。しかしあたしはミオを抱えて飛ぼうと考え、振り向いて手を伸ばしたのだ。
 そこへレーザーの一撃が飛来し、あたしの右腕を肘の下で吹き飛ばした。おまけに、その熱で液体燃料が燃え上がる。凝固剤に混じって、降り注いでいたのだ。
 オレンジ色の火炎に包まれ、ミオは悲鳴をあげた。足がねばついて、逃げられないのだ。みるまに服や髪が燃え上がり、全身が炎の柱となる。肌が焦げ、呼吸ができない。息を止めていなければ、喉も肺も焼けてしまう。
 ただ、あたしはまだ冷静だった。右腕を失ったのは不利だが、負傷には慣れている。子供の頃、超切断糸の練習をしていて、自分の腕を切り飛ばしてしまったこともあるのだ。
 呆れ顔のお祖母さまにきつい厭味を言われ、心底腹が立ち、より一層、真剣に練習するようになった。おかげで二度と、切断事故は起こしていない。
 左手首の端末に向かい、炎を吸い込まないようにしながら、
「緊急事態!!」
 と叫んだ。それで、司法局に通じるはずだ。
 念のため、息を止めたまま左手でイヤリングをはずし、金の台座についたサファイアをひねった。これは単純な『一回きり使用』のパルス発信機だ。ハンター・コードを含んでいるから、近くの通信塔や上空の通信衛星に探知され、ただちに一部隊飛んでくる。ナギも近くに待機させてあるから、すぐ動く。
 中央の植民惑星は、こういう管理態勢が整っているのがいい。ひとたび凶悪事件となれば、道路は封鎖され、宙港は厳戒態勢になる。あらゆる市民の挙動は、各自の端末を通して当局に把握されるから、犯人は逃亡のしようがない。よほどの大組織でも、味方につけているのでない限り。
 ただ、助っ人が来る前に、もう一撃、レーザーが来たら。
 あたしはこわばる躰を強引に曲げ、足を引き抜こうとした。しかし、固まりかけた凝固剤は厄介である。
 すぐ横では、ミオがパニックを起こしてもがいていた。半ば固められて動きが不自由なのに、無理に動こうとして、自分を余計に痛めつけている。
 再び閃光が走り、今度はミオの左の脇腹が吹き飛んだ。ミオはぎくしゃくと倒れ込み、なおもがく。その動きが弱まっていく。
 なんだ、この狙撃手は。下手くそにもほどがある。
 狙いはあたしのはずだ。レーザー照準は、炎の中の標的には、あまり役に立たないかもしれないが。
 どうも、かなりの距離をおいているらしい。あたしの超切断糸が怖いのか。だから、最初に利き腕を狙ったのか。
 またレーザーの一撃がかすめ、あたしの背中を焼いた。肉がえぐられて、ちと痛いが、どうせ既に全身、こんがり焼けている。
 それよりも、膝の少し下までを埋めている凝固剤が、完全に固まった。ありがたい。固体なら破壊しようがある。
 あたしは地面まで突き通す勢いで、左の拳を打ち込んだ。ビルの基盤に使われる強靭な素材だが、安定するまでには時間が必要だ。大きくひびが入り、次の一撃で、左右の足を抜くことができる。
 ただちにミオの足許へ飛んで、また左の拳を一撃。凝固剤が割れて砕ける。もう一撃で、足を抜いてやれる。
 あたしは左手だけでミオを肩にかつぐと、息を止めたまま、全身を焼く炎を連れた状態で、大きく飛ぶ。
 炎が後方に流れた一瞬に、一度だけ素早く呼吸する。
 腕や膝の動きを邪魔する凝固剤のまといつきは、あたしの強引な動きのためにひび割れ、砕け落ちていった。おかげであちこちの皮膚が裂けたが、火傷に比べればかすり傷だ。
 小道からはずれた草地に入り、小枝をバキバキ折りながら、木々の間を走り抜けた。前方に小川があるはずだ。自分自身が燃える松明となっているので、夜の山中でも周囲は明るくなる。ただし、目はあまり開けていられないが。
 木々の間で、一段低くなった小川を認めると、まず罠の気配を探り、大丈夫らしいと判断して、冷たい水中に飛び込んだ。さして深くはないが、ミオを抱えて全身を流れに沈めることができる。ほんの十秒で十分だった。皮膚についた燃料を、冷たい清水が洗い流してくれる。
 水面に顔を出し、やっと安心して呼吸ができるようになった。
 まったく、こんな美女を二人も焼くとは、天罰が当たるぞ。あたしがこれから当ててやるけど。
 ミオが咳き込み、血を吐いたが、現代の医療技術なら、即死でない限り助かる。
「もう大丈夫。この程度じゃ死なないから」
 流れる水の中でミオを支えながら、なるべく穏やかな声で言う。ミオはいくらか、ほっとしたようだ。しかし、あたしはこのまま水に浸かってはいられない。
「犯人を捕まえる。ここにおいで。すぐ助けが来るからね」
 ミオの肩から上だけを、川原の草の上に横たえた。左手だけしか使えないので、いささか乱暴だったかもしれないが、許してもらおう。
 本当は、息の続く限り、全身を水中に浸けておく方がいい。頭部の火傷がひどいのだ。しかし、ミオが気絶してしまったら、そのまま溺れ死んでしまう。頭だけは岸にある方がいい。
 あたしは焼け焦げた服を裂き、何とか右腕の止血をすると、身を低くして川から離れた。全身を刺す痛みよりも、狩りの興奮の方が強い。
 どこかの馬鹿が、このあたしに挑戦したのだ。思いきり、身の程を思い知らせてやらなくては。

21 ミオ

 顔中ずきずき痛くて、目が開かない。地面を伝わる足音で、サンドラが走り去っていくのがわかった。引き留めたかったけれど、喉が焼けていて声が出ない。左の脇腹からは、じくじく血が流れているのがわかる。
 一人にしないで。怖い。ここに犯人が来たら、どうするの。
 次の瞬間、胸をえぐられるように理解した。サンドラは、ヴァイオレットさんの所へ行こうとしている。
 馬鹿なわたしは、あの二人の間に割り込めると思いたかった。つきまとっていれば、情が移るはずだと計算して。
 でも、サンドラは、そんな甘い世界では生きていなかったのだ。

22 紅泉

イラスト

 あたしが襲われたということは、当然、探春も危ない。でも、探春は用心深いし、ナギも近くにいる。あたしが行くまで、きっと無事でいるはずだ。
 あたしたちを撃ったレーザーの飛来した方角は、およそわかっている。まず、その狙撃手を始末しよう。次の攻撃を待っているより、こちらから出向いた方が安全だ。
 切断された右腕は痛むが、レーザーの高温のおかげで、出血はかなり食い止められていた。それに、すぐ治癒が進む。細胞分裂が促進され、切断された動脈はふさがれ、新しい毛細血管が静脈との間をつないでいくはずだ。
 麗香姉さまは、あたしに最高水準の肉体を授けてくれた。焼けただれた皮膚はもう、凄まじい勢いで再生し始めている。さすがに、腕は生えてこないけど。それは、後で治療すればいい。
 下生えの中を勘で移動するうち、ぶんという、かすかな羽音を聞いた。まだよく見えない目を閉じ、耳だけで音源を捉える。山籠もりで、さんざん修行してきたことだ。あたしから一定の距離で飛び回っている。自然の昆虫ではない。
 舌先で、左手首の腕輪を舐めた。粘着剤がついて盛り上がった部分を、歯でかじり落とす。でないと、糸の射出口がきちんと出てこない。まあ、だめなら石を投げるだけだが。
 音声で安全装置を解除すると、ちゃんと反応した。左手を軽く振り、超切断糸を放って空中で羽ばたくものを両断する。おそらくは、ロボットの偵察虫。
 左手だと、右よりやや不器用なのだが、近くに狙撃手の味方がいない限り、問題はない。もう一匹、同様に仕留められた。他の羽音はない。これで多少は、こちらの動きを隠せる。
 凝固剤の池の上には、依然オレンジ色の炎が上がっていて、周辺の木立を照らしていた。その光を避けるように闇の中を走り、やがて前方の岩場に、一つのかすかな反射を見る。
 あいつが狙撃手だ。
 岩と岩の隙間から、そっと頭だけ出して、あたりをうかがっている。偵察虫を失い、困っているのだ。
 頭や肩の輪郭からして、男。彼のかけている暗視ゴーグルが、炎を反射してわずかに光ったのだ。
 しかし、ここからでは岩が邪魔で、糸が正確に届かない。石を投げようかとも思ったが、その前に、頭が岩陰に引っ込んでしまう。
 低い声が、かすかに聞こえた。端末で、誰かとしゃべっている。やはり、どこかに共犯がいるのだ。では、早く始末しないと。
 右腕がないので厄介だったが、それでも音を立てないよう、素早く移動した。斜面に生えた木々の間を抜け、うまく男の背後に回る。いい体格だが、無防備な背中。
 太い立ち木の陰から、左手で超切断糸を振るった。木々のせいで左右には動かしにくいので、上下方向に。
 岩にはまりこむようにしゃがんでいた人影は、上から下に通った凶器のおかげで、左右に割れ、多量の血液を噴いて倒れた。
 誰だ、こいつ。
 左右を警戒しつつ、大岩の並ぶ草地に出た。星しかない夜だったが、視力が回復しつつあるので、内臓をこぼして倒れた男の、ずんぐりした輪郭はわかる。片方の半身を仰向けにさせ、割れたゴーグルをのけて、素顔を確かめた。
 ダークスーツ姿の三十男。サミュエル・ベイカー捜査官。
 愕然とした。妻子がいるというのに。
 あたしを殺して辺境に逃げ延び、一千億を手にするつもりだったのか。それとも、誰かに利用されたのか。
 しかし、頭部まで二つに割ってしまった後では、治療や蘇生は不可能だろう。いつものあたしの視力なら、切断する前に、後ろ姿だけでわかったかもしれないのに。
 しかし、その数秒の、動きが止まった隙をつかれた。闇を裂いて、高温のパルスが飛ぶ。焼け残りのジーンズに包まれた左膝を、レーザーの一撃で砕かれた。
 強化体といえども、千度を越す高温にはかなわない。消し飛んだ膝から下、ぼろぼろになったサンダルと靴下履きの足は、草の上に落ちて転がる。
 しかし、それで狙撃手が気を抜いたのが間違いだった。あたしは倒れ込む前にバランスを回復し、残された右足だけで地面を蹴る。巧く跳躍して、木々の中へ飛び込みつつ、素早い一瞥で、四、五十メートル離れた木々の奥にいた狙撃手を認める。
 やはり男。ゴーグルがわずかながら、炎を反射する。常人では、視覚を補佐するゴーグルなしでは、この闇の山中を動けない。
 あたしは右肩を木の幹につけて上体を支え、焦げて破れかけたポケットから、川原で拾っておいた小石を取り出す。狙いをつけ、それを左手で投げる。
 もちろん、片腕と片足がない状態では、いつもの威力は到底出せない。
 生憎と、初弾は外れた。一抱えある木の幹に、鈍い轟音と共に、大きな貫通孔が開く。その向こうにあった、細い立ち木がへし折れる。枝葉をこすり合わせて、下生えの上に倒れる。
 狙撃手は、それを見て慌てふためいたらしい。更に撃ってくればいいものを、実戦経験の足りない悲しさ。逃げる動作をしたその肉体に、次の小石が斜めの角度から命中する。
 男は背骨と心臓を吹き飛ばされた。ゴーグルをかけた頭で木の幹にぶつかり、そのまま崩れ落ちる。脳細胞そのものはまだ生きているが、数分以内に酸素を供給されなければ、死滅していく。
 これで終わりか、と左右に視線を走らせた。涼しい夜風が吹き過ぎ、草や梢がザワザワそよぐ。あちこちで虫も鳴く。虫が鳴きやむ場所がもしあったら、そこに誰かいる。
 あたしは片足で木の幹にもたれ、周囲の気配を探り続けた。遠くから、近づいてくる気配がある。枯れ葉や枯れ枝を踏み折り、足音を立てて小道を走ってくる。襲撃者ならば、もっと静かに移動するはず。
 目を閉じて集中すると、軽量級の足音と、それより重い男の足音だとわかる。探春とナギだ。
 ほっと息を吐いた。あの走り方なら、探春は無事だ。
 高く口笛を吹いて、位置を知らせた。まだ襲撃者がいるなら、あたしを襲えばいい。そうすれば、探春かナギが反撃できる。
 あたしの口笛を聞き分けた探春は、すぐに道をそれて、茂みの中をやってきた。ナギが銃を構え、左右を警戒しながらついてくる。司法局の警備システムとリンクするナギが不審な熱源を発見していないのなら、もう大丈夫か。
 岩と木々を回ってきた探春は、あたしを真正面に見て、はっと息を呑んだ。あたしもやや、照れ臭い。ふだん、無敵だの歴戦だのと威張りかえっておいて、このありさまでは。
 自慢の髪の毛はチリチリで、焼け残った衣類がただれた皮膚に張りつき、あるいは惨めに垂れ下がっている。
「大丈夫、見かけほどひどくない」
 微笑んで言ったが、説得力はあるまい。
「紅泉たら」
 探春は、涙声で笑おうとする。
「美人が台無しよ。止血するわ。横になって」
 しかし探春も、結った髪は乱れ放題、裸の上に、湿ったブラウス一枚という格好だ。どうやら、入浴中に襲われたらしい。
「他人には見せられないね」
 と笑ったら、怒る顔をする。
「いいから、傷口を見せて」
 その時、深い藍色の夜空にエンジン音が聞こえた。複数のエアロダインが頭上を旋回し、警備用のサイボーグ鳥を撒いていく。開いた扉からは、戦闘用装甲服の部隊が飛び降りてくる。
 森には強いライトが投げられ、あたしは、小石で心臓部を打ち抜いた相手を視認した。褐色の肌、金茶の髪のハンサム。それが木の根元に崩れ、操り糸を切られた人形のように、手足を投げ出している。
 惜しかったな。せっかくのいい男。
 しかし、パーシスは、自分の野心のために自滅したのだ。

23 ミオ

 わたしは、病院で目を覚ました。担当の医師たちの説明では、重度の火傷と脇腹のレーザー銃創だったという。二週間近く、医療カプセルで薬液に浮いたまま、集中治療を受けていたとか。
「体表の他、喉から肺にまで達する火傷でしたが、もう大丈夫ですよ。脇腹も、あなた自身の培養細胞で埋められています。体内に入れたマイクロマシンは、自然に分解されますからね」
 十分に回復してから、初めて覚醒させられたのだ。
 それでも、わたしはぼんやりしていて、説明を断片的にしか理解できなかった。担当の看護士に世話をされ、ベッドに上体を起こして、パック入りのスープをストローで飲むうちに、だんだん記憶がはっきりしてくる。
「サンドラは……サンドラはどこですか!?」
「サンドラ・グレイ捜査官ですか?」
 若い女性の看護士は、微笑んで言う。
「何日か、別館の特別病棟にいらしたようですよ。一般の職員は入れませんので、どんな怪我だったかはわかりませんけれど。もう退院なさって、何度も、こちらにお見舞いに寄られましたよ。あなたが目覚めたら、また来るという伝言です」
 それならいい。サンドラさえ無事なら。会いに来てくれるなら。
 何の気なしに髪をかきあげようとし、ぎょっとした。慌てて頭を探る。髪の毛がない。看護士が気づき、慰めるように説明してくれた。
「ひどい火傷だったんですよ。髪も焼け焦げていて、ばっさり切るしかなかったんです。でも、また伸びてきますから」
「鏡、鏡を見せてください」
 悲惨だった。ほとんど坊主頭。顔の皮膚も、赤いまだらになっている。パジャマからのぞく腕も、その他の部分も。
 泣きたくなった。本当に、元通りの肌に戻るのだろうか。
「これでも、だいぶ回復したんですよ。いずれ、ちゃんときれいになりますから。心配しないで。退院する時には、かつらを用意しますしね」
 一人になると、わたしは枕に頭を沈めた。泣いてはいけない。サンドラが来てくれたら、笑顔を見せなきゃ。死なないで済んだのだから、幸運だったのよ。
 大きな窓から秋の澄んだ青空を眺めて、深い息をつく。
 別荘にいた、他のみんなは大丈夫だったかしら。タケルにパーシス、そしてヴァイオレットさんは。
 その途端、鋭い苦痛が胸を貫いた。川にわたしを置いたまま、サンドラは行ってしまったのだ。ヴァイオレットさんを心配して。そして、わたしは救助が来るまで、何の役にも立たずに横たわっていただけ。
 わたしでは、やはりサンドラの伴侶にはなりえないのか。遠くから憧れる程度が、分相応なのか。
 でも、サンドラはわたしに嘘を言ったりしない。心配しないで、甘えていいと言ってくれたのよ。
 それを信じたい。退院したら、またサンドラの隣で眠りたい。
(また、こんなことが起きても?)
 足をとられ、炎で焼かれた時、わたしは半狂乱になってしまったけれど、サンドラは冷静だった。慣れているのだ。一緒にいれば、また、こういう事件にぶつかるのかもしれない。
 でも。だけど。あの状況から、サンドラはわたしをかついで脱出したわ。次もきっと、助けてくれる。
 要は、わたしが強くなればいいのよ。次は、少しでも役に立てるように。その次は、もっともっと役に立てるように。

 午後になり、横になったままぼんやりしていた時、待ち望んだ訪問者がやってきた。
「気分はどう? おやつを食べる元気はあるかな」
 白やピンクの薔薇を差した小さな花籠と、ケーキの箱を持ったサンドラである。明るい菫色のツーピースを着て、暗色のサングラスをかけていた。室内に入ると、サングラスは襟元に差す。見るからに元気そうだけれど、サンドラは、わたしと同じだけ炎に焼かれたはずなのに。
 わたしが慌てて上体を起こすと、
「いいよ、そのままで」
 と優しく言う。
「怖い目に遭わせて、悪かったね。ひどい怪我をさせて、本当にごめん。痛かったでしょう」
「ううん、そんなこと……」
 サンドラにいたわってもらえるなら、もう、どうでもいい。
「だいぶ回復したわね。よかったこと」
 後ろから、サーモンピンクの上品なワンピースを着たヴァイオレットさんが入ってきた。相変わらず、優雅で美しい。茶色い素直な髪を背中に垂らし、ピンク色の照りがある真珠のイヤリングをつけている。
「ご心配をかけまして」
 と、わたしは挨拶した。この人にはどうしても、距離を置いた敬語になってしまう。それから、サンドラに確かめた。
「あの、その腕……」
「ああ」
 サンドラは腕輪をはめた右手を挙げ、指を折り曲げてみせた。
「もう完璧。培養した腕をくっつけたから。逆立ちして病院一周できるよ。ヴァイオレットに叱られるから、実演は遠慮しとくけど」
 もう、それほどに回復しているの。わたしはまだ、ベッドから遠くまで行けない半病人なのに。
 サンドラは、顔や手の皮膚も艶やかな蜂蜜色に輝いている。それとも、お化粧でまだらを隠しているだけかしら。
「今回は、あたしが油断してた。ミオを巻き添えにしてしまって、ごめんね」
「狙いはサンドラだったの? 誰が犯人?」
「あー、えーと、ミオのそのパジャマ、ママからの差し入れだよ。よく似合ってる」
 サンドラは隅の椅子を二つ持ってきて、ヴァイオレットさんに一脚を勧め、自分はもう一脚に座った。確かに、この淡いピンクのペイズリー模様のパジャマは、病院のお仕着せにしては可愛いと思っていたけれど。
「うちの両親、旅行から戻ってきたのね」
「こんなことになったので、司法局で連絡して、戻っていただいたのよ」
 とヴァイオレットさんが言う。
「ご両親には、こちらから、ざっと事情を説明してあります。捜査上の機密もあるので、全部ではないけれど」
 その時、わたしは髪の毛のことを思い出し、あっと叫んでしまう。強制収容所で刈り上げられたような、無残な坊主頭だったのだ。
「だめ、見ないで、お願い、ひどい顔」
 わたしが慌てて寝具の下に隠れたので、サンドラはびっくりしたらしい。
「隠れなくてもいいってば。ほーら、見てごらん。あたしもおんなじだから」
 わたしがおずおず、目までを出すと、サンドラは自分のかつらを外していた。溶かした黄金のように見事だった金褐色の髪は、わたしと同様、これ以上短くは刈れないほどの、丸刈りに近いショートになっている。せっかくの美女が、なんという姿。
 でも、サンドラは気にしていないらしい。
「大丈夫、髪はまた伸びるから」
 と、おおらかに言う。
「ミオはショートカットも似合うよ。それにほら、帽子が好きでしょ。冬の間、帽子をかぶっていれば、春にはちゃんとした髪型にできるから」
 わたしは涙のにじんだ目で、笑ってしまった。サンドラは少しも変わらない。太陽みたいに暖かい。そうよ、髪なんて、些細なこと。
「あなたのご両親も、毎日お見舞いにいらしてるのよ」
 サンドラの横から、ヴァイオレットさんが言った。
「あなたが目覚めたことは、お家に知らせてあるわ。ただ、記憶の混乱があるでしょうし、まずは、事件の説明を聞きたいだろうと思って、ご両親の面会はわたしたちの後で、ということにしてあるの」
 パパとママは、自分たちが留守をしている間に、いったい何事があったのかと仰天したことだろう。
「さて、ちょっと辛いことを話そうか」
 サンドラは口調を変えて言った。
 わたしははっとする。これが、捜査官としての面なのかしら。急に距離が開いたような気がして、怖くなる。
「タケルが怪我をしてね。やっぱり入院してる。この病院じゃなくて、長期療養専門の郊外の施設なんだけど」
「どうしたの、そんなに大怪我なの!?」
 わたしは慌てた。しっかりしなきゃ。自分のことばかりに、かまけている場合ではないわ。
「怪我自体はたいしたことない。背骨がちょっと砕けて、首の骨にひびが入っただけ」
 それは、かなりの重傷のように聞こえるけれど。
「それは完全に治るから、問題ない。それより、ミオと同様、いや、もっと込み入った深層暗示が幾重にもかかっていてね」
 えっ!?
「深層暗示って、タケルはモデルクラブには関係ないのに……?」
「それを解除するのに、時間がかかる」
 サンドラは、真剣な顔だった。きっとこれが、サンドラの本質なのだ。
「たぶん、本来のタケルに戻るのに、何年かはかかるだろうね。後遺症も残るかもしれない。大事な成長期に、何年もかけて、そういう心理操作をされたわけだから」
 成長期に、ですって?
「どういうこと? だって、わたしの治療は、数日の入院でほぼ済んだわ。あとは通院して、安定剤を飲んでいれば……」
「ミオたちモデルの場合は、短期間の表層的な操作だったからね。キーワードさえわかれば、暗示を無効化できたんだ。ただ、タケルの場合は商品にするためではなくて、助手にするための洗脳だったから、より本格的で、複雑でね」
 サンドラが何を言っているのか、わからない。
「助手って? 誰の助手? 何を手伝わせるの?」
 誰かが何年もかけて、タケルを洗脳したというの!?
「うーんとね……」
 サンドラは少しためらってから、思い出したように、かつらをかぶり直した。
「タケルは、洗脳の実験台だった、と言っていいかな。真犯人は、何年もかけてタケルで練習していたから、マレーネに対して、その成果を利用できたわけ」
「真犯人?」
 わたしたちの事件の真犯人?
「それから、たぶん他星の幾つかの事件でも、こいつが元締めだったんじゃないかと思う。本人が死んでしまったので、追跡調査からの推測なんだけど……タケルも最後の最後まで、何も知らされていなかったし」
 息が苦しくなった。売春組織の黒幕が見つかったのだ。そいつがマレーネだけでなく、タケルをも操っていた。何という悪魔なの。
「もし、ミオを巻き添えにするとわかっていたら、タケルも抵抗したかもしれないけど。たぶん、ミオには危険はないって、騙されていたんだろうな」
 サンドラの話し方は、わざと主語をぼかしている。サンドラらしくない。
「誰がそんなことをしたの。いつ、あの子に目をつけたの」
「それはねえ」
 サンドラは、難しい顔になっている。ヴァイオレットさんは、冷淡なくらいに澄ましているけれど。
「これは、ミオにはショックだと思うんだけど、隠しておくわけにもいかないから、話すよ。いい?」
「ええ」
 もちろん、知らずに済ませるつもりはない。そんな奴、絶対に許さない。
「事件の元締めは、パーシス・ウェインだったんだ」
 え!?
 え!?
「彼は、ものすごく優秀だったんだね。自分は一般人では終わらない、いつかは辺境に出ていくという意志が、子供の頃からあったらしい」
 ええ、そうよ、彼は優秀だった。スポーツでも勉強でも、何でもできた。だけど、いつも優しかったわ。特に、わたしたち姉弟には。
「大いなる野望だね。辺境で不老不死を手に入れ、永遠に生きると決めていたんだろう。大学生になると、少しずつ違法アクセスを繰り返して、あちこちの違法組織から技術情報を買っていた。主に、精神操作の技術をね」
 待って。それは、本当に、あのパーシスの話なの。
 パーシスもまた、誰かに操られていたのではなくて?
「ただし、細切れの知識を組み上げて、実際に使える形にするのは難しい。生体工学専攻のパーシスには、十分な学問的基礎があったけど、中央の技術より、辺境の技術の方がずっと進んでいるからね。それで、まずはタケルを実験台にして、色々な暗示の効果を試した。これに、数年間かけている。タケルがパーシスを好きになったのも、おそらく、そのせいだと思う」
 何ですって。
「これは、タケルの子供時代の交友関係や、心理分析からわかったことだけど、元々、異性愛指向だったタケルを、うまく誘導して、自分の恋人に仕立てたらしい」
 タケルは本来、女性を愛するように生まれついていたというの。
 それを捻じ曲げられて、パーシスを愛することになったというの。
「愛情が基本にあれば、ただの洗脳より、ずっと融通がきくからね。将来、辺境に出た時に、自分の片腕として信頼できるわけ。パーシスも、自分一人で辺境暮らしは無理だと思っていたらしい」
 パーシスとタケルは本当の恋人同士ではなく、傀儡師と人形だったというのだ。わたしが子供の頃から見ていたパーシスは、優しくて頼りになるお兄さんだったのに。
「それからミオ、彼はあなたを実験台にして、キーワードで他人を操る技術を完成させたのよ」
 とヴァイオレットさんが言う。
「だから、ミオは覚えてないだろうけど、何度か、そのう」
 サンドラが、言いにくそうに説明する。
「キーワードで操る実験として、彼に抱かれているはずだと思うよ。翌朝、ちゃんとミオの記憶が消えているか、パーシスとしては、確かめたかったと思うから」
 お腹を殴られて、胃がせり上がるような気がした。
 いつ、そんなことが。
「もちろん彼は、ミオが怪しむような痕跡は残さなかっただろうし、何年も前のことだから、ミオが病院で治療を受けた時も、そこまでは表面化しなかった……」
 待って。
 頭がぐるぐる回る。
 わたしとタケルはずっと、あいつの餌食だったというのね。
 わたしはずっと地獄にいたのに、そのことを知らなかっただけ!?
 でも、サンドラは淡々と説明を続けていく。こんなことは、いつもの仕事のごく一部なのだろう。
 パーシスは、わたしを通してマレーネの存在を知り、まんまと彼女に暗示を仕込んだ。彼女は自分の考えで、売春組織を構築していたつもりだった。でも、マレーネが裏口座に蓄えた利益は、みんなパーシスがかすめ取った。
 自分はうまく陰に隠れて、他人を働かせる。なんて利口な……パーシスらしい手口なの。
 そうよ、無駄なことはしない人だった。危ないこともしなかった。いつも計画的で、着実だった。賢すぎて、この世界には満足できなかったのね。
「その資金は今頃、《プラチナム》が吸収しているだろうね。口座にアクセスする人間が、もういないわけだから。タケルもアクセス方法を知らなかったし」
 連合≠ェ後ろ盾になっている、辺境の決済機構。軍でも司法局でも、手出しはできないという。
「パーシスは、自分が種蒔き≠した他星の商売が潰れたことに気づいて、高飛びの準備を始めていた。でも、そこにあたしたちが現れた。これはあたしのミスなんだけど、どうもパーシスに、こちらの正体を感づかれたらしくてね」
「捜査官だということ?」
「まあその、黙っていて悪かったけど、捜査官というのは偽装で」
 サンドラは申し訳なさそうな顔だったけれど、わたしは首をひねった。私立探偵が偽装なのは聞いたけれど、捜査官というのも嘘だったの?
「悪気で、正体を隠したのではないのよ」
 ヴァイオレットさんが事務的に言う。悪意を持つ必要すらない、とわからせるように。
「でも、わたしたちは市民社会の人間ではないから、仕方がないの。こうして中央にいる時は、偽装の身分が必要なのよ」
 それは……市民社会の外……から来ているということ?
 サンドラが、あたしの顔を見ながら言う。
「あのねえ、ミオも言ってたでしょ。リリス≠セけが英雄なのは、おかしいって。あたしたちも、そう思うんだけどね。でも、実際、軍人も捜査官も、辺境ではほとんど役に立っていないから……というより、惑星連邦そのものが、辺境を何とかしようと考えていないから……」
 ようやく、飲み込めた。司法局のお抱えハンターリリス=B
 彼女たちをモデルにした映画を、タケルが好きで見ていたから、わたしも一緒に何本か見た。美女の二人組か三人組が、毎回、違法組織やテロ集団を相手に戦う。大抵、誰かが、助けたハンサムといい仲になる。
 実話を元にしているとはいうけれど、ほとんど、大人向けのおとぎ話のようなもの。実際のリリス≠ヘ、もっと冷酷な賞金稼ぎなのだろうと思っていた。それでは市民の共感を得られないから、うんと脚色して映画にしているのだろうと。
「――あなたたちが……」
 だから、サンドラのかすり傷がすぐに治った。無限の体力があり、捜査官を部下として使える。何もかも、符号することばかり。パーシスは、すぐに気付いたのね。それで、わたしを利用して罠を。
「映画の主演女優の方が、本物よりずっと色っぽいけどね。あたしなんて、色仕掛けに成功した試しがないもんね」
 サンドラは自分で言って、あはは、と笑う。でも、わたしは何もおかしくない。
 それでは、サンドラ・グレイも偽名なんだわ。わたし、サンドラのことを何も知らないで、のぼせ上がっていた。ヴァイオレットさんから見たら、まさしく幼稚園児だったでしょうね。
 サンドラは気まずい顔になって、咳払いをした。
「で、パーシスとしては、ただ逃げるより、あたしたちを仕留めてから逃げようとしたわけ」
 リリス≠ノは、莫大な懸賞金がかかっているから。
「たぶんグリフィンに応援を求めて、逃げる手筈は整えていたと思う。グリフィンが本当に、約束を守るつもりだったかはわからないけど」
 でも、パーシスも結局はサンドラに勝てなかった。ベイカー捜査官もまた、サンドラの手で殺されたと聞いて、わたしは驚く。
 彼はパーシスにうまく呼び出され(わたしのことで相談がある、と言われたらしい)、一服盛られて深層暗示をかけられて、狙撃手として利用されたのだという。
「パーシスは、飛び道具を使える仲間が欲しかったんだよ。植民惑星上で火器を持ち歩けるのは、軍人か捜査官くらいだからね。他の小道具は自分で自作できたけれど、準備期間が短かったので、銃までは作れなかった。さすがに、近距離であたしと向き合ったら、勝てないことは承知していたようだから」
 サンドラには、パーシスを殺したことくらい、何でもないらしい。それよりも、ベイカー捜査官の葬儀に出席させてもらえなかった、と残念そうに言う。遺族から、出席を断られたという。花を贈ることさえも。
「また、恨まれたよなあ」
 と、ため息をつく。
「ベイカー捜査官もね、パーシスに操られながら、どこか変だと思っていたらしい。どうやら、逃げた凶悪犯を追うのだと思い込まされていたらしいんだけど。普通なら、頭でも心臓でも、正確に狙えたはずの距離だ。わざと、殺さないように撃ってくれたんだよ」
 だから、わたしもサンドラも、致命傷を受けずに済んだのね。
「彼には気の毒なことをした。奥さんと娘さんが、立ち直ってくれるといいけどな」
 小さい娘さんがいると聞いて、わたしも胃が握り潰されるような思いをした。もう取り返しがつかない。ベイカー捜査官の遺族には、一生許されないわ。
「ごめんなさい。わたしがパーシスに、余計なことを話したから。あなたの傷が、すぐに治ってしまったなんて」
 びくびくしながら打ち明けると、ヴァイオレットさんが静かに言う。
「ミオのせいではないのよ。何年かに一度は、どうしても、こういうことになるの。この人、ろくに変装もしないで、気軽に歩き回るんですもの」
「だってさ、ちょっとくらい変装したって、身長は変えられないんだし。顔に何か塗るの、鬱陶しくて」
 二人とも、わたしのことは何も責めない。それは、わたしに何も期待なんか、していないからだ。
「とにかく、これで事件は片付いたから」
 とサンドラは微笑んで言う。
「被害を受けた人たちの心の救済は、また別問題だから、ミオが気に病む必要はないんだ」
 理屈では。
「映画と違って、現実の事件がきれいに解決できることは、滅多にないのよ。大抵は、巻き添えの死者が出たり、真犯人を取り逃がしたり」
 とヴァイオレットさん。
「だから何かしら、あたしたちが恨まれることになるんだ。ベイカー捜査官の遺族は、あたしには、やっぱり、会いたくないってさ」
 でも、それを気にしていては、この仕事は続けられないとサンドラは言う。
 そうなのだろう。サンドラのように、気分の切り替えができなくては。あるいはヴァイオレットさんのように、常にクールでいられなくては。
 わたしは……わたしは……まだ、何もまともに考えられない。知っていた世界が砕けて……まだ回復しない。
「それで、タケルなんだけど、自分がパーシスに操られていたとわかって、いまショック状態なんだ。自殺すると困るから、二十四時間、専門家チームの監視下にある。いずれそのうち、落ち着いたら面会の許可が出るから」
 そうなの。
 わたしは精神安定剤と、サンドラのいたわりでかなり楽になったけれど、わたしより、あの子の方がひどい目に遭っていたということね。
 しかも、もはや、パーシスに恨み事を言うことすらできない。あの子はこれから、どうやって立ち直ればいいの!?
 ヴァイオレットさんが、階下の食堂から紅茶を持ってきてくれた。サンドラが、お土産のケーキをお皿に載せて勧めてくれる。わたしはおやつどころではなかったけれど、サンドラは見る間に、クリームたっぷりのケーキを三つも平らげている。このくらいのタフさがなければ、伝説≠ナはいられないのだ。
「あいつが欲をかかず、タケルだけを連れて、さっさとレンタル船で脱出していれば、それで逃げおおせていたろうね。彼は、事件の容疑者リストには載っていなかったんだから」
 では、結果的に、これでよかったことになるのかしら。少なくとも、タケルはわたしたちの元に残された……これから、家族で立ち直りを助けることができるはず。
「それにまあ、本当にあたしたちを殺したところで、司法局が、そうとは認めなかったかもしれないし」
「え、どういうこと?」
「司法局としても、せっかくの看板を失いたくないからね。あたしたちがいるのといないのとでは、辺境の悪党どもに対する脅しの効きが違う。たとえ身代わりを仕立ててでも、リリス≠ヘ健在だと言い張ったんじゃないかな」
 無理だわ、そんなこと。サンドラに代われる人なんて、誰もいない。
「結局、悪事は引き合わないんだよ。短期的には成功しても、長期的には必ず損をする」
 それは、サンドラの実感であるらしい。善人同士は互いに協力できるが、悪党同士は、裏切り合って疲弊するだけだと言う。
「でも、たとえ善人同士でも、うまくやれないことはあるわよね」
 と、わたしはつぶやいた。
「えっ?」
 サンドラには通じなかったらしいけれど、ヴァイオレットさんはわかったと思う。わたしはベッドの上で、そっと拳を握った。
 気力を奮い起こさなくては。ここでたじろいだら、置いていかれてしまう。もう二度と会えない。
 決意を宣言しようと息を吸い込んだ時、次の訪問者があった。心配そうな顔を並べたパパとママ。
「ミオ、よかった、起きられるようになって」
「可哀想に、怖かったわね。もう大丈夫よ」
 両親は交互にわたしを抱き、キスをし、サンドラたちに感謝のこもった挨拶をした。
 サンドラは真面目くさって事後処理の話をし、ベテラン捜査官のふりをしている。わたしと暗闇の中で何かしたことなんて、百億年前のような顔。実際、もう、忘れてしまっているのかも。
「では、また明日、お見舞いに寄りますので」
 サンドラは澄ましたまま、ヴァイオレットさんと行ってしまった。わたしはもっと、話をしたかったのに。
 でも、パパとママにこれ以上、心配をかけられない。二人とも、笑顔を作ってはいるけれど、目の下に隈ができている。
 おそらくパーシスのご両親も、今頃、泣いている。自慢の息子が凶悪犯罪の首謀者で、しかもリリス≠ノ退治されただなんて。
 でも、今はまだ、ウェイン家のことまで心配できない。タケルが長期入院で、社会復帰に何年もかかるというだけで、こちらは手一杯なのだ。
 おまけに、わたしが受けた被害まで知られてしまっている。二人とも、必死の努力でわたしを慰めようとするのだ。お祖父ちゃんの所に気分転換に行けばいいとか、全く違う仕事を探せばいいとか。
 モデルクラブはまだ続いているけれど、事件そのものは報道されてしまったという。首都には四つのモデルクラブがあり、事件の舞台がどことは特定されなかったけれど、関係者にはわかってしまう。姿を現さなくなったモデルたちが、被害者だろうということも。
 でも、わたしはもう、自分たちが利用されたことなんか、どうでもいい。辛い記憶ではあるけれど、犯罪の被害者は他にもたくさんいる。わたしたちだけの悲劇ではない。
 それよりも何よりも……これから先、サンドラについていけるかどうか、その方が大きな問題だった。
 辺境のどこかで生まれた、戦闘用の強化体。
 なおかつ、市民社会の英雄。
 あまりにも、普通ではなさすぎる。
 それでも、わたしが脅えて尻込みしたら、サンドラたちは、これ幸いと離れていってしまう。わたしはどう考えても、あの二人のお荷物にしかならないのだから。

24 探春

「結果的にだけれど、元締め≠ェ片付いてよかったわね」
 ホテルへ戻る途中の街路で、わたしは紅泉の腕にすがっていた。街はもう黄昏に包まれていて、深い藍色の空には星が光りだしている。秋は大好き。空気が澄んで、人恋しくなる季節だから。
「まあね。生かして逮捕できてたら、もっとよかったけど」
「仕方ないわ。あなたも重傷だったんですもの」
 紅泉がミオをかばったから、不利な戦いを強いられたのだ。もちろん、紅泉はそんなことは一言も言わないけれど。
 それにしても、運の強い子だわ。生き延びて、回復して。
「夕ごはん、何を食べようか」
 紅泉はわたしの心など知らず、笑って言う。人がいいのも馬鹿のうち。
 でも、わたしには、そのお馬鹿さんが全て。生きるのも死ぬのも、紅泉次第。
 紅泉が恋愛知らずなのは、性格として、そういう耽溺ができないからだろう。あくまでも、公平で客観的なのだ。
 ミカエルに夢中だった時でさえ、婚約破棄から、すぐに立ち直った。離れていても、心が通じていれば十分だと、見切りをつけて。
 そういう心の持ちようが、真の豪傑の在り方なのだとわたしは思う。だからわたしは、豪傑にはなれない。
「和食がいいわ」
「わかった、歩きながら探そう」
 ちょうど、個室で食べられる料理屋があった。中庭に面したお座敷で、新鮮なお寿司や貝の吸い物を楽しむ。
 紅泉はそれに加えて、大根と豚肉の煮物、菜の花のサラダ、胡麻豆腐、野菜と白身魚の天麩羅と、次々に平らげていく。お供は、ほどよく冷やした日本酒。とろりと甘くて、飲みやすい。
 紅泉は何度も冗談を飛ばし、わたしを笑わせようとするけれど、本当はお互い、肝心の問題に触れるのを避けている。
 デザートの抹茶アイスに取りかかってから、わたしはようやく言った。
「明日は、ミオのお見舞い、あなた一人で行きたい?」
「えーと、どっちでもいいんだけど……ヴァイオレットは、行きたくないのかな」
 店の警備システムを用心しての態度。病院では、記録をオフにする措置をとっていたから、何でも話せたけれど。
「ミオが退院する時は、どうするのかしらと思って。ご両親のいる家に帰るのかしら。それとも、わたしたちのホテルに来るの?」
 紅泉は眉根を寄せ、真正直に悩んでいる。
 迷ってくれるだけ、ましなのかもしれない。もしも迷いなく、ミオを引き取ると言われたら、わたしにはどうしようもない。
「わかってるんだ。連れ歩くのは、無理があるって。でも、しばらく大目に見てやってくれない? あの子もいつまでも、あたしにしがみついてるわけじゃない。殺伐たる現実を見たら、家へ帰りたくなるよ」
 だといいけれど。
 本当は今日、あの子が泣いて、紅泉にさようならを言うかと思った。あんな怖いことが何度も起こるなら、自分は到底ついていけないと。
 でも、両親が来合わせたために、そこまでの話にはならなかった。
 明日はどうかしら。わたしが紅泉の後ろに張りついているのと、紅泉と二人きりで話をさせるのと、どちらがいい結果になるかしら。

 翌日、わたしはナギを連れて司法局ビルに行き、支局長やワン捜査官から、事件の後始末や、ベイカー捜査官の遺族の様子、タケルの回復度合いなどを聞いた。
 その間、紅泉は一人でミオの病院へ行っている。
 距離は遠くないけれど、わたしは病院へは寄らず、まっすぐホテルに帰った。今は、司法局がこのホテルの警備システムに介入しているし、目立たないようにアンドロイド兵も配置しているから、安全度は前より高い。他のホテルへ移っても、どうせ同じこと。
 ホテルのオーナーと支配人には、口止め料の代わりとして、リリス≠フ直筆サインを贈ってある。後日、マニアに売れば高値がつくはず。それとも、家宝にするかしら。
 ニュース番組を聞きながら刺繍の続きをしていると、紅泉が帰ってきた。何と、パジャマ姿のミオを自分の上着でくるみ、大事そうに抱き上げて。
 頭にボブの黒髪のかつらをかぶっていると、ミオは少女のようだった。わたしは笑顔で出迎えたけれど、心からは笑えない。
「まだ何日かは、病院にいるはずじゃ?」
「うん、そうなんだけど、一人で病室にいるのは辛いって言うんでね」
 この、甘ったれ娘。わたしが見ていなかったら、とことん紅泉に甘えるのね。
「医師団の許可は取ってきたよ。薬を飲んで安静にしていれば、退院してもいいって。ご両親には、あたしが責任持って預かると断ってきたから」
 わたしには、一言の相談もなく。
 紅泉はミオを壊れ物のようにソファに降ろしてから、わたしに言う。
「隣に部屋を借りたから、ミオはそっちで寝るよ。でも、食事は一緒にしようね」
 わたしはショックで、すぐには口もきけない。紅泉はこれから毎日、ミオと一緒に寝起きするつもりなのだ。そして、わたしとは、食事の時にしか会わないと。
 ミオは遠慮がちな顔で(遠慮など、する気はないくせに)、わたしに言う。
「お邪魔して、すみません。でも、サンドラがいいと言ってくれたので……」
 この、小娘。
「命の危険は、覚悟の上なのね」
 わたしはつい、きつい口調で言ってしまった。ミオだけでなく、紅泉もびっくりしている。紅泉の前で、こんな夜叉のような顔は見せたくなかったのに。
 でも、もう止まらない。冷たく宣言するしかない。
「こういうことが、毎月とは言わないけれど、年に数回はあるわ。わたしたちと一緒にいるなら、戦う覚悟が必要よ。少なくとも、軍人並みの訓練が必要ね」
 ミオは顔をこわばらせたが、さくらんぼのような赤い唇を、きっと結んでから言う。
「はい、わかってます。できるだけの努力はします」
 黒い瞳で、挑むようにみつめ返してくる。
 そうなの。わたしに負けないつもりなのね。しぶとい娘だこと。
「そう。それなら、わたしに異存はありません」
 紅泉はほっと息をついて、ナギにミオの荷物を運ぶよう命じている。別荘行きの前に持ってきていた荷物が、そのまま紅泉の寝室に置いてあったから。
「足りないものは、あたしにでも、ナギにでも言えばいいからね。毛布持ってくる? ココアでも飲む? 一緒に映画でも見ようか」
 あれこれと、優しく世話を焼いている。
 紅泉の馬鹿。鈍感。三流プレイボーイ。
 これじゃ、わたしはただの意地悪女になるしかないじゃない。いつか本当に、わたしがミオを殺してしまうわよ。少なくとも、ミオの命が危ない時、助けてあげないかも。

 その晩は、苛々してなかなか眠れなかった。紅泉が、隣に借りたミオの部屋に行っているから。
 あの子を抱いて眠っているの。まさか、本当のキスをしたりしないでしょうね。わたしにだって、頬や額にしかしてくれないのに。
 でも、それはわたしが要求しないから、ともいえる。ミオはきっと、必死で紅泉にすがりつくだろうから。泣いて頼まれたら、紅泉はキス以上のことでもするかもしれない。別に減るもんじゃなし、と軽く思って。
 あんなに可愛い子なんだもの。いくらその趣味がなくたって、慕われて悪い気はしないはず。それに、元からお調子者だし。
 こんなことで悩むのは、贅沢だとわかっている。あの山の中で、片腕片足を失って立っている紅泉を見た時、恐怖で息が止まりそうだった。いま、生きていてくれるだけで、感謝するべきなのだ。
 それが英雄なのだと、わかっている。誰にでも優しくて、弱い者を放っておけない。だから、わたしにも優しい。ミオにも優しい。わたしが独占できる存在ではない。
 でも。
 だけど。
 わたしは英雄じゃないもの。ただの女なんだもの。

 夜中になってから、ノックの音があり、紅泉がわたしの寝室に入ってきた。わたしはベッドで横になっていたけれど、まだ寝入っていなかったので、身を起こす。
「まだ起きてる? ちょっといいかな」
 つんけんしたかったけれど、嫌われたくない、という思いが先に立ってしまう。ミオに気を遣い、わたしに気を遣い、紅泉はだいぶ苦労しているはずだから。
「ミオはもう眠ったの?」
 と優しい声を出してしまった。我ながら、卑しい女だわ。
「うん、ぐっすり。目を覚まして寂しがるといけないので、またあっちへ戻るけど」
 まあ、優しいこと。
 でも、その優しさがあるから、わたしのこともこうして大事にしてくれる。紅泉はわたしのベッドに腰を下ろし、暗がりでわたしの髪を撫でてくれた。
「ごめん、こんなことになってしまって」
「いいの、わかってる。あなたは、ミオの王子さまなんですものね」
 紅泉は苦笑した。
「どうも、そういうことになってるらしい。早いとこ、本当の王子さまが現れてくれるといいんだけどね」
 わたしはぎゅっと、紅泉にしがみついた。
「わたし、心が狭いの。あなたをミオに取られるみたいで、心細いわ」
 正直に言うと、紅泉は笑った。
「探春がそんなこと言うの? びっくりするね。あたしこそ、探春がいないと生きていけないの、知ってるでしょ」
 まあ。
「あたしのパートナーは、他の誰にも務まらないよ」
 そう言いながら、優しく髪を撫でてくれる。
 もう、うまいんだから。
 でも、わたしはそれで、いい気分になれる。
 本当はこのまま、一緒に寝てほしいけれど。仕方ないわ、我慢する。ミオは傷ついたばかりなんですものね。弟まで、道具にされて。
 紅泉はしばらくわたしを抱きしめ、額にキスをして、ミオの部屋に戻っていった。
 わたしは再びベッドに潜り、目を閉じる。誰が来ようと、紅泉にとって、わたしは特別なのよ。あんな小娘には、入り込めない歴史があるのだから。

 ミオはみるみる、元気になった。若さのおかげと、紅泉が優しく世話をしているせい。
 タケルの病院の方に詰めているミオのご両親も、時々様子を見にやってきて、あれこれと気を遣う。
「娘が甘えしまって、申し訳ありません。貴重なお休みでしょうに」
 わたしたちのことは、事件解決に関係した捜査官と信じたまま。パーシスが捜査情報を知ろうとして、わたしたちを襲い、返り討ちに遭ったと話してある。
 今回は事件の報道も、被害者保護のため、かなり抑えられているので、そういう体裁を繕うことができたのだ。
 ご両親は、ミオが事件のせいで男嫌いになり、強い女性の側にいて安心するもの、と信じている。ミオには学生時代にボーイフレンドがいたので、女同士でそんな関係になっているとは、夢にも思わないのだろう。
 あるいは、薄々察していても、ミオが救われるなら、と気づかないふりをしているのかしら。
 紅泉は繕った顔をして、
「せっかく友達になりましたので」
 とか何とか、苦しい言い訳をしている。この先、いつまで演技が続くか、見物だわ。
 ミオが外出できるようになると、疲れないようにと配慮しながらも、紅泉は街歩きやドライブにわたしたちを連れていく。そしてある午後、繁華街でわたしに言った。
「あのさ、ミオに着物を見立ててやってくれない? きっと、赤い振袖が似合うと思うんだ」
 ミオは驚いた顔をして、まだ赤いまだらになっている頬を染めた。本人は外出時、メイクで隠したがるけれど、紅泉が、皮膚呼吸を邪魔するものは塗らないようにさせている。
「わたし、小さい頃、お祖母さまに浴衣を着せてもらったことがあるけど、それきりよ。着物なんて、よくわからないわ」
 すると、紅泉は気楽に請け合う。
「大丈夫、ヴァイオレットが詳しいから。ミオは黒髪だから、ぜったい似合う」
 赤い振袖、ですって。それは確かに、よく似合うでしょうね。それこそ本当に、若い娘でなければ着られない晴れ着だもの。
 わたしには、もう無理だった。若い姿をしてはいても、顔に戦いの歴史が刻まれてしまっている。笑ったところで、屈託のない笑顔にはなりようがないのだ。振袖の晴れやかさには、もはや気持ちがそぐわない。
「そうね、それはいい考えだわ。着物は元々、黒髪の女性のためにあるんですもの」
 と、わたしはにっこりする。もちろん紅泉は、ミオが笑顔になることなら、何でもしてやろうと思っているのだ。悪気がないだけ、まったくたちが悪い。
 わたしたちは近くの呉服店に入り、ミオのために、深い赤地に金の短冊と百花の模様の絹地を選んだ。それに合う金糸の帯と、小道具も一式揃える。長襦袢は、白と朱鷺色のぼかし。
 紅泉が期待の顔で見守っているのだから、最高の品を見立ててやらなくてはならなかった。
 それにまた、嫉妬を引っ込めておけば、選ぶ甲斐があるともいえる。ミオは元々美しい娘だし、すらりとした肢体をしているから、背丈の足りないわたしより、はるかに見栄えがする。いずれ肌が元通りになったら、まさに完璧。
 若いということは、まったく、素晴らしいことだわ……気がついた時には失せている宝だから、余計にそう。
「これを着て、どこへ行けばいいの?」
 豪華な反物を肩にかけたミオは、ためらいながらも嬉しさを隠せない。
「そうだね。今夜、いい店に食事に行こう。その後、ホテルのバーにでも回って、周囲の男どもに見せびらかす」
 店には優秀な縫製システムがあるから、仕立てはすぐだ。紅泉はもちろん、わたしにも一枚、華やかな友禅を買ってくれた。淡い緑の地に、白と紫の菖蒲が優雅に描かれている。赤い振袖の隣では、もちろんだいぶ地味になるけれど。
「いやあ、着物姿の美女を二人も連れて歩いたら、街中の男が悔しがるだろうなあ」
 紅泉は呑気なことを言って、あははと笑う。それを、うっとりと見上げるミオ。
「サンドラは着ないの?」
「あたし? ちょっと無理があるな」
「どうして? きっと似合うわ。かっこいいわよ。渋い紬なんかだったら」
「ま、そうかもしれないけど、いつでも動ける格好でないとね」
 ミオははっとしたようで、急いで言う。
「ごめんなさい。わたし、足手まといなのに。何も考えなくて」
 声をひそめたのは、買い物をまとめている店員に聞こえないよう配慮したから。それはよい心掛け。
「ま、あんなことは滅多にないよ。あたしがいるから、安心して着物を楽しんで。探春だって、いつも着てるんだから」
 紅泉の馬鹿。わたしの本当の名前を口走ったのに、気づいていない。きっと、ミオの耳にも残ったわ。ミオはうまく、気がつかないふりをしているけれど。
 こうやって少しずつ、深みにはまっていくのよ。あれもこれも知られてしまって、いずれ、ミオを家へ帰そうとしても無理、ということになってしまうんだから。

25 紅泉

 なんだか、自分が悪質な詐欺師になった気がする。女を二人抱えて、どちらに対しても、きみが一番だよ、と言うような。
 表面上、ミオと探春は穏やかに共存していた。あたしも二人に、等分に優しくするように心がけている。衣装を褒め、買い物に付き合い(片方に何か買う時は、必ず他方にも同等のものを買う)、お茶を運んでもらって礼を言い、他愛ない冗談で笑わせる。
 つまり、前の二倍の疲労度だ。
 いや、あたしの体力からすれば、疲労というほどのものでもないが、常に二人の顔色を気にするというのは神経を使う。
 まったく、柄でもない。
 外から見れば『両手に花』だろうけど、大変なものだ。昔、イスラム教では妻は四人まで認められていたというけれど(身寄りのない女性の救済措置という意味があったらしい)、四人も公平に愛するなんて、まず不可能ではないだろうか。
 こうなると、次の仕事が待ち遠しい。あたしが任務に没頭すれば、探春やミオも自然、助手に徹してくれるだろうし。
 と思っていたら、じきにパウル・ミン司法局長から、直々の依頼が来た。いつもは特捜部の本部長か、ハンター管理課の課長から連絡があるのだけれど、それだけ重要な案件らしい。
「すまんが、辺境へ飛んでくれるか」
 と下手に出て言う。二十年前は、つやつやした顔の張りきり青年だったが、今では黒髪に白いものが混じり、目の回りに心労を示す皺ができている。ただの若僧だった頃より、今の顔の方が味があって、あたしは好きだけど。
「すまないなんて、思ってないでしょ」
「いや、ははは。まあ、そうだが」
 冷徹な印象で君臨していたミギワ・クローデルが引退した後は、温厚なミン局長の時代になった。といっても、有能なことは間違いない。でなければ、彼女の下で特捜部の本部長は務められなかった。
 違法都市《ヴァンダル》の公開市場で、最近誘拐された科学者たちが(田舎航路で、調査船ごと拉致されたのだ。だから、大規模な護衛艦隊をつけろと言うのに)、競りにかけられるという情報が入ったという。うまく競り落とすか(認められた予算の範囲内ですめば)、でなければ、競り落とした組織からさらって来てくれ、というのだ。
「しかし、その金額じゃ、精々二人しか買えないよ」
 拉致された者たちは、二十名近いのに。
「わかっている。優先順のリストを作った。なるべく上位者を救ってくれ」
 命に優劣をつけるなど、被害者の家族たちが聞いたら怒るだろうが、いったん拉致された者が、一部でも救出できるだけで、たいしたことなのだ。一箇所に閉じ込められていればともかく、大抵は、商品価値に応じて、あちこちに振り分けられていくのだから。
「現地の駐在員からの情報だが、誤りだという可能性もある。あとは、きみが現場で判断してくれればいい」
 全員の救出など、はなから無理だとお互いわかっている。一人でも二人でも、救えるだけでいいということだ。
 横に来ている探春に目をやり、頷いてくれたことを確認してから、引き受けた。
「ま、行ってみるけどね」
 甘い期待はしないでよ、という含みを持たせたつもり。
 それでも司法局としては、あたしたちに依頼するのが一番確実なのだ。こういう仕事は、法でがんじがらめの軍にはできない。情報部には大きな戦力はないし、特殊部隊は細かい細工が苦手ときている。そのくせ、互いに協力するのは下手くそ。
 まして、違法都市に潜伏して、細々と情報集めをしている司法局員では、市街戦や艦隊戦の指揮など、シミュレーション以外にはしたこともない。辺境で生まれ育ち、私有艦隊を持ち、違法都市に詳しいハンターでなければ、まずできないことだ。
 あたしは別室にいたミオを呼び、仕事の依頼を受けたことを話した。
「すぐに、違法都市へ行くことになる。怖かったら、家に戻って待っていればいい。仕事がすんだら、また迎えに来るから」
 ミオはやや顔をこわばらせたが、もはや覚悟はついているようだ。
「一緒に連れていって。役に立てることがあったら、何でもします」
 まあ、どうなるものか、一度連れていってみるか。
 気が咎めるのは、ミオの両親に本当のことを言えないからだ。気晴らしに旅行に連れていきます、ということにしたけれど、すっかり信用されているのが申し訳ない。
 父親は端正な紳士(妻にぴったり寄り添っているのでなければ、口説きたいタイプだ)、母親はミオによく似た優しげな美人だけれど、二人はかえって恐縮していて、
「サンドラさんが優しくしてくれるからといって、あまり甘えてはだめですよ」
 とミオに言ったりする。あたしがほとんど毎晩、ミオを抱いて寝ていると知ったら(何かするのは、三日に一遍くらいだけれど)、卒倒するかもなあ。あたしが男ならまだ、正常な関係といえるかもしれないけれど。
 女同士で何かしたって、発展性がないじゃないか、とあたしは思う。
 いや、当事者がそれで満足なら問題はないけれど、この場合は違う。あたしはやっぱり、男性と恋愛したいのだ。
 ミカエルを知った今となっては、他の男性の魅力が、大幅に薄れたことは確かだけれど。

 あたしたちの私有船が《ベルグラード》を離れ、中央の外れへ向かうにつれ、ミオは不安が増してきたようだった。主要航路をはずれると、もはやすれ違う船もない。パトロール艦すらいない。
「本当に中央を出るのね、すごい」
 と手を握りしめている。あたしたちには慣れた往来であるが、ミオには大冒険だろう。まともな市民は一生、無法の辺境などに縁なく過ごすものなのだ。運悪く、違法組織がらみの事件に巻き込まれたりしない限り。
「この船で、違法都市に乗り込むの?」
「ううん、これは民間船として登録してあるからね。途中で、他の船に乗り換えるよ」
 しかし、この《エスメラルダ》もまた、うちの一族の工場で仕立てた高速戦闘艦である。軍が知ったら、サンプルとして欲しがるだろう。辺境の技術の方が上だということは、違法艦船を追った軍人ならば知っている。中央での発明・発見はいずれ辺境に流れるが、逆はあまりないからだ。
「他の船もあるの? 映画みたいな戦闘艦隊? 本当に核ミサイルを撃つの? 細菌兵器や反物質なんて、使うことある?」
 ミオはあれこれ、大まじめに聞いてくる。やれやれ。
 あたしだって別に、好きで核兵器を使うわけではないけれど(探春なら、あなたいつも楽しそうに発射命令を出しているわよ、と言うかも)、宇宙空間での戦闘では、他に敵の防備を破る方法がないのだから仕方ない。
 その他、必要ならどんな武器でも使う。たまには誰か、悪党どもを震え上がらせる存在がいた方がいいのだ。
 もしかしたら、一度、あたしが冷酷なハンターであることを、ミオに見せつけた方がいいのかもしれない。ミオはまだ、あたしのごく一部しか見ていないから、いい方に誤解しているのだ、たぶん。
 あたしはもちろん、『正義の味方』であろうとしている。しかし、誰が正義を決められるのだ。いま、あたしが正しいと信じていることも、百年か千年経てば、
『何という野蛮と独善』
 と言われるかもしれないだろう。
 いや、百年待たずとも、ベイカー捜査官の家族は、あたしを冷酷な殺し屋だと感じているに違いない。
 中央のはずれに出ると、呼んでおいた艦隊が待っていた。高速偵察艦、中型戦闘艦、補給艦などの混じった三十隻ばかりの編成である。
 辺境のあちこちに伏せてある、無人艦隊の一つだった。これまでに潰した違法組織の何割かを、そのまま残して《ナギ》の管理下で活動させ(むろん、悪質な商売からは撤退させる)、あたしたちの艦隊の補給基地や隠蓑として使っているのだ。
 ミオと探春を連れ、荷物と美青年人形を《エスメラルダ》残したまま、そちらの指揮艦に移乗した。
「また戻ってくるし、必要なものは、どの船にも置いてあるからね」
 と話しながら、1G居住区に降り立つ。
「お帰りなさいませ」
 新たな船で出迎えた黒髪の美青年を見て、ミオはあたしを振り向いた。
「これもナギなの?」
「そう。あたしたちの船はみんな、《ナギ》っていう統合管理システムの制御下にあるんでね」
 中年男の姿や、若い女の姿をした人形も多く作ってある。必要に応じて、他組織に潜らせたり、偵察仕事をさせたりするのだ。普段から彼らを全ての違法都市に潜伏させてあり、必要な情報はそこから得られるようになっている。
 ミオに船室を一つ与えて、着替えや日用品などをナギに揃えさせた。あたしと探春には、既にそれぞれの部屋がある。
「どう、何か困ることは?」
 と部屋に様子を見に行ったら、ミオは整えられたベッドに座って、戸惑う顔をしている。
「何も困らないけど……あの、サンドラたちって、お金持ちなの?」
 あたしは笑った。普通の市民の感覚では、遊覧用のクルーザー以上の航宙船は、軍隊や会社組織が持つものなのだ。
「さあ、どうだか。貧乏ではないけど、稼ぎはあらかた、艦隊や装備に注ぎ込んでるからね。一回ドンパチをやると、かなり消耗するし」
 船や武器や食料などは、ほとんど実家の所有する工場群から買っているので(保安上、そうでなければ安心できない)、実費で済むからおおいに助かっている。もちろん、ヴェーラお祖母さまは、孫娘からもしっかり金を取る。
 金持ちなのは、実家である。三百年以上の歴史を持つ、老舗の違法組織。
 あたしが好きに暴れ回ってこられたのも、実家の後ろ盾という面が大きい。直接の援助を求めることはそうないけれど、何かの時にはあてにできる。
 ミオはじっとあたしを見ている。不思議そうというよりは、悲しそうな顔だ。
「どうしたの?」
「いえ……」
 ためらってから、おずおずと言う。
「わたし、もしかしたら、すごい人についてきたんだなあと思って……」
 笑ってしまった。
「それはどうも、ありがとう」
 するとミオは、むきになる。
「だって、伝説のハンター≠ナしょ。違法組織を、何百、何千と潰してきたんでしょ。辺境中から恐れられているんでしょ」
 照れるではないか。
「それはね、半分かた、司法局の誇大広告だよ」
 と謙虚に言っておく。
「実際には失敗もあるし、この間みたいに怪我をすることもあるし。本当に無敵だったら、誰も苦労しないよ。たまたま、勝てる相手としか戦ってこなかっただけ」
 すると、ボブのかつらのミオは、あたしにしがみついてきた。
「わたし、これから勉強して、サンドラの役に立てるようになるから。どうしたらいいのか、教えて。銃が撃てるようになればいいの? 爆弾や毒薬の種類がわかるようになればいいの? わたし、大学では、農業や牧畜関係の勉強ばかりだったから」
 こんなことなら、工学や戦闘方面の勉強をしておくのだったとミオは悔やむ。
「そうだね。まあ、そういうことも、知らないよりは知ってるほうがいいけど」
 ミオに危ない真似をさせるつもりはない。探春が、軍人並みの訓練が必要だと言ったのは、脅しに近い。普通人であるミオに、無理をさせることはないのだ。
「ハンターの仕事はあたしと探……ヴァイオレットがするから、ミオはまあ、お茶の支度をしてくれるとか、楽しい話をしてくれるとかして、あたしの憩いの場所になってくれるといいな」
 するとミオはまた、真剣な黒い瞳であたしをみつめる。
 そろそろまずいかな。あたしはつい、探春のことを探春と呼んでしまうのだ。いい加減、本名を教えろと言われるかも。
 けれど、ミオは表面的ににっこりした。
「ええ、雑用はします。でも、戦うための勉強もするから、わからない所は教えてね」
 うーむ、女の子というのはわからない。本当に、ずっとあたしについてくるつもりなのだろうか。
 あたしも昔は女の子だったのだけれど、どうも、標準的な女の子ではなかったからなあ。
 そもそも『誰かについていく』という発想はなかった。自分一人でどんどん勝手に、世界を広げていったものだ。
 何しろ、銃とバイクと日本刀が好きだった。チンピラに喧嘩を売って、叩きのめすのが趣味。ミカエルがあたしとの婚約を破棄したのも、探春のことは口実で、あたしの野蛮さに恐れをなしたせいかも……
 だとしたら、いっそ本当に、ミオを恋人にしてもいいのかもしれない。相手が男か女か、こだわることが間違いなのかもしれないだろう。

 

「あのね、わたし、小さい頃から、何度も嫌な目に遭ってきたの」
 薄暗がりの中、ベッドであたしに寄り添って、ミオは色々な打ち明け話をする。
「ちょっと油断すると、すぐ男の子につきまとわれてね」
 それは、うらやましいことに聞こえるが。
「一つ一つは、たいしたことじゃないのよ。手を握られたり、肩を抱かれたり、キスされたりとか。でも、男の子って、それをすぐ友達に自慢するのよ。やってやった、みたいにね。それって、わたしを馬鹿にしてるってことでしょ? 人を獲物か品物みたいに思ってるのよ」
 いいなあ。なんて華やかな日々。そんなにしばしば、男たちに言い寄られるなんて。
 でも、そんなことを言ったらミオが傷つくだろうから、あたしは真面目くさって同意する。
「そうだね。ミオの気持ちを考えないのは、間違いだ」
 寝間着にしているスリップドレス一枚のミオは、あたしの腕にしがみつき、安心したように言う。
「サンドラに会えてよかった。もう二度と、あんな連中と付き合わなくていいんだもの」
 いやいや、付き合う方が健康だけどなあ。
「モデルをしている時も、よく変な誘いを受けたの。仕事がなくなるのは困るから、我慢して穏やかに断っていたけど、本当に悔しかったわ。愛人になれとか、ポルノみたいな写真を撮らせろとか。ギャラを上積みすれば、何でも言いなりになるなんて、どうして思うのかしらね」
 やれやれ。探春もそうだが、なまじ綺麗に生まれると、苦労が多いらしい。家族以外で唯一信頼していたパーシスにも裏切られて、ますます強固な男性不信だ。
 といって、あたしが男を弁護したら、ミオは行き場がないだろうし。
「よしよし、あたしの船は男子禁制だから。裸で暮らしても大丈夫だよ」
 と慰めた。本当は、あたしも、愛人になれなんて言われてみたいけど。大抵の男は、あたしを怖れて遠回りするからなあ。
「うふふ」
 ミオは嬉しそうに、あたしの肩に頭をもたせかける。あたしの腕がミオの胸の谷間にはまりこんでいて、くすぐったいやら、恥ずかしいやら。
 つくづく、ミオの立場がうらやましい。船室の防音は完璧だから、あたしの下で好きなだけ声をあげ、のけぞって、満足してぐったりできる。
 でも、あたしは中途半端に興奮するだけで、満足どころではない。本当の男だったら、どれだけ楽しいだろうかと思うだけ。
 あたしがして欲しいと思うことを、そっくりミオにしているだけだものね。
 ま、でも、本当は男もそうなのかもしれない。男の鎧を脱いで、女に甘えたいというのが本音かもしれないのだ。
 その本音を受け止めてくれる相手に巡り会えれば幸せだろうが、そうでなかったら辛いだろうなあ。
「ミオ、明日は違法都市に上陸するから、あんたは船で留守番しておいで。仕事が片付いたら都市内を見せてあげるけど、不愉快なものにぶつかる覚悟はしておくこと」
「はい、大丈夫です」
 ミオは真剣に答えた。映画や資料をあれこれ見たおかげで、違法都市の恐ろしさを、かなり理解するようになっている。
 繁華街で、バイオロイドの娼婦が客引きしているだけではない。公園や緑地で、違法ポルノの撮影をしていることもある。五年の生存期限のきたバイオロイドの女たちが、兎狩り≠フ獲物にされ、やはりバイオロイドの新兵たちに追い回されることもある。
 その新兵たちも五年後には用済みとなり、培養されたばかりの新兵たちの訓練台にされるのに。
 そういう世界では、本物の人間も殺伐としてくる。逃げるバイオロイドをボウガンの的にしたり、車で轢き殺したりするのが趣味、という人間の男も少なくないのだ。
 また、そのくらいの神経でなければ、違法都市で勝ち残れない、ということもある。
 安定した大組織の一員になれば、のんびり暮らすこともできるだろうが、そこに届かない中堅以下の組織では、互いに食い合って勢力を広げるしか、やりようがない。
「よし、いい子だ」
 ミオの頭を、軽く撫でた。まだつんつんの坊主頭だが(あたしも同様)、皮膚はだいぶ回復してきた。半年もすれば、元通りの美しさを取り戻すだろう。あたしと比較すれば、じれったいほどの回復の遅さだが、治るとわかっているだけで安心だ。
「じゃあ、おやすみ」
 ミオの額にキスをして、静かに横になる。ミオはすぐ眠ったが、あたしは闇の中で考えていた。
 強く生まれてあらゆる責任を引き受けるのと、弱く生まれて庇護されるのとでは、どちらがいいのだろうか。
 もちろん、強い方がいいに決まっている。弱くて、しかも庇護されない者の悲劇を、いやというほど見てきたのだから。
 あたしが救って、従兄弟のシレールに託したバイオロイドたちはいい。あるいは、中央の施設に預けた難民たちも。彼らはちゃんと再教育を受けて、自立できるよう援助してもらえる。
 でも、五年で使い捨てられていく、圧倒的多数のバイオロイドたちは。
 ミオだって、あたしたちが強引に病院へ連れていかなければ、一人でくよくよ悩むだけで、また次の被害を受けていたかもしれない。
 ハンターとして戦い始めて、もう半世紀以上。
 世の中、少しはいい方に変わっているのだと思いたいけれど。

 そっと起き出して、探春の船室を訪ねてみた。寛いだ部屋着姿ではあるけれど、まだ起きている。あたしを見ると、刺繍の道具を下に置いてにっこりした。
「一杯、付き合わない?」
 と誘うと、安堵したようだ。
「ええ、いいわね」
 あたしたちの部屋にはウィスキーやジン、レモンジュースや炭酸水、リキュール類が置いてある。探春はいそいそ氷とグラスを用意し、即席のカクテルを作ってくれた。まさしく、妻そのもの。
 本当は、あたしの私生活には、探春以外、誰も必要ないのかもしれない。ただ、それでは飽き足らない自分が、欲張りという病なのかも。
「明日はよろしく」
 と言うと、慣れていることなので、
「ええ、あなたこそ、気をつけて」
 とゆったり答えてくれる。《ナギ》が制御するスパイ人形たちの偽装、オークション会場周辺の武装車の配置、予備の戦闘艦の待機位置、全て綿密に打ち合わせ済み。
「ほんと、探春がいるから、今までやってこられたよ。あたしの命綱だな」
 と言うと、白い頬にいくらか赤みがさす。アルコールのせいではないだろう。あたしたちは、飲んでもほとんど酔わない。
「ミオが来てから、とみにご機嫌とりがうまくなったわ」
「そうかな。前と同じにしてるつもりだけど」
「あら、やっぱり、ご機嫌とりなのね」
「いや、そうじゃなくて」
 でも、探春はくすくす笑う。
「いいのよ、あなたにちやほやしてもらうの、好きだから。どうぞおだててちょうだい」
 いい感じだ。
「別に、心にもないお世辞を言ってるわけじゃないよ」
「半分くらいお世辞?」
「百パーセント本気。でも、お世辞が聞きたいなら、いくらでも言ってあげるよ。花より綺麗。蜂蜜より甘い。たまに、蜜蜂みたいに刺す」
「どこがお世辞?」
 探春が遊びたがっているのを感じたので、あたしはいきなり細い躰を抱え上げ、ベッドに落とした。そして、上からのしかかって押さえ込み、脇の下をくすぐる。
「ほーら、そっちこそ、あたしにお世辞を言わないと、許してあげないよ」
 探春はくすぐったがってきゃあきゃあ騒ぎ、笑い転げた。
「だめ、許して、世界で一番かっこいいわ」
「そりゃ事実で、お世辞じゃないでしょ」
「世界で一番美人」
「うーん、それなら多少はお世辞かも。あたしは精々、三番目か四番目だな。一番はもちろん、この誰かさん」
 これは別に追従ではない。探春は子供の頃から、あたしの憧れの美少女だった。もしもあたしがこんな風に、上品に優美に生まれていたらと、羨望のため息をついたものである。
 それでも結局、あたしは戦闘的で図太い自分が、自分で気に入っているのだけれど。
「さあ、もっと何か言わないと、足の裏くすぐっちゃうよ」
「やっ、だめ、そこはだめ、助けて」
 しばらくそうしてもつれ合ってふざけ、頃合いをみて、上気している探春の額におやすみのキスをする。
「また明日ね。おやすみ」
「おやすみなさい……」
 一瞬だけ、探春が何か続けて言いたそうな目をしたが、言わずに目を伏せた。多分、聞いても無駄なことだ。
 ミオを家へ帰せと言われても、今は応じられない。探春に、あたしにいたわられる権利があるなら、ミオにもあるではないか。
 あたしはミオの部屋に戻り、寝息をたてている娘の隣に、そっと潜った。愛人と正妻の間を行き来している男は、さぞ疲れるだろうな。どちらも大事で、可愛いとしたら。

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