ブルー・ギャラクシー ミオ編

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8 紅泉

「お疲れさま」
 夜、ミオを自宅に送り届けてからホテルに戻ったあたしを、探春が出迎えてくれた。
 探春はよく藍染めの浴衣を部屋着として着るのだが、今夜は白地に赤い花模様の新品で、いつもより華やかだった。帯は、深緑の地に黄色やベージュの葉っぱ模様。茶色い髪は、銀細工の簪一本で簡単にまとめている。
「ただいま。おお、可愛いね」
 まず、前髪のかかる額にキスをして、浴衣姿を誉めておく。
 探春と暮らすこつは、まめに賛美したり、感謝したりすることだとわきまえていた。そうすると、いつも物静かな探春ではあるが、それが目に見えて柔らかくなる。
 言うなれば、花に水をやるようなもの。
「帯も新しいの? すてきだね」
「あら、覚えてないの。この間、あなたが買ってくれたのに」
 と探春はからかうように微笑む。
「あ、そうだっけ」
 何しろたくさんの店を訪ねたし、どの店でもあれこれ見比べたので、最終的に何を買ったか記憶にないのだ。とりあえず、
「よく似合うよ。美人が着ると、何でも一段と引き立つな」
 と言っておく。まるで三流プレイボーイだが、それで従姉妹が気分よく過ごしてくれるなら、万々歳ではないか。
 何といっても、あたしの身勝手で、探春をハンター稼業に連れ回しているのだから。
「それで、お姫さまの様子はいかが」
 と探春が微笑んで尋ねてくる。
 今日、あたしがミオ・バーンズの様子を見に行ったのは、朝一番に、特捜部のパウル・ミン本部長から連絡があったからだった。
 彼はあたしたちが事件摘発のきっかけを作ったことに感謝してから、他星の類似事件で被害に遭った女性捜査官の話をしてくれた。
 モデルクラブに潜入していて、知らないうちに深層暗示をかけられていたという娘だ。
『わたしも《テンシャン》の支局長と話をしただけで、直接本人に会ったわけではないが、誇り高い秀才だけに、落ち込みがひどいらしい。今は長期休暇を取っているが、下手をすると、そのまま辞めてしまいそうな様子だとか。その、つまり、未経験だったらしくてね。おまけに、相手が複数だったと、後から判明した。その様子を撮影した記録映像を、本人が見てしまってね』
 初体験が犯罪被害では、いくら気丈な女性でも、一生心の傷になるだろう。
『そんなことで、せっかくの捜査官を失うのは惜しいな』
 すると、探春が言い出したのだ。
『わたし、その方に手紙を書いてもいいかしら。リリス≠フ名で』
 実は、それがミン本部長の狙いだったらしい。
『そうしてもらえるか。よかった』
 と安堵の顔で言う。
『実は、彼女はリリス≠ノ憧れて、司法局に入ったようでね』
 そういう軍人や捜査官は少なくない。あたしたちは、既に伝説≠ネのだ。
『きみたちから励まされたら、きっと気を取り直すのではないかと思う。よろしく頼むよ』
 それで、探春が慰めの手紙を書くことになった。
 その間、手持ち無沙汰のあたしは(お祖母さまに言わせると、あたしの文学的センスや芸術的センスは、お子様レベルだそうだ)、ふと、もう一人の被害者を励ましたらどうか、と思いついたのだ。
 もちろん、この星でも他の被害者が何十人といるのだが、偶然とはいえ、そのうちの一人と知り合ったのだから、ちょっと様子を見るくらい、してもいいだろう。
 あたしは早速、ミオ・バーンズの住所を調べて、出掛けていった。
 いささか強引ではあったけれど、気晴らしをさせてやれたのではないか。
 人間、動いていれば気分も変わる。一人で考え込んでいると、ろくなことはない。
「まだ時々暗い顔になるけど、連れ回しているうちに、笑顔の時間が長くなったよ。自殺の心配はなさそうな気がする」
「そう、よかった」
「それより、手紙を見せてよ。書き終わったんでしょ」
「ええ、これ。汚しちゃいやよ。手書きなんだから」
「うん、わかった」
 あたしは大きな安楽椅子に沈んで、淡い桜色の紙に、探春の上品な字で綴られた手紙を読んだ。

 ――貴女が辛い思いをしていることは、同じ女性として、よくわかります。でも、貴女は人間として、捜査官として、階段を一段上がったのだと思ってください。
 そんな階段は、永久に上がらなくてもよかったと思うでしょうけれど、このことがなくても、いつかはどこかで、別の試練を受けることになっていたでしょう。
 人は生きている限り、必ず傷つくもの。
 でも、困難な仕事を志した貴女には、再び立ち上がるだけの強さがあるはずです。泣きたい時には思う存分泣いていいから、泣くのに飽きたら笑ってみて。
 きっとこれから、犯罪の被害に遭った人に対して、深い思いやりを持てるようになるでしょう。貴女が傷を受け、そこから立ち直ったことが、傷ついた人を癒す力になるでしょう。
 捜査官の仕事は激務ですから、無理に続けなくともよいと思いますが、どこで暮らしても、どうか周囲の人を温めるような女性でいてください。

 ざっとそんな意味のことが、数枚の便箋にびっしり書かれていた。人生の先輩として、若い娘を真摯にいたわる気持ちが溢れている。汚さないうちに、探春に返した。
「これで送っていい?」
 リリス≠フ名で送るのだから、あたしの承諾が必要、と探春は思うようだ。
 正確には、そのコード名は、あたしと探春のペアのことである。代表して一人、と言われたらあたしだと思うが、あたしが存分に宇宙を駆け回ってこられたのは、探春の補佐があってこそ。
「うん、すごくいい手紙。これを読んだら、きっと少しは元気になるよ。何しろリリス≠フ直筆だもの。もしも競りにかけたら、マニアが高値をつけるから、暮らしの役にも立つ」
 あたしが笑うと、探春もにっこりする。
「指紋は落としておくわ、もちろん。さあ、お食事にしましょうか。どの店に注文する?」
 外に食べに出てもいいのだが、探春は室内でくつろぎたいらしい。それにまた、あたしが大食いして、店の従業員や、周囲の客たちから呆れられるのがいやなのだろう。
 ホテル内のレストランに注文しないのは、毒殺を警戒してのことである。
 同じ店には、二度と注文しない。そういう習慣で過ごすことによって、安全度を高められる。
 まあ、他の罠に落ちることは防ぎきれないが。
 やがて届いた料理の山を、秘書のナギが、居間の大きなテーブルに並べていく。同型の美青年を、地下駐車場の専用車にも、上空の衛星軌道の船にも置いてある。辺境の各宙域で待機させてある艦隊にも、同型、もしくは異型の人形たちを乗せてある。
 彼らの食事は、特製の栄養ドリンクと栄養バーのみ。食事を楽しむという機能はない。そもそも、心というものがない。
 最初から、心が発生しないように作ってあるのだ。
 もしもアンドロイドが心を持ってしまったら、給料も必要になるし、休暇も取らせなくてはならない。そもそも、あたしたちの下で働いてくれるかどうかも、尋ねなくてはならない。
 だから、使い捨てにできる、単純な人形の方がいいのである。

 あたしと探春は向き合って、泡盛のオンザロックで乾杯した。大皿の料理を取り分けて、満足するまで食べる。
 麻婆茄子、青菜と海老の炒め物、春雨のサラダ、蟹肉のフライ、フカヒレのスープ、肉団子の煮込み、蒸し餃子、鮑のステーキ、三枚肉の入ったちまき。デザートはライチーに、ココナツミルクのババロア。
「ああ、おいしかった、幸せ」
 満腹すると、あたしは靴を脱ぎ捨て、ごろりとソファに寝そべる。
 ナギが、残骸を積んだワゴンを通路へ出した。それは、ホテル側のアンドロイドが片付けるだろう。
 市民社会で使われるのは、一目で人形とわかる、灰色の皮膚をしたアンドロイドばかりだ。ナギのような、人間そっくりのアンドロイドは、市民社会では違法なのだ。リリス≠フ仕事に必要だからと、特例で市民社会への持ち込みを認めさせただけ。
 地下の車にいるナギは、適宜、ホテル内外を一回りする。ホテルの警備システムや、地元警察の情報収集システムにもアクセスし、異変がないかを確認するのが仕事。
 もしも、あたしたちが爆弾で吹き飛ばされたら、周囲の市民にも死者が出てしまうから。毒ガス攻撃もあるかもしれないし、遠距離狙撃もありうる。用心して、それでも暗殺されたら、その時は仕方ない。
 探春はあたしの斜め横の椅子に座り、趣味である刺繍の道具を広げた。今は、長襦袢にかける半襟の一枚に、花の刺繍をしているらしい。
 あたしから見ると、気が遠くなるほど複雑な図案を、精密に糸で埋めていく。信じられない技術と忍耐力である。
 そうやって、あたしの使うハンカチやクッションカバーにも刺繍してくれるのだが、正直いって、あたしは怖い。
 汚すのが勿体なくて、使えないではないか。
 そう言うと探春は、
『汚れたら洗えばいいし、それで痛んだら、また刺繍するからいいのよ』
 と笑うのだが。
 これだけ探春が熱心に手をかけたものを、ほいほい使い捨てにできるほど、あたしの神経は太くないのだ。
 本当のところ、あたしは麗香姉さまの次に、この従姉妹を畏怖している。
 あたしなら、怒っても爆発しても、翌日にはけろりと忘れているが、探春はそうではない。
 滅多に怒らない代わり、いったん怒ったらおしまい。一度嫌った相手は、頑固に嫌い抜く面がある。
 少年時代のシヴァが、そういう損な役回りだった。
 本当の悪ガキではなく、少年期特有の突っ張りに過ぎなかったのだが、それが探春を脅えさせたのである。
 何しろ初対面の時、いきなり探春の髪をぐいと引っ張って、すてんと転ばせたのだから。
 それまで彼は、養母である麗香姉さまの手元で育てられていた。シヴァの元になった冷凍受精卵を残した母親は(後から姉さまが強化処置を施したので、親の形質はそれほど残っていないかもしれない)、やはり他組織との戦闘で亡くなったと聞いている。
 彼は実際には、従兄弟よりもう少し遠い血縁だが、一族内の同世代だから、兄妹のようなもの。
 シヴァは十歳を過ぎてから、初めてあたしたちの暮らす《ティルス》の屋敷に連れてこられたのである。唯一の友達だという大型犬を一匹、お供にして。
 シヴァがそれまで、麗香姉さまの隠居所である小惑星に閉じ込められていたのは、特製の強化体だったからである。
 力の制御ができないうちは、簡単にものを壊したり、犬や猫を抱き潰したりしてしまう。
 うっかり年下の従姉妹と遊ばせて、骨折させたり、内臓破裂させたりしたら大変である。あたしはともかく、探春は数段、華奢だったから。
 そこで、ある程度の分別がつく年齢まで、隔離されていたわけだ。
 その寂しい生活がまた、彼をひねくれさせてしまったのかもしれない。力のありあまった男の子を育てるのに、いくら遺伝子改造責任者でも、麗香姉さま一人では、やはり無理があっただろう。
 あたしももちろん、小さい頃は、厳重な監視つきでなければ、探春と遊ばせてもらえなかった。あたしなりに気を遣っていたのだが、うっかり階段から突き落としてしまって、怪我をさせたこともある。シヴァだけを責められない。
 とにかく、二人の従姉妹との顔合わせの時、彼は初めて、女の子というものを間近に見たらしい。
 はたしてどんな生き物であるのか、確かめたい気持ちがあったらしいのだが、短髪で縞シャツにショートパンツのあたしより、長い髪にリボンで、ふわふわドレスの探春の方が、より珍しく見えたことは間違いない。
 シヴァとしてはおそらく、軽い気持ちで、実験的に髪を引っ張っただけなのだろう。
 それでも、強化体の腕力である。小柄な探春にとっては乱暴すぎた。床に倒れてしまい、ショックで呆然とし、半泣きになった。
 あたしは憤慨して、
『何すんのよ!』
 と悪ガキに掴みかかり、初の取っ組み合いになったのだ。
 あたしにとってもシヴァにとっても、新鮮な体験だった。こいつなら、壊れ物扱いしなくても大丈夫だ!!
 それ以降の数年間、シヴァはあたしにとって格好の遊び相手だった。
 木刀で立ち合ったり(合金の芯入り。でないとすぐ折れる)、覚えたての関節技をかけ合ったり(間違って男の子の弱点を蹴ってしまって、悪いことをした)、サッカーボールを奪い合って二人と一匹で走ったり(大型犬のショーティは、サッカーの相手が得意だった)、マウンテンバイクで崖下り競争したり。
 向こうの方が二つ年上だったし、あたしより一回り大柄だったので、あたしが全力でぶつかっても壊れなかった。
 向こうはもちろん、あたしに怪我をさせないよう、手加減してくれたし。
 おそらく、あたしより強い男というのは(あくまでも体力面での話だが)、辺境全体を見回しても、シヴァくらいのものではないか。
 ところが、あたしには面白い遊び相手が、探春には怖かったらしい。
 彼もまた、脅える女の子が珍しいらしく、試しに蛙や毛虫を投げつけてみたり、捕まえた百足や蛇を見せびらかしたりするものだから、たまらない。
 探春は彼の姿を見ると、素早く大人たちの後ろに逃げ込むようになってしまった。
 馬鹿な奴である。探春と仲良くなりたいのなら、花でも摘んでやればよかったのに。
 もちろん、年齢が上がれば、そういう幼稚な悪戯はしなくなる。
 それどころか、彼は探春に憧れて、密かに遠くからみつめていた。ある時など、探春の置き忘れたハンカチを、そっとポケットに隠して持ち去ったほど。
 あたしのことは全然、女だと思ってくれなかったが、 (ちぇっ。男はしょうがないなあ)
 とほろ苦く思いつつ、彼の思いが届くように、と祈ってやったものだ。
 それでも、探春は絶対にシヴァになつかなかった。やがて、彼は遠い姉妹都市へ移され、それから数年のうちに、家出して一族の前から消えてしまった。
 惜しいことだ。
 彼が焦って、馬鹿な真似をしでかさなければ……探春だって、いずれは心を許してくれたかもしれないのに。

 夜中近くまで、あたしはソファでニュース番組を見ていた。
 人口の多い主要星系のニュースだけで、かなりの情報量になる。子供たちの演劇大会とか、手作り自動車レースとか、プロが腕を競う花火コンテストとか、明るい話題が多いのが嬉しい。バカンスの時は、悲惨な事件のことなんか聞きたくないからなあ。
「さあて、明日は何をしようかな」
 とつぶやいたら、探春が刺繍から顔を上げて微笑んだ。
「本当は、わたしも行きたかったわ、遊園地」
 あ、そうだったのか。天気が悪かったり、美術展を優先したりして、まだ二人では行っていなかったから。
「じゃ、明日行こう。ちょうど、天気もいいし」
「二日続けてで、あなたはいいの?」
「うん、今日はミオのお守りだったから、ごく一部しか回らなかったし。ちょっと遠くてよければ、もっと大きな遊園地もあるし」
「じゃあ、そっちへ行きたいわ。途中で何か買って、芝生の上でランチにしましょ。いま、外遊びに一番いい季節なんだもの」
「オーケイ、そうしよう」
 探春が自分の希望を言ってくれると、あたしも安心である。
 怖いのは、知らず知らずのうち、探春に我慢を強いてしまい、負担をかけてしまうこと。
 探春はいつも、限界ぎりぎりまでこらえて、微笑んでいる性格だから。
 用心してはいるのだが、幼なじみの気安さで、つい探春に甘えてしまうのだ。本当は、限界に達するずっと手前で、あたしにそう言ってくれればいいのだけれど。
「今日は一人にしてしまって、ごめんね」
 と謝ると、
「いいのよ、のんびりできたから」
 と優しく答えてくれる。
 まあ本当は、たまに別行動をとった方がいいのである。そうすれば、お互い、何か新しい出会いがあるかもしれない。
 いや、あたしにはミカエルがいるけれど……離れていても、心は通じていると信じていられるけれど……探春には、男嫌いを治してくれる出会いがあった方がいいのではないか?
「一緒に寝ようか?」
 と誘うと、
「今日は一人で平気よ」
 とにっこりする。よかった。あたしは一人の方が、安心して眠れるので。
 探春を横に寝かせると、夜中に間違って肘をぶつけやしないか、上掛けを独り占めしたりしないか、眠りながらずっと気にしていることになる。
「それじゃ、明日は遊園地ね。おやすみ」
 茶色い前髪のかかる額にキスをして、自分の寝室に引き取った。
 探春は絶叫系の乗り物より、おとぎの国列車とか、ポニーでお散歩とかいうのが好きだから、あたしには物足りないのだが、それは別にいい。スリルと興奮なら、あたしは仕事の時、十分に楽しんでいるのである。

 翌朝、意外なことになった。いや、別におかしなことではないが。
 可愛いレモン色のツーピースを着たミオが、手作りのオレンジケーキを持って訪ねてきたのだ。
「あの、昨日は遊んでくれて、ありがとう。これ、お口に合うかどうかわからないけど、お礼に」
 ドアの外に立って恥ずかしそうに箱を差し出すので、あたしはほっとする。だいぶ立ち直っているようだ。
「ありがとう、喜んでいただくよ。おいで、ヴァイオレットもいるから」
 探春は長い茶色の髪を結い上げ、たくさんある真珠のイヤリングの中からグレイの粒を選んで身支度をしていたが、改めてミオを引き合わせると、にっこりした。
「まあ、手作りのケーキなんてすてき。よかったら、一緒にお茶にしましょう」
「でも、予定がおありでは……」
「遊びに行くとこだったんだ。ミオも行く?」
 軽い気持ちで誘うと、ミオはさっと顔を輝かせた。
「わたしも行っていいの?」
「もちろん。大勢の方が楽しいよ」
 辺境生まれの違法強化体が、中央の市民と個人的に親しくなるのは危険なのだが、この場合はリハビリである。ミオが明るい顔になることなら、してやってよいだろう。
 ただし、今日は探春のことを、ヴァイオレットと呼ばなければならない。あたしたちの本名や出身地は、長年の戦友であるミギワ・クローデル司法局長にすら教えていないのだ。
 もしもの時、故郷の一族を巻き添えにしないため。
 仇敵である連合≠ノは、とうに突き止められているかもしれないが。
「じゃ、ケーキは向こうで食べよう。昨日とは別の遊園地へ行くつもりだったんだ」
 レンタル車にミオと探春を乗せ、首都郊外へ向かう快適な道路に乗った。空はよく晴れて、風はさわやか。
 今日はミオもだいぶ慣れてきて、あれこれと質問してくる。サンドラのお仕事は? ヴァイオレットさんも同じ仕事なの?
 ハンターだとは言えないし、捜査官だと言うのも何なので(職務であやされたのだと思って、ミオが傷つくかもしれない)、あたしたちは偽装用の身分の一つである、私立探偵だと名乗ることにした。
「まあ、探偵さんなんですか」
「ええ、サンドラは腕利きの探偵なのよ。わたしは助手をしているの」
 藤色のサマーニットに白いミニスカートの探春が、にこやかに嘘をつく。
 迂闊に真実は言えないのだ。あたしたちは、六大組織が率いる連合≠ノ命を狙われる身。
 現在の辺境星域は、かなりの部分が連合≠フ支配下にある。
 六大組織の下に、数百の直系組織。
 更にその下には、数千から数万の孫組織。
 系列に組み込まれていない、独立志向の中小組織もあるが、大抵は、やむなく上納金を納めている。見逃されているのは、吹けば飛ぶような弱小組織だけ。
 うちの実家の一族のように、ある程度の規模を持つ古い組織は、何とか独立を保っていられるが、違法都市《ティルス》がリリス≠フ故郷と知れたら、それだけで潰されてしまうかもしれない。
 その連合≠ェ、惑星連邦内の重要人物の首に、高額の懸賞金をかけていた。
 違法組織を憎む、硬派の政治家や軍人に。遺伝子操作や人工生命を認めない、保守的な学者や文化人に。
 そして、辺境生まれでありながら、市民社会の側についたリリス≠ノ。
 そういう大物たちを潰していけば、惑星連邦は弱体化する。
 ただでさえ、野心的な若者や、失うもののない老人は、不老の技術が得られる辺境へ出ていくのだから。
 だが、長命自体は、別に構わないではないか? 人間が数万年生きたところで、宇宙の寿命からすれば、ほんの一瞬にすぎないのだから。
 古い道徳に凝り固まって、遺伝子操作も不老処置も認めない市民社会は、いずれ滅びるのではないか、とあたしも思うことがある。
 多くの市民は、生命操作を解禁したら、世界は怪物で溢れてしまうと恐れているのだ。何も、そう悲観的にならなくてもいいだろうに。

 遊園地は楽しかった。
 ミオはよく笑ったし、よく食べた。食欲があるなら大丈夫だ。
 途中で食料を仕入れていって、他の家族連れ同様、緑地の木陰でシートを広げてお昼にしたのである。
 ベーコンとホウレン草のキッシュ、ローストビーフのサンドイッチ。大根と貝柱のサラダ、人参とレーズンのサラダ。蛸のマリネにチキンの空揚げ、フライドポテト。アップルパイに苺のタルト。
 ミオの焼いたオレンジケーキも美味しかった。近くの売店から冷えたビールを買ってきて、三人で乾杯する。
 ミオは最初、アルコールを忌避する様子だったが、あたしがついていることで、少しなら大丈夫だと思い直したらしい。
 何度も一日分の記憶を失ったのは、ミオがお酒を飲み過ぎたせいではなく、薬と深層暗示のせいだったのだから。
 近くには幼稚園の団体がいて、子供たちが芝生に座ってお昼を食べたり、きゃっきゃと遊び回ったりしていた。やがて先生たちの指図に従って、きれいにまとめられて行列になり、立ち去っていく。あれだけの子供たちを、一人もこぼさず引率するなんて大変だ。
 ミオがじっと見送っているので、
「子供は好き?」
 と聞いてみた。すると、顔が輝く。
「ええ、好き。いつか農場を作ったら、子供たちの体験学習の場にしたいの」
「農場?」
「ええ、あの、祖父母が昔、広い土地を持っていたの。野菜や果物を育てて、牛や豚も飼っていたのよ。犬がいて、鶏がいて。わたし、いつかあの風景を取り戻したいの」
 ミオは熱心に話してくれた。本物のハムやベーコンを作る農場にするのだという。モデルをしていたのは、そのための資金作りなのだそうだ。
「へえ、それはすごいな。すてきな夢だね」
 あたしが感心すると、ミオは心配するような顔で言う。
「あの、サンドラ、野蛮だと思わない?」
「え、何が?」
「だって、動物を殺すわけだから……」
 ああ、そうか。
 中央の市民には菜食主義者も多く、肉は植物蛋白から作る合成肉しか食べない、という人々がいる。ミオも友達から、動物を殺してハムを作るなんて、と非難されたことがあるらしい。
「別に、悪いことだとは思わないな。人間は昔からずっと、他の動物を殺して食べてきたんだもの。それが自然の摂理でしょ? 感謝して命をもらう、というのが宗教や道徳の始まりなんじゃないの」
 あたしがそう言うと、ミオはほっとしたようだった。探春に尋ねる。
「ヴァイオレットさんも、本物のお肉は平気ですか?」
「ええ、大丈夫よ。お料理は好きだし」
 山籠もりの時、あたしが仕留めた猪一頭、あるいは鹿一頭、平気で料理するとは言わなかった。
 実戦の勘を鈍らせないため、あたしは年に一度、適当な山奥でナイフ一本の野生生活を送るのだ。
 探春は登山用のテントか、快適なトレーラー内で眠るけれど、あたしは寝袋か、即席の山小屋で寝る。
 大自然に馴染み、感覚が鋭敏になってきたら、お次は目隠しをして暮らす。そうすると、聴覚だけで鳥や獣を仕留められるようになる。
「それじゃ、農場ができたら呼んでね。本物のハムを食べに行くから」
 あたしが言うと、ミオは喜んだ。
「ええ、きっと呼ぶわ。約束ね!!」
 ミオの細い小指に指をからめて、指切りまでしてしまった。探春の目が、
(あまり深入りしないで)
 と告げている。
 でも、夢を語るのはいい傾向なので、励ましておきたい。せっかく、瞳をきらきらさせているのだから。

 午後は、パラグライダー乗り場で遊んだ。
 子供や初心者用なので、わずかな距離しか飛べないが、ミオにはちょうどいい。緑の斜面を駆け降りて、ふわりと空に浮く。風に流されて、ささやかな空中散歩を楽しむ。
 あたしと探春も付き合い、たくさん笑い合った。一生懸命遊んでいれば、余計なことを思い出す暇もないだろう。
 時間が経てば、傷口はふさがれていく。
 本当に治ることはなくても、傷も含めて自分の人生。そういう風に思える時が、きっと来る。
 夕方は車を飛ばし、鉄板焼きの店に寄った。
 じゅうじゅう煙の上がる店内で肉や野菜を焼き、香辛料のきいた何種類ものタレにつけて食べる。炎と煙で賑やかな店なので、あたしが三人前食べても目立たないのがいい。
「ああ、すっかり煙の匂いが染みついちゃったわ」
 とミオは言うが、それでもよく食べて、楽しそうだった。
「わたしも大蒜の匂いがする」
 と探春は悲劇のように言うが、それはみんな同じなのだから、気にしなくていい。デザートにミントのアイスクリームを食べ、あたしも満足する。
 夜風が涼しくて気持ちのいい晩だったので、二人を玄関から外へ出しておき(店の前庭は盛大に篝火が焚かれていて、他の客たちもぞろぞろ散歩している)、あたしは地下の駐車場へ降りて、車を表へ回した。
 ナギは専用車で少し離れて待機していて、万が一の事態に備えているが、異変はない。
 ところが、前庭の横手の道路に出ると、探春とミオは早速、若い男たちのグループに取り囲まれていた。どこかへ遊びに行こう、と熱心に口説かれているようだ。
 ま、男なら、美女に挑戦するのは当然のこと。
 あたしが車を降りて近づいていくと、二人はほっとした顔になった。別にそれほど、怖い状況でもないと思うのだが。
 囲んでいる男たちはまだ若く、無邪気な顔だ。あたしを二人の保護者と見たのか、精一杯の愛想で言う。
「近くに、いい店があるんですよ。一杯どうですか」
「まだ、夜はこれからじゃないですか」
「そんな、急いで帰らなくてもいいでしょう」
 あたしもそう思うが、探春とミオは明らかに迷惑がっている。仕方ない。
「誘ってくれて、ありがとう」
 あたしはにこやかに言う。
「でも、この子たちは、どっちもあたしの恋人なんで。これから三人でホテルに帰って、いいコトするの。悪いね、おやすみ」
 あたしは探春とミオの両方に軽いキスをしてみせ(説得力があるように、唇に)、二人を両側に抱えて車に戻った。
 青年たちは、唖然とした様子で見送っている。車を出しながら、あたしは笑ってしまった。
「本気にしたかなあ、あの子たち」
 けれど、後部座席の探春は怒ってみせる。
「あれは、悪乗りしすぎよ。反省して」
 大丈夫、本当に怒っているのではない。ミオの手前、照れているだけだ。
「ごめん、ごめん。でも、ミオは嫌い、そういうの? やってみたら、けっこう楽しいかもよ」
 運転しながらからかうと、探春の横にいるミオは、困って言葉に詰まっていた。まだ純情なのだ。
「それにしても、男っていうのは油断がならないなあ。よく女を見てるんだねえ」
 あたしが笑って言うと、探春はつんとして言う。
「その通りよ。あなたは護衛なんだから、迂闊に離れないでちょうだい」
「了解、ごめんね」
 でも、あたしが謝ることかなあ。大人の女であれば、すべからく、『猛獣使い』の心得を持っているべきなのだ。
 男というのは、基本的に野獣である。
 野獣でない男なんて、つまらないではないか。
 彼らに理性や良識を期待する方が、そもそも間違っている。
 女が主導権を握り、アメとムチで躾けてやらなければ、一緒には暮らせない生き物なのだ。
 地球時代の戦争の記録を見ればわかる。家庭では良き夫、良き父親だった男が、戦地ではどんな残虐を働くか。
 敵国の女性を強姦するくらいは当たり前。自軍の看護婦にさえ襲いかかる奴らなのだ。
 戦争がない時でさえ、仲間の女性兵士を襲って遊ぶ=B
 基地の周辺で、娼婦を買う。
 金がない時は、通りすがりの女性を襲う。幼い少女でもお構いなし。
 軍人の場合、何年にもわたって戦闘マシンとして仕込まれるのだから、そうなっても当然といえるが。
 一般市民の男でさえ、気分次第で妻を殴るのは当たり前、という時代が長かった。
 そんな歴史資料が、山のように残っているのだ。それから、わずか数世紀。紳士のふりは、まだ薄皮にすぎない。
 といって、彼らが邪悪な生き物というわけでもないのだ。
 ライオンがガゼルを食い殺しても、悪意があるわけではないのと同じ。
 男が女を襲っても、どこかに閉じ込めて奴隷にしても(それを洗練させたものが、昔の結婚制度だ)、それは、ある程度やむを得ないといえる。
 そうしなければ子孫を残せないという状況が、ずっと続いてきたのだから。彼らは進化の過程で、そういう風に形成されてしまったのである。
 むろん、女の側からは迷惑な話だが、現代の女は、知性や教養、女の連帯という武器を持っているのだから、それで自衛すればいいだけのこと。
 あたしが運転しながらそういうことを話すと、ミオがびっくりしたように叫ぶ。
「サンドラ、そんな風に思ってるの!? 男はケダモノで当たり前って!?」
「思ってるよ」
 実家の祖父母を見ていてもわかる。ヘンリーお祖父さまは温和な紳士だが、それは、内心でヴェーラお祖母さまを恐れているからだ。
 お祖母さまは、このあたしを、びしびし叱って躾けた女性である。対外的にも、他組織と張り合って一歩も引かない。
 普段は、身内の男たちをおだててうまく使っているが、彼らが何か愚劣な真似をしたら、いつでも切り捨てる覚悟を持っている。
 それがわかるから、一族の男たちは(いくら、そうしたくても)バイオロイドの娼婦を買ったり、手元に置いたりしない。
 こっそり違法ポルノくらいは楽しんでいるかもしれないが(それも、いずれは根絶させたいものだ。撮影時、生きた女や子供を犠牲にしている)、お祖母さま以下の、一族の女性陣を不愉快にさせないように努力している。
 辺境では、きわめて珍しい存在だと思う。女性上位の組織というのは。
 これは、唯一生き残っている第一世代の長老が、女性だということにも関係している。
 麗香姉さまこそ、底の知れない偉大な女性だった。
 宇宙移民時代のごく初期に、野心的な科学者集団をまとめて、実験的な移民船で地球を脱出させたのだ。
 『永遠を目指す』意志を持った、様々な人種と国籍の科学者たちが、一族の第一世代になったのである。
 外宇宙開拓で先陣を切った一族は、おかげで、辺境の一等地に都市を建設することができ、腰を据えて生命科学の研究を続けられた。
 連合≠フような、えげつない商売はしていないので、組織としての規模は大きくないが、技術力が高いので、内実は豊かである。
 その姉さまが作り上げた理想の戦士が、第四世代のあたしとシヴァ。
 でも、奴はグレて家出し、いまだに行方不明だから(彼の息子は、あたしたちが発見して鍛え直したから、良かった)、残る期待の星≠ヘあたしだけ。
 探春にしてもシレールにしても、理知的な書斎派だから、参謀や補佐にはなってくれても、進んで血まみれの戦いに飛び込むことはない。末っ子のダイナには、お祖母さまの後継者になってもらう予定だし。
 ただ、麗香姉さまは、一族のためだけに、あたしを強化したのではない。あたしがハンター稼業を通して市民の信頼を得、少しでも辺境の現状を変えていけたら、それが姉さまの志にも添うことになるはずだ。
「……でも、それじゃ、男の人を信用してないってことでしょ? それなのに、男の人と付き合おうなんて思うの?」
 ミオは後ろの席から、不思議そうに問う。ナギの車は、二百メートルほど離れて付いてくる。衛星軌道の船では、別のナギがあたり一帯を警戒している。
 運転しながら、あたしは答えた。
「信用したいけど、信用しきるのは間違いだと思ってる。手綱はこっちが握っておくべきだね」
 探春はあたしの持論を知っているので、何も言わずに外の夜景を見ていた。道路脇のレストランや喫茶店、遠くの斜面に見える住宅街の明かり。
 ミオは真剣な様子で尋ねてくる。
「手綱を握るって……どうすればいいの?」
「女の怖さを教えること。普段はにこにこしていても、もし本気で怒らせたら、取り返しがつかないとわからせる」
 まさしく、探春の態度そのものだ。
 あたしが初めて人を殺した十四歳の時、まだ息のあった三人目の男に、重い石を振り下ろして頭を砕いたのは、探春である。
 あたしだけを人殺しにはしない、という意思表示だったのだが、あれであたしは、従姉妹の芯の強さを思い知ったのだ。
 そういう胆力を、あたしにばかりではなく、付き合う男に見せればいいと思うのだが。
 いや、もしかして、あたし自身が、そうして探春に調教されてきたのかな。
 あたしという番犬がいる以上、他の犬は不要、ということかもしれない。
 ただ、ミオに対しては、あたしも年上面をして言う。
「その怖さが身に染みれば、男も自制するようになる。躾さえちゃんとすれば、可愛い生き物だよ。犬とおんなじ。ただ、女の側に、犬を制御する能力がないといけない」
 若いミオは、すっかり考え込んでしまった。
 考えるのは、いいことだ。平和な市民社会で育つと、最初から、男を紳士だと思ってしまうから。
 車は快適な夜道を走り、首都の街路に入った。ミオは顔を上げて言う。
「男の人と付き合うのって、それじゃ、戦いなのね?」
 よしよし、賢い生徒だ。
「そういうことだね。今まで知らなかったの?」
「用心しなさいとは教わったけど、そこまで、はっきりとした言葉では考えなかったわ。でも、何だか、納得できたような気がする」
「それはよかった。戦う覚悟を持っていないと、大人の女にはなれないからね」
 とか何とか言って、あたしは男女交際に関しては、ミオよりもなお経験値が低いのである。情けない。
 ミカエルとあのまま付き合えていたら、とは思うが……あたしに恋人ができたら探春が耐えられないと……ミカエルがそう判断したのなら……仕方ないのだ。

 ミオを送ってからホテルに戻り、シャワーを浴びて部屋着姿になると、探春は冷ややかに言う。
「よかったわね、王子さま。すっかりお姫さまに信頼されて。あの子、あなたの言うことなら、何でも信じてしまうわ」
 ウイスキーの炭酸割りを手にしたあたしは、やや閉口する。
「そんな、人を結婚詐欺師みたいに」
「似たようなものじゃないかしら」
 と探春はにっこりする。男なら、即座に押し倒したくなるような、薄手のスリップドレス姿だが、見ているのがあたしだけでは、無駄な魅惑力だ。
「心配ないよ。ミオが元気になれば、もう会う必要はないんだから」
「でも、明日もデートの約束でしょ」
 帰りの車内で、ミオがしばらく海に行っていないと言うので、じゃあ明日、ということにはなったけれど。
「ミオは、あなたと友達になったと思っているわ。そのうち、探偵事務所にも訪ねてくるんじゃないかしら」
 あたしは返事に困った。植民惑星《ビザンチウム》には、偽装のための探偵事務所があり、特捜部のハンター管理課が維持してくれているが、そこへ行っても誰もいない。あたしたちは、次の仕事にかかっているはずだから。
 まあ、それは探偵の仕事で留守、という体裁をとればいいが、探春の言葉に刺がある気がした。
「えーと、あたし、何かまずいことをしたのかな?」
 探春の直筆の手紙は、他星の女性捜査官の元へ届き、彼女を励ますだろう。あたしも、それと同じことをしただけのつもりなんだけど。
 探春は長い髪を薄手のドレスの肩に垂らし、生徒をどう叱ろうか考える教師のような顔だった。
「あなたが悪いわけではないけれど。たぶん、もう手遅れね」
「手遅れ?」
「何でもないわ。疲れたので、おやすみなさい」
 探春は背中を向け、続き部屋の寝室に去っていった。あの言い方は、不吉だ。どうして、鈍いあたしにもわかるように、きちんと説明してくれないのだろう?

9 探春

 紅泉たら、なんて馬鹿なの。
 馬鹿馬鹿馬鹿、鈍感の大間抜け。
 ミオがあれほど全身で訴えていることが、どうしてわからないの。
 あなた、ミオをうまく慰めすぎたのよ。
 ――と、いくら心の底で叫んでも、紅泉に届くわけはなかった。
 紅泉には、何の悪気もない。ただ、女心というものが全然わからないだけ。
 無敵のハンターで世界の英雄、怖いもの知らず。はっきり言ってしまえば、おめでたい人。
 ただ、その陽性の鈍感さに、わたし自身も長年、救われてきた。ミオのことで、紅泉を責めても仕方ない。ミオもやはり、紅泉のエネルギーの放射に暖められたいのだろうから。
 こういう傷は、時間が経てば癒える、というものではない。
 ただ怖い、悔しいというだけではない。人類の半分を占める種族の正体に気がついて、絶望してしまうのだ。
 彼らの優しさは上辺だけ。
 本音では、強姦を悪いことだとは思っていない。むしろ、当然の権利と考えている。
 俺たちがやりたいと言ったら、素直にやらせろ。四の五のぬかすな。減るもんじゃないだろ。
 ただ、そう言ってしまうと、女性たちに嫌われるとわかっているから、表面を繕っているだけ。
 市民社会の男たちが結婚を望むのも、女に甘えて暮らしたいから。老いていく母親の代わりに、新しい世話係が欲しいだけ。
 そして、辺境の男たちはといえば、おとなしい女奴隷のハレムに君臨して、ご満悦。
 そんな種族に用はない。
 わたしにはもっと頼もしい、本物の騎士がいるのだから。
 それはおそらく、あの事件の前から、そうだったのではないかと思う。あれはただ、わたしの気持ちを固めさせただけ。
 紅泉はいつも、わたしに優しかった。
 早朝のジョギングのついでに、早咲きの季節の花を取ってきてくれる。白い梅の一枝。淡い紫の菫の何本か。香り高い百合の一輪。
 雨の後で、森の散歩道がぬかるんでいる時は、靴が汚れないようにと、わたしをおぶって通ってくれる。
 泥に汚れた警備犬が、尻尾を振って寄ってきた時には、わたしを背中にかばってくれる。
 紅泉が小悪党相手に暴れすぎ、《ティルス》から追放処分と決まった時も、いずれはそうなると覚悟していたから、すんなりついて行くことができた。
 紅泉には、一つの都市では狭すぎるのだ。
 まさか、そのままハンター稼業に突入するとは思わなかったけれど。
 いつか、どこかで戦いに負けて死ぬかもしれないけれど、それでもいい。一緒に生きることの次にいいのは、一緒に死ぬことだから。
 あんな小娘が、わたしたちの間に割り込めるはずはないのだ。この休暇のうちだけ、辛抱すればいい。次の仕事にかかればまた、別の星へ行くのだから。

 翌日は、海へのドライブだった。
 十時頃、ミオを家の前で拾い(彼女はその前に、急いで病院に行ってきたらしい)、紅泉はレンタル車を幹線道路に乗せる。
 ミオの好きそうなドライブコース、ミオの好きそうなレストラン。
 わたしは控えめに微笑み、紅泉がミオを手漕ぎのボートに乗せてやるのを、岸から黙って見守った。
 おまけに紅泉ときたら、海岸で手頃な流木をみつけると、ミオにウィンクしてから、それを手刀で叩き折ってみせたのだ。
 どうして、そういう不用心なことをするの。岩を割らなかっただけ、まだましだとしても。
 でも、ミオはそれを空手の技と思ったようで、拍手して喜んでいた。
「すごい、サンドラってやっぱり強いのね」
「ま、それほどでも……あるかな」
 確かに空手の技術もあるけれど、それは、強化体という土台があってこそ。
 ミオにはそこまで見抜く力はないとしても、余計な手掛かりは与えない方がいいのに。

 その晩、レストランで夕食を済ませた後、ミオを家に送り届けてから、わたしたちはホテルに戻ってきた。鈍い紅泉もようやく、わたしが表情を繕っていることに気がついたらしい。
「どうしたの、疲れた? 連日、外出してるからなあ」
 と心配してくる。
 紅泉と二人なら、どんなにか楽しかったでしょうね。
 今日は一日、ミオが紅泉の腕にすがりついて、可愛らしくはしゃいでいた。まるで、いつものわたしのように。
 それがわかるから、自己嫌悪が生じる。
 わたしはいつも、従姉妹の立場を利用して、最大限、紅泉の優しさを楽しんでいるのだ。
 わたしが張りついていなければ、紅泉にも、とうに恋人ができていたかもしれない。
 ミカエルだって、結局は、わたしのために身を引いた。
 ただ、ミオは女の子だから、告白されたところで、紅泉は戸惑うだけだろう。
 だから、わたしもずっと従姉妹の立場でいるのだ。それが唯一、紅泉の側にいる方法だから。
 もし、わたしが真剣な告白などしたら、紅泉は驚いて後退るだろう。いくら能天気でも、困り果てるに違いない。
 悩んだ挙句、
『あのう、それで、どうすればいいの?』
 と尋ねてくるだろう。
 頬や額にではなく、唇にキスしてほしいの、と言ったら、どんな顔をするだろう。舌を入れて、などと言ったら、唸って頭を抱えてしまうかも。
 それでも、たぶん、努力してキスしてくれる。
 これまでも、恋人のふりで他の男性を追い払う必要があった時は、そうしてくれたから。
 でも、紅泉自身はそんなことをしても、楽しくも面白くもないだろう。
 わたしが調子に乗って、抱いてほしいなどと言ったら、ますます困り果てるはず。
 やはり、努力して抱いてくれるかもしれないけれど、内心ではきっと、うんざりするだろう。
 本当は自分こそが、王子さまに抱いてほしいのだから。
 こんなことをずっとさせられるくらいなら、離れて暮らす方が楽だ、と感じるに違いない。
 紅泉に敬遠されるようになってしまったら、わたしが耐えられない。休暇は別々に過ごそうなどと言われたら、もう最後。
 だから、このまま従姉妹同士でいる方がいいのだ。
 そうすれば、一緒にお風呂に入ってもらえるし、ベッドで全身マッサージもしてもらえるし、嵐の晩には一緒に眠ってくれるのだから。
「いえ、楽しかったわよ。でも、男性に寄ってこられたのが不愉快だったの」
 今日もまた、一人で海岸にいる時、通りすがりの男性に声をかけられた。
 ミオに怪しまれたくないので、虫除けのナギを同行できなかったのだ。外見は優雅な美青年でも、事務的な受け答えしかできないお人形だから、五分も会話させたら、本物の人間ではないと悟られてしまう。
 すると紅泉は考える様子で、やがて、
「一緒にお風呂に入ろうか」
 と提案してきた。わたしは嬉しくて、つい顔がゆるみそうになるけれど、努力してさらりと言う。
「そうね。ちょうど、背中を流してほしかったの」
 もちろん紅泉が、全身を洗ってくれるのを知っているから。
 さすがに何箇所か、遠慮して触れない場所はあるけれど、あとは首もお腹も、膝の裏も、太腿の内側も、足の指の間も、愛用の海綿で丁寧にこすってくれる。
 わたしもお返しに、紅泉の全身を洗う。
 小さい頃から一緒の従姉妹だからこそ、得られる特権。
 浴槽は広く、一緒に浸かって、なお余裕があった。たっぷりのお湯に、薔薇の香りの入浴剤を入れ、泡立てる。
「おいで」
 と紅泉が言ってくれるのに甘えて、頼もしい膝に乗った。
 すると、旅の荷物にいつも入れている大きな海綿で、肩や腕をこすってくれる。泡とお湯の中で、肌が触れ合うのが気持ちがいい。わたしの人生の中で、一番、天国に近い時間ではないかしら。
 本当は紅泉の首にしがみつきたいけれど、それをしたら驚くだろうから、お母さんに洗ってもらう子供のように、膝の上でじっとしている。たまに、くすぐったくて、身をよじってしまうことはあるけれど。それも快感。
「はい、交替」
 と言うと、海綿を渡してくれた。
 わたしはこれで公然と、紅泉の肌触りを楽しめる。首筋から背中、腕、脚、全てわたしの好きに洗い立てられる。
 頑丈な骨格を包む強靭な筋肉は、まるで猫科の猛獣のよう。
 傷一つない、なめらかな小麦色の肌は、お湯の熱で上気して、薔薇色を含む金色に輝いている。
 世界で一番美しい、生きた女神。
 背が高くて力強いけれど、男性と違うのは、豊かな胸と、繊細な指を持っていることだった。
 爪はいつも短く切っているけれど、健康な桜色に輝いている。いざとなれば、素手で戦闘用のアンドロイドを倒すこともできる人だけれど、こうしている時は、何でも、わたしの思うまま。
 わたしが向こうを向いて、と言えばそうする。腕を上げて、と言えばそうする。膝を立てて、と言ってもそうする。わたしは自分が紅泉を独占していることが嬉しくて、隅々まで時間をかけて磨き上げる。
 この美しさを知っているのは、世界でわたし一人だけ。
 よその誰かになど、永遠に見せたくない。
 それに、たぶん、そんな機会はもうないのではないか。わたしがああして、ミカエルを追い払ってしまったからには……
「ちょっと待ってね、これをずらすから」
 紅泉は両手首の腕輪を解除モードにして、少し浮かせた。わたしはその隙間から、手首の皮膚をこする。
 睡眠中でも、紅泉は超切断糸入りの腕輪を外さない。市民社会では、当局の許可を得た銃でも、人目を引かずに持ち歩くのは厄介だけれど、腕輪なら目立たない。
「そういえば、ミオに不思議がられたよ。なんで、両手に端末をはめてるのかって。訓練用だと言っておいたけど」
 紅泉は左手でも超切断糸を使えるけれど、やはり右手で振るう方が確実だという。
「女の子は鋭いから、用心してね」
「うん、わかってる」
 わたしの言葉には、ミオとあまり親しくならないでね、という願いが込められていたのだけれど、もちろん紅泉には通じない。ただ、ハンターという身分を悟られないためと考えている。
 自分の力は、誰かを助けるために使うのが当たり前と思っている単純さ。その優しさを肌で感じたから、ミオも癒されたのだろう。
 わたしも好き。大好き。愛してる。
 時々、首にすがりついて、そう叫びたくなる。それをこらえているのは、紅泉を失いたくないから。
 でも、ミオにはそんな遠慮はない。もしかしたら、明日にでも、紅泉にすがって訴えるかもしれない。わたしを恋人にしてくれませんか、と。

10 パーシス

 ミオが帰ってきた。
 家の前で車から降りて、おやすみの挨拶をしているのが、ぼくの部屋の窓から見える。車が去っていくのを、いつまでも見送っているのもわかる。それからため息をつき、玄関に消えていく。
 ぼくはいつものように、何気ないふりでミオの家を訪ねた。
 すぐ斜向かいに住んでいるので、子供の頃から、互いに気安く出入りしているのだ。
 今ではタケルとの仲が公認なので、家族同然である。ぼくがミオの家で昼寝していても、誰も何とも思わない。
「お帰り、遊びに行ってたの?」
「あ、パーシス、ただいま」
 明るいマスカット色の遊び着姿のミオは台所にいて、まだ上気した顔をしていた。黒い瞳がきらきら光り、クリーム色の肌がしっとり潤っている。
 つい数日前までは、悄然としていたのが嘘のようだ。打撃から回復するには、もっと長くかかるだろうと思っていたのだが。
「タケルはまだ学校みたい。きっと遅いわ。また新しい機体でしょ」
「ああ、最近、その話ばかりだよ。泊まり込みかもしれないね」
 タケルがそうしてエンジニアとしての技量を育ててくれることは、ぼくにとっても望ましい。先行き、辺境で、ぼくの片腕となってもらうつもりなのだから。
 あの子に関しては、もはやぼくを裏切る心配がない。何年もかけて、愛情の仕込み≠してきたからだ。
「いま、お茶を淹れようとしてたの。あなたも飲む?」
「ああ、嬉しいな」
 マグカップに熱い紅茶をもらい、ぼくらは調理テーブルの周りの椅子に腰かけた。ミオの両親も留守なので、話し込むには都合がいい。
「今日は、いつにも増して美人だぞ。さては、新しいボーイフレンドだな」
 ぼくがからかう顔で言うと、ミオは正直に頬を染めた。
「そんなんじゃないわよ。お友達ができただけ」
 やはり、そうだ。
 この変化は、恋愛によるものとしか解釈できない。
「ハンサムでかっこいい友達だろ?」
「違うわ。女の人よ」
「へえ?」
 照れた顔をしながら、ミオは話してくれた。サンドラ・グレイという女性のことを。隠そうとしても、隠せない喜びが溢れている。
「私立探偵とは、かっこいいな。紹介してくれよ」
「あら、そんなこと言っていいの。タケルに言いつけちゃうから」
 という態度も弾んでいる。
「う、いまのは撤回する。聞かなかったことにしてくれ」
 とぼくは両手を上げた。
「いや、でも、別に不埒な意味じゃないよ。純粋に、知的好奇心なんだから」
 ミオはくすくす笑い、ぼくが聞きたいことをあれこれ話してくれた。彼女の助手をしているという従姉妹のことも。
「鉛入りの腕輪だって? すごいなあ」
 さりげなく質問をはさみ、必要なことは全て聞き出す。ミオの周囲で起こることは、把握しておかなければならなかった。ミオとタケルの姉弟は、ぼくの最初の実験台なのである。
 いくらぼくに研究者としての土台があっても、辺境からネット経由で買った技術情報は、試行錯誤を繰り返さなければ、実際に使えない。
 ミオの元気がなくなり(前の数回のお務め≠フ時もそうだったが)、マレーネの姿がモデルクラブから消え、モデルではなさそうな男女が慌ただしくクラブに出入りし、裏口座への入金が途絶えたことで、ぼくはこの《ベルグラード》での商売の失敗を悟った。
 《テンシャン》の時と同じだ。
 どの娘かが疑惑を持ち、病院か警察に行ったのかもしれない。
 もちろん、ぼくの顔や名前が捜査線上に浮上することはない。どちらの場合も、実行犯に選んだ者は、ぼくの姿をまともに見ていないのだから。
 《テンシャン》で使ったのは、相手を探している同性愛の男。モデルクラブの従業員の中で、私生活に隙がある者を選んだのだ。
 込み合った特殊なバーの中で、飲み物に薬を入れ、効いてきたところを個室に連れ込んだ。他にも大勢、連れ立って個室に籠もる連中がいるから、店側も気にしない。個人的な交際は、犯罪ではないのだ。
 深層催眠用に作った特殊なヘッドセットを使い、ぼくはそいつの頭に、何をするべきか植え込んだ。
 そうして種蒔き≠ェ済んだら、あとは一切、何もしない。
 何年かかろうと、指定した辺境の口座に入金があるのを待つのみ。
 入金がなければ、その種子は発芽しなかったものとして、あきらめるだけのこと。
 《テンシャン》の場合は、うまく芽吹いた。売春組織が活動し始め、利益を生んだ。
 枯れた後でも、ぼくが種蒔きをしたことは悟られていない。法律上、民間の警備システムの記録は一年で消去される。誰が来店しようと、誰と誰が同じ個室に消えようと、それまでだ。
 たった一度、旅行者として《テンシャン》を訪れただけのぼくは、おそらく、容疑者リストにすら載っていない。
 種蒔きはあと四箇所、別々の惑星でしたが、収穫までたどり着いたのは、他にはこの《ベオグラード》と《アデレイド》のみ。
 だが、かけた手間からすれば、非常に効率的な商売だったといえる。ぼくは丸々、他人の労働を搾取したのだ。
 マレーネの場合は、元々、強い野心を持っている女だった。この自分の美貌が、このまま朽ち果てることなど許せない、という女。何とかして辺境へ出て、永遠の若さを手に入れたいと願っていた。
 ただ、自分一人では、何をどうしていいやらわからない。野心に見合うだけの頭脳がないのだ。
 マレーネはとりあえず、モデルとして売れているうちに、資産家の男を捕まえるつもりだったらしい。だが、ことごとく失敗している。
 それは当然だろう。男を獲物としか見ない欲深女になど、まともな男が惚れるはずない。
 ミオから聞く話で、マレーネに目をつけたぼくは、遠くから彼女の日常を観察し、朝のジョギングに目をつけた。ある朝、人気のない公園で待ち伏せし、通り道のベンチに豪華な薔薇の花束を置いておいたのだ。マレーネ様へというカードをつけて。
 自分の崇拝者からだと思った彼女は、安心して薔薇の香りを吸い込んだ。そして、揮発性の麻酔で朦朧としたところにぼくが通りかかり、肩を抱いて車へ連れ込んだ。
 直接の接触はこれ一回。公園の警備モニターの記録も、やはり一年で消去される。
 どうせ、売春組織の準備にそのくらいはかかるのだ。女たちにキーワードを植え込み、客となる男たちを探さなくてはならない。
 マレーネの頭には、商売の方法を教え込んだ。彼女はぼくの示唆に従って知り合いの医師を引き込み、必要な薬品や機材を用意させ、モデル仲間にキーワードを埋め込んでいった。
 他星に種蒔きをした場合と違って、同じ首都圏内なら、途中経過をそれとなく観察できる。
 妻を失った寂しい老医師は、美しいマレーネの誘惑に勝てなかったようだ。また、平凡なセックスに飽きていた資産家も、彼女の企みに参加した。そして、同様な願望を持つ裕福な男たちを、次々と誘い入れていったのだ。
 ミオも犠牲者の一人となったのは、予測の範囲内。
 マレーネの裏口座の資金は、あらかた別口座に移してある。司法局の手は届かない。
 だが、この手口はもう通用するまい。
 残る《アデレイド》の組織も、いずれ露見する。今のうち、タケルを連れて辺境に脱出するか。
 莫大な金額ではないが、とりあえず、そこそこの資金は蓄えられた。あとは知恵次第で、何とかなる。
 まだ続けられるなどと欲をかいたら、いつ何時、容疑者に数えられるかわからない。たとえば司法局が、被害者の知り合いを全員、薬品尋問にかけていく可能性もあるのだ。
 公開捜査にならない限り、一市民には、当局の動きはわからない。様子によっては、明日にでも、レンタル船で脱出した方がいいかもしれない。
 ところが、サンドラという女性の話を聞くうち(どうやらミオは男に懲りて、女を好きになったようだ)、ミオがおかしなことを言い出した。
「ねえ、怪我の治りが特別に早い人って、いるのかしら」
 一昨日、木の枝にひっかけたサンドラの傷が、昨日見たら、跡形もなかったというのである。
「もちろん、たいした怪我じゃなかったけど、でも、血が出たのよ。それが、翌日になったらきれいな皮膚なんだもの。わたしの記憶がおかしいのかしらと思って、しばらく悩んでしまったわ」
 閃くものがあった。
 強化体というのは、怪我をしても、常人の何倍も治癒が早いという。
 おまけに、長身の大食い美女と、小柄なおとなしい美女の組み合わせ。
 事件の被害者であるミオを訪ねてきたタイミング。
 私立探偵というのも、いかにもの偽装だ。
 しかしまさか、伝説のハンターが、売春組織程度で出てくるのか。ぼくの考えすぎではないのか。
 だが、もしも《テンシャン》の事件との関連を疑われているのなら。
 司法局としては当然、違法組織が黒幕だと思うだろう。
 実際には、ぼくは違法アクセスで、洗脳や深層暗示に関わる幾つかの技術をばらばらに買っただけで、一つの組織に深入りするような真似はしていないのだが。
 もしも本当にリリス≠ェ乗り出してきたのなら、一千億クレジットの賞金が、目の前にぶら下がっているようなもの。
 正直、目がくらむような大金だった。
 下種な男どもから金を集めても、精々が数億クレジットにすぎない。
 一千億の資産があったら、幾つもの基地を作り、艦隊を配置し、十分な防御を固めることができる。
 いや、なまじ固定基地など作らない方がいいかもしれない。艦隊と資金を握っていれば、いくらでもできることがある。
 このまま見過ごすのは、あまりにも惜しい。
「それはね、ミオ」
 ぼくは気軽な笑顔で言った。
「ミオだって、何かで青あざをこしらえた時、そのままファッション・ショーには出ないだろう。何か塗って、隠すんじゃないのかい」
「あ、そうか」
 ミオは単純に納得した。可愛い娘である。
「そうよね、それだけのことなんだわ。わたしったら、悩んだりして、馬鹿みたい」
 何度も記憶の混乱があったので、ミオは自分に自信が持てなくなっていたのだろう。
 さて、何とかその二人に近づいて、本物かどうか確認しなくては。
 もし、両腕の腕輪に、映画や小説の通り、超切断糸が仕込んであるなら、近距離からの攻撃は不可能だ。
 遠距離からの狙撃か、爆発物。
 だが、そんな武器をどう手に入れる?
 時間があれば、材料を集めて、自作することは可能だ。しかし、リリス≠ェいつまで、ミオの近くにいてくれるか。
 おそらく、マレーネ周辺の人物を調べているのだろうが、他の星でもっと大きな事件が発生したら、そちらへ飛んで行くだろう。
「ミオ、よかったら、サンドラさんたちを、うちの別荘に招待したら」
 そう提案すると、ミオは笑顔で手を合わせた。
「それ、すてきだわ。使わせてもらっていい?」
「もちろん。お祖父さまにはぼくから断っておくから、いつでもいいよ。ぼくもタケルと行くから」
 ぼくの祖父の別荘が、北へ百キロばかり行った湖のほとりにある。裏の山から温泉を引いているのが自慢で、ぼくやミオたちもよく利用する。親戚や友達を集めて、パーティをすることもある。
 あそこなら、何をするにしても、邪魔は入らない。
「さっそく明日、誘ってみるわ。ありがと、パーシス」
 ミオが上機嫌で、頬にキスしてくれた。
「きみが元気になって、嬉しいよ。最近、ちょっと暗かったからね」
 と微笑むと、ややしんみりした顔をする。
「わたし、心配かけていたのね。ごめんなさい」
 いい子だ。露ほども、ぼくを疑わない。
 別な言い方をすれば、愚かということだが。
「もう家族だろ? きみが笑っていてくれないと、ぼくも寂しい」
 そう言ったら、涙ぐんでいる。ぼくがミオを深層暗示の実験台にして、何度も味見≠オていると知ったら、どんな顔をするか。
 もちろん、それはミオが自発的にボーイフレンドを作り、無事に初体験を済ませた後のことである。いくら前夜の記憶が残らなかろうが、コンドームを使おうが、処女に何かしたら怪しまれるに決まっている。
 ぼくは肌にキスマークを残したり、ベッドに体毛を残したりするへまはしなかった。用が済んだ後はきちんと事後処理を行い、痕跡を残さず引き上げた。
 翌朝、さりげなく様子を見たが、どの時も、ミオは何も怪しまなかった。だから、この商売はいけると踏んだのだ。
 夢見心地のおとなしい女。
 これには需要があるはずだった。傷痕を残すような真似をしなければ、縛っても、輪姦しても、それを撮影してもいい。
 紳士面している男たちも、陰ではこっそり、過激な違法ポルノを集めているのだ。
 そういう行為を『実際に試せる』となったら、誘いに乗る者は必ずいる。話を聞いて後込みするようなら、その時こそ、酒と薬を飲ませて記憶を飛ばせばいいのだから。
(もし本物のリリス≠ネら……一世一代の大勝負だな)
 無敵とは思わない。伝説というのは、しばしば誇張されるもの。『辺境では役立たず』と言われる司法局としては、自慢できるスターが欲しかったのだ。それで、あえてリリス≠祭り上げた面がある。
 あの別荘でなら、リリス≠殺せるだろう。強化体とはいえ、不死身ではない。
 問題は、その後の脱出だ。
 危険はあるが、グリフィン≠ノ渡りをつけてみるか。
 懸賞金制度の元締めとして知られる、正体不明の人物。
 裏のネットへのアクセス自体は簡単だ。ぼくの情報が本物と判断すれば、グリフィン≠フ方から援助を申し出てくるだろう。

11 ミオ

イラスト

 夜中、わたしは自室のベッドの上で、いつまでも寝返りをうっていた。
 サンドラはおそらく、わたしが失恋でもしたのだと思っている。だから、遊んでくれて、笑わせてくれた。おかげでこの三日、とても楽しかった。
 でも、これで終わりなんて。
 さすがに図々しいと思って、明日の約束は取り付けられなかった。サンドラはともかく、ヴァイオレットさんの視線が、わたしを歓迎していなかったから。
 もちろん、表面的にはにこにこしていたけれど、
(あまり甘えないでね。今だけの関係なんだから)
 という距離の取り方だったもの。
 確かに、サンドラが故郷の《ビザンチウム》に帰ってしまったら、あとは会う必然性がない。
 用らしい用がないのに、繰り返し通話するのも変。
 探偵事務所を訪ねては行けるけれど、何て言って訪ねるの。
 感謝しているから。友達になったから。
 それだけでは、たまにしか会えないわ。いっそ、助手にしてくださいとでも?
 もしもそんなことができたら、とベッドで転がりながら空想した。
 毎日側にいて、サンドラのためにお茶を淹れたり、資料の整理をしたり、一緒に買い物したり、庭の手入れをしたり……冬の晩、暖炉の前で、一緒にお酒を飲んだりできたら。サンドラの肩に、頭をもたせかけて。
 わたしは火のように思える吐息を洩らし、暗がりで起き上がった。
 サンドラが悪いのよ。いくら冗談でも、唇にキスするんだもの。
 それに、手慣れていたわ。きっと、いつもヴァイオレットさんにしているのね。まさか今頃、本当に『いいコト』をしてたりなんか。
 自分で愕然とした。まだ安定剤を飲んでいるのに、胸がどきどきする。
 いや、そんなの。
 だめ、やめて。
 でも、頭に浮かんだのは、わたし自身がサンドラの下になっている姿だった。そして、甘く唇を吸われている。胸を優しく揉みしだかれて、脚の間に脚を入れられて。
 苦しくてじっとしていられず、バルコニーに出た。ひんやりする空気を胸の底まで吸い込めば、少しは頭も冷えるかも。
 秋の空は、夜になっても、透明な青みを帯びていた。わずかな雲が夜目にも白く浮かび、たくさんの星が競い合うように輝いている。
 手摺りにもたれて、しばらく涼んだ。
 これでもたぶん、薬のおかげで安定しているんだわ。そうでなかったら、もっと激しく躁と鬱を行き来しているのではないかしら。
 自分の心理を、冷静に分析しようとした。
 わたし、サンドラを独り占めしたいのね。サンドラと一緒だと、いやなことを忘れていられるから。
 いえ、いやなことを忘れるために、夢中になる相手を求めているんだわ。しかも、簡単には手の届かない相手を。
 だって、独身男性なら、わたしが誘惑するのは簡単だもの。
 でも、分析したからといって、焦がれるような気持ちに変わりはなかった。
 一緒に暮らして、サンドラのためにあれこれしたい。
 頭を撫でてもらったり、膝の上に乗せてもらったりして、かまってもらいたい。
 異常かしら。女の人を相手に、こんなことを考えるなんて。
 でも、考えてみたらわたし、本当に男性に恋したことなんて、あるの?
 ただ、セックスを経験して大人になった気がして、一時、満足しただけ。
 それに、どう考えても、サンドラはそこらの男性より、ずっとすてきだった。
 同性を愛して、何が悪いの。
 タケルとパーシスは幸せそうだし、他にもたくさんの同性カップルがいる。わたしだって、もしもサンドラがわかってくれたら……
 だけど、サンドラは、からからと笑うのではないかしら。
『ありがとう。あたしに惚れてくれて、光栄だな』
 と軽くいなされるだけではないか、という気がする。
 それに、サンドラにはヴァイオレットさんがついている。
 考えてみると、それが最大の関門のようだった。
 昨日も今日も、三人でデート。
 あの人は、わたしのことを邪魔者だと思っている。人のバカンスに割り込んできて、勝手にはしゃいで、迷惑な小娘だと。
 それでも、もう会わずにはいられない自分がわかる。
 とにかく明日、もう一度ホテルを訪ねよう。田舎の温泉はいかが、と誘ってみるのだ。
 何も、一緒にお風呂に入るのが目当てじゃないわよ。
 いえ、それは、そうできたら嬉しいけれど。できれば、ヴァイオレットさん抜きで。
 そこで、ふっとまた、鉛色の記憶が頭をよぎった。
 わたしを餌食にした、下劣な男たち。
 いいえ、あの連中はもう隔離施設よ。とことん再教育を受けて、二度と犯罪なんかできないようになる。
 出てきても、もう何も関係ない。
 わたしは頭を上げて、堂々と暮らすわ。サンドラが言うように、ある意味、戦いなのよ。脅えて逃げたら負けだわ。あんな奴らに負けたくない。
 事と次第によったら、サンドラの住む町に引っ越そうとまで決めて、少し落ち着いた。冷えた肌で部屋に戻って、ベッドに入る。
 恋人にはなれなくても、友達ではいられるはずよ。
 その町でできる仕事を探して、週末はサンドラの所に遊びに行くの。ケーキを焼いて、お花を持って。
 ヴァイオレットさんは、きっと迷惑がるだろうけれど。
 ふと、冷たい感覚が走った。
 あの人は、やはり、ただの従姉妹などではない。男性のグループに取り巻かれた時、はっきり嫌悪が表面化した。それは、わたしもそうだったけれど。
 サンドラを見る時だけ、顔が優しい。芯から、とろけてしまいそうに。
 サンドラを愛しているのね。
 だから、仕事の時も、休暇の時も、ずっと一緒にいるのね。
 だとしたら、そこにどうやって、わたしが割り込めるの。
 あの人が身内のふり≠している限り、サンドラはずっと、身内として大事にするのだから。

 眠れたのが遅かったので、目覚めたら、もう九時近い。
 空は曇り空で、今にも降りだしそう。気温も、昨日より下がっている。
 今日は病院の予約がないから、目覚ましをセットしておかなかった。サンドラはもう、どこかへ遊びに行ってしまったかも。
 それでも、お気に入りの白いニットドレスを着て、お揃いの白い帽子をかぶり、タクシーでホテルに行ってみた。
 自分でも、かなり可愛い姿だと思う。サンドラも、そう思ってくれるといいのだけれど。
 けれど、フロントで聞いたら、やはり二人は留守だった。どこかへ出掛けてしまったのだ。約束していたわけではないから、仕方ない。
「あの、これを預かってもらえます?」
 持参したケーキをフロントに託そうとしたら、
「それは、こちらで預かりますよ」
 と声をかけられた。振り向いたら、藤色のスーツを着た黒髪の美青年が微笑んでいる。
「ナギと申します。サンドラ・グレイの助手です」
「探偵事務所の、ですか? バカンスなのに、一緒にいらしてるの?」
「はい。いつ、何があるかわかりませんので」
 サンドラの仕事は、それほど忙しいのかしら。
「お二人は、じき戻りますよ。部屋でお待ちになってはどうですか」
 と言われて、ほっとする。
「ご迷惑でなければ……」
 ケーキを渡し、一緒にエレベーターの方へ歩きかけた時、外からロビーに二人の男女が入ってきた。顔が合ってしまい、わたしは驚く。
 褐色の髪をした固太りのベイカー捜査官に、短い黒髪の、すらりとしたワン捜査官。向こうも驚き、近くまで来て立ち止まった。
「やあ、ミス・バーンズ、こんにちは」
「お元気そうね。心理療法には、きちんといらしてる? 経過はいいって、報告を聞いていますけど」
 笑顔を浮かべるけれど、二人とも戸惑い、対処に困っている。ぴんと来た。サンドラがなぜ、偶然のようなふりで、わたしを訪ねてきたか。
「サンドラも、捜査官なんですね」
 わたしが言うと、二人は困ったように顔を見合わせた。
 現役の捜査官の場合、犯罪者や事件関係者から恨まれることがあるので、偽の身分で休暇を過ごすことがあると聞いたことがある。
 では、サンドラは他の支局の捜査官なのね。
 だから、わたしの様子を見て、すぐ事件だと見抜いた。そしてもちろん、事件の経過について、担当者と話し合っているのだ。
「サンドラは、あなた方に頼まれて、わたしを見張っていたんですね」
 おそらく、自殺を防ぐために。
「いや、見張りだなんて、そんな」
「お二人は、本当に休暇中なんですよ。ただ、個人的にあなたを心配して……」
 そうなの。ヴァイオレットさんも捜査官なのね。
「あの、ミス・バーンズ、事件の処理が一段落したら、きちんと正式に報告させてもらいますから」
 とベイカー捜査官が言う。つまり、わたしはここにいてはいけない、というのだ。彼らの話の邪魔だと。
「帰ります」
 わたしは身を翻し、ホテルの外に飛び出した。ナギさんが引き留める声がしたけれど、聞こえないふりをする。
 サンドラにとって、わたしはボランティアの相手だったのだ。探偵事務所なんて、実在しない。
 空には鉛色の雲が広がっていて、冷たい雨が降りかかる。傘を持たない通行人は、みな屋内の連絡通路へ逃げているので、街路を通るのは車ばかりだった。歩道にいるとたちまち顔が濡れ、髪や服が湿っていく。
 ちょうどいいわ。これなら、泣きながら歩いていても、他人にはわからないもの。気持ちがおさまるまで、ぐるぐる歩いていよう。ずぶ濡れになるのが、いっそ気持ちいい。
 でも、二百メートルもいかないうち、ぐいと腕を引かれた。
「ミオ! どうしたの」
 サングラスをかけたサンドラだった。枯れ葉色の薄手のニットに、黒いミニスカート。胸があって脚が長いから、何を着てもかっこいい。金褐色の長い髪には、水滴がたくさんついている。
「ナギが引き留めなかった? ちょっとケーキを買いに出ただけだから。あたしに会いに来てくれたんじゃないの?」
 黙ったまま首を振って、逃げようとした。でも、サンドラの手が離してくれない。
「ほら、濡れるから、ホテルへ帰ろう」
「いや。あそこはいや」
 捜査官たちがいる。ヴァイオレットさんもいる。わたしは、ただの被害者でしかない。捜査会議には邪魔者だ。
「えーと」
 サンドラは雨の中に立ちながら、あたりを見回した。
「それじゃ、他のホテルならいい?」
 わたしが雨と涙に濡れているうち、サンドラはわたしをひょいと抱き上げた。まただわ。最初の出会いの時も、わたしを軽々と支えて、すたすた歩いた。
 すぐ近くのホテルのフロントに入ると、ロビーの客たちが驚いて、じろじろこちらを見てきた。わたしは恥ずかしさで縮み上がる。小さな子供でもあるまいに、抱っこだなんて。
 フロントの従業員たちも驚いていたけれど、もちろん、面と向かってそうは言わない。サンドラはわたしを左腕で抱え上げたまま、澄ました顔で部屋をとる。
「あの、歩けるわ、降ろして」
 奥のエレベーターに運ばれていきながら、わたしが小声で言うと、サンドラはにやりとした。
「ほんとは抱っこが好きでしょ?」
 わたしは顔が火照ってしまう。サンドラに甘えたがっているのを、見抜かれているのだ。そのまま七階か八階の客室まで運ばれて、すとんと降ろされる。
「さ、捕まえた。逃げちゃだめだよ」
 肩に手をかけられ、にっこり言われて、ずきんときた。
 どうしよう。サンドラが好き。
 探偵でも捜査官でも何でもいいから、とにかく好き。一分でも一秒でも、一緒にいられて嬉しい。
「あ、ヴァイオレット。ミオを捕まえた。うん、そっちは頼む。話を聞いておいて」
 サンドラは部屋の通話画面で、ヴァイオレットさんに連絡している。ちらりと向こうの様子が見えた。やや眉を曇らせたヴァイオレットさんの後ろに、捜査官のペア。きっと、迷惑な子、と思っているわ。
「さてと」
 通話を終えると、サンドラはわたしを振り向いた。
「風邪をひくと困るな。ここにいるから、お風呂に入っておいで」
 その途端、自分でも不思議なほどの勇気が出た。ほとんど自棄だったかもしれない。 「一緒に入ってくれるなら、入る!!」
 サンドラは唖然とした顔をした。わたしも自分で恥ずかしい。なんて目茶苦茶を言う子だと、呆れられたわ、きっと。
 でも、サンドラは苦笑した。
「いいよ、そうしよう。どうせ、ここに泊まればいいんだから、ゆっくりしよう」
 思わず、叫んでしまった。
「一緒に泊まってくれるの!?」
「どうも、そういうことになるみたいだね」
 呆れられても、笑われても、何でもよかった。明日の朝まで、一緒にいられるのなら。

 驚いた。
 サンドラが、浴槽の中でわたしを膝に乗せて、薔薇の香りの入浴剤で泡だらけにして、躰を洗ってくれるなんて。
 嬉しいのと恥ずかしいのとで、頭に血が上がりっぱなし。飲んでもいないのに、酔ったような気分。
「わたし、こんなの初めて」
 と言うと、
「そお? あたしはよくやってるよ」
 という返答。
「ヴァイオレットがご機嫌斜めの時とか、こうすると、気分が和らぐみたいなんで」
 びっくりしたけれど、やっぱりという気がした。ヴァイオレットさんも、こうやってサンドラに甘えているのね。そして、この場所を他の誰にも渡すまいと思っているのね。
 さっき、画面の中からわたしを見た目が、はっきり警戒を宿していたもの。
「ヴァイオレットさんでも、ご機嫌斜めの時はあるの?」
 とさりげなく尋ねてみた。
「まあね。我慢強い性格だから、そう露骨には不機嫌にならないけど。あたしががさつだから、知らないうちに疲れさせてるんだと思う」
「がさつだなんて……そんなことないわ」
 わたしのような通りすがりに対しても、こんなに優しいんだもの。
 一緒に暮らしているヴァイオレットさんは、この何百倍、何千倍の優しさを受けているに違いないわ。
 それを思うと、うらやましさで気が遠くなりそう。
「サンドラって、相手に気を遣わせないように、あえて気さくに振る舞っているでしょ。繊細でなくてはできないことよ」
 と心から言った。わたしも最初は戸惑ったけれど、今ではそれがわかっている。
「そう言ってもらえると、嬉しいな。はい、今度はそっちの足」
 お湯と泡の中で、足の指の間まで優しく洗ってもらいながら、わたしは尋ねてみた。
「あの……サンドラって、本当は捜査官だったのよね?」
 すると、あっさり肯定された。
「うん、言わなくてごめん。でも、事件のことは、ミオも忘れたいだろうと思ってさ」
「それで、探偵だなんて言ったの?」
「んー、あれはまあ……いつもの偽装なんだ。バカンスの時の。あちこちから、逆恨みされることがあるんでね」
 すると、かなり凶悪な事件を扱ってきているんだわ。
「それじゃ、あの……わたしと遊んでくれたのは、職務のうち、よね」
 ただの義務感。
 ただの親切心。
「まあ、少しはね」
 少し?
「休暇中なのは本当だから、別に義務じゃなかった。でも、あたしもミオが笑うのを見たかったもので。最初の日は、本当に自殺しそうな顔色だったからね」
 真正直に言われたので、かえって気が楽になった。腫れ物に触るような扱いより、ずっといい。
「もしかして、他にこういう事件で自殺した人、いるの?」
 と素直に尋ねられる。
「あたしがじかに知る範囲では、いないな。みんな、家族や友達に守られて立ち直るよ。専門家も付いてるしね。ミオも、もう大丈夫でしょ?」
 つんと耳たぶを引っ張られて、微笑まれる。
 困ったわ。つられて『はい』と言ったら、サンドラは安心して行ってしまうかもしれない。
「まだ、だめ。一人でいると、真っ暗になるの。頭の中が目茶苦茶になりそう」
 少し大袈裟に言ってみた。薬のおかげでだいぶ楽ではあるのだけれど、思い出すと、胸の中が鉛色になるのは確かだから、嘘ではないでしょう。
「一緒にいてくれないと、死んじゃう、かも」
 これは脅迫だ、卑劣だと自分で思ったけれど、温かいお風呂で安心したせいか、ほろほろ泣けてきた。
 なめらかな筋肉のついた肩にもたれて、そのまましがみついてしまう。
 裸で女の人に抱きついたなんて、初めてのこと。
 わたしも胸はある方だけれど、サンドラも豊かな隆起をしていて、弾力がある。互いの乳首が肌をこすると、恥ずかしいのと、くすぐったいので、ぞくぞくしてしまう。
 嬉しい気持ちに、切ない感覚も混ざっていて、不思議な気分。でも、いまこの瞬間は幸せ。ずっとこうしていたい。
 その途端、ぐう、と盛大にお腹の鳴る音がした。
 わたしではない。
「あー、えーと、そろそろ上がって食事にしないと、あたしが飢えて死ぬことになるんだけど……」
 サンドラが照れた顔で言うので、わたしは笑ってしまった。
「ごめんなさい。もう、お昼の時間よね。そうしましょ」
 その時、わたしは例の傷のことを思い出した。これだけお湯に浸かっているのだから、ファンデーションなんて流れてしまっているはず。でも、やはり見当たらない。なめらかな腕には、ほんのわずかな痕跡さえもない。
「ねえ、あの傷は?」
 と尋ねても、サンドラはぽかんとしている。
「傷って?」
「ほら、乗馬の時、ひっかき傷を作ったでしょう」
「ああ、あれか」
 その途端、横抱きにされて、ざばりとお湯の中から持ち上げられた。思わず悲鳴をあげると、
「大丈夫、落とさないから」
 と笑われ、浴槽の外の洗い場で降ろされた。シャワーの下に立たされて、甘い香りの泡を落とされる。髪を頭上にまとめたサンドラも一緒に、その滝を浴びた。湯気の中で、優しく言われる。
「あんな傷、もう治ったよ。心配してくれて、ありがと」
 と額にキスされた。心配したというよりも、単純に不思議だったのだけれど。どうでもいいわね、そんなこと。きっと、体力があるから、傷の治りも早いのよ。
 浴室から出ると、乾かしておいた服を着た。
 外の寒々しい雨も、こうなると、この隠れ家の幸福を引き立てるだけ。しかも、ヴァイオレットさん抜きだなんて。
 一緒に昼食をとり、チェスをして、映画を見、おやつのケーキを食べたりしているうち、外は藍色に暮れてくる。
 雨に降りこめられる世界で、サンドラと一緒にソファに座って、ニュース番組を見られる幸せ。
 わたしには興味の持てない政治経済関係の報道も、サンドラは真剣な顔で見ている。きっと、お仕事には必要な知識なのね。おかげでわたしも、その横顔をじっと眺めていられる。番組の合間に、質問もできる。
「ねえ、サンドラは、どうして捜査官になったの?」
「え? うーん、そりゃまあ、銃を撃ちたかったから……」
 わたしは笑ってしまう。
「そう言うと思った」
 今ではもしかしたら、サンドラ自身よりも、サンドラのことがわかるのではないかしら。
「え、そうなの?」
「そうよ。顔に書いてあるわ。弱い者いじめを見たら、放っておけないって」
 するとサンドラは、自分の顔を撫でて苦い顔。
「やっぱりあたしって、好戦的なんだろうな……」
 そうではない。サンドラは、心底から優しいのだ。だから、弱い者を放っておけない。犯罪を見過ごせない。
「子供の頃から、おてんばだった?」
「まあね。よく、従兄弟と取っ組み合って遊んでたよ。竹刀で打ち合ったりしてさ」
「でも、それは喧嘩じゃないでしょう?」
「でも、まあ、相当に乱暴な女の子だったな」
 つい笑ってしまう。
「サンドラにも、女の子の頃があったのね」
 すると、わざとらしく怖い顔をされた。
「あたしは、男に生まれた方がよかったのかね?」
「ううん、違うわ」
 思わず、サンドラの腕に腕を回して、すがりついてしまう。
「サンドラが女の人でよかった。こうして甘えられるもの」
 サンドラは、どう返答すればいいのか困ったようだった。本当は、男性に甘えればいいのに、と言いたいのだろう。でも、事件のことがあるから、そうも言えないでいる。
 そのうち、夕食を注文することになった。ホテルの中にもレストランはあるけれど、それよりも、外の専門店から届けてもらう方がいいとサンドラは言う。
「ミオは何が食べたい?」
「太らないもの」
 と笑って言うと、サンドラも笑う。
「あんたはもう少し、太っても大丈夫。まあ、それなら和食にしようか」
 サンドラは懐石料理の店をみつけ、違うコースを三人前頼んでいる。
「あの、誰か来るわけじゃ……?」
「心配しないで。ミオは一人分食べればいいの。あとはあたしが引き受けるから」
 言葉通りサンドラは、届いた料理を二人分、平気で平らげた。いつ見ても、豪快な食べっぷり。
 でも、食後の抹茶と和菓子を前にして、サンドラはため息をついた。
「わかってるんだ。こういう大食らいだから、男が寄り付かないんだよね。色気がないんだ、基本的に。どんなぴちぴちドレスを着ても、超ミニでも効果なし」
 わたしは笑ってしまった。
「寄り付かない人なんか、放っておけば。サンドラには、超弩級の男性でないとだめなのよ」
 そして、そんな男性が滅多にいないことに感謝する。
「別に、そんな大層な男でなくても……ただの物好きでいいんだけど。ミオが紹介してくれない?」
 知っていたって、紹介なんかするものですか。
 できるものなら、サンドラを鎖でつないで、どこかの地下室にでも閉じ込めてしまいたい。
「あ、そうだ、パーシスに紹介するわ。わたしの幼なじみで、弟のタケルの恋人」
「恋人つきの男はねえ」
 とサンドラは、しょげた顔をする。なんて可愛いの。
「でも、ハンサムでかっこいいわよ。パーシスから、別荘に来ませんかって言われているの。わたしがサンドラのことを話したら、興味を持ったみたい。もちろん、ヴァイオレットさんもご一緒にどうぞ。温泉に入れるわ」
 でも、パーシスの大学の先輩や、友達をサンドラに紹介してもらうのはなし。ライバルが増えたらかなわないもの。
「そうか。いいかも。ヴァイオレットは温泉好きだから」
 ちょっとズキンときたけれど、思い直した。サンドラが、従姉妹を大切にするのはいいことよ。身内に優しくできない人が、他人に優しくできるはずがないんだもの。
「そうだわ、そういえば」
 わたしはふと、ホテルで留守番していた黒髪の美青年のことを思い出す。
「サンドラたちが捜査官なら、ナギさんは何なの? 探偵事務所の助手でないなら」
 サンドラは、わたしがあれこれ質問しても、怒らないと思う。答えられないことならば、そう言ってくれるだろう。
「ああ……ナギね。何だと思う?」
 質問で返されるなんて、珍しい。
「新米捜査官とか? でも、そういう緊張感はなかったわ」
「緊張感がないか……なるほど」
 サンドラは、何を気にしているのかしら。
「ナギさんて、受け答えが何か、変とまでは言わないけど、お芝居の台詞の棒読みというか……笑顔なのに、感情がないみたいな気がしたわ」
 ふうむ、とサンドラが考える顔になった。
「やっぱり、そう思うか。素人でも、すぐわかるんだな」
 わたしも笑いを引っ込めた。何か、微妙なことを尋ねてしまったみたい。
「あのね、ミオ、秘密が守れる?」
 サンドラが真剣な瞳でこちらをみつめてきたので、わたしは急いで頷いた。
「守れるわ」
 どんなことであれ、守ってサンドラに信用してもらいたい。
「よし、じゃあ言うけど、ナギはアンドロイドなんだ。見た目は人間そっくりだけど、心はないんだよ」
 そんな、まさか。
「だって、人間と区別のつかないアンドロイドって、作ってはいけないんでしょ?」
 作業用や護衛用のアンドロイドは、一目でわかる灰色の皮膚だったり、顔がのっぺらぼうだったりする。もちろん辺境では、どんなアンドロイドも、制限なしに作られているというけれど。
「だから、秘密なんだよ。司法局の中でも、一部の人間しか知らないことなの」
 わあ、すごい。
 そんなことを話してもらったなんて。
「人間そっくりの人形を捜査や護衛に使えたら、色々と便利でしょ。あたしとヴァイオレットが試しに使って、まあ、実用試験中というところかな。ミオがそれを他所でしゃべると、困ったことになる。絶対言わないと誓ってほしいんだけど」
「はい。誓います」
 右手を挙げて宣誓したら、サンドラはほっとした様子だった。わたしはついでに、もう一つの疑問をぶつけてみる。
「ねえ、ヴァイオレットさんが同僚だとすると、従姉妹じゃないのよね? それも、私立探偵というのと同じ、偽装なんでしょ?」
 すると、サンドラはなぜか金褐色の眉をしかめ、困ったような顔をする。
「えーとね、ミオ」
「はい」
「ミオに悪気がないのはわかってるんだけど、こっちは職業上、聞かれるとまずいことが色々あってね。答えられない質問をされると、困るんだ」
「ごめんなさい」
 わたしは急いで謝った。
「迷惑をかけるつもりはないの。ごめんなさい。もう聞きません」
 調子に乗りすぎた、と自分で反省する。本当はサンドラは、元のホテルで捜査の報告を聞きたいだろうに、こうしてわたしに付き合ってくれているのだから。
 迷惑をかけていると思うと、じわりと悲しくなってきた。
 わがままを言っていると、嫌われてしまう。
 でも、わがままを言わない限り、側にいてもらえない。
 休暇が終わって次の任務についてしまったら、きっと居場所もわからないに違いない。現役の捜査官の現在地など、司法局に問い合わせても、家族ではない民間人には教えてくれないだろう。つまり、サンドラといられるのは、今日、明日限りかもしれないのだ。
「あー、泣かなくていい。別に怒ったんじゃないから、ね?」
 優しく言われたら、余計惨めになって、どっと涙が噴き出してしまった。一日に何度も泣いたり笑ったり、自分でも目まぐるしいと思うけれど、止まらない。やはりまだ、神経が正常に戻っていないのかも。
 気がついたら、ソファでサンドラの膝に乗せられ、肩を抱かれていた。まるで子供の扱いだけれど、気持ちいい。わたしはしゃくりあげる合間に、必死で訴えた。
 行かないで、置き去りにしないで。
 休暇が終わっても、黙って消えないで。連絡が取れるようにして。
 お仕事中は仕方ないけど、次の休暇の時には会って。ちょっとでいいから。呼ばれたら、どこの星へでも会いに行くから。
 サンドラは理解に苦しんだようだった。わたしがなぜ、こうも泣いてすがるのか。
 無理もないとわかる。わたしだって、つい数日前までは、タケルとパーシスの仲を納得しきれていなかった。表向き、理解したような顔はしていたけれど、男同士なんてやっぱり普通じゃないわ、と思っていたのだ。
 でも、自分がサンドラに会って、初めてわかった。人を好きになるのに、性別なんか関係ないって。
 サンドラはわたしにティッシュの箱を差し出し、わたしが鼻をかんでいる間、何やら考えているようだった。
 こういうところが、サンドラのいいところ。わたしが何を言っても、真剣に受け止めてくれる。決して馬鹿にしたり、聞き流したりしない。
 あの男たちは、わたしが泣いて助けてと訴えても、笑い続け、ひどいことをし続けたのに。あいつらの思うまま、人形のように扱われて。それを撮影されて。
 またしても、どっと涙が溢れた。
 悔しい。
 もう二度と、男なんか信用しない。
 側に来られるのもいや。
 サンドラは、そっと背中を撫でてくれた。
「よしよし。いい子、いい子。好きなだけ泣いていいよ」
 どうして、こんな人がいるのかしら。サンドラに好いてほしい。いい子だと思ってほしい。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 泣きやもうとしながら言うと、サンドラはわたしの頭を撫でてくれた。
「ミオは何も悪くないよ。まだ神経が参ってるんだ。怖い目に遭ったんだからね。無理もない」
 それもあるけど、それだけじゃないの。
 あなたが好きなの。
 その気持ちだけで胸が一杯になって、他のことが何も考えられない。
「これから段々、少しずつ回復していくから、大丈夫だよ。ミオには家族もいるし、友達もいるし」
 いるけど、こんな風にすがりたいのはサンドラだけ。
「一緒に寝て」
 迷惑だとは思ったけれど、それでも頼んでしまった。
「手を握ってて。お願いだから」
 びっくりされるだろうと思ったのに、
「うん、わかった」
 意外なほどあっさり、サンドラは引き受けてくれた。わたしが泣くのを忘れて見上げると、にっこりする。
「ヴァイオレットがね……ミオほどではないけど、やっぱり昔、男に怖い目に遭わされたことがあってね」
 あ。
「今でも嵐の晩とか、雨の晩とか、一人で眠れない時があるらしくて。そういう時は、あたしが一緒に寝るんだ。そうすると、安心してぐっすり眠るから。ミオにもついててあげるから、安心しておやすみ。悪い奴は誰も来ないから」
 そうだったの。
 パズルのピースがぴたりとはまるように、ヴァイオレットさんを理解できた、と思った。
 だからヴァイオレットさんは、休暇中でも、サンドラから離れないのね。わたしのことを、仇のように見るのね。
 わたし、本当に恋敵なんだ。今夜はこうして、サンドラを横取りしているんだもの。

12 紅泉

 やはり、ミオの気持ちが落ち着くまでは、まだ何年もかかるのだろう。
 あれほど冷静な探春でさえも、繰り返し、あたしにしがみついてくるのだから。
 あたしだったら、男に襲われたりしたら、まず嬉しいけどなあ。喜んで、キャアキャア騒いでしまうと思うけど。
 そう言うと、探春は首を横に振る。
『あなたは、どんな相手でも撃退できる自信があるから、そう思うのよ。普通の女には、恐怖と嫌悪しかないわ』
 まあ、そうなのだろう。
 しかし、いくら親友にでも、普通の女ではないと断言されるのは、やや傷つくんですけど。
 あたしはやっぱり、間違って女に生まれたのだろうか。
 いやいや、これでもちゃんと、女らしいところはある。
 ただ、おおかたの男が、あたしの言動に恐れをなして、逃げ腰になるだけ。奴らはほんとに、臆病な種族だから。
 まあ、ピンクのパジャマを着たミオを間近に見ると、男があたしに寄ってこないのは、無理もないと改めて思う。
 こう言ったらミオは不愉快かもしれないけれど、まさしく生きたお人形。世間には、こんな可愛い子が大勢いるのだから、男たちも、わざわざあたしなんかを口説く必要はないだろう。
「さ。おいで」
 やっと泣きやんだミオを、あたしはベッドに誘った。また泣き出されると大変である。さっさと寝かしつけてしまおう。
 ミオは照れ笑いのような顔をして、隣に潜り込んできた。ベッドは広いので、二人で寝ても余裕がある。
「明かりを消すよ、いい?」
「はい」
 寝室を暗くして、暖かい寝具の間に潜ると、ミオが、タンクトップとショーツという格好のあたしの腕にすがりついてくる。
 探春と同じだな、と思って笑ってしまった。
 あたしはいつも、すがりつかれる方なのだ。たまには誰かにすがってみたいと思うのは、贅沢な願いなのだろうか。
 ミカエル……
 もしもミカエルが、あたしをあきらめずにいてくれたら……
 今でもまだ、空想してしまう。青年になったミカエルが、あたしを抱き寄せてくれることを。
 それはもう、お互い納得して、過去のことにしたというのに……
「あのね、少しお話していい? サンドラが困るようなことは、なるべく聞かないようにするから」
 暗がりの中で、ミオが言う。外はまだ、雨が降っているようだ。本格的な秋の訪れを告げる、寒々しい雨である。
 探春もおそらく、こういう晩はあたしと眠りたいだろうけど。今日のところは、ミオの方が重症だから、こっちが優先だ。
「何でも、好きに話していいよ。答えられない話題の時は、そう言うから」
 本当は、ミオに余計な気を遣わせたくないのだが、辺境生まれの違法強化体という正体を告げられない以上、話題が限られるのは仕方ない。あたしには、うまい嘘なんてつけないのだし。
 それにしても、腕の軽いひっかき傷、すぐさま治ってしまって自分でも忘れていたものを、ミオが疑問に思っていたとは迂闊だった。
 ナギのこともそうだが、こういう些細な穴から、堤防が決壊するのだ。用心しないと。
「休暇は、あと何日残っているの?」
「えー、一か月やそこらは休む権利があるんだけど、それは事件次第でね」
「何か事件が起きたら、明日にでも休暇取り消しってこと?」
「まあね。生憎と、頼りにされているもんで」
 ふっと、ミオがため息をついたようである。
「次の事件にかかってしまったら、わたしのことなんか、もう思い出しもしないわね」
 うーん、答えにくい。正直にそうだと答えたら、ミオは傷つくだろうしな。
「あのね、農場を作ると言ってたでしょ。それができたら、司法局宛てに知らせてくれれば、暇ができた時に遊びに行くよ」
 ミオの不穏な沈黙は、それでは足りない、という意味なのか。しばらく雨の音を聞いているうちに、ミオがぽつりと言った。
「サンドラには、ヴァイオレットさんがいるものね」
 これもまた、どう答えていいやらわからない。
 探春は親友だし、仕事上の相棒だし、探春のいない生活が考えられないのは事実。
「ミオにも友達はいるでしょ。やっぱりさ、同じ年頃の友達が大事だよ。それに、そのうちまた、ボーイフレンドもできるだろうし」
 まずいことを言ったらしい。ミオががばりと起き上がった。悲鳴のように叫ぶ。
「男なんて嫌い!! あんな奴ら、みんな死ねばいいのよ!! 一生、男なんかと付き合わないから!!」
 まずかった。
 傷の深さを理解していなかった。
 探春でさえ、あたしが男性とのデートを勧めると、露骨に顔をひきつらせるのだから。
「ごめん、悪かった。あたしが無神経だった。ごめん」
 また泣かれると大変だ。
 背中を撫でて慰めようとしたら、ミオがぎゅっとしがみついてきた。どうでもいいが、女の子に抱きつかれると、ふにゃふにゃと柔らかくて、こちらが恥ずかしい。裸でない分、さっきの風呂よりはましだが。
「お願い、一緒に連れていって。何でもするから。わたし、サンドラが好きなの。離れたくないの」
 さっきも泣きながら、似たようなことを口走っていたが。
 事件の直後にあたしに会ったので、間違った依存心を持ってしまったのだ。あたしなら、絶対にミオを襲ったり、傷つけたりしないとわかっているから。
「あのね、ミオ」
 熱い体温をもってしがみつく娘の頭と背中を、そっと撫でて言う。
「ミオはまだ、事件から回復しきっていないんだ。だから、あたしがいなくなると心細いと思ってしまう。でもね、もう二度と、ああいう目に遭うことはないんだよ。モデルクラブに戻っても大丈夫だから」
「いや。もういや。自分の顔をさらす仕事なんて、もうしない」
 どうやら、モデルをしていたことが悪いと思っているらしい。確かに、綺麗だから目をつけられたのは確かだと思うけど。
 しかし、美しいのも、才能の一つ。
 売れるものなら、売って悪いことはない。あたしだって、戦闘力を売っているんだから。
「それはね、たまたま悪い奴がいたからだよ。これから、どの星の支局だって、ちゃんと対策をとるからね。精神操作の技術を持った人間は、今までよりずっと監視がきつくなる。ミオは安心して、元の生活に戻ればいいんだよ」
 真犯人は逮捕されていないし、法律改正はまだ先だし、類似の事件は繰り返し起こっているが。
 ここはこうして、励ますしかない。この若さで、ずっと家に籠もっているわけにもいかないのだから。
 けれど、長い黒髪の娘は、ますます強くしがみついてきた。胸と胸が当たって、気恥ずかしいんですけど。
 あたしはやっぱり、男の堅い胸板がいい。
 抵抗できないバイオロイドの美青年を抱くのではなくて、あたしに惚れ込んでくれた男に抱かれてみたい。
 ミカエルに会った時は、やっと、その夢が叶うかと思ったのだけれど……
 しかし、ミオは懸命の様子だった。悲痛な声で訴えてくる。
「いや、ちがう、ちがうの、そんなんじゃない。病人扱いしないで。子供扱いもやめて。サンドラが好きなの。他の人じゃだめなの。サンドラが遠くへ行ってしまったら、わたし、生きていられない」
 そうまで言うか。
 困ったなあ。
 うかうか、家まで様子を見に行ったのが間違いだ。
 余計な手出しをせず、精神治療のチームに任せておくべきだった。ここで下手に突き放すと、本当に自殺されるかも。
 対応に悩んだが、こればかりは、探春に相談しても無駄だ。探春こそ、治療が必要なくらいの男嫌いであるのだから。
 男性捜査官や警護相手の政治家など、仕事で会う相手にはそつなく対応するが、あくまでも上辺の笑顔だけで、決して芯からは打ち解けない。
 バカンス中でも、ナンパ男には礼儀正しくそっぽを向く。
 こちらがまた、そういう探春を、ずっとかばってきたのが悪いのかもしれない。男嫌いのまま、
『あなたさえいれば、それでいいの』
 と満足している気配すらある。
 ミオまでそうなっては、人類社会の損失だ。
「よしよし、わかった。怖かったね。可哀想に」
 とりあえず、しっかりと抱いて慰めた。
 すると、ミオの堤防が決壊したようである。ずっとこらえていたものを、しゃくりあげながら訴える。
「あいつら、あいつら、笑っていたの……わたしに、ひどいことをしながら、笑っていたの……」
 これは、まずい。
 ミオが自分の映像記録を見たがり、そのおかげで余計に傷が深くなったと、報告を受けてはいた。せっかく忘れていたのだから、見なければよかったのに。
 しかも中央では、人間の記憶を消すような治療は、大幅に制限されている。
 技術的には可能だが、そんなことをすれば、本人がその後、記憶の欠落や偽の記憶に疑問を抱き、自分で傷口をこじ開けようとすることになりかねない。
 あったことはあったこととして、それを乗り越えるしかないのだ。
「わたし、逃げようとしてたのに……」
 男たちに手足を押さえられ、縛り上げられ、何をされたか、ミオは涙声で訴える。
 あたしも報告書で概略は承知していたが、改めて聞くと、やはりこたえた。大の男の拳。ワインの瓶。
 よくも普通の女の子に、そんな無茶なことを。
 辺境では、バイオロイドの女や子供に対して、もっとひどいことも行われているが。
 それはまあ、最初から責め殺すつもりの場合だから、比較にならない。辺境の違法ポルノなど見たこともないミオとしては、想像を絶するほど、ひどいことをされたわけだ。
 とにかく、そんな記憶があっては、ミオが立ち直れないのも無理はない。このままでは一生、男を避けて暮らすようになる。
 たとえ自殺の恐れありとして、ミオを強制的に長期入院させても、記憶を完全に消さない限りは同じことだ。
 これはもう、乗りかかった船。
「わかった、もう言わなくていい。怖かったね、可哀想に。なんてひどい奴らだ。あたしが殺してやればよかった」
 暖かいベッドの中でミオを抱きしめ、震えがおさまるまで頭や背中を撫でた。少しずつ、ミオの呼吸が落ち着いてくる。
「ごめんなさい……ごめんなさい。サンドラに迷惑なのは、わかってるの……」
「よしよし、謝らなくていい。迷惑なんかじゃないよ」
 やはり、男ではだめなのだ。女のあたしだから、ミオが安心してすがることができる。
「とにかく、休暇の間は、あたしが側にいるから。ミオがそうしてほしければ、明日も一緒に寝てあげるし」
 すると、ミオはべそ顔を上げた。暗がりだが、窓の外には市街の明かりがあるので、完全な闇ではない。
「ほんと? そうしてくれる?」
 人と一緒に寝るのは神経を使うが、それは仕方ない。こんなに傷ついているものを突き放したら、それこそ犯罪だ。
「うん、約束」
 いつも探春にそうするように、額にキスをした。すると、ミオの手があたしの顔をはさむ。そして、唇にキスしてくる。
 おいおいおい。
 最近の若い子は、どうなってる。
 思わず年寄りの気分になって、そう思ってしまった。普段は若いつもりでいるのだけれど、それは特別製の肉体のせいで、実際にはミオの祖父母と変わらない年齢なのだから。
 ミオはあたしにすがりつき、甘い吐息を洩らす。
「サンドラ、大好き」
 それはいいけど、唇にキスは、こそばゆくて恥ずかしいなあ。冗談ならいいけれど、今のは相当、真剣だった気がする。
「ねえ、女の子は嫌い?」
 う。
 泥沼にはまりそうな予感。
「嫌いじゃないけど、基本的には男の方が……」
 しかしミオは、さらに困ったことを言い出してくれた。
「お願い、抱いて。サンドラだったら、何をしてくれてもいいから」
 泥沼確定だ。探春の言う通り、担当チームに任せておけばよかったのに。

13 探春

 経過報告に来てくれた捜査官ペアを送り出した後、一人で食事を済ませ、一人で入浴し、一人でベッドに潜ったけれど、眠れなかった。
 仕方ないので、起き出して明かりをつける。刺繍用の枠に張った半襟をテーブルに置き、針を持ったけれど、うまくいかなかった。指が震えて、正しい位置に針が入らない。糸をほどいて、やり直ししなくては。
 何度か針で指先を刺してしまい、とうとうあきらめた。棚からウイスキーの小瓶を取り出し、氷を入れたグラスに注いで飲む。
 女が夜中に一人で飲むなんて、惨めな光景、自分でも嫌気がさすけれど。
 紅泉は今頃、どうしているの。
 いつもわたしにするように、ミオと一緒にお風呂に入ったり、マッサージしたりしているのかしら。あの子を抱いて眠っているのかしら。
 馬鹿馬鹿馬鹿。
 人の気も知らないで、誰彼かまわず優しくして。
 もし、明日、ミオを連れて戻ってきたらどうしよう。休暇の間中、一緒に過ごすことにした、なんて言われたら。
 わたしはずっと、物分かりよく、にこにこしていなくてはならないのだ。たとえ内心では、ミオの首を絞めてやりたくても。
 あなたはまだ、若いでしょ。
 市民社会にいるのだから、他にいくらでも、優しくしてくれる人をみつけられるでしょ。
 わたしたちの間に入り込まないで。
 椅子から立ち、バルコニーに出た。冬の訪れを告げるような、冷たい雨が降っている。
 こういう晩はいつも、紅泉の隣に潜り込んで眠るのに。
 雨や嵐や雷は口実にすぎない。
 本当は、いつでもくっついて眠りたいのだ。
 でも、それでは紅泉の負担になるから、遠慮して、悪天候の日を待っているだけ。
 冷たく湿った空気を吸い、自分で自分の肩を抱いた。紅泉から離れると、たちまち自分が凍てつくのがわかる。
 紅泉の前では優しい女のふりをしているが、本当は冷酷なのだ。大事なのは紅泉だけで、あとは誰がどうなろうと構わない。
 男性恐怖症というのも、半分は、紅泉に甘えるための演技のようなもの。
 少女の頃はともかく、何十年もの戦いをくぐり抜けてきた今は、別に男性を恐怖してなどいない。
 いえ、恐怖や嫌悪はあるにしても、それには負けない。ケダモノは、屠殺すればよいのだから。
 ケダモノの命より、人間の権利が先。
 でも、わたしと同じような目に遭ったあの娘は……いえ、わたしよりもひどい目と認めるべきね。
 暴力犯罪の被害に遭った者は、何よりも安心≠失うと知っていた。それまで普通にしていた行動が、すべて恐怖と不安で妨害される。一人で街を歩くこと、仕事に行くこと、新しい人と知り合うこと。
 日常の中でびくびくし、行く手に見える人影にも、ちょっとした物音にも脅えて、疲労困憊することになる。
 一度あったことは、またあるのではないかと、頭より先に、全身の細胞が身構えてしまうのだ。
 それは、生存本能のなす業である。
 頭で考えて、止められるものではない。
 わたしの場合は、男性と二人きりでいることが苦痛になった。小さい子供か、よほどの老人でない限り、男性が近くにいるのは落ち着かない。相手の視線や言動に、神経が過剰反応してしまう。
 過剰だと認識しても、自然にそうなってしまうのだから仕方ない。
 ミオの場合も、たぶん同じだろう。街を歩いていて、キーワード一つで、何度もホテルへ連れ込まれてしまったのだ。
 救いのない真実を、思い知ったはず。普段は紳士面している男たちが、世間に知れないで済むと思ったら、どんな暴虐をはたらくか。
 彼らが例外なのではない。むしろ本流なのだ。
 つい数世紀前までは、
『女は男に尽くすのが幸せ』
『女に教育などいらん』
 と公言する男たちが普通≠セったのだから。
 女たちが迫害に負けず、手を取り合って世界規模で立ち上がったから、仕方なく、女の権利を認めるようになっただけ。
 同級生の青年たちも、学校の恩師も、仕事関係の知人も、友人の父親も、もしかしたら自分の祖父や父親でさえ、男である限り、みなケダモノの仲間ではないのか――ミオは、そこまで気がついたかもしれない。
 事実、昔は祖父や父親、兄に強姦される娘も多かったのだ。
 地球時代の統計では、女が殺される場合、通りすがりの暴漢に殺されるより、夫や恋人、男友達という、身近な男に殺される割合が多かったという。
 さすがに現代の市民社会では、女性が暴力行為の被害者になることは、大幅に減っているけれど。
 それでもたまには、ミオやモデル仲間の娘たちのような目に遭ってしまう。
 思い出しては頭を抱える、眠れずに苦しむ。ミオも、そういう地獄を歩いているに違いない。
 というより、現実が地獄≠セと理解してしまったのだ。それは正しい認識であるから、もはや、知らなかった頃には戻れない。
 男は全て、潜在的には女の敵。
 そこに、紅泉が現れてしまった。
 絶対に自分を傷つけない相手。
 そこらの男など、軽く蹴散らす気迫と膂力。
 ミオにとっては、まさしく、闇夜に射した光だったろう。
 紅泉の方も、何しろ天然プレイボーイ≠セから、傷ついた娘に冷たくなどできない。わたしに優しくするのと同じだけ、あの娘にも優しくする。
 それは結局、ミオもわたしも、余計に苦しめるだけなのに。

14 ミオ

 サンドラにしがみついたまま、緊張して小刻みに震えていた。
 ここでやめるのよ。でないと嫌われる。本当に迷惑になってしまう。
 でも、いま言わなければ、もう言えないという気もする。
 言ったら十中八、九、嫌われるけれど。
 言わない限り、いずれは置き去りにされるのだ。わたしの立場は、仕事でついていけるヴァイオレットさんとは違う。
「わたし、サンドラが好き。あなたと一緒にいたいの。ずっと、一生」
 そして、サンドラの上に覆いかぶさるようにして、もう一度、唇にキスをした。少なくともサンドラは、避ける動きをせず、黙ってキスされるままでいてくれる。
「お願い、抱いて。友達じゃなくて、恋人にして」
 突き飛ばされてもいい。気持ち悪いと言われてもいい。とにかく、本気だということは伝えなくては。
 いつも豪胆なサンドラが、さすがに、返事に悩むようだった。
「あのねえ、ミオ。そのう、光栄だとは思うんだけど……」
「やっぱり、女だとだめ?」
「えーと、そのう、絶対だめってわけじゃないけど……少しばかり、苦手かなあと……」
「それじゃ、ヴァイオレットさんとは?」
「えっ?」
「ずっと一緒にいるんでしょ。何もないの? 何もしないの?」
 サンドラは、空気が足りないかのように口をぱくぱくした。
「あ、あるわけないでしょ。家族なんだからっ」
 サンドラは、こんなことで嘘をつく人ではない。やはり、ヴァイオレットさんの片思いなのだ。もしかしたら、サンドラは、気づいてさえいないのかも。
 たぶん、そうなんだわ。もし、従姉妹の気持ちに気づいてしまったら、何とか応えようとするはずだもの。
 それなら、わたし、まだ間に合うかもしれない。ヴァイオレットさんより早く、サンドラの懐に飛び込めば。
「ねえ、お願い、わたしを試してみて。本当に、女はだめかどうか」
 すがりついて、揺さぶった。
「だって、女同士の経験はないんでしょ。もしかしたら、案外、相性がいいかもしれないじゃない。やってみないとわからないわ、何だって」
 暗がりの中だけれど、サンドラが閉口しているのがわかった。どうしたらこの場を逃れられるか、困り果てている。
 自分でも、信じられない。こんなに捨て身の勇気が出るなんて。
 でも、これが本当の恋なんだわ。人間、切羽詰まったら、何でもできるってことね。
「あのね……ミオ……あんたを可愛いとは思うけど……」
「男の人が好きなのよね、わかるわ。わたしも最近まで、自分はそうだと思ってたもの。それが普通よね。わたし、頭がおかしいのかしら?」
 自分では、ちっともおかしいなんて思わないけれど。男でも女でも、すてきな人はすてきな人よ。
「いや、別におかしくはないけど……それは趣味の問題で、人それぞれだから……でも、ほら、ミオはまだ、回復途中だから……」
 サンドラは懸命に、わたしの下敷きから逃れようとしている。体格差があるから、腕力でわたしを押しのければ簡単だけれど、何とか納得ずくで、わたしを動かそうとしているのだ。
「わたしが、心の病気だっていうの?」
「いや、そうは言ってない……」
「遊びでもいいの。実験だと思ってもいいわ。試してみて。わたし、あなたに責任を取れなんて言わないから。今夜だけでいいの」
 もう一度、首にしがみついて、キスしようとした。でも、肩を押さえられ、サンドラの肩のあたりに頭がくるよう、調整されてしまう。
「ミオ、ちょっと落ち着いて。そう焦らなくていいから」
 だって。
 わたしには、いま、このチャンスしかない。
 本当にだめなら、いっそ、ベッドから突き落として。
 出ていけと言って。
 いくら寛大なサンドラだって、我慢の限界というものがある。気持ちが悪い、と思われて無理はないのだ。わたし、ストーカーになりかけている。
 ふう、とサンドラが息を吐いた。
「わかった。やってみよう」
 えっ。
 聞き間違いではないかと思った。でも、サンドラはきっぱり言う。
「ミオが少しでも楽になるなら、それでいい。その代わり、下手なのは大目に見てよ。何しろこの方面では、とんと経験がないもんだから」
 経験がないって……まさか、男の人とも?
 でも、それはさすがに聞けない。それより、本当にサンドラが抱いてくれるの。夢じゃないかしら。
「あの、ごめんなさい、困らせて。わたし、調子に乗って、無理なお願いを‥‥‥」
 でもサンドラは、いったん決めたら着実に実行する人だった。わたしを車に押し込んで、遊園地に連れていった時のように。すぐさまわたしの上にかぶさって、まともなキスをしてくれる。甘くて柔らかい唇で。
 いっぺんで、ズキンときた。
 よく、背筋を電流が走るというけれど、本当にそうなるのね。単なる譬えだと思っていたのに、本当に、何かがびりびり全身を走るなんて。
 頬や瞼に優しいキスをしながら、ぎゅっと抱きしめてくれた。気持ちがよくて、気が遠くなりそう。
 男性に抱きしめられると、堅い檻に閉じ込められるような感じだけれど、サンドラの場合は、もっと柔らかい。
 期待で胸が詰まるようで、息が苦しくなり、思わず口を開いたところで、舌を入れるキスをされた。
 これもすごい。前のボーイフレンドよりずっと上手。
 それとも、わたしが恋をしているせいかしら。何をされてもビリビリくる。パジャマの上から肩や脇腹を撫でられるのも、前髪をかきわけられるのも、ぞくぞくするほど気持ちいい。
 つい息が荒くなってしまって、恥ずかしいけれど、サンドラは真剣そのものだった。わたしの頬から喉へキスをずらしていって、パジャマの上から胸のふくらみを撫でてくれる。サンドラは空手で鍛えているはずなのだけれど、それでも男の人の指より、ずっと繊細で柔らかい触れ方をする。
「大丈夫? 怖くない?」
 と聞かれたのも嬉しかった。
「へいき。サンドラなら、怖くないから」
 そうしたら、きゅっと胸をつかまれた。そう強くではないけれど、ずきんとくる。
「これも平気?」
 だめ、平気じゃない。
 そこは、一番感じやすいところだから。
 柔らかく握られて、揉まれるような動きをされると、おかしくなりそう。息が弾んでしまう。声が出てしまう。はしたないかもしれないけれど、我慢できない。
 わたしが感じているのがわかったのだろう、サンドラは続きにかかってくれた。パジャマの前を開いて、胸にキスしてくれる。
 もう、天国みたい。
 指や唇で、そっと乳首をくすぐられただけで、のけぞって悲鳴のような声をあげてしまう。
 サンドラはわたしの喉や胸にキスを続けながら、脇腹から腰、太腿を撫でてくれる。決して乱暴な動作はしない。慎重に、でも確実に気持ちのいい触れ方をしてくれる。
 経験がないなんて、嘘でしょ?
 ああ、そうなのかもしれない。
 女だから、女の望むことがわかるんだわ。自分ならこうして欲しいと思うことを、わたしにしてくれているのかも。
 慣れない苦労をさせて申し訳ないけれど、でも、わたしは何をされても感じてしまって、気持ちよくて、声が止まらない。サンドラにだったら、安心して全て預けられる。パジャマの下を脱がされても、脚の内側を撫でられても、ただ嬉しいだけ。
「ここ、触ってもいい?」
 耳元でささやきながら、優しく窪みをなぞってくれる。下着の布越しに、優しい指が感じられた。優しすぎて、じれったいくらい。もっと、深くしてくれてもいいのに。
 サンドラは懸命に努力しているのだろうな、と思うけれど、こちらはもうとろけてしまって、ひたすら次の動作を待ち望むだけ。
 サンドラはわたしが怖がっていないか、嫌がっていないか、何度も確かめながら、優しく愛撫してくれた。
 サンドラの髪がわたしの肌の上を滑るのも、気持ちいい。わたしの髪は半端なウェーブがついているので、さらさらの髪は憧れだった。
 背の高さも、腕力も、神話のアルテミスのような美貌も、何もかも、サンドラはすてき。
 わたしを裏返して、背中にも丹念なキスをしてくれた。そのうち、わたしの腰をぐいと持ち上げて、後ろから下着の隙間に指を入れてくる。もう片方の手は、他の部分を愛撫してくれる。
 下手だなんて、どこの誰のこと。男の人より上手。恥ずかしいけれど、ぐっしょり濡れてしまっているのがわかる。溶岩が流れ出す噴火口のように、芯が熱い。
「もう、もうだめ、死にそう……何とかして」
 と頼んだ。本当は、このまま夜明けまで責め続けてほしかったけれど、サンドラ自身はおそらく、何も楽しくないだろうから。
 サンドラはわたしを仰向けに戻すと、唇にキスしてくれてから、ささやいた。
「どうしようか、本格的に指を入れてもいい? それとも、何か探して使おうか? あんまり大きくないものを」
 わたしが怖い思いをしないように、気を遣ってくれている。あのケダモノたちとは、全然違う。
「指にして……」
 わたしが頼むと、サンドラはそうしてくれた。わたしの反応を確かめながら、痛くないように、慎重に。
 痛いどころか、全身がとろけていて、指では物足りないくらい。もし次の機会があるなら、その時は、何か道具が欲しいかも。サンドラなら、わたしが怖いと思うことは絶対しないもの。
 でも、サンドラは器用だった。指だけでちゃんと、わたしを満足させてくれた。わたしが高く叫んでしまい、しばらく痙攣している間、指を入れたまま、じっと待っていてくれた。それからそろそろと離れて、ティッシュを持ってきてくれ、わたしの脚の間をぬぐってくれる。
「大丈夫?」
 わたしはぐったりしたまま、目尻に涙を流していたけれど、それは幸せだったから。
 片思いなのはよくわかっているけれど、それでも、サンドラに会えてよかったと思う。
「ありがとう。とってもすてきだったわ」
 と言うと、サンドラは安心したように、わたしの横に寝そべった。
 気がついたら、サンドラは寝間着代わりの下着を着たまま。わたしだけが一方的に奉仕されて、天国に行ったのね。サンドラはずっと、地上で苦労していたんだわ。
「ごめんなさい。疲れたでしょ。あの、わたしも何かしましょうか」
 でも、それはサンドラには、迷惑でしかないらしい。
「それはいいんだ。気にしないで。ミオが満足したなら、それでよかったよ」
 どうしよう。わたしには、何もお返しができない。一方的に甘えるだけなんて。これでは長続きしないわ。何か、サンドラの役に立つことができないかしら。
 そう言うと、サンドラは笑った。
「そうだね。仕事のパートナーはヴァイオレットがいるから、ミオにその気 があったら、身の回りの世話でもしてもらおうかな」
「してもいいの?」
 それはきっと、ヴァイオレットさんが嫌がるわ、と思った。
 それでも、サンドラの側にいたい。そのためなら、誰に嫌われても仕方ない。
「ま、それはまた明日。もう一度、お風呂に入ってきたら」
 一緒に入ろうとは言われなかったけれど、それは仕方ない。
 わたしはシャワーでさっと躰を流してきて、再びパジャマ姿でサンドラの横に潜り込んだ。そして、サンドラの腕に腕をからめると、安心して、すぐに寝入ってしまった。このまま永遠に、夜が明けなければいいのにと思いながら。

15 紅泉

 妙なことになったものである。
 まさか自分が、女の子を抱く羽目になるとは思わなかった。よもや、この指を他人の体内に入れることになろうとは。
 自分ではもちろん、自分なりに欲求を解消しているけれど。される側≠ノ廻る空想が好きだなんて、たとえ探春にでも絶対言わない。
 これでも女なので、女がどう感じるか、どうして欲しいかはよくわかる。
 ただ、それをミオにしてやったところで、あたし自身は別に面白くないのである。
 いや、面白くないからこそ、冷静にそうしてやれるのか。
 SMの専門家の著作によれば、真に快感をむさぼるのは、責める側より、責められる側なのだという。責める側は、実は、責められる側の無言の欲求を汲んで、その通りに動くだけなのだと。
 愛情からであれ、プロ根性からであれ(希望者が集まって、そういう行為を楽しむクラブは、市民社会でも合法である。当然、指導力を持つ熟練者や、セミプロというものが存在する)、責める役割を引き受けた側には、相手の状態を見極める、冷静な判断力が必要なのだという。
 この場合も、似たようなものだろう。
 他のことを忘れて耽溺したいのはミオなのだから、こちらが冷静なのは当然ということになる。
 まあ、ミオが堪能してくれたようで、よかった。谷間はたっぷり潤んでいたし、絶頂に達した時の痙攣は、この指で確かに確認したから。
 あたしって本当に、プレイボーイの素質があるのかも。
 しかし、男というのは、大変な苦労をするものだと改めて感心した。
 お世辞を言って女につきまとい、さんざん頼み込んで、やっとのことで、こういう奉仕をさせていただく≠ニは。
 まあ、本当の男だったら、挿入という目的が果たせるわけだから、そこまでの過程も楽しいのだろうけれど。
 ただの男役のあたしは、職人的な反省をするのみ。
 もうちょっと、じらしたり意地悪したりしてもよかったかな? ちょっとくらいは、小道具を使ってもよかったかも。でも、それでミオが怖がってはいけないし。
 ミオはぐっすり寝入っていたが、あたしはそっと起き出して、窓から外を眺めた。
 雨が降り続いて、街の明かりがにじんで見える。深夜ではあるが、たまに車の行き来はあった。都会というのは、完全に眠ることはない。
 探春がいるホテルは、ここからは見えないが、すぐ近くだ。明日の朝、どんな顔をして探春と会えばいいだろう。何もなかったような、平然とした態度がとれるかどうか。
 うーん。
 きっと、浮気をした男というのは、妻の所へ帰る時、こういう気分なのだろうな。
 探春は別にあたしの妻ではないけれど、でも、似たようなものかも。
 何十年も一緒に暮らしていて、あたしのすること、考えることは、大抵お見通しである。
 もしも気づかれて、怒られたらどうしよう。
『ミオを励ますのはいいけれど、いくら何でもやりすぎよ。それは、間違った同情というものだわ』
 しかし、あれほど身も世もなく泣くものを、突き放せるわけがない。
 ミオの気が紛れるのなら、別にいいではないか、という気もする。妊娠の心配もないわけだし。
 そもそも、いつも探春にしていることと、程度の差はあれ、同じことではないだろうか。
 風呂で全身を洗ってやるのも、ベッドで愛撫するのも似たようなもの、と言ったら、探春は怒るかもしれない。
 どちらにしても、あたしは男の代用をしているだけだ。探春もミオも、本物の男を嫌悪するから。
 どう考えても、おかしい。間違っている。可愛い女は男が嫌いで、男に敬遠されるあたしが男好きというのは。
 だいたい、世間の男どもが悪いのだ。ちゃんと女に優しくしないから、女が脅えたり落胆したりして、男嫌いになるのではないか。
 モテないから女に優しくできないのか、優しくできないからモテないのか、ニワトリと卵だけど。

 翌朝、あたしはいつものように夜明け前に起きた。
 ミオを起こさないよう、居間で静かにストレッチをし、筋力トレーニングをし、シャワーを浴びる。
 雨はもうやんで、雲が薄れているから、じきに日が差すだろう。
 昨日の服を着て、身支度を済ませた。ミオが起きるのを待って朝食にするか、それとも先に軽く食べるか考えていると、寝室のドアが開いて、パジャマ姿のミオが顔をのぞかせた。
「おはよう」  と照れたように言う。顔色はいい。長い黒髪がくしゃくしゃ乱れているのも、可愛い。
「おはよう。よく眠れた?」
「ええ。サンドラ、早起きなのね」
「ミオはまだ、寝てていいんだよ」
「いえ、いいの。一緒に朝食したいから」
 それで、ミオが身支度している間、あたしは観光マップで朝から開いている店を探し、三人分の食べ物を注文した。
 配送チューブですぐに届いた料理を、あたしがテーブルに並べようとしていると、ミオが昨日の白いニットドレスで現れて、
「わたしがします」
 と張り切った様子で言う。
 任せておくと、いそいそと皿を並べたり、バターやジャムの容器を開けたり、コーヒーを注いだりして、立ち働く。
 元々、家庭的な娘なのだろう。探春も、本当はそうなのだけれど。
 あたしがハンター稼業を選んだせいで、血生臭いことに慣らしてしまって、申し訳ないといつも思っている。この上ミオまで、そんな世界に引き込みたくないんだけど。
 ミオはまだ、あたしを捜査官だと思っているからなあ。ハンターだと教えたら、それこそ探春に叱られる。
『普通の人間が、あなたについてこられるはずがないでしょう。深入りさせてはだめよ』
 ごもっとも。違法都市で生まれ育ち、相当に気丈な探春ですら、しばしば疲労のため息をついているのだから。
 あたしはテーブルについて、ミオと差し向かいで朝食にかかった。香ばしいバタートースト、とろりとしたチーズオムレツ、南瓜のポタージュ、オレンジジュース、野菜を添えたベーコンエッグ、こんがり焼いたソーセージ、トマトと隠元豆のソテー、コーンサラダ、苺やメロン、洋梨の盛り合わせ。
「サンドラ、毎回それだけ食べて、ちっとも太らないのね」
 とミオが感心する。
「全部エネルギーになるんだ、基礎代謝が高いから」
「鍛えているのね」
 戦闘用強化体なので。
 長いことじっとしていると、むずむずしてきて我慢できない。あたしの肉体は、暴れ回るようにできているのだ。しばらく平和なバカンスをしていると、戦場の緊張が恋しくなってしまう。退治するべき悪党がいないと、エネルギーの行き場がないのだ。
 いつか、人類社会が完全に平和になったら、よその銀河を探険しに行くしかないだろうな。
「さて」  食事が済み、ミオがいそいそ後片付けをしてくれると、もうこの部屋にいても仕方なかった。探春が待っているだろう。
「あたしの荷物は全部あっちのホテルにあるんで、あっちへ帰らないと。ミオも来るでしょ」
 と手を差し伸べた。
 昨夜、あれほどあたしにすがりついて、泣いたり笑ったり、夢中のあえぎ声をあげたりした娘である。
 たとえ傷心ゆえの錯覚であろうと、あたしに対する好意は強いらしいし、ああいうことをしてしまった以上、こちらにも責任がある。
 ミオが望む限りは、なるべく一緒にいてやるべきだろう。そうすれば、そのうち本当に元気になって、あたしを卒業するのではないか、と思うし。
「行ってもいいの? 本当は、迷惑よね。わかっているの。ごめんなさい」
 ミオが悲しげな顔をするので、慰めるしかない。
「あたしたちの仕事について、まずいことは聞かない、他所でしゃべらない。それが守れる限りは、一緒にいていいよ」
 ミオは晴れやかな笑顔になって、あたしにすがりついてきた。
「ありがとう。なるだけ、いい子でいますから」
 外の天気も、さわやかな秋晴れになっていた。雫を宿した街路樹は、わずかに紅葉を始めている。
「あの、お願いがあるんだけど、いい?」  出勤や通学の人々に混じって朝の街路を歩いているうち、ミオが言い出した。
「サンドラのホテルに置いてくれるのなら、いったん家に戻って、着替えや何かを取ってきたいんだけど……一緒に行ってくれる?」
 それだけの間でも、あたしから離れるのが心細いらしかった。そこで、あたしたちはタクシーでミオの家に行く。むろん、ナギの車が離れてついてくる。
 首都のはずれに近い、静かな住宅街の一角である。見渡す限り、銀杏と桜、楓の街路樹が交互に植えられ、手入れのいい庭に囲まれた、ほどよい大きさの家が整然と続いていた。
 温室と一体のプール、犬たちが遊ぶ芝生の前庭、薔薇のアーチ、ジャスミンの巻きついたフェンス、子供用のブランコや滑り台。まさしく、子供時代のあたしが憧れていた、平和な理想郷。
 ミオについて玄関から居間に入ると、ニュース番組を見ていた美少年が、ベージュのソファから立ち上がった。
 カールした黒髪で、つぶらな黒い瞳、ミオによく似ている。大学生と聞いていたが、ほっそりしていて、青年というよりは、まだ少年という風情だ。それでも、姉のことを心配していたらしい。
「姉さん、外泊の時は連絡してくれよ。気になるじゃないか」
 と真っ先に言う。事件のことは知らないはずだが、やはり、ミオの様子がおかしいのは察していたのだろう。
「ごめんなさい。うっかりしていて、悪かったわ。お友達の所に泊まったの。サンドラ、弟のタケルです」
「よろしく」
 とにっこりすると、白いシャツの似合う坊やは、やや緊張した様子。
「あ、初めまして。姉がお世話になっています」
 と直立不動で言い、ぺこりと頭を下げる。どんなお世話か知ったら、目を回すかもしれない。
「どういたしまして。会えて嬉しいな」
 あたしはつい、獲物を見る目でにんまり、美少年を見てしまったらしい。彼は握手をすませると、すぐさま逃げる態勢になった。
「パーシスを呼んでくるよ。まだ家にいるはずだ。サンドラさんに会いたがっていたから」
 ほほう。あたしは期待されているらしい。
 ミオが自分の部屋で着替えや身の回り品をまとめているうち、パーシスという青年がやってきた。
「やあ、あなたがサンドラさんですか」
 こちらはすらりとした、理知的な印象の伊達男である。焦がしバターのような褐色の肌で、さらりと分けた金茶色の髪、鳶色の瞳。あたしと変わらない身長があり、あたしを見る目に期待と興奮の色がある。
 これはもしかして、脈があるのでは。男の子の恋人がいても、あたしは一向に構わないからさ。
「初めまして、パーシス・ウェインです」
 がっしりした手を差し出して、熱のこもった握手をしてくれる。タケルと違って、あたしに脅えたりしない。
「ミオから話を聞いて、お会いできるのを楽しみにしていたんです。ミーハーですけど、私立探偵なんて、実際にお目にかかったことがないんです。色々、危ないこととかもあるんでしょ?」
 なるほど、仕事に対する興味か。
 まあ、何でもいい。それもきっかけになる。
「まあ、たまにね。大抵は家出人を連れ戻すとか、夫婦喧嘩の仲裁とか、浮気調査とか、そんなもんだけど」
「面白そうだなあ。守秘義務があるんでしょうけど、さしさわりのない範囲で、聞かせてくれませんか。空手もお強いとか」
「ま、そこそこ」
「ますますいいなあ。ぼく、強い女の人、大好きなんです」
 うーむ、嬉しいことを。
 思わず、期待を持ってしまうではないの。
 あたしとパーシスが別荘行きについてしゃべっている間、タケルがコーヒーを運んできてくれた。ミオは大きな旅行バッグ三つに、荷物をぎっしり詰めて二階から降りてくる。
「何だい、それは。引っ越しか」
 パーシスが呆れたように言うと、ミオは助けを求めるようにあたしを見た。
「あー、えーと、別荘行きだけの荷物じゃなくてね。どのみちミオは、しばらく、あたしの所に泊まりに来ることになってるんだ。姉さんを借りるよ、タケル」
 あたしは美少年にウィンクしてみせた。タケルはパーシスと顔を見合わせ、ミオは正直に顔を染めている。はたして彼らに、どう思われたことか。
 結局、今夜はウェイン家の別荘に泊まりにいく、と約束して、いったんホテルに引き上げることにした。
 待たせておいた車に荷物を積んで、あたしは内心、脅えている。
 違法組織を怖いと思ったことはあまりないが、探春の機嫌だけは怖い。
 ミオを連れて戻ったら、探春が怒るんじゃないかなあ。
 ホテルに着くと、探春は着物姿で刺繍をしていた。この間買ったばかりの、薄紫とベージュの花模様の着物に、濃い赤紫の帯を締めている。
「まあ、きれい」
 とミオが感嘆の声をあげたのは、着物姿に対してと、緻密な刺繍に対してと、両方の意味だろう。まさしく、一幅の絵のような情景である。
「お帰りなさい」
 長い茶色の髪を夜会巻きに結い上げた探春は、にっこりした。髪に差してあるのは、お気に入りの翡翠の簪だ。
「これはあなたの差し入れね。後で頂いてもいいかしら」
 テーブルの上の箱は、ケーキか何からしい。
「あ、はい、お口に合うといいのですけど」
 ミオもやや緊張しているようで、態度がぎこちない。ここは、あたしがうまく説明しないといけない。
「あー、えーと、しばらくミオを泊めてもいいかな。といっても今夜は、温泉に浸かりに行く約束をしてきたんだけど」
 パーシスたちの話を聞くと、探春は微笑んだ。
「まあ、嬉しいわ。温泉は大好き。ハンサムが二人もいるなんて、なおすてき」
 しかし、あたしはまだ怖い。探春が、本当には笑っていないから。ミオが席を外したら、何を言われるか。
「あー、ミオ、こっちがあたしの寝室だから、ここで荷物を広げればいいよ」
 ミオを寝室の一つに案内し、あたしの荷物をどけてクローゼットに場所を作ってやってから、そっと探春の側に戻った。ミオに聞こえないよう、低く言う。
「ゆうべはごめん。ミオが不安定だったんで、つききりで。もうしばらくリハビリしないと、手を離せないと思うんだ」
 探春は依然、不自然な笑みのままだった。
「そうだと思ったわ。あなた、いつも女の子に優しいから」
 それが、とても悪質なことのように響く。
「探春、怒ってる?」
「あら、どうして。いいのよ、何でもあなたの思う通りにして。これから順次、ハレムの人員を増やしていくつもりなんでしょ」
 ひええ。
 これは相当、ご機嫌を害している。
「だからさ、ミオの心のリハビリ……」
「このぶんだと、いずれ、仕事にも連れていくことになるわよ。その時こそ、本当にリハビリが必要になるわね」
 それを言われると痛い。確かに、普通の娘には耐えられないだろう。違法組織との戦闘の現場など。
 司法局長にまで昇りつめたミギワだって、新米捜査官として初めて違法都市に来た時には、うろうろ、まごまごし、半泣きになっていたのだ。
「その時は、もちろん、ナギをつけて安全な所に置いていくよ」
「ミオがおとなしく、留守番に甘んじればね」
 うーん、また泣かれるのは困る。
 しかし、核ミサイルの炸裂だの、捕虜の尋問だのを間近に見たら、それこそミオの神経が保たないだろうし。
「とにかく、この休暇の間はここに泊める。もし探春が不愉快なら、別に部屋を取ってくれれば……」
 ぎょっとした。探春の顔が白くなっている。元々色白だけれど、血の気が失せているのだ。初めて会った時のミオのように。
「どうしたの、貧血!?」
 探春は細くても丈夫で、これまで、病気らしい病気をしたことはないけれど。はるか昔、生理痛でちょっと寝込んだことがあるくらいだ。あたしは生理が軽いので、そんなに痛かったり辛かったりするのかと、びっくりしたものだけれど。
「いえ、ちょっと寝不足なだけ」
 まずかった、と思う。やっぱり、探春も一人にしてはいけなかったのだ。雨の晩はいつも、あたしのベッドに入ってきたがるのだから。
「ごめん」
 思わずぎゅっと抱きしめると、最初、くたりと崩れるような気配があった。ところが、探春はすぐにしゃんと背を伸ばし、あたしを押しのけるようにして身を離す。
「髪が乱れるから、触らないで」
 と冷たく言い、顔をそらせたままで、自分の寝室に去っていく。
「別荘に行くんでしょ。支度をするわ。山の中なら、着物じゃない方がいいわね」
 弱った。
 もしかしたら、あたしは非常にまずいことを引き受けてしまったのかもしれない。探春がそんなに、ミオのことを気に入らないのなら。

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