レディランサー 連合編1

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   1

 朝、目を覚ますと、それが管理システムによって秘書室に伝えられ、控え室にいたバイオロイド侍女たちがやってくる。わたしの身支度の手伝い、部屋の片付け、食事の世話。
 そんなものは自分でできる……と思っても、彼女たちの存在理由を奪うわけにはいかない。
 だから、人数だけを減らした。余分な人員は組織の他部署に回し、事務的な仕事をさせているので、今、わたしの私室に出入りする侍女は二人しかいない。
 違法組織のボスとしては、きわめて質素な私生活だ。
「おはようございます、ユージンさま」
「ああ、おはよう」
 秘書室を通ってオフィスに入ると、秘書たちが、夜間のうちに入った連絡事項を告げてくれる。
 それらを片付けた頃、通話があった。デスクの正面の通話画面に《キュクロプス》の一つ目巨人マークが現れたので、姿勢を正して待つ。ほどなく、向こうの秘書が現れた。
「ユージンさま、ただいま、お時間をいただいてよろしいでしょうか」
「ああ、大丈夫だ」
 〝連合〟の最高幹部の呼び出しならば、最優先である。どちらも標準時で活動しているので、生活時間が一致している。朝一番の用件は、きっと重大なことだ。
 すぐに、白いドレスの美女が画面に現れた。
「おはよう、ユージン」
 綿菓子のようなふわふわのプラチナブロンド、ぬめるような白い肌、眠たげな灰色の瞳。
 桜色の耳たぶには、きらきら輝くイヤリング。
 マシュマロのようなぽってりグラマーで、ひらひらのドレスと赤い口紅を好み、見る者に砂糖菓子のような甘い印象を与えるが、内実は剛胆かつ周到な切れ者だった。実年齢は、おそらく二百歳を超えている。
「おはようございます、メリュジーヌさま」
 その名前にしてからが、地球時代の伝説の妖女だ。辺境に君臨する最高権力者の一人である。
「今日は、あなたに頼みがあって」
 にこやかに言われたが、それは事実上、命令である。
「先日の幹部会で、あなたを派遣しようということになったの。いま、急ぎの用事は抱えていないでしょ」
「もちろん、どこへでも行きますよ」
 わたしの組織は弱小だ。それが他組織に潰されずにいるのは、こうして最高幹部会じきじきの命令を受ける立場だから。
 その任務を無事に果たし続けている限り、種々の特権を保証される。
 世間では、わたしのような者を〝最高幹部会の代理人〟と呼ぶ。いわば、辺境の全権大使だ。
 いや、〝何でも屋〟の方が正確かもしれない。スパイ行為や破壊工作、誘拐、暗殺、要求されたことは何でもするる
「では、ジュン・ヤザキを、わたしの元へ連れてきてちょうだい。計画は、あらかたできているの。あなたに、出迎えと世話役を頼みます」
 予期していなかった名前なので、驚いた。むろん、多少の知識はある。
「あの、ジュン・ヤザキですか……」
 辺境航路の英雄として知られる、ショウ・ダグラス・ヤザキ船長の一人娘。
 母親は、違法組織から脱出した実験体だ。
 むろん、母親の卵子ではなく、普通人に提供された卵子と、父親の精子からできた子供である。市民社会は、辺境から亡命してきた実験体や強化体の繁殖を認めない。
 そのジュン・ヤザキは、惑星連邦で最も若い船乗りとして、一部では前から知られていたが、最近、誘拐された父親を違法組織から奪回したことで話題になり、新しいスターになった。
 確か、やっと十七か十八の小娘だ。ニュース映像は何度も見た。短い黒髪で、気の強そうな美少女だった。
「それは、彼女が〝リスト入り〟したからですか? 暗殺する代わりに、拉致せよと?」
 辺境を支配する違法組織の〝連合〟が、市民社会の要人たちを懸賞金リストに載せてから、もう何十年経つだろうか。
 グリフィンと呼ばれる謎の人物が統括する組織が、懸賞金制度を運営している。
 一番安い賞金額とはいえ、子供がリスト入りするだけで、驚きだった。政治家であれ財界人であれ、学者であれ軍人であれ、市民社会の真のリーダーの一人と認められた者しか、このリストには載せられない。
 いったん選ばれれば、それ以降、賞金目当ての暗殺者に付け狙われることになるのだから、当人には迷惑きまわりないが、それは同時に、大きな名誉でもある。
 〝悪の帝国〟に敵視されるということは、その人物の偉大さの証明だからだ。
 だからこそ、若いジュン・ヤザキがリスト入りしたことは、世間を驚かせた。父親が有名人だから、ではなく、彼女自身が、新たな大物と認定されたのだ。
「彼女を害するつもりではないの。その逆よ。〝連合〟に招待するという意味だから」
 と画面のメリュジーヌは微笑んで言う。
 この場合、招待とは誘拐だ。
「それは、父親に対する人質という意味ですか?」
 最高幹部会は以前から、ヤザキ船長の首に懸賞金をかけている。何人もの馬鹿者が、懸賞金につられて彼を殺そうと試みた。そして、全て失敗した。
「いいえ、わたしたちが欲しいのは、過去の英雄ではなく、これからの英雄なの」
 と甘い微笑み。
「それでは……」
 わたしが考えていたよりも、最高幹部会は先を見ているらしい。さすが、と言うべきか。
 前例に囚われない。
 常に挑戦を続ける。
 だからこそ、人類社会の大部分を支配していられる。どれだけの人命を犠牲にしようとも。
「ええ、ジュン・ヤザキを六大組織のどれかに、幹部待遇で勧誘することになったのよ。たぶん、うちに入るわ。わたしが優先交渉権を得たのでね。賓客のつもりで迎えてちょうだい」
 それにしても、思い切ったことを。
 十年後ならまだわかるが、今、まだ子供から抜けきっていない娘に対して、そこまでするとは。
 何十万という組織を擁する〝連合〟が、それほど人材不足とは思えない。現状で、十分にやっていけるはずだ。だが、あえて新しい試みをするほど、危機感を持っているというのか。
「ずいぶん、大胆な抜擢ですね」
 と用心深く、探りを入れた。
 真っ赤な口紅を塗った、きんきらのマシュマロ女だが、メリュジーヌは馬鹿ではない。それどころか、狡猾と言っていい。
 最高幹部会の他の面々も、恐ろしい切れ者ばかりだが。女の恐ろしさは、男と違う発想をするところにある。
 この話には、どんな意図が隠されている?
 小娘に、何をさせるつもりだ?
「それだけの価値のある人材、ということよ。あなたには、引き続き、彼女の世話役をしてもらいたいわ。今後、長いこと、ジュン・ヤザキの側近として働いてもらうかもしれない……」
 それは、長期計画があるという意味か。
 そして、このわたしが、その計画の一部に組み込まれている。
 これはどうやら、本腰を入れてかかる仕事のようだ。
「わかりました。接触の方法は?」
「計画書を用意してあります。それと、ジュンに関する詳しい資料を送るわ。世間に知られていないことも、幾つかあるのでね。最高幹部会としては、父親より使えそうだという判断を下しているの」
 報道されたこと以外に、彼らがジュンを認めた〝何か〟があったらしい。もしかして、殺しを気にしない性格だとか?
「力ずくの拉致でないのなら……本人に納得してもらわないと。こちらから、ジュン・ヤザキに提示できる条件は?」
「彼女が〝連合〟の一員になってくれるなら、父親を懸賞金リストから外すわ。当然ながら、ジュン本人には、わが《キュクロプス》の幹部待遇と、最新の不老処置を約束します」
 なるほど。
 父親が命を狙われなくなるなら、ファザコン娘としては、考えるかもしれない。
 父親の命を守るために武道や射撃を習い、見習いとして輸送船《エオス》に乗り込んだという孝行娘だ。
 母親を亡くした後、彼女には、もう父しかいない。父親の親族とは、戦闘用実験体との結婚を反対されて以来、絶縁状態だというから。
「まあ、彼女が大組織の幹部になれば、それだけで、父親の命を狙う愚か者は、いなくなるでしょうけどね」
「しかし、彼女は、正義の側のアイドルになるはずでは? そのために、若くしてリスト入りさせたのだと思っていましたが」
 元々、最高幹部会は、ヤザキ船長やその他の要人たちが憎くて、懸賞金リストに載せているのではない。
 一種のスター・システムなのだ。
 市民社会の大物たちを暗殺リストに載せることによって、辺境を支配する最高幹部会が、彼らの偉大さを認め、畏怖しているということになる。
 ハンターの〝リリス〟しかり。
 クローデル司法局長しかり。
 硬派の軍人や、理想主義の学者たちも。
 リスト入りすれば、懸賞金目当てのチンピラのために、余計な危険を招くことは確かだが、市民たちの尊敬は増す。警護も手厚くなる。世間に対する発言力も強くなる。
 彼らを中核として、市民社会がまとまることが肝要なのだ。
 健全な市民社会が存続してこそ、新しい人材が生まれ育つ。そして、その中でも最優秀の人材を勧誘し、違法組織に取り込める。
 辺境の人間たちは、不老処置で長生きするのが普通だが、だからこそ、繰り返し清新な人材を入れていかなければ、組織が硬直化する。それが、最高幹部会の考え方だ。
 〝リリス〟が長く戦い続けていられるのも、 グリフィンの側が、密かに手加減したり、庇護したりしているためかもしれない。 それはさすがに、わたしも、口にして確かめたことはないが。
「狙いはそこよ。うまくいけば、彼女を辺境のアイドルにできると思うの。そうしたら、彼女の元に、まともな人材を集めやすくなるわ」
「なるほど、人寄せパンダというわけですね」
 だが、本当にそれだけの単純なことなのか?
 ただそれだけのために、大組織の幹部の座を用意して、小娘を出迎える?
 さて、どうなるのだろう。

 メリュジーヌとの通話を終えると、送られてきた資料に目を通した。本人は軍や司法局に警護されている身だから、誘拐の手段を講じなくてはならない。その方策が、既に出来上がっているようだ。
 それでは、彼女を拉致して、メリュジーヌの元へ送る途中で、説得を試みればいいだろう。市民社会を捨て、残りの人生を、辺境の違法組織で過ごせと。
 人間がバイオロイドを培養して奴隷にし、人間同士で殺し合っている世界。
 人体改造や人為的進化の研究が続けられ、生体実験が繰り返され、様々な怪物が生み出されている世界。
 まだ若い娘を、こんな世界へ引き込むのは、確かに残酷だ。しかし、それは、彼女の能力が招いた運命。
 いったん引き込まれてしまえば、慣れてしまう。わたしのように。
 リゼル。マリシア。
 妻と娘から引き離され、もう十五年。
 条件は単純だった。わたしが最高幹部会に尽くしていれば、妻と娘は無事でいられる。
 四歳だったマリシアは、もう一人前の娘になってしまった。わたしの顔など、写真でしか知らないだろう。
 女手一人で娘を育てたリゼルも、数年前から、恋人を持つようになっている。
 わたしは単に、行方不明になった、元夫。
 もう、わたしに帰る場所はない。
 わたし自身が既に、辺境に染まってしまっている。できることは、精々、自分の組織内のバイオロイドたちを守ってやることくらいだ。
 ジュン・ヤザキはどうだろう。
 資料によれば、正義感の強い娘らしいが、彼女がこの世界で地位を得たら、弱い者たちを守ってくれるだろうか。
 だが、やりすぎると最高幹部会に睨まれる。
 難しいところだ。〝連合〟を存続させつつ、邪悪を減らすことなど、できるのかどうか。
 甘い期待はするまい。父親の七光に守られてきた娘だ。権力を与えられたら有頂天になって、変質してしまうかもしれない。
 司法局員だったわたしでさえ、もはや、殺人や誘拐にためらいは持たないのだから。

    2

「ふええん」
 どこかで、子供の泣き声がした。わたしはつい、あたりを見回してしまう。誰か、助けを求めている子供がいるの。
「お兄ちゃんのばかあ」
「何だよ、泣くなよ。返すよ、ほら」
 噴水の横で、幼い兄妹が喧嘩していた。どうやら兄が、幼い妹のぬいぐるみを取り上げたらしい。それでも妹は、戻されたぬいぐるみを抱えたまま、じたばた転がって泣いている。いったん泣きだしたら、勢いがつくのだろう。
「あらあら、ちゃんと見ててって言ったでしょう」
 若い母親が用事から戻ってきて、娘を抱き上げる。
「さ、帰るわよ。いつまでも泣かないの」
「だって、お兄ちゃんがねえ」
「謝っただろ。いじめてないよ」
 微笑ましく言い合いしながら遠ざかる親子を、わたしは、うすら寒い思いで見送っていた。
 幸せな光景を見ると、自分の神経がささくれ、ひきつり、夜叉になってしまうのがわかる。
 妬ましい。
 彼らに不幸が降ってきますように、と願ってしまう。
 そんなことを願ったら、自分がますます惨めになるだけなのに。

 ――わたしだって、いい母親になるわ。妊娠させてくれる人がいたら。
 ずっと、そう思い続けてきた。
 でも、いない。
 世界の半分は男性なのに、わたしが愛せる人はいない。
 今度の誕生日で、三十五歳。
 もう、若い女とはいえない。すぐに四十になってしまう。その先は、更年期。砂時計の砂が、みるまに落ちていく。
 このまま一人で老いていくなんて、何の罰なの!?
 両親も兄夫婦も、わたしが心の病気だと思っている。だから、腫れ物に触るように扱い、昔のことは口にしない。アンヌ・マリーの持ち物は、みんなどこかに片付けてしまった。
 わたしもまた、滅多に郷里には帰らない。家族に優しく気を遣われていると、感謝するより先に、苛々してしまう。
 招待されて、友達の家を訪ねるのも辛い。
 みんな、当たり前に結婚して、家庭を築いているのに、わたしだけ、何をしているの!?
 努力はした。お見合いもしたし、パーティにも出た。紹介された人とは、必ずデートした。
 でも、だめ。
 他の男性に触られると、我慢できない。震えが走ってしまう。
 わたしは、アレンでないと。
 忘れろと言われても、少女時代を丸々、なかったことにはできない。双子の妹の存在は、鏡を見る度に蘇る。
 アンヌ・マリー。
 一卵性の双子でありながら、性格はわたしと正反対。
 わたしは静かにしているのが好きだったのに、あの子はいつも、トラブルの元だった。
 少女時代を通して、ことごとく張り合われ、意地悪をされ、わたしは疲れ果てた。大学に入って、別の学部に通うようになると、やっと妹と距離を取ることができて、ほっとした。
 でも、まさか、あの子がアレンをさらっていくなんて。
 ああ、わかっている。それは、アレンの選択。わたしの魅力が足りなかった。ただ、それだけのこと。
 わたしより、あの子の方が、アレンには大切な存在になってしまったのよ。
 いくら悔やんでも、もうあの頃には戻れない。人生はやり直せない。

 灰色の夕暮れ時、歩き疲れて、公園のベンチに座った。風が吹くと、ブーツの足下に、赤や黄色の落ち葉が吹き寄せられる。
 することのない休日は長い。買い物も虚しい。これ以上、服や宝石を買ったところで、誰に見せるの?
 仕事の方がましだわ。少なくとも、仕事の時は、他人に笑顔を見せられる。
 そのまま、あたりが暗くなるまで座っていた。コートを着ていても、晩秋の風は冷たい。葉を落とした梢の向こうに、明かりを灯したビル群が浮かぶ。
 あそこでは、家族連れや恋人たちが、笑いさざめいているのだわ。わたしはこのまま、一人で老いていくだけ。
 アレンのことを忘れない限り、先へ進めない。いつまでもぐるぐる、同じ場所を回り続ける。
 ――だったらもう、いっそ、市民社会を捨ててもいいじゃないの。それで、アレンの赤ちゃんが手に入るなら。
 アレンだって、わたしにそのくらいの哀れみをかけてくれても、いいはずだわ。
 あなたが郷里の病院に残した冷凍精子、いくらわたしが願っても、使わせてもらえないのよ。くだらない法律の壁のせいで。妻や婚約者ではないから、アレン自身の許可がないからって。
 辺境に出ていって行方不明の人から、どうやって許可を取り付けろというの?

 一週間前、初めて密かな接触があった時は、驚いた。
 辺境の違法組織はどうやって、不幸な者を探し当てるのだろう。
 彼らはわたしに、アレンの精子をくれると約束した。わたしが、ジュン・ヤザキを誘拐することに手を貸せば。
 反射的に拒絶したのは恐怖のためで、それからずっと、ぐずぐず迷い続けている。司法局に相談することもせず。
 アンヌ・マリーなら、迷わない。
 欲しいものは、どんな手を使ってでも奪い取る。
 わたしはいい子ぶってばかりで、自分を汚すことができなくて、だから、こういうことになっている。
 あの時、たとえ狂言自殺をしてでも、アレンを引き止めればよかったのに。

   3

 その通話が来た時、ぼくはオフィスで書類仕事をしていた。小組織とはいえ、人員が百名を超すと、それなりに雑務が溜まる。
 その時、風景映像を映していた通話画面に、何の前触れもなく、見知らぬ人物が現れた。
「きみがアレン・ジェンセンか」
 それは、二つの点で驚くべき出来事だった。この人物は、ぼくの本名を突き止めている。そして、警備室や秘書室を通さない直接通話をしてきた。よほどの組織力、技術力がなければできないことだ。
「どなたです?」
 と用心しつつ尋ねたが、内心では、いよいよ来たか、と思っていた。
 〝連合〟への勧誘に違いない。
 その時はおとなしく受諾しようと、アンヌ・マリーと話していた。多額の上納金を課せられるとしても、辺境ではやむを得ない必要経費。
 市民社会での税金のようなものだ。税金と違って、課税基準も使途も公開されないだけである。
「初めてお目にかかる。わたしはユージンという。《クーガ》という組織の代表者だ」
 褐色のサングラスをかけた、痩せた男だ。褐色の髪に、色艶の悪い肌。物憂げな、というよりは、陰鬱なたたずまい。
 その組織名は聞いたことがないが、ユージンという名前は、何か記憶にひっかかる。
「で、ご用は何です、ミスター・ユージン」
 たぶん、丁重に 対応しなければならない相手。
「そちらの組織の代表者は、アンヌ・マリーという赤毛の美女だと聞いている。そこは、彼女のオフィスではないのか?」
 彼女も辺境では別の名を名乗っているのに、ちゃんと本名を知っているのだ。
 とぼけても無駄、という警告だろう。いざとなれば、故郷の家族を人質に取ることもできるのだと。
 ぼくたちは確かに市民社会を捨てたが、それでも、郷里の家族や友人を殺されたいとは思わない。
「彼女は水泳中です。日課なので。ご用は、片腕のぼくが伺いましょう」
 穏やかに言うと、向こうは、薄い唇にわずかな笑みを浮かべた。
「では、きみに話そう。わたしは今、最高幹部会の命令で動いている」
 あっと思った。あのユージンか。
 最高幹部会の代理人。
 辺境でも数十名しかいない、トップエリートの一人だ。
 そう思って見直せば、いかにも油断のなさそうな人物に見える。しかし、そんなエリートが何の用で。
「きみに相談したいのは、カトリーヌ・ソレルスのことだ」
 いきなり、心臓を鷲掴みにされた。
 カティ。
 なぜ、彼女の名前が、こんな男の口から出る。
「どういうことです」
 平静なふりをしようとしたが、おそらく、顔色が変わっていたことだろう。ぼくの心は半分、カティのものなのだ。別れて十五年経っていても。
「なるほど。まだ未練があるか。では、彼女を保護するつもりはあるな?」
 脅迫されているのだと思った。向こうは、カティを人質にとっているのだと。
「要求は、何です」
 声が震えた。どんな難題を押し付けられるのか。
 だが、ユージンは穏やかに言う。
「早とちりはやめたまえ。彼女とは、これから合流する予定なのでね。きみたちも、合流してこないかという提案だ」
 合流? 何を言っている?
 カティは市民社会にいて、ちゃんと普通に暮らしている。航行管制局の仕事を、ずっと続けて。
「わかりやすく話そう。彼女はきみに捨てられた後も、ずっと、きみ一人を思い続けてきた。しかし、三十歳を幾つも過ぎて、つのる寂しさに耐えられなくなった」
 何だって。
 何だって。
「そこで、我々の誘いに乗って、辺境に出てくることにした。わたしは彼女に約束したのだ。一つ仕事を果たしてくれれば、アレン・ジェンセンの精子を提供すると。きみには、そのために、我々と合流してほしいのだよ」

「アンヌ・マリー!」
 ぼくが岸に立って呼ぶと、彼女はゆったりと泳いできた。
 熱帯や亜熱帯の植物を茂らせた温室区域にある、広いプールである。ここで毎朝、裸で泳ぐのが彼女のお気に入りだ。波紋が広がる水面の下に、すんなり伸びた白い手足が見える。
「なあに? あなたもいらっしゃいよ」
 アンヌ・マリーは裸のまま、ぼくの方に水をはねかけ、笑って誘う。いつもなら一緒に泳ぐところだが、今日はそれどころではない。
「すぐに上がってくれ。出航するんだ。違法都市《アグライア》に行く。カティがそこに来るんだよ!!」
「え、何ですって!?」
 整えた眉が、険悪に跳ね上がる。今もまだ、姉の名前は、彼女の神経を苛立たせるのだ。
「説明は途中でする。さあ」
 ぼくはアンヌ・マリーの手を引いて水から引き上げ、バスローブでくるんで抱き上げた。そして、三十分後には小惑星基地を離れていた。
 急いだので、用意できたのはほんの五隻の小艦隊だが、道中の安全はユージンが保証してくれた。自分と合流するまで、他組織がきみたちに手出しをすることはないと。
「馬鹿馬鹿しい。あなたの精子だなんて。まったく迷惑な女だわ」
 深緑のドレスを着たアンヌ・マリーは、近づいただけで火傷しそうなくらい、不機嫌だった。ソバージュにしたボブの髪に湿り気を残したまま、ソファで脚を組んで、熱いココアを飲んでいる。
「子供なんか、他の男の精子で作ればいいじゃないの。男なんか、そこらをいくらでも歩いてるんだから」
 しかし、元々、ぼくとカティは恋人同士だったのだ。アンヌ・マリーに割り込まれるまでは。
 ぼくらはまさしく、引き裂かれた。その痕がまだ、ずきずき痛み始めている。せっかく、治癒しかけていたものを。
「まあ、いいでしょう。この際だから、捕まえて冷凍保存にしてやるわ。これ以上、迷惑かけられたくないもの」
 迷惑をかけたのは、いったい、どちらだ。
「アンヌ・マリー」
 ぼくが咎める口調で言うと、華やかな赤毛の美女は、つんとしてそっぽを向いた。
「いいわよ。どうせあなたは、やっぱりカティを選ぶんでしょ。邪魔なのは、わたしの方なのね」
 それを涙声で言うから、ぼくは勝てない。アンヌ・マリーの肩を抱き、髪にキスして慰めた。
「こうして、きみと一緒に暮らしているじゃないか」
 市民社会を捨て、辺境に出てきたのも、アンヌ・マリーが望んだからだ。ぼく一人なら、そんな真似は絶対にしなかった。
 ぼくは凡人だ。カティと付き合っていた学生の頃は、普通に卒業して、普通に働き、普通に家庭を作ることしか考えていなかった。
 だが、アンヌ・マリーと出会った時に、全てが変わった。正確に言うと、アンヌ・マリーがぼくを欲した時に。
 それはアンヌ・マリーが、双子の姉妹のカティに、強烈な執着を持っているからではないだろうか。
 嫉妬なのか、反発なのか、それとも、ひねくれた愛情なのか。
 とにかく、縫いぐるみから恋人まで、カティの持ち物は、全て横取りしたいという熱情が、アンヌ・マリーにはあった。
「だけど、こんなに大慌てで、カティを迎えに行くんだもの。子供を産ませてやるつもりでしょ?」
 ぼくは知らなかった。カティがそれほど、思いつめているなんて。結婚していないのは知っていたが、きっと、仕事で充実しているのだろうと……そう思って、深くは追求しないできた。
 だが、ぼくがアンヌ・マリーと暮らしてきた歳月、ずっと一人で、涙をこらえていたのなら。
 とても、じっとしてはいられない。足元に火がついたかのように、そわそわする。
 ぼくはすっかり、カティを忘れ去ったわけではなかったのだ。それどころか……これほど動揺する。
 もちろん、それがアンヌ・マリーを怒らせるのは、わかっているのだが。
「それでカティが満足できるなら、そうしてやりたい。きみにはぼくがいるんだから、そのくらい、いいだろう?」
 あらかじめ精子を採取しておき、冷凍カプセルに入れて渡すだけの、事務的な接触にとどめればいい。しかし、アンヌ・マリーは頑固に言う。
「絶対だめ。あの女、子供を盾にして、あなたを搦めとるつもりよ」
「そんなことにはならない」
 カティの性格からして、そういう真似はできないだろう。彼女は善良な優等生だった。今でもきっと……そうに違いない。たまたま運悪く、違法組織に利用されてしまっただけで。
 そして、それがぼくのせいだとしたら……何とか、カティを市民社会に戻してやらなくては。
「冷凍精子を渡したら、説得して、中央に送り返すつもりだ。彼女は、辺境では生きられない。こんな所では、子育てだってできないよ」
 辺境で生きているのは、欲張りな悪党たちと、彼らに仕える、惨めなバイオロイドだけなのだから。
「送り返したところで、刑務所よ。誘拐犯なんだから」
「それでも、辺境よりましだ。自首して出れば、刑は軽い。中央の刑務所なんて、リゾートホテルのようなものだ」
 そこで、侍女のマーサとエルザが昼食を運んできた。ぼくらはいったん、議論を止める。喧嘩と思われては困るからだ。彼女たちはアンヌ・マリーを慕っているから、いそいそと給仕をしてくれる。
「こちらのフライには、このトマトソースをかけて下さいね」
「ワインは、このロゼでいかがでしょう」
「ああ、ありがとう。後はやるから、下がっていいよ」
「はい、それでは」
 二人は一礼して、控え室に消えていく。用がない時は、映画を見たり、ジムで運動したり、課題にしてある問題集を解いたりして過ごすはずだ。
 ぼくたちの組織では、バイオロイドの部下たちを、子供のように教育している。そして、教育の仕上がりによって、相応しい部署に配置していく。
 五年で殺したりはしない。そんなことには、とても耐えられない。ぼくたちは、彼女たちの親のようなものだと思っている。
 辺境で生き残るための違法組織とはいえ、あまり非道なことはしたくない――そう考えた結果が、女だけの組織にすることだった。
 現在、《アル・ラート》にいる男は、ぼく一人。あとは百人を超すメンバーが、人間の女とバイオロイドの女たちである。
 生きた男を雇うと、彼らの娯楽のために、生きた女が必要になるからだ。
 どこの組織でも、男に奉仕させるために、バイオロイドの奴隷女を使っている。そして、新鮮さが薄れたと思ったら、売り払うか、殺すかしてしまう。
 だが、そこまで悪辣なことをすると、ぼく自身が参ってしまうとわかっていた。自分が病んでしまい、人格が変質してしまったら、どこに生きている意味があるのか。
 ぼくには、バイオロイド美女のハレムは必要なかった。アンヌ・マリーだけで手一杯だ。彼女を満足させるだけで、ぼくはほとんど全てのエネルギーを使い尽くしてしまう。
 いや、こうしてカティのことを心配することが、既に裏切りだと、アンヌ・マリーは思うのかもしれないが。

 アンヌ・マリーは、心の病気なのか?
 もしかしたら、専門家の手に委ね、治療を受けさせるべきだったのか?
 それは学生時代から、何十回も考えてきたことだ。
 確かに彼女は、普通ではない。発想も行動力も。だが、天才が普通の枠から外れているのと、同じことかもしれない。凡人の浅薄な考えで、天才を測ることはできない。
 一人殺せば犯罪者だが、百万人殺せば英雄、という考え方もある。
 歴史上、戦争時には、平和時と違う判断基準が適用された。アンヌ・マリーの場合、市民社会の道徳とは適合しないが、辺境のルールには 馴染んだということだ。
 誰かを心の病気と認定するのは、その人物が、うまく社会生活を送れないからだろう。だが、アンヌ・マリーは一応、犯罪など犯さずに市民社会にいた……最後に、周到な計画を立てて、開発局の船を乗っ取るまでは。
 周りの女の子から、ボーイフレンドを横取りするという趣味は……誉められたことではないが、犯罪とも言えないだろう。
 それは、自分の魅力を試すという挑戦だったのだ。その趣味も、ぼくを手に入れてからは、ほとんど忘れてしまったようだし。
 アンヌ・マリーは、挑戦が好きなのだ。困難なことほど、情熱を持って取り組む。
 たとえば……難しい論文を仕上げるとか。双子の姉から、恋人を奪うとか。辺境に出て、自分の組織を築くとか。
 アンヌ・マリーは、自分が全力で生きられる場を、ずっと探し求めていたのかもしれない。何しろ頭が良すぎ、行動力がありすぎた。ぬるま湯のような市民社会には、とても収まりきれなかったのだ。
 事実、辺境に出てきてからの方が、アンヌ・マリーは安定している。市民社会にいた時の苛々した様子が消え、毎日が楽しそうだ。他組織と戦ったり、自分の組織を強化たりして、忙しく過ごすのが合っているのだろう。
 ぼくはといえば……後悔しなかったわけではない。
(あのまま市民社会にいたら)
(カティと結婚していたら)
 そういう仮定は、何百回も考えた。だが、アンヌ・マリーに呼ばれ、あれこれと相談されたり、胸にすがられたりすると、
(必要とされている)
 という嬉しさが湧き上がる。
 結局、惚れているのだ。
 つい、可愛いと思ってしまう。放っておけないとも思う。
 ぼくでなければ、他の誰が、アンヌ・マリーを理解してやれるのか。
 それは、ぼくの自惚れであるかもしれない。学生の頃、友人たちに何度も忠告された。
『アレン、きみは利用されているんだよ』
『いずれ、ぼろぼろにされて捨てられるよ』
『あの女には、良心も良識もないんだから』
『悪いことは言わない、カティの方に戻れよ』
 だが、十五年経った今でも、アンヌ・マリーはぼくを頼る。ぼくに甘える。
 やはり、愛されているのだ、と思う。ぼくがいれば、アンヌ・マリーは他の男を必要としない。
 それが間違いなら、いずれ、ぼくの命で対価を支払うことになるだろう。 それはもう、仕方ない。自分で選んだ運命だ。
 だが、カティは違う。
 彼女は市民社会で、まともな人生を送るべきだ。ぼくらに近づいてはいけない。
 まさか、違法組織に利用されるほど、思い詰めていたなんて……
 ぼくの忠告など、聞いてくれるのかどうか、わからない。だが、説得はしなければ。カティが遠くで幸せに暮らしていてくれると思えばこそ、辺境での暮らしに専心することができたのだから。

   4

 たかが小旅行に、軍艦での送り迎えなんて。
 あたしは恥ずかしくて、いたたまれなかったが、《エオス》のみんなは、そのくらい当然だという。
「きみは賞金首なんだよ!! 全力で護衛してもらわなきゃ!!」
 とエディは力んで言う。
 まあ、仕方ない。
 これまでは『賞金首の娘』だったけれど、今度からは、あたし自身が〝連合〟に賞金をかけられる身になったのだ。
 つい最近、グリフィンが世界に告知したのである。ジュン・ヤザキを懸賞金リストに加えると。もちろん、リストのうんと下の方だけれど。
 軍や司法局にしてみれば、あたしを警護することは、新たな重要任務ということになる。
(あたしが重要人物ねえ……)
 たかが十六歳の小娘に懸賞金をかけるなんて、悪の帝国もまめというか、暇というか。
 もっと他に、ちゃんとした政治家とか、軍人とかを選んで、懸賞金リストに入れればいいのに。
 まあ、別にいいけど。
 『辺境航路の英雄』と呼ばれる男の娘として、命を狙われたり、誘拐されたりすることには、もう慣れている。それにちょっと、余計な 危険が加わるだけのこと。
 あたしは今回、母港である《キュテーラ》から三日の距離にある植民惑星《ファルーネ》を目指していた。そこで、商業船の船長に必要な、パイロットのA級ライセンスの試験を受けるのだ。
 B級に合格してから一年あまり、ようやくA級の受験に必要な、実務経験の資格を満たしたわけ。
 もちろん《エオス》は仕事で別方面に飛ぶから、あたしと付き添いのエディ、ジェイクは休暇をもらい、試験会場まで軍艦に護送されるという段取り。
「子供じゃないのに、二人も付き添いなんて」
 とぼやいたら、パトロール艦《フレイア》の榊艦長に言われてしまった。
「お嬢さん、あなたが誘拐されてから大追跡するより、最初からきっちり守る方が楽なんですよ」
 穏やかな苦笑である。どんな任務であれ、きっちり務めるという覚悟の表れ。
「はあ、そうですね。お世話をかけます」
 と神妙に答えるしかない。
 まあ、あたしも軍艦で旅行なんて初めてだから、いい経験になるけれど。
 ジェイクもエディも元軍人だから、軍艦に感激はないらしいけれど、あたしは艦内見学や、女性軍人とのパジャマパーティで、結構盛り上がった。
 勤務時間内には、それぞれ颯爽としたお姉さんたちだけど、素顔はまた違う。彼女たちの武勇伝や失敗談、軍内部の噂話なんかを聞くのが面白い。
「それがね、将軍とは知らないで、気安く肩を叩いてしまって、後から冷や汗よ」
「目が覚めたら、式典の五分前よ。もう、あれほど急いだことは、生涯なかったわ」
「まさか、別れた男が、新しい部下になるなんてねえ」
 逆にあたしは、《エオス》での日常生活や、親父のこと、他のクルーのことを尋ねられた。
「ねえ、お父さまは再婚なさらないの?」
「エディさんて、あなたの彼なんでしょ?」
「ジェイクさんて、決まった人いる?」
 さあて、どう答えよう。
 親父本人は、刑務所にいるドナ・カイテルに未練があるみたい。自分の部屋から、まめに通話しているらしいから。
 自分を誘拐した女でも、恋愛感情があってのことだと、悪く思えないんだろうなあ。誘拐されている間は、記憶を操作されていて、彼女を妻だと思っていたわけだし。
 いずれ、ドナ・カイテルが刑期を終えたら……どうなるか、あまり考えたくない。あたしは絶対、彼女と仲良くなれないと思う。
 エディからは、
『ぼくは当面、女性と付き合うつもりはないから。人に尋ねられたら、きみと付き合っていることにしてくれないかな』
 と頼まれている。
 《トリスタン》の爆破事件からだいぶ経つのに、まだ、自分が幸せになってはいけないと感じているみたい。本当はエディも、あちこちのお姉さんと付き合って、人間の幅を広げた方がいいのだろうに。
 まあ、チェリーとは連絡を取り合っているようなので、『いいお兄さん』役は、きちんと果たしているのだろう。チェリーがナイジェルと仲良くなったことについては(あたしがそう計らったからだ)、許しがたく感じているようだけど。
 ナイジェルは、悪い男じゃない。報われない恋のせいで、ちょっと傷ついているだけ。誰が彼を傷つけているのか、エディは一生、理解しないかも。
 ジェイクについては、元から『港々に女あり』という状態なので、 答えは決まっている。
「父は当面、再婚するつもりはないようです。エディは一応……あたしのボーイフレンドなので……そのう……ちょっと脇へのけておいてもらって……ジェイクはフリーですから、好きにアタックしてくれて大丈夫ですよ」
 と説明しておいた。
 将来、親父がドナ・カイテルとどうなるかは、親父の勝手だ。もしもエディに良さそうな相手が現れたら、寂しいことは確かだけれど、いつでも 引き渡すし。
「きゃあ、嬉しい、ジェイクさんを口説いちゃお」
「わたしは断然、ヤザキ船長が理想だわ」
 身近にいるあたしは、もう麻痺しているけれど、客観的に見た場合、《エオス》の男どもは、かなり高水準らしい。お姉さま方の一致した感想としては、
「ジュンちゃん、あなたはいいわねえ。いい男に囲まれて」
 ということだった。
 他人から見れば、『辺境航路の英雄』を父に持つあたしは、恵まれた立場なのだろう。実質は、ジェイクたちに叱られてばかりの、下っ端の雑用係なのだけれど。
 そんなこんなで楽しくやっているうち、パトロール艦《フレイア》は植民惑星《ファルーネ》の軌道ステーションに到着した。
 あたしは軍人たちの警護付きで試験会場に入り、まず筆記試験を受ける。
 これは楽勝。これまでさんざん、勉強してきた成果である。わからない所は、エディやルークに教えてもらったし。
 問題は、実技試験だった。
 ここから試験船に乗り、決められたルートを一周して戻ってくる。途中、何らかのトラブルが発生するように仕組まれていて、それを解決して帰還できたら合格。でも、どんなトラブルなのか、受験者にはその時までわからない。
 あたしの場合は、試験船の後ろを《フレイア》が付いてくることになっていた。試験船にも、エディと軍人二名が乗り込む予定。
 他の受験者の手前、特別扱いのようで気がひけるけれど、
「試験の手伝いはしませんから、安心して」
 と榊艦長は笑う。
 これで不合格だったら、世界的な笑い者だ。ああ、緊張する。
 軌道ステーションの気密桟橋に接続された試験船に乗り込むと、そこには既に、紺の制服を着た女性試験官が待っていた。
「よろしく、ミス・ヤザキ。カトリーヌ・ソレルス試験官です」
 艶やかな赤毛をふんわりとショートカットにした、白い肌の美女だった。緑の瞳と、鼻の回りの薄いそばかすがチャームポイント。すらりと背が高くて、めりはりの効いたボディライン。
 いいなあ。あたしも、これくらいの背丈が欲しかった。せめて百七十センチないと、戦闘では不利すぎる。
 ソレルス試験官は、あたしの護衛たちとも挨拶し、
「試験航行中は、わたしの指示に従って下さい。緊急事態でない限り、ミス・ヤザキとは口を利かないこと。わたしもこれ以後、あなたたちはいないものとして振る舞います」
 と念押ししていた。
 それは、とても大事なこと。エディがうっかり、あたしの助けになるようなことを言ってしまったら、あたしが不合格になってしまう。
「了解しました」
 エディと軍人たちが言い、空き船室に引っ込もうとした時、ソレルス試験官はあたしを振り向き、にっこりしながら懐から何かを抜いた。
 え、銃?
 次の瞬間、顔にぴしゃりと水飛沫をくらっていた。
「う……!!」
 雫がぽたぽた垂れて、服と床を濡らす。エディたちも、驚いて立ち尽くした。
 玩具の水鉄砲!!
 やられた。あたしが乗船した瞬間から、もう試験なのだ。
 離れた場所で、エディが心配そうな顔をしたけれど、もちろん何も口をはさめない。ソレルス試験官は、楽しげに言う。
「はい、この船はハイジャックされました。あなたはテロリストに麻酔弾を撃たれて、意識不明です。わたしがいいと言うまで、操船室のシートに座っていてもらいましょう」

 『翌日まで、麻酔で眠ったまま』 という設定であっても、とにかくソレルス試験官は、食事とトイレと睡眠は認めてくれた。
 ま、それはそうだよね。本物のハイジャックではないんだもの。
 試験船はソレルス試験官の操船でステーションを離れ、予定されたコースを飛んでいる。
 あたしの課題は、帰還までの四日間のうちに、テロリストを倒して、船を取り戻すことだ。でも、麻酔から醒めるという設定時刻までは、何もできない。ああ、苛々する!!
 エディと軍人二人は、あたしの邪魔にならないよう、ひっそり過ごしていた。大部分の時間、船室にいて、あたしとは顔を合わせないよう気を遣っている。たまに厨房のあたりで出会っても、お互い見ないふりで通り過ぎる。
 ああ、いつもみたいにエディに甘えたい! 愚痴を言いたい! 近くにいるのに、会話もできないなんて!
 このA級試験というのは、落ちてもまた挑戦すればいいのだけれど、そんなに何度も、軍に迷惑をかけたくない。あたしが落ちたら、マスコミも面白おかしく報道するだろうし。
 ああもう、どうやって、テロリスト役の試験官を捕まえればいいんだろう!
 いや、正確には、正規の試験官が、テロリストの仲間になっていたという設定。
 その設定、ずいぶん卑怯な気がするんですけど!
 これが実戦なら、いっそ気楽なのだ。相手を殴ったって、殺したっていいのだから。
 でも、まさか試験官に大怪我させたりできない。
 こっちも麻酔を使えばいいのかな? 船内の医務室には何か、使える薬品があるはずだ。
 でも、本当にそれで、試験官を眠らせていいのだろうか? それとも、鼻先に香水のスプレーか何か突き出して(最近は、下着にオレンジの香りをつけて楽しむようになっている)、これであなたを眠らせたことにしますよ、と言えばいいだけなのか? いや、麻酔に類する薬品を手に入れるところまでは、実際にしないと、認めてくれないのでは?
 過去の試験問題は一通り勉強してきたけれど、実技試験に関しては、公開されている情報が少なすぎる!
 いったい、どこまでなら許されるのだろう? 女性の試験官を殴り倒して気絶させるなんて、それはやっぱり失格だよね?
 すると、何かの罠にひっかける? 椅子の上に接着剤を塗っておくとか?  でも、こちらが自由を奪われたという設定のままだったら?
 その晩は、あれこれ悩みながら、指定された船室で眠った。
 明日の朝はまた操船室に行って、座席に縛りつけられている、という設定に従わないといけない。ずっと縛りつけられていて、どうやって抵抗すればいいのさ!!

 ところが、翌朝のこと。早起きして軽い運動を済ませ、厨房で適当な食料を探そうとしたら、床に何か伸びている。
 軍人たちの足だった。二人とも、なんで、こんな所で寝ているの?
「あの、もしもし?」
 さすがにこれは、見過ごすには異様すぎる。しゃがみ込んで、揺すってみた。気絶しているというより、深く眠っているだけの様子。
 これは、もしかしたら、エディもどこかに倒れている?  まさか、試験の邪魔になるから一服盛った、なんてことはないよね?
「ソレルス試験官! 厨房に来て下さい!」
 あたしは船内の通話システムに向かって叫んだが、反応がない。あたしはテロリストの捕虜という設定なので、船の管理システムが、あたしの指示を受け付けないようになっているのだ。
 あたしは走って彼女の船室に行き、扉を開けた。いない。では、もう操船室に入っているのか。
 いや、待て。ベッドに、寝た形跡がない。いくらテロリスト役でも、徹夜の必要はないはず。
 再び走って、エディがいるはずの船室に行ってみた。エディは大の字になって、床に倒れている。昨日の服装のままで。
 ということは、昨夜のうちに眠らされたのか。
 軍人たちの場合は、日に何度も母艦に対する定時連絡の義務があるから、ぎりぎりの時刻までは、自由に動き回らせておいたのかも。
 揺すっても、叩いても、エディは目覚めなかった。食べ物に何か盛られたのか。それとも、麻痺ガスでも流されたのか。
「おはよう。早起きなのね」
 ソレルス試験官が、通路に現れていた。振り向いたあたしは、まじまじ、赤毛の美女を見る。
 確信犯の顔だ。脅迫されて、とか、洗脳されて、という感じではない。
「これは、どういうことです!?」
 返答によっては、ただではおかない。
「もう、わかったでしょう?」
 何をわかれというのだ。
「わたし、違法組織と取引したの」
 あ。
 それじゃ。
「あなたを誘拐する手伝いをすれば、わたしの欲しいものをくれるんですって」
 よくも、公務員のくせに。
 かっとして、彼女に飛びかかろうとした。けれど彼女は、鋭く言う。
「わたしを殴っても殺しても、もう手遅れよ!」
 はっとして、動作を止めた。
 そうだ。あたしが脅威にならないから、こうして放置してあるのだ。本当なら、昨夜のうちに、麻痺ガスを吸わされていておかしくない。
「この船には武器らしい武器はないし、転移能力も低いから、出迎えの違法艦隊から逃れるのは無理よ。彼らはあなたのために、半月も前から、通り道の無人星系に潜んでいたの」
 何だって。
 これは、そんなに時間をかけた誘拐計画なのか。
「《フレイア》には、たった今、通告したわ。あなたたちを人質に取ったから、無駄な抵抗をしないように。もしも余計な真似をしたら、眠っている軍人たちを、一人ずつ宇宙空間に放り出すと断っておいたわ」
 そうか。全て計画通りか。
 あたしたちはもう、罠の中に落ち込んでいる。
「いい子にしていてちょうだい。すぐに、迎えの艦隊と合流するわ。わたしが向こうに連れていくのは、あなただけだから。あなたがおとなしくしていてくれれば、この人たちを死なせることにはならないわ」
 彼女の後ろには、船の備品であるアンドロイド兵が数体、控えていた。彼らは銃を構え、あたしに狙いをつけている。本来なら、司法関係者の命令なしには人間を殺傷することができないよう、厳重な制限をかけてあるけれど、それは解除してあるらしい。
「麻酔弾だけど、撃たれるのは不愉快でしょう? 目覚めたままでいたかったら、静かにしていてね」

 三時間後、あたしは違法艦隊の船内にいた。
 試験船のコース横の無人星系から、一ダースもの戦闘艦の群れが現れたのだ。
 《フレイア》一隻には、何もできなかった。無駄な抵抗をすれば、吹き飛ばされていただろう。黙って誘拐犯の逃亡を見送るだけしか、することがない。
 ソレルス試験官は――いや、もうカトリーヌ・ソレルスと呼ぼう――試験船に眠り続ける三人を残し、あたしだけを連れて、違法艦船の一隻に乗り移った。
 とりあえず、エディは誘拐されずに済んだわけだ。それだけは、よかった。
 もう二度と、エディを巻き添えにしたくない。植民惑星《タリス》では、あたしのために心臓を撃たれ、死にかけたのだから。
 あの時、エディの命を救ったアイリスの特殊細胞が、今もエディの体内で生きている。それを違法組織に知られたら、エディは生体実験の材料にされてしまう。そんなことは、絶対にあってはならない。
 だから、精神的にはだいぶ楽だった。誘拐の被害者が自分だけなら、自分のことだけ心配すればいい。
 違法艦隊は軍艦を置き去りにして長距離転移をかけ、辺境に向けて航行していた。
 元々、《キュテーラ》も《ファルーネ》も、中央星域の外れに近い位置にある。辺境までは、たいした距離ではない。軍のパトロール艦が大挙して追ってきても、間に合わないだろう。
 それに、軍艦はまず、中央星域から外へは出ない。違法組織の艦隊と、まともにぶつかる勇気はないのだ。ぶつかっても勝てないと、わかってしまっているから。

「ようこそ、ミス・ヤザキ」
 違法戦闘艦の居住区であたしを出迎えたのは、顔色の悪い、痩せ型の男だった。
 身長は百八十センチに届かない。褐色の髪、褐色のサングラス、細い鼻筋、薄い唇。地味なダークスーツを着た姿は、まるで貧相な死神みたい。
「わたしはユージン。最高幹部会の代理人だ」
 さすがに驚いた。
 いきなり、最高幹部会の名が出るなんて。
 その直属代理人なら、辺境の超エリートだ。それが、あたしなんかのために、無人惑星に隠れて半月も待っていた?
「誘拐の真似などして悪かったが、死者も怪我人も出さなかったから、まあ許してくれないか。我々は、きみを誘拐したのではなく、招待したつもりなのだ」
 へええ。ずいぶん低姿勢ではないか。
「それはどうも、ご招待、ありがとう」
 おかげで、あたしも気が引き締まった。粗暴なチンピラなら怖くないけれど、冷静なインテリは怖い。腹の中に何を隠しているか、わかったものじゃない。
 ユージンという男は、あたしとカトリーヌ・ソレルスを快適なラウンジのソファに座らせ、すらすらと説明した。
「ミス・ヤザキ、わたしはきみを違法都市《アグライア》に案内し、メリュジーヌという大幹部に引き合わせる。それが今回の任務だ」
 違法都市《アグライア》?
 それに、メリュジーヌ?
「詳しい話は、おいおいしよう。きみは賓客だから、この船内では、自由に過ごしてくれていい。ただし、危険な真似だけはしないでほしい。わたしを殺そうとするとか、小型艇で脱出しようとするとかだ。一度でもそういうことがあったら、きみを一室に監禁することになる。理解してもらえたかな?」
 ふん、人を子供扱いして。
 どうせ、あたしの背後には常にアンドロイド兵がへばり付いているんだから、何もできるわけがない。
「わかった」
 と仏頂面で答えた。にこやかに対話する気分ではない。ただ、確認はしておかなくては。
「メリュジーヌって、まさか、あのメリュジーヌ?」
 六大組織の一つ《キュクロプス》の大幹部であり、辺境を支配する最高幹部会の十二名の一人。
 名前は有名だ。白いドレスを好む美女だということも。
 映画では、しばしば悪役として登場している。大抵は、妖艶な魔女というイメージだ。もちろん、本物は全然違うのかもしれない。
 当然ながら、彼女の素顔が公開されたことはない。だいたい、最高幹部会のメンバーが、この世に実在するのかどうかも怪しい。
 本当は、ただ一人の最高権力者がいて、そいつが、複数の〝生きた人形たち〟を操っているだけだ、という話もある。辺境の真実なんて、誰にもわかりはしない。
「そう、そのメリュジーヌだ。楽しみにしていたまえ。きみとは、話が合うかもしれない」
「辺境の魔女と?」
 だいたい、そんな大物が、あたしなんかに 何の用がある。洗脳したいのか、脅迫したいのか知らないけれど、絶対、ろくでもない用件に決まっているのだ。
 すると、ユージンは薄笑いで言う。
「きみだって、懸賞金リストに載せられた女戦士だろう。ちょうど、好敵手なんじゃないか?」
 何か、馬鹿にされている気がする。
 確かにあたしは、射撃も格闘技も稽古してきたけれど、そんなもの、強化体の男や、アンドロイド兵士に対しては、何の役にも立たないのだから。
 あたしはソファにもたれて行儀悪く足を組み、ユージンに言った。
「賓客なら、とりあえず、何か食べさせて。朝ご飯を食べ損ねて、もうお腹ぺこぺこなんだから」
 あたしは空腹になると、頭が働かなくなる。食べ物のことしか、考えられなくなるのだ。
「こっちの希望は、パンケーキのメープルシロップ添えと、厚切りベーコン、スクランブルエッグ、それから温野菜のサラダ。コーヒーと果物も付けてねっ!」
 さもしいようだが、あたしはまだ成長期だし、人生であと何回食事ができるかわからないから、毎回、美味しいものをたっぷり食べたいのだ。
 すると、カトリーヌ・ソレルスとユージンは、黙って顔を見合わせた。何なの、その態度。この船では、客に食事を出さないというの。
「やはり、大物……だな」
「そのようね」
 何を納得しているのだ。
 あたしはこれでも、根深く怒っている。
 せっかく受けた実技試験、中途で放り出すことになってしまったではないか。
 もしも無事に生還できたら、また試験の段取りをつけなくてはならない。試験前のあの緊張、また繰り返すなんて、本当にいやなんだから!!

   5

 馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ。
 一千回繰り返しても足りないくらい、馬鹿だ。
 薬入りの食事なんかで眠らされて、ジュンを奪われて、気がついた時は軍艦の医療室とは。
 何のための護衛だ。この、役立たず。
 ジュンはもう、はるか彼方に連れ去られている。
 軍の追跡は、間に合わなかった。当たり前だ。向こうは練習船の航路も軍の配置も、全て計算した上でのこと。もっと中央寄りの場所で試験を受けさせるのだったと後悔しても、後の祭り。
「まさか、試験官が買収されているとは」
 と皆が嘆いているが、違法組織は、軍人でも科学者でも政治家でも財界人でも、役に立つ者なら、どんな手を使ってでも仲間に引き入れる。
 ぼくが一緒にいたのだから、そこまで疑うべきだった。軍艦が後ろに付いていたって、人質を取られてしまったら、何もできない。
「申し訳ありません。役立たずで」
 再会してから、ぼくは親父さんに幾度も頭を下げた。
 もちろん、親父さんはぼくのことも、《フレイア》で待機していたジェイクのことも、責めはしない。
「仕方ない。完璧に用心するなんてことは、誰にもできない。ジュンに人質としての価値がある限り、殺されはすまい」
 と静かに言う。
 とはいえ、親父さんは事件発生以来、ろくに眠っていないような顔だった。ジェイクも顔つきが変わっている。口数が少なくなって、冗談も言わなくなった。
 おまけに《エオス》は、軍と司法局から出航差し止めをくらった。母港である《キュテーラ》の桟橋に、厳重に繋ぎ止められてしまったのだ。
 いったん出航させてしまったら、ジュンを追って辺境へ出ていくかもしれない、と疑われているのだろう。その心配は、正しい。
「ヤザキ船長、我々は、あなたまで違法組織に奪われるわけにはいきません。《エオス》の引き受けた輸送依頼は、他の船に代行させますので、皆さんには一箇所にいてもらいます」
 と軍人たちに宣告され、クルーは全員、植民惑星《ルシタニア》の軍基地に軟禁されることになった。
 地上基地の片隅にある、使用されていない建物が一つ、ぼくらのために準備されたという。これはつまり、長期の待機生活を予測しているということだ。
「今回の誘拐事件が一段落するまで、そこにいていただきます」
 ということだが、半年経とうが一年経とうが、事件が円満解決なんか、するはずないだろう。
 ジュンはおそらく、グリフィンを通じて最高幹部会に引き渡され、誘拐犯は懸賞金をもらって、辺境のどこかに消える。
 そうしたら最高幹部会は、ジュンの身柄と引き換えに、親父さんの身柄を要求してくるかもしれない。同じく懸賞金リストに載せられていても、順位は親父さんがはるかに上。
 何より、親父さん本人が、そう考えているのがわかる。自分が捕まる代わりに、ジュンを自由にできないかと。
 軍も司法局もそれがわかっているから、親父さんを軟禁する策に出たのだ。
 せめて、ぼく一人でも動けたら。ジュンを助けることはできなくても、一緒に捕まることができたら。
 いや、それでは何の役にも立たないか。
 でも、どうすれば。
 もし、ジュンが公開処刑などということになったら。ぼくだって、生きてなんかいられない。
 いったい何のために、《エオス》で過ごしてきたのだ。アイリスにも、ジュンを守ると誓ったのに。
 そうだ。そのアイリスに、何とか救いを求められないものか。
 悶々と考えていると、バシムの大きな手で肩を叩かれた。
「思い詰めていたって、いい考えは浮かばない。お茶でも飲め」
 そして、蜂蜜入りのハーブティを勧められた。《ルシタニア》まで軍に護送される最中のことなので、ぼくらは軍艦の居住区にあるラウンジいにる。
 有り難く、温かいお茶を飲んでいたら、飲み終わる頃に言われた。
「おまえもダグもジェイクも、何日も眠っていない顔だ。それを飲んだら、半日はぐっすり眠れる。ゆっくり休め。おまえたちが憔悴したって、何の役にも立たないからな」
 そんな。
 またしても、薬入りの飲み物だったのか。
 急速な眠気に襲われ、よろめきながら、船室に入るのがやっとだった。ベッドに倒れ込んだら、すぐさま意識が遠くなる。ぼくは深い眠りに落ちた。もう二度と絶対、他人に勧められるものは飲み食いしないぞ、と心に誓いながら。

   6

 違法艦隊での航行は、快適だった。豪華な船室には、あたしに必要なものが全て揃っていたし、三度の食事も美味しい。スポーツジムも使える。中央のニュースや映画も見られる。
 自分の誘拐事件をニュースで見るのは、おかしな感じがするけれど。
 だいたい、悲劇のヒロイン扱いされると、たらふく食べて、のうのうと過ごしていることが申し訳ないみたいだし。
 記録映像で見る普段の自分は、やはり大幅に地味である。髪は短くてぼさぼさだし、着ているものは機械油の染みた作業着か、着古した普段着の類だし。 貨物の受け渡しの時の映像なんて、ひどいものだ。
(うひゃあ。なんで、こんなとこ映すかな)
 と思ってしまう。
 年頃の乙女というよりは、身なりに構わない男の子みたい。肌が沈んだ小麦色で、胸も小さいから、ぱっと見た時、華やかさや女らしさが全然ない。
 やっぱりエディの言うように、Tシャツだけでも、もう少し綺麗な色を着た方がいいのかなあ。でも、つい、紺とかモスグリーンとか褐色の方が、落ち着くものだから。
 それでも近頃、下着だけは、優雅なものを身につけるようになっていた。それは人に見えないから、いくら甘い色でも、華やかなレース遣いでも、恥ずかしくない。
 いや、エディにだけは見せていたけど、それは何しろ、エディだから。
 空手の稽古の後、エディに全身マッサージをしてもらうのが、あたしの生活の中で大きな楽しみになっていた。
 最初はそんなつもりではなく(普通はマッサージなど、医療用アンドロイドにさせるものだ)、ただ、《タリス》の事件で背中にできた傷の手当をこっそりしてもらうために、エディを部屋に入れていたのである。
 でも、傷が治る頃には、エディに裸の背中を見せるのに、抵抗がなくなっていた。
 それなら、下着姿も似たようなもの。
 自分のベッドに横たわり、エディの優しくて確実な手でマッサージしてもらうのは、最高の贅沢だった。何が恋しいって、あのマッサージを二度と受けられないのかと思うと、それが悲しい。
 中央の報道では、航行管制局の職員、カトリーヌ・ソレルスが違法組織に買収され、誘拐に協力したと言われていた。ただし、ユージンの名前は浮上していない。あたしの誘拐を企んだ真犯人のことは、まだ軍も司法局も、何一つ突き止めていないようだ。
 そりゃあまあ、メリュジーヌなんて大物が、本当にあたしを待っているのか、あたしだってまだ、信じ切れていないのだし。
 ただ、一つ、面白いことがわかった。
 色々な報道局の発掘した事実によると、カトリーヌの双子の妹アンヌ・マリーが、もう十年も前に、辺境へ脱出しているそうだ。
 妹は惑星開発局の職員で、調査船を盗んで姿を消したという。
 いや、調査船には職員が八名乗っていたので、そのうちの誰がハイジャック犯で、誰が巻き添えの被害者なのか、今日まで不明だった。けれど、今回の誘拐事件によって、アンヌ・マリーの名が、疑惑と共に浮上したらしい。
 ジュン・ヤザキを誘拐したカトリーヌ・ソレルスの行動は、その妹と連絡を取り合っていた結果ではないか、という推測が流れている。
 ただし、報道関係者たちが、彼女たちの知人・級友たちにインタビューした結果では、
『カティがアンヌ・マリーと協力するなんて、ありえない』
『あの二人は、大学に入ってから、ほとんど口もきいていませんよ』
 ということだった。
 友達にはカトリーヌではなく、カティと呼ばれていたわけね。
 とにかく彼女たちは、一卵性の双子なのに、とことん仲が悪かったらしいのだ。
 何でも大学生の頃、アレン・ジェンセンという年上の男子学生を、姉妹で取り合っていたとか。
 そのアレンは、やはり開発局に就職し、アンヌ・マリーと同じ船に乗って、姿を消している。
 こうなると、その失踪事件はアンヌ・マリーとアレンの共謀だったのではないか、今度は姉妹で共謀して誘拐を企んだのではないか、というわけ。
 でも、カトリーヌ・ソレルスもユージンも、アンヌ・マリーなんて名前は、一言も口にしていない。
(あの人も、色々あるんだな、まあ、どうでもいいけど)
 あたしは居心地のいい船室で、クッキーと紅茶を楽しみながら、報道番組を眺めていた。
 もちろん、軍はもう、あたしの追跡をあきらめている。市民向けにあれこれ言い訳はしているけれど(試験官が誘拐に加担するとは予測外、軍の警備体制に不備はなかった……)、要するに、違法組織に拉致された者は奪回不可能ということだ。
 親父は心配で憔悴しているだろうけれど、《エオス》で勝手に飛び出したりしないよう、軍と司法局が見張っているようだ。
 それでいい。
 親父までが捕まったりしたら、救いがない。
 せめて、あたしが無事だと知らせることができればいいけれど、ユージンは、あたしをメリュジーヌに会わせるまで、外部との接触はさせないと言うし。
 報道番組に飽きると、船の中をうろついた。厨房で好きなケーキやアイスクリームを探して食べたり、操船室や武器庫や小型艇を見学したり(後ろにアンドロイド兵士が張り付いているから、何もできない)、ラウンジでユージンとしゃべったり。
 違法組織《クーガ》の統率者であり、最高幹部会の代理人の一人であり、この小艦隊の指揮官でもあるユージンという男は、物静かで皮肉屋のインテリという感じだった。
 たぶん、相当に優秀な男なのだろう。年齢はたぶん、五十歳から百歳までのどこか。他に用事があるわけでもないらしく、あたしが尋ねれば、大抵のことは辛抱強く説明してくれた。
 何でも最高幹部会は、あたしを取り込みたがっているとか。大組織の幹部に迎えてくれるなんて、とても素直には信用できないけれど。
「客寄せパンダになるの? あたしが?」
 ちょっとばかり名前が知られたからって、 あたしが市民たちを辺境におびき寄せる誘蛾灯になるだろうか。
「そういう狙いらしい。詳しい計画はわたしも聞いていないので、きみが直接メリュジーヌに尋ねるといい」
 何を考えているんだろう、最高幹部会って。
 あたしが仲間になれば、親父を懸賞金リストから外すという。それが本当なら、少しは考える余地がある……かな?
 これまで幾度、親父を狙った暗殺未遂があったことか。それが一切なくなるなら、離れていても、あたしは少し安心できる。
 その分、親父の方は、あたしについての心配が増すだろうから、トータルの心配量は減らないとしても。
 悲しいのは、エディと遠く引き離されてしまったことだ。この一年あまりの付き合いで、エディの優しさ、気遣いにすっかり慣れてしまったから。
『ジュン、お茶を淹れるよ。美味しいケーキがあるから』
『通信講座のレポート、わからない所があったら聞いて』
『今度の上陸休暇、このライブハウスに行ってみないかい』
 エディを知らなかった頃、自分がどうやって生きていたのか、不思議になるくらい。
 でも、一緒に誘拐されるよりましだと、自分を慰めた。
 何が起ころうと、自分の身一つの危険なら、耐えられる。最悪、自分一人が死ねばいいだけだ。
 エディが死んだと思った時の、あの絶望に比べたら、はるかに気楽なものだ。ようやく、軍での事件から立ち直ってきたエディなのだから、幸せになってくれなくては。

 有り難いことに、ユージンは紳士的だった。
 惑星《タリス》であたしを捕虜にしたシドと違って、あたしを妙な目で見たり、キスしたがったり、べたべた触ってきたりすることはない。単に、痩せっぽちのガキは趣味ではない、というだけかもしれないけれど。船内で安心して過ごせることは、大きなプラス要因だ。
「おそらく最高幹部会は、きみを〝リリス〟に対抗する、辺境のスターにしたいのだろう」
 ラウンジのソファ席で、ユージンが大真面目に言った時、あたしは危うく、飲んでいた苺ジュースを吹き出すところだった。
「何それ!!」
 悪党狩りのハンター〝リリス〟は、あたしの憧れだ。というより、連邦中の子供、若者の憧れだ。憧れが嵩じて軍や司法局に入った人も、たくさんいる。
 もう何十年も、最前線で違法組織と戦い続けている女戦士。
 〝リリス〟を主人公にした映画や小説のシリーズも、たくさんある。ファンクラブも数多い。
 素顔はもちろん公開されていないけれど、出会った人たちの証言によれば、〝長身の精悍な美女〟と〝小柄で理知的な美女〟のペアだとか。
 あたしが憧れているのは、その長身の方。何でも、えらくかっこいい姐御らしい。不老処置を受けているらしいから、今もきっと 、若くて美しいまま。
 このあたしが、その〝リリス〟に対抗するって?
 しかも、悪の側で?
「ありえない!! 絶対無理!!」
「そうか? 考えてみたらどうだ?」
 ユージンはどうも、表情を隠すサングラスの下で、面白がっている気配がある。
「その若さで、きみはなかなか度胸が据わっている。この調子で成長したら、辺境でも、かなりいい線を行くのではないかな」
 変な誉め方をされた気がする。
 あたしには市民社会より、無法の辺境の方が向いている、というような。
「悪党の仲間になって、楽しくやれっていうの? それで、〝リリス〟を殺す策略を巡らすわけ? やだよ、そんなの!!」
 いつかどこかで会えたら、サインをもらって、握手してもらって、と夢見ていたのだから。
「いいや、〝リリス〟を殺す必要はないんだ……彼女たちはこれからも、市民社会の英雄でいてくれればいい。ただ、辺境にも、それに匹敵するスターがいた方が面白いだろう」
「面白いって問題なの、それ?」
 最高幹部会が〝リリス〟に匹敵するスターを求めるのなら、それはわかる。でも、 あたしをその役に据えるなんて、ユージンの考えすぎだ。
「バランスの問題だ。中央から、ある程度、辺境に人が流れた方がいい。今は、市民社会と辺境の断絶が大きすぎる」
「それはわかるけど」
「辺境には、辺境の役割があるんだ。中央では認められない先鋭的な実験を、誰かがしなくてはならない」
「生物兵器とか、超空間兵器とか?」
「兵器には限らないが。人間を進化させる実験は、あった方がいい。人類の進化が、これで止まっていいはずがない。きみの母親のように、人間を超えた超人が誕生することもある」
 あたしはしばらく、 返す言葉がまとまらなかった。
 早くに死んでしまった母の、最後の日々を思い返すと、今でもまだ苦しくなる。
 もっと何か、してあげられることはなかったのか。本当に、あんな死に方しかなかったのか。
 母の姉妹編とも言える生物兵器のアイリスに出会ったことで、少し癒された部分はあるけれど。
 もしかしたら、治療法を求めて、辺境に出るという選択肢もあったのかもしれない。あたしたち親子三人で。
「でも、ママは、普通の市民になりたがっていた……ママが欲しがったのは、普通の、平凡な生活だった」
 そのために、自分を創った組織に逆らい、はるばる逃亡してきて、親父と出会った。
 そして、自分を普通人に近づける手術を受け、親父と結婚して、家庭を作った。その無理な手術のために、短い人生を終えた。自分は幸せだったと言い残して。
 本当に、そうだったのだろうか。
 あまりにも、短い幸福だった。
 でも、アイリスは、あたしに言った。あたしが子供を作れば、それがママの夢を受け継ぐことになると。
 それは、中央と辺境との融和。
 そんなこと、ほとんど不可能に思えるけれど。
「それは、辺境に居場所がなかったからだろう。もし、無理な逆改造をせず、きみらが親子三人で穏やかに暮らせる場所が辺境にあったら、どうだった?」
 ユージンの指摘は鋭い。
 あたしは考え込んでしまった。
 ママは確かに、無理な逆改造のために命を縮めたのだ。本当なら、何百年でも生きられたはずなのに。
 市民社会がもっと寛容だったら、法律の制限がゆるかったら、ママはまだ生きていられたかも……
「でも、実際には、辺境に、まともな人間が安心して暮らせる場所なんかない……」
「そうだ。だから現状では、自信過剰の馬鹿か、平気で人を殺せる悪党しか、辺境に出てこない。だが、もしも誰かが、まともな市民を受け入れる場所を、辺境に創ったら? そして、その場所を聖域として、守り通したら?」
 ユージンは、何を言いたいのか。
「そんな都合のいい〝誰か〟、どこにいるの……ありえないよ」
 超人的な闘士である〝リリス〟でさえ、小悪党を退治して回るのが精々で、辺境の支配体制は変えられないというのに。
「最高幹部会は、少なくともメリュジーヌは、きみがその〝誰か〟だと考えている」
 驚いた。
 危うく、ソファから転がり落ちるところだ。
 本気で言っているのか。あたしが、辺境の一部にサンクチュアリを作るなんて。
 もちろん自分では、人類社会の未来について、中央と辺境の断絶について、色々と考えてきたことがある。あたしならこうする、ああすると。
 ただ、それを、違法組織の側から、こんな風に認められるとは思っていなかった。
 こいつらに、わかるのか。
 あたしが、もしも生きて活動できたら、改革の担い手になるかもしれないと。
「あたしが辺境で、まともな市民を集めるの!?」
 ユージンは平然として言う。
「そう、きみがだ。きみが辺境を改革して、ましな世界にすればいい。そうすれば、辺境に出てくる人間が増える。市民社会との断絶が解消される」
 辺境の改革だって。
 そうだ。機会さえ与えられれば、あたしには、色々な挑戦をする意欲がある。試みたことの全ては成功しなくても、何割かはうまくいくだろう。
 あたしは、自分自身のことなら信用できる。真面目だし、誠実だし、努力家だ。努力で可能になることなら、してみせる。
 でも、違法組織は信用できない。あたしをおだてて、利用して、使い捨てにするのが関の山。
「そんなこと言って、集めた市民を、何かに利用するつもりでしょ。洗脳して手下にするとか、生体実験に使うとか」
「それなら、現在でもできている。わざわざ、きみを広告塔にするまでもない」
 ユージンは、すっかり考えが定まっているかのように言う。
「彼らがそんな目に遭わないで済むように、きみが彼らを守るんだ。そうすれば、辺境と中央の垣根が低くなる。行き来が盛んになる。交流が増えれば、どちらの世界にとっても、利益になる」
 あたしは、じっとユージンを見た。
 この男は、どこまで本気なのだろう? あたしがおだてに乗ったら、うまく操縦するつもりでいるのでは?
 あたしは自分が、そこらの平凡な大人よりは、優秀だと知っている。それは、能力の差ではない。覚悟の差だ。ものを考えざるを得ない環境で育ったからだ。
 あたしよりもっと優秀な人間がたくさんいることは、わきまえている。中央にも、辺境にも。だから、油断したら、痛い目に遭うということもわかる。 甘い考えを持ってはいけない。
「サングラスを外さない奴の言うことなんか、信用できないな」
 するとユージンは、子供のわがままを聞いた大人のように苦笑する。
「なるほど。それはそうだな」
 じゃあ、褐色のサングラスを取って顔を見せてくれるのかと思ったら、すいと立ち上がる。
「きみに信用されることは、わたしの任務に入っていないのでね。失礼」
 くそう。
 実は情けない垂れ目だから、見せたくない、とかじゃないだろうな。
 辺境では整形は当たり前だから、みんな美男美女になっていて、逆に不細工やファニーフェイスが希少だとも言う。いいじゃないのさ、顔くらい見せてくれたって。
 それにしても。
 やっぱり、考えてしまうな。本当に〝連合〟が、もしくはメリュジーヌが、あたしにそんな機会をくれるのだろうか?
 やってみたい。できるものなら。
 でも、そんな都合のいい話、あるわけがない。
 ああ、ジェイクたちがいたら、冷静な意見を聞かせてくれて、あたしの甘い考えを叱りつけてくれるだろうに。 

 航行中、カトリーヌ・ソレルスは、ほとんど自分の船室に引っ込んでいた。
 たまに通路やラウンジで出会っても、黙ってすれ違うだけ。向こうから、あたしに言葉をかけてくることはない。
 親切と言えるくらい説明好きのユージンとは、ずいぶん違う。誘拐の報酬を受け取ったら、もうあたしには何の興味もないというわけ?
「ずいぶん身勝手だね」
 あたしはある時、通路ですれ違おうとした彼女に話しかけた。
「違法組織から、どんなご褒美をもらったのか知らないけど、人の運命を変えておいて、ごめんの一言もなければ、日常の挨拶もしないなんて、ずいぶんじゃない?」
 すると赤毛の美女は、冷たい視線であたしを見た。
「おはよう。こんにちは。お休みなさい。これでいいかしら?」
 かっとした。馬鹿にしている。あたしが子供だから!?
「あんた、あたしに喧嘩売ってるの! だったら買うよ! 素手で喧嘩する分には、ユージンもすぐには止めないだろうからねっ!」
 あたし自身のことは、まだいい。でも、親父やエディたち、みんなを心配させていることは困る。
 すると向こうは、冷然としたまま、あたしを見下ろして言う。
「ずいぶん強気ね。さすが、最高幹部会に見込まれる人は違うわ。たとえ、あなたがここでわたしを殺しても、ユージンは平気よ。止めやしないわ。わたしなんか、あなたの百万分の一も値打ちがないんだから」
 え、えっ?
 なに、その言い方。
 まるで、傷ついて、すねているような。
「あたしがあなたを殺すって……しないよ、いくら何でも。あたしが殺すのは、正当防衛の時だけだから」
 すると、向こうは首を横に振る。
「あなたはもうじき、〝連合〟の大組織の幹部になるのよ。気に入らない人間を殺すくらい、当たり前になるわ」
 冗談じゃない。
「あたしがそんな、そんな風になるわけないでしょ。あなたこそ、大金目当てに人を誘拐するなんて、公務員のくせに……そんなこと、公務員でなくたって犯罪だけど……」
「お金じゃないわ」
 え?
「じゃあ、不老処置……」
 けれど、彼女は強く首を振る。
「そんなことじゃない」
「じゃあ、何のためなのさ。説明してよ」
 妹の事件と、何か関係あるのだろうか。
「言っても無駄よ。あなたなんかには、わからないわ。そんなに若くて可愛くて、愛してくれる男性がいて、どこでもちやほやされて。おまけに今度は、〝連合〟に抜擢されて」
 へっ!?
 何か、妙な評価をされている。美人度から言えば、明らかに、この人の方が上なのに。
 それに、愛してくれる男性って、誰のこと。
 そりゃ、親父には愛されてるけど、親子だから当然でしょ。この人にも、心配してくれる両親はいるはず。
「あたしは、ちやほやなんか……」
「どこでも特別扱いされて、ファンクラブまであるじゃないの」
「それは、懸賞金リストに載ったからだよ。確かに、警備はされるけど……」
 各星の大学生を中心としたファンクラブがあるのは、本当だ。規模も数も、〝リリス〟のファンクラブには遠く及ばないけれど。
 ファンクラブとして公認してくれという申し込みが、何件もあった。不公平にならないよう、全て断っている。その方がいいと、親父に言われたから。
 その通りだ。あたしがいい気になって、のこのこ『ファンの集い』なんかに出かけたら、警備してくれる人にも、罪のない大学生にも、迷惑をかけることになりかねない。
 それなのに、赤毛の美女は顔を歪めて言う。
「あなたなんかに、わたしの気持ちはわからないわ。何もできないまま、歳だけとっていく女の気持ちなんて」
 何、それ。
 この人、三十過ぎの大人の女性じゃなかったの。
「いい歳して、若い娘みたいなこと言わないでよ。あなたの人生なんだから、何でも、あなたの好きなようにすればいいだけじゃない。誘拐に手を貸したのも、あなたの選択でしょ。何がうまくいかなかったのか知らないけど、あたしに八つ当たりしないでくれる?」
 すると、緑の目に涙が盛り上がってきた。嘘でしょ。まるで、あたしが意地悪して泣かせたみたい。
「あなたも同じだわ。アンヌ・マリーと。強くて優秀だから、踏まれる者の痛みがわからないのよ」
 半泣きの声で言われた。何だ、それは。
「踏まれる痛みぃ? つかぬことを伺いますけど、誘拐された被害者は、あたしじゃないんですかぁ?」
 それにしても、この人の口から初めて聞いたな。双子の妹の名前を。
 じゃあもしかして、妹に恋人を取られたという話、本当なのか。だからって、犯罪に走っていいことにはならないと思うけど。
「あたしだって、親父やエディが今頃、げっそりやつれているんじゃないか、これでも心を痛めてるよ!」
 それでも食欲はあるし、夜はぐっすり寝てるけど。
「いずれ連絡できるわ。あなたの地位が確定したら、何でもできるでしょう。あなたは辺境でも勝ち抜いていける、エリートよ。わたしは違うわ。ただの凡人。自分の子供が欲しいだけ。普通の幸せが欲しかっただけなのよ」
 子供?
 普通の幸せ?
 予期していなかったので、たじろいだ。まるで……あたしのママみたいなことを言う。
 でも、ママは無法の辺境で創られたから、中央の市民社会を目指すしかなかった。最初から中央にいて、家族にも友達にも囲まれている人が、なぜ、普通の幸せを求めて辺境に出るというの。
 とにかく、カトリーヌ・ソレルスは、逃げるように行ってしまった。
 何だろう、あれ。
 あんな泣き虫のひがみ虫で、よく誘拐なんてしたものだ。
 子供が欲しかったって? そんなもの、適当な男ににっこりすれば、簡単に手に入るだろうに。
(あっ、そうか)
 遅まきながら、気がついた。
 彼女はまだ、妹に奪われた男に未練があるのかも。
 すると、辺境に出ることにしたのは、その男に会うため? それとも、妹からその男を奪い返すつもり?
 あたしはユージンの船室に出向いて、彼に尋ねた。
「ねえねえ、カトリーヌ・ソレルスが要求した報酬って、何なの? あなたは知ってるんでしょ?」
 すると彼はしばし考え、逆に尋ねてきた。
「彼女の事情を知ったら、それで、きみの行動が変わるのか?」
 えっ?
「単に好奇心で知りたいだけなのか、それとも、彼女に何か救いの手を差し伸べてやるつもりなのか?」
 救いの手? 被害者のあたしが?
「あたしが救う必要ないでしょ? 彼女は立派な大人なんだし、〝連合〟から報酬をもらって、好きな所に行けばいいんだから」
「そう思っているなら、詮索するな。きみには関係のないことだ」
 へえ、そうですか。
 親切かと思うと、突き放す奴だな。まあ、違法組織のボスに親切を求める方がおかしいんだけど。
 それにしても、あたしが彼女を守ってやるって? 情緒不安定の誘拐犯を?
 まさか、だ。
 あたしは自分と、自分の身内の心配だけで手一杯なのに。

 艦隊は無事、違法都市《アグライア》に到着した。小惑星の内部に構築された、人口五十万の二級都市だ。
 もっとも、人間とバイオロイドの十倍はアンドロイドがいるから、動く人影は五百万あることになる。
 余裕のある設計だから、居住空間はほとんどが緑地だった。鹿や狼が棲む森林、野兎がいる草地、貝や魚が豊かな湖と、それをつなぐ川。人工雲が漂う空には、鳥や蝶や蜻蛉が飛ぶ。
 多くの艦船が発着しているし、周辺には、必要な物資を生産する小惑星工場や小惑星農場が配置されている。強力な防衛艦隊も巡回している。
「ポテンシャルとしては、人口が十倍に増えても問題はない」
 とユージンが言う。
 あたしは護衛車を伴った武装トレーラーで、1G居住区にある市街へ運ばれた。
 緑の丘陵地帯が広がる中に、幾つかの繁華街が、白亜の島のように浮かんでいる。孤立した要塞のような建物も、緑の中に点在している。 それらをつなぐ道路が、細いリボンのように緑地を縫う。
 大きな組織ほど、繁華街から離れた、孤立型の拠点を持つことが多いとか。
「実際には、そういう建物の中に、どれだけの人員がいるのか、外からはわからない。市民社会と違って、市民登録や上陸手続きなんてものはないからな。だから、都市全体の人口というのも、推定値にすぎない」
 とユージンが言う。
 あたしはよく知らなかったけれど、辺境の人口の大半は、大組織の所有星系にある、大型拠点で暮らしているという。
「地球型惑星の場合もあれば、小惑星の場合もある」
 部外者は立ち入ることができないから、そういう拠点に何千万人もいるのか、それとも数千人しかいないのか、誰にもわからない。
「辺境の全貌を把握している者がいるとすれば、最高幹部会のメンバーくらいのものだろう」
 とにかく、こういう違法都市の人口は、辺境全体の人口の、ごく一部にすぎないそうだ。
「それでも、金は落ちる。人間の出入りが多いからな。組織間の交易や交流の場として、必要なんだ」
 まず、都市の顔であるセンタービルに案内された。一番大きな繁華街の一等地にある、巨大なビルだ。都市の管理・運営の拠点であり、警備部隊の基地でもある。このビル一つで、まとまった都市機能を持っていると言っていい。
 車列は一般人の入れないVIP専用の駐車場に入り、灰色の皮膚をしたアンドロイド警備兵の列に出迎えられた。ちゃんと《キュクロプス》の一つ目巨人の紋章が付いた制服だ。
「本物の六大組織なんだあ」
 と感心したら、ユージンに呆れられた。
「わたしがわざわざ、嘘の説明をしたとでも思っていたのか」
「だって、違法組織の言うことなんか、何も信用できないもん」
「どこまで信用してどこから疑うか、自分で判断できるようになりたまえ」
 そんなの、すぐにわかるわけないでしょ。あたしは《エオス》にいれば、まだ、ジェイクやルークに頭をぐりぐりやられる子供なんだから。
 とはいえ、子供だからといって、手加減してくれる敵ではない。しっかり頭を働かせておかないと。
 出迎えの兵たちに囲まれ、特別階へ通じる専用エレベーターに案内されたけれど、ふと気がついて振り向いたら、カトリーヌ・ソレルスは、ここまで乗ってきたトレーラー内に取り残されていた。
 車の扉が開いたままなので、ぽつねんとシートに座って、こちらを見送っている姿が見える。
 《クーガ》の制服を着た護衛のアンドロイド兵が付いているけれど、何だか、監視されている囚人のようにも思えた。彼女は相変わらず、暗い顔のままでいるし。
 大体、美人なのに、服が地味だよ。
 もう管制局の制服を着る必要はないんだから、赤でも白でも着ればいいのに、いつも紺とかベージュとか深緑じゃない。赤毛の人に、赤やピンクの服は、難しいのかもしれないけど。
「彼女はどうするの?」
 あたしがエレベーターの前で尋ねると、ユージンは冷淡に言う。
「きみが心配する必要はない。彼女は報酬を受け取ったら、勝手にどこかへ消える」
 勝手に、ってねえ。
 あの様子では、ユージンの保護下から放り出されたら、すぐさま禿鷹の餌食になりそう。
「ちょっと待ってて」
 あたしは歩いて車に戻り(出迎えの兵たちはあたしを止めず、あたしの動きに合わせて動いた)、車内の女に声をかけた。
「カティさん、あなた、報酬を受け取った後、行くあてはあるの?」
 すると彼女は驚いたようで、しばらく呆然としてから、力なく首を横に振る。頼りないこと、おびただしい。
「じゃあ、あたしと一緒に来ればいい」
 そんなこと、つい一分前まで、考えていなかったけど。
「わたしが、どうして……」
 カティさんは、狼狽を見せた。あまりにも、無防備だ。到底、悪女にはなりきれない。
 あたしの目の届く範囲内に置いておかないと、どうなるか、はなはだ心もとない。一緒にいたって、守ってあげられるとは限らないけれど。
 まあ、毒を食らわば皿まで、というところ。
「あなたを、秘書として雇うことにする」
 と一方的に宣言した。
「ユージンの話を聞く限り、あたしはどうやら、有力組織の幹部になれるらしいから、秘書くらい自分で選んでも、許されるでしょ」
「えっ?」
 カトリーヌ・ソレルスは戸惑っていた。宝石のような緑の目をしばたいて言う。
「わたしが、あなたの秘書に?」
 試験船で最初にあたしを出迎えた時は、きりっとした大人の女性に見えたのに、半月の航行のうち、どんどん元気がなくなって、今では半病人みたい。
 誘拐に手を貸したことを後悔しているのか、ようやく辺境の恐ろしさがわかってきたのか、どちらにしても、保護者が必要だ。
「あなたがこれから辺境で出会う、どこの誰より、あたしの方がましだと思うけどな。違う? あたしと来れば、少なくとも、あたしが相談相手になるよ。あたしが〝連合〟に殺されることになったら、その時は仕方ないから、自分で何とかしてもらうしかないけど」
 カトリーヌ・ソレルスは、信じられない事象に出くわしたように、緑の目を見開いた。それから、よろりと座席を立つ。
「わたし、あなたと一緒に行っていいの?」
 それで、彼女がどれほど心細い思いをしていたか、苦しんでいたか、わかってしまった。
 したたかな悪女なら放っておけたのに、『つい心が弱って』悪の組織の誘いに負けてしまった人なら、仕方ない。
「うん、おいで」
 あたしが手を差し出すと、赤毛の女性は再びためらい、泣きそうな顔になった。
「あなた、わたしを恨んでいるでしょう? 大事なお父さまから引き離されて、こんな辺境まで連れてこられて」
 別に恨みはないな、と自分でわかった。
 だって、それほどの相手じゃないもの。
 言ってしまえば、敵に利用された道具。
 あたしが怒る相手がいるとしたら、最高幹部会だろう。ユージンですら、彼らの駒にすぎない。
「あなたがユージンの誘いに乗らなければ、他の誰かが手先にされていただけだよ。いつか、どんな方法でかわからないけど、きっとあたしは誘拐されていたと思う」
 過去の誘拐事件では、たまたま運よく救い主が現れて、逃げおおせただけだ。
「あなたのことは、別に怒っても恨んでもいないから、あたしと来た方がいい。あたしのできる範囲でだけど、守ってあげる」
 すると赤毛の美女は、仕方なしのような泣き笑いになった。しばらくしゃくりあげてから、ようやく涙をぬぐって言う。
「ありがとう。ごめんなさい……迷惑かけて」
「どういたしまして」
 まあ、戦いに慣れていない一般人は、こんなものだろう。
 そうすると、この人の妹のアンヌ・マリーというのは、珍しい豪傑だったのかな。今は、どこでどうしているのだろう。
「最高幹部会が、あなたを選ぶわけだわ。あなたなら、本当に、辺境の希望の星になれるかもしれない」
 カティさんに、照れ笑いのような顔で言われた。うーむ、あまり期待されても困るんだけど。
「もしかしたら、これから五分後にメリュジーヌを怒らせて、処刑されるかもしれないよ」
「じゃあ、そうならないように、横であなたを抑えるわ」
 赤毛の美女はあたしに手を差し出して、にっこりする。
「喜んで、秘書役を務めさせてもらいます」
 もちろんあたしは、この人を百パーセント信用してはいない。ただ、これから辺境で出会う人々は、もっと信用ならない野心家だろうから。
「じゃあ、あたしのことはジュンて呼んで」
 改めて手を差し出し、握手した。
 そうしてカティさんを連れ、エレベーター前で待っていたユージンの元へ戻ると、彼はわかっていたような態度で、階上を指した。
「メリュジーヌに会ったら、自分で言え。最初の部下を決めたとな」

 かなり上層でエレーベーターを降りた時、一瞬、センタービルの屋上庭園かと思ってしまった。小鳥の声がして、そよ風が背の高い竹林を揺らす、緑の庭園だったから。
 でもすぐに、数階分の高さを持つ屋内庭園とわかった。周囲は、柱と透明な窓で囲まれている。繁華街の他の建物が、かなり下に見下ろせた。違法都市では、センタービルより背の高い建物はない。権力のありかを、わかりやすく示しているわけだ。
「お待ちしておりました、ユージンさま、ジュンさま」
 黒髪を結った秘書風の美女が待っていて、きちんと一礼した。
 黄色系の皮膚に、切れ長の黒い目をして、真珠のイヤリングに紺のスーツという、堅い格好。どちらかというと寂しげな顔立ちだけど、長い前髪をカールさせて顔の脇に垂らしているから、上品な美女という印象に仕上がっている。
「わたくし、メリッサと申します。ジュンさまのお世話に付きますので、どうぞよろしく」
「そう、よろしく、メリッサ」
 と答えたら、彼女はなぜか、驚いたような顔をする。なぜ。辺境では、普通に挨拶をしたらいけないのか。
「あたしが何かした?」
「いえ……とんでもない。どうぞ、こちらへ」
 彼女はあたしたちを、白い玉砂利の小道の奥にある、和風の四阿に案内した。周囲には、赤やピンクや白の牡丹の花が咲きこぼれている。
 紺の制服に白いエプロンを重ねたアンドロイド侍女が、お茶の支度をして待っていた。一人分ずつ、大きな陶器のお椀で、抹茶を立ててくれる。
 あたしも抹茶は好きだけれど(エディがよく、抹茶ミルクを作ってくれる。抹茶アイスも大好き)、お茶だけでは満ち足りない。幸いなことに、美味しそうな和菓子が、塗りの盆にたくさん盛ってある。
「これ、食べていい?」
 とメリッサに尋ねたら、
「はあ。もちろんですけど」
 と奇妙な顔をされた。
「食べさせるつもりでないなら、飾ってあるだけなの? それとも、毒入り?」
「いえ、そんなことは……」
 黒髪の美女は困ったように、ユージンに救いを求める視線を投げた。ユージンはいつものサングラスの下で、かすかに笑ったようである。
「このお嬢さんは、誘拐されたくらいで、食欲が落ちたりしないんだ。辺境の大物と会うからといっても、全く怖がっていない。何でも好きなだけ、食べさせてやればいい」
 何か、馬鹿にされたような気がするのは、あたしの気のせいかな。
 だって、いつ何時、事態が急変するかわからないんだから、食べられる時に食べておくのは、当然でしょ。まさか、この場で毒殺もないだろうし。
「はい、わかりました」
 メリッサは納得したように笑い、あたしの取り皿に、お菓子をたくさん取ってくれた。
「どうぞ、ジュンさま」
 年上の人から〝さま〟付きで呼ばれると落ち着かないが、仕方ない。
「カティさんも食べなよ。下手したら、人生最後のお菓子かもしれないよ」
 と言ったら、緊張していたカティさんも、少し笑顔になった。
「それじゃ、わたしも一つ」
 そうそう、その調子。
 あたしが美しいお菓子を二つ三つ食べ終えた頃、アンドロイド兵を連れた美女がやってきた。
 とにかく、白い。
 マーメイドラインの白いドレス、白い肌、薔薇色の唇、ふわふわのプラチナブロンド。耳には、シャンデリアのようなプラチナ細工のイヤリング。
 まるで、砂糖菓子のように甘い美女だ。中身は毒入りだとしても。
「ミス・ヤザキをお連れしました」
 とユージンが席から立って、神妙に頭を下げる。
 ということは、この美女がメリュジーヌだ。
 噂では、二百歳を超す妖女とか。
 あたしもつられて、席を立ってしまった。というか、テーブルの回りにいた全員が立ったのだけれど。
「ご苦労さま、ユージン。ようこそ、ミス・ヤザキ。わたしがメリュジーヌです」
 潤んだような灰色の眼をして、しっとりした甘い声で話す。あたしのがさつな発声とは、天と地の差だ。
「最高幹部会の中で、話し合いがあって、わたしが、あなたに対する優先交渉権を得たのよ。ぜひ、うちの組織の力になってほしいわ」
 美女はにこやかに言い、あたしに白い手を差し出した。爪と唇が、同じ系統の薔薇色に塗られている。きっと足の爪まで、完璧に手入れされているのだろう。身支度専門の侍女が、何人もいるに違いない。
「よろしく、と言うべきかどうか、わからないな」
 あたしは敵意と警戒を隠さず言った。
 だって、こいつらは長年、親父の首に懸賞金をかけてきた敵ではないか。
 あたしを誘拐させたのだって、どんな魂胆があってのことか、まだわからない。
「ユージン、ちゃんと説明したんでしょうね」
 美女は差し出した手を下ろし、サングラス男に問う。
「もちろんです。《キュクロプス》の幹部待遇で迎えるから、辺境の改革に乗り出せばいい、とね。ですが、なかなか信用してもらえなくて」
 当たり前だ。
 こいつらが本気で、そんなことを望んでいるとは思えない。だって、それなら、自分たちで改革すればいいのだから。
 メリュジーヌは、あたしに向き直った。風が動いて、甘い香水の香りを 運んでくる。思わず、くらりとするような香り。
「信じなくていいから、聞いてちょうだい。辺境は、このままでは行き詰まるわ。新しい人材が足りないからよ」
 ほう?
「不老不死目当てで辺境に出てくる者たちは、志が低いことが多いの。自分の欲得しか頭にないのでは、大きなことはできないわ。だから、わたしたちは、あなたを選んだのよ。若くて清新で、理想的な人材だわ。あなたに、この都市の改革をしてもらいたいの」
「この《アグライア》の?」
「そうよ。あなたなら、できるわ。英雄の娘として、既に名前が知られていて、あなた個人の信用も築かれている。それに、あなた自身、戦う意志も、改革する意志も持っているでしょう?」
  それは、否定できない。大組織の幹部の座というのにも、正直、惹かれている。
 権力が全てではないが、権力は大事だ。それがあれば、何をするにも格段に楽だろう。
 メリュジーヌは、カティさんの方を向いた。
「ミス・ソレルス、あなたはどう思って?」
 すると、カティさんは真剣に答えた。
「ジュンならきっと、改革をやり遂げると思うわ。わたしもできる限り、協力するし」
 そんな、ちょっとの間に、ずいぶん前向きになってしまって。暗く思い詰めているより、ずっといいけど。
 メリュジーヌはにっこりした。
「あなたもめでたく、彼女の保護下に入ったようだしね」
 そして、あたしに向き直る。
「これからどんどん、そうやって部下を増やしていけばいいのよ。メリッサも、あなたの役に立つわ」
 監視役としてね。
「勝手に決めないでもらいたいな。好きで、ここに来たわけじゃない」
 あたしが冷ややかに言うと、白い美女は、からかう態度で迫ってくる。
「あなたが《キュクロプス》に入ってくれたら、中級幹部の地位を約束するわ。そこからの出世は、あなたの才覚次第よ。それに、ヤザキ船長も懸賞金リストから外すわ。その条件で、何か不服?」
 うう。
 よくも、人の弱みを。
「不服は、ない」
 もう、やけくそである。どのみち、退路はない。
 メリュジーヌは微笑んだ。
「よかったわ。これで決まりね。実はもう、公式発表の準備は整っているの」
「え。何、それ」
「あなたが自分の顔をさらして、世界に宣言するのよ。こういう条件で、最高幹部会に勧誘されたって。そうすれば、世界が証人よ。もし、その約束を違えたら、こちらのマイナスになるわ」
 驚きだ。違法組織は、秘密主義ではなかったのか。
「そんなこと、宣言していいの?」
「そうすれば、あなたも覚悟ができるでしょ。一時間後に、ネットで世界に流すわ」
 あれあれ。もう、そこまで。
 これは、市民社会のビジネスなんかより、ずっと迅速だ。あたしも、うかうかしていられない。
「着替えとメイクの手配はしてあるから、メリッサが案内するわ。原稿もできているわ。あなたが、この都市の総督に就任する挨拶よ」
 え、いま何て。
「あたしが、何に就任するって? 」
 メリュジーヌは、悪戯を企むように唇を突き出した。
「そ・う・と・く。ジュン・ヤザキが、この《アグライア》の総督になることを、世界に知らせるのよ」
 ちょっと待って。
「総督って何、総督って!!」
「この都市の最高責任者よ。これからはあなたが、この都市の経営に全責任を負うの。それが、当面のあなたの職務」
 何それ。
 いったい、何が起きてるの。
 ちょっと川に足を入れたら、どかんと洪水が来て、一気に海まで押し流されたみたい。
「前例に囚われず、好きに運営するといいわ。この都市が人を集めて繁栄している限り、最高幹部会は、繁栄の中身に文句を言いません。あなたの好きな法律を作っていいのよ。というより、あなた自身が法律ね。その法律が気に入らない者は、この都市から出ていけばいいのだから」

   7

「おい、大変だ! 起きろ!」
 エイジに叩き起こされた時は、まだ明け方だった。彼は既に起きて稽古していたらしく、いつものトレーニングウェアを着ている。
「えっ、何か、ジュンのことで」
 ぼくの問いかけに返事もせず、エイジはすぐさま、ルークやジェイクたちを起こしに行ってしまった。いつも冷静なエイジが、あれほど慌てていることからして、何か重大な新情報があったらしい。
 顔だけ洗ってから部屋を飛び出し、みんなが談話室として使っている部屋に向かった。やはり叩き起こされた先輩たちが、ぞろぞろ集まってくる。
「何だよ、自分が早起きだからって」
「説明くらいしてもいいだろ」
 植民惑星《ルシタニア》。
 惑星連邦軍の地上基地の一隅にある、古い建物である。将校用の研修施設か何かだったらしい。親父さん以下、《エオス》のクルーは全員、この建物に軟禁されていた。
 欲しいものは何でも注文できるし、あたりをジョギングすることも、行き交う軍人たちとしゃべることもできるが、この基地の敷地から出ることは許されない。ぼくらがジュンを追って、辺境に出ていくことを防ぐためだ。
 そんなこと、ぼくらの勝手だろうに。
 市民社会の支柱の一人である親父さんはともかく、ぼくなんか、たとえ辺境で死ぬことになっても、市民社会の損失とはいえない。自由にさせてくれればいいのに。
「何かわかったのか」
 とパジャマ姿の親父さんが、エイジに尋ねる。
「今、ニュースで流れました。再生しますから、見て下さい。俺が口で説明するより、その方がいい」
 辺境のネットで大々的に流されたニュースを、中央の放送局や専門家がキャッチして、軍や司法局に止められる前にと、急いで流したものらしい。
 辺境を支配する六大組織の一つ《キュクロプス》のマークが出て、組織としての公式発表だと説明された後、画面にジュンが現れた。
 なぜか、肩を広く開けた真っ赤なドレススーツ姿で、背後には、盛大に白い百合が飾られている。まるで、女優か政治家の記者会見のように。
(生きてる!! 本物だ!!)
 まずは、どっと安堵が押し寄せた。誘拐されて以来、半月ぶりにジュンを見たことになる。
 いささか緊張しているようだが、ジュンは元気そうだ。それにしても、耳には金とルビーのイヤリング、首には豪華な金のネックレスをきらめかせているのは、なぜだ。
 とても似合うし、素敵だけれど、ジュンが自分から希望して、こんな格好をするとは思えない。
 これまでは、見合いの時だって、白いブラウスに紺のスーツだった。無理に着せられた衣装であることは、明らかだ。
「全世界のみなさんに発表します。わたし、ジュン・ヤザキは、この度、《キュクロプス》と契約しました。この組織の新しい幹部として、違法都市《アグライア》の総督を務めます」
 ええ!?
 契約!?
 総督って何だ!?
 つまり、違法都市の経営責任者か!?
 ジュンがどうして、そんなものに!?
「これから、この《アグライア》を辺境で一番の都市にしますから、どなたでも、どうぞ遊びに来て下さい。そして、気に入ったら、ここで暮らして下さい。これまでの違法都市とは違う、安全で暮らしやすい都市にすることを約束します」
 ええっ、安全な違法都市だって!?
 それって、自己矛盾してないか!?
 何でもありなのが、違法都市の存在価値ではないか。
 おまけにジュンは、とんでもないことを言う。
「市民社会の皆さんも、一度、辺境を経験してみませんか。リクエストしてくれれば、迎えの船を出します。そして、この《アグライア》に滞在していただきます。気に入ったら、そのまま永住して下さい」
 とんでもない。
 惑星連邦の存在価値に、真っ向から挑戦するようなものだ。
 軍も司法局も最高議会も、ハチの巣をつついた騒ぎになってしまう。
 だが、ジュンだってそんなことは、わかっているはずだ。誘拐された結果とはいえ、もう、そこまで覚悟を決めてしまったということなのか。
 用意された原稿を、ただ棒読みしているのとは違う。ちゃんと、ジュン自身の言葉になっている。まるで最初から、辺境の住人であったかのように。
「ここではもう、バイオロイドを使い捨てにすることは認めません。保護を必要とする人は、わたしが守ります。いかがわしい店も、取り締まります。女性が安心して暮らせる街にします」
 それではもう、違法都市ではない。
 普通の都市ではないか。
 どこまでが《キュクロプス》の台本で、どこからがジュン自身の考えなのか。
 少なくとも、脅迫されて無理やり、という感じは受けない。これが放送されたということは、中身について、最高幹部会は 承認しているのだ。
「それから……」
 ジュンはこほんと咳払いし、口調を変えて言った。
「ここから先は個人的な話ですが、この機会しかないので、《エオス》のみんなに伝えます」
 ぼくらは身を乗り出した。これは、ジュン自身の言葉か。そう思っていいのか。
「心配かけて、ごめんなさい。もう市民社会には帰れそうにないけれど、あたしのことは心配しないで下さい。ここで、やれるだけのことをやってみます」
 ジュンは本気だ。
 本気で言っている。
「最高幹部会は、あたしが〝連合〟に加われば、ヤザキ船長の名前を懸賞金リストから外すと約束しました」
 あ。
「あたしに、総督としての権限も与えると約束しました。だから、誘拐されてここまで来たことは確かだけれど、せっかく与えられた貴重な機会、生かさなくてはと思うことにしました。この辺境を少しでも変えられるかどうか、自分にできる限りのことをするつもりです。市民社会でお世話になった皆さん、今日まで、ありがとう。これからも、父をよろしく。以上です」
 しばらく、何も言えなかった。
 そんな、永遠の別れみたいなことを。
 でも、これでわかった。最高幹部会は、ジュンの最大の弱点を突いたのだ。父親を愛しているという弱点を。
 親父さんの安全が約束されるなら、ジュンは取引を承知するだろう。自分の身がどうなろうとも。
 その発表の後に、中央の放送局からの補足説明が流れた。違法組織に囚われたジュン・ヤザキは、父親の安全保障と引き替えに、違法組織の一員となることを承諾した様子だと。
 それに加えて、学者や評論家が呼ばれ、あれこれ考えを述べている。軍や司法局は、まだ正式のコメントを発表していない。最高議会では、司法委員会が臨時招集をかける模様だとか。
 だが、しかし。
「冗談じゃない!!」
 ようやく、声が出た。
「ジュンがこのまま辺境に埋もれるなんて、あるわけない!! 絶対、取り戻しますよ!! そうでしょう!? 居場所はわかったんだから、取り返せます!!」
 しかし、先輩たちは、それぞれに考え込んでいる。
「もしかしたら、我々が考えていたより、最高幹部会は進んでいるのかもしれない」
 と言ったのはバシムだ。
「進んでいる?」
「ジュンに目を付け、新しいスターとして抜擢したんだ。たいした見識だ」
 抜擢だって。
 誘拐して、脅迫することが。
「感心してる場合じゃないですよ!! 奴らが本気で改革なんて、させるわけがない!! 何か企みがあるのに決まってる!!」
 しかし、ルークも言う。
「そもそも、ジュンを懸賞金リストに載せたこと自体、このための伏線だったんだな。もしかすると、彼らは何年も前から、ずっとジュンに注目していたのかもしれない」
 何年も前から、ジュンを?
 いずれ、自分たちの側に引き込むために?
 エイジも同意する顔で言う。
「これまでの事件の数々、ジュンは見事に乗り切ってきたからな。あれだけの豪傑、そういるもんじゃない。最初は、親父さんの娘だからと注目された面もあるだろうが、軍でも司法局でも、わかる者にはわかっていたからな。あいつが大物だってことは」
 じんわりと、恐怖が染みてきた。このままではジュンが、手の届かない彼方に去ってしまう。
「それじゃ、最高幹部会は、本気でジュンを〝連合〟に引き入れたっていうんですか。何かの罠とか、作戦じゃなくて?」
 すると、バシムが重々しく言う。
「こうやって全世界に声明を流したんだから、この取引は、おそらく本物だろう。世界が注目しているんだから、最高幹部会だって、そう簡単にはジュンを切り捨てられない」
 それは、ジュンの安全だけ考えたら、いいことなのかもしれないが。
「つまり、翔・ダグラス・矢崎は、もはやどうでもいい、ということだ。彼らはジュンが、違法組織の側の看板になることを狙っている。ちょうど、〝リリス〟が司法局の看板になっているようなものだ」
 ぼくは、ずしんと重い衝撃を受けた。立っていられず、近くの椅子に崩れ落ちてしまう。
 今まで身近にいたジュンが、手の届かない、遠い星になってしまったようなものだ。
 いや、だが、最初から、わかっていたことではないか。ジュンが将来、市民社会の柱になる大物だということは。
 それを、ぼくたちだけでなく、悪の帝国までが認めたということだ。
 彼らは正しい。ジュンなら、やってのけるだろう。違法都市の総督だろうと、違法組織の幹部だろうと。
 だが、それなら、ぼくは。
 他に選択肢などない。ぼくも、ジュンの元へ行くのだ。そして、ジュンの手助けをする。ぼくが生きる意味は、その他に何もないではないか。
「親父さん……」
 ぼくが黒髪のダンディを振り向くと、苦い顔で言われた。
「だめだ」
 そんな、まだ、何も言ってないのに。
「ジュンを追って《アグライア》に行くと言うんだろうが、それはさせられん。二度と帰ってこられなくなる。きみには、家族も故郷もあるのだから」
 そんなしがらみは、もうない。
 リナ・クレール艦長と同僚たち、パトロール艦《トリスタン》が吹き飛んだ時、 ぼくもいったん死んだ。そして、生まれ変わった。
 魂の地獄を歩いたからこそ、生きる覚悟が定まったのだと言える。
「ジュンのいる所が、ぼくの居場所です。どこへ帰る必要もありません。何とかして《アグライア》に行きます」
 と断言した。
 冷静に横槍を入れたのは、バシムだ。
「別に止めないが、それを連邦政府が認めてくれるかどうかだ。我々は当面、ここに軟禁されたままだろうし」
 確かに。ルークとエイジは、ぼそぼそ相談し合っている。
「司法局に聞いてみよう。お偉いさんたち、今頃、緊急会議を招集してるぞ」
「同級生に当たってみるよ。一般市民がどう思ってるか、声を集めてみる」
 ぼくは気がついた。ジェイクがずっと、黙りこくったままだ。腕を組んで、顔を曇らせたまま。《エオス》の副長として、何か冷静な意見を言いそうなものなのに。

   8

 あたしはセンタービル内の、特別階の客室にいた。部外者は立ち入りできない、警備厳重な上層階である。
 書斎と居間と食堂と寝室が揃った、豪華な続き部屋だ。あちこちに新鮮な花が飾られ、制服を着たアンドロイド侍女が何体も控えていた。その食堂の大テーブルに料理を並べて、夕食にかかっているところ。
 ユージンとカティさんも同席していた。あたしの第二秘書に任命された黒髪の美女、メリッサもいる。本当は第一秘書の予定だったのだけれど、あたしが先に、カティさんを秘書に採用してしまったから、
『わたくしは、第二で結構です』
 ということになったわけ。
 もちろん、カティさんは違法組織の内部事情なんか何も知らないから、実質、メリュジーヌにあたしの補佐を命じられたメリッサが、首席秘書ということになる。つまり、あたしの監視役。
 ユージンは自分の組織を運営する傍ら、あたしの相談役を務めてくれるそうだ。
 まったく、あれよあれよという間に、大変なことになってしまって。
 あたしは撮影用の真っ赤なドレススーツを脱ぎ、宝石類を外し、もっと落ち着く、オリーブ色のシャツとスパッツに着替えていた。
 これからは、人前に出る時はばっちり着飾れと、メリュジーヌに言われている。あたしは都市の広告塔になるのだから、
『ほら、ジュン・ヤザキだぜ』
 と、すぐにわかる格好でいなければならないというのだ。
『素材がいいから、飾り甲斐があります』
 とメリッサは喜んでいる。本当に、そうだといいんだけど。
 メリュジーヌ自身、いつも華麗なドレス姿でいるのは、『職務の一つ』なのだそうだ。
『女の場合、見た目の華麗さで相手を圧倒するのも、勝負のうちなのよ』
 と言われた。あたしの場合、下手に着飾ると、ピエロになってしまう気がするんですけど。
 というより、それ以前に、中身が問題でしょう。人に畏怖されるような中身を持っていなければ、ただのお飾りで終わってしまう。
「明日から早速、勉強しなきゃ。都市経営って、何をすればいいのか、わからないもん」
 生ハムとハーブのサラダを食べながら、思いつくままにしゃべった。輸送船の業務なら、一通りわかるんだけど。
「まずは、現場の視察かな。メリッサ、手配してよね。あたし、違法都市のこと、よく知らないし。ここに拠点を置いてる組織のことも、調べなきゃ」
 するとユージンは、第三者の冷淡さで言う。
「焦る必要はない。誰が総督になろうと、各部署は、いつも通りの日常業務を続けている。きみが焦ってあれこれ命じると、現場が混乱するだけだ。まずは三か月、勉強期間のつもりでいればいい」
 うーん、そんな悠長な態度でいいのかな。
 だって、こうしている今も、繁華街のビルでは、バイオロイドの女たちが娼婦として働かされている。
 もし、総督の権限でそういう商売をやめさせられるなら、一日でも早い方がいい。
 けれどユージンは、あたしを暴走させないために、傍にいるらしい。ビーフステーキの皿を前に、パンをちぎりながら、淡々と言う。
「辺境はもう何百年も、何でもありの無法地帯として続いてきたんだ。きみが青臭い理想主義で何とかしようとしても、巨大な慣性を持つ流れは、すぐには変えられない。焦ると、きみが潮流に流されて、消滅してしまうぞ。まずはどっしり構えて、岩になれ」
 そんなこと言われても。
 人の上に立つなんて、どうしていいかわからなくて、はらはら、そわそわする。
 ああもう、《エオス》が恋しい。
 あそこではジェイクやルークやエイジが、あたしを子供扱いしてくれた。何をするべきか、何をしたらいけないか、指図してくれた。まずいことをしたら、頭をごつんとやって叱ってくれた。
 それって、何て有り難いことだったんだろう。
 それにまた、親父やバシムが背景で、どっしり構えていてくれたから、あたしは好きに跳ね回ったり、文句をつけたり、愚痴を言ったりすることができた。
 まだまだ、そうして甘えられると思っていたのに。
 まさかいきなり、こんな地位に据えられてしまうなんて。
(エディ、助けて)
 と、つい思ってしまう自分を、自分で叱りつける。
(とんでもないよ。エディを、違法都市に呼ぼうなんて)
 最高幹部会なんて、そのうち、簡単にあたしを切り捨てるかもしれない。エディを巻き添えになんか、しちゃいけない。
 悩みながらも、とにかく、出された料理は平らげた。一流のシェフがいるのだろう、前菜からデザートまで、たっぷり堪能できた。いずれは、エディの手料理が恋しくなるだろうけれど。
 デミタスカップのコーヒーを味わいながら、メリッサの説明に耳を傾ける。
「毎朝、わたくしがお迎えに上がります。ジュンさまは朝食の間に、一日の予定を確認なさって下さい。わからないことは何でも、わたくしにお尋ねを」
 うん、わかった。
 少なくとも、メリッサは違法都市のことをよく知っている。カティさんも、メリッサからあれこれ学ぼうとしている。
「明日は、デザイナーとスタイリストを呼んであります。午前中、衣装のお仕立てをなさって下さい。基本的な衣類は既に揃えてありますが、人前に出る時のドレスやスーツ類については、ジュンさまも、ご自分のお好みをおっしゃって下さいな。午後の予定は、昼食時に決めて下さればよいでしょう」
 とりあえず、今夜のところは、ぐっすり眠るとするか。心配はまた明日、起きてからにしよう。

 ところが、みんなと別れて寝室で横になっても、なかなか眠れなかった。
 あたしはたくましい性格だと、自分で思っていたけれど、さすがに、神経が張り詰めているらしい。
 だって、違法都市の総督。
 五十万が住む都市の責任者。
 おまけに、法律はない。あたしが決めたことが、そのまま法になる。それが適切な法でなければ、みんな、この都市を見捨てて出ていく。改革どころではない。あたしは総督失格になり、最高幹部会に処分されてしまう。
 まだ二十歳にすらなっていないのに、あたしの人生、あとどのくらい残っているの? 半年? 一年?
 暗い寝室に一人でいると、どんどん考えが暗くなっていく。
 もう二度と、親父にも、みんなにも会えないんだ。親父があたしを取り戻したくても、何もできない。軍と司法局が親父を囲い込んで、どこへも出さないはずだ。エディもジェイクも、あたしを助けてはくれない。
 あたし一人で、何ができるの。
 ユージンだって、メリッサだって、上に命じられてやむなく、あたしに付き添っているだけだ。カティさんは、あたし以上に頼りない身の上だし。
 だめだ。眠れない。
 あたしはベッドから起き出し、部屋着の上に、丈の長いカーディガンをひっかけた。居間や書斎にいてもつまらないので、気分転換に通路に出てみる。
 外にはアンドロイド兵士が二体、門番のように立っていて、あたしに敬礼した。あたしを部屋に押し戻そうとはしない。
「ちょっと、散歩するよ」
 と言ってみた。すると、
「どうぞ。お供します」
 という返事。特別階の中なら、一人で歩いても危険はないと、メリッサに言われているんだけど。兵たちは、黙って後ろから付いてくる。まあ、気にしなければいいのだろう。
 高い天井を持つ通路は、古城のように荘厳で、しんとしていた。あちこちに手頃なラウンジがあり、花や彫刻が飾ってある。
 カティさんの泊まっている部屋も、ユージンの部屋も近くにあった。護衛兵が、そう教えてくれたのだ。その他にも、無人の部屋が幾つもある。
 噴水と女神像のあるエレベーターホールに出て、ビル全体の案内図を見てみた。下層階には誰でも利用できるカフェテラス、レストラン、会議場などがある。
 モニターで見てみたら、夜中近い時刻でも、ビル内にはかなりの利用客がいた。駐車場から上がってくる人。食事に向かう人。会合を終えた人。あたしは大抵、連邦標準時で暮らしているけれど、そうでない人たちもいるということだ。あらゆる施設は、無休で稼働している様子。
 中層には、オフィス区画とホテル区画。ここを利用できるのは、〝連合〟に加盟している組織の中でも、中規模以上の組織のメンバーのみと聞いた。
 上層階には、もっと特殊な客用の部屋があるようだ。画面上のあたしの部屋には、あたしの名前が表示されていた。メリッサがいる部屋もわかった。
 でも、誰が泊まっているのか、表示されていない客室もある。何の部屋か、表示されていない部分もある。
 いずれ、案内図なしでも歩けるようになるだろう。今後は、このビルがあたしの居場所になる。きっと、市民社会のどこよりも安全だ。おかしな気分。違法都市の中にいて、最も厳重に守られているなんて。
「総督閣下」
 妙な称号で呼ばれて、振り向いた。制服を着たアンドロイド侍女が、灰色の顔であたしを見ている。やはり、あたしの称号で間違いないらしい。
「メリュジーヌさまが、よろしければどうぞと、おしゃっています」
 彼女も、このビルにいるのか。きっと、滞在者が表示されていない部屋だな。あたしより上位の人間の所在については、あたしが知りえないようになっているのだ。
 他にすることもないので、侍女に付いていったら、すぐ上の階にある豪華な客室に案内された。それでも、あたしの部屋と同ランクだ。あたしって、すごい待遇を受けている。辺境の最高権力者と、同じグレードの部屋なんて。
 あたしに付いてきた護衛兵たちは、 部屋の外で待つ態勢になった。あたしだけ、侍女に付いて室内に入る。白い壁、白い家具、大理石のような灰白色の床。飾られている花だけ、赤い。
「眠れないらしいわね」
 白いソファにもたれるメリュジーヌは、化粧こそ落としていたけれど、ふわふわの襟がついた銀白色のドレスを着ていた。素足で、華奢なサンダルをひっかけている。
 もしかして、これが寛いでいる姿なの?
 ううむ、女の鑑。完璧に美しい。男が見たら、のぼせるだろうな。いや、そんなこと、怖くて無理か?
「ここに泊まっていたとは、知らなかった。普段は、どこか他所にいるんでしょ」
「誰かさんが落ち着くまで、まあ、二日、三日はいてあげようと思ってね」
 へえ。
「光栄です。お忙しい大幹部に、そんな気遣いをしていただくなんて」
 あたしは皮肉で言ったのに、向こうはすましていた。
「世界が注目している、大抜擢ですからね。あなたには、成功してもらわないと」
 ふうん。あたしが失敗したら、メリュジーヌの失点になるらしい。そうしたら、他の大幹部が喜ぶのか。
「おかけなさい。何か飲むといいわ」
「じゃあ、ホットミルクもらっていい? お砂糖とバニラエッセンス入りで」
 メリュジーヌは灰色の瞳で、実験動物でも見るように、あたしを見た。
「お酒を注文するとは思わなかったけれど、そこまでわかりやすく、お子様だなんてね」
 ミルクが悪いとは、少しも思わなかったけどな。
「あなたに向かって格好つけても、無意味でしょ。どうせ子供だし。お酒は十八になるまで飲まないって、親父と約束してるから」
 白い肌の美女は、ふっと笑った。
「じゃあ、わたしだけ飲ませていただくわ」
 向かい合ってソファに座ると、アンドロイド侍女があたしにホットミルクを、メリュジーヌには綺麗な色のカクテルを運んできた。
「乾杯しましょう」
 と言われたので、一応、マグカップを掲げてみせる。
「何に乾杯?」
「わたしは、この抜擢の成功を願うわ。あなたは、好きなものに乾杯なさい」
「じゃあ、カティさんが、望みのものを手に入れられるように願う」
 まだはっきり聞く暇がなかったけれど、どうやら彼女の望みは、妹と共に消えた男――アレン・ジェンセンに再会することらしい。妹から奪い返すつもりなのかどうかは、まだわからない。
 あの弱気な態度からすると、それは望みが薄いように思える。同級生の証言によれば、アンヌ・マリーはしたたかな女で、おとなしい優等生の姉から、強引に男を奪い取ったらしいから。
 まあ、そのくらいでなければ、辺境で生き延びることはできないよね。
「なぜ、彼女を秘書にしたの?」
 とメリュジーヌに尋ねられた。カクテルグラスを持ってソファにもたれる姿、地球時代の古典絵画のようだ。
「頼りなくて、放っておけないから。せめて、あたしの視野にいてもらおうと思って」
「ずいぶんお人好しね」
「そうでもない。これから辺境で会う人間よりも、カティさんの方がまともだろうと思うだけ」
「まあ、あなたの好きにすればいいわ。誰を部下にしようと、あなたの裁量ですからね。あなたがこの都市を繁栄させている限り、文句はないわ」
「その繁栄の意味は、人口が増えるという意味なの? それとも、金儲けすること?」
「それは、あなたが考えることよ。どんな手腕を見せてくれるか、楽しみにしているわ」
 カクテルグラスの上から、からかう態度で言われ、猛然と反発心が湧いた。
 絶対、成功してやる。
 この女を驚かせるくらい。
 どんな成功かは、まだよくわからないけど。
「ああ、そうそう。中央から、人材を呼び寄せてもいいのよ。たとえば、《エオス》のお仲間とか」
 ぎくりとした。それは、あたしが自分で封印していた願いだ。みんなを巻き添えになんか、できない。
「呼ばないよ」
 とだけ無愛想に答えた。エディに甘えたいけれど、それをするのは、あまりにも無責任だ。あたしが呼べば、たぶんエディは来てくれる。そうわかっているから。
「そう? 別にいいけど。でも、あなたの本命って誰なの?」
「本命?」
「一番好きな男ってこと」
 危うく、飲みかけのミルクをこぼすところだ。なぜまた、急にそんなことを。
「いないよ、そんなの!!」
 まずい、返答に力が入りすぎた。
 メリュジーヌでなくても、疑うだろう。
「あら、そう。世間では、金髪の坊やと結婚するように思われているじゃない?」
 なんで、そんなことまでチェックしているの。そんなに暇な人とも思えないのに。
「それは、周りが勝手に誤解しているだけで、あたしたちは、単なる仲間だから」
「じゃあ、ティエンかしら? 彼はあなたのために、父親を裏切ったのよね。生まれた組織を捨てて、一から出直したのは、たいしたものだわ」
 がっくりきた。よく知っている。
 でも、それなら、ティエンが身を隠す必要は、とうにないわけだ。
「あたしが彼と連絡を取ること、できる?」
「もちろん。彼をここに呼んだっていいのよ」
 よかった。無事に生き延びているんだ。明日にでも、通話してみよう。
「そうなの。彼じゃないのね」
 とメリュジーヌは、あたしの心理を読んだように言う。
「あとは……それらしい男性というと……誰かしらね」
 追及が続くようなので、冷や汗がにじんできた。心臓が音を立てている。
 あたしは、あたしの気持ちを誰にも話していないから、誰を恋しいと思っているか、わかるはずはないと思うんだけど。
 人に話していないのは、どうせ望みはないと、わかっているからだ。間違って本人に伝わってしまった時に、笑い飛ばされても辛いし、逆に、同情されても辛いし。
 黙ったまま、ただ好きでいればいいと思っていた。そうしたら、そのうち自然に気持ちが薄れるかもしれないし。
 実際、エディが《エオス》に来てからは、毎日、かなり楽になっていた。エディがあたしをリナ・クレール艦長の形代にしているだけでも、構わない。気にかけてもらっているということは、とても嬉しいことだったから。
 考えたことはある。もしもエディと、本当に恋人になったらと。
 それはそれで、きっと楽しいことだろう。でも、もしエディを死なせることになったら、その時の後悔は、
(熱烈に愛しているわけじゃないのに、楽だからと甘えてしまった結果……)
 ということになる。そういうのは、いやだ。
 ところが、メリュジーヌはさらりと言う。
「まあいいわ。世間の話題になることなら、恋愛でも喧嘩でも、何でもいいのよ。なるだけ、注目を集めることだわ」
 え。
 なんか、思いっきり肩透かしをくらった感じ。
 助かったけど、心臓に悪い。
「あなたは〝連合〟の新しい広告塔なんだから、常に人から注目されていることを、覚悟しておきなさいね。間違っても、寝ぼけ眼のぼさぼさ髪で、人前に出たりしないように。そんな姿を撮影されたら、あなたが一生、恥ずかしい思いをすることになるのよ」
 妙な感じだ。
 これって、違法組織の大幹部が、新入りにする注意なのか。
 何だか、親戚の伯母さんから、人生の知恵を授けられているみたい。
「あなたはお母さんを早くに亡くしているから、女の知恵を十分に伝授されていないのよね。まあ、マリカも辺境生まれだから、市民社会の常識を学ぶには、苦労したでしょうけど」
 むっときた。ママを実験材料にしていたのは、誰だ。ママは好きで、戦闘用兵器に生まれたわけじゃない。
 あたしの反発を見てとり、メリュジーヌは面白そうに微笑んだ。
「あなたが辺境で地位を固めれば、可哀想な実験体や、バイオロイドたちを助けてやることも、できるかもしれないでしょう。まあ、頑張ってみることね」
 頑張りますとも!!
 やるからには、とことんやってやる!!
 その結果が、こいつらの意図に反していたとしても。
 いや、反していなければ、あたしの失敗なんだけど。
 メリュジーヌは、カクテルのお替わりを注文してから言った。
「ジュン、あなた、自分が初めて人を殺した時のこと、覚えてる?」
 何だろう、その話題の選び方。
「覚えてるよ。別に、思い出したくないけど」

 あれは確か、十一歳の時。
 友達のキャサリンの祖父母が、あたしを誘拐しようとした。学校帰り、うちに遊びにいらっしゃいと誘って、あたしをキャサリンと一緒に車に乗せたのだ。
 もちろん、当時のあたしにも護衛は付いていた。彼らは、すぐ後ろから車で付いてきた。それで十分だと判断して。
 ところが、その祖父母の乗った車内には、あたしとキャサリンそっくりの、有機体アンドロイドが隠してあった。あたしと彼女は麻酔を打たれ、服をはがされた。そして、下着姿で、車内の隠し場所に押し込められた。
 キャサリンの家に着くと、彼女の祖父母は、偽物の少女二人を連れて家に入った。護衛たちも、そちらに同行した。本物でないことが悟られるまで、数時間は稼げる。運が良ければ、お泊りということにして、翌朝まで大丈夫だという計算。
 その間に、あたしたちを積んだ車は共犯者に回収され、キャサリンは別にされて(祖父母は、可愛い孫娘に危害を加えるつもりはなかった。ことが発覚する前に、自分たちだけ、うまく脱出するつもりでいたらしい)、あたしだけ、貨物コンテナに積み替えられ、《キュテーラ》から出航する船に乗せられた。
 あたしを救ったのは、犯人たちの予定より少しだけ早く、目を覚ましたことだ。
 真っ暗な中で目覚めて、緩衝シートに巻かれていることに気付いた時は、パニックを起こしそうになった。
 でも、すぐに事態を理解して、覚悟を決めた。母から教わっていたことが、役に立った。
『ジュン、もしも誘拐されたら、おとなしくして、犯人たちの隙を探すのよ。隙がなければ、助けが来るまで、じっと我慢するの。きっと誰かが、助けに行きますからね』
 あたしは静かに耐えた。助けが来ることは、期待していなかった。じっと待つ気もなかった。こういう時のために、空手の稽古を積んできたのではないか。
 ――いまに見てろ。ふざけやがって。
 怒りがあれば、恐怖は後回しになる。
 緩衝シートの中で、可能な限りもぞもぞと身動きして、肉体の回復を図った。コンテナから出された時は、ぐったりと意識がないふりをしていた。そして、耳を澄ませていた。話し声、足音、空間の広さ。
 ここにいるのは、大人二人だけらしい。
 あたしは船室に運ばれ、ベッドに寝かされた。
 あたしを運んできた男が、あたしに毛布をかぶせ、背中を向けて立ち去ろうとした時。
 起き上がって、毛布をそいつの頭にかぶせた。そいつが視界を取り戻そうとした隙に、急所に一撃を入れた。そいつがバランスを崩して倒れたところで、顔面に打撃を加えた。命を奪うことになっても構わない勢いで。
 船の警備システムが警報を発して、もう一人が駆けてきた。でも、その時にはあたしは、倒した男の銃を奪っていた。

 この事件は内密に処理されたから、関係者以外、誰も知らない。いたいけな少女が、大の男を二人も殺したなんてことは。
 あたしの行為は正当防衛とみなされ、咎められなかったが、軍も司法局も議会の司法委員会も、さすがに、この件を公表することは避けた。あたしの将来に、よからぬ影響を及ぼさないようにと。
 あたし個人としては、事実を公表したところで、何も問題ないと思っていたのだが。
 学校でキャサリンと再会した時、彼女の祖父母がひっそりと逮捕されたことについて、特に責められることはなかった。あたしも、余計なことは何も言わなかった。
 キャサリンが悪いのではない。彼女は何も知らず、巻き込まれただけ。彼女の祖父母は、実行に関与した違法組織を通じて、グリフィンから援助を得ていたと思うけれど。
 ただし、それから間もなく、キャサリンの一家は遠くへ引っ越していった。今後、一切のお気遣いは無用と、キャサリンの両親が、うちの両親に挨拶をしていった。以来、交流は途絶えたまま。
 それで、あたしはじきに、その事件を忘れた。他のことも全て、後回しになった。母の容体が、どんどん悪化していったからだ。母の死後は、船乗りを目指すための勉強にかかりきりになったし。

 なのに、メリュジーヌは知っていた。よくやった、と誉めてくれたのだ。
「あなたは母親から、戦う精神を受け継いでいるのよね。市民社会より、辺境で暮らす方が向いているわ」
 その評価を、素直に喜ぶべきかどうかは、わからない。とにかく、それ以来、最高幹部会は、あたしに注目していたそうだ。
「当時のグリフィンが、犯人たちの行動を追尾していたわ。あなたが二人を殺した後で、そのまま拉致することは可能だったのよ。船の制御は、グリフィンの手にあったのだから」
 いま思うと、そういうことだったのだろうな。
「でも彼は、あなたを解放して、もっと大きくなるまで、成長を見守るべきだと考えたの。だから、あなたが救援発信するのを止めなかった」
 それにしても……当時のグリファン? 彼?
「じゃあ、グリフィンていうのは一人の人物ではなくて、交替のある役職ということ? 当時は男だったけど、女である場合もあるってこと?」
「ま、そのようなことね……」
 事情は色々あるのだろうが、それは語るつもりがないようだ。いずれまた、わかることもあるだろう。あたしが、この世界で長生きしたら。
「それからグリフィンは、あなた個人に監視チームを付けたわ。ヤザキ船長の専従チームとは別にね。だから、あなたの成長ぶりは、定期的に、最高幹部会で報告されていたのよ。単位を取りまくって学校を卒業したとか、《エオス》でどんな風に過ごしているとか。だから、あなたを迎えた時は、初めましてよりも、お帰りなさい、という感じだったわね」
 冗談みたいだ。
 辺境の大物たちが、あたしが空手の試合に出たとか、パイロットライセンスの試験を受けたとか、話題にしていたなんて。
 それではまるで、普通の人間の集まりのようではないか。
 辺境で暮らす二億あまりの人間たちの頂点に立つからには(実際にはその中のどれだけが、自意識を持つ独立した人間なのかは不明だ。違法組織では、都合の悪い者は洗脳してしまうと聞いている。また、脳を人工脳に取り換えて、ロボット化してしまうとか)、人間らしい情緒は、最小限まで切り捨てているのだろうと思っていた。
 でも、その中の一人が、こうしてのんびり、差し向かいであたしと話をしている。普通の女性のように。
 それとも、これは超越体の操る端末で、本体は、同時に無数の人形を操っているのだろうか。
「そういうわけで、あなたが《タリス》でどんな経験をしたかも、おおよそ、わかっているわ」
 メリュジーヌの言葉に、ぎょっとして身を引いてしまった。
 それでは、まさか。
 エディとの間でだけしか口に出さなかった秘密、最初から知られていたのか!?
「そうよ。シドは、アイリスに乗っ取られた。彼の組織は、以来、密かに勢力を拡大している。アイリスに取り込まれた者たちには、それぞれ追跡が付いているわ。あなたの相棒のエディに、アイリスの細胞が入っていることも、知っているわ。いまのところ、異変はないようだけれど」
 あたしは言葉を失った。
 アイリスの存在も活動も、全て把握されていたなんて。
 そしてそれを、あたしに明かすということは。
 最高幹部会は、巨大な群体であるアイリスのことさえ、脅威とは思っていないということだ。
 では、あたしが想像もできないような実験体が、もっとたくさん、あちこちで解き放たれているのかも。いずれはそういう実験体の一つが、人類を滅ぼす可能性もある。
 この人たちは、それを防げるつもりでいるのか。
 それとも、自分たちも変貌していくから、進化を拒絶する旧人類など、どうなっても構わないのか。
 市民社会は、呑気すぎる。こうして辺境から振り返って見たら、その呑気さに絶望したくなるくらい。
「もしかして、最初から……シドの組織がどんな実験体を作り出していたか、全て知っていたわけ? シドの艦隊が、こっそり中央に侵入したことも、わかってた?」
 メリュジーヌは、ゆったりカクテルを味わっている。
「辺境を支配するとは、そういうことよ。わたしたちは、小さな組織の内情まで調べているわ。油断はしていない。どこでどんな発明や発見があるか、わからないもの。そして、有望な人材がいれば、成長を見守ったり、引き抜いたりする。それが、わたしたちの大きな仕事なのよ」
 そうなんだ。
 そういうものなんだ。
 すると……あたしも、色々なことを考え直す必要がある。
 たとえば……〝連合〟の支配は、当分の間、このまま続く可能性が高いということだ。
 それならば、〝連合〟の外にいて無駄にあがくよりも、中に入って出世した方がいい、という考え方もありうる。それが……一般市民からは、『悪の帝国に取り込まれた』と見えるだけであっても。
「アイリスのことは、いまのところ、様子見をしているわ。貴重な実験の一つとしてね。あれが、人類の進化の、有益な分枝であるのかもしれない。本当に脅威になると思えば、いつでも滅ぼせる……まだ、もうしばらくの間ならね」
 そこで、くすりと笑う。
「そう思っていて、実は、向こうに裏をかかれているだけ、なのかもしれない。その意味でも、あなたは、向こうとの橋渡し役になりうるわけよ。もしもの時は、交渉役をお願いするわ」
 なるほど、それもあるのか。
「そういう時に、アイリスがまだ、あたしなんかに価値を認めてくれるとは思えないけど」
「向こうも、わかってはいるわ。もし人類を滅ぼそうとしたら、途方もない抵抗があるということは。だから、慎重に動いている。そういう相手なら、交渉の余地はあるでしょう」
 そういうことなら……しばらくは猶予がある。その間に、あたしがもっと力をつけられれば。
 メリュジーヌは、静かに微笑んでいた。
「あなたとこういう話ができて、よかったこと。これからも、機会がある都度、色々なことを伝えていきたいわ」
 以前のあたしが想像していたような、邪悪な魔女とは違う。自分自身の欲望はあるとしても、他人の欲望もまた、客観的に計算できる人物だ。つまり、会話が成立する相手。
 冷徹さはもちろんあるけれど、恐ろしいくらい聡明だ。
 こういう人物から見たら……中央の政治家や官僚、軍人たちは、あまりにも頭が固く、心が弱く、まともな交渉相手にすらならない、というところだろう。だから、脅迫や洗脳という手段を使うのだ。
 それならば、あたしは、ますます柔軟に、狡猾に、鋭くならなくては。
 このジュン・ヤザキならば、洗脳や脅迫よりも、協力の方が、はるかに大きな効果が得られる、と思ってもらうために。
「あたしも、よかった……あなたと話ができて。中央では……良識に反する話をするのは、かなり難しいから」
 その良識が、とうに時代遅れだとしても。
 メリュジーヌは、満足そうにグラスを置いた。
「相互理解ができて、よかったこと。わたしたちも、生き残るために、ありとあらゆる努力をしているわ。慢心した時に、どんな報いを受けるか、わからないと思っている」
 そういう認識を持つ者は、手強い。
「あなたにも、おいおい、辺境の様子が見えてくるでしょう。わたしたちは、あなたを、こちら側の大きな戦力に育てたいと思っているの。都市一つくらい、あなたの好きに変革して構わないわ。成功しても失敗しても、あなたなら、そこから何かを学ぶでしょうから」
 うん、わかった。
 あたしは満足して、おやすみの挨拶をし、引き上げようとした。もう、深夜もいいところだ。
 そして、戸口に近づいてから、はっとして立ち止まった。
 くるりと振り向いて、ソファ席の美女を見る。
「あの……ついでに」
 聞くのは今だ。今、聞かなかったら、きっと、怖くて聞けなくなってしまう。
「いや、ついでに聞くようなことじゃないけど……でも、せっかくの機会だから」
「何なの?」
 本当は真っ先に、確かめるべきだった。でも、忘れていたんだ。自分のことで頭が一杯で。エディなら、絶対に忘れたりしないのに。
「軍のパトロール艦……《トリスタン》のこと。覚えてるよね? なぜ、《トリスタン》は爆破されたの!?」
 メリュジーヌは、すぐには答えなかった。その沈黙の間に、あたしは恐怖をこらえている。聞いてはいけないこと、だったのかもしれない。でも、答えを知りたい。
「もう、わかっているでしょう?」
 そう言われた。しごく平静に。
「軍の内部に……改革の動きがあったから?」
 若手の将校たちが、密かに手を取り合って、軍を変えようとしていた。そして、違法組織と戦える軍にしようとしていた。
 でも、それは、〝連合〟には許せないことだった。エディはそう思っている。あたしもだ。
「そうよ。見せしめの効果があったわ。まだ生きて改革を狙っている者たちも、動きを潜めている」
 そうか、やはり。
 リナ・クレール艦長は、彼らの要だったから、殺された。
「これでまた何十年か、時間が稼げるわ。辺境の自由を守るための時間をね」
 辺境の、自由。
 それを守るのが、最高幹部会の役目ということか。
「自由というのは、過酷なものよ。毎日が戦いになる。負けた者は死ぬ。でも、自由は必要なの。更なる進化のためにね。進化しなかったら、人類がここまで文明を高めたことが、無駄になるわ」
 その考えは、わかる。
 でも、負けて死ぬのが自分だったら、メリュジーヌだって、嬉しいとは思わないはずだ。
「不老不死とか、究極の生命とか、そういうのを目指すのは、別に構わないよ。好きに追及すればいい。でも、平穏に暮らしたい者は、放っておいてくれても、いいんじゃない?」
「市民の大多数は、今も平穏に暮らしているわ。その平穏は、なるべく保っていきたいと思っている。新たな世代を生み育ててもらうためにね。わたしたちが必要としているのは、目的を遂げるための、ごくわずかな犠牲にすぎないわ」
 新たな人材の供給源としての存在価値、か。
「そうだね。あなたたちにとっては、そうなんだろうね」
 でも、ママは。リナ・クレール艦長は。使い捨てにされる、たくさんのバイオロイドたちは。
「あたしはその、わずかな犠牲を、もっと減らすための何かをするよ。それで構わないんでしょ?」
 メリュジーヌはソファにもたれたまま、あたしに白い手を振ってみせた。
「そうよ。あなたは、わたしたちの試みの一つ。何でもすればいいわ。いずれ、わたしたちと衝突する時までね」

 朝、予定の時間に目覚めて、軽い運動をしてから、シャワーを浴びた。
 まだ眠気が残っているけれど、仕方ない。眠れたのは結局、明け方近くだったから。
 昨日は本当に、大変な一日だった。
 でも、おかげで、だいぶ視野が広まったと思う。
 〝連合〟というのは、ただの無慈悲な独裁帝国ではない。生き残りを懸けて戦う者たちの、実験場のようなもの。
 人類が、どこまでの高みに到達できるか。
 権力ピラミッドの頂点に立つ者たちは、自己に厳しい。あたしがこれまで戦ってきたチンピラたちとは、人間の格が違う。
 彼らを好きになれるとは思わないけれど、理解はできる気がする。無限に挑戦し続ける者たちだ。
 こう思うこと自体、他人から見れば、あたしが『洗脳された』ことになるのかもしれないけれど。
 あたし自身は、こうして〝連合〟の内側に入れて、よかったと思う。入らなければわからないことが、色々とある。
 またああやって、メリュジーヌと話す機会があるといいな。
 とにかくあたしは、あまりにも準備不足だ。
 もっと大きく、賢くなって、彼女たちに教え導かれる立場から、対等に話ができる立場にならないと。

 下着姿のまま、何を着ようか迷っていたら(寝室の隣に、店のように広いクローゼットがある。その三分の二の空間は、まだ空いていた。これから埋まっていくのだろう)、アンドロイド侍女が花束を抱えてやってきた。
 一抱えもある、見事な深紅の薔薇だ。その赤を、白いかすみ草が引き立てている。
「総督閣下、贈り物です。保安検査はしてありますので、危険物は隠されていません」
「あたしに? 誰から?」
「《ラルサ》という組織の代表者からです」
 花束を受け取り、添えられたカードを見たら、ティエンだった。なんて素早い反応。
『ニュースを聞いて、びっくりした。都市の総督なんて。でも、素晴らしい。近日中に、会いに行くよ。ぼくももう、隠れていなくてよさそうだから。愛を込めて。きみの崇拝者、ティエン』
 彼が父親の組織を捨てて、辺境で生きると決心した時、大丈夫かと危ぶんだものだ。あの時はまさか、あたしも同じ立場になるとは思わなかった。
 こうなると、彼はいい相談相手になるかも。辺境では、あたしより先輩だもの。今日まで、しっかり生き抜いていることだし。
 花を生けるのを侍女に任せ、シャツとスパッツ姿で居間に出ていったら、驚いたことに、昨夜はなかった花や品物が山積みになっている。
 既に、深緑の秘書風スーツを着たカティさんがいて、何やら目録を作っていた。
「おはよう、ジュン。これ、全部あなたへの贈り物よ。この都市に拠点を持っている、各組織から」
「へえ?」
「今後もお引き立てのほどを、という感じのカードが添えてあるわ。ラブレターみたいなのも混じっているわよ。お花、宝石、ドレス、美術品、リゾート惑星のホテルへの招待状……リストを作っておくから、どう対処するか決めてくれる?」
 そうか。辺境では、権力者への賄賂は当然のことなのか。
 中央だったら、あたしが知らない人から贈り物をもらったら、親父に『返しなさい』と言われるところだ。
 でも、ここは辺境だから、どうすればいいんだろう。
「それにしても、カティさん、すっかり秘書スタイルだね」
 きりりとして、いかにも有能そう。
 すると、赤毛の美女は、ちょっと照れたような態度で言う。
「当たり前よ。わたしだって、ぶらぶら遊んでなんかいられないもの。あなたに必要とされる部下になるわ。でないと、第一秘書の座にいられないでしよ」
 初対面の時と同じ、プロの態度になっている。どうやら、メリッサに対抗意識を持っている様子。でも、元気が出たなら、よかったな。
 朝食の時、同席したユージンに尋ねたら、賄賂はもらっておけ、と言う。
「どこの組織にとっても、たいした出費じゃないし、返されたら、逆に不安がるだろう。贈り主を贔屓する必要はないから、好きなものを手元に残しておけばいい。あとは捨てるなり、誰かにやるなり、自由にして構わない」
 ふうん、そういうものか。
 こうやって少しずつ、辺境での常識を学んでいくわけだ。
「ねえ、ユージンて、ものすごく有能だから、あたしの教育係に選ばれたんだね」
 と言ったら、彼は不味いものでも食べたかのように、スープをすくっていたスプーンを止めた。
「何だ、いきなり」
 あ、照れてる。それを隠すための苦い顔。
「あたしのせいで、自分の組織の方が、部下任せになってしまってるんでしょ。ごめんね。でも、あたしはすごく助かってるから。これからも、どうぞよろしく」
 彼は不気味なものでも見るかのように、サングラスの奥からあたしを眺めた。
「頭でも打ったのか?」
 すると、これまでのあたしは、無駄に反抗的で懐疑的だったわけだ。余計な苦労をさせてしまった。
「ゆうべ、眠れなくてうろうろしてたら、メリュジーヌの部屋に招いてもらってね。色々話を聞かせてもらって、少し頭が整理された感じ。これから立派な総督になるように努力するから、協力よろしくね」
「……まさか、洗脳されたんじゃないだろうな」
 彼がいかにも嫌そうに言ったので、あたしは笑った。久しぶりの大笑いだった。メリッサが横から、嬉しそうに言う。
「それでこそ、最高幹部会がジュンさまを招いた甲斐があるというものですわ。わたくしも精一杯補佐しますから、何でもおっしゃって下さいね!!」

 午前中は、ドレスやスーツの仕立てに忙殺された。美人のデザイナーとスタイリストが助言してくれる。
 赤、紺、紫、ブルーグリーン、白、クリーム、オレンジ、サーモンピンク、ワイン色。少なくとも、五十着は注文したのではないか。最初は楽しかったけれど、さすがに疲れてくる。
「そんなに要らないよ」
 と抵抗しても、メリッサは承知しない。
「ジュンさまは今、話題の中心ですわ。毎回、新しい服で人前に出ないといけません。百着あっても、すぐに足りなくなります」
「同じ服を二度着たらいけない、とでもいうわけ?」
「その通りですわ。ジュンさまが一度着た服は、売り物になります」
「へっ?」
「中央では、ファンクラブの会員が増殖していますのよ。競りにかければ、高値で売れます。非合法の品でも、欲しがる者はたくさんいるでしょう」
 冗談じゃない。
 あたしの着た服を、どこかの変質者が抱いて寝たり、人形に着せて、うっとりしたりするなんて。
「それはやめ! あたしの服は売らないよ! 何度も着るから、これだけあれば十分!」
 商魂たくましいメリッサは落胆したようだが、それでも、あたしが必要とする以上の服と靴を作らせた。季節が変わったら、また一揃え作るという。マリー・アントワネットか。
 宝飾品のデザイナーも来ていて、服に合わせたジュエリーをずらりと並べた。金とルビー、金とエメラルド、プラチナとサファイア。真珠もあれば珊瑚もある。宝石屋が開けそうだ。
 服と小物の組み合わせは、専属スタイリストが考えるから、あたしは悩まなくていいという。
「とにかく、ジュンさまのイメージに合う完璧な身支度でないと、外に出てはいけません」
 とメリッサは言う。
「あたしのイメージって、いったいどんな?」
 これまでは、努めて男の子のような、地味で実用本位の格好をしてきたんですけど。
 するとメリッサは、うっとり夢見るように言う。
「それはもう、華麗なクールビューティですわ。知的で意志的で、なまじの男なんか、足元にも寄れないくらいの威厳があって」
 それ、全然、現実のあたしと違うんですけど。
 もしかしてメリッサって、有能で仕事大好き人間なのに、乙女チックな性格なの?
 クールビューティなんて聞いたら、ジェイクたち、腹を抱えて笑うぞ。今はもちろん、あたしを心配して、やきもきしているだろうけど。
 カティさんが、笑いながら言った。
「そういうイメージで売り出す、ということよね。素敵だわ。スター誕生ね」
 あたしはなんか、胃が宙返りしそうな感じ。いいんだろうか、こんな企みに乗ってしまって。
 ゆうべはメリュジーヌにうまく乗せられて、
(ようし、やったるか)
 みたいな気分になったのだけれど、気をつけないと。調子に乗ってしまったら、きっと何か失敗する。あたしが最高幹部会の期待を裏切ったら、いつでも捨てられてしまうのだから。

 昼食を済ませると、ユージンがやってきて、あちこちを案内してくれることになった。彼は午前中、自分の組織の仕事を片付けてきたらしい。
「男はいいね。いつも、似たようなスーツ着てればいいんだもん」
 と地味なスーツ姿の彼に言ったら、サングラスのまま、にこりともしないで言う。
「わたしは、もし女に生まれていたら、毎日着飾って、男を悩殺して歩いていたと思うぞ」
 あたしが思わずのけぞると、ユージンは、かすかににやりとする。
「せっかく女に生まれたんだ。毎日、綺麗な格好をすればいいじゃないか。どうせ、いつまで生きられるか、わからないんだから」
 この男も、なかなか底が見通せない。だからこそ、メリュジーヌに見込まれているのだろう。
 まずはセンタービルの中にある、司令センターに案内された。ここでは、都市内の出来事が全てわかるようになっているそうだ。責任者のギデオンという男が、堅苦しい態度であたしに挨拶する。
「都市の警備・生産・流通・居住者管理などに関する詳細は、ご下命があれば説明に上がります。外出時の警護をする部隊も、ここで管理いたします。いずれ総督閣下が、ご自分の警備隊長をお決めになれば、警備関係の指揮権は、そちらにお任せします」
 なんか、大の大人に閣下なんて呼ばれると、馬鹿にされているみたい。この男、黒髪に浅黒い肌のハンサムで、慇懃だけど、あたしを邪魔者と思っている様子だし。
 そりゃあまあ、いきなり小娘が(形だけでも)自分の上役になったんだから、業腹だよね。
 たぶん、あたしのことを、父親の七光りで有名になった娘だと思っている。その七光り効果は否定しないけれど、いずれ、あたし独自の中身があるってこと、見せてやるからな。
「じゃあ、後でまた、詳しいことを教えてもらいにくる。とりあえず、街を回ってくるから」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
 もちろん、用心しますとも。
 あたしたちはユージンの用意してくれた車に乗り、センタービル周辺の繁華街から始まって、あちこちを見物して回った。当面、護衛にはユージンとメリッサが責任をもってくれるそうだ。
 大組織の持ちビルが並ぶ大通り、もっと格下の組織が持つ商業ビル、そして裏通りに並ぶ娼館や、その類の店。
 派手なドレスで歩道に立って、客引きをしている女たちもいる。華やかな存在に見えるが、彼女たちは監視されていて、どこにも逃げられないのだ。私有財産もなければ、休日もない。ぼろぼろになるまで働かされて、処分される。
(待っていて。いずれ何とかしてあげる。自由にではできないとしても、待遇を改善するとか、五年以上生かすとか、何か)
 あたしはそのために、この総督という立場を引き受けた。できるかどうかわからないけれど、市民社会と辺境とを結ぶ存在になりたい。
 少しでもそうなれたら、ママが命がけで脱走してきたこと、命を縮めてあたしを生んだことが無駄にならなくて済む。
 あたしが車内から何を見ているか、わかったのだろう。カティさんがそっとあたしの手に、手を重ねてきた。わかっているわ、という風に無言で頷く。あたしは微笑み返した。
「ありがとう。頼りにしてるから」
 欲望のために女を利用する男たちには、期待できない。辺境を変えるためには、女の力が必要だ。味方を増やそう。
 繁華街を離れると、あとは広大な緑地だ。針葉樹と広葉樹の混ざった森。馬が放たれている草地。
 人工的に調整された季節は冬だけれど、凍える寒さというほどでもない。常春では刺激が足りないから、あえて季節を演出しているのだ。
 丘の麓を巡って川が流れ、遊覧用のクルーザーを浮かべた大きな湖が七つある。そのうちの一つは塩湖で、食用にするため、海の魚が放してあるそうだ。おかげで、新鮮な刺身が食べられるというわけ。湖の回りには、個人の邸宅やホテルやレストランが点在している。
 緑地の所々に有力組織の所有地があって、そこには研究施設があったり、拠点ビルがあったりする。幹線道路には、常に車が流れている。 都市の警備システムは、どの車がどこから来てどこへ行くのか、可能な限り追尾して、各組織の動向を把握しようとしている。
 夕方、およその見学を終えると、あたしは車を繁華街の一角で停めさせた。街の空気を知りたい。
「降りて歩こう。どこかで食事してから、帰ればいい」
 カティさんとメリッサが、あたしに従った。ユージンはあたしの護衛のような顔で、横に立つ。店に入るまでのわずかな距離なら、コートはなくても大丈夫。
「で、どんな店に行きたいんだ?」
「なるべく、一般的な店」
「お忍びというやつをやりたいのか? それは、変装でもしないと無理だな」
「じゃ、変装は明日からということにしよう」
 正直、ユージンの存在が心強かった。違法都市を女だけで歩くなんて、やっぱり心細いもの。いくら回りに《キュクロプス》の紋章を付けたアンドロイド兵がいても、彼らには判断力がない。
 ビルの足元の歩道に降り立つと、周囲を行き交う男たちから注目を浴びるのがわかった。ささやきも聞こえてくる。
「おい、あれ、ジュン・ヤザキだろ」
「本物かな」
「そうだろうよ。兵に《キュクロプス》のマークが付いてる」
「最高幹部会も、ずいぶん露骨な人気とりをするもんだな」
「可愛い子ちゃんを看板にして、間抜けな市民たちを集めるってわけだ。集まった連中は、洗脳されて下働きさ」
 顔がひきつるのがわかった。しかし、平然としていなければ。どの方向から、誰に撮影されているか、わからない。
 あたしは金色の縁取りが付いた白いジャケットとミニスカートのスーツを着ているから(これにして下さいと、スタイリストのナディーンに押し付けられたのだ!)、遠目にも目立つのだろう。行く先々で、注目を集めてしまう。
「ほら、あれがジュン・ヤザキだ」
「最高幹部会も、話題作りがうまいな」
「子供を総督にだなんて、そんな無茶な人事、いつまで続くやら」
「どうせ、側近がうまく操ってるのさ」
 カティさんとメリッサの方が、背の高い美女だけど、彼女たちは控えめな秘書スタイルだから、兵の間に紛れてしまう。
 それでもまあ、親父の娘だから、注目されることには慣れている。じかに街を歩いて、空気を吸わなくては。センタービルの中にいてはわからないことが、きっとわかるはず。

 歩き回って疲れると、《キュクロプス》系列のビルでレストランに入り、食事をした。他の客たちから離れた、奥のVIP席で。何も頼まなくても、最初から、そこへ通されてしまうのだ。
 それでも、店の雰囲気はわかる。あれがジュン・ヤザキ、というささやきは聞こえた。
 興味、敵意、それに嫉妬が混じった視線。
 見世物にされる辛さ、身に染みてきた。中央でも親父はVIP扱いだったけど、あたしはまだ、おまけだったからな。これからずっと、こういう視線にさらされることになる。慣れるしかない。
「もしかしたら、各組織の幹部を招いて、お披露目パーティした方がいいんじゃないの」
 自棄交じりの冗談だったのに、メリッサがまともに反応した。
「それ、いいですわね。企画しましょう」
「まさか、本気!?」
「あら、もちろんですわ。まず、招待客リストを作りましょう。最初は二百人くらいでいいかしら。その様子で、次回の招待客を考えることにして。ユージンさま、アドバイスをお願いしますね。カティ、各組織の情報は、あなたにも見てもらいますから」
 仕方ない、らしい。あたしがこの《アグライア》に人を集めるつもりなら、社交の中心になる覚悟がいるのだ。
「そうだわ、ダンス権を売りましょう。一曲いくら、で」
 とメリッサが言う。彼女には、何でも商売に見えるらしい。
「ジュンさまと踊りたい男性が、大勢いるはずです。事前に、オークションで落札してもらおうかしら」
「やめよう、それは」
 いくら何でも、恥ずかしい。絶世の美女というのならともかく、あたしみたいな小娘が、そんな図々しいことを。
「それじゃあ、ダンスの予約リストだけでも作らないと。当日、希望者が多いと、現場が混乱しますから」
 本当かなあ。あたしと踊るために来る客なんて、いるんだろうか。
「ジュンさまの予定に、ダンスのレッスンも入れておきますわ。ダンスは空手ほど、お得意ではないそうですから。でも、これからは、社交の時間が増えますよ」
「違法都市で、社交!?」
「もちろんです。人間関係があってこそ、組織間の取引もうまくいくんですよ。それは、市民社会と変わりません」
 そうなのかなあ。
 そんなこんなで、夜遅く、センタービルに引き上げてきた時には、もう眠くて倒れそうだった。おかげで、ベッドに入るとすぐ、寝入ってしまった。
 こうしてあたしは、違法都市に馴染んでいったのである。

 翌日は、買い物からスタートした。
「カティさん、あなたの服を買いに行こう。街歩きも兼ねて、一石二鳥になる」
 あたしの服はしこたま揃ったけれど、カティさんは、ユージンの船に用意されていた最低限の着替えしか持っていないはずだ。
「そんな、いいのよ、わたしの服なんて」
「そうはいかない。アレンが来るんでしょ」
 と言ったら、固まってしまった。いいんだろうか、こんなに初心で。
 実は、ユージンにこっそり確認を取っている。カティさんが望んだ報酬とは、ユージンの精子だとわかった。それで、彼の子供を作りたいというのだ。何とも、いじらしい願いではないか。
「アレンとアンヌ・マリーは、明後日、ここへ来るって聞いたよ。あたしが付いてるから、しっかり交渉して。できたら、彼を奪い返せるといいんだけど」
 するとカティさんは、激しく首を振る。
「無理よ、そんなこと。わたしは捨てられたのよ。アンヌ・マリーが絶対、彼を離さないわ」
「きつい妹らしいね」
 カティさんはいったん、唇を噛む。
「あの子は悪魔だったわ。子供の頃から。同じ顔をしたわたしのことを、憎んでいたのよ」
「だって、実の姉妹なのに!?」
「姉妹だから、よ。たぶん、わたしを邪魔者だと思っていたんでしょう。自分が得られるはずのものを、半分盗っていく邪魔者だって。わたしのものなら、何でも取り上げようとしたわ。品物は譲ってきたけれど、まさか、アレンまで取られるなんて」
 兄弟姉妹のいないあたしには、よくわからない。あたしなら、双子の姉妹なんて、どんなに嬉しいかと思うのに。
 とにかく、繁華街のビルに入り、あちこちの店を回って、遠慮するカティさんに服を買わせた。カティさんの白い肌と、赤い髪に映えるドレスをたくさん。
 同行したメリッサも、喜んで見立ててくれた。中央と辺境では、流行も微妙に異なるらしい。中央では派手だと思われるようなドレスでも、辺境ではごく普通、らしいのだ。もちろん、仕事中ではなくて、プライベートな時間でのことだけど。
「だめよ、無難を基準にしちゃ。あなたはスタイルいいんだから、もっと肌とボディラインを見せて。これなら、どんな男だって悩殺よ」
 とメリッサは見本のドレスを抱えて、カティさんに言う。あたしも、横であおった。他人のことなら、何とでも言える。
「そうそう、せっかくの美女なんだから、着飾らないと」
 それでアレンが陥落するかどうかは、別にして。
 あたしから秘書の給与を出しているので、代金はカティさんの口座から引き落とせるのだけれど、自分では買おうとしないから、あたしが買って現物支給する形にした。
 ちなみに、あたしには、この都市の財産が全て自由に使える。《アグライア》という都市自体は《キュクロプス》の財産だけれど、今はあたしの管理下にあるということだから。ビルを売り払おうと、公共地を売り払おうと、あたしの判断で行えるそうだ。
 あたし個人の報酬も、決済用の口座にあるお金から、好きなだけ取っていいそうだ。
 さすがは辺境、なんてずぼらな会計。
 といって別に、自分のために贅沢しようとは思わない。あのセンタービルの部屋と、積まれた贈り物だけで、相当な贅沢だ。
 使える資金は、いいことのために使おう。たとえば、バイオロイドの再教育とか、待遇改善とか。

 その頃、中央星域では、〝円卓会議〟のお偉方が、緊急の会議を開いていたらしい。
 この会議は、最高議会のように、法律で設置が決められたものではない。惑星連邦の法体系は、いまだ、辺境が一大文明圏であることを認めていないのだ。
 人類文明は市民社会だけで完結している、というのが公的認識なのである。
 けれど実際には、市民社会は違法組織に取り囲まれている。
 そこで、市民社会の防衛という大問題に対処するため、各界の実力者たちが随時、非公式な話し合いをするようになった。それがいわゆる〝円卓会議〟である。
 現在の顔触れは、軍と司法局から二人ずつ、最高議会から二人、財界と学界から合わせて数人だという。外部には非公開の集まりなので、本当のメンバーはよくわからない。
 とにかく、その重鎮たちが、あたしの事件について話し合ったそうだ。
 といっても、彼らにできることはほとんどない。軍も司法局も、辺境ではたいした行動はできないのだ。最高幹部会が決定したことを邪魔する力など、誰にもない。
 彼らがもめたのは、あたしの元へ行きたいという、エディの願いを認めるかどうか、だったらしい。
 それを認めたら、市民社会が〝連合〟に屈したことになる、という意見が半分。
 ジュン・ヤザキを応援することで、辺境が少しでも変わることに期待しようという意見が半分。
 結局、参考人として呼ばれた〝リリス〟が言ったことが、決め手になったそうだ。
『若者が何かしようとしている時に、老人が邪魔するもんじゃない。若者を信じられない社会なんて、滅びるしかないんだよ』
 うーん、かっこいい。
 しびれるなあ。
 じかに会って、サインをもらうか、握手してもらうか、できたらよかったのに。
 こうなってしまっては、もはや敵陣営だから、その機会ははなさそうだけど。
 ずっと憧れだった〝リリス〟が、あたしのことを考え、あたしのために発言してくれたというのは、じんとくる。いつか、これで良かったと思ってもらえるように、頑張ろう。
 とにかく、その結果、軍基地に軟禁されていた親父の元へ、決定が通達された。
『惑星連邦政府は、それが重大な犯罪行為でない限り、市民の自発的な行動を束縛することはない。安全対策上、《エオス》のクルーに対する行動制限は続行するが、《エオス》を辞めた者については、その限りではない』
 つまり、エディが《エオス》の乗員でなくなれば、好きな所へ行って構わない、ということ。
 それでエディは、親父に願い出た。
『ぼくを退職させて下さい。ジュンの元へ行きます。親父さんの分まで、ジュンのことを守りますから』
 親父はそれを認めた。もちろん、エディが《エオス》を去るというのは形式上のことで、あたしがいつまでも親父の娘であるのと同じ、エディだってどこまでも《エオス》の仲間。
 以上は、メリュジーヌから聞いた話である。
 どうして〝円卓会議〟の中身や、親父たちの会話内容まで知っているのか知らないけれど(それが〝連合〟の情報部門の実力らしい)、後からエディに聞いたことと一致していた。
 そういうわけで、自由になったエディは早速、《アグライア》のあたしの元へ連絡してきたのである。
「ジュン、これから、きみの元へ行くからねっ! きみの秘書でも護衛でも何でもするから、雇ってくれるだろう?」
 あたしは、雇わない、と言うべきだった。来ても相手にしないから、来ないように、と。
 でも、エディの輝くような笑顔を見た途端、へなへなと心がくじけ、つい、甘えが出てしまったのだ。
「辺境だよ? 違法組織だよ? それでもいいの?」
 エディは当然、満面の笑顔。
「きみと一緒にいられるなら、どこだっていいんだよ」
 ああ、あたし、本当にエディに甘えている。これでもしエディを死なせたりしたら、どれだけ後悔するだろう。それがわかっていて、拒絶できない弱さ。
「あ、それから、先輩たちも一緒だから」
 と言われて、仰天した。
「何それ、どういうこと。だって、みんなは親父の側にいてくれなきゃ」
「それはバシムが残っていれば、大丈夫だよ。親父さんはもう、懸賞金リストから外されたし。新しいクルーだって、探せるし。きみを敵に回してまで、親父さんを狙おうなんて不届き者は、まずいないよ。ジェイクとルークとエイジとぼくと、四人できみを守るから」
 そんな、そんなこと。
 あたし、そこまでは期待していなかった。
 でも、どう言っても、エディはにこにこして、
「みんな大人だし、自分の意志で決めたことだから」
 と言い張る。
 軍が、老朽艦を廃棄するという名目で、小艦隊を回してくれたそうだ。それで、《アグライア》まで来ると。
 通話を終えてから、しばらく虚脱してしまった。あたし、恵まれすぎている。こんなに過保護だと、ユージンに笑われる。
 でも、嬉しい。
 おかげで、自分がどれほど張りつめていたか、わかってしまった。みんなが来てくれると思うと、全身が溶けてしまいそう。
 ああ、また、
『このガキ、こんなこともわからんのか』
 とか叱られて、大きな手で、頭をぐりぐりやってもらえるんだ。それって、なんて幸せなこと。
 それから気を取り直して、中央の外れまで、迎えの艦隊を派遣する手筈を整えた。この《アグライア》から船を出さなくても、もっと近くにある《キュクロプス》の拠点から船を出してもらえるので、十分間に合う。
(ああ、神さま)
 期待していなかった応援が得られて、本当に嬉しい。これならきっと、何かできる。辺境の常識を変える何かが。

 アレンたちが到着する当日は、カティさんが朝からそわそわして、落ち着かなかった。
 何度もティーカップを倒したり、ドアに顔をぶつけそうになったり、アンドロイド侍女に衝突したり、手帳を取り落としたり。
 あたしたちが選んだボルドー色の膝丈のドレスを着て、長い首に真珠のネックレスを巻き、とても綺麗なんだけど、初めてデートに行く女の子みたい。午後にアレンとアンヌ・マリーとの面会が設定されているものだから、何をしていても上の空。
 別にいいけどね。
 秘書の業務は、メリッサが完璧に果たしてくれるから。
 あたしは午前中を各部署の見学に費やし、知識を増やした。午後になると、アレンの船が桟橋に着いたという知らせ。こちらからの迎えの車に乗って、二人がセンタービルまで案内されてくる。
 カティさんはがくがく震えてしまい、あたしがどう励ましても、悪い予測しかできないようだった。
「わたし、アンヌ・マリーに殺されるかもしれない」
 とまで言い出す。
「まさか、いくら何でも。それに、こっちの警備兵がいるんだから、何もできやしないって」
 アレンがいかにアンヌ・マリーに惚れていても、《キュクロプス》を背景にしているあたし相手の喧嘩などできないと、よくわかっているはずだ。
「カティさんは、あたしの後ろにいてもいいよ。あたしがアレンに、細胞をくれって頼むからさ」
 さすがにあたしも、男性に向かって、精子をくれとは言いにくい。婉曲話法でいこう。
「向こうも、嫌とは言わないよ。だって、いざとなったら、とっ捕まえて絞り取れるもん。そんなことをされるより、自発的に提供した方がいいと思うでしょ」
 すると、横にいたユージンにたしなめられた。
「年頃の娘が、そう露骨な言い方をするものじゃない」
 ふん、誘拐犯のくせに、あたしに礼儀を指導するなんて。あたしだって懸命に、品のある話し方をしようとしているのにさ。
「総督閣下、お客様がご到着です」
 地上階の玄関ホールまで出迎えに行っていたメリッサが、二人を連れて、あたしたちのいる階まで戻ってきた。彼らは、このセンタービル内では護衛兵の同行が許されないので、二人きり。周囲を固めているのは、都市の警備部隊の護衛兵だ。
 カティさんは緊張が嵩じて、真っ青になっている。どんな男だろう。ここまで、カティさんの心を捕らえているなんて。
「カティ」
 真っ先に扉から入ってきたのは、紺のスーツを着た、中肉中背の黒髪の男性だった。
 どちらかというと、スマートというより、ずんぐりという体型。眠そうな黒い目と丸い鼻をしていて、ハンサムと表現するよりは、味のある顔、と形容するべき。
 姉妹に取り合いされる男としては、冴えない外見だった。でも、きっと中身は詰まっているのだろう。彼はカティさんが真っ青になっているのを見ると、すぐあたしに向かって言った。
「きみがジュン・ヤザキ嬢か。お願いする。どうか、カティを引き渡してほしい」
 あれっ。そう来るのか。
「きみにとっては憎むべき誘拐犯かもしれないが、カティはただ、大きな力に利用されただけだ。きみに対する害意は、これっぽっちもなかったはずだ。どうか、見逃してやってほしい」
 へえ。へええ。
 アレンはそれから、カティさんに手を差し伸べる。
「カティ、迎えに来た。ぼくと一緒に行こう」
 なんだ、いい感じじゃないか。
 まさか、連れていってから危害を加えるつもりではないだろう。そんなことをしたら、あたしが怒る。
「こんなことまでさせて、本当にすまなかった。アンヌ・マリーだって本当は、きみのことを心配してるんだ」
 あたしがアレンに好意を持ったところで、鋭い声が割って入った。
「甘ったれないでよ。アレンが優しいからって、よくも図々しい条件を出したわね!」
 おお、これがアンヌ・マリーか。
 カティさんと同じ顔立ち、同じ骨格なのに、印象はまるで違う。赤い髪はウェーブをつけた華やかなボブスタイルにして、襟ぐりの深い暗緑色のミニドレスを着ている。これでもか、と曲線美を見せつけるいでたち。
 何より、態度と発声が堂々としている。
 カティさんが清楚な白百合なら、こちらは深紅の薔薇という感じ。常に自分が主役、と思っているような態度だ。
「この馬鹿女があなたに迷惑をかけたようだけど、迷惑を被っているのは、こちらも同じなの。わざわざ呼び出されて、報道番組でもあれこれ探られて。鬱陶しいったらないわ。後はこちらで処分するから、引き渡してちょうだい」
 とアンヌ・マリーはあたしに言う。へええ、ふうん。
「何か、誤解があるようですけど」
 あたしはにこやかに言った。自分のことでなければ、いくらでも冷静な調停者になれる。
「あたしは、カティさんのことを怒ったりしていませんよ。むしろ、保護者のつもりです。カティさんはあたしに対する悪意があって、誘拐に荷担したわけではありませんから。むしろ、最高幹部会に利用された被害者です」
 アレンは意外そうな顔をした。アンヌ・マリーは、一段と警戒した様子。
「あなた方と会うことにしたのは、あたしからお願いするためです。アレン・ジェンセン、あなたから、細胞をもらいたいんです。カティさんはそれで、あなたの子供を作ります。そして、あたしの元で子供を育てます。あたしの秘書の仕事をしながらね」
 二人とも、驚いたようだった。
「きみの元に残る? そういう話になっていたのか?」
「なんて意気地のない女なの。自分が誘拐した子供にすがって、保護してもらうなんて!!」
 悪かったね、子供で。
 子供なりに精一杯考えて、努力してるんだよ。なるだけ多くの人が、幸せになりますようにと。
 それが、世界平和の基本。
「で、問題は、あなたが素直に細胞をくれるかどうか、なんだけど。どうですか?」
 けれどアレンは、あたしの言葉など聞こえないようで、カティさんに向いてしまっている。
「本気か。辺境で子育てするなんて。無理だ。きみは、こんな場所で暮らせる人じゃない。きみの欲しいものは渡すから、中央へ帰るんだ。連邦政府に保護してもらうのが、一番いい。犯罪に荷担したといっても、情状酌量はしてもらえるはずだ」
 へえ、そういうつもりだったのか。本当に、カティさんのことを心配してくれたんだ。
 それなら、平穏にすみそう。精子さえもらえれば、こちらはそれで充分だし。
 アレンとは対照的に、アンヌ・マリーは棘だらけだった。
「ちゃっかりしてるじゃないの。ジュン・ヤザキに取り入るなんて。確かに、あなたよりは、ずっとしっかりしてるわ。あなたの半分以下の年齢でもねえ」
 彼女の刺は、あたしの肌をも、ちくちく刺した。あたしが親父の名声のために引き立てられた、と思っている。あたし自身を評価していたら、こういう態度にはならない。まあ、今の時点で評価してもらうのは、無理だと思うけど。
「そもそも、アレンさんは、カティさんの恋人だったんでしょ。それをあなたが横取りしたと聞いてるけど、どうやって誘惑したのかなあ。後学のために、聞いておきたいんだけど」
 あたしが微笑みながら尋ねると、アンヌ・マリーは緑の目であたしを睨んだ。このガキ、口を出すなという無言のビーム。
「あなたも、たいしたやり手じゃない? 《エオス》のクルーが、こちらへ向かって出発したと、ニュースでやってたわ。大の男を何人も従えていられるんだから、さすがだわ。父親の七光りだけでなく、あなた自身の手腕ね」
 でも、この態度、別の意味で評価できる。
 この人は、あたしが最高幹部会に抜擢されたからといって、あたしに媚びようとは思わないんだ。その度胸は たいしたもの。
「あなたなら、カティさんをどうするつもり?」
「基地に連れて帰って、冷凍保存にするわ。これ以上、迷惑をかけられないように」
 うひゃあ。本気で言っているように聞こえる。可哀想に、カティさんが怯えるわけだ。
「じゃあ、あなたたちには渡せないな。カティさんは、あたしの元にいてもらうよ。あたしなら、秘書として正当に扱うもの。それに、もう友達になったし」
 二人とも、呆れたような顔をした。あたしは付け加える。
「もちろん、カティさんが中央で子育てしたいと思うのなら、喜んで送るし」
 それは、本人が否定した。
「いいえ、子供を刑務所で育てたくはないわ。かといって、施設に預けたり、養子に出したりするのもいやよ。わたしがここで、自分の手で育てるの」
 カティさんは、中央で『母親が犯罪者』と言われるような育ち方をしたら、子供が傷ついて不幸になると思っている。それよりは、たとえ違法都市でも、自分の手で愛情込めて育てる方が、はるかにいいと。
 そこでようやく、メリッサが割って入った。
「とにかく、お座りになって、お茶をどうぞ。結論を急がず、ゆっくり話し合われたらどうですか?」

 三時間かけた話し合いの結果は、決裂だった。
 アレンはカティさんを中央に送り返すと言うし、アンヌ・マリーは冷凍説だし、カティさんはあたしの元に残るというし、ユージンは知らん顔して、離れた席にいるだけだし。
「アレンのクローンを作って、二組のカップルに分かれたら」
 というあたしの案も、アレン自身に却下された。
「ぼくの記憶を複製したクローンを作っても、目覚めた瞬間から別の空間を占め、別の人生を歩きだす。そのクローンに何か強制することはできないし、ぼくが彼の人生に、幸福の保証を与えられるわけでもない。むしろ、不幸を増やすだけのことだ」
 まあ、それはそうかも。
 とうとう、あたしは宣言した。
「明日、もう一度話そう。今夜は二人とも、《キュクロプス》の直営ホテルに部屋を取ってあるから、そこで休んで下さい」
 むろん、こちらの監視下から出さないための手配だ。アンヌ・マリーを放置すると、カティさんに害を及ぼす危険がある。
 すると、アレンが言った。
「ミス・ヤザキ、すまないが、ちょっと別室で話せないか」
 アンヌ・マリーは疑う顔をした。
「わたしも行くわ」
 話の流れによっては、自分に不利な取り決めがなされるかもしれない、と心配している。
「いや、きみはここにいてくれ。五分で戻るから」
 いいですよ、何でも。この事態を打開する提案なら。
 少し離れた別室で、あたしとアレンは立ったまま向かい合った。こちらのアンドロイド兵士は付いているが、人間はあたしたちだけだ。アレンがあたしに危害を加える可能性は、ほとんどない。隠されているが、あちこちに警備システムのレーザー砲や電磁ネットが配置されている。
「それで?」
「頼みがある。きみにしか、できないことだ。このビル内なら、きみは何でもできるはず。アンヌ・マリーに麻酔をかけて、眠らせてくれ」
 あたしはまじまじ、アレンを見返した。
「それから、どうするの?」
「アンヌ・マリーを冷凍睡眠カプセルに入れる。そして、カティを連れて拠点に帰る。これまでアンヌ・マリーのために使った時間と同じだけ、カティに捧げてもいいはずだ」
 あたしはしばらく、立ち尽くした。
 そういう解決法か。ティエンが父親を冷凍にしたのと同じ。いつか自分に余力ができたら、解凍させられるかもしれないと考えて。
 つまり、アレンは双子を二人とも、同じくらい愛している、ということになる。
「カティさんにとっては、嬉しいことだと思うよ。でも、アンヌ・マリーを永遠に眠らせておくわけにはいかないでしょ? それは卑怯だよ。それに、彼女が目覚めた時、事態が余計にこじれてしまう」
 と一応、忠告した。
「わかっている。だが、少なくとも数年。ぼくに時間をくれ。カティとじっくり向き合う時間を」
 どうしたものだろう。
 あたしがその企みに協力したら、それは結局、アンヌ・マリーを永眠させる結果になってしまうかも。
 ものすごくきつくて怖いお姉さんだけど、アンヌ・マリーがアレンを愛していることは伝わってくる。
 愛するあまり、なりふり構わず、姉から奪ったのだ。
 アレンもそれがわかっているから、アンヌ・マリーを拒絶できなかった。それから十年以上、共に暮らしてきたからには、深い情が育っているはず。
「二人ともいっぺんに面倒見る……というのは、無理なんだよね」
「それは、アンヌ・マリーが認めない」
「まあ、そうだろうね……」
「ぼくが怖いのは、アンヌ・マリーが思いつめたら、何をやらかすか、わからないという点だ。いや、それは、カティも同じだな。彼女がまさか、誘拐犯になって辺境に出てくるとは、思ってもみなかった。そんなことができる性格じゃないはずなのに」
「うーん、表れ方が違うだけで、気質は同じなのかも。思い込んだら命がけ、みたいなところ」
 アレンは苦笑した。
「そうだね。似ているのかもしれない」
 それから、視線を落として言う。
「ぼくが悪いんだ。最初に、アンヌ・マリーを拒絶しきれなかった。カティのことは、とうにあきらめたつもりだったのに。こうして彼女に会ったら、もう……再び失うということには、ぼくが耐えられそうにない」
 つい、胸が痛んだ。
 失うことには、ぼくが耐えられない、なんて。
 あたしも誰かに、そんな台詞を言ってもらいたい。親父だってもう、あたしより、ドナ・カイテルの方に比重を移しているし。
 だって親父は、あたしがエディと恋人同士になったと思い込んで、安心している気配がある。孫の顔を見られるのは、いつ頃かな、なんて言ったこともある。
 アレンは改めて、あたしを見る。
「カティを泣かせておけない。ぼくが守りたいんだ。助けてくれないだろうか」
 あたしは迷った。これは本来、彼ら三人の問題だ。
 でも、あたしは既に、首を突っ込んでしまった。どうするのが、一番正しいことなんだろう。
 というか、恋愛に『正しい解決策』なんてあるのか。
 そもそも、恋愛自体が、狂気に近い思い込みだろう。
 進化が作り上げた、強力な欲望。それがあるから、人類は熱心に繁殖活動してきたわけだ。
「わかった。帰るふりで、二人で一階に向かって。手段は、あたしに任せて」

 カティさんは、アレンとアンヌ・マリーが兵に送られて出て行った後も、じっとソファに座っていた。あたしも横に移り、どう慰めたものか迷いながら、言ってみる。
「カティさんがアレンを忘れられなかったの、わかる気がするよ。いい男だね」
 カティさんはようやく、口を開いた。
「ごめんなさい。わたしたちの争いに、あなたを巻き込んで。あなたは本当は、こんなことで煩わされる必要ないのに」
 その通りなんだけど、仕方ない。
「それはまあ、あなたもあたしの誘拐計画に巻き込まれたわけだから、お互いさま?」
 カティさんは、疲れた様子ではあるものの、くすりと笑った。
「あなたって、本当に偉いわ。そんなに若いのに、わたしをかばってくれて。わたしはだめね。アンヌ・マリーの言う通り、甘ったれの弱虫だわ」
 そう言われると、こちらが恥ずかしい。あたしはジェイクたちに守ってもらうために、彼らを辺境に呼び寄せてしまっている。本当に一人で頑張れるかと問われたら……とても無理だ。
「でも、会えてよかった。アレンの子供が持てるなら、それでわたし、生きていけると思うの」
 それもまた、ちょっと危ういかも。
 カティさんが今度は、子供にべったりしがみつくようになったら、子供が不幸だ。
 でも、人が何かにすがるのは、仕方ないのかな。ママを失った後のあたしは、親父にしがみついた。親父を守りたいとか思っても、それは表面的な理由で、結局は、親父に甘えたかっただけ。
 あたしも弱い。
 たぶん、自分一人で生きられる人間なんて、きっといない。もし、他人を必要としなくなったら、それはもう、人間ではないだろう。
 いったん席を外していたユージンが、戻ってきた。
「ジュン、アンヌ・マリーを途中で眠らせた。麻痺ガスだ。五階の医療室に運んである」
 あたしが頼んだ通り、うまくやってくれた。
「ありがとう」
 血相を変えたのは、カティさんだ。
「何ですって!? どういうこと!?」
「アレンに頼まれたんだ。あなたを連れて帰りたいから、アンヌ・マリーには、しばらく眠ってもらうって」
 連れ立って医療室へ行くと、メリッサが報告してきた。
「一時的に眠らせてあるだけです。冷凍睡眠装置に入れるなら、そのように準備します。三時間以内に決めていただけると、追加の麻酔を入れなくて済むので、助かりますが」
 アレンが医療ベッドの横に立ち、眠っている赤毛の美女を見下ろしていた。アンヌ・マリーも、眠っていれば静かなものだ。あたしに気付くと、アレンは疲れたように微笑む。
「もう引き返せない。目覚めたら、怒り狂うに決まっているからね。それは、数年先まで保留にするよ」
「保留にしたって、本質的解決じゃないけど」
「わかっている。その時までに、結論を出す。たとえば……半年ずつ、交互に一緒に暮らすとか」
 それくらいなら、アンヌ・マリーも仕方なく認めるかも。拒絶したら、アレンを永遠に失ってしまうと思えば。
 カティさんは震えていた。部屋の入口で固まったまま。アレンは振り向いて、カティさんの方に歩いていく。
 そして、有無を言わせず、がばっとカティさんを抱きしめた。
 あ、いいな。
 見ているあたしも、つい、顔が熱くなってしまう。
 それはメリッサも同じだったようで、うっとりした様子で、両手を握りしめている。もしかして、あたしの二倍か三倍の年齢でも、恋に恋する乙女のままだったりして。
「辛い思いをさせて、すまなかった。苦労させると思うが、一緒に来てくれないか?」
 アレンたちの組織は、アンヌ・マリーを頂点としてまとまっている。そこにカティさんを連れ帰るのでは、やはり、混乱が起きるだろう。
 アンヌ・マリーを慕っていたバイオロイドたちが、反逆とまではいかなくても、不服従の動きを見せるかもしれない。そこを他組織に付け込まれる、という可能性もある。
 でも、アレンはそれを乗り越えるつもりでいる。
 彼に任せてみよう。
 カティさんも、彼にしがみついて泣いていることだし。

 翌日、アレンはお茶の席で、あたしたちに話してくれた。双子の姉妹との出会いから、現在まで。
「最初はカティと付き合っていて、大学を卒業したら、結婚しようと思っていた。それが、大学生活の途中で、アンヌ・マリーの方から近づいてきたんだ。最初、カティのふりをして、ぼくの前に現れたんだよ。カティと同じ髪型にして、似たような服装で」
 うわあ、それはホラーだ。
「それまで、カティに妹がいることは知っていたけど、別の学部だったから偶然に会うこともなかったし、双子とは知らないままだった。カティも、妹のことには触れたくないようだったし。とにかく、アンヌ・マリーとの最初のデートの途中で、カティじゃないと気がついた。でも、その時は既に……何というか……手遅れで」
 つまり、肉体関係に陥ってしまってから、カティさんじゃないと気付いたわけか。アレンの驚愕と後悔が、まざまざ見えるような気がする。
「それからやむなく……何度か、カティに内緒で、アンヌ・マリーと会うことになってしまって……さすがに、これはまずいと思って、もう会わないと宣言したんだが……アンヌ・マリーに脅迫されたんだ。ぼくがカティと別れないなら、死ぬと言って」
 ますます怖い。
「まさかと思ったが、目の前で、すぱっと手首を切られた。恐ろしかったよ。二人とも、血まみれになってしまって。ぼくは止血しようとするし、アンヌ・マリーはそれに逆らうし」
 そういうのを、修羅場というのだろうな。
「カティと別れると誓って、ようやく手当することができた。幸い、病院に行くほどの怪我ではなかったから、他人に知られる騒ぎにならないで済んだ」
 あたしは呆れた。アレンのお人よしに。
「そんなの狂言自殺だよ! アンヌ・マリーは、自分で死ぬような性格じゃないでしょう!」
「それは、ぼくにもわかった。でも、彼女は何度でも、自分を傷つけるだろうと思った。ぼくがカティと別れるまで。そこまで必死になる娘を、とても見捨てられなかった。だから、カティと別れたんだ」
 すごい。まさしく体当たりで、姉からアレンを奪ったわけだ。
 あたしなら……できない。そこまでは、とても。
 だって、恋愛なんて、人生のごく一部にすぎないもの。人によっては、ものすごく大きな一部だろうとは思うけど。
 恋愛は……なくても生きられる。他に、夢中になれるものがあれば。  
「カティは誰にでも好かれる優等生だったから、ぼくが去っても、他の男と幸せになれると思った。だから自分は、アンヌ・マリーを幸せにしようと決心したんだ。他の男では、アンヌ・マリーのわがままを受け止められない。いや、彼女はわがままというより、意志が強くて、自分の考えを持っているだけなんだが。それは市民社会では、わがまま、身勝手と言われてしまう資質だからね」
 困ったものだ。アレンは包容力がありすぎる。だから、アンヌ・マリーに見込まれてしまったのだろう。
「しかし辺境では、それはプラスに働いた。アンヌ・マリーは優秀な統率者だったよ。ぼくは自分たちの組織を育てることに必死だったので、市民社会を振り返る余裕がなかった。カティがあれからずっと苦しんでいたなんて、ユージンから連絡を受けるまで、知らなかったんだ」
 カティさんは白いドレスを着て、アレンの横にぴったり張りついている。頬は薔薇色に照り輝いて、緑の瞳も濡れたような輝き。
 雨の後に開いた花のようで、瑞々しく、美しい。たった一晩で、見違えるほど艶麗になった。この姿を見てしまったら、もう、
「おめでとう。アレンと幸せにね」
 と祝福するしか、ない。
 カティさんの粘り勝ちだ。ずっとあきらめずに思い続けたことで、こういう結果になったのだ。
「ありがとう。ごめんなさい。せっかく秘書にしてもらったのに、何もしないうちに離れることになって」
「そんなこと、いいから。それより、アンヌ・マリーの代りに組織に入る方が大変だよ」
「それは、何とかやってみるわ」
 アレンが一緒なら、何とかなるだろう。助けが必要な時は、相談してくれればいい。
 あたしはこっそり、メリッサに聞いてみた。
「ねえ、ああいう大恋愛、したことある?」
 メリッサはため息をつく。
「残念ながら、ありませんわ。小恋愛さえ、ありません。そんなことがあったら、中央で平凡な母親になっていたかも」
 やはり、夢見る乙女だ。
「ユージンは?」
「人に聞くなら、まず自分が打ち明けたらどうだ?」
 ふん。
「あたしだって、そんな経験、ないよ。あったら、こんなところに来ていないよ」
 子供の頃、空手道場の先輩に憧れたり、友達のリエラのお兄さんに憧れたりはしたけれど、それはみんな、淡い片思い。会わなくなったら、自然に忘れてしまった。
 まだ忘れていない片思いもあるけど、それはたぶん、無理だから。
 向こうは、あたしを子供としか思っていない。それに、忘れていない人がいる。あたしのことを守ってはくれるけれど、それは、義理堅いせい。
 仕方ない。あたしは、戦う人生を選んだのだ。
「あら、ジュンさまには、エディ・フレイザーという彼がいるはずでは?」
 メリッサまで、それを言うか。
「違うよ。エディは船の仲間。周囲にボーイフレンドだと言ったこともあるけど、それは、そう言っておけば、余計なトラブルを招かなくて済むから」
「あら、本当にそれだけなんですか?」
「それだけだよ」
 納得されていない気はしたけれど、どうでもいい。とにかく、この件は落着した。数年後にまたもめるようなら、その時のこと。
 カティさんがうらやましくて、焦げ付くような気がしたけれど、それは忘れよう。
 あたしには、この都市の総督という役目がある。まずは、それに集中しなければ。

   9

「みんな、行ってしまったよ。何だか、すっかり気が抜けてしまって。急に、二十歳くらい老け込んだような気がする」
 わたしは通画面の相手に向かって、愚痴をこぼした。
「まさか、こんなことになるとはなあ」
 ドナ・カイテルは相変わらず冷ややかで、毅然としている。それが、彼女のいいところだ。
「娘が父親離れするのは、当然でしょ。これまで、べったりしすぎだったのよ。あなたもいい加減、子離れなさい」
 その通りだ。
 しかし、ジュンばかりでなく、ジェイクもルークもエイジもエディも、みんないなくなってしまって。親友の バシムは残ってくれているが、彼には妻も息子たちもいる。
「仕事も取り上げられてしまって、することがなくてね」
 と苦笑した。
 安全対策だと言われ、わたしとバシムはまだ、軍基地に軟禁されたままだ。仕事の再会が許されるのは、いつになることか。
「どうせ軟禁されているのだったら、どこかの島にでも行かせてもらったらどう? 他に人のいない離れ小島なら、司法局も警備しやすいでしょう。南の海で釣りでもダイビングでもして、気晴らしすれば。そのうちまた、気力が戻ってくるわよ。娘が巣立ってしまった、空の巣症候群なんだから」
 なるほど、そうか。
「軟禁場所は、ここでなくてもいいんだな」
 と気がついた。さすが、ドナは、わたしと違う視点を持っている。
「一週間ごとに、場所を変えてもらってもいいんじゃなくて?」
「そうだな。交渉してみよう」
 ドナは刑務所にいるが、快適な個室をもらっているし、そこで好きな勉強をしているようだ。
 わたしを誘拐し、記憶を操作した罪で逮捕されたが(ジュンが彼女を捕え、司法局に引き渡したのだ!)、くじけてはいない。胸にまだ闘志を秘めて、何か計画している。たくましい。
 わたしは彼女と話すと、何か励まされる。わたし本来の記憶を封じられていた間、彼女と暮らしていたのだ。
 その時は、自分たちは夫婦なのだと信じていた。今もまだ、その時の感覚が残っている。もしかしたら、彼女と結婚するという人生も有り得たのだ。同じ大学にいたのだから。
「あの子はマリカの娘だから、普通の人生では収まらなくて、当然なんだろうな。バシムにも言われたよ。くよくよ心配せず、応援だけしてやれと」
 そういう内輪の話も、ドナは聞いてくれるし、冷淡な顔ながら、わたしの背中を押してくれる。
「辛気くさいわね。そんな年寄りみたいな言い方、しないでちょうだい。あなたもわたしも、まだ若いのよ」
 そうだ。人生の残り時間はまだある。わたしもドナも、まだ五十歳前。
「あなたはこれから、若い女の子と付き合うことだってできるんだし」
「いや、それはやめておくよ。ジュンと重なってしまって、保護者の気分になってしまう。それより、きみの方がいい。きみが出てきたら、温泉にでも行こうか」
「ほら、辛気くさい。わたしは賑やかな場所で遊びたいわ」
「それじゃあ、近くに温泉のある都市でどうだ?」
「いいわ、観光ガイドで探しておいてちょうだい」
 こういう他愛ない話をするのが、わたしの救いだった。ジュンは遠い戦場にいる。わたしには、何もしてやれない。だが、それでも心配することは止められない。親というのは、一生、親だ。
 それは、わたしの両親も同じだろうが。
 マリカが死んだ時、それまで絶縁していた両親が、はるばる会いにきた。そして、ジュンを引き取りたいと言った。これまで可愛がってやれなかった分、これから償いたいと。
 だが、自分の悲しみで手一杯だったわたしは、それを手ひどく撥ねつけた。ジュンと会うことすら認めず、追い返した。
 いま思うと、間違っていたかもしれない。
 ジュンを祖父母に預け、穏やかに暮らさせるという道もあった。
 両親と弟妹がマリカとの結婚に反対したのは、わたしの幸福を願ってのことだ。だが、わたしは親の心配を振り捨てた。若かったのだ。
 今ならもしかして、和解できるだろうか。
 ジュンが巣立った空虚のおかげで、ようやく、両親の痛みも想像できるようになった。手紙を書いてみるくらいは、いいかもしれない。うまくいけば、それが面会に通じるかもしれないし。
 ドナならおそらく、何でもやってみろと言うだろう。
 彼女がいずれ刑期を終えて、自由の身になったら、そうしたら……残る人生、一緒に暮らそうと言ったら、彼女は何と答えるだろう?  

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