レディランサー ティエン編

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1 エディ

 つい、顔がゆるむ。
 にやけてはみっともないと思うが、やはりにやける。
 ああ、この世に生まれてきてよかった。
 そして、男でよかった。
 ジュンがぼくの左腕に右腕をからめ、寄り添って歩いてくれるのだ。柔らかい弾力が、繰り返しぼくの腕に押し付けられる。芯のあるマシュマロというか、熟れかけの果物というか、何ともいえない心地よさ。短い黒髪からは、オレンジのような甘い香りがする。
 季節は初冬。
 小惑星都市《キュテーラ》の繁華街には、クリスマスの飾りが溢れていた。これまで幾度も人恋しい冬を過ごしてきたが、今年はほかほかと温かい。まだ恋人の地位には遠いが、少なくとも、ジュン本人に相棒として認められたのだから。
「ねえ、あの店、新しくできたんじゃない?」
「この喫茶店、まだ入ったことない。試してみよ」
「射撃ゲームで、負けた方が食事をおごるの、どう?」
 ジュンにせがまれるまま、繁華街を遊び歩いた。もう、他の熱烈カップルを見ても、苦い羨望を抱くことはない。それどころか、世界に向かって自慢したいほどだ。
 飾り気こそないが、白百合のごとき美少女が、ぼくを親友扱いしてくれる。
 輸送船《エオス》の先輩たちには、奴隷だの番犬だのと笑われ、気の毒がられているが、そんなことはどうでもいい。ぼくにとっては、命がけで手に入れた地位なのだから。
 もちろん、こういう上陸休暇の時には、親父さんもジュンも司法局の警備付きだが、担当の捜査官たちは遠巻きに配置しているだけなので、ほとんどの時間、彼らの視線を忘れていられる。
 ジュンがぼくの右腕にすがりつかないのは、いざという時、ぼくが腰に隠した銃を素早く抜けるようにという配慮だが、そんな危険はまずないだろう。道を行く市民たちは、都市の警備システムに繰り返しスキャンされるので、火器を隠し持つことはまず不可能だ。
 過去に、親父さんの旧友が、体内に爆発物を仕掛けられた事件はあるが……心配を始めるときりがないので、
(何か起きた時は、起きた時)
 というジュンの覚悟を、ぼくも共有するようになっている。
「エディ、これ試着してみて」
 自分は質素な普段着のくせに、ジュンはぼくに服を買ってくれようとする。今回は、青いジャケットだ。ぼくが遠慮すると、怒った顔をしてみせる。
「これくらい、買わせてくれてもいいでしょ! 普段、世話になってるのは、あたしの方なんだから!」
 ぼくが有り難く贈り物を受け取ると、機嫌が直る。ぼくが食事代を払ったら(射撃ゲームでは、ぼくが負けた。手加減は、ちょっぴりしかしていない)、次は、ジュンがお茶代を払うという具合だった。
 ぼくはジュンより八つも年上なのだから、もっと甘えてほしいのだが、ジュンとしては、
(あたしの方が《エオス》では先輩)
 という意識なのだろう。
 こうして二人で歩いているのも、ジュンの感覚ではデートではなく、番犬に休日のお供を命じているにすぎない。それでも、ぼくは十分に幸せだった。他に、ジュンが親しく連れ歩く男はいないのだから。
(くそ、いいなあ)
(見せつけやがって)
 通り過ぎる独り者の男たちが、こちらに悔しげな視線を向けてくるのも、密かな快感だ。パトロール艦《トリスタン》が吹き飛んだ時は、自分の人生も終わったと感じたが。
 クレール艦長、許してくれますよね。ぼくもいつかは死ぬのですから、その時まで、人生を最大限に楽しんでも。
 ところが、ジュンの足がぴたりと止まった。何を注視しているのかは、すぐわかる。前方の歩道上で、男同士が熱烈なキスをしているからだ。半ば街路樹に隠れる格好だが、ごつい手で互いの腰を抱いたり、腕を撫でたり、角度を変えて、また顔をくっつけたりしている。
 悪寒が走った。何という、恥知らずな。
 美少年同士ならともかく(いや、それだって問題ありだが)、髭剃り痕も明らかな、三十過ぎの暑苦しい男たちが、公道上でベタベタするとは。
 通行人はみな、見ないふりで横を通り過ぎていくが、こんなおぞましい光景、出くわしただけで災難だ。いちゃつくなとは言わないが、少なくとも、他人に見えない所でするべきだろう。
「ジュン、あっちを通ろう」
 ぼくは腕を組んだままのジュンを、違う方向へ誘導したが、ジュンは感嘆の様子である。
「初めて見た。あんな熱烈なの。喧嘩して、仲直りしたばかりなのかなあ。それとも、長いこと離れていた後だとか」
 その声には嫌悪の気配はなく、むしろ興味津々の様子。こちらは冷や汗がにじむ。
「どっちでもいいよ。早く行こう」
「ちょっと、引っ張らないで」
「あ、ごめん」
 するとジュンは、笑いを含む声で言うではないか。
「エディって、ほんと、始末の悪いマッチョ野郎だよね」

 しばし、全機能が停止してしまった。
 ぼくが、マッチョ野郎!?
 つまり、時代錯誤の男性優位主義者!?
 ジュンのために毎日料理をし、部屋に花を飾り、通信講座のレポートを手伝い、言われることには何でも従っている、このぼくが!?

 あまりのことに唖然としていると、ジュンはぼくを歩かせながら、からかう声音で言う。
「あんた、自分は謙虚で柔軟で、物分かりがいい男だと思ってるでしょ。とんでもない。ほんとは自信家で、独善的で、男尊女卑。自分は強くて優秀だと思ってるから、みそっかすのあたしに優しくできるんだよね。さっきだって、ゲームの最後で手加減したでしょ」
 いや、それは。
 だって、男と女では体力が違うから。
「ぼくは、きみを尊敬してるよ」
 やっと十六歳になったばかりなのに、男ばかりの輸送船で、一人前に働いているのだから。親父さんだって先輩たちだって、内心では、ジュンの強さを畏れている。
 ジュンはふっと笑った。
「それはどうも。自分より劣っているから、安心して優しくできるんだよね」
 そんな。ぼくがジュンに勝っているのは、身長と体力だけではないか。
 焦って口をぱくぱくしていると、ジュンはさらりと言う。
「でも、あたし、あんたが好きだから。あんたが頑固者でも、男尊女卑でも構わない」
 ぼくは混乱した。思いきりけなされたのに、好き!? 女心がわからない。誰か、ジュンの気持ちを解説してくれ。
「ねえ、公園でクレープ食べよう」
 ジュンに引きずられて広い公園に入りながら、ぼくは抵抗を試みた。
「ねえ、ジュン、きみがぼくを始末の悪い頑固者と思っているなら、そこは改めるよ。どこが悪いのか、具体的に言ってくれたら」
 するとジュンは、輝く黒い瞳でぼくを見上げ、にっこりする。
「ううん、あんたはそのままでいいの。ジェイクやルークみたいに、あっちこっちで女遊びしなくていいからね」
 そこか。ジュンは潔癖だから、ぼくが『死んだ女性に操を立てている』と思っていたいのだ。
 それは誤解なのだが、ぼくはあえて、その誤解を放置してきた。そうすれば、ジュンが安心して、ぼくと腕を組んでくれるから。
 その時、ジュンがまた何かを見つけ、足を止めた。そして、次の瞬間には、ぼくの腕を振り捨てて走りだしていた。
 何事、と思って前方を見渡したら、淡いピンクのワンピースを着た女性が、芝生の斜面に倒れ込んでいる。
 しかも、若い男が仁王立ちになって、その女性を怒鳴りつけている。ぼくは慌ててジュンを追いながら、その罵声の一部を耳にした。
「この売女、よくも二股かけやがって!! バレずに済むと思ってたのか!! 俺をなめるなよ!!」
 どうやら痴話喧嘩らしいが、男が女を殴ったらおしまいである。
 その場に駆けつけたジュンは、後ろからいきなり、その男の股間を蹴り上げた。もちろん全力ではないが、十分威力のある蹴りである。
 男はギャッと叫んで倒れ込み、転がって悶絶した。
 こんな男はどうでもいいが、心配なのはジュンだ。救急車騒ぎ、警察沙汰となったらまずい。空手の有段者が暴力を振るったら、凶器を使用したとみなされる。ぼくらを見守っている護衛チームは、どう判断するだろうか。
「何だよ、何なんだよ」
 男は苦痛で半泣きになりながら、ジュンに抗議してきた。顔を見れば、まだ大学生くらいの若さである。女性との交際経験が浅く、余裕がないのだろう。ジュンはひるまず、まっすぐな怒りで叫んだ。
「見てたぞ!! 女を殴ったな!! そんなことする奴は、女と付き合う資格なんかない!! もう一度蹴られないうちに、さっさと失せろ!!」
 分が悪いと思ったのか、哀れな青年は身をよじりながら、ひょこひょこと逃げ去っていった。ぼくの方まで、心が痛くなる。これが彼にとって、いい教訓になればいいのだが。
 ジュンは、倒れていた女性に手を貸した。
「大丈夫ですか? 医者に行きますか?」
 芝生の上で上半身を起こしたのは、ソバージュにした金髪ボブの、若い女性だった。白い肌をした顔の半面が、赤く腫れつつある。
「いえ、大丈夫です……びっくりしただけで……」
 ぼくは近くの水道に走り、ハンカチを濡らしてきて、彼女の顔を冷やした。その間に、ジュンが事情を聞いている。
 浮気だの二股だのというのは彼の誤解らしいのだが、しかし、前にも些細なことで殴られたことがあるらしい。一人で家に帰るのは怖い、と彼女は言う。両親は旅行中で留守だから、彼が家の周囲で待ち伏せしているかもしれないと。
「じゃあ、友達の所にでも避難していればいい」
 とジュンはあっさり言う。
「ええ、でも、友達はみんな、彼との交際に反対で……こんな顔見せたら、何て言われるか……」
「そりゃ、反対するのが当然ですよ。あんな馬鹿とは、さっさと別れた方がいい」
 すると、女性はぼそぼそ言う。悪い人ではないんです、と。
「子供の頃に、ご両親が離婚したせいで、ちょっと疑い深くなっているだけで……いつもは、とても優しいんです」
 このカップル、互いに依存症になっているのかもしれない。世間には、よくあることだ。
 しかしジュンには、そういう弱者の心理は理解の外らしい。あくまでも明快に言う。
「もし付きまとわれたら、警察に通報すればいいんですよ。気をつけてお帰りなさい」
 ジュンから見れば、自分より年上の女性である。急場さえ救えば、あとは関係ないと思ったのだろう。しかし、彼女はジュンにすがりついた。
「すみません。もう少し、一緒にいてくれませんか。わたし、どうしたらいいのか……やっぱり、友達が言うように、彼とは別れるべきなんでしょうか」
 そこでぼくがつい、余計なことを言ってしまった。
「ジュン、ぼくらが離れたら、あの男、戻ってくるかもしれない」
 この様子では、すっぱり別れられるかどうか、心もとない。そこでジュンは、タクシーを呼ぶよう、ぼくに指示した。
「あたしたちが家まで送り届けますから、落ち着いたら、友達に来てもらえばいい」
 それが失敗だった。痛恨の大失敗である。ぼくらは結局、彼女の暮らすマンションの部屋に招き入れられ、紅茶とお菓子でもてなされたのだが、その紅茶に何かが入っていたのだ。ぼくらを昏睡状態に陥れる何かが。

2 ジェイク

 俺はガールフレンドの一人、シギリヤの部屋にいた。緑の庭に囲まれた、ゆったりした貸家の一室である。
 《エオス》が母港の桟橋に停泊する上陸休暇の間、この部屋で過ごすことが多かった。彼女はおっとりして女らしく、料理好きで、俺にうるさいことを言わないので、居心地がいい。
 もしも結婚してくれ、他の港にいる他の女たちと別れてくれ、と言うような女だったら、俺はここには来ない。
 熱烈に愛していると言ったら嘘になるが、船乗りが付き合うには、申し分のない女である。
 シギリヤも俺が航行で留守の時は、他の男と付き合っているようだ。これだけ熟れた女が、一年の大半を男なしで過ごすのは無理だろう。
 ルークとエイジも今頃は、それぞれ馴染みの女の元にいるはずだ。あいつらも当分、人生の執行猶予を楽しむつもりでいる。いずれは結婚して、船乗りを辞めることになるだろうが、まだそれまでは……
 遅い午後、俺はサンルームの寝椅子でうとうとしながら、シギリヤが台所で立ち働く物音を聞いていた。何か洗う音、炒める音、鍋や皿の触れ合う音。
 いずれ、夕食だと呼ばれるだろう。そうしたらワインを開けて、二人で乾杯する。これが、人生の幸福というものだ……
 ところが、その平和な物音がやんだ。ぱたぱた駆けてくる足音。
「ジェイク、司法局の人が表に来ているわ。あなたのお迎えですって」
 俺はがばりと起き上がり、手近の通話画面に出た。いきなり玄関に出ないのは、身についた用心のためだ。親父さんに何かあったか。今日は相棒のバシムと一緒に、何かの会合に出ているはずだが。
 玄関前を映す画面には、黒髪の若い男が現れ、堅苦しく挨拶してきた。
「ミスター・オウエン、休暇中にお邪魔して失礼します。司法局のバルト捜査官です。事件が発生しましたので、一緒においでいただけないでしょうか」
「何があったんだ」
「誘拐です。ミス・ヤザキとミスター・フレイザーが」
 あの二人。
 護衛チームが付いていながら、なんでまた。
 とにかく司法局に照会して、バルト捜査官の身元は確認できた。事件発生は本当だ。
「シギリヤ、悪いな。夕食は無理そうだ。落ち着いたら、連絡する」
 長い赤毛を一つに束ねた彼女にキスしてから、俺は上着と荷物を取り上げた。着替えなどどうでもいいが、荷物の中には、専用ケースに納めた銃が入っている。
 一般市民には許されない火器の携帯を、俺たち《エオス》のクルーは、特例として認められていた。我々が親父さんと呼んでいる人物――市民社会の英雄である翔・ダグラス・矢崎船長が、違法組織の〝連合〟に付け狙われる身だからだ。銃など持っていても気休めに過ぎないが、何もないよりはいい。
「解決したら、またね」
 エプロン姿のシギリヤは、曇った微笑みで見送ってくれた。とりすがったり、あれこれ尋ねたりしないところが、いい女だ。俺は玄関から出て、待っていた車に乗り込む。
「護衛チームは、何をやってたんだ?」
「遠巻きに付いていただけです。せっかくのデートですから、お二人の邪魔はしませんでした」
 ジュンとしては別に、デートとは思っていなかったはずだ。あいつはまだ、エディを便利な手下と思っている。他人から見れば、似合いのカップルなのに。
 昼間、二人は公園で知り合った女の部屋に上がり込んだが(なぜそういう、不用心な真似をする!!)、その後、二時間も動きがない。不審に思った護衛たちが、そのマンションの部屋を訪問したところ、中はもぬけの空だったという。
 ただ、ジュンとエディの通話端末だけが、ダミー装置に嵌められて残されていた。本人の腕から外されれば、外されたという情報が司法局に伝わるはずだが、それが細工され、通常の位置情報や身体情報だけが発信されていたのだ。
「マンションの管理システムが乗っ取られて、偽情報を出していたんです。犯人は二人を貨物エレベーターで地階へ降ろして、地下のサービストンネル経由で脱出した様子です。マンションの管理用アンドロイドが一体、管理から外されて使用されたようで。軍に協力を依頼しました。この四、五時間以内に出航した船は、全て調査してもらいます。これから出航する船は、軍の臨検が済まない限り動かせません」
   本人たちが街を自由に歩けば、万全の警備をするのは難しい。立ち寄る場所は多く、すれ違う者も限りない。全てを疑ったら、身動きがとれなくなるのはわかる。
 だが、親父さんの事件があったばかりで、司法局も教訓を得たはずではなかったか。
 都市の地下にはライフラインや物資輸送などのために、公共のトンネル網が張り巡らされている。それを密かに利用し、しかも利用の痕跡を行政側の記録から消しているということは、実力のある違法組織が控えているということだ。
 さもなければ、辺境の懸賞金システムの統括者である、グリフィン本人が。

 繁華街にある司法局の支局ビルへ到着すると、じきに親父さんとバシム、ルークとエイジも案内されてやってきた。
「申し訳ありません」
 俺は副長として、親父さんに謝った。
「エディが付いていればいいと思って、油断してました」
 親父さんは沈鬱な顔だったが、まだ冷静だった。
「いや、ずっと見張っているわけにもいかない。よく知らない相手の部屋へ、のこのこ入り込んだジュンが悪い」
 聞いたところでは、犯人の女、公園で自分を男に殴らせる芝居をして、ジュンの同情を引いたらしい。男の方は、その女に報酬をもらって演技しただけの、ただの学生だという。好きな男の気を引くための演技、と説明されたそうだ。
「エディがまた、ジュンに逆らえない奴だからな」
 とルークがため息をつく。
「軍が発見してくれることを祈ろう」
 と眉を曇らせたエイジが言う。
「まだ《キュテーラ》内にいるのなら、司法局が発見してくれるかもしれない」
 と、あえて希望的観測を口にするバシム。
 しかし、片田舎の中継ステーションとはいえ、倉庫や空きビル、無人の家屋なども含めたら、膨大な隠れ場所がある。商業活動もあるし、旅客もいる。数日くらいは船の出航を止められるとしても、そう長いことは無理だ。
(無事でいろよ)
 そう祈るしかなかった。グリフィンが巨額の懸賞金をかけているのは、親父さんだ。親父さんをおびき寄せる目的なら、二人の命は無事だ。
 しかし、ジュンの場合は女の子だから、もしも誘拐犯が、何かよからぬことを考えたら……
 かっと体温が上がる気がして、思わず頭を振った。
 落ち着け。余計な想像をしても、役には立たない。
「とりあえず、食事にしよう。何か料理を取る」
 とバシムが言った。窓の外は、もう夜だ。
 俺たちは、このまま司法局ビルに軟禁されるだろう。既に、軍と司法局が動いている。俺たちが迂闊に飛び出して、また誰か誘拐されたら厄介だと、彼らは考えるだろう。司法局としては、市民社会の英雄である、親父さんの身柄を確保しておくのが最優先だ。
「いずれ、犯人から何かの要求があるでしょう。それに応じて、作戦を考えます」
 説明に来た支局長が、俺たちに言った。そうすれば、それに乗るにしろ、拒絶するにしろ、追っていく手掛かりになる。
(馬鹿め)
 と俺は内心で罵っていた。ジュンのやつ、余計なお節介をするからだ。殴られている女なんか、放っておいてよかった。本人が望めば、いくらでも助けを呼べたのだから。

3 ジュン

 あたしが目を覚ましたのは、知らない部屋のベッドの上だった。
(どこのホテルに泊まったんだっけ……)
 と考えてから、エディと買い物したこと、男性アベックの濃厚ラブシーンにぶつかったこと、公園でボーイフレンドに殴られた女性を助けたことを思い出した。
 その女性の住む部屋に通されて、紅茶を飲んで、それから……
「くそっ!!」
 やられた。ここはどこだ。辺境に向かう船の中か。
 頭は重かったが、気分は悪くない。少し動けば、あちこちきしむ感じも、平常に戻るだろう。
 あたしは元の服のまま、靴と上着だけ脱がされて、ベッドに入れられていた。それでも、何か厄介なものを体内に入れられた可能性はある。発信器とか、遠隔操作で破裂させられる猛毒カプセルとか。
 壁の通話画面でニュース番組を見ようとしたが、何も反応しなかった。当然、通話もできない。この部屋は、外部のシステムから隔離されているようだ。
 ベッドの下に置かれていたショートブーツを履き、付属の浴室で洗面を済ませ、怒りの勢いで寝室から出る扉を開けたら、隣は居間らしき部屋だった。灰色の皮膚をしたアンドロイド侍女がいて、アルトの声で淡々と言う。
「おはようございます、ジュンさま。お食事は、いつでも出せます」
 食欲なんかない、と言いたいところだが、実際には空腹だった。あれから半日? それとも三日?
「食べる」
 とだけ言い、どっかりテーブル席に着いた。騒いでも手遅れだ。まずはしっかり食べ、軽い運動をして体調を整え、いつでも動ける態勢でいること。
 誘拐なんて、珍しくもない。違法組織のボスに捕まったこともある。さらわれた親父を、辺境まで出向いて救い出したこともある。どちらの場合も、アイリスという強力な救い主がいたからなんだけど。
 今回、アイリスは、あたしとエディの誘拐事件を察知しているだろうか。前のように、助けの手を伸ばしてくれるだろうか。
「エディはどこ? あたしと一緒にさらわれてきた、金髪の青年だけど?」
 食事を運んできた別のアンドロイド侍女に尋ねたが、灰色の顔には表情はない。
「存じません」
 とプログラム通りに言うだけ。
 もちろん、どこかに人間の命令者がいるはずだ。あの、弱々しい演技をしていた金髪女も。
 でも、あたしはこの続き部屋から出られないだろう。食事の搬入で扉が開いた時に確認したが、通路には武装したアンドロイド兵士が立っていた。
 ここはたぶん、船の中。
 船が目的地に着いたら、誰かが説明しにやってくるはず。たぶん、あたしとエディを人質にして、親父を呼び出すという計画だろう。
 でも、市民社会の重要人物である親父の身柄は、今頃、軍と司法局にしっかり守られているはず。だから、あたしは自分とエディのことだけ心配すればいい。親父はまさか、厳重な警護をかいくぐって辺境に飛び出したりしないはずだ……やりかねないけど。
 もういい歳なんだから、無理はしないでよね。人間、五十歳にもなったら、年寄りのうち。親父はあと数年で、年寄りの仲間入りでしょ。
 それにしても。
(ああ、あたしって馬鹿)
 なんでこう、お調子者なんだろう。青臭い正義感を振り回して、痴話喧嘩になんか割って入って。
 おかげで、またしても、エディを巻き添えにしてしまった。あたし一人のことなら、誘拐されても殺されても、自業自得だとあきらめられるのに。

4 ジェイク

 明け方、はっとして目を覚ました。
 夢か、今のは。
 ジュンが泣いて、助けを求めていた。今のジュンというより、子供の頃のジュンかもしれない。髪を長くして、頭の両脇で、赤いリボンで結んでいた頃。
 《エオス》が母港に戻ると、おふくろさんと一緒に、親父さんを迎えに来ていた。俺が頭を撫でようとすると、さっと引っ込んで、おふくろさんのスカートに隠れたりして。そのくせ、またこっそり顔を出して、こっちを観察していたりする。
 その頃の小さなジュンが、どこかでしくしく泣いていたのだ。声は聞こえるのだが、迷路のような壁に隔てられていて、なかなか行き着けない。角を曲がっても曲がっても、ジュンの所に辿り着けない。どうやら向こうも、泣きながら、さまよい歩いているらしいのだ。
 じっとしていろ、馬鹿。
 迷子になった時は、おとなしく迎えを待つのが基本だろ。
 俺が行くから、動くんじゃない。
 それなのに、ジュンの気配は薄闇の彼方に消えていってしまう……

 正夢か、これは。
 俺の潜在意識が、夢を見せて警告しているのか。こちらから動かない限り、永遠にジュンを見失うと。
 俺はベッドから降り、熱いシャワーを浴びて、頭をはっきりさせた。
 考えろ。何か方法はないのか。
 こうやって軟禁されたまま待っていたところで、どうせ軍も司法局も、役に立つ情報など持ってこないだろう。奴らは結局、親父さんまで失う危険を冒したくないだけだ。
 違法都市の情報屋に当たるか。あるいはいっそ、最高幹部会に取引を持ちかけるか。親父さんの身柄と、ジュン・エディを交換すると。そこで何かトリックを使って、三人とも奪回できれば……いや、それでは逃げ道がない……
 そこまで考えて、がんと殴られたようなショックを受けた。
 いるではないか。一人だけ、辺境で、助けを求められる相手が。
 よくも今まで、ころっと忘れていたな。思い出したくない相手だったからか。
 ネピア。
 ハンター時代の相棒。
 というより、俺が彼女の助手だったのだ。対外的な交渉の時は、ドスの効く男を前面に立てたいと望まれて。
 俺は、中身はともかく、外見だけはふてぶてしい大男だったから、ナンパ男を追い払ったり、小悪党を脅したりするには、丁度いい連れだったのだ。
 あいつと一緒に辺境を飛び回っていたのは、わずか二年ほど。だが、軍時代より、はるかに濃密な冒険の日々だった。とんでもない怪物や、常識外れの事件にもぶつかった。
 もっとも、そういう冒険の日々がいつまでも続くと思っていたのは俺だけで、あいつには別の予定があったらしい。ある日、突然言われた。パートナーを解消しようと。
『ジェイク、あなたには色々と借りがあるから、いつかはそれを返すわ。将来、もし何かで困ることがあったら、わたしを呼んで。その一度だけ、役に立つから』
 借りって何だよ、借りって。
 何度も命を助けられたのは、俺の方だろうが。
 だいたい、なんでハンターを辞めて、一人で消えなきゃならなかったんだ。俺には何も説明しないで、勝手に立ち去りやがって。
 あれから何年だ。
 あいつはどこにいて、何をしている。
 そもそも、生きているのか。本当に、役に立ってくれるのか。たかが小娘と小僧を助けるために、最高幹部会を敵に回してくれるとでも?
 だが、それでも、何かを口にする時には、それなりの覚悟を決めている女だった。何も期待せず、教えられた連絡方法だけ試してみよう。それに、もしかしたら、あいつの方が、俺の助けを必要としているかもしれないのだから。

5 エディ

 

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 麻酔による眠りから目覚めて四日間、アンドロイド侍女とアンドロイド兵しか見なかった。彼らは命令されたこと以外何もできないから、
「ジュンはどうした。どこにいるんだ」
 とぼくが幾度尋ねても、一切答えることはない。ただ、ぼくの船室に三度の食事を運んできたり、室内を掃除をしたりするだけだ。
 外部への通信はもちろん不可能で、一般のニュース番組を見ることもできず、ぼくは虚しく閉じ込められたままだった。
 できることといったら、腹筋、腕立て伏せ、スクワット。そして、空手の型の稽古。
 動きがあったのは、五日目である。
 船が速度を調整した後、他の船とエアロックを接続する、わずかな振動を感じた。船乗りでなければわからない、かすかな変化だ。そして、向こうの船から誰か乗り込んできたらしい。
 通路への扉が開いた時、そこにいたのは、見知らぬ男だった。左右を屈強なアンドロイド兵士に守らせつつ、ぼくをじろじろ検分する。
「ようこそ、エディ・フレイザー君。元気そうで、何よりだ」
 それは中背で、痩せ型の中年男だった。陰気が服を着たような感じ、と言えばいいか。
 ぺたりと撫でつけた黒髪と、眠そうな瞼の下の灰色の目、細い鼻、こけた頬、薄い唇。何が楽しくて生きているのだろう、と思わせる、暗くて湿った雰囲気をまとっている。
「わたしはハキムという。きみの世話係のようなものだ」
 すると、誘拐の黒幕ではなく、現場の指揮官か。
「ジュンはどこだ」
 ぼくが真っ先に尋ねると、ハキムという男は、いやらしくにんまりする。
「安心したまえ。彼女は賓客として、丁重にもてなされている。無事で済まないのは、きみの方でね」
 えっ?
「きみは、わたしのものになったのだよ」
 ぼくがきょとんとしていると、ハキムは哀れむような笑みを浮かべて言う。
「ジュン・ヤザキ誘拐の報酬として、わたしに払い下げられたのだ。わたしの主人は、きみのことなど目に入っていないのでね。きみを煮て喰おうが焼いて喰おうが、わたしの自由というわけだ」
 何だって。
 ぼくが報酬とは……まさか。
 おぞましい予感で、全身に鳥肌が立った。過去に幾度か、こういう男に口説かれたことがある。もちろん、必死で断り、ダッシュで逃げた。相手に悪意がなくても、そういう目で見られるだけで寒気がする。
 だが、今は自分のことより、ジュンが先。
「ジュンはどうなる。誰がジュンを誘拐させたんだ」
「彼女はわたしの主人が、最高幹部会に引き渡す。その先は、わたしには関係ない。きみはわたしの元で、ペットになるのだよ。可愛いペットにね」
 最悪の事態だ。最高幹部会が関わっていることなら、誰もジュンを助けられない。
 そしてまた、ぼくを助けてくれる者もいない。ここはもう辺境の宇宙だ。
 灰色の顔をしたアンドロイド兵士が、左右からぼくの腕を取って、がっしりと固定する。ハキムはぼくの前に立ち、ひんやりと湿った掌をぼくの頬に当ててきた。
「いいねえ。若い肌はいい。健康で、清潔で」
 その指先がぼくの喉をたどって下り、シャツの下の皮膚を探る。こちらは、触れられた皮膚がひきつりそうだ。
「この筋肉の張り。素晴らしい。骨格が端正だから、筋肉の付き方も美しい。後で全身、よく眺めさせてもらおう」
 改めて、悪寒が走った。これまでも、何人もの青年や少年を餌食にしてきたのだろう。なぜ、よりによって、こんな奴と遭遇してしまったのだ。
 怯えを出すまいと努力したが、声は震えてしまう。
「ぼくに触るな」
「怖いかね? 大丈夫、わたしに任せておきたまえ。男の感じ方は、男の方がよくわかっている」
 危うく、叫ぶところだった。何も感じたくなんかないぞ!!
「女など、介在させる必要はないのだよ。まったく、あんなぶよぶよした、化粧臭い生き物のどこがいいのか、理解に苦しむ。古代ギリシアの高貴な男たちは、ちゃんとわかっていたよ。女と交わるのは、子孫を残す必要のためだけで、崇高な恋愛は、男同士の間にしか存在しないのだと」
 こいつ、〝本物〟だ。
 ジュンとすら何もしていないのに、まして、こんな男に何かされるなど。
「ぼくに触るな!! 離れろ!! 蹴るぞ!! 殺す!!」
「おお、可哀想に、そんなに怯えて。怖がることはないのだよ」
 おぞましい顔が、間近に迫ってきた。向こうの方がぼくより少し背が低く、骨格も筋肉も貧弱だが、こちらは兵士にがっちり押さえられているので、避けようがない。
 左右に首をねじって逃げようとしたが、ついに顎を固定され、唇にキスされてしまった。ナメクジを押し付けられたようなものだ。いや、そう言ってはナメクジに悪い。
 さすがに舌は入れてこないが、それは噛まれる危険があると思うからだろう。それでも、ハキムが圧力を緩めた瞬間、向こうの唇に噛みついた。噛むのもおぞましいが、抵抗しないわけにはいかない。
 さすがに向こうは身を引き、噛まれた箇所に指を当てて、被害を確かめた。それから白いハンカチを取り出し、血のにじんだ唇に押し当てる。
「まあ、多少は抵抗がなければな」
 と苦笑する。
「用があるので、また後で来るよ。その時は、じっくり楽しもう。そうすればきみも、男同士の世界に目覚めるだろう」
 彼が出ていくと、兵たちもぼくの腕を放して出ていった。扉が閉まると、ぼくはへなへなと床に崩れてしまう。
 男同士の世界だって。
 これまで、ジュンの身の安全ならば、散々心配してきたが。まさか、ぼくに何かしたがる男がいるなんて。
 ぼくのことを、始末の悪いマッチョ男と笑ったジュン。
 これはもしかして、天罰なのか。何の罪もない男同士のカップルに、嫌悪の目を向けたりしたから。
 冗談じゃない。
 ぼくの態度は傲慢だったと反省してもいいが、男同士だろうと男女間だろうと、こういうことを強制するのは悪質な犯罪だ。あんなナメクジ男の餌食になってたまるか。
 震える膝でよろめき立つと、バスルームに入り、何度も口を漱いだ。繰り返し顔を洗い、おぞましい感触を消そうとした。
 それから濡れた顔を上げると、両手でばしんと、自分の頬を叩いた。
 しっかりしろ。
 ジュンが最高幹部会に引き渡されたら、取り返しがつかない。彼らはジュンを餌にして、親父さんを辺境へ呼び出すだろう。
 そうしたら、洗脳されるか、処刑されるか、いずれにしろ、親父さんはただではすまない。
 そして、親父さんの身に何かあったら、ジュン自身もただでは済まないのだ。

6 ティエン

「ティエンさま、シャザムさまがオフィスでお呼びです」
 灰色の顔をしたアンドロイド兵士に伝えられた時、ぎくりとした。
 このタイミングで呼ばれるのは、まさか?
 しかし、お守り役のハキムは留守だ。航路の途中まで、ジュン・ヤザキを迎えに行っている。実行犯の女に報酬を渡して、ジュンを受け取るのが役目。
 その女は、勝手にどこへでも行けばいい。何の後ろ盾もない身では、どうせ、長く自由の身ではいられない。自分からどこかの組織に入るか、誰かに捕まえられて売り飛ばされるか。
「わかった、すぐ行く」
 クローゼットから上着を取り出し、屋敷の玄関から出て、迎えの車に乗った。前後を護衛車両にはさまれ、ドーム施設の門から出る。
 父さんのオフィスがあるビルまで、ほんの十分あまりのドライブだ。車の左右を、広大な緑地が通り過ぎる。あちこちに他組織の拠点が点在するだけで、視界のほとんどが森や野原だ。人工の四季は冬だから、落葉樹は裸になっている。
 すぐに、繁華街のビル群が見えてきた。緑の樹海に浮かぶ、銀色の小島。その一角に、父さんの組織《ファルシオン》の拠点ビルがある。数百名の男女が働く職場だ。
 しかし、ぼくがそのオフィスビルに呼ばれることは、たまにしかない。おまえはまだ子供だから、屋敷で勉強していろと言われている。ぼくと同い年の少女は、もう、英雄の後を継ぐ娘として世界に知られているのに。
 ビルの地下駐車場に車を入れ、前後をアンドロイド警備兵に守られて、父さんのいる階まで上がった。顔馴染みの男性秘書が案内してくれ、父さんのオフィスに入る。
 グレイのスーツを着た父さんは、いつものデスクについていた。ぼくと同じ黒髪、緑の目をした長身のハンサムだ。
 不老処置のおかげで、三十歳くらいにしか見えない。ぼくが横に並んだら、兄弟に見えるだろう。ぼくとはっきり違うのは、黒い口髭を生やしていることだけ。
「来たな、ティエン」
 愕然とした。父さんの横手の扉から、なぜハキムが現れる。まだ、数十光年は彼方にいるはずなのに。
「……おまえ、父さんに告げ口したな!!」
 だが、ハキムは平然としていた。
「わたしは元々、シャザムさまに雇われているのです。あなたのお世話はしていますが、あなたの部下ではありません」
 それでも、ジュン・ヤザキ誘拐計画は、おまえと一緒に練ったのではないか……いや、待て。
「まさか、最初から……」
 静かに答えたのは、父さんだ。
「そうだ。ハキムは最初から、わたしに全て報告していた。誘拐してまで女の子を欲しがるとは、さすがに驚いたが。まあ、そういう年頃になったということなのだろう。おまえがせっかく自主的に計画したことだから、ぎりぎりまで、好きにさせておこうと思ってな」
 父さんは知っていて、ぼくにやらせたのか。この誘拐作戦を。
「計画は、よくできていた。わが息子ながら、なかなかの才覚だ。誘拐自体は、大成功だったと言っていい」
 繁華街のビルでの第一計画は不発に終わり、第二計画がうまくいっただけだ。第三計画まで試して駄目なら、また一からやり直しするところだった。
「しかし、おまえは考えていなかったな。この計画の、社会的影響を」
 社会的影響?
 ぼくが、ぼくの好きな女の子を手に入れるのに、なぜ他人が関係ある?
 ジュン本人がぼくを好きになってくれれば、何の問題もない。そのうち折を見て、彼女の父親にネット経由で挨拶すればいい。お嬢さんは、ぼくの元で幸せにしていますと。
 だが、父さんはデスクの向こうから、厳然として言う。
「ジュン・ヤザキは、市民社会の英雄の娘だ。おまけに、今では本人が人気を集めている。軍も司法局も、本気で追跡を始めている。今度ばかりは、悪戯では済まん」
「悪戯なんて。ぼくは本気です。本気でジュンを愛しています」
 彼女を初めて中央のニュース番組で見た時から、ずっと。
 短い黒髪の、勇敢なアマゾネス。
 惑星連邦で一番若い船乗り。
 それは、賞金首の父親を、悪の手から守るため。
 以来、彼女に関する情報は、全て集めてきた。ファンクラブの連中が撮影した写真。マスコミの特集記事。こんな女の子、二人といない。彼女が結ばれるべき相手は、ぼくしかいない。
「おまえがそう言っても、ジュン本人には、単なるストーカー男にすぎない。軽蔑され、嫌われるのが目に見えている」
 ぼくはショックを受けた。
 実の父親が、息子をストーカーと呼ぶのか。求愛者ではなくて。
「おまえが彼女を抱え込んだら、どちらにとっても不幸なことになる。それよりも、彼女の身柄を最高幹部会に引き渡す方がいい。わたしは、代理人を通して連絡をつけた」
 父さんは、彼女を最高幹部会に売ろうというのだ。そうすれば、辺境の違法組織を束ねる彼らは、ジュンを餌にして、父親をおびき寄せられる。そして、全世界への見せしめとして、公開処刑にできる。
 その後、悲嘆に暮れるジュンは、どこかへ売り飛ばされるか、誰かの愛人にされてしまうか。
 最高幹部会は、ジュンを欲しがる男に、高値で売り付けられる。公開の競り市に出したら、どれほどの値がつくか。
 ぼくが落札するのは、不可能だ。ぼく個人には、資産などない。父さんに与えられる、日常の小遣いしかないのだ。それを貯めて貯めて、作戦の資金にした。
「できません。ジュンを売るなんて」
「おまえに決定権はない。最高幹部会には、既に誘拐成功を報告してある。おまえの手柄としてな。ただし、引き渡すまで三日の猶予を願ってある」
「え、それは?」
「その三日間が、おまえへの褒美だ。彼女を傷つけない範囲で、何でもするがいい。その三日が過ぎたら、彼女を最高幹部会に引き渡す。その時、彼女が怪我でもしていれば、わたしの失態になる。それは忘れるな。話は以上だ」
 秘書がアンドロイド兵士に指図して、ぼくをオフィスの外へ押し出した。いつもこうだ。父さんは、ぼくを子供扱いする。
 鉛のような足で車まで戻ったら、ハキムが先回りしていた。痩せこけた陰気な顔で、しゃあしゃあと言う。
「ティエンさま、顔でも洗って、しゃっきりなさることですな。お屋敷に、ジュン・ヤザキを届けてありますよ」
 ぼくは電気を流されたように飛び上がり、慌てて車に乗り込んだ。
 ようやく、本人と会える。
 胸が高鳴り、膝の震えが止まらない。
 しかし、会ってどう言えばいいのだ。ぼくは彼女の前に跪き、永遠の愛を誓うつもりだったのに。それが、三日しか続かないのでは。

 思い乱れるうちに、車はぼくの住むドーム型施設に戻ってきた。周囲を高い壁で囲み、半透明の天蓋をかぶせた要塞型住居だ。ぼくはその中庭に建てた、古典様式の屋敷で暮らしている。
 周囲にいるのはお守り役のハキムと、バイオロイド侍女やアンドロイド兵士だけ。前は同居していた家庭教師も、今はいない。
 小さい頃は、母がいたが……ぼくには、母の記憶がない。写真では知っているし、ドレスや宝石などの遺品は残っているが、それだけだ。
 ぼくがまだ幼児の頃、母は他組織との抗争で死んだという。父と母は若い頃から熱烈な恋人同士であり、無二の親友でもあったと聞いている。二人して市民社会から辺境に脱出し、《ファルシオン》を大きくしてきたのだと。
 母の死後、父はぼくを一人息子として、大事に育ててくれた。ぼくの知る限り、父が本気の恋人を作ったことはない。その時々で、バイオロイド侍女や、人間の女を息抜きの相手にしてきただけだ。
 しかし、父の関心の大部分は仕事に向いていて、寝起きはオフィスのあるビルでしている。ぼくはほとんど、この屋敷に置き去りのようなものだった。
 仲良くなった家庭教師も、数年で交替させられた。ぼくが、その人物に頼りきってはならないからと。基礎教育が終わりかけた今は、週に二日か三日、父の部下がぼくに組織経営の講義に来るだけだ。
 だから、早く大きくなって、父の片腕になりたいと思っていた。そうすれば、居場所ができる。寂しくなくなる。そう、中央の報道番組で、黒髪の美少女を知るまでは……
 ぼくは、自分の女神を見つけたと思った。父さんが母さんを愛したように、生涯を共にする相手を見つけたと。
 だが、父さんには、ジュンは最高幹部会の覚えをよくするための、貢ぎ物に過ぎないのだ。

「ジュンさまは中庭です」
 出迎えの侍女たちからそう聞き、玄関前の車寄せから建物を通り抜けて、中庭に出た。
 はるか頭上の半透明ドームから、明るい光が降り注いでいる。外気の入らない中庭は、常春の庭園だ。花壇や樹木の植え込みの中に、大理石の四阿や睡蓮の咲く池、天使や女神の彫像、エメラルド色のプールが配置されている。
 ジュンは、テラコッタのタイルを敷いた小道にいた。ハイビスカスやブーゲンビリアの花を見ている。ぴっちりしたオレンジ色のミニドレスを着ているのは、ハキムが着るように強制したからか。
 美しい立ち姿だった。他のドレスも着せてみたい。小麦色の肌に似合うドレスを、ぼくはたくさん用意させていた。彼女が欲しいと望むものは、ぼくに許された予算の中で、何だって贈るつもりだった。
 それなのに、一緒にいられるのは、たったの三日……
 いきなりジュンが振り向き、ぼくは心臓を射抜かれた気がして立ち止まった。愛らしい顔だが、鋭い黒い瞳が、敵を見るようにぼくを見る。
 値踏みされているのだ。
 語るに足る相手か、それとも、ただの屑野郎か。
 だが、ぼくは断じて、変質的なストーカーではない。彼女を賛美し、敬愛する気持ちは真剣なものだ。それをわかってもらえれば、きっと……
「あんたが、ティエン?」
 途中で出迎えたハキムから、ぼくのことは、ある程度聞いているのだろう。
「あたしを誘拐させた馬鹿息子だね。エディはどこ?」
 つかつかと歩み寄られたが、ぼくは言葉を失っていた。
 夢に見ていた第一声が、馬鹿息子。
 彼女の細い手が伸びてきて、ぼくの上着の襟を掴み、ぐいと引き寄せた。小麦色の顔が間近に迫り、オレンジとジャスミンが混じったような香りがする。
「エディを巻き添えにしないで。親父をおびき寄せるための人質は、あたし一人で足りるはずだ。エディは解放して、中央に帰してやって」
 言葉は静かだったが、殺気に近い気迫が籠もっていた。あの金髪の青年……最近の報道では、いつも彼女にぴたりと付き従っていた青年。ぼくがあの場所にいられたらと、どれだけ願ったことか。
 だが、エディ・フレイザーの身は、ハキムにくれてやると約束してしまった。ハキムの餌食にされれば、いい気味だと思って。
「帰すよ」
 考える前に、口から言葉が出ていた。
「彼は中央に帰すよ。きみがそう言うなら。ぼくが欲しいのは、きみだけだから」
 本当に可能かどうかは別として、ジュンをなだめたい一心だった。ハキムには、別の褒賞を渡せばいい。
 いや、あいつはそもそも、ぼくを裏切っていたんだ。父さんには内緒だと、堅く約束させたのに。褒賞なんか、出す必要はない。
「そう」
 ジュンはぼくの上着の襟を離した。
「それならいい」
 そして、くるりと背中を向け、小道をすたすた離れる。たったそれだけなのか、ぼくに要求することは?
「あの、ぼくは……」
 このまま遠くに去ってしまいそうなジュンに、必死で訴えた。
「きみをニュースで見て以来、ずっと憧れていたんだ……ぼくの理想の女性だと思って」
 ジュンは無関心な様子で、小道沿いの花の群れを鑑賞している。どうしよう、うまく伝えられない。
「こんな風にさらってこさせたのは、悪かったと思うけど……こうでもしないと、永遠に、会うこともできないから。もちろん、きみに悪さをするつもりは少しもないから……どうか、怒らないで」
 ジュンを振り向かせる言葉が、出てこない。実際に面と向かったら、ああ言おう、こう口説こうと心づもりしていたのに。
 いや、そもそもぼくは、赤い薔薇の花束を抱えて、華麗に登場するはずだった。なのに、ハキムのおかげで手順が狂って。
 ふっとジュンの肩が揺れたのは、笑ったからか。
「悪さはしないって?」
 ぼくの方に向き直ってくれたのはいいけれど、虫けらでも見るような顔だ。
「それはどうも、ありがとう。感謝しなければね。あたしなんかに、そんなに入れ込んでくれて。でも、実際のあたしは、あんたが想像していた理想の女性とは、違うでしょ?」
 そんなことはない。
「思っていた通りだ。いや、それ以上だ。きみはとても綺麗で、勇敢で、誇り高くて……」
 途端に、ジュンが踏み込んできて、左頬に鋭い平手打ちをくらった。ぼくが精神的なショックでよろけると、冷徹な声音が追ってくる。
「それじゃ、あたしに軽蔑されるのも想定内だな。この、幼稚園児が」
 幼稚園児?
「女をさらって、好かれるとでも思ってるの。他人を使って、あたしとエディを誘拐させただけで、既に十分な悪さなんだよっ!! あたしに会いたけりゃ、中央に亡命してくればよかっただろ!! それもできない奴の言うことなんか、何一つ信用できないね!!」
 絶望の目眩がした。
 一緒にいられる三日のうちに、この怒りと軽蔑が解けるはずがない。
 ぼくには、初めての恋だったのに……得られたものは、平手打ちだけ。
 いや、待て。
 おかしいではないか。
 ぼくには、好きな女性を口説く権利もないというのか。
 辺境とは、何でもありの、自由な世界のはず。
「きみと会うためには、これしかなかったんだよ!! ぼくは辺境生まれなんだから!!」
 思わず叫んでしまったら、ジュンは警戒の顔で後退り、ぼくと距離を取る。腕を上げて顔をガードしたのは、ぼくが殴るとでも思ったためか。
 緑の茂みのはるか向こうで、ハキムが興味ありげに見守っているのがわかった。ぼくがジュンに憎まれて、いい気味だと思っているのだ。あいつは、男しか相手にできない変質者だから。
 たぶん、本当に好きな男には振り向いてもらえず、ねじくれてしまったのだろう。今では、男女間の恋愛を憎悪しているとしか思えない。気の毒なのかもしれないが、本気で同情はできない。根性の曲がった奴は、自分で自分を幸せにできないのだ。
「あたしと会って、どうするつもりだったの? 好きなだけ弄んでから、どこかに売り飛ばす? 最高幹部会に引き渡したら、大手柄だよね?」
 違う、と言いたかったのに、もう言えない。
「ぼくは、きみを大事に守るつもりだった……結婚して……もらうつもりだったんだ……だけど……父さんが……きみを、最高幹部会に引き渡すと……」
 ジュンの顔には、それほどの驚きは出なかった。
「そう。親子して、あたしたち親子を餌食にしてくれるわけか」
「いや、違う。ぼくは、そんなつもりじゃなかった。ただ、純粋にきみが好きで……じかに会いたくて……」
 空想の中では、ジュンはぼくの心情を理解し、許してくれるはずだった。そして、幸せに暮らせるはずだった。
「だけど、あんたは父親に逆らえないんでしょ。何もできないよね。実際に組織を掌握しているのは父親で、あんたは、何の役にも立っていない、みそっかすなんだから」
 その途端、目の前が真っ赤に染まり、世界が飛んだ。気がついた時には、ジュンの細い腕を掴んで、激しく揺さぶっていた。
「もう子供じゃない!! きみを好きなのは本気だ!! 遊びなんかじゃない!! 遊びでこんなことはしない!!」
 ジュンはぼくを警戒していたが、怯えてはいず、皮肉に唇をゆがめた。
「そうなの? あたし、あんたをあてにしていいの? パパと最高幹部会を相手に回して、あたしを守れるくらい、あんたは強い?」
 頭から、血が下がった。ジュンの腕から手を放し、後ろへ下がる。
 そうか。
 そういうことか。
 初めてわかった。恋をして、その恋を成就させるということは、他の全てと引き換えなのだということが。
 本当にジュンを得ようとするなら、ぼくは父を捨て……父を超えなければならないのだろう。
 しかし、そんな覚悟はまだなかった。実力もなかった。そんなものがあったら、そもそもハキムになど頼らなかった。
「考えさせてくれ。ぼくに時間を……」
 自分でも、思っていなかった言葉が出た。ジュンの鋭い瞳に見つめられていると、嘘やごまかしなど出てこない。
「どうすればいいのか、考える。三日間だけ、猶予が欲しい。三日したら、父がきみを最高幹部会に引き渡すと言ってる。その前に、何ができるか考えるから」

 とりあえず、ジュンには侍女の一人を世話係に付けた。そして、一時間後に夕食を共にする約束を取り付けた。ジュンはそれまで、屋敷や庭園の見物でもしていればいい。
 彼女は警備システムとアンドロイド兵に見張らせているから、危険なことはできないし、厳重に閉鎖されたこのドーム施設の外に出ることもできない。何かあれば、警備システムが麻痺ガスか麻酔針でジュンを眠らせる。
 だが、警備システムは最終的に、父さんの命令に従う。
 たとえば、ぼくがジュンを逃がそうとしても、それは、父さんの指示を受けた警備システムが認めない……ぼくがそんな真似をしないよう、ハキムだって用心しているはずだ。
 ぼくは自分の部屋に戻って、昼用のスーツを脱いだ。熱いシャワーを浴びると、裸のまま、鏡の中の自分を見る。
 カールした黒髪に緑の瞳、整った顔立ち、精悍な長身。全身の筋肉は、無駄なく鍛え上げてある。
 十六歳の少年としては、たぶん、最高級の水準。
 頭だって、悪くないはずだ。数学や物理学は、きちんとマスターしている。どこへ出ても、大抵の男にはひけを取らない自信がある。侍女たちは、ぼくが寝室に呼べば、喜んで飛んでくる。
 だが、ジュンが気にしたのは、番犬にしていた金髪の青年のことだけだ。このままではぼくは、愛してもらうどころか、まともに話相手にもしてもらえない。
 誘拐したのは、確かに強引だったと思うが、他にどうできたというのだ。彼女は中央星域の市民社会に、ぼくは辺境の無法地帯にいる。どちらかが相手の領域に移動しない限り、生涯、出会うこともない。
 そして、ぼくがこの《ファルシオン》を離れ、市民社会に走ることは論外だった。
 市民社会は肉体の強化も、不老処置も認めていない。生まれながらに強化体であるぼくは、市民社会では『要監視の二級市民』にしかなれず、子供を作ることも許されないのだ。
 それよりも、ジュンが辺境に来てくれる方がいいと思った。ここで不老処置を受ければ、彼女の今の美しさを永遠に保つことができるのだから。
 あのなめらかな蜂蜜色の肌、薔薇の蕾のような唇、ほっそりしたしなやかな肢体、それを老いさせることこそ罪ではないか。
 市民社会は、くだらない伝統に囚われ、進歩を拒絶している愚か者の集まりだ。人類はせっかくの知性を、自らの進化のために使うべきなのだから。
 ぼくは正装のディナージャケットに着替え、髪を整えた。
 とにかく、今夜は、ジュンと差し向かいの時間を楽しもう。悩むのは、その後にすればいい。ぼくにはまだ、三日の猶予があるのだ。

7 ジュン

イラスト

 ここは違法都市の一つ《バラディア》だという。当然ながら、軍も司法局もここを突き止めてはいないだろう。
 気密桟橋に接続した船から、このドーム基地までは、中型トレーラーの窓なし区画に押し込められていたので、外の景色は見られなかった。
 誘拐を取り仕切ったハキムや、世話をしてくれる侍女のレジーナの言葉からすると、《ファルシオン》という二流組織の拠点ビルがある繁華街から、少し離れた緑地の中らしい。
 組織を統率しているシャザムという男が、ティエンの父親。
 ティエンは日頃、このドーム内で暮らしているそうだ。家庭教師に付いて勉強したり、スポーツしたり、抵抗できないバイオロイド侍女を相手に『女の研究』をしたりして。
 辺境で、普通に育つ子供がいるのは意外だった。中央から脱走した元市民や、培養されたバイオロイドだけが住人かと思っていた。
 でも、そういえばハンターの〝リリス〟は辺境生まれだというのだから、他にも辺境で生まれ育つ者がいて、おかしくはない。
 ティエンはどうやら、甘やかされたお坊ちゃまらしいけど。
 従順なバイオロイド美女に飽きて、本物の人間の女を相手に、恋愛ごっこがしたくなったらしい。
 どうせなら、美人歌手とか美人女優とかに惚れ込んでくれればよかったのに。
 あたしは別に、スーパーヒロインなどではない。あちこちでもてはやされるのは、あれこれの事件に巻き込まれ、何度も報道されてしまった副産物だ。
 おおかたティエンも、実際より美しく撮影された映像とか、過大評価された記事を見て、あたしをいい方に誤解したのだろう。
 ティエンが実際のあたしに会ってがっかりしても、あたしのせいではないけれど、暴力に訴えられるのは困る。
 エディを中央に帰すと約束したことだって、信用できるかどうか。
 あたし一人が目当てなら、あたし一人を拉致すればいいのに、エディまでさらったというのは、売り飛ばすとか洗脳して部下にするとか、よからぬ企みを持っている証拠。
「ジュンさま、どのドレスになさいますか」
 侍女のレジーナは、気持ちのいい働き者だ。お風呂の世話をしてくれたり(背中くらい自分で洗えるけれど、人に洗ってもらうのは贅沢で心地よかった。浴後のマッサージも上手だった)、冷たいレモンジュースを差し出してくれたり、爪の手入れをしてくれたり、クローゼットに用意された衣装を見せてくれたりして、いそいそ立ち働く。
 どうやら彼女も他の侍女たちも、ティエンのことを心から愛しているらしいので(狭い世界に閉じ込められた彼女たちにとっては、憧れの王子さまなのだろう)、あたしは彼女たちにとって、単なる恋敵のはずなのだけれど。
 それでも、ティエンにあたしの世話を命じられれば、いそいそ従ってしまうのが、バイオロイドの哀れな特性。
 ティエンはあたしのために、たくさんのドレスを用意していた。だから、長期の交際予定を組んでいたことは、信じてもいい。
 でも、実利優先の父親の意向で、あたしを最高幹部会に差し出すことになった。
 というか、最初にそれを考えていないのは、馬鹿だろう。あたしの父親は、最高幹部会が敵とみなしている賞金首の一人なのだから。父親のシャザムの考えの方が正しい。
 うちの親父は、あたしを人質に取られたら、降参する。たとえ軍や司法局が親父を見張っていても、どこかに軟禁しても、数か月か数年のうちには隙を見て、自分から辺境へ飛び出すだろう。
 そんなことはさせられない。
 その前に、何とかしなくては。
 内心では、わずかな期待があった。アイリスが、あたしたちを救い出してくれないだろうか。
 でも、無理かもしれない。既に最高幹部会が、ここを見張っているはずだ。じたばたしないで、連行されるべきかもしれない。
 連れていかれるのは、辺境の代表都市である《アヴァロン》か。それとも、大組織の基地のどれかか。
 霧に包まれた最高幹部会の面々を、直に見てみたいという気も多少はある。いったいどんな悪魔たちが、辺境の宇宙を支配しているのか。
 見たら最後、二度と自由の身になれないだろうけれど。どうせもう、99パーセント、自由の身になることは無理なのだから。
「うーん、こんなにあると、迷うね」
 ちょっとしたブティックくらいの広さがあるクローゼットに、ずらりと並んだ優雅なドレスを見て、あたしはバスローブ姿のまま、ため息をついてしまった。
 なんという贅沢。
 深紅、薔薇色、ラベンダー色、サーモンピンク、茜色、アイボリー、レモンイエロー、オレンジ、若葉色、エメラルド色、ボルドー、濃紺、紫、漆黒。それに合わせた靴や下着や小物も、たくさん揃っている。
 これが全て、あたしへの贈り物だなんて、ティエンにキスしてやってもいいくらい。
 でも、三日しかここにいられないのなら、全部着る暇はないな。最高幹部会の元へ移送される時に、持っていけるといいんだけど。
 ざっと見て回って、一番心を惹かれた、サーモンピンクの薄いワンピースを選んだ。花びらのように切れ込んだスカートの丈が踝まであって、上半身は肩を広く出している、ロマンティックなデザイン。
 人生が残り三日しかないのなら、好きなドレスを着たって、甘い香水を吹き付けたっていいだろう。
 これまではずっと、男の子のような質素な服ばかり選んできたけれど、それは勉強や修行に集中するため。男ばかりの船で、みんなの仲間に入れてもらうため。
 やっと《エオス》で、エディといいコンビになったのに。戦力として、認められるようになったのに。
 みんなの顔が浮かび、きゅっと胸が痛んだ。ジェイク、エイジ、ルーク、バシム。
 せめて、エディだけは無事に帰さなくては。エディは《エオス》以外にも、生きられる場所があるんだもの。

 レジーナに癖っ毛の髪をセットしてもらい、ドレスアップして、ヒールの高いサンダルを履いて、暗くなった中庭に出た。
 ううむ、ハイヒールに慣れるには、しばらくかかるな。これで蹴りを出したり、走ったりするのは、かなり難しそうだ。
 ドーム内は常春の設定らしく、寒くはない。
 木々の茂った庭園には、ぽつぽつとオレンジ色の明かりが灯されていて、美しい眺めだった。古風なランタンを持ったレジーナが、プールサイドまで案内してくれる。
 そこには白い布をかけたテーブルが用意されていて、花が飾られ、アンドロイドの楽団まで近くに待機していた。あたしの姿を見ると、彼らは静かな音楽を奏で始める。
 レジーナと同じ紺の制服を着た他の侍女たちが、料理や飲み物を運んできた。あたしは一人一人に声をかけ、名前を尋ねる。何が脱出の役に立つか、わからないから。
 金髪のソランジュ、茶色い髪のシャリテ、赤毛のソラヤ。ここには、全部で十人ほどの侍女がいるらしい。
 以前、違法組織のボス、シドに誘拐された時には、彼の侍女だったベリルとぺトラが友達になってくれた。あんな幸運を、何度も期待するのは無理かもしれないけれど。
 大皿に美しく盛られた前菜、何種類ものワインと、背の高いグラスがテーブルに並んだ。これが本物のデートなら、どんなにか素敵だったのに。
 正装したティエンが、テラコッタの小道を踏んでやってきた。あたしと同じ十六歳だというけれど、体格はすっかり一人前だ。生まれながらの強化体らしいから、成長も早いのだろう。
 でも、黒髪に縁取られた顔はまだ若い。というか、幼い。間近に来ると、努力したような笑みを浮かべた。
「ジュン、とても綺麗だ」
 彼はあたしの前で、すっと膝をついた。
「どうか、これを」
 うやうやしく差し出したのは、一輪の赤い薔薇。ジェイクやルークが見ていたら、ひっくり返って笑うだろう。でも、あたしは笑わずに花を受け取った。
「ありがとう」
 と言ったのは、皮肉ばかりでもない。どんな誤解であれ、あたしを理想の女と見てくれたのだ。それには感謝する。
 もらった花をレジーナに渡し、あたしの部屋に生けておいてもらうことにした。これが、人生でもらう最後の花かも。
「踊ってくれませんか」
 とティエンが言うので、何曲か付き合うことにした。社交ダンスは一応、学校で習っている。あまり練習していないけれど、女は基本的に、相手のリードに合わせるだけだから。
 ティエンはさすがに基本的教養を叩き込まれているようで(さもないと将来、他組織の幹部たちと渡り合えないだろう)、きちんとあたしを支え、リードしてくれた。軽快なワルツから、アンニュイなブルースまで。
 そういえば、エディとはディスコで踊ったな。あれは、親父がドナ・カイテルに誘拐された夜。
 エディが相手だと、安心して甘え、胸にもたれることができた。こいつが相手だと、そういう真似は危険すぎる。今は紳士ぶっているけれど、どんな拍子にどう変貌するか。
「夢みたいだ」
 型通りにあたしの手を取り、背中を支えながら、ティエンが言う。
「ずっときみに憧れて、空想してた。実際に会えたら、ああしよう、こうしようって。きみと踊れるなんて、本当に、信じられないくらい嬉しいよ」
 へえ、そうなの。あたしなら、報道で見ただけの相手に、そんなに焦がれるなんて、ないけどな。
 いや、もちろん、悪党狩りのハンター〝リリス〟には憧れてるよ。正義の味方で、超人的な闘士だもの。
 でも、〝リリス〟を誘拐しようなんて思ったことはない。どこかでもし会えたら、ちょっとはお話できるかな、握手してもらえるかな、と夢見るだけだ。
「あんたが知っているのは、報道のレンズで拡大されたあたしだよ。実像じゃない。実際は《エオス》の一番下っ端で、先輩クルーにしごかれたり、叱られたりして、ちっとも冴えないんだから」
 叱られる時は、ジェイクの大きな手で、頭をぐいと押し下げられたりする。それも最近は、あまりないけど。だって、エディが先回りして、かばってくれるから。
 そういえば、ジェイクに最後に触れてもらったの、いつなんだろうな……空手の稽古の時くらいしか、そんな機会はないんだけど。他の女の人には優しいくせに、あたしを見たら、皮肉か小言。
「でも、きみはテロリストや犯罪者と戦って生き残ったし、誘拐されたお父さんを助け出したりしているだろう。他に、そんなことをしている女の子はいないよ。男だっていない。ぼくなんか、まだ何の役にも就けてもらっていない」
 親父を救出できたのは、アイリスという援助者がいたからだ。でも、それは内緒。アイリス一族の安全のため。それはもしかしたら、人類の滅亡につながる道かもしれないけれど。
 アイリスたちが、いまどのくらい勢力を拡大しているのか、あたしは知らない。アイリス一族には、人間にでも動物にでも細胞を植え込んで、乗っ取ってしまえる能力がある。
 最高幹部会がそれを知ったら、アイリスの一部を捕獲して、実験室に閉じ込めるだろう。そして、他の部分は絶滅させるだろう。
 アイリスの細胞が体内に入っているエディも、心を乗っ取られてはいないけれど、やはり実験室行きだろう。
「あたしはたまたま、運が良かっただけ。それに、いつも周囲に助けてもらっているから」
「ほら、そうやって自慢しないところ。それが偉いんだよ。十五歳で市民権を取ったのは、記録的な早さなんだろう?」
 史上最年少記録は、たしか十二歳だったと思う。どこかの天才少年だったはず。あたしは精々、秀才レベルでしかない。それも、ルークやエディより何段階も下の。
「早さは自慢にならないよ。早く親父の船に乗りたかったから、ガリ勉しただけ」
 それは単に、義務教育課程を終了したというだけのことだ。そこから何をするかが問題。
「それでも、船乗りを選んだのは偉いよ。危険があるのは、わかっていたのに」
「護衛付きで大学に通っていたって、誘拐や何かの危険は変わらないからね。親父が懸賞金リストに載っている限り、あたしは一生、危険なんだ」
 ティエンは、まんざら嘘とも思えない吐息を漏らした。
「きみは強いな。よく覚悟ができている」
 正確には、強いわけではない。毎日忙しくて、怖がっている暇がないだけだ。
「あたしの家族は、今は親父だけだから。ティエン、あんたもお父さんだけなんでしょう?」
「うん……母が死んでからは、そうだね。ぼくには、母の記憶がないんだけど。父とは、同志的カップルだったらしい」
「お母さん、どうして亡くなったの?」
「詳しくは知らない。他組織との抗争だったみたいだ。父さんは、話すのも辛いらしくて」
「辺境にも、仲のいい夫婦はいるんだね」
「ぼくは、きみとそういう関係になりたかった」
 まずい。ティエンがダンスの動きを止めてしまった。そして、あたしの肩をぎゅっと抱き寄せる。薄暗がりの中で、楽団は甘い音楽を続けている。盆を持った侍女たちは、離れて待機している。
 相手がこいつでなければ、ねえ。
 もし、ジェイクがこうしてくれたら……ううん、そんなこと、絶対ない。彼は永遠に、あたしを弟子としか見ないだろう。それも、厄介な弟子だと。
「本当なんだ。本当に、真剣な気持ちできみが欲しかった。でも、きみがぼくを信じてくれなかったら、何の意味もない。考えるよ。どうしたら、きみの信頼を得られるか」
 そんなこと、誘拐する前に考えてほしいんだけど。
「だから、ぼくに、勇気を分けてほしい。きみの勇気を」
 そんなもの、どうやって分けられるんだと言おうとした矢先、まともにキスされてしまった。
 といっても、シドにされたような、しつこくて深いキスではない。どちらかというと、ぎこちない、無骨なキスだった。バイオロイド侍女とは、さんざん体験済みのくせに。
 おかげで、わかってしまった。
(こいつ、まだ本当に子供なんだ)
 図体は大きいけれど、学校に通ったこともなければ、同じ年頃の子供と遊んだこともない、偏った育ち方。家庭教師と召使いしかいなくては、感性が歪むのも無理はない。
 あたしはティエンの胸に手をついて、彼を押しやったけれど、乱暴にはしなかったつもり。
「そういうことは、もっと信頼関係ができてからにして。今度やったら、怒るよ」
 と警告するだけにした。
 あたしもキスくらいでは、もう逆上することはない。無人惑星《タリス》で、シドに散々な目に遭わされたから、免疫ができてしまった。今思うと、貴重な人生勉強だったのかもしれない。
「ごめん。でも、きみが好きだ。心から」
 こいつが、この瞬間、本気でそう言っているのもわかる。ただ、その本気は、あくまでも甘やかされた立場に根ざしたもの。エディが命がけであたしを助けに来てくれたような勇気を、こいつに期待することはできない。
 それに、エディの場合は、憧れの女性を死なせてしまった後悔があるせいだ。あたしはただ、その人のいなくなった後の空白に嵌め込まれただけ。
「それは一応、聞いておく。でも、女性の許可を得ないで何かするのは、反則だからね。辺境で育つと、それがわからないのかもしれないけど、市民社会では、女が男を選ぶの。男は、選んでほしかったら、女の望むように振る舞うこと。わかった?」
 ティエンは残念そうながら、わかった、と答える。
 あたしは内心、可笑しくなった。
 甘やかされた王子さま。
 この可愛さが、困難に遭っても変質しなかったら、本物なのだけれど。
 あたしに、シャザムを殺せるだろうか。でも、活路はそれしかない。後でティエンに、どれほど恨まれ、憎まれるとしても。

8 エディ

 知らなかった。この世に、こんな生き地獄があるなんて。
 ぼくは滝に打たれる修行者のように、ずっと熱いシャワーを浴びていた。
 汚い。自分が汚い。
 どんなに洗い立てても、元の自分には戻れない。嫌悪と憎悪が繰り返し、吐き気のようにこみ上げてくる。いっそ、脳をえぐって、あの記憶を削り取ってしまいたい。
 これまで、ジュンが他の男に襲われる心配をしたことはあっても、まさか自分が。
 何より、あいつの行為に反応してしまった自分が許せない。
 あれほどおぞましく、汚らわしかったのに。なぜ、あいつの思い通りに反応してしまって、あいつを喜ばせてしまったんだ。
 ぼくはずっと、同じ一室に閉じ込められていた。ここがどの宙域なのか、ジュンは同じ船内にいるのか、それとも遠い場所に移されてしまったのか、何もわからない。
 ハキムは二度目に現れた時、用心していた。もう二度と、ぼくに噛みつかれるつもりはないと言い、アンドロイド兵に命じて、ぼくの手足を拘束させた。そして、ぼくの服の下に手を這わせてきた。ナメクジのようにゆっくり這う手を。
 だめだ。
 ここにいて、あいつのことを思い出していたら、発狂する。
 ましなことを考えろ。何とか、脱出する方法はないものか。何より、ジュンを助けなければ。
 まさか、こんなことで終わるはずがない。ぼくはともかく、ジュンは絶対に、光輝く王道を歩いていく存在だ。
 親父さんだって先輩たちだって、必死で何か考えているだろう。
 それに、アイリス。
 親父さんがドナ・カイテルに誘拐された時には、居場所を突き止めて知らせてくれた。今度もきっと、助けてくれると思いたい。
 いや、助けてくれるはずだ。ジュンが最高幹部会に捕まったら、薬で尋問され、アイリスのことをしゃべってしまうかもしれないのだから。
 まさか、アイリス一族がとうに発見され、滅ぼされているなんてことはないだろう。あれだけの能力を持っていたら、あっという間に、銀河系中に広まることができる。それもまた、恐ろしいことなのだが。
 人類はどうせ、進化を止めはしない。きっと変貌していく。アイリスは、その可能性の一つ。
 ぼく自身は、この人間のままで十分だが。
 満足しない者たちが、自らを進化させていくのは止められない。いくらでも進化してくれていいから、ぼくらが生きる余地を残しておいてほしい。この広大な宇宙の、ほんの一角でいいのだから。

9 ジュン

 夜中、眠りに落ちるまで、あたしは心配していた。もしや、ティエンが妙な気を起こして、この部屋に忍び込んでこないかと。
 この部屋のドアは、あたしにはロックできないし、彼はあたしより大柄で腕力がある。本気の格闘になったら、あたしは勝てない。
 シドに捕まった時だって、何とか無事で済んだのに、こんなところで強姦されるなんて、無念すぎる……
 でも、警戒しながらうとうとしているうち、本当に眠ってしまったらしい。
 朝になって、大きなベッドで目覚めた時は、自分が無事なことにほっとした。
 ティエンを疑って、ほんの少しは、悪かったかな。
 もしも、ティエンを動かすために、彼に身を任せなければならないとしたら、その時は、覚悟して耐えるつもりではいるけれど。
 だって、エディと親父の命がかかっているのだ。わがままなんか、言っていられない。
 そういうことをする相手は、自分が好きな人が一番いいのだけれど……ティエンが相手なら、たぶん、我慢できる。
 それに、少しは可哀想でもある。お母さんがいなくて、お父さんにも放任されていて、あたしを誘拐することしか、したいことがなかったのだから。
 そう、姉のつもりになればいい。ティエンは道に迷っている、幼い弟だ。何とか手懐けて、利用したい。
 今頃、親父はげっそり憔悴しているはずだ。あたしが無事でいると、知らせられたらいいのだけれど。
「おはようございます、ジュンさま」
 レジーナが現れて、親身に朝食の世話をしてくれた。長い黒髪の巻き毛、宝石のような青い目。あたしなんかより、百倍も美人だ。しかもグラマー。
 こんな美女が何人も侍っているのに、どうしてティエンは、あたしが必要だったのか。
 想像するに、クリームたっぷりの甘いお菓子に飽きて、ピリッと辛いお煎餅が食べたくなった、みたいな感じかな?
「レジーナ、あなた、ティエンに仕えて何年になる?」
 紅茶のお代わりを飲みながら尋ねたら、美女は少し不安げになった。
「三年……経ちました」
 その態度からすると、自分の運命は理解しているらしい。
「それじゃ、あと二年で殺されるね」
 残酷だけれど、はっきり言った。バイオロイドたちに揺さぶりをかけないことには、隙が生まれない。
「よくも、我慢して仕えているよね。人間なんて、あなたたちを使い捨てにするだけなのに。ティエンだって、バイオロイド侍女のことなんか、道具としか思ってないよ。あなたたちがティエンを好きなことをよく知っているのに、あたしに夢中なんだから」
 レジーナは目を伏せた。声が震えている。
「わたしたちは、ご主人さまに仕えるのが使命ですから……」
「そう教えられただけでしょ。本当は、使命なんかないんだよ。バイオロイドは頭脳的にも肉体的にも、人間より優れた生き物なんだから、その気になれば人間から独立できる。あなたたちに足りないのは、人間に教えられたことを疑う意志だけ。疑って考え始めれば、自由になれるのにね。それができないなんて、本当に可哀想」
 本当はバイオロイドの独立は、そんな簡単なことではないが、これも一つの布石だ。打てる手は、何でも打っておかないと。
「ジュン、おはよう」
 レジーナと入れ替わりに、ティエンがやってきた。白いシャツに青緑のスーツを着て、爽やかな青年ぶりだ。あたしの身について、少しは悩んでくれたのかね。
「今日も綺麗だね。その服、よく似合うよ」
「そう、ありがとう」
 あたしは山ほどの衣装の中から、赤いドレスを選んでいた。我ながら、なかなかいい。あたしの黄色い肌には、赤やオレンジのような強い色が似合うのだ。
 完璧な美貌に作られたバイオロイド侍女には敵わないけれど、ティエンの目に、少しでも綺麗に見えた方がいい。彼があたしと父親の板挟みになって、少しでも悩んでくれるように。
「あの、実は……きみに言うことが……」
「何?」
「その、きみのお供の青年のことだけど……」
 何だ、その罪悪感あふれる態度は。
「まさか、売り飛ばしたの!?」
「いや、違うよ。桟橋の船にいる。ただ、ハキムに払い下げてしまって……昨夜、解放するように命じたんだけど……」
 あたしは歯切れの悪いティエンを問い詰め、白状させた。ハキムは美少年や美青年が好きで、だからこそ、誘拐作戦の報酬にエディを欲しがったのだと。
 呆れた。
 本当にいるんだ、そんな奴。
「ハキムは別に、エディを痛めつけてはいない……ただその、多少の被害があったようで……」
 何ていうこと。
 エディはあれほど、男の同性愛を毛嫌いしていたのに。
 それでは今頃、どんなに落ち込んでいるか。あるいは、苦しんでいるか。
 でも、駆けつけて慰めても、手遅れだ。償うこともできない。エディが何とか、自分で乗り越えてくれることを願うしかない。
「それはもういいから、とにかくエディを中央に帰して。それとも、できないの?」
 ティエンはやや、傷ついたような顔をした。
「ハキムは、父の命令しか聞かない。だから、父に頼んでみる。エディを解放してくれるように」
「そう。じゃあ、あたしも一緒に行くから、お父さんに会わせて」
「どうして?」
 とティエンは不安そうだった。あたしが何か企んでいると思うのだろう。その通りだけど。
「あんたを育てた人に会って、どういう考えだったのか聞きたい。こんな甘ったれを育てて、組織の要職に据えるつもりだったのかどうか」
 ティエンはむっとしたようだ。でも、あたしは容赦しなかった。
「十六にもなって、何の仕事も任せてもらえないなんて、よっぽど信用されてないんだね。幾つになったら、一人前に見てもらえるの? 十八歳? 二十歳?」
 ティエンがひるんだのがわかる。やはり、ここが彼の弱点。
「もしかしたら、一生、この屋敷で飼い殺しなのかもよ。だって、あんたに地位や権力を与えたら、お父さんは、自分が危うくなるものね。組織の頂点は、たった一人でいいんだから。お父さんは、あんたに力を付けさせたくないのかも」
 ティエンは苦い顔になり、視線をそらせた。可哀想ではあるけれど、これで彼に、少しは毒を吹き込めただろうか。

 あたしはティエンと一緒の車に乗せてもらい、ドーム施設を出た。平和そうな緑地帯を抜けて、何十というビルが相互に連結された繁華街に入り、《ファルシオン》の拠点ビルに着く。
「ようこそ、お嬢さん。わたしも、きみには会いたいと思っていた」
 ティエンの父親のシャザムは、息子によく似た黒髪のハンサムだった。というより、ティエンがシャザムに似ていると言うべきか。髭を除けば、ほとんどそっくり。
 もしかして、クローン体なのではないだろうか。
 ティエンの母なんて、本当はいなかったのかも。
 だって、愛した女性の遺した息子なら、辺境で生き残れるよう、もっと本気で鍛えたのではない?
 シャザムは紳士のように身をかがめ、あたしの手を取って、甲にキスをした。
「きみの勇敢さは、わたしも高く評価する。本当に、ティエンの恋人になってくれればよかったのだが。生憎と、最高幹部会がきみをお望みなのでね。届けるしかない。せめて今日と明日は、ここでのんびりしていって下さい」
 なるほど、こういう男か。余裕ありげなダンディ。
 そんな余裕、何かあれば、簡単に吹き飛ぶはずだけど。
 あたしはティエンが、懸命に父親の真似をしようとしているのに気がついた。若いくせに、朝からかっちりしたスーツを着込んでいるのも、その一端 だ。
「一つ聞かせて。あなたは、ティエンのお母さんを愛していたの?」
 すると、口髭を蓄えたハンサムは、いくらか遠い目をする。
「そう、彼女はわたしの人生の宝物だった。色々な戦いを、共に乗り越えた。勇敢で、ユーモアがあって、いつも前向きだった。だが、商売敵の罠に落ちてね。あの時は、しばらく立ち直れなかったよ。あれ以来、一緒に暮らしたい女性には会っていない」
 本当のこと……なんだろうか。それとも、ティエンを納得させるための作り話なのか。クローンなら何体でも作れるから、都合が悪くなれば捨てられる。
「きみの父上も、奥方を亡くされているな。だが、ヤザキ船長は幸せだ。こんなに素晴らしい娘がいて」
「ありがとう。でも、ティエンもいい息子でしょ?」
「わたしが甘やかして育てたせいか、まだ子供だがね。きみを誘拐して、内緒で囲い込んでおけると思っていたのだ。幼稚で困る」
 本当は、わざと甘やかしていたんでしょう? 息子に組織を乗っ取られたら困るから。
 そう指摘したかったけれど、さすがに危険そうなので、少し控えめな言い方をした。
「それはあなたが、ティエンに苦労をさせなかったからでしょ。侍女にちやほやされていたら、傲慢になるに決まってる」
「それは、わたしの反省点だ。つい仕事に夢中になって、教育が他人任せになっていた。だが、そろそろ、責任を持たせる年齢のようだ。何か仕事を任せてみよう」
 ティエンの顔に動揺が走った。
 少し前なら、無条件に喜んだはずだ。
 でも、今は、あたしという玩具を取り上げるために、気をそらせているだけだとわかるのだろう。口許をゆがめて、黙っている。
「ところで、あなたにお願いがあるのだけれど……」
「ああ、聞いている。相棒の青年のことだろう。悪いが、わたしの組織のことを知られた以上、市民社会に返すことはできない。きみと一緒に、最高幹部会に引き渡すことにしよう」
 そうか。なら仕方ない。
「それなら、それで結構。とにかくこれ以上、ハキムに何もさせないで。男に何かされ続けたら、エディが精神的に参ってしまう」
「ああ、それは気の毒だった。しかし、個人の趣味に口出しする気はなかったのでね。手柄のあった部下には、報いなければ。誘拐が成功したのは、半分かたハキムの功績だ」
 あたしの方こそ、顔がひきつる。よくも、身勝手なことを。
「個人の趣味は尊重するべきだけど、暴力はよくないと思うな……あなたの組織では、強姦は野放しなの?」
 すると、シャザムはうっすらと笑う。
「辺境では、人の命すら安い。たまに痛い目に遭うのも、中央育ちの青年には、いい経験だろう。だがまあ、ハキムも十分楽しんだろうから、後できみに返すよう言っておこう」
 あたしは、かっと頭に血が昇った。十分楽しんだって!?
「他人の苦痛を何とも思わないなら、いつか誰かが、あんたの苦痛を無視する日が来ても、自業自得ってことだね!!」
 ティエンがはっとした様子で、あたしの腕を引く。
「ジュン、黙って!!」
 ティエンは、父親を怖れているのだ。それが、辺境の掟なのだろう。組織のトップは、ただ一人。うちの親父なら、まずあたしの機嫌を心配するのに。
「なるほど、きついお嬢さんだ。ファンクラブに男が集まるのがわかる」
 大きな手が伸びてきて、あたしの顎をがっと掴んだ。指の力が強くて、痛い。
「ティエンが惚れ込んでいなければ、わたしが味見してもよかったが……」
 声は低く、口元は笑っているが、怒りでぎらつく目だ。底が知れたぞ、チンピラめ。
「最高幹部会は、あたしを無傷で引き渡せって言わなかった?」
 あたしがひるまず見返すと、シャザムはやや身を引いて、にやりとする。
「残念ながら、その通りだ。しかし、記念写真くらいは撮影してもいい気がしてきたぞ」
 寒気がしたのは、それが決して、上品な写真ではないと伝わってきたからだ。辺境の男って、まったく……
 ティエンがかろうじて、あたしを守る動作をした。父親の手を、そっとあたしから離させたのだ。
「父さん、ジュンは虚勢を張っているだけだから。怒らないで」
 だめだ。こいつ。
 こんなんじゃ、父親から独立するなんて、できっこない。
 十八になろうが、二十歳になろうが、飼い殺しのまま。
「違法都市に来て虚勢が張れるなら、たいしたものだ。では、会えて楽しかったよ、お嬢さん。最高幹部会の使者が来たら、また会おう」
 会見は、それで終わりだった。
 あたしとティエンは車に戻され、アンドロイド兵の見張り付きで、元の屋敷へ送られた。
「ジュン、父さんを怒らせても、役に立たないよ」
 と、ティエンは疲れた様子で言う。
 あたしだって、裸の写真なんか撮られたくないけどね。
「怒るべきなのは、あんたの方だよ。まるっきり馬鹿にされているの、わからない? あんたがあたしをどう思おうと、問題にされてないんだよ!!」
 するとティエンは、息を吐いて何か言おうとし、また黙り込む。
 無理もないことか。
 辺境でティエンが独立しようとしても、父親がそれを認めなければ、何の財産もない、無力な状態で荒野に放り出されることになる。いや、その前に、危険因子として抹殺されるかもしれない。
 市民社会でなら、市民権を取りさえすれば、どんな道でも選べるのに。

イラスト

 屋敷に着いて車から降り立つと、あたしはティエンに言った。
「ねえ、もしもあんただったら、どんな気分になる? 自分がハキムに強姦されたと、想像してみてよ。その後、どうやったら気を取り直せる?」
 ティエンは身震いし、顔をしかめた。
「想像なんか、したくないね。あんな奴、ナメクジ以下だ」
 そういう相手に、よくもエディを引き渡したな。自分の欲望ばかり大事にして、人の気持ちを考えないのは、辺境の〝当たり前〟なのだろうけど。
「そういう経験の後、あんたなら、どうやったら気が紛れる?」
 あたしは男ではないから、男に強姦された後の男のダメージがどれくらいのものか、よくわからない。
 個人差はあるだろうけど、一生、忘れられずに苦しむことなのか。
 それとも、喧嘩で殴られて痛かった、悔しかった、程度で済むことなのか。
 自分の経験では、シドにあれこれされたことが、一番ひどい被害だったけれど……結局、強姦にまでは至らなかったから。怪我が治ったら、それで過去のことになってしまった。
「そりゃ、記憶を消せるのでなかったら、より強い刺激で〝上書き〟することだろうね」
「強い刺激?」
「つまり、女性による、新たな刺激ってことだけど……」
 ティエンは自分で言ってから、しまったという顔をする。おかげであたしは、光を見つけた。
 そうか。
 それでいいのか。
 だったら、あたしでもいいわけじゃない?
 あたしなんかでは、とても効果が足りないかもしれないけれど、そこは我慢してもらおう。これは、戦場での応急手当なのだから。

10 エディ

 

 突然、アンドロイド兵士が現れ、ぼくを船室から連れ出した。またハキムに何かされるのかと思ったが、車に乗せられ、市街地に送られる。
 連行された先は、ドーム型の小要塞だった。光の射す中庭で車から降ろされると、赤いドレスを着たジュンが走ってくる。庭園の緑を背景にして、目が覚めるような美しさだ。
「エディ、よかった、無事で!!」
 ぼくは立ち尽くしたまま、ジュンに抱きつかれた。しなやかな両腕が、ぼくの背中に回される。ぼくの顎を、短い髪の毛がこするのがくすぐったい。果物のような、甘い香り。温かで、懐かしい感触。
 とにかく、ジュンは無事だったわけだ。
 しかし、今は自分がどう振る舞えばいいのか、わからない。
 自分が穢れている気がして、仕方ないのだ。洗っても洗っても、この穢れは落ちない。本当は、ぼくがジュンに触れることすら、してはならないのでは。
 しかし、ジュンはいつも通り、すっきりした態度でぼくを見上げる。
「あたしたち、最高幹部会に売り渡されるらしいよ。今日と明日だけ、ここにいられるけど。明後日には迎えが来て、護送されるみたい」
「そういうことに……」
「それまでに、脱出できればいいんだけどね」
 ジュンは不敵に笑って、背後を振り向いた。
「ティエンはパパが怖いから、あたしを助けてはくれないみたいだし」
 ぼくは、数メートル先に立つ青年を見た。黒髪に緑の目。ハキムから聞いた、ティエンに間違いない。その顔には、隠せない怒りが見える。ジュンがぼくに抱きついたのが、許せないのだろう。
「少なくとも、ぼくは、きみと一緒に行くよ。最高幹部会に、きみを引き渡すまで」
 と、むくれた態度で言う。
「そう? それも、パパが認めてくれれば、でしょ」
 ジュンはわざとティエンを怒らせ、父親との不和を煽ろうとしているのかもしれない。そうやって、脱出の隙を作ろうとしているのだ。
「それじゃ、エディを休ませたいから、あたしの部屋へ連れていくよ。しばらく、邪魔しないでね」
 ティエンが何も言えないでいるうち、ジュンはぼくを引っ張り、屋敷内へ入った。ジュンに与えられた部屋は、庭園に面した豪華な客室だ。
「船に閉じ込められていたんでしょ。ちゃんと食べてた?」
 食欲などなかったが、無理に口へ押し込んだ。捕虜の心得だ。脱出の機会があれば、いつでも動けるように。
「ここに座って。お茶を淹れるから。甘いものがいいかな。それともサンドイッチ? 両方あるよ」
 まるで、子供の世話をするかのような態度。
 はっとした。もしや、ジュンは知っているのか。ぼくがハキムの元で、どんな目に遭ったのか。それで、精一杯、慰めようとしてくれるのか。
 激しい惨めさで、いたたまれなくなった。ここから走り去りたい。どこかの穴倉に隠れたい。自分を消し去ってしまいたい。
 だが、逃げても何も解決しない。ジュンを余計に心配させるだけだ。
 硬直して突っ立っていると、ジュンがぼくの腕を引いた。
「エディ、ね、座って」
 その声は、気遣いに満ちている。仕方なく、ジュンの示した椅子に腰かけた。するとジュンはぼくの前に立ち、ぼくの顔にそっと手を触れてくる。
「あのね、おまじないするから、ちょっと、じっとしてて」
 まじない? ジュンの口から、そんな言葉が出るなんて?
「エディの気分が良くなりますようにってね……」
 ジュンは上体をかがめると、ぼくの顔を手ではさみ、そっとキスしてきた。唇に。
 ぼくが唖然としていると、ジュンはそのキスを顔中に滑らせていく。頬、額、また唇。
 信じられないが、現実だ。優しい指が、ぼくを撫でる。キスが繰り返し、ぼくを覆う。甘い戦慄が走り、気が遠くなりそうだ。女の子の唇というのは、こんなにも柔らかく、甘美なものだったのか。
「ジュン、あの……」
「いいから。じっとしてて。あたしに出来ることをさせて」
 いつかジュンにキスできたらと願っていたけれど、これでは立場が逆だ。しかも、これは同情のキスではないか。
「そんな、そんなこと、無理にしなくていいよ」
 悲しさがこみ上げた。ぼくの女神に、こんな真似はさせられない。親父さんにだって、申し訳が立たない。
「いいから、あたしの言うこと聞いて、いい子にしてて」
 ジュンはドレスの裾をさばいて、ぼくの膝の上に大胆にまたがり、顔にキスを続けてきた。愛らしい重さがぼくの太腿を押さえ、すんなりした両脚が、ぼくの腰をはさみつける。
 これは、天国だ。
 もう、このまま死んでもいいかもしれない。
 いや、まだもう少し生きて、この時間を味わいたい。
 だが困ったことに、たまらなくむずむずしてきて、興奮を押さえられなくなってきた。膝の上からどいてくれないと、ぼくの変化がジュンにわかってしまう。
 軽蔑されるのではないかと、怖くなってきた。調子に乗るな、とひっぱたかれるかもしれない。
「ジュン、頼むから、もう、そこまでで……」
「こら、動かないで」
 双方で身動きした拍子に、ジュンの手がぼくの急所に触れてしまった。ぼくは戦慄して硬直したが、ジュンは悲鳴をあげて飛びのいたりしなかった。それどころか、
「よし」
 と嬉しそうにつぶやいて、ズボンの布の上から、さわさわ撫でてくるではないか!!
 ぼくはもう、声もない。
 明らかに、目的を持った触り方。
 ジュンはいつの間に、こんなことができるようになったんだ!! いや、いざという時の大胆さは、よく知っているつもりだったけど!!
「いいから、逃げないでよ。逃げたら、怒るからね」
 ジュンは化学実験でもするかのように、ズボンの上から、ぼくの弱点を撫で続けている。いや、確かに実験なのだ。ジュンは、ぼくの反応を知りたがっている。まずい、これはもう……
「あうっ」
 女性経験の乏しいぼくは、ひとたまりもなかった。全身を貫いた鋭い快感は、生きている限り、決して忘れられないだろう。
 ぼくががっくりと脱力し、椅子の背に体重を預けてしまうと、ジュンは満足そうな様子で、ぼくの膝からひらりと降りた。
「じゃあ、着替えてきてね。浴室はそっち。着替えもあるから」
 うう。
 何と手際のいい。
 またしても、負けた。
 ジュンに悪意はない。これっぽっちも。ただ、新しい記憶を上書きして、ぼくの気分を変えてくれたつもり、なのだ。
 ぼくは泣きそうな気分で浴室に行き、汚してしまったズボンを脱いで、ついでに上半身の衣類も脱ぎ捨て、手早くシャワーを浴びた。
 熱い滝で、雑念を洗い流すのだ。
 平常心を取り戻さなければ、ジュンの前に戻れない。
 だが、頭の中は衝撃の記憶で一杯だった。ジュンの唇、ジュンの指、ジュンの重み。身内を走り抜けた、あの快感。
 かかった時間は、たった二分か三分だろう。
 恥ずかしさで焼け焦げる気がしたが、少なくとも、ジュンに軽蔑された様子はなかった。
 経緯はどうであれ、ぼくは女神から、途方もない恩恵を受けたのではないか。
 ジュンはぼくのために、乙女の身で、できうる限りの慰めの行為をしてくれた。
 だとしたら、表面だけでも、立ち直ったふりをしなくては。それが、番犬としての責務だろう。

 用意されていた服に着替えて出ていくと、ジュンはお茶を淹れて、ケーキやサンドイッチを並べていた。
「さ、ゆっくりしよ。とりあえず、今日は一緒にいられるし」
 ぼくはどんな顔をしていいかわからないが、ジュンはミッションを果たして、充実した顔だ。
「ごめんね、一方的なことしちゃって。でも、少なくとも、あたしの方が、ハキムよりはましだと思って。少しは〝記憶の上書き〟になったかな?」
 やっぱり、そういうつもりだ。
 親切なのは有り難いし、一生忘れられない記憶になりそうだけど、過激すぎる。
「ジュン、あんなこと、きみがしてはいけないよ。親父さんに知られたら、ぼくが殺される」
 娘とは節度を保った付き合いをしてくれるように、と言い渡されているのだ。だが、ジュンはけろりとしている。
「そんな心配しなくていいよ。どうせあたしたち、最高幹部会に引き渡されるんだから。生きて親父に会えるかどうかも、わからないし」
 どうしてそんなに、あっけらかんとしていられるのだろう。これが、凡人と豪傑の差なのだろうか。
「あれくらいのことなら、どうってことないから、気にしないで。エディが辛かったら、またしてあげるし」
 ぼくが衝撃を受けたのを見て、ジュンは悪戯そうに付け加える。
「次はもうちょっと、あたしも上達してるかもね。二、三回練習させてくれたら、コツが掴める思うし」
 うう。情けないが、また興奮してしまいそうだ。今後十年くらいは、今の記憶だけで生きていけそうな気がする。
 その時、廊下側からばたんと扉を開けて、ティエンがずかずか入ってきた。我慢の限界を超えたらしい。既に、手負いの獣のように苛立っている。
「ジュン、もういいだろ!! そいつから離れてくれよ!! まったく、きみはこいつに優しすぎる!! そんなことなら、ぼくがして欲しいよ!!」
 ということは、監視モニターで、室内の様子を見ていたのか?
 ぼくは耳まで熱くなったが、ジュンは一転して冷ややかだった。
「あんたに優しくするなんて、そんな義理はないね。そもそも、あんたがあたしたちを誘拐させたから、こういうことになったんでしょ。だいたい、ノックもなしに女性の部屋に入るなんて、礼儀がなってないよ」
 義理。
 ジュンの使った言葉が、落雷のようにぼくを直撃した。
 単なる義理なのだ、ジュンのあの行為は。
 ぼくが傷ついたことに(ジュンのせいではないのに)、責任を取るつもりでしてくれたのだ。
 何という義理堅さ。個人的感情なんか、これっぽっちもない。ただ、高潔な慈悲があるだけ。
 相手がぼくだったから、ではない。
 他の誰であっても、ひどく傷ついた男が目の前にいたら、ジュンは慰めてやるつもりなのだ。手段は選ぶとしても。
 ああ、また落ち込む。
 床にめり込みそうだ。
 ジュンがぼくに恋愛感情を持ってくれることなんか、百年経っても、ないのではないだろうか。

 その晩、ぼくはジュンのベッドの下で、毛布にくるまって寝ることになった。
 ジュンが言い張ったのだ。もう、ぼくを目の届かない所へはやらないと。
 すると、ティエンも言い張った。自分だって、ジュンから離れるつもりはない、ベッドの反対側の下で寝ると。
 しかし、ジュンは冷然として、ティエンを室外へ追い払った。
 結果、ティエンは寝袋を持ってきて、ジュンの寝室の扉のすぐ外の廊下で寝ることになった。まさしく、番犬のように。
 はた迷惑な馬鹿息子なのは確かだが、ジュンに惚れ込んだのはたぶん、本当だ。その点では、ぼくと何も違わない。
 ただ、市民社会ではなく、辺境に生まれたのが不幸な点か。
 ティエンが自分の地位を保ってジュンに会おうとすれば、確かに、こうするしかなかったのだ。
 部屋を暗くして、五分もしないうちだろうか。ベッドの上から、そっと言葉が降ってきた。
「エディ、そこは寝心地が悪いでしょ。あたしの隣に来ていいよ」
 いたわりが、悲しみを伴って胸に沁みた。
 何と寛大な申し出だろうか。
 ジュンの隣で寝るなんて、想像しただけで怖れ多くて、震えがくる。
 もちろん、そんな真似をしたら、ぼくはジュンの寝息や体温を感じて眠れずに苦しみ、朝まで悶々とし続けるだろう。
 欲望に忠実にジュンにのしかかって、怒られ、殴られて引き下がる、という覚悟すらない。
 何かしでかして嫌われるより、忠実な番犬でいる方がいいと思ってしまうからだ。
「気にしなくていいよ。寒くはないし」
 と辞退した。けれど、ジュンはなおも言う。
「親父に何て言われたのか知らないけど、今は非常時だから、通常の礼儀は忘れていいよ。ここに来てくれたら、あたし、もう一度、エディの気が紛れることをしてもいいし」
 ずきんと、全身を甘い戦慄が走り抜けた。
 昼間のあれを、もう一度だって。
 ああ、思っただけで気が遠くなる。
 ジュンはわかっていないのだ。ぼくが日頃、頭の中で、どんな妄想を繰り広げているか。
 それを実行に移す勇気はないけれど、いや、これまではなかったけれど、今はぼくも、普通の精神状態ではない。この暗い寝室で、ジュンに昼間のような行為をされたりしたら……
 ぼくの臆病な自制心だって、吹き飛ぶかもしれないではないか。
 そしたら、そしたら……ぼくこそが、ジュンにひどいことをしてしまう。そんな権利、ぼくにはない。
「そんなこと、考えなくていいんだよ。昼間、きみにしてもらったことだけで、その、つまり……過分な気遣いだったから」
 あれが親父さんに知られたらと思うと、冷や汗が出るくらいだ。
 ジュンは、くすりと笑った気配。
「エディには悪いけど、あたしは面白かったな。男って、ほんとに単純にできてるんだね」
 うう。
 ジュンにとっては〝動物実験〟程度のことだったのかもしれないが、年頃の乙女が、あんなことを面白がるとは。
「ねえ、エディ、あたしたち、親友だよねえ」
「え、うん」
 ようやく、そう言ってもらえるようになったのは嬉しい。《キュテーラ》の市民体育館前で、初めてジュンに出会ってから、色々な事件を乗り越えて、ようやくここまで来た。
「だから、嬉しいことは二人で分けるし、辛いこともそうするでしょ」
「うん、そうだね」
「最高幹部会に差し出されたら、どうなるかわからないんだから、今のうち、できることをしておくって考え方もあるよ。エディが楽になれることなら、あたし、大抵のことはできるから……」
 どきんと、心臓が跳ね上がる気がした。
 大抵のことって。まさか。
 何か言おうとしても、声にならない。
「ね、ここへ来たら……?」
 声が優しい。ほとんど、甘い誘いと言ってもいいくらいだ。
 全身が心臓になったかのように、ぼくは激しく鼓動する。
 まさか、ジュンはぼくのために、そこまでの覚悟を。
 清らかな乙女に、そこまで言ってもらえるなんて……ぼくはジュンにとって、特別な存在になっている……!!
 その感動をぶち破るかのように、扉が大きく開いて、ティエンが乱入してきた。
「ストップ!! ストップ!!」
 部屋の明かりがついて、ぼくは飛び起きた。アンドロイド兵士までもが、どかどかと踏み込んでくる。またしても監視システムで盗み聞きしていたのか、こいつは。
「ジュン、自分を大事にしなきゃだめだ!! そんな奴にそこまで……そこまで許すなんて、ありえない!!」
 とティエンは腕を振り回して叫ぶ。
 その逆上ぶりを見て、ぼくは自分の優位をまざまざと認識した。ジュンが気にかけ、いたわり、守ろうとしてくれるのは、他でもない、このぼくなのだ。
「そんな役立たずの番犬野郎、きみが気にかけてやる値打ちはないんだから!! 昼間、十分、いい目を見させてやったじゃないか!! これ以上、そんな奴に何もしてやらなくていいだろう!! 何かするなら、ぼくにするべきだ!!」
 ジュンはうんざりしたように、ティエンに向かって手を振った。
「あんたはお呼びじゃないんだよ。邪魔しないで、出ていって」
 ティエンが傷ついた顔をするのが、ぼくには爽快だった。ざまあみろ。ぼくがジュンの好意を得るまでには、それなりの歴史があるんだからな。
 しかし、ティエンはこの屋敷の主だった、一応は。
「ぼくは朝まで、ここから動かないからな!! そいつがベッドに上がったりしたら、ぶちのめしてやる!!」
 と言い張って動かないとなれば、仕方ない。結局、ジュンのベッドをはさんで、両側の床に番犬が寝る構図となったのだった。
(まあ、こんな落ちだとは思ったよ……)

 朝になると、ジュンは伸びをして起き出した。ティエンは少し前に、寝袋を持って部屋から消えている。自分の部屋に、身支度に戻ったのだろう。たぶん、ジュンに寝起きの顔を見せたくないプライドだ。
「おはよう、エディ」
 ジュンはさわやかな顔だから、よく眠れたらしい。ぼくも少し前に起きて、ジュンの眠りを妨げないよう、床の上でこれからの展開を考えていた。考えたところで、あまり役には立たないが。
 いったんクローゼットに消えてから、ジュンは美しい青のドレス姿で現れた。金のイヤリングと、お揃いのネックレスも煌めかせている。元が美人だから、飾ればちゃんと華やかになるのだ。
「似合うかな? ティエンがたくさん、用意してくれたんだ」
 という言葉の通り、店が開けそうなくらい、服や宝石が揃えられている。父親の稼ぎで安楽に暮らしているのだ、お坊ちゃまめ。
「これはエディの着替え。ティエンに用意させたから、サイズは合うと思うよ」
 というジュンの態度は、もはやティエンを完全に下僕扱いしている。
(哀れなものだなあ)
 と感じたのは、自分もまた下僕だからだ。日々、ジュンのために心を砕き、あれこれと尽くしていればこそ、
『側にいてもいいよ』
 と認めてもらえる。
 自分では、それで幸せだと思っていたけれど。客観的に見ると、ぼくもティエンのように、哀れな存在なのだろうか……?
 いや、男という種族が、そもそも哀れなのだ。
 愛する女性に選んでもらえるかどうか、それが男の人生を左右するのではないか。
 女性の方は、悠然と周囲に視線を投げただけで、下僕になりたい男が集まってくるのだから。
「おはようございます」
 と黒髪のバイオロイド侍女が現れて、朝食のテーブルを整えてくれた。美人だが、美人すぎる。バイオロイドは、みんなそうだ。人間の都合で作られた、美しく哀れな奴隷。
「おはよう、レジーナ」
 とジュンは優しく相手をしている。それもまた、隙を狙う戦術だろう。惑星《タリス》でも、ジュンはバイオロイド侍女を味方につけた。
「ジュン、ぼくも一緒でいいだろう?」
 とティエンもやってくる。
 今朝は、シルバーグレイのスーツ姿だ。まだ子供のくせに、毎日スーツなのか。それとも、ジュンの前で大人ぶりたいのか。
 食事の間は、かろうじて休戦状態を保った。しかし、庭を歩こうという段になると、ティエンが言い張る。
「ジュン、ぼくと歩こう。こいつはここで待たせておけばいい」
 しかし、ジュンはすげなく言う。
「だめ。エディはあたしと一緒にいるの。いやなら、あんたはついて来なくていいよ」
 ティエンはぎらつく目でぼくを眺めたが、急ににやりとした。
「だったら、散歩なんかより面白いことがある。こいつに、ぼくと手合わせしてもらおう」
 ぎょっとした。何を言い出す。
 ティエンはにやにやと、ぼくを見下す顔だ。ガキのくせに、体格はぼくと変わらない。いや、十六歳でこれなら、数年後には、ぼくより大きくなっているだろう。
「エディ、きみも鍛えているんだろ。ぼくとどっちが強いか、ジュンに見てもらおうじゃないか」
 こいつ。
 自分は強化体だから、ぼくより強いと自惚れているな。
 それはそうに違いないが、よくもジュンの前で、そんなことを。断ったら、ぼくが怖がっているみたいじゃないか。それを弱虫呼ばわりして、嘲笑うつもりなんだろう。
「それは……」
 ジュンは首をかしげ、考える様子。だが、すぐに、ぱっと明るい顔になった。
「面白いかもしれないな。ティエン、あたしが相手をするよ。エディを審判にして、試合をしよう」
 何だって。
「ジュン、そんな危ないこと……」
「もちろん、ティエンが手加減してくれるから、大丈夫」  いつも先輩たちに稽古をつけてもらう時と、同じように思っているらしい。しかし、ティエンは人に稽古をつけたことなんか、ないだろう。加減するつもりでも、できないかもしれないのに。
「ジュン、大丈夫なんかじゃ……」
「平気、平気。強化体がどのくらい強いのか、実感してみたいんだ。着替えてくるから、待ってて」
 ジュンがいそいそ寝室の奥のクローゼットに去ったあと、ぼくとティエンは互いを睨みつけ、探り合った。
「まさか、ジュンに怪我をさせたりしないよな」
「まさか。そもそも、おまえを相手にするつもりだったんだ」
 ぼくを叩き伏せて、憂さ晴らしというわけだ。ジュンはそれを避けるために、自分が相手をすると申し出てくれたのだ。かばわれるなんて情けないが、この場合は仕方ない。たぶん、こいつは素手でぼくを殺せる。それを、事故と言い張ることもできる。
「ジュンを相手にするんじゃ、うんと気をつけないと……」
 何やら考えているティエンに、ぼくは疑念をぶつけた。
「ジュンを押さえ込んで、いやらしい真似をするつもりじゃないだろうな」
 ティエンはむっとしたように、言い返してくる。
「それは、おまえがしたいことなんじゃないのか?」
 こいつ。
「そんな真似をしていたら、ジュンに信頼されるはずがないだろ」
「ああ、だから、ずっと番犬に甘んじているんだろ。そうすれば昨日みたいに、ご褒美をもらえることもあるからな……」
 かっとした。反射的にやり返す。
  「ジュンに優しくしてほしかったら、おまえも、あのナメクジ野郎に絡みつかれてみればいいんだ。ジュンは同情して、慰めてくれるよ」
 こいつには、同情すら勿体ないが。
 ティエンは口許をひくつかせたが、口から出てきたのは、可愛げのない捨て台詞だった。
「おまえをぶん殴ってやりたいが、やめておくよ。自分より弱い相手を殴るなんて、ジュンに軽蔑されるからな」
 ジュンがスポーツウェアに着替えて戻ってきた時には、ぼくはティエンと取っ組み合い、椅子やテーブルをなぎ倒して乱闘中だった。
 素手ばかりではなく、互いに花瓶を投げたり、椅子を振り回したり、脚を引っ掛けて相手を倒したり。
 こうなったらもう、引っ込みがつかない。何でもいいから、こいつにダメージを与えてやりたい。鼻に一発入れれば、ハンサムな顔が鼻血を吹くはずだ。
「何やってるの!! どうせなら、広い所でやればいいでしょ!!」
 ジュンが呆れて叫ぶのは聞こえたが、ぼくもティエンも、先に攻撃の手を止めることはできない。
 奴はさすがに素早いし、パワーもあるが、戦闘技術ではこちらが上だとわかった。ティエンはおそらく、教師から格闘技の基礎を教わっただけで、実際に敵意のある他人と戦ったことがないのだろう。隙がぼろぼろ出てくる。つまり、強化体といっても、修業次第では十分、太刀打ちできるのだ。
 おかしいと気づいたのは、何分過ぎても、アンドロイド兵が止めに入らないからだった。
 ぼくのような捕虜がティエンに手出しをしたら、問答無用で撃たれるか、拘束されるかするはずでは。
「やらせておあげなさい。発情した雄同士の喧嘩なんだから」
 いつの間にか、扉からハキムが姿を見せていた。
「双方とも怪我をして、動けなくなれば、静かになりますよ」
 おかげでぼくは、冷静さを取り戻した。明日には最高幹部会から迎えが到着するというのに、大きな怪我などしていたら、ジュンを守れない。
 ぼくが素早く距離を取り、ジュンの側に戻ると、ティエンも肩で息をしながら、手で顔の鼻血をぬぐう。
 ぼくは殴られた顔と、蹴られた肋骨がずきずき痛んだが、ティエンを殴れたことには満足していた。あいつの鼻が折れたなら、上出来だ。ハキムが警備システムに制止をかけていてくれたから、それが出来たのだが。
「どんな気分ですかな。男が二人、自分のために争うのは」
 ハキムがジュンに尋ねると、ジュンは肩をすくめた。
「自分のプライドのためでしょ。あたしのためを思う気持ちがあるなら、争うんじゃなくて、協力してほしいのに」
「協力? ここから逃げるためですか?」
 ハキムはせせら笑った。
「このお坊ちゃまには、父上に逆らう勇気はありませんよ。迎えが来たら、めそめそしながらあなたを差し出して、それで終わりです」
 ティエンが怒りで発火したのがわかった。ハキムを殴ろうとして飛び出したのはいいが、たちまちハキムに付いていたアンドロイド兵士に遮られ、隅に押しやられてしまう。
 つまり、ここで本当に力を持っているのはティエンではなく、父親の信認を得ているハキムなのだ。
「ティエンさま、今日一日しかないのですから、ジュン・ヤザキとおままごとを楽しんだらどうですか」
 アンドロイド兵に守られたハキムは、ティエンを少しも恐れていない。それはつまり、将来もずっと、ティエンが組織内で力を持つことはないと見ているからだ。
「わたしは、せっかくのご褒美を取り上げられたのですよ。まだ、わずかしか味わっていなかったのに」
 ハキムがぼくに気味悪い流し目を寄越した途端、彼の顔面に拳が炸裂した。
 ハキムは後ろへよろけ、兵に支えられて、かろうじて倒れずに済む。
 ジュンの素早い一撃だった。
 人間を超える速度を持つ警備システムが、その行為を止めなかったということは、ジュンの身の安全は、ここの使用人であるハキムの安全より優先されるということだ。
 最高幹部会に差し出す、大事な貢ぎ物だから。
 その優先順位をつけているのは、本部ビルにいるシャザムということになる。
「あんたに、礼を言わなきゃと思ってたんだ」
 紺のスポーツウェアのジュンは、尊大な笑みを浮かべていた。金のイヤリングだけ、取り忘れてきらきらと光っている。
「あたしの大事な親友を可愛がってくれて、どうもありがとう。あたしからのお礼、もうちょっと追加しようか?」
 ティエンも唖然としていた。しかし、ぼくは惚れ惚れする。これこそ、ジュンだ。
 ハキムは鼻が折れたらしく、白いハンカチを血に染めながら、兵にかばわれて退場していった。捨て台詞が、かろうじてぼくらに届く。
「……どのみち、明日でおしまいだ。鼻たれ小娘が、調子に乗りくさって……」
 そう。明日になれば、ハキムがどう思おうが、ティエンがどう抗議しようが、ぼくたちは、より確実な破滅に引き渡されるのだ。

 その日の午後、ティエンは姿を見せなかった。鼻の腫れが収まるまでは、ジュンの前に惨めな姿を見せられないのだろう。
 おかげでぼくは、ドレス姿に戻ったジュンと二人、美しい庭園をゆったり歩くことができた。
 ひびの入ったぼくの肋骨は、痛み止めの薬剤の塗布と保護シールのおかげで、かなりましになっている。顔の片側はかなり腫れているが、この程度、たいしたことはない。格闘技の稽古では、エイジに何度も痛い教訓をもらっている。
 強化体と喧嘩して、この程度で済んだのは、かなりの幸運だ。
 いま思うと、ティエンの方が、多少は手加減していたのかもしれない。ぼくに大怪我をさせたら、ジュンが怒るに決まっているからだ。
「ジュン、ありがとう」
 牡丹や石楠花の植え込みの横で、ぼくは言った。ジュンがあえてハキムを殴ってくれたのは、ぼくのためだ。自分が怒ったからではなく、ぼくの気持ちを救おうとしたくれただけ。
「でも、きみが手を怪我したら困るから、もう、あんなことはしなくて大丈夫だよ」
 ジュンが示してくれた好意のおかげで、ぼくは大幅に救われた。ハキムのことなんか、既に古傷の一つに過ぎない。これからも時々、古傷が痛むかもしれないが、ジュンさえ生きていれば、何度でも救われるだろう。
「揺さぶってるつもりなんだけど、なかなか、隙はないねえ」
 とジュンは冷静だ。
「まあ、明日を楽しみにしよう。最高幹部会が、どんな使者を送ってくるのかな」
 それまでに、助けが来る可能性はあるだろうか。
 ぼくに出来ることで、ジュンの助けになることはあるだろうか。
「そんな顔しないの」
 ジュンは微笑んで、ぼくの無事な方の頬を、指先でちょんと突いた。
「いつかは死ぬんだから、それが明日のことでも、百年後のことでも、それまでは楽しく過ごそうよ」
 ああ、ジュンを愛している。
 出会えたことに、心の底から感謝している。
 ティエンの馬鹿も、父親に支配されるだけでなく、ジュンのために一歩を踏み出せばいいだろうに。
 それをしない限り、男の人生は始まらないのだから。

 ティエンが現れたのは、夜、ぼくたちが寝る支度をしている頃だった。鼻は集中治療でかなり治ったらしく、薄手の保護シールを貼っている他は、普通の顔になっている。半袖のTシャツ姿で、神妙に言う。
「ジュン、きみのベッドの下で寝かせてくれ。もう殴り合いはしないから」
 ジュンは苦笑した。
「構わないけど、このベッドはエディに使わせるよ。怪我人だからね」
 ぼくは床で平気だと言ったのだが、ジュンは聞かない。怪我人優先だと言い張るのだ。
「まさか、きみが床で寝るのか」
 ティエンが驚くと、ジュンはにやりとする。
「それをさせたくなかったら、あたしがエディの横に入るのを認める?」
 ティエンは憤然として叫んだ。
「とんでもない!! すぐ簡易ベッドを運ばせるから、そいつをそこで寝かせてくれ!!」
 もちろん、その方がいい。ぼくだって、ジュンを床で寝かせては、とても安眠できないのだから。
 三人がそれぞれの場所に落ち着き、部屋を暗くしてから、床の上の寝袋のティエンがぽつりと言った。
「ジュン、ごめん」
 何だというのだ、今さら。
「考えなさすぎた。色々なことを。ただ、きみを独り占めしたい一心で、誘拐なんかしてしまって」
 おい、反省したふりで、ジュンの気を引くつもりか。
「でも、おかげで、遠くにいた時より、きみのことを知ることができた。これから、ましな男になるよ。きみに見直してもらえるように」
 じゃあ、責任を取って、ぼくらを中央へ戻せと言いたい。
 ジュンがベッドの上で、ふうとため息をつく。
「ティエン、あんたはまだ、全然ましになってないよ。反省したなら、まずエディに謝るべきだ」
 すると、阿呆が叫ぶ。
「そいつよりぼくの方が、きみを幸せにできる!! それを証明してみせるから、見ていてくれ!!」
 ジュンはあくびを一つして、上掛けにもぐった気配。
「はいはい。おやすみ。また明日ね」

イラスト

 翌朝、ぼくたちが朝食を済ませるか済ませないかのうち、レジーナが告げに来た。
「シャザムさまが、お客さまと共に、もうじきお見えになります」
 こんな早い時刻とは、最高幹部会の使者も、勤勉な。
 ジュンとぼく、ティエンは屋敷の車寄せに出ていき、玄関前で車の列が止まるのを待った。
 ジュンは甘いマゼンタ色のドレスを着ていて美しいが、ぼくの片頬には保護シールが貼られ、悪目立ちしている。肋骨のひびは、静かにしていれば何とか耐えられるが、格闘をするには厳しい。ティエンと殴り合いをしたのは、やはり愚かだったかも。
 先頭の小型トレーラーから降り立ったのは、濃紺のスーツのシャザムと、背の高い、肩にかかる黒髪の女性だ。華やかにカールした黒髪を背景にすると、プラチナのイヤリングがより一層、輝いて見える。
 彼女は白い顔に黒いゴーグルをつけているから、目元は隠れているが、唇はきっちり赤い。黒地に青紫のラインを効かせた服を着て、いかにも切れ者という姿。
 三台目の中型トレーラーからは、黒いスーツのハキムが降りた。鼻は無事なように見せかけているが、まだ治癒しきってはいないはず。周囲には、さりげなくアンドロイド兵士が散る。
「おはよう、諸君。こちらはミス・リンジー。最高幹部会からの使者だ」
 シャザムが言うと、黒髪の女は無駄のない足取りでジュンの前に立った。落ち着いたアルトの声で言う。
「ジュン・ヤザキですね。わたしと一緒に来ていただきます。抵抗するようなら手錠をかけますが、必要ですか?」
 ジュンは平然として応じた。
「必要ない。こちらとしても、最高幹部会に興味があるから」
 リンジーという女は、かすかに微笑んだ。目の表情は見えないが、ジュンを気に入った様子がわかる。
「では、わたしの車に。エディ・フレイザーも一緒に」
 そこでティエンが一歩、前に出た。
「待ってください。ぼくも同行します。シャザムの息子のティエンです」
 シャザムが、おや、という顔をする。
「ぼくは、ジュンを守りたいんです。ヤザキ船長と引き換えにするなら、ジュンの身柄は当面、無事なはずですよね。それなら、ジュンに下僕が付いていても、問題ないはずです」
 自分を下僕と認めたのは、馬鹿息子にしては、上出来だ。
 リンジーは、ちらとシャザムを見た。黒い口髭の男は、うっすらと微笑んで言う。
「申し訳ない。わたしが甘やかしたので、身の程を知らなくて。息子の言うことは、無視して下さい。この二人だけ、連行して頂ければ」
「父さん!! ぼくは本気です!!」
 ティエンは父親に向き直って抗議したが、あっさりいなされた。
「おまえに何ができるつもりだ? わたしの元から離れれば、ただの子供に過ぎないんだぞ」
 ティエンが怒りに震え、何か言い返そうとした時、空に爆音が響いた。上空で複数の爆発が起きているのが、透明なドーム越しに見える。
 もしや、待っていた救援か。
 警備システムが、人工音声で報告した。
「外部から、ミサイル攻撃を受けています。複数の移動車両からの攻撃です。レーザーで迎撃していますが、防衛余力がありません。避難を推奨します。地下通路には、まだ外敵は侵入していません」
 ジュンの反応は素早かった。アンドロイド兵の囲みを破って、茂みに飛び込もうとしたのだ。
 むろん、反射速度は機械の兵士の方が上だが、兵はそもそも、〝貢ぎ物〟を傷つけないように指図されている。だから、怪我をさせない捕まえ方をしようとして、ジュンの手足を撃つのではなく、先回りして行く手をふさごうと動いた。
 しかし、リンジーがすぐ追いついて、ジュンを捕まえ、見事な背負い技で芝生に投げ落とす。
 ジュンはもんどり打って、転がった。スカートが大きくまくれ、すんなりした足がむき出しになってしまう。アクション向きの服装ではないのだ。
 その間に、爆発がドーム直上まで迫っていた。ミサイルの群れを、レーザーで迎撃するのが間に合わないらしい。爆炎を縫って、次々にミサイルが飛来する。
「父さん、こっちです!!」
 ティエンは父親を守るのが先と判断したらしく、シャザムをかばうようにして屋敷に走り込む。ジュンより父親か。それなら、それでいい。
 ぼくは苦痛をこらえて、リンジーに飛びつこうとした。その隙に、ジュンが態勢を立て直せる。だがリンジーはは懐から銃を抜き、ぼくに向けた。避けようとしたが、間に合わない。
 死ぬのか、ここで。
 強力な弾丸が撃ち抜いたのは、ぼくではなく、ぼくの後方にいて、兵に守られていたハキムだった。
 振り向くと、銃弾は、黒いスーツの胸に大穴を開けている。ハキムは何が起きたのかわからない顔で、後ろに崩れ落ちた。
 警備システムに制御される兵たちは、明確な命令がない限り、どう対応していいのか決められないので、フリーズする。最高幹部会の使者は、今の場合、シャザムと同格の警備対象であるはずだ。使者とハキムの比較なら、使者の方が上位だろう。
 その使者は、しなやかな指でくるりと銃を回し、ぼくに銃把の方を差し出した。
「脱出しなさい。義理は果たしたって、ジェイクに伝えて」
 あっ、と理解した。
 この人は、ネピアさんだ。
 話は、先輩たちから聞いている。ジェイクとパートナーを組んで、賞金稼ぎのハンターをしていた人。
 ただ、ジェイクと別れてからは、消息不明ということだった。まだ辺境にいて、活動していたのか。
「その車を使いなさい。わたしは攪乱に回るから。いま攻撃してきているのは、本物の使者よ」
 ネピアさんは、本物のリンジーが到着する寸前に、うまくシャザムを騙して入り込んだというわけか。
 ドームにひびが入り、破片が落下してきた。次のミサイルが飛来して、屋敷の一部を吹き飛ばす。小型のサイボーグ鳥も次々に飛び込んできて、アンドロイド兵士と撃ち合いになる。
 ぼくはジュンをかばい、落下する破片や飛び交う流れ弾を避けながら、指示された車に乗り込むのがやっとだった。ネピアさんの姿は、とうにない。たぶん、大丈夫だ。彼女なら、自分の身は守れるはず。
 とにかく今は、戦闘に紛れて、ここから逃げなくては。

11 ティエン

 ぼくは父さんを案内して、玄関ホールの隅に急いだ。ここに、地下通路への脱出シューターがある。
 まさか、こんな騒ぎになるとは思ってもいなかった。ぼくはただ、自分の仕掛けた発煙弾で騒ぎを起こすつもりだったのだ。
 しかし、これは見逃せない機会。
「父さん、どうぞ」
 先を譲って、父さんをシューターに入れた。父さんは何も疑わず、
「すまんな」
 と手摺から手を放し、急な滑り台に身をゆだねる。普通なら、二秒で地下の脱出路に降り立てる。
 父さんが、湾曲するシューターの奥で、あっと叫ぶのがわかった。
 あとは、液体がごぼごぼいうだけ。
 ぼくはシューターを途中で塞ぎ、液体窒素を注いでおいたのだ。人間を凍結させるに足りるだけ。
 自分で殺す勇気は、まだない。
 だから、凍結させてカプセルに入れる。
 そして、自分が《ファルシオン》の実権を握ってから、ゆっくり先のことを考えるつもりだった。
 だが、こうなってはもう、ひたすら逃げるしかない。この屋敷を攻撃してきている者は、ぼくのことも、父さんのことも、何とも思ってはいないだろうから。
「ティエンさま!!」
 驚いて振り向いたら、レジーナやソランジュ、ソラヤ、侍女たちが集まってきている。ある者は怪我をし、ある者は慣れない銃を構え、ある者はアンドロイド兵士を連れて。
「誰が攻撃してきているのですか?」
「わたしたちは、どうすればいいのですか?」
 聞かれたって、ぼくにもわからない。だが、じきにここも破壊される。
「階段から地下へ降りろ。非常用の車がある。それに乗れ」
 ぼくは、凍った父さんを回収しなければならない。今はジュンのことすら、後回しだ。彼女は自分で何とかする、と期待するしかない。
 つくづく、思う。
 ぼくは、準備が足りなかった。この世界に立ち向かうための準備が、まだ何もできていなかったのだ。

 最初に向かったのは、《ファルシオン》の本部ビルだ。
 凍りついた父さんは、輸送用のカプセルに詰めて、車に積んである。乱暴な凍結だったが、蘇生は可能なはずだ。脳さえ無事なら、肉体は新しく用意できる。手足が欠けても、問題ない。
 問題は、中核の部下たちが、ぼくの指揮権を認めるかどうか。
 彼らにとって、ぼくは甘やかされた箱入り息子。
 父さんは乱戦で死んだ、ぼくに後継を託した、で通すしかない。
 女たちには、ぼくの芝居に合わせろと命じてある。それで通用しなければ、幹部たちを皆殺しにしてでも、ビルを占拠する。
 ぼくが生きていくためには、組織が必要なのだ。武力がなければ、ジュンを捜すこともできない。
 だが、本部ビルの駐車場に車を入れると、武装したアンドロイド兵士に囲まれた。ここの警備部隊ではない。制服が違う。
「降りてきなさい、坊や」
 兵を指揮しているのは、知らない女だ。長いまっすぐな黒髪に、迷彩の戦闘服。腰には銃。
 父さんの部下ではない。それなら、ぼくにこんな偉そうな態度はとらない。
「わたしはリンジー。最高幹部会の命令で、ジュン・ヤザキを受け取りに来た。しかし、手違いがあったようだ」
 手違いだって?
「さっきのリンジーが、偽者?」
 途端に、ぼくの足元で床が飛び散ったので、思わず、数歩下がった。リンジーが、パルスレーザーで撃ったのだ。
 ぼくの侍女たちは怯え、車を降りた所で寄り固まっている。
「ティエンとやら、きみがジュン・ヤザキに入れ込んで、芝居を打ったのだろう?」
 何だって。
「外部の人間を雇って、ジュンを逃がそうとしたね。ついでに父親の組織を乗っ取るというのも、いい度胸だ。恋は盲目、という奴だな」
 何か誤解されている。
 だが、抗弁は無駄だった。彼女は一方的に言う。
「きみが、ジュンのために用意した逃走ルートがあるはずだ。それを教えてもらおうか」
 そうか、ジュンは無事に逃げているのだ。それなら、それでいい。
「知らないな。ぼくは、使者にジュンを引き渡しただけだ。あれが偽者だというなら、騙されたのはぼくの父の責任だ。父は屋敷で死んだよ。攻撃してきたのは、あんただったんだな」
 しかし、リンジーの部下らしい男が、ぼくの乗ってきた車を調べて報告した。
「発見しました。シャザムです。冷凍にされています」
「ここに降ろせ」
 父さんを解凍し、復活させるつもりかと思った。ジュンのことを最高幹部会に連絡したのは、父さんなのだから。
 しかし、リンジーはアンドロイド兵に命じて、凍った父さんをカプセルから出させた。そして、床に叩きつけさせた。
 ひとたまりもない。
 父さんは凍ったまま、ばらばらに砕け散った。手足は折れて散乱し、頭部も胴体も割れて砕けた。
 常温では、肉体のかけらはすぐに溶けだし、腐っていくだろう。これではもう、助かりようがない。
 凍らせたのはぼくだが、殺すつもりではなかった。まさか、こんなことになるなんて。
「なぜ、こんな、ことを、するんだ」
 ぼくの、たった一人の肉親がいなくなった。
 ぼくにはもう、誰もいない。
 父さんはぼくの独立を認めなかったが、それでも、父さんだったのに。
 リンジーは平然として、父さんのかけらをじゃらっと蹴飛ばす。
「最高幹部会と取引しておいて、こんな不始末をしでかしたんだ。文句は言えないだろう。おまえも、これから薬品で尋問する。連行しろ」
 取引に偽者が入りこんだのが、父さんのせいなのか!?
 それとも、口実をつけて《ファルシオン》を乗っ取りたいのか!? そして、自分のボーナスとして手に入れる!?
 命乞いは、無駄だ。
 この女、尋問して何も出てこなければ、ぼくを殺す。
 何か出てきても、やはり殺す。さもなければ、洗脳して使い走りにする。
「ティエンさま!!」
 怯えているとばかり思っていた侍女たちが、何かを放り投げた。それが爆発して、あたりに閃光が満ちる。
 銃弾が飛び交う中、ぼくは車に飛び込み、発進を命じた。女たちの一人が運転して、車はビルから離脱する。肩と脚を流れ弾がかすっていたが、たいしたことはない。
 ビルの管理システムがぼくらを撃ってこなかったのは、まだリンジーが、ビルを掌握していなかったからだろう。
 だが、すぐ追跡をかけられる。
 どうやって逃げればいいんだ。相手は最高幹部会だ。この都市を丸ごと、味方につけられる。
 泣きそうだった。どうすればいいのか、わからない。ぼくはガキだ。自分一人では、何もできない。
 父さん、助けて。
 今はハキムすら、懐かしい。
「ティエンさま」
 気がついたら、レジーナがぼくの横にいる。汚れたメイド服のままだが、顔にははっきりした意志が表れていた。
「わたし、前に聞いたことがあります。近くのビルに、非常用の車が隠してあるって」
 レジーナは、確か、本部ビルで働いていたことがあった。その時、人間の職員たちの話を聞いたのか。
「まず、車を替えましょう。その車に、きっと必要なものが積んであるはずですから」
 振り向くと、車内にいる他の女たちは、それぞれ、怪我をした女の手当てをしたり、車内の装備から戦闘服を引き出したり、武器類を調べたりしている。誰も泣いていないし、縮こまってもいない。
 どうしてだ。侍女なのに、まるで、兵士みたいじゃないか。
「わたしたち、一応、非常時の訓練も受けているんですよ」
 とレジーナがにっこりした。
「だって、いざという時、ティエンさまを守らないといけませんから」
 ぼくは痛いほど、自分を恥じた。
 何という馬鹿だったんだ。
 この女たちをまともに見ず、はるか彼方のジュンに憧れて、そのジュンからは軽蔑されて。
「ありがとう。助かった。一緒に、次を考えてくれ」
 すると、女たちはにっこりする。
「はい、ティエンさま」
 まだ、一人ではなかった。この女たちは、ぼくと共に来てくれるのだ。この甘ったれの、大馬鹿のぼくと。

12 ジュン

 違法都市では、組織同士の戦闘は、珍しいことではないという。
 だから、広大な緑地の一角でミサイルが炸裂していても、戦闘フライヤーが飛び交っていても、近くの幹線道路を流れる車の群れは、平然として過ぎ去っていく。
「どこの組織だ」
 くらいは気にするかもしれないけれど、特に報道されるわけでもない。興味を持って調べれば別だが、無関係の者たちは、道端の小競り合いのことなど、すぐに忘れてしまうだろう。
 戦闘が公道に及ぶようなら、都市の警備部隊が出てくるかもしれないが、あらかじめ迷惑料でも払ってあれば、
『この道路は、迂回することを推奨します』
 と告知して、終わりかもしれない。
 あたしとエディの車は(戦闘には向かない、ただの小型トレーラーだ)無関係の車に紛れ、繁華街の一つに入り込んでいた。
 追跡があるかと思ったけれど、いまのところ、それらしい動きはない。無数の爆炎と、偽装用の外壁カバーが、うまくあたしたちを隠してくれたようだ。
 市街には、買い物や食事や散策を楽しむ人々が溢れている。人間と、お供のバイオロイド、護衛のアンドロイド兵士。
 市民社会と違うところは、護衛の有無だ。護衛なしで違法都市を歩く者は、バイオロイドの娼婦や、使い走りの下っ端兵士くらいだろう。
 あたしたちも、追われているのでなければ、ああやって歩けるかもしれないのに。せっかく違法都市まで来て、車から降りられないのは残念だ。
「ジュン、どうする?」
 と顔の半分に保護シールを貼ったエディが言う。
「そうだね……」
 あたしたちの車は、ドライブのように繁華街を流していた。しかし、都市の管理機構が全ての車を識別し、行く先を記録しているはずだ。
 ネピアさんが普段、どんな偽装で行動しているのか知らないけれど、いつまでもふらふら、街をさすらっているわけにはいかない。いずれ不審車に分類され、追っ手に通告されてしまう。
「普通なら〝オフィス〟を頼るとこだけど、きっと最高幹部会が監視をつけてると思うな」
 ネピアさんは、この車内にメモを残しておいてくれた。司法局の辺境出張所である〝オフィス〟や、ネピアさんの使う隠れ家の位置が示されている。状況によって、行動を選べという意味だろう。
「だろうね」
 とエディも言う。
 司法局が、辺境での〝密かな〟活動拠点として、違法都市にビルを持っていることは、公然の秘密だ。
 常に何人かの司法局員が滞在して、違法組織の情報を集めたり、街の噂を拾ったり、新しい武器を買い入れたりしている。
 都市の支配組織にとっては〝目障り〟だろうけれど、普段は、毒にも薬にもならないから、放置されているという話。たいした戦闘力はないし、違法組織の〝連合〟に逆らう動きもしない。単なる駐在員の宿だ。
 使い捨ての運命から逃れた亡命バイオロイドなら、駆け込んで保護してもらっても、特に問題は起きないというけれど。
 しかし今は、賞金首のヤザキ船長の娘が、クルーの一人と一緒に誘拐されたと、辺境中に知られている。最高幹部会まで護送されるはずが、迎えの使者が来て、あの騒ぎだ。
 ネピアさんがどう攪乱してくれても、本物の使者は今頃、この都市中に追っ手を放っているだろう。
 うかうか〝オフィス〟に近づいたり、連絡を入れたりしたら、すぐさま捕獲されてしまうのではないか。
「船が手に入るといいけどな……」
 違法都市でもレンタルの船はあると思うが、あたしたちには所持金はない。高く売れるような物品もない。
 このトレーラー内をざっと調べてみたが、多少の武器と装備、食料の備蓄があるだけだ。
 辺境の決済機構《プラチナム》の口座にアクセスできる腕輪型端末もあったが、利用できる金額は、精々、武器や食料、雑貨の補充程度。
 アンドロイド兵士は動力を切られ、待機の状態で三体だけ乗せられている。もしも戦闘になったら、三体なんて、気休めにもならない。
「《ファルシオン》はどうなったろう」
 エディが見たのは、ティエンがシャザムと避難していった姿だけ。今頃は本物の使者に協力して、あたしたちを捜しているかも。
 それでも、ティエンがネピアさんに対して、自分も同行すると申し出たことは、少しあたしを感心させていた。
 まるっきり、意気地なしでもないか。
 ただ、その直後、爆発の中では父親を助けようとした。それなら、それでいい。ティエンの選択だ。あたしは、あたしの父親の元に帰る。
「甘えついでに、ネピアさんの隠れ家に行ってみようよ。何か、使えるものがあるかもしれない」
 とエディは言う。あたしはそれも、危ない気がする。
「もし……ネピアさんが、本物の使者に捕まっていたら、薬で尋問されてるよ。固定した隠れ家は危ない」
「それなら、この車も突き止められているはずだ」
「うん……時間の問題かもしれない。でも、まだ何の攻撃もないことからすると、この車を突き止めにくいような偽装が施されているのかも」
 ネピアさんは殺されてはいない、と思いたい。
 ジェイクに頼まれて、あたしたちのために危険を冒してくれたのだ。
 攪乱だけして、無事に逃げ切っていてほしい。
「だけど、半端な気がするな」
 とエディが不満げに言う。
「ネピアさんが本当にぼくらを助けるつもりだったなら、船まで用意しておくのが普通じゃないだろうか」
 この車に、船へのアクセス方法が残されていないのが不思議だ、と言う。
「偽者だってばれるのが、早すぎたんでしょ。あたしたちと一緒に、脱出してくれる予定だったんだよ」
 船が欲しい。でも、仮に一隻買えたとしても、中央まで無事にたどり着けるか。護衛艦隊なしでうろうろしている単独船なんて、すぐさま怪しまれ、捕まってしまうのではないだろうか。
 この車を乗り捨て、他の車を手に入れるべきか。新たに買うのは無理でも、レンタルくらいならできるだろう。
 ただ、どんな偽装でレンタルすればいいのか。
 あたしには、辺境での動き方がよくわからないのだ。
 これまで、それなりに資料を見たり、経験者から話を聞いたりはしてきたつもりだけれど、実際に違法都市で孤立したら、途方に暮れてしまう。
 前に親父を救出した時は、軍の艦隊が一緒だったし、ジェイクたちもいた。あたしはただ、アイリスからの情報を元に、攻撃先の順位付けをしただけ。
 世間ではもてはやされても、実際には、自分の力で成し遂げたことなんて、ほとんどない。
 それに引き換え、ネピアさんはすごい。ジェイクと別れた後も、一人で……かどうかはわからないけど……辺境で生き延びていた。あたしがああいう風になるまでは、きっと二十年も三十年もかかる。それでも、ネピアさんの水準に追い付けるかどうか。
「とりあえず、何か食べよう」
 空腹では、頭も働かない。車を公園の駐車場に入れ、備蓄食糧の中から、野菜スープやチキンサラダ、ミートパイやアップルパイなどを選んで、コーヒーと共にお腹に入れた。
 そうすると、少し元気が出てくる。
 違法都市は冬の気候だが、明るい日差しに溢れていた。車を停めて、番犬と護衛兵連れで公園を散策する人々もいる。
 ここで暮らす人々には、ここは戦場ではなく、ただの日常の舞台なのだ。
 追われるあたしたちが、つい、びくついてしまうだけ。
 開き直ったら、どうだろう。
 どうせ、最高幹部会まで連行されることは、覚悟していたのではないか。
「ねえ、エディ、追っ手はあたしたちが、この都市を脱出しようとして焦っている、と思うよね」
「うん? それはそうだよ。時間が経てば、発見される確率が上がるもの」
「逆に、腰を据えたらどうだろう。ここにバカンスで来ていると思って、のんびりするの」
「のんびりって、この車の中で?」
 シャワーの設備も、簡易ベッドもある。簡単な厨房もある。二人なら、十分な居住空間だ。
「キャンプに来ていると思えばいい。貧乏旅行かな。中央から脱出してきたばかりの若いカップルだと考えて、そのように行動するの。違法都市がどんな場所か、まだよくわからなくて、おっかなびっくり、探検し始めたところ」
 エディは困惑している。
「それで、どんないいことが?」
「行動パターンを変えるんだ。逃げる者の行動をしない。ただし、救援だけは求める。アイリスにね」
 あ、とエディが納得した様子。
「そうだね。そうしよう。でも、どうやって救援を求める? 違法都市でする通信は、全て〝連合〟に監視されているはずだよ。それに、どこへ向けて発信すればいいのか」
 少なくとも、主要な都市は、ほとんど〝連合〟に所属する大組織の持ち物だ。大組織としては、都市内にいる者が、いつどこへ通信するか、その内容までもきちんと分析し、記録しているだろう。暗号化されていても、解読しようとするはずだ。
「アイリスに、あたしたちだとわかってもらえるような単語を入れて……広告を出す。たとえば……何か売りたいから、買い手を探しているとか。それだったら、都市のサービス網の中に、そういうコーナーがあるはずだ」
「なるほど。買い手がアクセスしてきたら、何か質問して、アイリスではないとぼくらが判断すれば、売れないと言えばいいのか」
 アイリス一族がどれほど増え、どれほどの力を持っているのか、あたしたちにはわからない。
 けれど、親父が誘拐された時には、居場所の候補地を絞ってくれた。
 今回も、もしかしたら、あたしたちの行方を気にかけてくれ、あちこちにアンテナを張っていてくれるかも。
 少なくとも、軍や司法局に頼るよりは、はるかに可能性が高い。軍や司法局の動きは、おそらく〝連合〟に筒抜けだろうから。

 その晩は、公園の駐車場に車を停めて過ごした。
 車からは下りなかったけれど、エディと料理したり、おしゃべりしたりして、のんびり過ごした。静かにしていれば、エディの骨折も問題ない。寝る時は、それぞれに簡易ベッドを使い、ぐっすり寝た。
 翌日は、あたりをドライブして楽しんだ。
 小型トレーラーの車内からは、外の景色が楽しめる。広い幹線道路から枝道に入り、川沿いを走ったり、森の中の林道を巡ったり、湖を渡る長い橋を通ったり。
 ただ、人気のない場所でも、車からは下りなかった。どこに監視カメラがあるかわからないし、昆虫ロボットが飛んでいないとも限らない。車内にいる限りは、たとえ重量センサーや赤外線センサーで調べられても、複数の人間がいることしかわからないだろう。
 夜はまた別な公園に停めて、ぐっすり寝た。いつ襲撃されてもおかしくないと思ったけれど、今のところは、静かなものだ。
 ネピアさんは、うまく逃げたに違いない。
「もしかしたら、ぼくらを捜してくれているかも」
「この車を知っているのに、まだあたしたちを発見できないなら、ネピアさんも身動きできずに隠れているのかもね」
 あたしたちは、ネピアさんが辺境で、今日までどうやって生きてきたのか、何をして生計を立てているのか、何も知らない。ジェイクと別れた時、ハンター稼業で貯めた資金は持っていたと思うけれど、それから後は、どうしていたのだろう。
「どこかの組織に入ったのか、それとも、自分で組織を作ったのか」
 不老処置や強化処置を受けて、もう市民社会には帰れない、帰りたくない身になっているのではないか。
「あたしたちが頼りすぎて、迷惑をかけてはいけない気がする」
「そうだね……これから先も辺境で生きていくのなら、〝連合〟に目をつけられるのは苦しいだろうね」
 というより、あたしは、ネピアさんにあまり関わりたくないのだ。
 感謝はしている……尊敬もする。でも、彼女は、ジェイクの頼みだから、わざわざ助けに来てくれたのだ。
 遠く離れていても、二人の間にはまだ絆がある。それが、あたしには苦くてたまらないのだ。

 車で暮らし始めて、三日目の午後。
「ジュン、あれ」
 エディが、ビルの壁面に出ている広告画面を指した。褐色の肌と、長い黒髪をした美しいモデルが、薄い衣装をまとい、花を持って微笑んでいる。その花は、青いアイリスだ。背景の花園も、青や白のアイリス。
 広告の中身は……都市内の新しいビルの宣伝だ。入居組織を募集している。見学は随時受け付けるから、どうぞと。
 あたしとエディは、互いの顔を見た。
 アイリスの花なんて、珍しくもない。
 だけど、あたしたちには、大きな意味がある。
「偶然かもしれないけど……賭けてみようか」
 広告で示されていたビルは、すぐ近くだった。見学したいと連絡すると、地下駐車場に入る許可が出た。車を乗り入れると、さっきの広告のモデルが一人きりで立っている。
 ドレスの襟元で輝いているのは、アイリスをかたどった宝石のブローチだ。青と紫、緑の色石でできている。これはもう、間違いない。あたしたちが車の扉を開くと、彼女は言う。
「合図に気付いてくれて、よかったわ。案内するから、来て」
 あたしとエディは口を開きかけたが、向こうは首を振る。
「グリフィンの部下が動いてる。話はあとでね」
 彼女に付いて階段を降り、都市の地下トンネルに出た。電気や水道などのライフライン用でもあり、地上から探知されずに移動する通路でもある。当然、都市側の監視はあるはずだが、それは何らかの方法で避けているらしい。
 そこを二百メートルほど歩いて別なビルの地下に入り、用意されていた車に乗って、別のビルへ移動した。そこからまた、別な車に乗り換える。
「これでもう、追跡は振り切れたでしょう」
 あたしとエディは、ほっと脱力する。
「来てくれて、ありがとう」
「助かりました」
「いいえ、元々、この都市にも潜伏していたのよ」
 ということは、アイリス一族は、他の都市にも密かに潜伏しているのか。
「あなたたちが、逃げ隠れする動きをしなかったのが良かったのね。追っ手は、主に繁華街の雑居ビルや、廃棄された倉庫なんかを調べていたわ」
 呑気に公園にいて、正解だったらしい。
 ここ数日の調査で、状況はおよそ把握した、と彼女は言う。アイリスの記憶を引き継ぐ一人だろうから、アイリスと呼ぶことにしよう。
「アイリス、ティエンはどうなったか、わかる?」
「この都市からは、脱出したわ。父親の組織は、壊滅したけど」
 どうやら、本物のリンジーがティエンの父親を殺し、組織を横取りしたらしい。でも、ティエンはうまく逃げ延びたのだ。とりあえずは、よかった。
「ジュン、奴の心配なんかしなくていいよ」
 とエディは不愉快そうに言う。
「それより、ぼくらのことだ」
 アンドロイド兵に車を運転させているアイリスは、淡々として言う。
「あなたたちを逃がすのは、難しくないわ。問題は、わたしたちの関与を誰にも知られないこと」
 もちろん、アイリスたちの存在は、これから先も秘密にしなければ。
「ネピアさんに助けられたことは、司法局に言っても構わないでしょ。その後は、自力で逃げたことにするつもりだけど」
 誘拐された被害者なのだから、司法局で調書は取られるにしても、薬品尋問されることはないはずだ。何か怪しまれない限り。
「これから、あなたたちを、隣の違法都市《ルリスタン》へ送るわ。そこならば、〝オフィス〟に助けを求めても大丈夫だと思うの。さほど厳しいマークはされていないはずだから。後は、司法局員が中央まで護送してくれるでしょう。ただ、どうやって《ルリスタン》まで逃げられたことにする?」
 あたしとエディは、顔を見合わせた。そこは、こちらで考えなければならないのか。
「大丈夫……何か考える。何かあっても、あなたに迷惑はかけないから」
 すると、褐色の肌のアイリスは、黒い瞳でにっこりする。
「別に、迷惑にはならないけど。わたしたちの存在が人間に知られたら、遠慮するのはやめて、すぐさま全人類を乗っ取るから」
「だめです!!」
「それはやめて!!」
 あたしとエディは、同時に叫んだ。
 辺境で、チンピラたちをこっそり〝仲間〟にしていくのは、まだいい。弱肉強食が辺境の掟であり、そのことを承知している者たちが暮らしているのだから。でも、それを市民社会にまでは広げないでほしい。
「人間にも、生きる余地を残しておいて!!」
「多様性こそが、繁栄を保証する、でしょ?」
 褐色の肌のアイリスは、再びにっこりした。だいぶ、人間らしさの演技が上手くなっている。
「わたしたちもまだ、人類には期待しているのよ。人間の中からは、これからも新しい個性が生まれてくる。だから、もうしばらくは、人類の陰にいるつもりよ」

 無事に中央に帰還してから、ジェイクにネピアさんのことを伝えた。
「そうか」
 彼はしばらく何か考え込む様子だったけれど、あたしは追求しなかった。追及したら、聞きたくないことが出てくる気がして。
 司法局には、真実のほとんどを説明した。ぼかしたのは、アイリスが関与した部分だけ。
「ネピアさんが用意してくれた車に、船を借りるだけの資金があった」
 ということにして、何とか通用したので、ほっとした。
 司法局の中にも、辺境に詳しい者は少ないのだ。だからこそ、辺境がらみの事件の時には〝リリス〟のようなハンターの力を借りるわけ。
 エディはまだ時々、何か思い出して暗い顔をする時があるけれど、それは仕方ない。あたしが話しかければ笑顔になるので、大丈夫だろう。
 エディには悪いけれど、強引に〝記憶の上書き〟をしたのは面白かった。男の肉体って、簡単に反応するのだとわかって。
 本当は、もっと何回も上書きする必要があるかと思ったけれど、あれ以来、あたしと二人きりになると、エディがそそくさ距離を取るので、その必要はなさそう。
 それでよかった。あんまり刺激すると、こちらの身が危険な気もするし。
(でも、もし、エディが望むようなら、それでも構わないかも)
 とは思う。
 あたしがいつか〝男性を知る〟ことになるのなら、エディはその相手として、悪くない。
 というか、あたしには過ぎた相手だろう。
 でも、それは、もう数年は先のことにしたい。エディはまだリナ・クレール艦長を思っているだろうし、あたしは……わずかな希望を、まだ捨てていないのだ。
 十六歳や十七歳のあたしでは、ジェイクを振り向かせるのは、とても無理。
 でも、二十歳を過ぎれば、どうだろう。今よりもっと大人になって、女らしくなったとしたら。
 それとも、その頃には、あたしは他の誰かを好きになっているだろうか。それがエディなのか、新たに出会う男性なのか、わからないけれど。
 ティエンのことは、時々、懐かしく思い出す。
 あたしのせいで、彼の運命が変わってしまった。辺境のどこかで、無事でいてくれるだろうか。
 でも、きっと、彼自身が変わろうとしている時期だったのだ。変わらなければ、永遠に父親の檻の中だから。
 あたしを捕まえ損ねた最高幹部会は、いずれまた、何か仕掛けてくるかもしれない。その時はその時だ。親父が懸賞金リストに載っている限り、危険は仕方ない。
 《エオス》はまた日常の仕事に戻り、貨物の輸送に飛び回っている。あたしはA級ライセンスの試験勉強をしたり、大学の通信講座で単位を取ったりして忙しい。
 こういう日常こそ、何よりの恵み。
 次の事件が起きるまでは、この平和を楽しもう。

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