ミッドナイト・ブルー ハニー編3

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ハニー編3 23 カーラ

 自分≠ヘいったい、何者なんだ。
 女として暮らすことに、もう慣れてしまった。マックスだった日々の記憶が薄れ、遠くなる。まるで、前世の記憶のように。

 ハニーは洗脳など、されていない。むしろ、ハニーの方がシヴァを支配している。最初に強制があったとしても、今のハニーは幸福そのものだ。
 自分≠ニいた時は、あんな笑い方はしなかった。
 自分≠ノ対して、あんな甘え方もしなかった。
 自分≠ェハニーに、指図していたからだ。あれをしろ、これをするなと。
 しかし、シヴァは違う。何よりも先に、ハニーの意向を尋ねる。自分はあくまでも黒子に徹し、そのことに満足している。自分は馬鹿だと自覚しているから、空威張りをしないのだ。
 たぶん、もう、ハニーを取り戻すことなど、できない。もしかしたら最初から、マックスのものではなかったのだ。
 では、カーラの肉体で生きる自分≠フ存在は何だ。そもそも、こんな真似をする必要はなかったのではないか。
 いや、ショーティなら言うだろう。
『きみがそれを理解できるようになったことが、進歩なのだよ』
 とか何とか。
 言わせておけ。どうでもいい。
 今の自分≠ェ元のマックスに合流しても、もはや意味がない。
 超越化したマックス本体は、カーラが変質したと考え、抹消しようとするだけだろう。腐った部分を切り捨てないと、他の部分にも毒が回ると考えて。
 どうすればいい。
 このままカーラとして、女たちの城で暮らすのか。
 それとも、ここを出て、新しい道を探すのか。
 自分≠ェカーラのふりを続ける限り、ショーティも余計な口出しはしないと思うが。

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 馬鹿だったのかもしれない。自分は常に他人より賢いと思ってきたが、こんな基本的なところで、大きく間違えていたのだとは。

「もう一度、男の肉体に戻るかね」
 ある時、ショーティに言われた。
「カーラとして暮らして、得るものを得たと思うなら、適当な男性体に脳移植することはできる」
 それが穏当なのかもしれない。だが、即答はできなかった。
「考えさせてちょうだい」
 ハニーに未練がないわけではない。だが、以前のような渇望はなくなった。
 自分が女であれば、女という生き物に対する憧れは消滅する。女の舞台裏には、醜い部分や、苦しい部分も多い。
 それも含めて、愛すべき存在だとは思うが。
 ハニーのことは、シヴァに任せておいて構わないのだろう、たぶん。
 だが、すぐにここを立ち去るのも、ためらわれる。既に自分は、ここに根を下ろしてしまった。
 それに、マックス本体は、スパイとして派遣した部分≠ェ反逆したと知ったら、どうするか。
 もう一度、部分≠送り込んでくるかもしれない。その部分≠ェ、今の自分≠ニ同じ心境になるかどうか、わからない。
 やはり、もうしばらくハニーの近くにいるべきだ。
 もう、シヴァから取り戻そうとは思わないが、それでも、ハニーを守りたい気持ちは残っている。
 自分は、ハニーを愛したのだ。醜くて、孤独な娘だったハニーを。自分の魂が、ひりつくように孤独だったから。孤独を知る同士なら、支え合えると思っていた。
 実態は、自分がハニーを支配しようとして、苦しめていたのだとしても。
 ハニーが望んでいたものは、たかが女の服≠ナはない。女が生き易い世界≠フことだった。
 それが、あの頃の自分にはわからなかった。それがわかるようになっただけ、ましなのだとは思うが。

 自分の行く先を決められないまま、カーラとして八年目に入った。
 《ヴィーナス・タウン》は十号店まで増えたので、新たな店の準備のために、他の違法都市へ派遣されることも多い。
 今ではハニーの側近の一人として、他組織にも広く知られるようになっている。
 どこの組織の幹部と会合しても、下にも置かないもてなしぶりだ。
 貢ぎ物も多いが、それはあらかた部下たちに譲り渡している。辺境では、差し出されるものを拒む習慣はない。
 個人的なデートの誘いは、試験的な意味で何度か受けてみたが、もうたくさんだ。中身のない空威張り、幼稚な自己顕示。彼らから得るものは、ほとんどない。
 マックス本体からの接触も、ずっとないままだ。
 この作戦が失敗したと判断しているのか、それとも、気長に様子を見るつもりなのか。
 マックスとしての日々は、ほとんど思い出すこともない。
 今ではカーラとして笑い、カーラとしてしゃべる。
 部下からの相談を受け、諸々の判断を下し、旗艦店にいるハニーに報告をする。言い寄ってくる男は、優雅にあしらい、退ける。
 だが、心の中には空洞が広がっていて、気をゆるめると、砂漠の流砂に沈むように、どこかへ落ちていきそうだ。
 何のために、生きている。
 どうすれば、自分が楽になる。
 もう、ハニーを取り戻すつもりはない。もしもシヴァから引き離したら、彼女はマックスを呪い、悲嘆でおかしくなってしまうだろう。
 といって、マックス本体に戻る道も選べない。
 マックスの持つ闘争心は、寂しさの裏返しだ。
 母親に愛されなかった少年が、今もマックスの中核にいる。ただ、その惨めさを、本人が認めたくないだけだ。自分は強いのだと、誰にも負けないのだと、証明したがっている。
 離れてみれば、こんなにもはっきりと見通せるのだ。
 本当に強ければ、リリス≠フように、淡々と戦い続けられるのだろう。ただ、人から感謝されることだけを糧にして。
 自分には無理だ。そんな親切心はない。人類の大多数が愚か者だという認識に、変わりはない。
 ただひたすら、自分が幸せになりたいがために努力してきた。途中までは、成功していると思っていたのに。

「人生の道を引き返すのは無理だが、これから先、また幾つもの分岐点がある。きみは好きな道を選べばいい」
 そう語るのは、ショーティだ。
「何が正しいかなど、誰にもわからない。だから、自分の心の声を聞くのが一番いいのだろう」
 彼がわたしに話しかけてくるのは、ドライブしている車の中だ。彼は《ヴィーナス・タウン》周辺のあらゆる場所に存在しているから、わたしが呼べば、いつでも応えてくれる。犬の姿では、大抵、ハニーかシヴァの傍らにいる。
「その、心の声がわからない」
 仕事帰りのわたしは、午後のひと時、街を車で流している。違法都市の市街は新緑で輝き、ジャスミンの白い花が、あちこちで濃密な香りを撒いている。
 噴水が噴き上げる公園、百合や躑躅や紫陽花を植えた緑地、丘を巡る遊歩道、幾つもの湖をつなぐ川。
 他人が見れば、白いドレスを着て金色のストールを巻き、エメラルドのイヤリングを下げ、好きに車を飛ばすわたしも、輝かしい存在に映るだろう。
「きみにわからないものが、なぜわたしにわかる?」
 今ではショーティが、わたしの主要な話相手になっている。彼もまた、犬でもない、人間でもない、孤独な立場にいるからだ。
 わたしより高い地位にいても、先行する超越体の配下であることには変わりない。
 そいつが事実上、この人類社会を支配している。人類の大多数が何も知らないうちに。
「カーラでいることが辛いのなら、男に戻る道もある」
 男の肉体に立ち返り、別の女を愛すればいいではないかと、ショーティは言うのだ。
 だが、男に戻ったら、再び、燃え立つ闘争心に駆り立てられるのではないか。
 強さを求めてマックス本体と融合してしまい、元のマックスに吸収されてしまうのではないか。
 それは怖い。
 今は寂しいなりに、冷静な心持ちでいるのだから。
 冷静でいることは、男でいた時より、はるかに楽に叶えられる。
「そんなに都合よく、恋愛なんかできない」
 最初に愛した女が、特別すぎた。誰を見ても、ハニーとは比較にならないと感じてしまう。

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「シヴァも、そう思っていた。従姉妹にこだわって、狭い世界に閉じこもっていた。だが、些細なきっかけで、人を愛した。出会いなど、偶然で構わないだろう。世界一でなければ愛せないというのなら、この世に相思相愛のカップルなど、ほとんど誕生しなくなってしまう」
 ショーティの言い分は真っ当だ。女として、男を愛するという可能性も考えてはみた。
 だが、自分が辺境のどの街を歩いても、寄ってくるのは、ろくでもない男ばかり。
 まともな男も存在することはするが、彼らの大半は、市民社会で穏やかに年老いていく。
 この自分が超越化して、マックスとは異なる進化をするという道も考えた。
 だが、カーラとしての生活を捨て去る決心もつかない。
 ここにいれば、少なくとも、ハニーの様子をじかに知ることができる。共に働く仲間たちに囲まれ、穏やかな時間を過ごすことができる。きわめて心地よい。
 蜂蜜の壺に落ちた蟻のように、いずれ窒息するとしても。

 自分は結局、寂しがりなのだ。
 誰かといたい。
 必要とされたい。
 笑い合いたい。
 そのことが、以前は素直に認められなかっただけ。
 シヴァに格闘技の訓練を受けたおかげで、カーラとしての自分に、深く馴染むこともできた。
 大柄でも怪力でもないが、しなやかで、器用な肉体だ。
 若く健康な女の肉体で暮らしていると、男でいるより、たぶん、自分を愛しやすい。音楽を聴きながら肌や爪の手入れをしているだけで、結構、満足できるのだ。
 男は、そうはいかない。常に、他の男との競争にさらされるからだ。強くなること、勝負に勝つことに駆り立てられ、夢中になりやすい。そのために、大事なものを投げ捨ててしまう。
 だが、大抵の女には、それほどの競争心がない。あるとしても、男よりずっと温和なものだ。
 他人と比較せず、自分が向上するだけで満足できる女も多い。女としての暮らしは、おおむね平和なのだ。
 だから当面は、ショーティの慰めだけでいい。まだ、しばらくは耐えられる……たぶん。

 わたしがハニーの代理人として滞在していた違法都市《キュレネー》のホテルに、一人の男と小さな女の子がやってきたのは、幾つかの会合を終えて引き上げてきた夕刻だった。
 カーラとなって、十年目にあたる。
 事前の予告はなく、ただ、フロントから面会者だと告げられたのだ。
 ロビーにいるその二人組の映像を見た時、ぎゅっと心臓を締め上げられた。
 間違いない。
 目許をサングラスで隠しているが、紺のスーツを着た金髪の男は、マックスだ。
 というより、マックスの操る端体か。
 しかし、彼が腕に抱き上げている、ピンクのワンピースを着た、三歳か四歳くらいの女の子は……!?

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 違法都市で、小さな子供を見ることは滅多にない。それだけで衝撃だが、その子は肩まで伸びたプラチナブロンドの髪と、白い肌を持ち、ぱっちりした灰色の目で周囲を眺めていた。楽しげに、珍しげに。
 通る人に驚いた目で見られても、振り返って注視されても、自分は安全だと確信しているようで、機嫌はよい。
 顔立ちは美形ではなく、ややファニーフェイスだが、小さな子だから、十分に愛らしいと形容できる。
 二人の周囲にはアンドロイド兵の護衛が付いているが、それも最低限の数であり、違法都市ではごく普通の備えに過ぎない。
 あの女の子は、もしや、ハニーのクローン体なのでは!?
 フロントを通じて面会を承諾し、彼らがエレベーターに乗り、自分の部屋にやってくるまでの数分で、様々な想像が頭を駆け巡った。
 この事態が実現するには、ショーティの助力が必要だったのではないか。
「やあ、カーラ」
 護衛兵を通路に残し、わたしの部屋に踏み込んできた男は、まず、抱いていた女の子を床に降ろした。
「ご挨拶しなさい、ハニー。パパのお友達だよ」
 やはり。
 小さなハニーは、物怖じせずににっこりした。
「こんばんは、お姉ちゃま」
 そうするとこちらも、
「こんばんは。ようこそ、ハニーちゃん」
 と微笑むしかない。わたしの笑みは、かなりぎこちなかったと思うが。
 金髪の男はサングラスを外し、青い目をこちらに据えて言った。
「カーラ、この子に奥でアニメを見せてやってくれないか? 何が見たいか、本人が言うだろう」
「ええ」
「ハニー、パパはお姉ちゃまと話があるから、おまえは向こうで遊んでいなさい」
「はあい」
 こちらの護衛兵の一体が、彼女を部屋の奥のソファへ連れていき、クッションを調節してうまく座らせ、壁の画面に、彼女の見たがる人気アニメを呼び出した。
 これで、しばらくは手がかからないらしい。
 わたしは馴染み深い姿と間近に向き合い、そっと呼びかけた。
「あなたはマックス……よね?」
 だが、この男は、記憶にある自分自身より、十年分くらい年かさに見える。
 顔が老けているというより、落ち着いた声や態度のせいだ。それは、父親としての貫禄に思える。
「そうだ。まず、カーラ、きみに感謝を伝える」
 感謝?
「きみの貴重な体験は、過去数百回にわたって、マックス本体に還元されている」
 衝撃を受けた。
 まさか。いつの間に。
「おかげで、女としての感じ方や考え方を学ぶことができた。他ならぬ、自分自身の体験として」
 理解した。そういうことか。
 ショーティがわたしの食事や飲み物に何か混ぜ、あるいは部屋にガスを流し、深く眠らせて、記憶のスキャンを行っていたのだろう。わたしが何も怪しまないよう、用心深く、記憶の辻褄を合わせて。
 その記録は全て、マックス本体に送られていた。そして、マックスに影響を与えていた。
 ショーティがわたしにそれを知らせなかったのは、わたしを孤立させておく方が、カーラとしての成長に益すると判断したからだろう。たぶん、その通りだ。
「それじゃ……」
 目の前の男は、淡々と言う。
「きみが悟ったことは、マックス本体も理解したよ。ハニーはもう、マックスを必要としない。たかが女の服≠ナはなく、女が生き易い世界≠求めていたのだから」
 通じている。
 カーラの学びは、本体に還元されている。
「だから彼女のことは、シヴァに託すしかない。シヴァは理解している。ハニーの願う世界を。それはもう、あきらめがついた。過去のわたしには、理解できなかったことだ」
 理解してくれたのか、本当に。
 ハニーの幸福も、カーラの孤独も、絶望も、何もかも。
 わたしがマックスから分離した使命は、もう果たされたということを告げに、彼はやってきたのか。
 部屋の奥では、子供向けアニメの音声が、抑えた音で響いている。変身して戦う、勇敢な女の子たちの物語。普段は学校に通い、普通の暮らしをしている女の子たちが、市民社会の危機には、スーパーガールになって悪と戦う。
 自分がその悪の側にいることを、この小さなハニーが理解するのは、いつのことか。
 いや、それでも自分の父親は、混沌とした世界に正義をもたらす存在だと信じるのか。
「超越化というのは、そういうことだ。端体の経験したことは、そのまま本体に共有される。本体が拒否しない限りだが」
 本体から分離して以降、孤立していたカーラには、この十年、マックス本体がどんな経験をし、どんな悟りを得たか、知りえない。だが、彼は進化したのだ。
「距離を置いてはいたが、わたしもまたきみと一緒に悩み、苦しんできた。その結果、一つの実験を思いついたのだ。自分の手で、ハニーを育て直してみたらどうかと」
 マックスが、父親になることを積極的に選択したというのか。あの、自己愛の塊だった男が。あの小さな子を、日々、自分の手で世話していると。
 わたしの視線を追って、目の前の男は苦笑した。
「まだ、ハニーに未練があったのだよ。自分は何か間違ったかもしれないが、自分なりに、必死で愛したつもりだった。彼女を自分の魂の伴侶だと思ったことは、間違いない」
 それは本当だ。
 それは、この自分の記憶そのものだから。
 母親の帰ってこない家で、他所の家に明かりが灯るのを眺め、一人で過ごしていた少年時代。
 惨めさを振り払うため、勉強やスポーツに打ち込んだ日々。
 母親の手料理は食べられなかったが、その代わり、自分で料理を学んだ。必要なことは、何でも自分でできるようになった。
 それでも、自分を見てくれる女が欲しかった。大事な存在として、ひたすら愛して欲しかった。
 それが、最大の野心だったかもしれない。辺境で組織を築き、不老不死を手に入れるよりも。
「だから、ショーティに頼んで、ハニーの細胞を採取してもらった。あの子を育て始めてから、わたしがどんなに救われたか。それを、きみに理解してほしかった。だから、連れてきた」
 小さなハニーは、夢中で画面のヒロインたちを追っている。目を丸くして、口を半開きにして。
 今はまだ小さすぎて、将来、どんな風に育つのかは想像しがたい。だが、このマックスの庇護に包まれていれば、おそらく、大きな不幸は経験せずに済むのではないか。
「赤ん坊の時、ほんのわずかに、顔立ちに手を加えた。特別な美人にはならないが、十分、可愛い娘になるだろう。当然ながら、元のハニーとは、全くの別人格に育つ。わざわざ、強い劣等感を持たせる必要はないと思ってね」
 元のハニーには、それが決定的な打撃だったのだ。自分は美しくないという劣等感。身内から同情される屈辱。
 それを紛らわすために秀才の殻をまとい、頑なに男を拒んでいた。
「どのみち、わたしが守って育てるのだから、幸せに育つ。いつか、あの子が他の男を愛する時が来たら、わたしは喜んで送り出してやれるだろう。そうでなければ、わたしが伴侶にしてもいい。あの子が幸せになる道なら、何でもいいと思っている」
 それが、マックス本体の選んだ解決策か。
「もちろん、超越体としての進化も、同時に追求する。わたしの組織は、今も拡大を続けているよ。弱小組織を乗っ取っては、改革している。良い方向へとね」
 わたしの顔に疑念を読み取ったのか、マックスは再び苦笑した。まるきり、善良そのものの父親のように。
「人の命を尊重する方向へ、だよ。バイオロイドを使い捨てにすることは、もうしない」
 それは。既に、そこまで。
「娼館の経営は続けているが、生きた人間ではなく、特殊な人形を使っている。心を持たない人形をね」
 それを聞いて、気が抜けた。
 それで採算が合うなら、他の店にも少しずつ、広がっていくかもしれない。
「わたしは既に、このハニーから強い影響を受けている。この子が大きくなった時、わたしを誇りに思ってくれるようにしたい。辺境であっても、この子が幸せに暮らせるよう、考えていくつもりだ……人類社会の存続も含めてね」
 マックスは、はるか年上の男性のようにわたしを見た。ほとんど、慈愛を込めた顔で。
 わたしは少し、苛立ちを感じた。
 これでは、まるでショーティだ。
 これが、超越化の成果なのか。マックスは進化した。わたしを置き去りにして。
「このことを、ハニー本人には?」
「きみから話してもいいが、話す必要があるかな?」
 そうだ。ハニーはもう、マックスのことなど忘れ去っている。
「いいえ。わたしだけ承知していれば、いいことね」
 もちろん、ショーティも知っている。マックス本体は、依然としてショーティの監視下にあるはずだ。
「そういうわけで、カーラ、きみはもう自由だ」
「自由?」
「わたしの元に戻ってきてもいいし、このままカーラとして暮らしても構わない。男に戻ることも自由だ。自分の組織を育ててもいい」
 なるほど。
「きみがどう動こうと、マックス本体は、きみを恐れない。妨害することもない。援助が欲しければ、そう言ってくれればいい」
 そうか。そこまで自信を深めているのか。
 もはや、元のマックスからは遠く離れている。
 わたしが何か答える前に、ハニーが椅子から這い降りた。アニメに未練を残しつつ、むくれたように言う。
「パパ、おしっこ」
「よし、ちょっと待て」
 マックスは笑いながら歩いていき、幼女を抱き上げて、兵の示したバスルームに消えた。
 手慣れた動きだ。普段の生活がよくわかる。
 この子は、マックスを理想の男性と思って成人するだろう。本物のハニーからは得られなかった絶対の信頼と愛情を、マックスは既に手に入れている。
 彼にとっては、このハニーこそが心の支え。他のことは全て、どうでもいいことになる。
 やがて、二人が目の前に戻ってくると、わたしは腕を差し伸べた。ぎこちなくではあるが、笑うことはできる。
「ハニーちゃん、お姉ちゃまにだっこさせてくれない?」
「うん、いいよ」
 ふっくらした腕がこちらの首に巻きついてきて、腕や胸に柔らかい重みを感じた。温かい、みっしりと肉の詰まった肉体。肌の甘い匂いがする。髪からは、酸っぱいような、汗の匂いもした。小さい子は、新陳代謝が盛んなのだ。
 揺すり上げて抱き直すと、全身に強い情動が走った。この心地よい温かさ。魂に響く重み。
 絞り上げられるように、痛切に思った。自分も、こんな子供を抱きたい。自分のものとして。
 食事をさせ、遊ばせ、風呂に入れ、寝かしつけ、そうして日々暮らせたら、どんなに幸せだろう。
 これが女の本能……いや、人間の本能なのか。
 市民社会にいれば、それは簡単なことだった。マックスとして女を愛し、結婚を望めば。
 だが、今の自分は。
 男に戻りたいのかすら、わからない。
 幼女の重みと自分の渇望をしばし味わってから、そっとマックスに返した。
「しばらく考える……考える時間が欲しい」
 彼は薄く微笑んだ。
「急ぐことはない。時間はたっぷりある。何百年でも、何千年でも」
 そうだ。それが最大の福音だ。迷う時間を持てることが。

 来客を送り出してから、植え込みに守られたバルコニーに出た。薔薇やジャスミンの甘い香りが、涼しい夜気に溶け込んでいる。
 ぐったり疲れた気がして、手摺りにもたれた。眼下には、都市の夜景が広がっている。
 ビルの内側に灯る、オレンジがかった明かりや、青白い明かり。道路を流れていく車の列。マックスたちの車は、あの夜景のどこかに消えていくのだろう。
 自分の悩みは、少なくとも悩みの中核部分は、あっさりと解決した。
 わたしは自由。
 マックス本体は味方。
 どんな道を選んでもよい。
 だが、いきなり宙に放り出されたようで、心身のバランスが取れない。
 これが、自由?
 こんな空虚で、頼りないものが?
 マックスはカーラを置き去りにして、はるか先に進んでしまった。勝手に納得し、勝手に幸せになって。
 だが、カーラの肉体に封じられた自分は。
 誰が、わたしの空虚を救ってくれるというのだ。

 改めて想像してみたが、たとえば自分の遺伝子やハニーの遺伝子から子供を作って、それで問題が解決する気がしなかった。
 一時的な慰めにはなるだろうが、その先は?
 子供はいずれ、独立していく。孫ができるかもしれない。単に、心配する相手が増えるだけではないのか。
 自分はもう、ハニーとシヴァ、配下の女たち、大勢の人生を心配する立場にいるのだから。心配事なら、新人の育成だけで十分だという気がする。
 組織の中にわたしの居場所があり、日々の仕事だけで年月が過ぎていく。このまま何十年、何百年でも暮らしていける。時代の流れで、組織そのものが消滅しない限り。
 もちろん、彼らを全て捨ててしまってもいい。わたしがいなくても、代わりの人材は育つ。それが組織というものだ。
 だが、他で居場所を新たに築くには、長い時間がかかる。
 いま持つものを投げ捨てて、どこへ行こうというのだ。何が欲しいのかも、はっきりしないというのに。

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 二か月あまりの出張を終えて、《アヴァロン》に帰還した。
 同行の部下たちを解散させ、まとまった休暇を与えてから、ハニーの待つ執務室に向かう。
 業務報告は既に届けているから、挨拶に行くだけだ。
 ところがその手前で、ルーンが待ち構えていた。いつもの戦闘服姿だが、顔に緊張が表れている。
「お帰りなさい。ちょっといいかしら」
 ハニー個人の警備隊長であるルーンは、ハニーの執務室の近くに広いオフィスを持っている。そこに入ると、既に人払いがされていて、深刻な顔で打ち明けられた。
「カーラ、あなたの帰りを待っていたの。他には、誰にも相談できないし」
 シヴァがこの都市を離れたきり、行方不明だというのだ。もう一か月以上、連絡すらないという。
 だが、そんなことは不可能だ。
 他の誰が知らなくとも、ショーティだけは、常にシヴァの所在を掴んでいるはず。つまり、ハニーも知っているということ。
 ただ、それが何かの理由で、ルーンに伝えられていないのか。
 それともまさか、ショーティがシヴァを見失っている?
「シヴァさまのことを知っているのは、ハニーさまの他は、わたしたちだけでしょ」
 その秘密は、驚くほど長く保たれていた。
 ハニーの恋人がこの旗艦店ビルに出入りしていることは、幹部級の者たちには知られている。ハニーは空いた時間を、その恋人と共に過ごしているからだ。
 しかし、その人物の素顔を知り、じかに言葉を交わした者は、最初に雇われたルーンとわたしだけ。
 幹部たちには、彼は仇持ち≠セから顔をさらせないのだと説明している。辺境では、よくあることだ。
「まさか、そんなことがあるなんて」
 以前なら、マックスの企みで拉致されたのかと疑うところだ。しかし、わざわざ子連れでわたしに面会する手間暇をかけたマックスが、今更、そんな真似をするとは思えない。
 では、《ヴィーナス・タウン》の成功を快く思わない、何者かの攻撃か?
 それとも、最高幹部会の方針が変わったのか? しかしそれなら、ショーティが知っているはずだ。
「ハニーさまは、何て……!?」
「何か知ってらっしゃるようだけど、わたしには説明してくださらないの。平気な顔をして、普通に仕事を続けようとしているけれど、そんなの無理に決まってるでしょ」
 そうだ。ハニーはシヴァとショーティに守られているからこそ、安心して仕事に集中できていた。
 シヴァが行方不明で、ショーティが無策なら、正気を保てるかも怪しいものだ。
 だが、ショーティがなぜ、そんな事態を放置する?
「実際には、何も手につかないありさまよ。やっとわたしが誤摩化して、表面的には体裁を保っているけど、もう限界よ」
 ここまでの帰り道も、ショーティはわたしに何も言わなかった。彼は艦の管理システムに隠れているから、いつでもわたしと会話できたのに。
「シヴァさまが誘拐されたとか、暗殺されたとかいうことなのかしら?」
「いいえ、そうじゃないとハニーさまはおっしゃるの。何か大事な用で出掛けたのだと……でも、本当なら、もっと早くに戻っているはずなのよ」
 シヴァは、自分から出ていったのか。
 では、愛する従姉妹たちのことかもしれない。
 悪党狩りのハンターリリス≠ヘ、最高幹部会が市民社会を安堵させるために演出している、張りぼての英雄にすぎない。
 だが、当人たちはそれを知らず、自分たちは、自分たちの意志で動いている正義の味方≠セと思っている。
 その事情は自分でも調べたし、ショーティからも聞いている。リリス≠フことは現在のグリフィンが守っているはずだが、何か不手際があったのかも。
「あの方が、この《ヴィーナス・タウン》とハニーさまを放り出していく用事なんて、どこにあるの?」
 カーラとしては、当たり障りのない受け答えしかできない。
「でも、わたしたちは、あの方たちの過去を詳しく知っているわけではないしね。わたしたちに説明できない事情なんて、いくらでも有り得るわ」
 しかし、シヴァもせめて、ルーンが納得する言い訳を残せばいいのに。
 ルーンまでがこんなに憔悴しているのでは、隠そうとしても、部下たちにも不安が伝染してしまう。
「とにかく、ハニーさまに挨拶してくるわ。あなたはここで待っていてくれる? 帰りにまた寄るから」
 わたしは社長執務室の手前にある秘書室を訪れ、女たちに手土産の香水や菓子を配り、にこやかに挨拶してそこを通り抜けた。内密の報告があるので、しばらく邪魔しないように告げて。
「ハニーさま、カーラです。ただいま帰りました」
 ハニーはデスクに向かって書類を読んでいたが、実際には読むふりに過ぎないだろう。
 顔がやつれ、病人も同然だった。化粧で隠そうとしているが、成功していない。たぶん、きちんと眠っていないのだ。今夜は薬を使ってでも、眠らせた方がいいのではないか。
「ああ、カーラ。お帰りなさい。長旅、ご苦労さま。報告書は読ませてもらったわ」
 わたしを見て立ち上がり、手を差し出してきたが、今にもよろめいて倒れそうだ。
「ハニーさま、お側を離れていて、ごめんなさい。これからは、近くにいますから。どうぞ、何でもおっしゃって下さいな」
 自分よりいくらか背の高いハニーを受け止め、背中に腕を回して、しっかり抱いた。古い側近が帰ってきて気がゆるんだのか、ハニーの頬を涙がぽろぽろ伝い落ちる。
「ごめんなさい。わたし、おかしくなってるみたい。もう聞いたかしら。あの人が……」
「ええ、ルーンから聞きました。ここに座って。何か飲み物を運ばせます。蜂蜜入りのお茶でも」
 彼女をソファに落ち着かせ、自分はその足元に膝をついた。蜂蜜を入れたハーブティを運んできたアンドロイド侍女が去ると、わたしはハニーの手をさすりながら、やつれた顔を見上げる。
「聞かせて下さい。あの方は、何と言って出掛けたのですか」
 もうルーンが聞いたはずだが、わたしが聞けば、役立つヒントを発見できるかもしれない。ハニーはハンカチを握りしめ、声を整えようと努力している。
「大事な用が……急用ができたからって。ショーティだけを……連れて出掛けたわ」
 この場合は、犬のことだ。
 ハニーはわたしが、超越体であるショーティを、じかに話相手にしていることを知らない。
 しかし奴は、このビルの管理システムと常にアクセスしている。それなのに、ハニーを半病人のままにしておくのか。
「どちら方面に行くとかは?」
「何も……でも、予備艦隊を率いて行ったわ。他の拠点からも、予備艦隊を呼び寄せたから、ただの旅行じゃないと思うの。ルーンが言うには、中規模組織と戦争できる戦力だって」
 それなら、転移反応を追っていけばいい。隠そうとしても、わたしなら追跡できる。ある程度までは。
「心当たりは? 過去の敵とかは?」
 ハニーはためらった。涙に濡れた瞳をしていても、カーラは単なる部下と思っている。重荷は、自分で背負うしかないのだと。
「ごめんなさい……わたし、知らないのよ。わたしと知り合う前のシヴァのことは、あまり」
 そうだろうとも。
 彼もリリス≠焉A自分の出自を隠している。辺境で最も古い違法都市の一つ《ティルス》を建設した一族。
 ショーティを超越化の実験台に選んだ謎の超越体は、そのあたりに関わりを持つのではないかと、わたしは当たりをつけていた。
 だからこそ、シヴァの一族は、連合≠ニ距離を置いたままでも繁栄していられるのでは。
 自分が力を持てば、いつか真相に迫れるかもしれない。だが、謎の超越体は、その頃には、はるか先に進んでいるだろう。
「わたしに、シヴァさまを捜してほしいですか」
 と尋ねたら、ハニーは驚いて目を見開いた。
「無理でしょう、そんなこと。行く先の見当もつかないのに」
 わたしがただの女なら、その通りだ。わたしはあえて、挑戦的に笑ってみせた。
「ただ泣きながら待っていたいのなら、それでもいいですよ。でも、わたしがあなたの思う以上に有能だったら、どうします? シヴァさまを捜し当てて、彼を助けられるとしたら?」
 ハニーは灰色の目を見開いた。これまで、わたしが……カーラが、大言壮語などしたことがないのを知っている。
「もし、彼がどこかで危機に陥っていて、助けを必要としているなら、ですが。彼が心変わりして、他の女性と逃げたと思うのなら、放っておけばいいですけど」
 ハニーは鼻にハンカチを押し当てた。頭の中で、素早く考えが組み立てられているのがわかる。
 賢い女なのだ。シヴァが自分の意志で戻って来ないことは、有り得ない。そう確信しているだろう。
「わたし、十年前、あなたを護衛として受け入れたわ……上の組織に上がりたいという、若い女性を。あの時は、あなたの自己申告を信じた。たとえ信じなくても、採用するしかなかった。あなたの働きぶりを見れば、どのくらい信用すればいいか、わかると思って。結果として、あなたはとても有能だった。頼れる補佐になってくれたわ」
 当たり前だ。信頼されなければ、ハニーを取り戻す可能性もなかったから。
「でも、あなたは……どこかの時点で、肉体を乗り換えていたのよね。シヴァが見抜くまで、わたし、気がつかなかった。それ以前のあなたを、わたしは知らない……」
「そうです。あなたに見せた経歴は、カーラの経歴のごく一部に過ぎません。実際は、あなたが思う以上に長生きしているし、経験も積んでいるんです」
 そう断言しても疑われないくらい、《ヴィーナス・タウン》でのわたしは有能だったと思う。
 慣れない女の躰であっても、マックスとしての経験が役立った。男の側からも、女の側からも、世界を見られるのだ。
「さあ、わたしに命じて下さい。シヴァを捜して、連れ戻すようにと。他の皆には、新規開拓の基礎調査に行かせたと言えばいいでしょう」
 ハニーは息を吸い込み、呼吸を整えた。まだ、ためらい、迷っている。
「あなたまで、失いたくないわ」
 わたしは強い微笑みを見せた。
「何もしなかったら、もっと後悔するかもしれませんよ。あの時なら、まだ間に合ったのに、と」
 ハニーは世間知らずの少女に戻ったかのように、あやふやに言う。
「本当に、お願いして、いいの?」
 わたしは不敵に笑ってみせた。これはきっと、マックスの顔にこそ相応しい笑みだったろう。
「わたしはあなたの部下ですよ。ただ、命じればいいんです」

24 シヴァ

イラスト

 こんなはずでは、なかった。
 紅泉たちは、戦場になった星系のどこかで、身動きが取れずにいるものだと思っていた。たぶん、損傷した戦闘艦に閉じ込められて。
 違法組織との戦闘は、双方の艦隊がほぼ全滅という、悲惨な結果に終わっていたからだ。
 俺はハニーの補佐をしながらも、こっそりリリス≠フ動向を気にかけていた。ショーティに何と言われようが、心配せずにはいられなかったのだ。
 基本的には現在のグリフィンに任せるが、ちょっとくらい、動向を調べてもいいだろう。紅泉たちが何の事件を追っているのか、市民社会にいるのか、辺境に出ているのか。
 それで、彼女たちが、大規模な市民誘拐・売買を行っていた新興組織を潰そうと行動したことは、わかっていた。リリス≠ニしては、既に何百回としてきたことだ。
 それなのに、違法組織の拠点を目指していたリリス≠フ艦隊は、途中で待ち伏せを受けた。
 複数の組織が合同で、大規模な罠を張っていたのだ。紅泉たちは明らかに、その罠に気づいていなかった。
 こちらが察知した時は、辺境の無人星系全体を舞台にした戦闘は、三日も続いていた。これから急行しても、間に合うかどうか、わからないタイミングだった。
 それでも、動かずにはいられなかった。
 俺の助けがなくても紅泉たちが生き延びられるのなら、それでいい。だが、もしも座視していて、取り返しのつかないことになったら。
 俺の最優先はハニーだが、従姉妹たちは、そのすぐ次くらいの順位にいる。たとえ探春が、俺に助けられるくらいなら、死んだ方がましと思っていても。

 ハニーを残して出掛けることに、さしたる不安は抱かなかった。ハニーには最高幹部会の後ろ盾があり、ショーティの庇護もあるのだから。
「用事が済んだら、すぐ戻る」
 そう言っておけば、問題あるまい。たとえ、ハニーに不安な顔をされたとしても。往復で二週間もあれば、十分なはず。
 それよりも、俺は怒りで煮えくり返っていた。
 二代目グリフィンは、何をしているのだ。
 チンピラ組織の動きくらい、ちゃんと把握できていないのか。
 動かせる艦隊をかき集めて、俺は戦場跡に侵入した。そして敵の残存兵力を片付けつつ、紅泉たちの捜索を行った。
 敵味方とも、艦隊のほとんどは、管理システムと機械兵士だけの無人艦だ。紅泉たちの乗る指揮艦は、安全な位置を保ちつつ、他艦に指令を出していたはず。
 きっと彼女たちは、星系内のどこかに隠れている。ただ、敵の残存兵力を警戒して、迂闊に動けないでいるだけだろう。
 俺の姿を、二人に見せる必要はない。敵の残りを片付け、二人の無事さえ確認したら、退いて、救助の艦隊に引き渡せばいい。
 紅泉は郷里のシレールと連絡を取り合っているから、どのみち彼が偵察隊を出す。お高く止まって気に入らない男だが、実務能力には問題ない。今ではシレールが、一族の実務のかなりの部分を背負っているはず。二人の妻を左右に抱えて。
 その予定が、狂った。
 どうやら、待ち伏せされていたのは、俺だ。
 配下の艦隊を星系中に散らし、自分の防備が薄くなったタイミングで、奇襲されたのだ。
 敵は俺がどの艦に乗っているのか、ちゃんと見抜いていた。特攻してきた戦闘艇による無数の砲撃と、艦の機能を停止させる電磁ショック。
 爆発の中で、犬の姿のショーティともはぐれた。艦は大破し、最新鋭の装甲服が、かろうじて俺の命を守ってくれた。
 だが、俺が正体不明の連中≠フ捕虜になったことで、他の艦も全て無力化された。紅泉たちの生存を確かめることもできないまま、俺は敵艦の独房に放り込まれたのだ。

 既視感があると思った。
 前にもこうやって、囚人暮らしをしたことがある。もうずいぶん、遠い昔のような気がするが。
 だが、あの時の看守はショーティだった。
 今回の看守は、いったい誰なのか。
 二流のホテルを思わせる、三間続きの、広いが簡素な船室で、俺は捕虜生活を送っていた。
 寝室、居間兼食堂、運動するためのジム。
 説明も脅しも一切なく、ただ、三度の食事と午後の軽食が差し入れられるだけ。俺をここに連行した機械兵たちは、何のヒントも残さなかった。
 娯楽用の映画や市民社会の報道番組は見られるが、外部との通話はできない。この船が移動しているのか、どこかに停泊したままなのかも見抜けない。
 とにかくこれは、俺のことをよく知る何者かの仕業だ。リリス≠ェ危機に陥れば、俺が駆け付けると読んでいやがった。
 だが、その誰かは、俺を捕まえて、どうしたいのだ。
 ショーティを脅す材料にでもするつもりか。
 もしもショーティが俺を見失っているのなら、そいつは途方もなく有能で厄介な奴だろう。
 あれこれと考える中で、一つの嫌な可能性が浮かんだ。
 マックスだ。
 俺にハニーを横取りされた男。
 俺のことを知れば、逆恨みすることは必定だ。
 もしもこれがマックスの仕業なら、奴は俺をどう処刑しようか、楽しんで計画を練っていることだろう。俺が囚人暮らしに疲れ果て、しまいには絶望することまで、計算しているのではないか。
 くそ。
 緩衝材の詰まった壁を蹴っても、殴っても、何の役にも立たない。ハニーは今頃、どれほど心配していることか。
 だいたい、ショーティは何をやっている。犬の姿で俺の艦に乗っていただけではない。最初から、《ヴィーナス・タウン》の全ての艦を制御していただろう。
 あの程度の戦闘で俺を見失うなんて、それでも超越体か。
 それとも、反撃の機会を待っているのか。

 俺はささやかなジムで走ったり、サンドバッグを殴ったり、腕立て伏せをしたり、腹筋をしたりして、苛立ちを紛らせた。毎日、飽きるまで、空手の型を繰り返した。
 ただ荒れ狂っても、いいことはない。平常心を保って、動きを待つのだ。過去にはあれほど痛い目に遭ったのだから、少しは賢くなっていいだろう。
 俺を捕えたのがマックスなら、勝利宣言をするとか、俺を拷問するとか、何か接触がありそうなものだ。
 しかし、もう一週間も、ひたすら放置されている。放置しておくことが、奴の考える拷問なのか?
 それとも、これは最高幹部会の仕業なのか。方針が変わって、《ヴィーナス・タウン》を潰すことにしたのか。今頃はハニーも囚われているか、あるいは洗脳されているのか。
 だが、そんな予兆は少しもなかった。
 《ヴィーナス・タウン》は支店を増やし、辺境ではすっかり定着した存在になり、女たちの就職先としても抜群の人気を誇っている。連合≠ノ対する悪影響など、何もないはずだ。
 結局、俺には、悪党どもの考えなどわからないのだ。
 奴らは、まともな人間の感覚では理解できない、ひねくれた陰謀を巡らす。
 何が楽しいのか、さっぱりわからない。
 愛や信頼の伴わない権力なんて、何の意味があるんだ。
 それとも、そんなことにこだわる人間は、もはや絶滅するしかないのか。
 運動の他は、映画を見て時間を潰した。古い名画や、歴史大作、評判のいい恋愛映画。
 いつもハニーと二人で、夕食後のひとときを、こうして過ごしたものだ。二人で笑い、二人でしんみりして。
 一人で見る恋愛映画は、ひたすら空しい。一瞬は没頭しても、ふと横を見た時、ハニーがいない。再び会える保証もない。
 そのうすら寒さといったら、壁に頭を叩きつけたくなるほどだ。
 ふて寝しようとしても、強健な肉体は、十分な運動の後でないと眠ってくれない。
 稽古相手のアンドロイド兵もいないので、ひたすら基礎訓練と、型の稽古を繰り返した。
 ふと思い出したのは、一時、よく稽古をつけてやったカーラのことだ。
 女だが、格闘技のセンスはよかった。何年も、真剣に修行していたことは確かだ。
 肉体を乗り換えたせいで、たまに動作に混乱をきたしていたが、それも、俺が教えているうち、薄れていった。本人が、よく努力したからだ。
 過去を偽るのは辺境ではよくあることだから、詮索する必要はないと思っていた。
 今はハニーの片腕として、各星域を飛び回っている。俺が出立した時は出張に出ていたが、戻ってきて俺が消息不明と聞いたら、さぞ驚くことだろう……
 そこで、何かがひっかかった。
 いや、前にも幾度かひっかかりはしたが、忙しさに紛れて、流してしまっていた。
 もっと手足の長い大柄な肉体から、小柄な肉体に乗り換えただと?
 なぜわざわざ、そんな不利になることを?
 過去と決別するにしても、警護役として仕事をするなら、同じくらい大柄な女の肉体でよかったはずだ。
 漫然と流していた恋愛映画で、甘い女声の歌が使われた。地球時代のラブソングらしい。蘇州夜曲。川の流れる古い街。桃の花。おぼろの月。抱き合う男女。
 何かが閃き、俺は真相を掴んだと思った。
 女から女へ、ではない。
 男が、女の肉体に乗り換えたのだ。
 それならば、どう訓練しても混乱が生じるだろう。
 あれは、マックスではないのか。女の聖域に入り込むためには、それしかなかったからだ。
 この考えが当たっているなら、マックスはハニーをあきらめはしない。たとえ何十年、何百年付け狙っても。
 ぞっとしたが、同時に、敬服する気持ちも生じた。
 それこそが、恋愛というものかもしれない。自分にはこの相手しかいないという、狂気のような思い込み。
 それならば、マックスは俺を殺さず、このまま何百年でも幽閉しておくだろう。
 本当に殺してしまえば、万が一、それを知った時のハニーの怒りと恨みは、絶対に溶けないからだ。
 だが、俺が行方不明のままならば。
 捜しても捜しても、発見できないままなら。
 ハニーは俺を待ち続けることに疲れ、やがて、マックスの差し出した腕にすがるかもしれない。
 再びマックスと暮らすようになって、俺のことをすっかり忘れてから、マックスはその様子を俺に見せ、俺を絶望に突き落とすつもりなのかもしれない。
 発狂しそうになった。
 この狭い部屋から出られないままだったら、いつまで正常な神経を保っていられる?
 ハニーが泣いても、ショーティが探し回っても、俺はこのまま発見されないかもしれない。
 何という陰険な野郎だ。
 一思いに殺すのではなく、こうやって俺が苦しむさまをどこかから見て、ほくそ笑んでいるのではないか。
 だが、怒り狂っても、ぶつける場所がない。壁を壊しても家具を壊しても、アンドロイド兵士が修理に来るだけだ。
 落ち着け。
 荒れ狂っては、奴を楽しませるだけだ。
 ここで終わるはずがない。ショーティがきっと来てくれる。いくらマックスが有能でも、ただの人間なのだから。
 そう……もしもマックスが超越化していて、ショーティを越えてしまったのでない限り。
 もう、そうなっていたとしたら、それはきっと、奴がハニーを失ったせいだ。その怒りと絶望とが、奴に人間の限界を超えさせたのだ。
 不幸な者は、しばしば、幸福な者より強い。
 捨て身の強さがあれば、大抵のことは成し遂げられる。
 それなら、俺は幸福に浸っていたために敗れたのだ。

25 カーラ

 中央の外れから出発したリリス≠フ艦隊の航跡をたどり、平行して《アヴァロン》から出たシヴァの艦隊の経路をたどれば、それらしき宙域は割り出せた。
 厳しく管理された大組織の支配領域を避け、隙のある中小組織の縄張りを捜索していく。
 ある時は脅しをかけ、ある時は友好的に。
 だが、おそらく、シヴァが入り込んだのは、どこの組織にも属さない緩衝領域だろう。
 幾つかの無人星系を捜索した後、真新しい戦闘の残骸が漂う星系にたどり着いた時は、何か発見できるものと思った。リリス≠フ死体か、シヴァの死体を。
 無数に漂う戦闘艦や小型艇の残骸を片端から調べたが、人間の死体はなかった。核爆発で一瞬のうちに蒸発したのか、それとも生存者は小型艇で離脱できたのか。
 転移反応を探知する警備ポッドや、通話を経由する通信ポッドはあったはずだが、戦闘の際にほとんどが破壊されたらしく、残骸しかない。
 ここで手掛かりが発見できなければ、どうしようか。
 頭の中には、助けを求めてもいいと言ったマックスの言葉が残っている。だが、それにはためらいがあった。
 単に、助けを求めるだけで済むのだろうか。
 自分は、マックス本体に戻りたいとは感じていない。あれはもう、自分ではないからだ。
 自分は幼いハニーに癒されてはいないし、超越体でもない。
 あそこに戻れば、巨大な本体に吸収されてカーラという経験≠ノ縮んでしまう。
 それよりも、カーラとして生きていきたい。
 マックスという過去を持ってはいるが、マックスそのものではない、新しい個性なのだ。
 あきらめる前に、もう少し粘ろう。
 四方八方に探索の船を送り出し、近傍の星系の警備ポッドや通信ポッドの記録を調べた。
 転移反応。通話の痕跡。辺境では、誰の領宙でもない領域にも、連合≠ェ無数のポッドを撒いている。それを通じて、中小組織を監視するのだ。
 幾つか、それらしい艦船の形跡があった。
 全てを追ってみよう。これで駄目なら、マックスにでもショーティにでも、助けを求めようではないか。
 その時、通話画面が明るくなった。振り向くと、そこには見慣れたサイボーグ犬の顔がある。これまで、わたしが相談しようとしても、応答しなかったくせに。
「やあ、カーラ。放っておいて、すまない」
 いけしゃあしゃあと。
「きみが独力でここまで来たからには、わたしが手助けしても構わないだろう。きみはもう、シヴァの一歩手前まで来たからね」
 わたしは両手を腰に当て、反感を隠さずに言った。
「やっぱり、知っていて黙っていたわね。どういうつもりなの? ハニーが倒れてしまうわよ」
 もはや怒る時も、女の振る舞いを壊さないようになっている。
「それは謝る。申し訳ない。わたしもまた、圧力を受けていたのだ。二代目グリフィンからね」
 わたしは戸惑った。
「二代目グリフィン?」
 それは思いつかなかった。
 だいたい、そいつはどんな奴なのだ。
「彼≠ノ約束させられていたのだよ。誰かが独力でシヴァまでたどり着かない限り、手出し無用とね」

26 シヴァ

 船室の重い扉が開いた時、俺は奥の寝室で横になっていた。
 ひとしきり運動し、シャワーを浴びた後、不貞腐れて、目を閉じていたのだ。
 船室の空気が動いたことに気づいても、期待はするまいと頑固に思った。部屋にアンドロイド兵士が踏み込んできた時も、じっとしたまま、いよいよ処刑かと思っただけだ。
 何か期待すると、その後が辛い。
 もう何十回も、救出される夢を見た後だ。
「目標を発見しました。無事のようです」
 表情のない灰色の顔の兵士が誰かに通信した時は、何のことかと思った。
 誰かが、俺を捜していた? ショーティが?
 それとも、とうとう明確な幻覚を見るようになったのか。
 じきに通路から軽い足音がして、現れたのは、赤毛を優美なショートにした若い女だった。見慣れた戦闘服、腰に差した銃。
「ああ、シヴァ、よかった。無事ですね」
 俺は上半身裸のまま、起き上がった。
「カーラなのか!?」
「お待たせして、すみません」
 色白の頬が薔薇色に紅潮して、声が弾んでいる。こいつが本当にマックスなら、ほぼ完璧な化け方だ。
「これで、ハニーさまに連絡できます。よかった、本当に」
 ちょっと待て。なぜだ。
「どうやって、ここがわかった」
 カーラは笑顔で両手を広げた。本物の女のように。
「転移反応をたどったからですわ。あなたの持ち出した予備艦隊の残りは、丸々、他の組織に転売されていたんです。あなたは、無人と思われていた艦内に置き去りにされていたんですよ。艦隊はちゃんと買い戻しましたから、もう安心です」
 そんなことなら、ショーティにもできたはずだ。
 起き上がった俺は裸の腕を伸ばして、カーラの肩を壁に押しつけた。よく鍛えた女だが、それでも俺よりはるかに軽量だ。カーラは驚いた風をして、緑の目で俺を見上げる。
「何ですか?」
「なぜ、おまえなんだ」
「何がですか?」
 本当だろうか。こいつがマックスだなんて。俺の考えすぎかもしれない。だが、今は誰も信用できない。
 俺が無人艦に、置き去りになっていたって? それなら、俺を捕獲したのは誰だったというんだ?
「俺はそれなりに、航跡を偽装していたぞ。そんなに簡単に、追跡できてたまるか」
 カーラの目が泳いだ。言い訳を考えている。
「あなたが動いたのは、リリス≠フためですよね……彼女たちは無事です。中央に帰還して、バカンスに入っています」
 俺の腕から力が抜けた。そうであって欲しいと願っていたが。
「あなたが戦闘の現場に到着するより早く、救助に来た人がいるようですよ。リリス≠ノは、しっかりした後援者がいるようですね」
 シレールが、俺より早かったのか。
 だが、こいつは、俺がその後援者の一人だと、なぜ知った。
 俺が肩を押さえたままでいると、カーラはにっこりと笑顔を作る。
「ショーティから、伝言です。余計な真似をするな、と警告を受けたそうです」
「警告?」
 この場合、こいつの言うショーティは、警備犬のことではないだろう。
「リリス≠フ世話は、現在のグリフィンがしているから、あなたが手を出す必要はないと」
 何だって。
「あなたを捕獲して放置していたのは、二代目グリフィンの嫌がらせのようですよ」
 嫌がらせ!?
「誰かが自力であなたを発見するまで、手出しするなとショーティは通告されていました。だから、わたしが間近に来るまで、ショーティも我慢していたんです」
 本格的に、膝から力が抜けそうになった。
 グリフィンの嫌がらせ、だと。
 それに、ショーティは自分で助けに来るのではなく、なぜこの女を使っている。
「ショーティが、おまえに教えたのか。自分の正体を」
 赤毛の女が、仕方なしのように微笑んだ。
「ええ。わたしが独力であなたを発見した時にね。犬から進化した超越体というのは、驚きでしたけど」
 ショーティめ。
 これまで、俺とハニーしか知らなかったことを、よくも。
 いや、最高幹部会にもリザードにも知られているから、もう、たいした秘密ではないというのか。
「だからあなたはいつも、身近に犬の姿のショーティを置いていたんですね。大丈夫、秘密は守ります。ルーンにも言わないことにしますから」
 俺は、ほっそりした白い首に手をかけていた。力は込めていないが、いつでも締め上げられる態勢で。
「おまえ、元は男だったな。正体はマックス。そうだろう」
 断定すると、カーラの顔から一瞬、表情が消えた。
 やはりだ。
 何という執念か。
「よくも、女に化けたもんだ。全て、ハニーのためか」
 カーラはあきらめたように、うっすら笑った。地獄の深淵を覗いたような気がして、ぞっとする。
「我ながら、よくやったと思っていますよ。女の肉体に慣れるのに、かなり苦労はしましたけどね。今ではもう、自然に振る舞えます」
 室温より十度くらいは、冷たい声だった。俺なら、絶対無理だ。女になるなんて。自分で自分がおぞましくて、とても耐えられないだろう。
「ハニーは何も疑わず、ひたすらカーラからの連絡を待っていますよ。カーラがマックスだったと知ったら、どうなるでしょう? 恐怖のあまり、誰も信じられなくなるかもしれない。あなたのことすらも」
 俺はカーラを突き飛ばし、飛び下がった。拳を構えて立つ。
 ここで殴り殺してやろうか、こいつ。
 女はとても殺せないが、元が男なら構うまい。
「この、ストーカー野郎が」
 カーラはいったん床に崩れそうになったが、バランスを取り戻してしっかりと立つ。そして、俺を見上げた。真剣な顔で。
「言わせてもらいますが、自分なりに、ハニーを愛していましたよ。大学で初めて見かけた頃から、ずっと」
 開き直りやがった。
「辺境で地位を築こうとしたのも、ハニーを守るためでした。ハニーも、市民社会では幸せではなかったから。それを、他の男に奪われたとわかった時は、気が狂いそうになった」
 それを、愛らしい女の顔で言う。険しい自嘲の笑みを浮かべながら。
「なのに、はるばる取り戻しに来たら、ハニーはあなたと笑っていた。あんな笑顔は、わたしの時には……マックスの時には、見たことがない」
 自分の身を示す手付きをしてから、緑の目で俺を見上げてくる。
「わたしがしたことは……女の肉体に乗り換えた苦労は、まったくの無駄だった。ピエロと同じだ。自分がふられ男だと思い知るために、この姿になったんだ」
 そこで、深く息をつく。
「ここへ来たのは、ハニーに頼まれたからですよ。あなたの行方が知れなくなって、ハニーが泣き暮らしていたから」
 そうか。やはり。
「ショーティがなぜハニーを助けてやらないのかも、その時はわからなかった。ついでに言うと、わたしがカーラとして《ヴィーナス・タウン》に入り込んだことは、ショーティのお膳立てですよ」
 何だと。
「ショーティは、あなたたちの姿を間近で見れば、わたしがあきらめると思っていた。その通りになりましたよ。すっかりあきらめがつくまで、何年もかかりましたが」
 俺の拳が下がった。
 あいつ。
 知っていて、マックスを俺の元へ送り込んできたというのか。マックスもまた、あいつの駒の一つになっていたというわけか。
 何てことだ。もはや、怒る気力も奪われた。人間など全て、超越体の駒に過ぎない。
「それじゃ……これからも、そのなりで、ハニーの側近でいるつもりなのか」
 カーラは堅い顔になり、ふいと横を向いた。俺を見ないままで言う。
「あなたがわたしに我慢できないなら、出ていくしかないでしょうね」
 そうだ。出て行け。俺が正体を知った以上は。
 いや、待て。それも不安だ。
 いっそ、ここで殺してしまえ。後腐れなく。
 だが、それをハニーにどう説明する?
 こいつを殺してから、カーラの正体がマックスだったと話して、信じてもらえるか?
 それで逆に、ハニーがマックスの行動に感動してしまったらどうする?
 こいつを殺した俺を、やりすぎだと責めることになったら?
「どちらにしても、本当のことは言わない方がいい。ハニーが疑心暗鬼に陥るだろうから。そのうち、あなたのことすら、マックスの変装だと疑うかもしれない。マックスは完全に、過去の存在にしておくべきですよ」
 それはわかる。
 今の俺も、誰が超越体の人形で、誰が敵の手先なのか、ちょくちょく疑っている。
 疑いすぎると疲れるし、自縄自縛で何もできなくなるから、努力して棚上げにしているだけだ。
 俺は引き下がり、どさりとベッドに腰を落とした。
「俺をここに閉じ込めておいたのは……今のグリフィンなんだな」
 俺の後釜に指名された奴。
 どこのどんな奴だか、俺は何も知らない。
 ただ、俺よりリリス≠案じる誰かだと、ショーティは言う。そんな物好き、本当にいるのか。
「ショーティからは、そう聞いたわ。何でも向こうは、気分を害しているみたい。リリス≠ノついては、自分がちゃんと周到な援護をしているのに、引退させられたロートルが、のこのこ、ぶち壊しに出てきたと」
 ロートルか。俺が。
 つい、苦笑が出た。
 確かに、もう若者ではないが。不思議だ。俺はずっと、体制に反逆する若手のつもりでいた。ずいぶん長いこと。
 だが、マックスやハニーは、俺よりはるかに若い。新しいグリフィンも、俺よりずっと若いのかもしれない。
 もうとっくに、主役の世代は移っているのだ。肉体が若いと、つい、それを忘れてしまう。
「それでも、ショーティがあなたの庇護者であることは知っているから、グリフィンも、あなたを傷つけはしなかったはずよ。ただ閉じ込めておいただけ、でしょう?」
 俺がリリス≠守ろうとしたことも、余計な空回りか。
 俺より若くて有能なグリフィンに、俺はどこかで嫉妬していたのか。小僧が失敗したら、また俺の出番だと思いたかったのか。
 グラマーな赤毛の女は、壁によりかかって俺を眺めている。緑の目には、冷静な覚悟が見えた。
「殺したければ、殺せばいい。今のこの肉体では、あなたに勝てないもの」
 そんなことをしても、無駄だ。
 この平静さを見れば、明らかだ。
「ただし、ここにいるカーラは、マックスの一部にすぎない。マックス本体は超越化して、進化している」
 何だと。
「超越化を助けたのは、ショーティよ」
 あの野郎。そんなことまで。
 マックスが人類の脅威になったら、どうするつもりなんだ。
 自分はいつまでも、マックスより先行できるつもりか。
 元が犬なんだから、人間の天才には敵わないかもしれないだろう。
「いつか、あなたやショーティがハニーを守りきれない事態が起きたら、助けられるのはマックスだけかもしれない。だから、マックスを敵にするなと、警告するわ」
 警告だと。
 マックスの一部であるこいつが、図々しく。
「今の彼は、ハニーのクローンを育てて、それで満足しているの。ハニーそっくりの、小さな女の子よ。だから、もう二度と、マックス本体がハニーにちょっかいを出す心配はないわ」
 俺は息を呑んだ。
「ハニーの、クローンだと」
「それが、マックスの選択よ。彼はカーラの体験を取り入れて、穏健になった。わたしが女の肉体に乗り換えてから悟ったことを、マックスは自分の経験にしたのよ」

 帰り道は、ひたすら気まずい沈黙の時間だった。
 俺はカーラにどう向き合えばいいのかわからず、向こうも、自分からは俺に話しかけない。
 それなのに、同じ船にいる。奴から目を離すくらいなら、見張れる位置に置いておいた方がましだからだ。
 カーラがマックスの一部だと。
 マックス本体が超越体になっただと。
 そして、ハニーのクローンを育てているだと。
 どうして世の中は、年々、複雑怪奇になっていくんだ。肉体だけ若くても、俺はもう、時代遅れの老人なのか。
 くそ。
 俺がいつまでもショーティに頼っているから、こんなことになる。自分自身は、たいして成長していない。
 だから、ショーティにも置いていかれた。あいつはもう、犬でもなく、人間でもなく、何か得体の知れない存在になっている。
 あくまでも人間でいたいと思うのは、俺の甘えなのか。
 それでは、進化していく連中に利用され、捨てられるだけなのか。
「おい、ショーティ」
 船室で一人になってから、空に呼びかけた。
「いるんだろ。おまえ、今のグリフィンに遠慮して、俺を差し出したのか」
 通話画面が明るくなり、見慣れた犬の姿が浮かんだ。
「仕方なかった。向こうは怒っていたからね。少なくとも、怒るふりをしていた。きみに思い知らせる必要がある、と言われたよ。もう二度と、余計な真似をしないようにと」
 その結果、一定期間の幽閉ということになったのか。俺がどれほど苦しもうと、そいつには、ちょっとした警告でしかない。
「そいつも超越体なのか」
「わたしにはわからない」
 かっとした。重大事だぞ。
「すっとぼけて、済ませるつもりか!?」
「辺境がいかに複雑な力関係で動いているか、きみには想像もつかないだろう。何か解明したと思っても、すぐにまた疑惑が湧いてくる。真実は、幾重にも隠されているんだ」
「文句があるなら、俺自身が超越化してみろってことだな」
「まあ、極論だが、そうなる」
 ふん。
「しかし、そいつがいつか、失敗する時が来るかもしれないだろう」
 そうなった時、誰が彼女たちを守るのだ。
 だが、ショーティはあっさりと言う。
「その時は、きみにももう、どうしようもないだろう」
 なるようになる、あきらめろ、ということか。
 悔しいが、今回のことは、もう済んだことだ。俺としても、ハニーの元へ戻れるのなら、他の全てを水に流して構わない。
 俺が行方不明の間、ハニーは希望と絶望の間を行き来して、ほとんど幽霊のようにやつれていたそうだ。ルーンが必死で防壁にならなければ、部下たちにも異変が知れ渡っていたことだろう。
 人を愛するというのは、恐ろしいことだ。
 誰も愛さなければ、心は冷たく、寂しい。
 愛すれば、失うことが恐ろしい。失う苦しみに耐えるくらいなら、いっそ、死んだ方が楽だと思ってしまうほどに。
 だが、それでも生きていれば、また誰かを愛せる。俺個人としてはもう二度と、別離の苦しみを味わいたくないが。

 《アヴァロン》に帰り着く寸前に、ハニーが船で出迎えに来た。船同士が接続すると、エアロックが開くのを待ちかねて、泣き笑いで俺の腕に飛び込んでくる。
「ああ、シヴァ。もう、あなたったら」
 泣くのと話すのと笑うのを一緒にしようとして、息を乱している。
 薄緑のパンツスーツで美しく装ってはいるが、白い顔には、隠せないやつれが残っていた。ずいぶん泣かせたらしい。それでもまだ泣き足りないとばかり、俺の胸でしゃくりあげる。このぶんでは、俺がトイレに行くと言っても、ついてきそうだ。
「悪かった。すまなかった」
 ハニーの肩や背中を撫で、髪や頬にキスをした。俺が中途半端に、従姉妹たちのことを心配したからだ。
「ああ、カーラ、ありがとう」
 ハニーは泣き笑いで俺から離れると、側にいたカーラにしがみついた。
「よく、この人を助けてくれたわ。本当にありがとう」
「どういたしまして。仕事ですから」
 この、すかしたストーカー野郎。
 よくも、ハニーの側近なんかに納まってくれたな。女の肉体に乗り換えてまで。その執念には、こっちがひるんでしまいそうだ。
 とりあえず、ハニーには適当な話を作って伝えた。リリス≠ニ敵対した連中に捕獲されたが、カーラが大活躍して取り戻してくれたのだと。

イラスト

 カーラの正体は……やはり言わないことにする。言ってしまえば、ハニーが恐慌をきたすだろう。
 その代わり、俺がカーラを監視する。毎日、油断せず。
 もしも怪しいそぶりをしたら、その時こそ、ぶち殺す。
 だが……
 マックス本体が超越化しているのなら、そのごく一部を抹殺して、何の役に立つというのだ。
「わかってるわ。あなたはリリス≠放っておけないのよね。でも、今度からは、わたしも一緒に行かせて。もう、離れて待つのはいや。絶対に、わたしから離れないで」
 ハニーは俺にすがりつき、何度も泣いた。目が溶けるほど。
 悪かった。
 もう、俺一人の命ではないと、知っていたはずなのに。

 久しぶりの《ヴィーナス・タウン》は、天国に思えた。
 買い物を楽しむ女客たち。優雅に接待する従業員。ホールでのパーティや音楽会。
 最高幹部会に庇護された、女たちの楽園。
 だが、そこにはカーラがいる。誰が見ても、完璧な女ぶりで。
 ハニーから聞く限り、マックスは自信過剰の高慢な男だったが、今のカーラを見て、高慢だと言う者はいないだろう。
 態度は穏やかで、理知的だ。部下に対しても公正で、思いやりがあり、誰からも慕われ、尊敬されている。
 これはもう演技などではなく、進化だと思うしかない。
 女の肉体に乗り換えたからか。
 ハニーが俺といて、幸せなのを見たからか。
 ショーティは無論、最初から全て知っていた。今の俺なら理解して受け入れられると判断したから、カーラに捜索に来させたのだ。
 夜になり、センタービルに戻ると、暗い寝室で俺と手足をからめたまま、ハニーは深い眠りに落ちた。安心して、ぐっすり眠ってくれればいい。明日には、もっと顔色がよくなっているように。
 だが、カーラはどうしている?
 あいつは、ハニーを見守っているだけで満足できるのか?
 あいつこそ、発狂しそうな地獄に耐えているではないか?
 いや、同情なんか、するつもりはない。高慢で鈍感だったから、ハニーに嫌われたのだ。自業自得だ。
 もちろん、かつての俺もそうだった。探春は今も、俺を許していないだろう。俺がグリフィンとして従姉妹たちを守り続けたと知らせても、感謝などしてくれないだろう。
 仕方ないのだ。人生の最初に、知恵が足りないことは。
 茜のことも、守りきれなかった。リアンヌの時は、失いはしたが、彼女を市民社会に戻すことはできた。
 少しずつ、俺はましになっている。今はようやく、ハニーに愛してもらえるようになったのだ。
 マックスにも、今ではそれが認識できているのだろうか。自惚れた男は、何度も失敗して、ようやく、少しはましな存在になれるのだと。

イラスト

 いつまでも、逃げてはいられないか。
 カーラだって、宙吊りのままでは耐えられまい。いかにふてぶてしい奴であったとしても、だ。
 俺は覚悟を決め、カーラの空き時間に、警備管制室の奥にある俺の居場所に呼び出した。ここならショーティ以外、誰に話を聞かれることもない。ハニーは下のフロアで、顧客の相手をしている。
「何のお話でしょうか」
 戦闘服姿で身構えている女に、席を勧めた。まず、宣言しておく。
「今は俺だけだ。本音で構わない」
 それで向こうにも、通常業務のことではないと通じただろう。
「おまえがこの組織で、かけがえのない地位を占めていることは事実だ。どんな口実をつけようが、おまえを追い払ったり、粛正したりしたら、他の女たちが納得しないだろう」
 目の前の女は、もはや、マックスと重ねることが難しい。
「それで?」
「俺はおまえを認める。カーラとしてだ。おまえがハニーに忠実でいてくれる限り、おまえも、この組織の一員として守る。それで、どうだ?」
 カーラの表情は、しばらく空白だった。期待していたような感謝の笑みは、かけらもない。
 ようやく口を開いた時は、なぜか、しらけたような態度だ。
「それに、感謝すべきなんでしょうね。辺境の常識から言えば、わたしは、あなたに殺されても文句は言えないのだから」
 男の姿なら、まだ殺し易かったがな。
「辺境に出てきてから十年も、おまえがハニーを守り通したのは確かだ。それからの十年も、頼れる部下でいてくれた。だから、俺も感謝すべきなんだ。おまえに」
 その愛し方が、女にとってみれば不足でも、的外れでも。
 俺だって、どれだけ間違えたことか。
 男は女より、はるかに鈍感だ。どんなに教育されようとも、自分で痛い目を見ながら学ばない限り、本当にはわからないのだ。人生の真実が。
「ただ、おまえが辛いのなら、他都市の支店担当として、ここから離れてもらうこともできる。それとも、今まで通りの生活で平気か?」
 ようやく、白い顔に苦笑が浮かんだ。
「気を遣ってもらったようで、ありがとう。当面は、今まで通りで結構よ。いつか、独立したいと思うかもしれないけれど」
「独立か」
 それもいいかもしれない。元々、独力で組織を立ち上げた男だ。いつまでも、使用人の暮らしには甘んじていられないだろう。
 この組織の中では古参の幹部だとしても、こいつ本来の性格では、トップに立ちたいはずだ。
 そこでカーラは、服のポケットから、一枚の写真を取り出した。
「マックス本体から、許可を得たものよ。あなたに渡すわ。彼からの、友好の証のようなもの」
 そこには、ピンクの服を着た小さな女の子を抱き上げた、金髪の男の写真があった。マックスの顔は知っている。だが、プラチナブロンドの髪に赤いリボンを結んだ、この女の子は。
「これが、ハニーのクローンなのか」
 笑っている女の子は、父親に甘えて安心しきっているように見える。ごく当たり前の、むつまじい父と娘。
「彼は、そのハニーから愛情をもらって、癒されているそうよ。だから、あなたと敵対する理由は、もうない。いずれはショーティのような、安定した超越体になるでしょう。マックスのことだから、連合≠フ使い走りには満足せず、反逆を企てるかもしれないけれど」
 俺はその写真を、胸ポケットに収めた。ハニーに見せるとしたら、どうやって説明しようか。いや、見せずに焼却するべきか。
「おまえたち、どっちも、執念深いな」
 マックス本体も、カーラも。
「だって、ハニーは運命の相手だと思ったから」
 カーラの笑みが深くなった。何かを突き抜け、手放したように。
「でも、あなたには負けたわ。負けを認めましょう。わたしには、立ち直るのに時間が必要だけど。そのために、長い寿命が得られるのだから」
 カーラは椅子から立ち上がり、
「それじゃ」
 と言い残して、去っていった。腰を揺らし、一本のライン上をたどるような、優雅な女の歩み方で。

 しばらくは、平穏な日々だった。カーラが石を投じるまでは。
 ハニーが午後のひととき、各部署の幹部級の女たちを集め、お茶とおしゃべりの集まりを主催していた時だ。
 こういう時間に、色々な提案が出される。
 新しいイベント、新しい商品。
 誰かがちょっとした思いつきを投げ、それが会話の中で雪だるまのように転がって、大きな事業になったりする。
 湖の上にクルーザーを出して、花火見物の夕涼みパーティを開くとか。森の中でキャンプをして焚火とバーベキュー、あるいは鍋料理を楽しむとか。
「子供がいたら、ねえ。そういう行事を喜ぶでしょうね。大人だけでも、楽しいことは楽しいけど」
 女たちの一人がふと漏らすと、それはすぐに波紋を広げた。
「市民社会との違いは、そこよね。風景に、子供がいないんだもの」
「仕方ないわ。子供を育てられる世界じゃないんだもの。娼館一つとっても、子供に説明できないわ」
 辺境では、手の届かない贅沢品――それが人間の子供なのだ。不老の技術も身体強化の技術も、奴隷としてのバイオロイドも買えるが、本物の子供は育成に時間がかかる。いや……育てる情熱が必要なのだ。
 それを思うと、故郷の一族は偉かったのかもしれない。俺のようなひねくれた少年でも、大人になるまで見捨てずに育ててくれた。
 今では、紅泉が可愛がっていたダイナが成長して総帥になり、シレールを夫にして(堅苦しい彼が二人も妻を持つとは、驚きだが)自分たちの子供たちを育てている。戻れない故郷ではあるが、ショーティが時折り、情報をもたらしてくれるのだ。
「ねえ、こういうのはどうかしら……辺境にも、子供を欲しいと思う女は、潜在的にかなりいるでしょう。ただ、安心して子育てできる環境が得られないだけ。だから、それを商品にするんです」
 カーラがそう言った時、最奥の部屋でモニター越しに聞いていた俺は、首をひねった。
 子育て環境を売る?
 組織中枢でも、俺の存在を知る女は、ハニーとルーンとカーラ、三人だけだから、こういう集まりに顔は出せない。
「少なくとも五年か十年、長期滞在できる、子育て村のようなものを作ったらどうかしら。母と子が、そこでゆったり暮らせるような場所。そこから先は、寄宿学校で子供を預かれば、女たちは安心して仕事に復帰できます。その寄宿学校も、わたしたちで作って運営すればいいのよ」
 驚いた。おまえは本物の女ではないくせに、何を言う。それとも、女ではないから発想できたのか?
 女たちはしばらく唖然とし、それから熱狂した。
「それ、いいわね!!」
「絶対、需要があるわ!!」
「それだったら、わたしだって子供が欲しいもの!!」
「ハニーさま、事業計画を作りましょう!!」
 女たちは、辺境にまともな男が少ないことについては、もうあきらめをつけている。だが、この興奮を見れば、子供が欲しい本能には、それぞれ苦しめられていたらしい。
 精子なら買える。自分好みの、優秀な精子を人工的に作ることもできる。足りなかったのは、そこから先だ。
 大組織に所属している女ならともかく、中小組織では、子育てに配慮するような余裕はない。大組織の中がどうなっているのかは、俺もよく知らないが。
「ちょっと待って。それはかなり……影響が大きいわ」
 ハニーは慎重にブレーキをかけた。
 それはそうだ。
 もし、辺境の女たちがそれぞれ二人、三人と子供を育てていったら、今後数十年で、母親の愛情を受けた若者たちが、何十万人も誕生することになる。いや、何百万人かもしれない。
 それだけの数があれば、辺境の文化が激変するだろう。
 同じ学校で育ったマザコンの若者たちが互いに連携し、力をつけたら、あちこちの組織を作り変えていくことになるのではないか。母親たちの望む通りに。
 それはつまり、辺境が市民社会のように平和になるということだが、逆に言えば、ルール破りが許されない、自由度の少ない社会になるということだ。
 おそらく、娼館は廃止される。
 人体実験も許されない。危険な兵器の製造も許されない。新たな試みには、かなりの制限が課せられる。
 いま辺境を支配している連中は、そんなことを望んではいないはずだ。
 ありとあらゆる試みが自由だからこそ、進歩も速いのだから。
 連合≠ヘきっと、女たちの子育てを危険視するはずだ。下手をしたら、《ヴィーナス・タウン》が潰される。
「そんなことが可能かどうか、少し考えさせて。たぶん、最高幹部会に相談することになるわ」
 ハニーはそう言い、女たちを解散させた。
 俺も、無理な望みだろうと思う。
 奴らはあくまでも、何でもありの無法地帯を維持していたいはず。そのためには、辺境が男中心の世界である方がいい。男は馬鹿で、地位や権力をちらつかせれば、いくらでも操れるからだ。
 奴らがリアンヌを追い払ったのも、アマゾネス軍団に力を持たせておきたくなかったからだろう。
 子供を抱えた女は真剣で、良識的で、しかも女同士が団結しやすい。だからこそ、市民社会は女たちの望むように進化した。
 今は最高幹部会が《ヴィーナス・タウン》を後援しているとはいえ、それはあくまでも、少数派の女たちを快適に過ごさせるためだ。市民社会から、もう少し女を呼び込みたいとしても、女を辺境の多数派にしようとは思うまい。
 それともいつか、その変革を認める時が来るのだろうか。そのいつかとは、ハニーとその周囲の女たちがもたらすのだろうか。

 ハニーは早速、自分の庇護者である二人の大幹部、リュクスとメリュジーヌに面会を申し込んだ。
 二人とも、最高幹部会の重鎮だ。過去、ハニーが商売上の大きな決断をする時には、必ずこの二人に相談してきている。
 二人からは、じかに会うとの返答が来た。それは、この計画を重大なものと受け止めた証拠だ。

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 一週間後、《アヴァロン》のセンタービルの一室で開かれた会合には、俺とショーティも参加した。
 ハニーを一人で、危険かもしれない場に送り出せない。リュクスたちが何か決断したら、ショーティにも止められないと、承知してはいるが。
 ただし、ソファ席で女幹部たちと相対しているのは、薄紫のドレス姿のハニー一人で、俺とショーティは片隅の席に追いやられている。あくまでも、ハニーの添え物という扱いだ。
「あなたの提案は、確かに有望だわ」
 背の高い金髪の女が、口を開いた。青い目に合わせた青いドレスを着て、どこか、故郷の前総帥を思わせる威厳がある。
「できるものなら、その計画を進めてほしいところよ。けれど、わたしたちの予定表では……それは、別の改革者にさせたいの」
 ハニーはわずかに眉を曇らせたが、静かに尋ねた。
「もう、その方から、計画が提出されているのですか」
 リュクスの斜め横にいる、ふわふわのプラチナブロンドの女が、ゆったり答えた。
「いいえ、そちらはまだ、準備段階に過ぎないの。うまくいくかどうかは、未知数よ」
 硬質な美貌のリュクスに比べ、こちらは妖艶タイプだ。白いドレスに薔薇色のストールを巻いて、華麗な姿だが、どちらの女にしても、恐ろしすぎて男を萎えさせる。
「けれど、あなたの《ヴィーナス・タウン》とそちらの子育て村、この二つは別の流れにしておきたいの」
 別の流れ?
「わたしたちも、辺境がこのままでいいとは思っていないわ。年月はかかるけれど、いずれは辺境にも、市民社会の良識が浸透するでしょう」
 おい。俺を裸で檻に入れ、相棒の命を盾に脅迫してきたのは、おまえたちじゃなかったか?
「そのためには、多方面からの影響が必要だわ。ハニー、あなたがいかに優秀でも、あなたの影響だけでは弱いのよ。あちこちで、別々の改革が始まる方がいいの。いつか、その流れが合流する時までね」
 ハニーは考え、確認する。
「改革の役割分担をせよ、ということですか。いずれ誰かがしてくれることなら、わたしはそれを待てますが……お目当ての人物が失敗したら、次はわたしに機会を下さいますか?」
 今度はリュクスが答えた。
「その時は、また相談しましょう。わたしたちは、あなたをこちら側≠フ人材だと考えています。今日はちょうどいい機会だから、腹を割った話をしようと思うの。辺境の現状について、そして未来についてね」
 ハニーはけげんな顔をした。
「わたしはシヴァやショーティに守られてきただけで、自分自身には何の力もありません。未来の話なら、彼らも一緒に」
 そして、心配げに、俺たちの方を窺う。妖女たちは、笑って軽く手を振った。
「彼らはあなたのおまけよ。《ヴィーナス・タウン》はあなたの事業だわ。あなたが推進してきたのだし、部下たちはあなたを信頼して従っている」
 その通りだ。ハニーは紅泉や探春と比較しても、遜色ないほど素晴らしい女だと思う。戦士ではないが、理想を持ち、人を率いる力がある。そう、指導者なのだ。
「今はあなた自身が、辺境の重要人物なのよ。だから、わたしたちに近い立場でものを考えてほしいの」
 ハニーは戸惑ったようだ。しかし、ここはリュクスたちの言うことが正しい。《ヴィーナス・タウン》はもはや、ただのファッション・ビルではない。辺境の女たちの灯台のような存在になっている。ハニーが何か発信すれば、ただちに全宇宙に広まるだろう。
 俺に問いかける視線を投げてきたハニーに、黙って頷き返した。俺は番犬だ。それは名誉ある立場だと思っている。
 それを見て取り、リュクスが説明を続けた。
「わたしたちはこれまで、大組織の実態を外部に隠してきたわ。辺境の人口約三十億のうち、およそ半分が六つの大組織に所属しているけれど、どこも自分たちの星系を厳重に確保しているから、部外者がそこに侵入することはない。交流があるとしても同格の大組織同士のことで、中小の組織に内実が知られることは、ほとんどなかったのよ」
 いったい、どんな実態を隠してきたというのだ。
 市民社会の映画や小説では、大組織は常に邪悪な独裁帝国として描かれてきた。バイオロイドを奴隷として使い捨て、人間たちには過酷な競争を強いて、負けた者は洗脳されたり、処分されたりする。
 もしも、そうではないというのなら?
「大組織は、停滞しているの。長年、辺境に君臨してきたおかげで、安心しきって、ゆるんでいるのよ」
 意外な言葉を聞いた。
 俺の故郷の一族は、六大組織に準じる老舗組織だと思うが、堅実で勤勉だった。そこからしても、大組織は、それを上回る効率で厳しく運営されているのだろうと思っていた。
「それは近いうち、あなたの目で見てもらいます。シヴァを連れていって構わないから、ゆっくり現場を見て回るといいわ。辺境の未来は、たるんだ大組織ではなく、先鋭的な中小組織にかかっているのよ」
 ハニーは集中し、真剣な顔で聞いている。
「地位を築いた組織は、やがて硬直化したり、怠惰になったりしていくの。それは、どう工夫しても止められなかった。人は成功すると、そこに安住してしまうの。だから常に、清新な人材が必要なのよ。あなたのようにね」
 とメリュジーヌ。
「あなたに期待をかけてはいるけれど、改革は、少しずつ進めるしかないの。まだ多くの男たちは、男の優位を疑っていない。そして、それを失うつもりもない」
 ああ、そうだろうよ。
「だからあなたたちは、彼らが、たかが女の洋服屋、と思っているうちに、少しずつ根を張るしかないの。いま、商売として子育て環境を提供することは、やりすぎになるわ。もう少し、待ってちょうだい」
「はい、それはわかりました……」
 ハニーは用心深い態度でいたが、次の言葉で驚いて顔を上げた。
「ただし、あなたが部下の女たちに、そのような福利厚生を提供することは止めません。あくまでも、組織内の制度に留め、外部に宣伝しないのならばね」
「ありがとうございます!!」
 俺もほっとした。それだけでも、組織内の士気が違ってくるだろう。伴侶が得られなくても、子供がいれば、それだけで幸せになれる女は多い。
 そもそも、女を何十年も満足させられる男など、どれほどいるか。
「本当はね、わたしたちも、それを願っているのよ。女たちが、辺境で自由に子供を育てられたら、大きな地殻変動が起きるわ。ただ、わたしたちは二人しかいないの。他の十人の大幹部は、男なのよ」
 とリュクスは無念をにじませて言う。
 この女たちが、人間らしい態度を見せるとは。これが演技なのか、それとも、これまでの冷血ぶりが演技だったのか。
「辺境の男たちは、女を自由にさせたくないの。それをしたら、市民社会と同じことになるからよ。弱い男は、自分が女に選ばれないことに耐えられない。強い男は数が少ないから、多数の弱い男たちの怨念を無視できない。でも、それは時間の問題に過ぎないわ。何度潰しても、女たちは革命を起こすから」
 それは、リアンヌのことか。その前にも、同じようなことがあったのか。今はハニーで、次はまた誰かが立つというのか。
「その革命を、期待なさっているのですか」
 とハニー。
「ええ、そうよ。わたしたちは、あなたを見つけて守ってきた。他にも何人か、期待をかけている女たちがいるわ。こっそりと手を差し伸べて、助けたり守ったりしているのよ」
「それでは、リリス≠フ他にも、そういう女たちがいるということですね……?」
「次世代のスター候補は、何十人も用意しなければならないわ。そのうち誰が成功するか、やってみなければわからない。だから、もう少し辛抱してちょうだい」
 ハニーはだいぶ、明るい顔になった。
「他にも戦う女がたくさんいるのなら、心強いですわ」
「その女を支える男もね」
 メリュジーヌの一言に、俺は口許を引き締めた。俺のように、喜んで番犬を務める男か。そちらの方が、よほど稀有ではないかと思えるが。

27 ハニー

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 わたしは、考えたこともなかった。大組織の内情など。
 わたしが知っているのはマックスが育てた新興組織や、自分で管理する《ヴィーナス・タウン》くらいのもの。
 シヴァにしても、自分が生まれた組織や、後から乗っ取った小組織のことしか知らない。
「そんなことまで、気を回す余裕はなかったな。自分の仕事だけで、手一杯だった」
 と彼は言う。けれど、今回はショーティが……彼の操る有機体アンドロイドが案内役になり、わたしたちを、ある地球型惑星に導いた。
 六大組織の一つ《エンプレス・グループ》が勢力圏としている星系内だから、警備は堅い。青い海と緑の大陸。雪を頂く山脈。密林を流れる大河。あちこちに散らばる都市。
 自転時間は二十四時間に近く、潮の満ち引きを引き起こす、大型の衛星まで揃っている。理想的な植民惑星だ。
「辺境の人口の大部分は、こういう惑星上にいるのだよ。大組織はそれぞれ、何百もの地球型惑星を所有しているからね」
 男性型アンドロイドの口を借りて、ショーティが言う。辺境と言えば小惑星都市、と中央では思われているけれど、それは、あえて流布された虚像だというのだ。
「惑星改造をする時間はあったし、必要な技術もあった。人は惑星上で進化したから、やはり惑星が好きなのだよ」
 わたしたちが最初に訪問したのは《アレクサンドリア》と呼ばれる惑星で、一億人近い住民がいるという。
 全員が《エンプレス・グループ》のメンバーであり、半分ほどが基礎科学や応用技術の研究にたずさわっている。
 残り半分は、生活を支えるための仕事を分担しているという。教育、娯楽、農業や漁業、日用品の生産、流通、都市のインフラの維持管理、新たな施設の建設。
 組織内で培養されたバイオロイドは七割ほど、あとは本物の人間で、彼らが交際を求めるための社交の場はあっても、拘束された奴隷がいる娼館は、ごく少ないという。
「それで、やっていけるの?」
「ここでは、男女比が半々に近い。むしろ、女性がやや多いかな。だから、男たちが普通に交際相手を見つけられる。相手を見つけられず、個人的な奴隷を持ったり、娼館に通ったりするような者は、まあ、肩身が狭いだろうね。元々、知識階級が多いから、体裁は重要なのだ」
 それでは、疲弊して使い捨てられるバイオロイドは、ごくわずかと思っていいのだろうか。
 それにしても、当人たちの地獄を、いつまでも無視することはできない。リュクスたちの言う革命は、いつ大組織にも押し寄せるのだろう?
「娼館に拘束されて年季≠ェ明けたバイオロイドは、殺されるのではなく、治療や再教育を受けて、組織の最下層に加えられる。あとは、そこから昇進していけば、人間と変わらない暮らしを手に入れられる。そうやって、バイオロイド比率は七割まで増えてきた」
「人間たちは、みんな、市民社会からの脱走者?」
「初期の頃はそうだった。しかし、今では、ここで生まれ育った者も多い。市民社会のような結婚形式を選ぶ者は少ないが、好きな時期に好きな相手と子供を作ったり、あるいは、人工遺伝子を利用したりしてね。人間の誕生は歓迎されるから、子育てに問題はない」
 大組織では、本物の人間が三割程度いるらしい。中小組織の多い違法都市では、一割しかいないのが普通だ。それだけ、人的資源が豊富なはずなのに、停滞しているとは?
「違法都市よりは、はるかに人道的なのね?」
 わたしが確認すると、ショーティが答える。
「そう言っていいだろう。そもそも大組織には、心が病んだ者はほとんどいないからね。バイオロイドを虐待したりしたら、まず、その人物が治療されてしまうだろう。イメージとしては、惑星全体が一つの大学町のようなものだ」
 わたしたちは、上空をゆったりと飛ぶ飛行船の中から、陸地の様子を見ていった。
 平野に点在する研究施設、その周辺の住宅地、子供たちのための学校。必要な物資を生産する工場と、豊かな農地。牛や馬のいる牧場は、子供たちのキャンプ場にもなるという。
 まるきり、中央の市民社会と変わらなかった。ただ、法律の代わりに組織の規律があるだけ。
 組織の運営に協力すること。
 上級者の命令に従うこと。
 能力と意欲によって決まる階級が、このシンプルな仕組みを成立させていた。
 その階級に許される行動の範囲内で暮らしていれば、何の心配もない。恋愛も、子育ても、不老処置の更新もできる。
 彼らはもう何百年も、安全の保証された土地にいるのだ。たまさか、他の星や他の拠点への異動を命じられることはあるけれど、そこでも安全は変わらない。
 わたしとシヴァは地上に降りては研究施設を幾つも見学し、街の様子も実際に歩いて確かめた。
 緑の豊かな公園、テラスでのんびりできる洒落たレストラン、品物で溢れる商店、様々な娯楽施設。
 通りに面したカフェでお茶を飲み、行き交う人々を眺めた。
 学校帰りの子供たちが、グループで通りを走っていく。鬼ごっこをしては、歩いている大人にぶつかり、謝って許され、また懲りずに駆けていく。笑いさざめきながら。
 まるっきり、当たり前の社会。
 人々はそれぞれ好きな相手と暮らしたり、別れたりして、好きな時期に子供を作るという。
 子供たちは学校で学んで、友達を作り、やがて組織の一員として、階級のどこかに組み込まれる。
 たまには、他の組織に移る者もいる。交際相手が、そちらの組織にいるという理由で。
 市民社会よりも平和だった。ここには、違法組織の魔手というものは伸びてこないからだ。
 強力な違法組織の中にいれば、他の組織からは守られる。組織内での秩序もまた、厳格に守られる。組織に逆らう者は、洗脳されても抹殺されても文句を言えないから。
 つまり、何の犯罪≠煖Nこらない。
 精々、酔っぱらって喧嘩したとか、上司の悪口を言ったとか、三角関係でもめたとか、その程度。
 人々は総じて、中央の市民よりものんびりして、善良そうだった。勤務時間を終えれば、街を歩いたり、テラス席で食事したり、友達と遊んだり。
 闘争心がない。
 覇気が感じられない。
 それぞれに仕事上の目標はあるものの、それが達成できなくても、別に処刑されることはない。ただ昇進できない、あるいは降格させられる、というだけのことになる。降格されて不満を持つ者なら、最初から、もっと努力するだろう。
 ショーティが解説してくれた。
「これが問題なのだよ。大組織ほど、停滞がひどい」
 まさか、それが辺境の大問題だったなんて。
「組織内がぬるま湯になっているから、競争心が薄れてしまう。不老処置を繰り返して肉体は若いが、精神は老成するからね。だから幹部たちは、市民社会で目についた者を勧誘したり、中小組織の若者をスカウトしたりするのだ」
 外部の清新な人材を入れることで、かろうじて現状維持できているのだという。
「だが、その効果は限定的だ。最初は野心的な者も、安楽な暮らしが半世紀も続けば、弛緩していく。不老処置を続けていれば、半永久的に安泰だからね。焦る気持ちや、必死な気持ちは薄れていくんだ。それはそれで幸せなことだが、他組織との競合となれば、じり貧になっていく」
 たくさんの人員がいても、恵まれた研究環境でも、目を見張るような成果は、あまり出てこないという。
 むしろ、新しいアイディアは、生存な必死な弱小組織の中でこそ、多く芽生えるのだと。
「大組織ってのは、ハリボテみたいなものだったのか」
 とシヴァも呆れていた。
 安楽な暮らしに慣れた者たちは、猥雑な違法都市への赴任も厭がるらしい。組織が安全を保障しても、神経がすり減るからと、精々、数年しか居着かないという。
「じゃあ、規律を厳しくしたらどうなるんだ」
「すると、他の者の足を引っ張り、陥れるような出世競争が始まり、油断できない世界になるだろうね。それでは長期間、安定した運営はできないだろう」
 人間性そのものが、人間の限界を決めるのだろうか。
  「どんな恐ろしい連中の集まりかと思っていたが、とんでもない。ぬるま湯に浸かって、平和惚けした連中だったんだな」
 とシヴァ。

イラスト

 わたしも驚いたけれど、人の本性を考えてみれば、そういうものなのかもしれない。
 危険を承知で市民社会を捨て、辺境の宇宙に出てきた野心的な人々でも、いったん大きな組織に所属して、守られる身分になってしまうと、切迫感が消えてしまい、平穏無事だけを願うようになってしまう。
「それじゃ、違法都市が危険で猥雑な状況に置かれているのは、わざとなのね」
 あちこちで狙撃事件や爆破事件があったり、スパイ行為や裏切り行為が繰り返されるのは、そうでなければ、刺激が足りないから。人々の緊張がゆるんでしまうから。
「その通りだよ。違法都市の住民の大半は、中央から出てきて間もない若いチンピラ男だが、彼らにはエネルギーがある。くだらないこともしでかすが、たまには斬新な真似もする。大組織は、そういう新鮮な部分を選んで吸い上げているのだよ」
 とショーティ。
 弱まった炎に、新しい燃料を投じるようなもの、らしい。
「でも、違法都市に女が増えると、お行儀がよくなって、落ち着きすぎてしまうというのね」
 女は男より冷静で、先を読む。無駄ないさかいを嫌い、協力を好む。
「いずれは、そうなるのも仕方ない。少しずつだが、女性の比率は増えつつある。きみの《ヴィーナス・タウン》の影響でね。だが、当面は現状維持というのが、最高幹部会の方針だ」
 納得できた。
 辺境の大部分は、既に市民社会を超えた平和社会になっていたのだ。
 わずかに、小惑星内部の違法都市だけが、無法を売り物にして維持されているだけ。そうすれば、そこに野心家が集まり、互いに刺激しあうから。
 実態を知ってしまったことで、わたしやシヴァの感じ方も、変わってくるのかもしれない。つまり、わたしたちが辺境の新来者ではなくなり……中枢に近づいたということなのだろう。
 わたしはずっと、一つの考えを抱いていた。そして、それが十分に固まってから、初めてショーティに相談した。《アレクサンドリア》への旅から帰還して、少し過ぎた頃のこと。
「ねえ、シヴァの細胞を使って、子供を作ることができるかしら?」

 シヴァの元秘書、リナが面会に来たのは、五年くらい前のことだろうか。
 彼女はシヴァに内緒で、シヴァの遺伝子を使った子供を育てていた。その子たちがリリス≠フ影響を受け、シヴァの郷里の一族に取り込まれてしまったと、泣いて訴えにきたのだった。
 あの頃、わたしはまだ《ヴィーナス・タウン》の拡大で手一杯だった。だから、シヴァにすがりつく女性の存在がショックではあったし、勝手に子供を作ったことに呆れもしたけれど、じきに忘れてしまった。
 それ以前にも、シヴァの子供を宿した女性はいたのだ。胎児は育たず、死んでしまったと聞いているけれど。
 これからも、彼に惚れ込む女性は絶えないだろう。
 それでも、シヴァがわたしの元にいてくれる限り、問題はない。
 わたしには、事業が何より優先だった。
 店と、そこで生きる女たちが、わたしの子供のようなもの。
 けれど、《ヴィーナス・タウン》がほぼ安定し、辺境でも影響力の大きな存在になった今ならば、少しは私生活に時間を割いてもいいのではないだろうか。
 事業はもう、部下たちが伸ばしていける。わたしの関与は、今より少なくても大丈夫。
 シヴァの形質を受け継ぐ子供たちなら、きっと、どんな世界でも、たくましく生き延びてくれるだろう。

 最初、シヴァは抵抗した。
「冗談じゃない。俺のクローン体なんか、危険すぎる」
 自分そっくりの男の子など、手に負えない暴れん坊になってしまい、周囲に大変な迷惑を及ぼすに違いないと言う。自分の子供時代を顧みて、冷や汗が出るというのだ。
「でも、アスマンはちゃんと成人したでしょう?」
「それは、紅泉が叩き直してくれたからだ……」
「わたしたちの子供は、わたしたちが躾ければいいわ」
 それに、男の子でなくてもいいのだ。
「あなたの遺伝子に少しだけ手を加えて、女の子にしたら?」
 シヴァは戸惑い、考え、首を振る。
「それをしたら、リリス≠ンたいな、はた迷惑な女闘士になるぞ」
「それって、とても素敵じゃない?」
 わたしたちの娘が、将来リリス≠フような正義の味方になってくれたら、どんなに誇らしく、頼もしいことか。
 もちろん、戦う本人にとっては、辛い道かもしれないけれど。
 何も、大きな無理をしなくていい。できる範囲の、ささやかな正義を実現してくれたら。
「いや、あいつはただ暴れるのが好きで、正義を言い訳にしてるみたいなもんだ」
 とシヴァは言うけれど、そういう従姉妹のために、彼は何年も裏方を務めてきたのだから。
「あなたの遺伝子を活かさないのは、勿体ないわ。せっかく、素晴らしい強化体なんだもの。でも、もし技術的に可能なら、わたしの遺伝子も、ちょっぴり加えて設計してもらえると嬉しいわ。ショーティは、何とかなるだろうって言うし」
 既に、リナはそれを実現させたではないか。

イラスト

 しばらく考えさせてくれ、とシヴァは答えた。わたしは彼を急かさず、待つことにした。
 子供を持つということは、重大な決断だ。人類社会にどんな未来が待っているのか、誰にも予測できないのだから。
 これから先、人類そのものが、大きく変貌するのかもしれない。
 ただの肉体強化や不老処置ではなく、人間の形を捨ててしまうような進化までは、わたしにも想像がつかない。
 それが当たり前の未来が来てしまったら、わたしの子供たちはどうなるのか。
 人間であることを捨て、人間らしい喜怒哀楽も捨て、わたしたちには理解できない怪物になってしまうのか。それとも、人類を庇護してくれる神になるのか。
 いえ、そんなことは、悩んでも仕方がないこと。子供たちが成人するまでが、親の責任。
 それくらいの歳月なら、シヴァと二人、何とか持ちこたえることができるのではないか。その先は、子供たちがどうなろうと、わたしたちとは別の人生なのだから。

 やがて、シヴァがわたしに答えを持ってきた。
 週に二日は休日にすると決めてあるのだが、その休日の朝、アンドロイド侍女が朝食の皿を片付けた頃、彼はわたしにこう切り出した。
「子供の件だが、一つ、条件がある。きみがその条件を呑んでくれたら、協力する」
 意外に思った。断られるか承諾か、回答は片方だけだと思っていたので。
 シヴァが改まって、わたしに要求することがあるなんて、初めてではないかしら。
「どうぞ、言ってみてちょうだい」
 少しは怖かったけれど、彼が望むことなら、呑むしかない。
 すると、シヴァは深刻な顔をして言う。
「自分が親になることを考えてみて、初めて、わかった気がする。俺はずっと、周りに守られていたんだと思う。自分の一族にだ」
 ああ、今ようやく、それを納得したの?
「自分では勝手に不貞腐れて、家出までしたが、それでも、その年齢までは、ちゃんと守られていた……良質な教育を受けたし、色々と鍛えられた。別の言葉で言えば、愛されていたんだと思う」
 よかった。
 シヴァが自分の一族のことを、きちんと思い直してくれて。
 もちろん、愛されていたから、シヴァはまっとうに育ったのだ。シヴァだってずっと、従姉妹たちを愛してきたのだから。
「それで、思った。きみの親も……きっと、きみを心配し続けている。今、この瞬間にも、ずっとだ」
 あ。
 それは。
「きみには親も、祖父母も、妹たちもいるだろう。だから、故郷に連絡して、生きていると、それだけ知らせてやってくれ」
 わたしの方が、痛いところを突かれた。家族のことは忘れようと思い、マックスに振り回されている間も、シヴァと出会ってからも、ずっと記憶の底に沈めてきたのに。
 わかっている。愛されていたことは。
 ただ、わたしが臆病だっただけ。
 顔が醜いことで悩んでいる、惨めな思いをしている、それを人に言えなかった。つまらないプライドのために。
 相談すれば、母も、祖母や叔母たちも、親身になって助けてくれただろうに。
 劣等感で凝り固まり、人に心を閉ざしていたから、マックスのような、やはり凍った男にしか、手を差し伸べてもらえなかったのだ。
 整形して、美しさに慣れた今では、たいした悩みではなかったと、ようやく思えるようになっている。
 でも、そのおかげで辺境に出られた。幸せな娘でいたら、シヴァと出会うことは決してなかった。何が幸いするか、わからない。
「今のきみがどこにいて何をしているか、それは教えなくていい。きみの家族が、危険にさらされると困る」
「ええ、そうね……」
 今のわたしは連合≠フ庇護下にあるけれど、どこでどう陥れられるか、誰に逆恨みされるか、わからない。
「だが、生きて、無事でいることだけは、伝えられるはずだ。ショーティが、出所をたどられないように、メッセージを届けてくれる」
 わたしは手を伸ばして、シヴァの胴体にしがみついた。
「ありがとう。そうするわ。生きて、幸せでいるからと伝えます」
 それで、家族の心配がすっかりなくなるわけではないけれど。生死すら不明のまま、皆に重い苦しみを抱えさせたままではいけなかった。
「でも、シヴァ、あなたは?」
 自分の気持ちが定まると、わたしは彼を見上げて尋ねた。
「あなたの一族には、ずっと連絡を取っていないままなんでしょう。それはどうするの?」
 彼は顔を歪めた。まだ悩んでいる。
「俺は……だめだ。戻れない」
 彼の一族は連合≠ノは所属していない。ただし、敵対もしていないと聞いている。
 辺境での家族関係は、市民社会のそれとは違うかもしれないけれど、もしも将来、わたしたちの子供たちが苦難に陥った時には、彼の一族が助けてくれる可能性があるのでは?
「戻りたくない、という意味なの?」
「いや……」
 シヴァは言葉を探して、しばらく悩んでいた。ようやく、絞り出すように言う。
「戻る資格がないんだ。俺には……」
「でも、一族は、あなたを愛してくれたんでしょう?」
「子供の頃は。だが、自分の愚かさで……居られなくなった」
 彼がなぜ十代の終わりに家出したのか、ショーティからは聞いている。ずっと従姉妹に片思いしていたけれど、それが報われなかったからだと。
 でも、この様子では……
「あなたが、故郷の誰かを傷つけたの?」
 シヴァは鉄槌でも受けたかのようにこわばり、しばらく凍っていた後、席から立ち上がった。
「すまない。まだ話せない」
 でも、たとえ何を聞いても、わたしは大きく揺らぐことはないと思う。彼はたぶん、そのことでずっと苦しんできた。人は、心から悔やめば、それで許されるはずだと思うから。
 だって、罪を犯したことのない人など、いないはず。みんないつかどこかで、誰かを傷つけている。
 そして、傷は必ずしも悪いものではない。それが、生きる力になることもあるのだから。
「いつか、あなたの従姉妹たちに会ってみたいわ」
 そう言うと、立ち去りかけていた背中が、いったん止まった。それから、何も言わないままで部屋を出ていった。

28 カーラ

 ハニーが、シヴァの子供を育てるつもりだと言った時……十年越しの付き合いのルーンは、すぐに喜色を浮かべた。
「素敵ですわ。おめでとうございます。もちろん、子育てを手伝わせて下さいね」
 わたしは少し遅れた。
「おめでとう、ございます」

イラスト

 ルーンがあれこれ祝意を述べ、弾んだ様子で先に去っていくのを見送りながら、心の中では、
(潮時か)
 と思っていた。
 ずいぶんと長居してしまったが、独立しよう。
 一人になって、先を考えよう。新しい場所に行けば、新しい考えが浮かぶかもしれない。
「あの……間が悪いかもしれませんが……」
 わたしが《ヴィーナス・タウン》の職を離れたいと告げると、ハニーはあまり驚かず、ただ、いたわるような顔をした。
「薄々、感じてはいたの。あなたは、どこか遠くに行きたいんじゃないかって」
 そうか。日々の仕事をこなしてはいても、そこに魂が入っていないことは、知られていたか。
「ここは、いい組織ですよ。ここにいられて嬉しかった。感謝しています。でも、何か足りない……足りないと感じる。それを捜しに行きたいんです。自分が何を求めているのか、自分でもわからないけれど」
「止めないわ」
 ハニーはにっこりした。今では、組織の陣容も厚い。わたしが抜けても支障はないと、お互い承知している。
「でも、わたしの側近としてのあなたの席は、置いておくわ。何十年でも、何百年でも、ずっとね。気が向いたら、いつでも帰ってきて。お茶を飲みに、ちょっと立ち寄るだけでもいいのよ。どこへ行っても、ここがあなたの帰れる場所≠セと思って。あなたはもう、わたしたちの家族なんだから」
 たとえハニーに殴られたとしても、これ以上の衝撃はなかっただろう。
 家族だって!?
 わたしはしばらく、茫然として立ち尽くした。
 確かにここは、結束の堅い組織ではあるが……所属する女たちにとっては、ほとんど天国のような場所だ……ハニーにとっての家族とは、シヴァと、これからシヴァと作る子供たちのことではないのか。あるいは、そこにショーティも入るとしても。
 何という皮肉。
 もしハニーがわたしの正体を知ったら、家族扱いどころか、悲鳴をあげてシヴァを呼び立てるだろうに。
「わたしね、ずっと観察していたの。あなた、シヴァを見続けてきたでしょう。わたし、何も言わなかったけど。だって、シヴァを譲るつもりは全然ないからよ」
 は?
 譲る?
「ごめんなさいね。彼を独り占めしていて。あの人だけは、誰にも渡せないわ。わたし、シヴァがいないと、生きていけないんだもの」
 おい。
 待て。
 何か誤解があるぞ。
 この自分には、もはや恋愛感情などというものはない。男も女も、その内情がわかってしまっているからだ。誰かに憧れるなどと、もはや有り得ない。
 まして、シヴァだと。あんな単細胞。
「何か、誤解が……」
 こわばる笑顔で言いかけたわたしを、ハニーは優しく遮った。
「いいの、言わないで。それより、餞別に、欲しい船を持っていってちょうだい。連れて行きたいスタッフがいたら、誘って構わないし。わたし、あなたが何かを見つけて、報告に戻ってきてくれるのを待つわ。ここで、子供を育てながらね」

 シヴァも、わたしを引き止めなかった。
「俺の目の届く範囲で監視できた方がよかったが、どうせ、ショーティが追尾するだろうからな。どこへでも行け。ハニーが何か言ったとしても、別に、帰ってこなくていいからな」
 彼らしい、さっぱりした挨拶だった。
 そうして、わたしは《アヴァロン》を離れた。ハニーが気前よく託してくれた中規模艦隊で。
 組織に十年もいると、部下も増え、外部の知り合いも多くなる。ついてきたいと言った者たちもいたが、しばらく待つようにと話して、置いてきた。もし助っ人が必要と思ったら、連絡するからと。
 マックス本体に戻り、彼に吸収されるつもりはない。まだ人間として、このカーラの肉体で、何かをしてみたい。あちこち放浪してみれば、きっと、何かにぶつかるだろう。
(生きる目的……だな。何か、自分のしたいこと)
 子供の頃は、ただ、居場所が欲しかった。それは、自分を待ち望んでくれる誰かのことだったと思う。冷たかった母親とは違う、優しい女。
 しかし、今は、たぶん何年でも自分一人で居られる……と思う。
 一人でいても、以前のような焦りや、惨めさがないからだ。
 多少、寂しいと感じることはあっても、そういう自分を認めてしまえば、別に惨めではない。
 もし、寂しくて辛いと思うようなら、戻れる場所がある。それはハニーが、カーラの正体を知らないからだが。
 シヴァは、それをハニーに告げずにいてくれた。だから、戻れる可能性がある。
「武士の情け?」
 一人でつぶやいて、一人で笑った。宇宙での一人暮らしは、どうやら、独り言が多くなりそうだ。

29 シヴァ

イラスト

 怖い。たまらなく怖い。
 真実を知られ、ハニーに軽蔑されることが。
 娘と息子がすくすく育っていることは、担保にならない。ハニーはかつて、マックスに見切りをつけたではないか。俺だって、
『もう、あなたとは暮らせないわ』
 とハニーに宣告され、《ヴィーナス・タウン》から追放されるかもしれない。
 あるいは紅泉が、《ティルス》か姉妹都市で俺を見るなり、
『よくもおめおめ、戻ってきたわね。ぶった斬るから、首を出しなさい』
 と言うかもしれない。
 人はいつか、自分のしでかしたことに復讐されるのだ。
 自分が一族の本拠地に帰り、探春と向き合うことを想像すると、寒気がする。ハニーのように、ただ家出してきたのとは違う。俺は、自分の居場所を自分で台無しにして、それに耐えきれず、逃げ出したのだ。
 探春は永遠に、俺を許さない。
 たとえば、俺がマックスを絶対に信用しないのと同じだ。超越体になったからといって、慈悲深くなったとは限らない。
 ここから旅立っていったカーラの方は……図々しさに磨きがかかった。盛大な送別会で送り出されたのだから、二度と戻らないだろうと思っていたのに、平気な顔でふらっと立ち寄っては、子供たちをあやしたり、ちょっとしたハニーの頼みを引き受けたりしている。
 まあ、すぐにどこかへ出ていくから、勝手に何かを進めているのだろうが。
 あの頃、一族の大人たちは、事件のことを隠そうとしていたから、紅泉は俺のしたことを知らなかったようだが、今ではもう知っていて、俺を見たら報復してやろうと考えているかもしれない。
『よくも、探春にそんなことを。おかげで、どうしようもない男嫌いになってしまったじゃないの』
 これまで何千人、何万人と殺してきた正義の味方≠ネのだから、相手が従兄弟の俺でも、容赦しないのでは。
 だめだ。
 故郷に戻るなんてことは、とてもできない。
 ハニーにだけ家族への連絡を要求しておいて、自分は出来ないというのは情けないが、仕方ない。
 俺のしたことは……女には、絶対に許せないことだろう。いくらガキの頃の話とはいえ……限度を超えている。
 もしも子供たちに知られたら、俺は父親失格と言われ、二度と会ってももらえないのではないか。
 ショーティは俺の悩みを知っているが、何も言わない。俺が解決すべき問題だと思っているのだろう。
 それとも、自分がいれば、俺はいなくても、ハニーと子供たちは問題なく暮らしていけるということか。

 受精卵は、ショーティが製作してくれた。ハニーと相談して、まずは、育てやすいと言われる女の子を誕生させたのだ。
「偶然にできる子供と違って、親がデザインする子供というのは、難しいわね」
 遺伝子設計の段階で、ハニーはあれこれ悩んでいたが、俺は欲張らなかった。肉体的な強さは、重要ではない。普通に健康なら、それでいいのだ。
 知能が高すぎるのも不幸かもしれないので、情緒の安定した、バランスのいい強化体であるように注文しただけだ。
 ショーティは、俺とハニーの遺伝子をうまく折り合わせ、調整してくれた。おかげで二人とも、賢く元気に育っている。
 それはリザードやリナを通じて、リナの子供たちに伝わっているかもしれない。二人がどんな感想を持つかは、予測がつかない。俺はまだアスマンと梨莉花に会ったこともないし、これからも会わないかもしれない。彼らが、この子たちを妹や弟と認識するかどうかも、わからない。それは、彼らの考えで決めることだ。
 俺は自分がハニーとの間に子供を持った幸運が、まだ信じられないくらいだが……リアンヌとの間にできた子供は、紅泉たちが手を尽くしてくれても、助からなかった……それはもう、昔のことだ。
 ハニーはすっかり頼もしい母親になって、仕事と子育てを両立している。
「ママ、ご本読んで」
「ママ、綺麗なお花でしょう。ママにあげる」
「ママはチョコとナッツ、どっちが好き?」  子供たちには乳母も家庭教師も付いているが、隙を見てはハニーの執務室に走り込み、忙しい母親の注意を惹こうと努力している。ハニーも可能な限り、子供たちの相手を務めてくれる。
「一冊だけ、読んであげるわ。そうしたらパパと、お昼寝するのよ」
 ママに未練たっぷりの子供たちを抱え上げ、子供部屋へ連れ帰るのは、俺の職務だ。
「さあ、もう一冊、絵本を読んでやるから、ここにおいで」  今ではだいぶ、子供の扱いに慣れたと思う。トイレも風呂も歯磨きも、手早く確実に世話できる。ぎゃあぎゃあ泣かれても、けぼげぼ吐かれても、慌てることはなくなった。
 ショーティも、子供たちを背中に乗せて廊下を走ったり、鬼ごっこや隠れんぼの仲間になったりしてくれる。
 上の娘はハニーの母方の祖母の名を取ってペネロペ、下の息子はハニーの父方の祖父の名からリュウと名付けた。
 ペネロペは俺の面影がある黒髪、黒い目の娘で、リュウは母親似の、淡い髪と灰色の目の子供だ。
 俺の娘なんて、どんな大女になるのか不安だったが、五歳になったペネロペは、ほっそりした妖精のようだ。背は高くなるだろうが、しなやかな美女になる片鱗が今からうかがわれる。
 リュウは骨太で食欲旺盛だから、がっちりした大男に育つのではないか。
 二人とも、もう少し大きくなったら、護身術や射撃を教えてやろう。いつ何時、どういう変転があっても生き残れるように。
 俺も一族の中で、ありとあらゆる教養を叩きこまれたものだ。科学知識だけでなく、文学も音楽も……当時はただ面倒なだけだったが、今は感謝するしかない。
 それにつけても、故郷に帰れない自分が情けないが……
 ハニーは時折、気の毒そうに俺を見て、
「シヴァ、わたしには何でも話してくれていいのよ」
 と言うが、それは、俺がまともな男だと信じてくれているからだ。まさか、そんなにひどいことをしているはずがないと。
 だが、実際は……茜に会うまでの俺は、ひどかった。
 いや、茜を失うまで、まだ大馬鹿のままだった。
 初対面で、俺があんな馬鹿なことを言わなければ、茜が絶望して自殺することもなかった。取り返しがつかない。どんなに悔やんでも。
 探春にしたことも、消せないことだ。
 あれで女を手に入れられると思うなんて、どうしようもないクソ餓鬼だった。あの頃の自分に出会えたら、しこたまぶん殴って、根性を叩き直して……いや、駄目だ。暴力に訴えても。
 辺境の弱肉強食を見ていたから、暴力が解決法だと思ってしまったのだ。強ければ意志を通せる、望みが叶うと。
 なまじ恵まれた肉体を持っていただけに、暴力に走ることは簡単だった。銃を使ってもバイクを飛ばしても、俺は無敵だった。
 一族の財力に守られていた面もあったが、何よりも、怖いもの知らずの冒険好きだった。暴れたくて、力試しをしたくて……
 俺が父親だなんて、今更ながら、震えが走る。
 そんな責任、本当に全うできるのか。
 もしかしたら……子供たちが大きくなる前に、いなくなった方が、まだましなんじゃないだろうか。

 ある晩、子供たちを寝かしつけてから、隣接する自分の寝室に戻り、ハニーは俺を自分の横に座らせた。広げて見せたのは、ペネロペの新しい服だと思ったが、そうではなく、《ヴィーナス・タウン》で売り出す新製品だという。
「可愛いでしょう。試作品なんだけど、子供服のシリーズを商品化しようと思うの」
 ハニーを見習ってかどうか、部下の女たちが、ぽつぽつ子供を作るようになっている。父親は人工精子という場合が多いが、他組織の人間だということもある。いずれにしても母親の手元で育っているが、当然、周囲の女たちも育児に協力している。
「以前、リュクスたちが言っていたこと、実現しつつあるわ」
 ハニーが言うのは、《アグライア》のことだ。最高幹部会の後押しを受けた若い女性総督に子供が誕生し、そこへ、子供を持ちたい女たちが熱い視線を注いでいる。《アグライア》では既に子育て村が誕生し、規模を拡大しているのだ。
 ハニーは、たまたま戻ってきていたカーラを大使として派遣し、ジュン・ヤザキと同盟を結んだ。二つの流れが合流したのだ。
「これからは子供服や、文房具や、児童書も揃えていきたいの。《アグライア》でも、たくさん買ってもらえるしでしょうし、うちの部下たちにも必要だから」
「ああ、いいな。絵本はいくらあってもいい」
 それからハニーは、服を下に置き、俺の顔を見直した。そして、手を伸ばして俺の顔に触れる。
「シヴァ、あなた、気掛かりなことがあるなら、わたしに言ってくれていいのよ?」
 言わなくては、と思った。
 永遠に黙っているわけには、いかない。
 だが、言ってしまえば、もうハニーに、優しい言葉をかけてもらえなくなるかもしれない。
 俺は恐がりだ。ハニーを失いたくない。もう二度と、こんな優しい女には巡り会えないだろう。
「怖いんだ。怖い。今が幸せすぎて」
 すると、ハニーは困ったように笑う。
「それは、わたしもそうよ。あまりに恵まれていて、空恐ろしいわ」
 俺は違う。本当のことを隠している、後ろめたさのせいだ。
 本当は、ハニーに愛してもらえるような男ではない。
「だけどね、子供たちのためには、あなたの故郷と連絡を取れる方がいいのよ。わたしたちに何かあった時、子供たちが頼れる先が、一つでも余計にあった方がいいでしょう。シヴァ、あなた、故郷の何を怖がっているの?」
 もう、これ以上は逃げられない。
 冷や汗をかき、酸欠の金魚のように、虚しく口をぱくぱくしていたら、ハニーが眉をひそめて言う。
「初恋の従姉妹をレイプした以外に、何を隠しているの?」
 俺は衝撃で、思考が停止した。
 なぜ。
 いつ、それを。
 俺は話していない。まさか、ショーティが。
 何も言えないままの俺に、ハニーは続けて語りかける。
「だから故郷にいられなくて、家出してきたんでしょう? それは、許してもらえなくても仕方ないわ。どんなに非難されても、ただひたすら、頭を下げるしかないでしょう。わたしも一緒に謝るから、とにかく、挨拶だけはしに行くべきではなくて? まさか、殺されはしないでしょう。あなたの従姉妹たちは、正義の味方なんだもの」
 それから俺をじっと見て、首をかしげる。
「あとは何?」
 心が爆発しそうだった。俺は、どれだけ馬鹿なんだ。ハニーは、俺の罪も失敗も全てまとめて、愛してくれている。
 ショーティが絶対、陰で笑っているはずだ。
「まあ、大きななりをして、どうしたの」
 俺は床に膝をつき、ハニーの腰にしがみついていた。女にしがみついて泣くなんて、マックスには死んでも見せられない姿だが、ハニーは俺の頭を撫でて、慰めてくれた。
「あなたはちゃんと、立派な父親でいてくれるわ。わたしも子供たちも、あなたを頼りにしているのよ。あなたがいてくれて初めて、わたしたちは家族になれたのだから。子供たちが大きくなるまでに、この世界を、少しでもいい場所にしていきましょうね。それが、親としての責任ですものね」
 俺は生きていける。ハニーがいてくれさえしたら。永遠にとは望まない。あとしばらく、この幸福を続けさせてくれ。何十年か、何百年か。それとも、何千年か。
 遠い未来のことは、まだわからない。いま、人間でいられるうちは、人間の幸福を味わいたい。それを超える世界のことは――その時が到来してからのことだ。

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