ミッドナイト・ブルー ハニー編2

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ハニー編2 11 ハニー

 いつからだろう。遠くから、シヴァの背中を追うようになったのは。
 部屋のバルコニーから、遠くの小道に彼の姿を見つけただけで、胸がざわめく。彼の動きを、ずっと目で追い続けてしまう。
 不意に屋内で出くわしたりすると、息が止まってしまう。
 平気なふりですれ違って、そっと振り向いてみた時には、彼は遠く離れてしまっている。
 あの広い背中にしがみついて、頬をすりつけてみたい。そうしたら、彼はどんな反応をするかしら。迷惑がって、わたしを突き放すか、それとも……
 マックスに対しては、こんな風に思ったことはない気がする。背中が素敵、だなんて。
 マックスは、わたしに向いている時は優しくても、他の方を向いている時には、怖いほど冷徹だったから。組織内にいる者たちは、全員マックスのことを恐れていたはずだ………わたしも含めて。
 でも、シヴァの背中には、彼の包容力が現れている。無愛想な顔をして、古びた服ばかり着ていても、実は、教養のある理知的な男だとわかってきた。
 最初のうち、彼はわたしを見ると、疫病でも恐れるかのように、すぐ離れてしまったから、わたしは遠くから彼を見るしかなかったけれど。
 一人で庭園を歩いている姿。厩舎で馬の世話をしている姿。湖の岸にたたずんでいる姿。
 じっとしているかと思うと、不意に走り出して、そのまま湖の周囲を何周もしたり。時には、下着一枚になって、ざぶんと湖に飛び込んだり。驚くほど長い時間潜っていたりするので、溺れたのではないかと心配してしまう。
 そのシヴァと、挨拶だけでも交わせるようになった時は嬉しかった。「ああ」とか「うん」だけの返事でも、声が聞けて。
 いくら贅沢な屋敷でも、一人きりでは、あまりにも侘しかったのだ。アンドロイドの侍女や護衛兵たちは、最低限の受け答えしかできないのだし。
 人と話せないことが、こんなに辛いとは思わなかった。人に心を閉ざしていた少女時代でも、わたしは家族と一緒だったし、学校にも通っていたから、本当の一人ではなかったのだ。
 ずっとこのままでは、自分が生きているのかどうかも怪しくなる。ここは冥府で、わたしはとうに死んでいるのかもしれないじゃないの。
 そうしてやっとシヴァにぶつかり、会話ができるようになった。共に幽閉されている者として。
 彼から聞いた話は、驚くようなことばかり。まさか、初代のグリフィンだったなんて。
 きちんと子育てしている違法¢g織があるというのも、驚きだった。犬を知能強化して、人間以上の存在にしてしまったということも。あのイレーヌが、犬の端体≠フ一つだということも。
 辺境の文明は、古い法や道徳など、はるかに超えてしまっている。
「ああ、あいつももう、超越体だと言っていいのかもしれないな。他にどれだけ、人間から進化した超越体がいるのか、知らないが」
 とシヴァはあきらめ半分のように言う。  最高幹部会のメンバーがそうなのかもしれないし、彼らもまた、最高位の超越体が使う端体≠ネのかもしれないと言う。
 底知れない世界。
 もちろん、だからといって、人類が長く拠り所にしてきた『共感』や『哀れみ』を捨て去っていいとは思えない。
 そういう優しさがない社会は、きっと砂漠のようなもの。無限の戦いが続くばかりでは、普通の人間はとても耐えられない。
 シヴァもやはり、『誰かを愛する』ことが必要な人間らしい。彼が保護したバイオロイドの娘のこと、アマゾネス部隊を率いていたリアンヌのことを、痛切な後悔と愛惜を込めて語ってくれた。
(そうなの、愛した人がいたのね)
 聞いているわたしは、うらやましさで胸が痛くなった。マックスなんか、わたしが死んだら、思い出しもしてくれないわ、きっと。
 そう、わたしはこれまでマックスしか知らなかったから、どうしても、彼との対比でシヴァを捉えてしまう。
 マックスは都会的で洗練されたハンサムだったけれど、シヴァは野性的で飾り気がなく、質実剛健そのもの。
 それでいて、グリフィンという権力の座に長くいたという不思議。
 あのリリス≠フ従兄弟だというのだから、まさに辺境の中枢近くにいる人物なのだ。
 それが、わたしの事業の後援者になってくれる……本当に実現するなら、夢のような話。有力都市に店を出せるし、人材も集められるし、逃げて来るバイオロイドたちの避難所にもなる。
 問題は、わたしたちがカップルにならない限り、ここから出してもらえないらしい、ということ。
 その点だけは、イレーヌの見込み違いだわ。わたしの元の顔を知ってしまった男が、食欲≠そそられることなんて、ないはずだもの。よほど、切羽詰まった状況に陥らない限り。
 そのあたりが、わたしにも計りかねた。
 こんな場所に幽閉されて、何年も女なしで暮らしてきたのなら、いえ、リアンヌという恋人を失って以来、自分の意志で女を断ってきたのなら……心身の飢えが、限界に来ているということはないかしら?
 彼がわたしを避けてきたのも、『つい衝動に負けそうになる自分を抑えるため』という意味があるのだとしたら……
 いえ、やっぱり違うわ。
 彼は、わたしが趣味じゃないのよ。少しでもその気があるなら、とっくに、それらしいことを匂わせていたはず。
 これまで、マックス以外、ただの一人も、わたしに関心を持ってくれた男なんていなかったじゃない。
 マックスすらも、計算の上で近付いてきただけなんだから。
 この世に醜い姿で生まれてしまった、それがそもそも、取り返しのつかない間違いなのよ。
 魂に劣等感が刻まれてしまったら、表面だけ繕ってもだめ。本物の美女≠ノはなれない。
 自分で、違うと知っているのだもの。
 本物の美人は、子供の頃から自分の美しさを知っている。賛美されることが当たり前。ごく自然に、美しい娘として振る舞える。
 成人してから整形したわたしには、それができない。
(美人なら、こう答えるはずだわ)
(美人なら、こう振る舞うはずだわ)
 常に、計算しながら動いている。だから、どうしてもぎこちない。人間のふりをするバイオロイドみたいなもの。
 でも、だからこそ、本物の美≠ノこだわる性格になったとは言える。わたしが醜かったことが、事業の成功につながったのだ。
 だとしたら、今はそれに感謝できる。普通に可愛い娘に生まれていたら、市民社会に疑問を持つこともなく、平凡な一生を送ったはずだから。

 明け方から、細かい雨が降っていた。
 三階にあるわたしの部屋から見ると、湖にうっすら霧がかかっていて、遠くの方はかすんでいる。雲と霧の区別がつかない。
 前はこんな日には、つい暗い気持ちになってしまったけれど、今は違う。シヴァが、二階の部屋にいるとわかっているから。
 最近では、食事時には大抵顔を合わせている。彼の豪快な食べっぷりを、間近で見られるのは楽しい。大きなお皿が、あっという間に空になる。
 彼がぽつぽつと語る、辺境のこぼれ話も興味深い。わたしやマックスより、ずっと長く生きている男だから。
 今ではもう、彼の誇り高さ、潔癖さが心から納得できる。
 イレーヌには、わかっていたのだ。わたしが、シヴァを気に入ると。
 最高幹部会にとっては、《ヴィーナス・タウン》が新たな人集めの戦術にすぎないことも納得した。辺境は、人間の女性の絶対数が少ないのが問題点だったから。
 違法都市に女性の聖域ができ、そこが職場として、娯楽施設として、多くの女性を集めるようになれば、都市がますます繁栄する……
 いいわよ、それに乗るわ。
 だから、わたしをここから出して。
 シヴァとカップルになるふりも……彼が協力してくれるのなら……それを想像すると、つい顔が熱くなってしまうけれど……
 雨の日は乗馬も散歩も楽しめないので、わたしは広い屋敷内を歩き回った。
 毎朝のように泳いでいる、地下の温水プール。ここは周囲が亜熱帯庭園になっていて、デッキチェアにいると、南洋のリゾート地のよう。
 設備の整ったスポーツジムには、温泉風の露天風呂が付属している。扉を開放すれば、湖の眺めが楽しめる。いつか二人で入るなんて……そんなこと、起こりうるかしら?
 ワイン蔵もあれば、食器や花瓶の収納部屋もあった。映画鑑賞室、図書室、サロン、無数の客室、透明な屋根を持つ屋内庭園。
 そのうち、シヴァと二人でお酒を飲んだりできないかしら……食事時のワインだけではなくて。
 やがて、シヴァの部屋の前で足が止まった。彼はしばしば外で走ったり、湖で泳いだりしているけれど、今日はさすがに屋内にいるはず。
 どうせ食事時には会えるけれど、今、声をかけたら迷惑がられるかしら……必要以外、会話を求めてはいけない?
 しばらく立ち尽くして迷ってから、結局、ノックできずに引き返そうとした。なのに、背中を向けた途端、シヴァが慌てた様子で扉を開ける。
「どうした!?」
 屋敷の管理システムが、何か告げたのか。わたしに何か、異変でもあったのかと思ったらしい。
「いいえ、ごめんなさい、何でもないの。ただ、あの……雨だから、退屈で……」
 彼は唖然として、それから笑った。ほっとしたように。
「何だ、それだけか」
 わたしは驚いたあまり、その場に棒立ちになった。初めて見たのではないか、シヴァが苦笑以外で笑う顔なんて。
 それは大笑いなどではなく、ほんの数瞬の静かな笑みだったけれど、それでも彼の本質が露呈した姿。無防備な人の良さ。
 わたしの驚きを見て、彼は戸惑ったらしく、自分の顎のあたりを手で撫でた。笑ったことを後悔してほしくなかったので、急いで言う。
「あのね、一緒に料理をしない?」
 これまでも気が向いた時には、一人で厨房に立っていた。元々、手作業は好きなのだ。でも、シヴァだって、野外で巧みに料理をしていた。それなら、誘ってみてもいいだろう。
「こういう日は、煮込み料理に向いているのよ。ビーフシチューは嫌い?」
 また、シヴァが笑った。ごく自然に。
「悪くないな」

 そうやって少しずつ、わたしたちの距離は縮まった。
 一緒に何かをすると、自然に親しくなれる。
 わたしも彼も食べることが好きなので、料理にはそれぞれ一家言あった。サラダのドレッシングに何を入れるか、相談したり。南瓜を蒸すか揚げるか、議論したり。
 食事の後も、場所をサロンに移して、話し込んだりするようになった。好きな映画、好きな小説、子供の頃の思い出。
 シヴァの笑顔は、日に何度も見られるようになった。無愛想なのは表面だけで、その殻の下に、不器用な少年が隠れているのがわかる。毎日、毎日、シヴァの心の中を、少しずつ知っていけるのが嬉しい。
 ある時、焚火で焼いた魚が食べたいと言ったら、湖に潜って魚を取ってきてくれ、岸辺の焚火に招待してくれた。
 涼しい夜風の中で向き合って、ワインを飲み、塩漬けのオリーブをつまみ、チーズを火にかざして炙り、パンをちぎって食べる。
(もしかして、今、とても幸せ?)
 嵐に遭って、寂しい無人島に漂着したと思っていたのに、実はそこがエデンの園だった……そんな感じ。
 外の世界になんか出ていかなくても、いいのではないかしら。
 だって、外に出れば、事業という名の戦いが待っている。やり甲斐はあるけれど、強い緊張を強いられるのも確か。
 いつまでもこうしているなんて、不可能とわかっているけれど、でも、もうしばらくは……

 シヴァの部屋も、見せてもらった。予想に違わず、物が少なくて殺風景。でも、手入れ途中の銃や工具を見せてもらったのは、面白かった。
「ここでは銃なんて、出番はないでしょ」
 それでも、彼は重い拳銃が好きらしい。使わなくても、手の届く所に置いておきたいとか。
「家出中、動物を狩るのに銃は使わなかったの?」
「それだと百発百中だから、面白くない」
 そういうものなのかしら。
 地下の倉庫に置いてあるバイクも、せっせと手入れしているのだった。わたしが銃やバイクについて質問すると、熱心に説明してくれる。そのほとんどは、わたしには念仏にしか聞こえないのに。
「わたしに射撃を教えてくれる?」
 と頼んだら、大喜びで承知してくれた。熱心に練習メニューを組み立ててくれるので、内心、頼まなければよかったと後悔したくらい。
 その代わり、衣装には興味も執着もない。
 わたしは毎晩、夕食の時にはきちんとドレスアップするのに、シヴァは昼間の普段着のままで現れる。
 それに文句をつけるつもりはないけれど、いつもラフな格好では、躰がけじめを忘れてしまって、いざという時にいきなり正装しても、借り着にしか見えなくなってしまう。
「だってこれから、公式な場に出ることが、絶対ないとは言えないでしょ?」
 従姉妹たちに居場所を知られたくないのは理解するけれど、髪を染めたりサングラスをかけたりすれば、そうそう見抜かれないのではないかしら。
 そもそも彼女たちは、何十年も前に消えた従兄弟のことなんて、忘れ去っているかもしれないのだし。
 ひるむ顔のシヴァを押し切って、寝室に付属するクローゼットを見せてもらったら、広い空間に、わずか数本のズボンと、数えられるほどのシャツや下着類、履き古した数足の靴があるだけ。マックスはお洒落で、店を開けるほど衣装持ちだったのに。
「わたしは紳士物の衣類は専門じゃないけど、それにしても、これはひどいわ」
 これまではまだ、距離があったから口出ししなかったけれど、もし業務上のパートナーになるのなら、ここから整備しなくては。
 シヴァがみすぼらしい格好でビル内をうろついたら、働く女たちがびっくりする。わたしは彼女たちに、自分も楽しく他人も快くするような、正しい装いをするように指導してきたのだから。
「着なくてもいいから、服だけは揃えさせてちょうだい」
 と要求した。
 シヴァは長身のハンサムだから、身なりに構わなくても、いぶし銀のような魅力があるけれど、いつでもこのなりで済むものではない。
「しかし、ここでは……」
「ええ、ここではいいのよ。どんな格好でも。ただ、あなたの目に触れる場所に、正装を吊るしておくだけでいいの」
 見るだけで、意識は変わる。わたしは屋敷の管理システムに、シヴァの衣類を注文した。何種類かのスーツにタキシード、それに合わせた靴や小物、もう少し気の利いた普段着まで。
 シヴァがそれを見て、文明社会の約束事を思い出すだけでいい。着ろなんて要求したら、むくれてしまうだろうから。
 わたしは毎晩、シヴァの目に美しく見えるように、注意を払ってドレスを着る。元の顔を知られていても、構わない。わたしは今の自分の姿が好きだから、自分を美しく飾りたい。
 シンプルな黒のドレスに、パープルグレイのストールを巻いたり。深い薔薇色のドレスに、コンクパールのネックレスを合わせたり。白いドレスに、金のストールという組み合わせも好き。
 女には、衣装に生きる意欲をもらうことがある。自分を飾ることは、きっと本能なのだ。

 そのうちに、シヴァが夕食時、多少はましな格好で現れるようになった。わたしが揃えてあげた衣類のうちで、さほど堅苦しくないものを着てくる。
 彼が照れるといけないので、大袈裟に感嘆することはしなかった。でも、着てくれて嬉しいわ、とちらりと言う。
 彼は誇り高いから、女に支配される自分なんて認めないだろう。わたしはあくまでも下手に出て、彼に感謝するだけ。
 そしてとうとう、ある晩、彼が黒いタキシードで一階に下りてきた。ぼさぼさだった髪も、多少はましに切り揃えてある。
 わたしは言葉もなく、立ち尽くしてしまった。
 どんな映画でも、現実のパーティでも、これほど魅力的な男性は見たことがない。力んではいないけれど、わずかに照れていて、次の動作に迷っている感じ。わたしの接し方次第で、もしかしたら、足元に跪く犬になるかもしれないし、あるいは、強引な求愛者になるかもしれない……?
 常に自惚れが放射されているマックスでも、これほどの、しびれるような歓喜の感覚をわたしに与えたことはなかった。
(ああ、だめ)
 腰が抜けるという表現があるけれど、わたしは溶けてしまい、立てなくなりそうだった。シヴァにすがって、支えてもらわないと、くたくたと崩れてしまいそう。でも、もし、彼の腕に抱き支えてもらえたら、嬉しさのあまり、そのまま気絶してしまうかも。
 恋をしている、とはっきり自覚した。
 全身の細胞が、一つずつ歓喜に震えるよう。
 指一本で触れられただけで、きっと燃え立ってしまう。
 同時に、理解した。わたしが、マックスに恋をしたことはなかったのだ。彼に感じていたのは、感謝と尊敬。そして、恐怖。いつ飽きられて、捨てられるかと、心の底で身構えていた。
 でも今、このシヴァにはただひたすら、抱き寄せてほしい。彼の胸にすがり、たくましい腕に躰を囲われたら、どれほど嬉しいか。
 ただ、それは言えない。
 言ったら、彼を困らせる。向こうにその意志があれば、とうの昔に表明してくれているはずだもの。
「変か?」
 シヴァが自信なさげに自分を見下ろしたので、わたしは微笑んだ。
「いいえ、とても素敵。とてもよく似合ってるわ」
 すると彼は、弁解するかのように言う。
「いや、その……釣り合いというものを考えて……」
 まあ。シヴァでも、そんなことを考えるの?
 確かに外見なら、わたしたちはどちらも高水準。わたしは今夜、とても素敵な金色のドレスを着ているから、できるものなら、二人一緒の写真に残しておきたいところ。でも、そんなこと、シヴァは厭がるだろうから。
「ダンスしてもらうには、まともな格好でないと駄目だろう?」
 それを聞いた途端、わたしは自分を偽ることも忘れ、ほとばしるように叫んでしまった。
「踊ってくれるの!? 嬉しいわ!! ありがとう!!」
 彼は少し驚いたような顔をして、それから、悔やむように言った。
「どこへも出掛けられないでいるからな。本当は、ちゃんとした店に連れていってやれるといいんだが」
 いいえ、違う。
 整形した最初の頃は、マックスにせがんであちらのクラブ、こちらのレストランと出歩いたけれど、それは、美しくなった自分を世界に披露したかっただけ。世界への復讐のようなものだった。
 今は、シヴァと二人でいられる、この空間が好き。彼がわたしを見てくれれば、それで満たされる。他人の視線など、必要ない。
「ここでいいの。もう慣れたわ。あなたが踊ってくれるなら、それで十分よ」
 美味しい夕食を堪能した後、彼はアンドロイド侍女に音楽を流させて、サロンでわたしとダンスを踊ってくれた。ゆるやかなワルツやブルース。
 手を取ってもらい、背中を支えてもらうのが、こんなに嬉しいことだなんて。
 わたしがハイヒールを履いていると、背丈の釣り合いもちょうどいい。シヴァはマックスより背が高くて、肩も腕もたくましい。
 わたしなんか、軽く抱き上げられるわ、きっと。
 そのうち、ごく自然に、彼の胸に頭をもたせかけることができた。とろけるような幸福感で、温められた蜂蜜のように流れてしまいそう。
 もう、他のことなんてどうでもいい。
 このままずっと、シヴァと二人きりでいたい。
 だって、外の世界には他の女がいるもの。本物の美女がたくさん。
 でも、ここにいれば、彼はわたしだけを相手にしてくれる。
 マックスのことも、《ヴィーナス・タウン》のことも、遠い前世のよう。
 わたしはたぶん、恋愛をしたかったのよ。
 でも、恋を叶えるためには、美しさが絶対に必要な条件だと思っていた。美しくなければ、好きな人に振り向いてもらえない。こちらから近づくこともできない。きっと迷惑がられるから。
 マックスに出会う前、ほのかに好きだった同郷の先輩に、片思いの女性がいると知った時は、本当に死にたくなった。二度と、甘い憧れなど持つまいと思っていた。
 シヴァはわたしを『ここから出るための手段』としか見ていないかもしれないけれど、それでもいい。彼の中に、一定の場所を占められるなら。

12 マックス

 奇妙なことに、超越化そのものは、さして難しくなかった。基礎実験は経験していたし、先行する超越体が、きちんと道案内をしてくれたからだ。
 ただ、『自分が超越体になる』という、断固たる決意が必要だっただけのこと。
 怯えた哀れなバイオロイドには、何がどうなっているのか理解できず、恐怖のあまり精神に異常をきたしても仕方なかったが、ぼくは違う。
 やはり超越化には、本人の意思と、高い知性が両方必要だったのだ。
 他人を無理に実験台にしているうちは、何十年経っても、関門を乗り越えることができなかっただろう。
 基本的な困難の一つは、
『自分の今日までの肉体を、永遠に捨て去る決心ができるかどうか』
 だった。
 特殊なカプセルに入り、自分の中枢神経はもちろん、末端の神経まで機械の端末と細かく融合させる。
 視神経、聴神経、皮膚感覚、内臓の神経、運動神経などが、特殊な有機繊維とつながれ、外部からの情報を脳に伝える。また、脳からの指令を送り出す回路もつながれる。
 更に、全身の主要血管を特殊チューブとつなぎ、生命維持のための人工血液を循環させる。もはや、心臓や肺に頼る必要はなくなる。
 また、筋肉が衰弱しないよう、人工的な刺激と負荷を加える特殊繊維を埋め込まれる。肉体は当分の間、このカプセルで眠ったまま保存されるのだ。
 この段階で既に、どこから本体でどこからが付属物なのか、見分けもつかない異形になりはてる。無数の繊維やチューブが差し込まれた肉体は、もはや本来の輪郭すらわからない。
 つまりこれは、現在のところ、不可逆の処置となる。
 後から『接続をはずす』ことは、不可能ではないにしろ、きわめて手間がかかる上、さしたる意味を持たない。
 カプセル中の肉体は、最初のうちこそ人間の形を保っているが、いずれ末端の組織は溶け崩れ、代替する人工繊維に置き換えられていく。最後には、自前の中枢神経しか残らない。
 そこから自分を復活させるとしたら、新しい肉体に脳移植するようなことになる。冷凍保存しておいた自分の細胞から、クローン体を作って利用するか。それとも、新しく設計した遺伝子情報から育成するか。
 もっと年月が経てば、中枢神経そのものも崩壊していく。有機組織には、寿命があるからだ。本人の意識は、本体と接続していた機械部分にしか残らないことになる。
 そこから肉体に戻ろうとすれば、人工脳を使うことになるだろう。だったら、超越体の意識の一部を入れた人造の肉体を操ることと、何も変わらない。元の肉体にこだわる意味など、消滅するのだ。
 イレーヌの話では、これまで誰も、超越化から後戻りした者はいないそうだ。
 もっとも、超越化自体、数えるほどしか成功していないというから、今後、後戻りする者が出る可能性はあるが。
 元の肉体に未練を持つくらいなら、そもそも、超越化する必要はないのだ。
 もろい肉体に依存しない存在になることが、超越化の目的ではないか。
 ぼくは少年の頃から熱心に自分を鍛えてきたし、それなりに気に入っている肉体ではあったが、そのままではいずれ老いていく。
 戦闘能力に関しては、戦闘用アンドロイドや、生まれながらの強化体とは比較にならない。不老処置を繰り返したところで、銃弾の一発が頭部を粉砕すれば、それまでのことだ。
 無敵の存在になることを望むなら、肉体に対するこだわりなど、無意味な妄執でしかない。
 そもそも、ぼくに退路はなかった。既にイレーヌに捕えられ、自分の築いた組織も、愛した女も奪われているのだから。
 ここから逆転をはかるためには、イレーヌの提案に乗るしかないのだ。
 いや、組織はどうでもいい。そんなものは、いくらでも再建できる。というより、自分≠ェ拡大すれば、自分一人であらゆる仕事ができる。あえて他人を使う必要がない。
 肝腎なのは、ハニーを取り戻すことだ。
 生きる≠ニいうことは、自分一人で完結することではない。
 誰かを愛し、愛されなければ、人間社会にいる意味がない。
 人間は何十億年にわたる祖先たちの試行錯誤を経て、今のような形になった。この在り方を完全に捨て去るには、おそらく、億とはいわないまでも、万の歳月がかかるのではないか。
 だから、当面、他人を必要とする≠ニいう在り方を続けても構わないはずだ。
 自分が超越体になりたいのは、自分の愛する女と、永遠に幸福に暮らすため。
 その永遠が、百万年なのか、百億年なのか知らないが。
 それを、イレーヌもわかっている。
 彼女の場合は(元が雄犬だから、彼と呼ぶべきかもしれないが、代名詞など、もはやどうでもいい)……シヴァだ。
 子犬の頃からの親友。
 シヴァに対する執着が、ショーティの正気を保っている。
 だからこそショーティも、ぼくの弱点がハニーだと理解している。
 逆に言えば、ハニーを確保しているからこそ、ぼくを脅迫できるわけだ。
 もし、ぼくがハニーを取り戻すことができたら……
 その時はもう、イレーヌに操られることはない。イレーヌを部下として使役する、謎の超越体を恐れることもない。
 少しばかり早くこの世に生まれただけで、後から生まれた者を全て支配できると思うなど、傲慢きわまりない。
 そんな怪物に支配される人類社会など捨てて、この銀河を出て行っても構わないのだ。

 最初は、ぼくの肉体を収めたカプセルに付属する記憶装置とつながった。この記憶装置だけでも、人間百万人分くらいの記憶を収容できる。
 そこから更に、船の記憶装置とつながった。この一隻の記憶装置だけでも、人類の歴史と知識が丸ごと入る。
 ぼくの感覚≠ニしては、最初、白い闇の中に浮遊している、という感じだった。
 手足の感覚はない。夢の中にいるように、意識だけが存在している。だが、きわめて明晰な意識だ。
 さて、どうする?
 何かを見るには、その何かを指定しなければならない。その指定は船の記憶装置を経由して、船の制御システムに通じることになる。
〈外が見たい〉
 すると、船が浮かんでいる宇宙空間が投影された。星と銀河を隙間なく散りばめた、無限の大空間。
 自分は肉体を持たず、魂だけで、その中心に漂っている感じだ。
 戦闘用装甲服を着て、船外活動をしたことはあるが、きわめて不自由な体験だった。かさばる装甲服は、きわめてわずらわしい。
 だが、これは、身一つで真空の宇宙を体験するかのようだ。呼吸の必要もなく、放射線や高速粒子を心配する必要もない。
 別に頼んではいないが、横にイレーヌの姿が浮かび、ガイドをしてくれた。
〈元のあなたの視覚に合わせた帯域で、投影しているわ。紫外線や赤外線にまで広げれば、違う見え方になる。納得するまで、試してみるといいわ〉
 ぼくはやってみた。見たい帯域を指定すると、恒星の周囲のコロナがよく見えたり、荷電粒子の渦巻きが、恒星系の外まで薄く広がるさまが見えたりする。
 遠い銀河の中心から噴き出す、プラズマと電磁波とニュートリノの放射も見える。
 銀河は、何十億年もの過去の歴史を引きずって動いているのだ。そこから時間を遡り、過去の宇宙の姿を確認することもできる。
 それだけで何時間もかかったが、やがて、納得がいった。後でまた、暇な時、宇宙の歴史の探求に戻ればいい。
〈自分の肉体が見たい〉
 すると、闇の一点が明るくなり、カプセルを上から見下ろす映像が浮かんだ。
 自分の肉体が裸で薬液に浮かんでいるが、全身に無数の繊維や人工血管が差し込まれているため、もう人間の形には見えない。
 似ているものといったら、呪いの針をびっしり刺されたマンドラゴラの根というところだろうか。
 接続が安定すれば、やがて不要になった手足は溶け落ち、丸太のような胴体だけになる。その胴体もやがては溶け、栄養補給をされる中枢神経だけが残る。
 我ながら、哀れなものだった。
 鍛え上げた肉体も、こうなっては意味がない。
 いや、そもそも、あんなちっぽけな肉体で、何ができると思っていたのか。人間が鍛えたところで、弾丸一つにも勝てないではないか。
 ちっぽけなのは、この船もそうだ。たった一隻の戦闘艦にすぎない。核ミサイルの一撃か、小惑星との衝突で消え去ってしまう。
 艦隊を増やさなくては。
 一隻が吹き飛ばされても、他の船がぼくの意識を保つように。
 そういう船が百隻、一万隻、一億隻になれば、ぼくという存在は、限りなく不死に近くなる。
 一隻の船が、一つの細胞になるのだと考えればいい。自分という存在が、はるかに巨大化したのだとわかる。
 これはもう、神になったのと同じだ。
 数億、数十億の船がぼくの意識の座となり、互いに連携していれば、敵対者が攻撃してきても、ぼくを滅ぼすことは不可能になるだろう。
 ぼくそのものが、一つの種族になったようなものか。
〈船を動かしたい〉
 ぼくは指令を送り、船を移動させた。出力制御、加速、減速、旋回、小惑星を的にしての射撃。小型艇の発艦、操縦。
 自在に動く。自分の肉体と同じだ。
 艦内のあちこちを点検した。固定カメラで見えない箇所も、修理ロボットかアンドロイド兵を送れば見える。無数のセンサーからの情報も感じ取れる。
 気温、湿度、空気循環、回転居住区の遠心力。
 今はまだ、管理システムが中継して、体感データに変換してくれる。だが、いずれ体感≠ゥらは卒業する時が来るかもしれない。
 いいぞ。ここまでは成功だ。
 ぼくは正気を保ち、状況を把握している。
 だが、待て。油断はできない。
 ぼくに先んじている超越体は、ぼくに勝てる自信があるから、ぼくにこの挑戦を許したのだ。
 ぼくはまだ、この世界のほんの入り口に立っただけのこと。
 学ばねばならないことが、まだたくさんある。今は、それが何なのかすら分からない。
 ぼくの肉体に最初の接続繊維が差し込まれてから、ここまで、実時間で四十時間ほど。
 だが、生身に依存しないぼくは、疲れてもいず、眠くもならない。空腹感もない。
 このまま、何日でも、新しい自分を試し続けられるだろう。
 しかし、それよりも先に、することがある。ハニーを取り戻すのだ。
〈もう、慣れたわね〉
 ぼくが超越体としての基本動作をマスターすると、イレーヌはいったん離れていった。
〈あとはしばらく、あなたの行動を見守るわ〉
 ぼくにどうしろ、という指図はしない。ぼくがどう行動しても、脅威にはならないと思っているのだ。
 だが、ぼくは進化してみせる。いずれ、イレーヌの監視網から脱出できるように。

13 シヴァ

 俺はわずかな時間だけ眠って、目覚めた。
 いつもそうだ。短い睡眠で足りる。目が覚めたら、すぐに動き出す。走ったり、食ったり、泳いだり。
 だが、この朝は、夜明け前の薄闇の中で、しばらく動かなかった。隣で、ハニーがぐっすり眠っていたからだ。
 長い髪が乱れて、枕に散っている。裸の腕が折り曲げられ、なめらかな頬に、ほっそりした指が触れている。規則正しい寝息と共に、白い肩がわずかに上下する。
 この温かくて、美しい生き物が、俺を受け入れてくれた。
 ハニーには、わかるまい。
 今の俺が、どんな気持ちでいるか。
 もうずっと、無為な日々を過ごしてきた。監視され、閉じ込められ、いつかまた新たな役目が投げ与えられるまでの飼い殺し。
 俺は、奴らの道具にされるためにだけ、存在しているのか。
 そんなはずはない。
 いつか必ず、そうではないことを証明してやる。
 だが、それでも、ショーティの監視から逃げる方法はなかったし、逃げてどこへ行くというあてもなかった。俺は、強化体としての俺の活力は、ひたすら無意味に消費されてきた。
 しかし、とうとう、暗雲から光が射した。
 俺の前に、再び女神が舞い降りた。
 俺の力は全て、誰かを愛し、守るためのものだ。茜を失った時も、リアンヌを失った時も、それをいやというほど思い知った。
 自分など、ただのはぐれ犬にすぎない。自分一人が生きていても、嬉しくも何ともない。
 守るべき誰かがいて初めて、意味を持つ。
 俺はこの女のためなら何でもするし、誰とでも戦うだろう。
 ハニーがいつか、もし、俺のことを必要としなくなっても……愛し続けることはできる。
 できるなら、そんな時が来ないことを願いはするが。
 俺はそっと起き上がり、ごく静かにベッドから離れた。ハニーはまだ、数時間は眠っているだろう。
 その間に、何かできることがあるはずだ。ハニーが望むことで、俺がしてやれることが何か。
 人類の文明は、ごく一部の権力者たちの手に握られてしまっている。ショーティもいつの間にか、そいつらの仲間に加わってしまった。
 だが、いつまでもこのままでいいとは思わない……紅泉だって、戦っている。自分の理想のために。
 ハニーがどう考えるかは、まだわからないが……とりあえず、俺は何かをする。この女を喜ばせる何かを。
 それがきっと、社会を変革することにつながるだろう。

14 ハニー

イラスト

 朝、わたしが自分のベッドで目覚めた時は、シヴァはもう横にいなかった。けれど、さっきまでいたことは間違いない。枕にくぼみが残っているし、黒く堅い髪の毛も落ちている。
 よかった。
 夢ではなかったのだ。
 昨夜、ダンスの途中でわたしがシヴァにすがりついてしまったら、彼はわたしを突き放したりせず、そっと抱きしめてくれた……わたしの髪をかき分けて、額にキスしてくれた。わたしがせがむと、それ以上のキスもしてくれた。
 それから先は……嵐に巻き込まれたよう。
 恍惚というのがどんなものか、初めて思い知った気がする。熱い溶岩のように溶けて、崩れてしまい、自分の形がなくなりそうだった。
 わたしの全身に、彼のキスの痕が散っている。甘いだるさも、ずっしりと内奥に刻印されている。
 わたしも長いこと、心と肉体の飢えを我慢していたけれど、シヴァは余計にそうだったらしい。初めて女を知った少年のように、わたしを味わい尽くし、貪り尽くして、無我夢中のさまだった。
 最後にはわたしの方が、
『もう休ませて、もう限界……』
 と言わなければならなかったほど。
 あれが、強化体の体力なのね……それでは今夜もまた、求めてきてくれるかしら……?
 嬉しいけれど、自分の体力が心配だわ。彼に、回数の制限をかけておく方がいいみたい。
 ひんやりする朝の空気の中で寝返りを打って、うっとりと微笑んだ。わたしが長く抱いていた劣等感は、シヴァの情熱で、はるか彼方に押し流されてしまっている。彼が繰り返し、心からしたくてしているという、情熱的なキスと愛撫を注いでくれたから……
 整形前の姿なんて、どうでもいいのだ。彼が今のわたしを望んでくれるなら、他の誰にどう思われようと、どんな惨めな過去があろうと、もう振り捨てて構わない。
(生まれてきて、よかった。女で、よかった。辺境に出てきて、よかった……)
 先のことは心配するまい。この世界には今≠オかないのだ。明日がどうなるか、誰にもわからないのだから。

 わたしがシャワーを浴び、バスローブ姿で髪を梳かし、どんな服を着ようか考えていると、階段を駆け上がる足音がして、シヴァが戻ってきた。
 ドアを勢いよくノックしてくれたのはいいけれど、わたしが返事をするかしないかのうちにドアを開け、大股で飛び込んでくる。
「起きたか。着替えなんかいい。移動するぞ」
 シヴァはおはようのキスもなしで、わたしを横抱きに抱え上げた。櫛が落ちようが、化粧水の瓶が倒れようが、目にも留まらない様子。そして、あっという間に階段を駆け下りていく。
「待って、どこへ行くの!?」
 まるで、嵐にさらわれるよう。
 力強くて頼もしいけれど、せめて、身支度くらいさせてくれたって。わたしが突っかけていたミュールもどこかへ吹っ飛び、わたしはバスローブの裾から素足をさらしている。
「船だ。ここから出られる。さっき試してみたら、桟橋の船が動かせるようになっていた」
 シヴァは早起きして、そんなことを確かめに行っていたの? わたしの隣でゆっくりまどろむより、ここから出ることの方が重大事?
 いくらか傷ついたけれど、その時にはもう、玄関前に停まっていた車に押し込まれている。
 後部に工具やキャンプ用品を積んだ、無骨なオフロード車だった。マックスはいつも、兵に豪華な大型車を運転させていたのに。
 シヴァが運転席に飛び込んで、レースのような勢いで車を発進させたので、助手席のわたしは急いでシートベルトを締めた。
 裸足で車に乗るなんて、初めて。屋敷から延びる道は、何十キロか先の気密桟橋に通じている。
 これがシヴァ本来のペースなら、これまでは冬眠していたようなもの? わたし、このせっかちぶりに慣れなくてはいけないのかしら?
 シヴァは前を見て運転しながら、簡潔に言う。
「ショーティの奴が、認めたんだ。俺たちの仲が、本物になったこと。だから、自由にしていいとさ」
「だって、昨日の今日なのに……?」
「あいつは何でも知ってるんだ。隠し事なんか、できやしない」
 もしかして、昨夜の出来事の一部始終が映像資料として、イレーヌもしくはショーティの元へ送られたのでは。
 思わず顔を押さえ、赤面してしまう。プライバシーの侵害だわ。
 もちろん、そんなことを気にする彼女ではないでしょうけど。
 そもそも、人間ですらないんだものね。
 わたしもシヴァも、彼女の鳥籠の中にいるようなものに違いない。人間の飼い主が、ペットの交尾を成功させたようなもの? イレーヌは、善意の飼い主なのだろうけれど。
「でも、船でどこへ行くの?」
 シヴァは運転しながら一瞬だけわたしを見て、にやりとした。
「きみは、仕事に戻りたくて、うずうずしてたんだろ?」
 驚いた。
「それじゃ、わたし、《ヴィーナス・タウン》に戻れるの!?」
 それにまた……シヴァは昨日まで、『おまえ』という言い方をしていなかったかしら?
 『きみ』というのは、普通、『おまえ』よりも距離感のある言い方だけれど、シヴァにとっては……敬意の表れだと解釈していいのかしら? わたし、昨日よりシヴァに近づいているはずでしょう?
「戻ってもいいが、他の場所で新しく始めてもいいだろう。その計画を、これから検討すればいい」
「他の場所って?」
「支店はたくさん出すにしても、本拠地は大きな都市に置くべきだ。まず、どかんと大きな旗艦店を作ればいい」
 車は外周桟橋で船に乗り込み、シヴァはわたしを抱いて回転居住区に移動した。まるで、わたしが歩くことを知らないとでもいうように。
 船はすぐ桟橋を離れた。すっかり馴染んでしまった楽園が、たちまち闇に消えていく。
 心の底から残念だった。
 もうしばらく、あの小惑星で、二人きりのハネムーンを過ごしたかったのに……せめて、一か月かそこらは。
「何か着てくればいい。用意があるはずだ。それから飯にしよう」
 わたしを船内ラウンジに降ろすと、シヴァは大股でどこかへ消えた。何かに気を取られていて、わたしのことなんか、後回しになっている感じ。昨夜はあんなに、情熱的だったのに。
 でも、それがまた新鮮だった。
 冷静な計算ずくのマックスとは、何もかも違う。
 シヴァにはきっとこれからも、振り回されるに違いない。はらはら、どきどきする日々が始まる。
 わたしの血管にも、新しい血が流れ出したよう。世界が、新しく生まれ直したのと同じ。
「ハニーさま、こちらへどうぞ」
 わたしがアンドロイド兵に案内された船室には、女物の衣類や日用品が揃えてあった。それも、わたしの趣味に合う品ばかり。サイズもぴったりだ。
 きっと、イレーヌが用意しておいてくれたのだろう。いま起きていることは、全て彼女の予想のうちなのだろうから。
 まずは髪をまとめ、シヴァが見て喜んでくれるように、美しい薔薇色のワンピースを選ぶ。
 色素の薄いわたしには、鮮やかすぎる色よりも、少しミルクがかった色や、煙った色が似合う。この服も、ややくすんだ薔薇色だ。ピンク珊瑚と真珠を連ねたネックレスと合わせると、いい感じ。
 シヴァの待つ食堂へ行くと、彼は先にテーブルで料理を攻撃していたけれど、わたしを見ると一瞬、驚いたような顔をしてから立ち上がり、大股で出迎えてくれた。
 マックスのようにお世辞は言わないけれど、いかにも弾んでいるような、同時に、そのことに照れているような顔をしたので、たぶん、この姿は気に入ってもらったのだと思う。
「きみも何か食べるといい」
 額に軽くキスしてくれて、椅子に座らせてくれる。でも、そうしながらも再び、何かに心を奪われているという様子。
 わたしがアンドロイド侍女に料理を頼むと、彼はせっかちに言う。
「とりあえず、《アヴァロン》へ行こう。そこに、《ヴィーナス・タウン》の本店を置くのはどうだ? ショーティも了解した。いずれは、全都市に支店ができることになるだろう」
「ちょっと待って……いきなり《アヴァロン》なの?」
 そこは、辺境でも有数の大都市だ。
 六大組織の一つ《ティアマト》の直轄地であり、有力組織が軒並み拠点を構えているから、活気はあるけれど、地価も高い。立地のいい場所は、全て老舗組織が押さえているはずだ。そこへ、どう割り込めるというのか。
「どうせ、すぐ近くだ。俺は何年も、《アヴァロン》と隠れ家を行き来して暮らしていたからな。都市では姿を隠して行動しないとまずいから、ストレスがたまると、隠れ家に戻って息抜きしてた」
 グリフィンの正体を従姉妹たちに知られないよう行動するのは、大変な苦労だったらしい。
 でも、知られたら何か変わるのかしら? 単に、従兄弟が敵に回ったと思われるだけではない? それが、そんなに耐えられないこと? 今でも、ヴァイオレットという従姉妹に未練があるの?
 それでも、シヴァが張り切っているのは、嬉しい眺めだった。
 本当に退屈しきっていて、何かをしたかったのね。
 そんなに熱心に《ヴィーナス・タウン》のことを考えてくれるのなら、任せるわ。
 差し向かいの食事が済む頃、シヴァが驚いたように立ち上がった。
「ショーティ!!」
 わたしもつられて立ち上がり、彼の視線を追った。
 ぴんと立った耳の、暗灰色の背中をした大型犬が、ゆったりした歩みで、隣接するラウンジから食堂に入ってくる。そして、こもり気味の低音で話しかけてくる。
「やあ、ハニー、おはよう」
 アラスカン・マラミュートを土台にしたという、大きな犬。
 これが、超越体になったシヴァの親友。
「この姿で会うのは初めてだが、中身はイレーヌと同じだから、警戒しなくていい。改めて挨拶しよう。わたしが、シヴァの保護者のショーティだ」
 犬がしゃべるのは初めて聞くけれど、発声のために細工がしてあるようで、発語を聞き取るのに難はなかった。
「よろしく……ショーティ」
 警備用に知能強化されたサイボーグ犬ならあちこちで見たけれど、人間を超えるほどに進化した犬が存在するというのは、なかなか信じにくいことだった。
 今ではどれほどの怪物になっているのか、シヴァにも計り知れないという。
 あの華麗なイレーヌが、この犬の仮面……超越体の一部だと考えることに、まだ馴染めない。
 でも、辺境の底知れない深みを、わずかでも覗けたことにほっとする。何も知らないより、少しでも知識が増えた方がいい。
「ありがとう、ハニー、シヴァを愛してくれて」
 犬はきちんと前足を揃えてお座りの姿勢をとり、わたしに言った。
「これでわたしも、安心できる。どうか末永く、シヴァをよろしく頼む。きみたちが幸せでいられるよう、できるだけのことをさせてもらうから」
 まるで、娘を嫁に出す父親みたい。わたしの反感も疑問も警戒も、全て見通していて、下手に出ているのね。
「あなた、シヴァが子供の頃から、ずっと一緒だったんですってね」
 わたしの口調には刺があったと思うけれど、犬は恬淡としていた。
「そう。子犬時代からの親友だ。わたしが今のわたしになれたのは、シヴァのおかげだと思っている。おかげで妙な責任も負ってしまったが、それはやむを得ないことだ。シヴァの幸福を願う限り、人類社会と関わらずにはいられない」
 人間を超えた存在が、たった一つ持つ弱点が、そこだなんて。
「それじゃ、もしシヴァがいなくなったら、あなたは人類社会とは関わりを断つの?」
 そんなこと、仮定で考えるのも厭だけれど。
「そうなるかもしれない。だが、もしシヴァが、きみや従姉妹たちのことを頼むと言い残していたら、それを無視することはできないかもしれないな」
「かもじゃない!! 頼むと言ってあるだろうが!! リアンヌがいる限り、市民社会にもちゃんと目配りしてくれ!! リアンヌの子供たちのこともだ!!」
 横からシヴァが力んで言うので、わたしはつい微笑んでしまう。
 信じられる、この人のことは。
 わたしの存在はまだ、従姉妹たちやリアンヌの重みより小さいとしても。
 今、シヴァと一緒にいるのはリリス≠ナも、過去の恋人でもなく、わたしなのだもの。
「ショーティ、あなたが最高幹部会の代理人の一人……って本当なの?」
 一人というのか一匹というのか、困るところ。
「そうだ。代理人として任務を請け負っている者は、他にも二十人ばかりいるがね。ここから先は、シヴァの親友としてではなく、最高幹部会からの使者として話させてもらう」
 わたしははっとして、いくらか身構えた。
 彼らの庇護を受ける代わりに、どんな義務が課されるというの?
 上納金は覚悟している。マックスの組織も、収入のかなりの部分を吸い上げられていた。
 それ以外の義務は? 無理難題は?
「《ヴィーナス・タウン》の新規出店については、最高幹部会が全面的に後援する。場所も資金も心配は要らない。人集めにも協力できる。辺境に人間の女性を増やすためには、きみの店が、全都市に支店を持つことが望ましいという判断だ。安全な受け入れ先があると思えば、市民社会の女性たちが、きみの店を目当てにやってくるだろう」
 驚いた。わたし、相当に高く評価されている? たかが、女の服や小物を売るだけの商売なのに?
「どの都市であろうと、きみの店には最高幹部会があらゆる便宜を図るし、安全な営業を保証する。安心して、人員を増やしてもらいたい。他組織からの引き抜きも構わない。辺境に優秀な女性が増えれば、男たちの野蛮に、少しは歯止めがかけられる。これは、グリフィン以来の大抜擢だ。きみはすぐ、世界中の話題の人物になるだろう」
「わたしが?」
 グリフィン以来の大抜擢、ですって?
 いくら何でも、大袈裟すぎない?
 いったい、何を引き換えに求められるの?
「そう、きみが、中央でも辺境でも、新たなスターになるわけだ」
 グリフィンやリリス≠ヘ素顔を秘匿したままだけれど、わたしはこの姿を顧客にさらして営業するわけだから、それこそ、中央の政治家以上の有名人になるらしい。
 とんでもない話に聞こえる。たかがファッション・ビルの経営者が。
 でも、ショーティにとっては、わたしを売り出すことが重大任務であるという。
「女性の生活を豊かにすることは、すなわち文明の水準を上げることだ。最高幹部会も、それなりに未来を考えているのだよ。現状では、不老不死目当てのチンピラしか、辺境に出てこない。今の荒んだ状況を変えるには、女性の比率を上げることが一番だという結論に至っている」
 それは確かに、そうかもしれないけれど。
 あまりに都合のいい話で、逆に怖い。
 利用されるだけ利用されて、最後はポイ、と捨てられるのではないかしら。
 状況が変わった時に、シヴァがどこまでわたしを守ってくれるかも、今はまだはっきりしない。
 本当の権力を持っているのは、人間を超えた怪物たちなのだ。
 彼らが何を最終目的にしているのか、わたしのような、ただの人間には想像もつかない。
「そういう目で辺境中を見渡した場合、きみの事業を後押しするのが一番効果的だ。だからハニー、きみの店には、女性が駆け込めば保護される聖域≠ニいう役割を担ってもらいたい。どんな組織も、きみの店に手出しはできないという新たな常識を、これから我々が辺境に広めることになる」
 女性の聖域……サンクチュアリ。
 無法地帯の中の、安全な小島。
 市民社会から、女性を引き寄せるための広告塔。
 女が増えれば、それに惹かれて男たちも集まってくる。辺境の人口が増える。最高幹部会の必要とする、新しい才能が。
 そうなの。そういうことになるの。
 わたしとしては、ただ、女性がくつろげる場所、と考えて始めただけのことなのに。
 いつの間にか、大きな渦の中心にされてしまったというわけ。
「最高幹部会が改めて何かを宣言するわけではないが、きみの店に手を出す者が、徹底的に潰される事例が重なれば、理解が広がるだろう。《ヴィーナス・タウン》は、最高幹部会の庇護を受けた聖域なのだとね。きみにはシヴァという番犬が付くから、きみが困ることは、何でも彼に相談すればいい。無論、わたしも控えている」
 グリフィンが恐怖の象徴≠ナあるように、わたしは辺境中の女たちの希望の象徴≠ノ祭り上げられるらしい。
 途方もない話で、何度もため息が出てしまう。そんな大役、わたしに務められるのだろうか。
 おまけにショーティは、苦いことを付け加える。
「マックスがいない今、《ディオネ》も事実上きみのものだ」
 マックス。
 ほとんど忘れていた刺が、また痛みだす。
 わたしがもう、彼の運命をたいして気にかけていないということが、余計、罪の意識を起こさせる。
 今のわたしはシヴァで充たされていて、もう、他の男が入る余地は全くないのだ。
 というより、わたしはたぶん最初から、マックスに恋をしてはいなかった。それが、シヴァと出会って初めて、はっきり認識できるようになった。
 マックスといた時に、これほどの高揚はなかったもの。
 わたしが嬉しかったのは、ただ、整形して美しくなれたことだけ。
 辺境に連れ出してくれたマックスには、心から感謝していた。だから、彼の望む通りの恋人でいようとした。努力して。
 シヴァを愛することには、努力など何も要らないのに。
「ただし、きみには《ディオネ》の事業まで見る余裕はないだろうから、そちらはこれまで通り、マックスの偽者に任せておけばいい。彼はわたしの部下なので、きみの代理人として管理業務を果たすだけのこと。きみは彼から報告を受けられるし、指示も出せる。だがまあ、大体は任せておけばいいだろう」
「マックスは……本物の彼は、生きているの?」
 恐る恐るした質問だったが、ショーティの返答は断固としていて、反論を許さなかった。
「それは忘れることだ。今後のきみの人生には、もはや関係ない存在だ」
 そんなに簡単に切り捨ててしまって、いいのかしら。
 もちろん、マックスの元に戻りたいとは全く思わないけれど。彼に不幸になってほしいとは、思っていない。わたしの人生からいなくなってくれれば、それで十分。
「たとえ彼が生きていて、きみを取り戻そうと画策しても、それはシヴァが撃退してくれる」
 罪悪感の一方で、ほっとする自分がいた。
 本音では、マックスのことは、もう忘れたいのだ。わたしはもう、新しい人生に踏み出したのだから。
 どのみち、マックスでは駄目だった。自分を飛び越えて、わたしが大きな権力を持つようになるなんて、マックスは絶対に納得しなかっただろう。
 だから最高幹部会は、その手先であるショーティは、彼がわたしの邪魔にならないよう、取り除いたのだ。

 ショーティが別室へ去り、シヴァと二人きりになってから、そっと尋ねてみた。
「わたし、いつか、あなたの従姉妹たちに会えるかしら……?」
 シヴァは複雑な顔をしたが、優しく答えてくれた。
「もしも向こうが正義の味方≠フ役を降りたら、そういう機会もあるかもな。しかし、会う必要があるのか?」
 彼はもう、苦い初恋のことは忘れたと言う。今は、わたししかいないと。そして、にやりとする。
「だいたい俺は、痩せっぽちより、グラマーが好きなんだ」
 それは信じられる。彼は昨夜、わたしの胸に夢中だったから。
 わたしも嬉しい。わたしの肉体が、わたしの好きな人を喜ばせることができて。
 わたしの以前の姿を、シヴァが気にしないでくれるのなら、それでいいことにしよう。
 惨めな少女時代のことが、自分でもすっかり忘れてしまえるくらいの昔になったら……なかったことも同然になる。
 どうかその時まで、シヴァと仲良く暮らしていられますように。権力の庇護が、わたしたちを守ってくれますように。
 最悪の場合……もし連合≠ェ敵になったら、わたしたちが頼る相手はリリス≠オかいないのでは、と思ったから、シヴァに質問してみたけれど。
 まあ、それは保留にしておきましょう。シヴァはやはり、従姉妹たちに頼りたくないようだから。

15 ショーティ

 マックスの好きなようにさせよ。
 それが、わたしの受けた指示だった。
 あの人≠ェ何を考えているのか、想像はできるが、当たっているかどうかはわからない。
 わたしはまだ、犬の感覚を捨てきれていないのだ。
 人間のことはかなり学んだが、そこから進化した超越体になると……手に負えない。
 自分自身、これからどう変貌していくのか、予測できない。
 それでも、あの人≠ェ、人類社会の行く末を左右する存在であることは間違いない。
 わたしは彼女の有能な部下である限り、行動の自由を許される。
 この地位を失うつもりは、なかった。シヴァを守るためにも、自分自身のためにも。
 わたしには、もっと時間が必要だ。人類の未来を考える時間が。

 当面は、超越体として歩み始めたマックスが、どう変化していくか見守らなくてはならない。
 まさか、いきなり反逆は企むまいと思うが、彼もまた危険な存在だ。
 人間としては、天才級の頭脳の持ち主。おまけに、ハニーを奪われたことで、根深い怒りを抱いている。
 彼がシヴァやハニーを害するようなら、止めなくてはなるまい。
 わたしはまだ、愛する誰かを持っていたいのだ。
 それがなくなった時、自分の生に何の意味が残るのか、わからない。
 だが、あの人≠ヘ何を狙っているのだろう? マックスが進化して、自分の便利な部下になることだけか? それとも、シヴァにぶつける刺激剤として、マックスを利用したいのか?
 かつて、茜やリアンヌを利用したように。
 彼女≠ェ紅泉やシヴァを気に入っていることは、わたしにもわかる。自ら遺伝子設計し、手元で守り育てた子供たち。強い個性や信念を持つ者には、高い価値を認める人だ。
 だが、いつか、飼い続ける必要がなくなったと判断すれば、誰のことでも、あっさり始末するかもしれない。
 彼女が人類をどうしたいのか、それすらも謎だ。
 人類全体が進化して、彼女の後を追うことを望んでいるのか。あるいは、彼女を超えることを。
 それとも、彼女の考える進化の実験が済んだら、この宇宙から抹消してしまうのか。次の実験の邪魔にならないように。
 いずれは、この宇宙すら捨てて、新たな宇宙を創造したいのか。そのために、科学技術を高めていきたいのか。
 彼女がただ一人の神となりたいのか、あるいは、他にも神の仲間を欲しているのか、それによって、わたしの進路も違ってくる。
 彼女を理解するためにも、わたしはまだまだ、進化の実験を続行しなくてはならないだろう。

16 マックス

 自分が、無数に存在する。
 同時に、多重に。
 この船にも、あの船にも、向こうの採掘基地にも、こちらの小惑星工場にも。
 船や基地は網の目状に通信でつながれ、毎秒、膨大な情報の交換を行っている。どこかで何か異変があれば、ただちに警告が発せられる。重要な情報は、すぐさま全体に共有される。
 この通信網の総体が、マックスだ。
 違法都市にはアンドロイド兵士を配置しているから、そこからもたくさんの報告が上がってくる。些末な情報は末端のシステムで処理され、重み付けによって選別された情報が中枢へ送られる。
 まだ、発狂はしていない。
 閉所恐怖に囚われてもいない。
 ようやく、超越体としての在り方に慣れてきたところだ。
 船のセンサーを通して、船体に当たる微粒子や電磁波を、小雨のように感じている。
 他の船の存在や相互通信を、好きなレベルで検知できる。
 遠くから響いてくる潮騒のようなものだ。
 あらゆる強度、あらゆる波長の重なり。
 聞き取ろうとすれば、望む通信を傍受できる。連合≠ェ設置している中継ポッドに侵入し、干渉できる。
 市民社会に入れば、市民を管理する行政のシステムにも侵入できるだろう。民間企業にも、研究機関にも侵入できる。そこから、市民たちを脅迫したり、洗脳したりもできるだろう。
 船内に意識を向ければ、転換炉の熱や、空気と水の循環を感じることができる。無数のロボットたちの位置と、仕事ぶりを確認できる。搭載している兵器の管理状況も、物資の備蓄量もわかる。普段は下部システムに任せておけば、それで問題ない。
 また、外界から心の一部を切り離して、好きな仮想空間に閉じ籠もることもできる。
 アラビアンナイトの王宮でも、切り立つ山脈の尾根の上でも、大洋の中の小島でも、好きな背景の中でくつろぐことができる。
 外界に何かあった時は、警告で即座に引き戻されるようにしておけばいい。
 艦の内外や、違法都市の拠点で、何かの作業が必要な時は、無数にいるアンドロイド兵を使えばいい。
 まだ数は少ないが、人間そっくりの有機体アンドロイドも用意し始めている。人間のふりをして動きたい時は、その人工脳に意識を入れることもできる。
 拡大は容易いとわかった。意識を担う担体≠ェもっと欲しければ、船やアンドロイドやバイオロイドを増やせばいい。
 難しいのは、縮小の方だとイレーヌは言っていた。
 自分の意識を広げてしまえば、それを縮めることには、強い恐怖や抵抗を伴う。
 また、拡大した自分を維持するには、膨大な手間が必要になる。だから、拡大を急ぐなと。
 ああ、心得ているよ。
 いったん人間型の端末に意識を入れたら、ぼくは――ぼくの一部であるにしても――そこに縛り付けられてしまう。それが破壊されたら、ぼくの一部が死ぬことになる。
 今はまだ、船より小さい入れ物に入り込むつもりはない。人間の肉体は、あまりにももろくて、はかない。
〈あなたは進歩が速いわ、マックス〉
 イレーヌとは、不定期に交信を続けている。というより、向こうがぼくを監視している。
 今はまだ、イレーヌの方が、ぼくよりはるかに大きい。どのくらい大きいのか、把握できないほど。
〈お褒めの言葉、どうもありがとう〉
〈皮肉ではないのよ。生徒の進歩は、教師の喜びだわ〉
〈ぼくも、皮肉ではないよ。きみには感謝している〉
 イレーヌは、ぼくが求めれば、助言を与えてくれる。だが、彼女が、ぼくの進む方向を決めるわけではない。
 イレーヌにとって、ぼくは単なる実験材料なのだ。
 新米の超越体がどう変貌し、どのように進化していくか、見守るのが彼女の役目。
 他に何体も、見守っている相手がいるらしい。いや、何十体かもしれない。
 ぼくが望ましくない方向に向かえば、警告して引き戻すか、それとも抹殺するか、ということになる。
 いずれはこの監視網から抜け出さなくてはならないが、当面は無理だ。
 イレーヌだけでも巨大な存在なのに、その背後には、もっと高度な超越体が控えている。
 イレーヌを自分の手先として使っている、本物の怪物だ。
 そいつが超越体になって、たとえば百年が経過しているとすれば、どれだけの能力を手にしていることか、想像もつかない。
 超越体の一日は、人類の一年、いや百年にも匹敵するだろう。
 イレーヌが全面的に従う相手なら、もはや、神と呼ぶべき存在かもしれない。
 そいつの存在は、この銀河の外にも広がっているに違いない。おそらく、あらゆる方向に探査船団を飛ばし、自分の勢力圏を広げている。ぼくだったら、きっとそうするだろうから。
 それでも、いつかは、その怪物と対峙するだろう。自分の生存、自分の自由のために。
 だが、その前にするべきことがたくさんある。自分の存在基盤を強化することと……ハニーを取り戻すこと。
 超越化しても、男であるという特質は変わらない。
 男としてのぼくは、愛する女を必要とする。
 そのことに、自分で安堵していた。
 ぼくはまだ、人間の感覚を強く残している。愛、不安、恐れ。
 もしかしたら、超越化した途端、解脱してしまって、人間世界のことに興味を失うかもしれないという危惧もあったから。
〈ハニー本人は、もうあなたを過去の存在にしているわよ〉
 イレーヌはそういう意見だが、それは勝手な理屈だ。
 ハニーはこいつに拉致されて、洗脳されたようなものだ。シヴァという男を愛するようにと。
 ならば、ぼくの元で、その洗脳を解いてやればいい。
 とりあえず、ぼく自身がハニーの元へ行く。何らかの形で。
 それならば止めないと、イレーヌは言う。
〈あなたの気の済むように、やってみたら。やってみて駄目なら、納得できるでしょう〉
 やってみるとも。
 ハニーさえ取り戻せば、怪物に支配されたこの銀河など捨てて、はるか彼方に旅立っても構わないのだから。
 もちろん、怪物は拡大を続け、遠方の銀河にも広がるだろう。だが、時間が稼げればいい。ぼくが進化するための時間が。
 多少の遅れがあっても、いつかは挽回してみせる。ぼくはもう、人間の限界に囚われないのだから。

17 ハニー

イラスト

 船から車で降り、《アヴァロン》の市街地に入った。
 わたしには、久しぶりの大都会だ。緑地に浮かぶ島の連なりのような、ピラミッド型のビル群。広い道路を流れる、たくさんの車。低く飛ぶのは、都市管理のためのエアロダイン。
 繁華街には、人とアンドロイドの群れが行き交う。新しい商品を宣伝する、きらびやかな店の飾り窓。ビルの壁面に流れる、広告映像。樹海を見下ろすテラスで食事をしたり、談笑したりする人の多さ。
 頭がくらくらした。こんなにたくさんの人間が、一つの天体に暮らしているなんて。
「わたしったら、すっかり田舎者になっているわ」
 大型トレーラー内のラウンジでそう言うと、向かいに座るシヴァは笑う。
「それなら、俺なんか原始人だ」
 ほとんど素手で、獣や魚を獲っていたものね。
「そういうの、好きよ。女は、野性的な男性に弱いの」
 わたしが笑って言うと、シヴァもまんざらでもなさそうな顔をする。
 他人から見れば無表情に思えるかもしれないけれど、わたしは彼の微妙な表情を、かなり見分けられるようになっていた。
 照れた顔、嬉しい顔、困った顔。
 感情をあまり表に出すまいとしているのは、たぶん、
(男は威厳を持たなくては)
 と思って育ったせいだろう。
(感情を見せたら、付け込まれる)
 とも思っていたのだろう。自分で無表情を保とうと、長く努力してきたらしい。
 それでもわたしは、眉の動きや、口許の力の入れ具合で、彼の心の動きがわかる。根底で、常にわたしを気遣い、守ろうとしてくれることも。
 人工の季節は夏で、降り注ぐ光が強かった。道路沿いの緑地や、歩道脇の花壇には、大輪のダリアや向日葵、百合やグラジオラスが乱れ咲いている。石垣に這う朝顔の群れも見える。
 車は幾つかの大型ピラミッドを通り過ぎ、一等地にそびえるセンタービルに近づいた。
 センタービルは他のビルと区別をつけるため、急角度でそびえる岩山のようになっている。びっしりと緑を配した、灰色の岩山だ。
 たくさんのバルコニーを飾る緑の植え込み、赤や白のつる薔薇、壁に這う蔦植物。
 低層階のレストランや商店は誰でも入れるけれど、中層から上へは、選ばれた者しか昇れない。
 車は進入路を下り、VIP専用の地下駐車場に入った。ここならば、シヴァが車から降りても、第三者に目撃される心配はない。
 彼は着古した革のジャケットに、膝の薄くなったズボン、暗色のサングラスという、いつもの格好。
 わたしは一応、きちんとした薄紫のドレススーツを着ていた。ここで、わたしたちを待っている誰か――連合≠フ最高幹部会の誰か――がいるらしいので。
 周囲には、警護のアンドロイド兵士を立てている。その中に混じっている大型犬は、もし目撃者がいても、普通の警備犬としか思われないだろう。
 わたしたちが乗った専用エレベーターは、低層と中層のオフィス階やホテル階を通り過ぎ、一般人を寄せ付けない特別階で停止した。
 マックスと暮らしていた頃は、別世界だった領域だ。
 わたしは緊張していたけれど、物馴れたシヴァとショーティがいてくれるので、怖さは薄い。
 太い尻尾を揺らすショーティが、呑気な様子で先に立ち、わたしとシヴァを豪華なサロンに導いた。神殿のような太い柱、たくさんの花と緑の植え込み、点在するソファ席。飲み物を出すカウンターには、制服を着たアンドロイドの召使いがいる。
 あたりを見回していると、奥の席から声がかかった。
「ご苦労さま、ショーティ」
 濃紺のタイトなツーピースを着た、ショートカットの金髪の、すらりとした長身の美女。
 それから、真っ白なレースのドレスに、ふんわりしたショートカットのプラチナブロンドの美女が、ソファ席から立ち上がった。
 壁際に控えている屈強な女たちとアンドロイド兵たちは、それぞれの護衛らしい。
「ようこそ、ハニー。待っていたわ。わたしはリュクス、こちらはメリュジーヌ」
 と金髪美女が落ち着いた声で言う。
 顔は公開していないけれど、名前は有名だった。六大組織から二人ずつ代表が出てきて構成する、最高幹部会十二名のうち、ただ二人だけの女性メンバーだ。
 市民社会で作られる映画では、しばしば最終的な悪役として描かれてきた。男優位の辺境で生き延びて、最高の地位まで勝ち上がった女傑たちだから。
 シヴァでさえ内心では、彼女たちを畏怖しているのがわかる。顔は平然としているけれど、一定の距離から前に踏み出そうとしない。動物が、痛い目に遭った場所に近付かないようなものだろう。
「初めまして。お会いできて、光栄です」
 落ち着いて見えるように祈りながら、手を差し出して握手した。事実上、辺境の女帝と言っていい女たちだ。
 それぞれが大組織を率い、強力な武装艦隊を有している。配下は何百万人いるのか、何千万人なのか、部外者にはわからない。彼女たちの組織は、何百もの星系を版図とし、違法都市にも多くの拠点を置いている。
「こちらこそ、会えて嬉しいわ。堅くならないでいいのよ」
 そう言われても、顔が強張るのは止められない。何か下手なことを言ってしまったら、その場で見切りをつけられるかもしれないのだ。この辺境に、わたし程度に有能な女はいくらでもいる。
「さあ、こちらへどうぞ。シヴァ、ショーティ、あなた方はそちらにいなさいね」
 彼女たちと共にティーテーブルを囲んだのはわたしだけで、シヴァはショーティと共に、部屋の隅の席に追いやられた。あれは、護衛用の待機場所だろう。
 でも、彼はそれでむくれたりせず、むしろほっとしたように、大きな椅子でくつろいで、脚を伸ばしている。心底リラックスしているわけではないものの、
(なるようになるさ)
 という達観が見えた。さんざん反抗して、どうにもならなかったという過去のためだろう。
 わたしと向かい合ってソファに座った二人の女性は、交互にわたしと話した。まるで、対等な商談でもしているかのような穏やかさで。
「これからは、わたしたち二人が、あなたの後援者になります」
「《ヴィーナス・タウン》の経営手腕を見て、あなたに賭けてみようと思ったのよ。それで、他の男たちを説得したの。辺境に女を増やすことが、どんなに大事なことか」
「鈍い男たちがのさばっていると、いつまでも進歩がないわ。もういい加減、変わってもいい頃よ」
「ジョルファの時は、残念だったわ。彼女の意図は良かったけれど、まだ時期が早すぎたのよ」
「剛腕ぶりを前面に押し出したことで、多くの男たちを無駄に恐れさせたことも確かだわ」
「男というのは、女に脅かされたら、団結して排斥にかかるのよ。それだけ、臆病な生き物なの」
「だから、あなたには期待しているの。あなたなら、もっと柔らかいやり方で勢力を伸ばせるでしょう」
「ちょうどいい番犬もいることだしね」
 番犬とはショーティではなく、シヴァのことらしかった。シヴァは足元にショーティを寝そべらせて、黙想しているかのように目を閉じたままだけれど、残らず聞いているはずだ。
 何と言われても、それを甘受する心境であるらしい。
 地位の違いというものが、これほどまでに、くっきりと見えるなんて。
「彼はあなたに惚れ込んだらしいから、あなたのために働くのは、苦にならないでしょう」
 シヴァは文句をつけない。世界中から恐れられるグリフィンといえども、実質は、最高幹部会の使い走りに過ぎないのだ。
 今のシヴァはもう、その地位すらも取り上げられてしまっている。二代目のグリフィンが何者なのか、どんな考えを持っているのか、シヴァは何も教えられていないという。
 けれど、わたしは、自分を卑下するようなことは言わなかった。内心で、空恐ろしい思いはしていても。
 わたしはただ、自分にできることをするだけ。
 単なる社会実験の一つだとしても、機会を与えられたことは嬉しい。絶対、無駄にはない。それが、シヴァの安全にも通じるのだから。

 三十分ほどの会見が終わると、彼女たちは、それぞれの護衛に囲まれて引き上げていった。
 わたしたちだけになると、シヴァはさすがにほっとしたらしい。わたしを抱き寄せ、肩を撫でてくれながら、
「あいつらは魔女だ。油断しない方がいい」
 と本音の声で言う。
「ええ、わかっているわ」
 でも、これからは、わたし自身、魔女として世界に知られることになるのではないだろうか。
 最高幹部会を後ろ盾にした、新たな権力者として恐れられ、そのことに満足しているふりをしなければならないのだろう。
 それならばリュクスもメリュジーヌも、本当は、悩みも苦しみもある普通の女性≠ネのかもしれない。ただ、それを隠して、超然と振る舞っているだけで。
 そう言うと、シヴァは苦い顔をした。
「そうかな。そんな可愛い女たちじゃないと思うがな」
 たとえ最初は普通の女性でも、長く権力の座にあれば、変質するものだろうとシヴァは言う。
 何でも、彼が最初に最高幹部会に捕まった時、真冬の地下室で、裸で檻に放り込まれたのだとか。その時の屈辱が残っていて、根強い不信感になっているらしい。
 それでも、わたしのためには、あれこれ気を配って手配してくれる。
「ワンフロア確保したから、当面、このセンタービルで暮らせばいい」  と言われたことに、まず驚く。何という特権だろう。でもシヴァは、それを当然のように思っているのだ。
「後で繁華街に、ビルの下見に行こう。ショーティが支店用に、何箇所か候補を選んでくれた。人材募集も、すぐ始められる」
 一号店にいる偽ハニーは、そのまま、わたしのふりをして働くという。
「こっちにもう一人ハニーがいても、部下たちは納得させられるさ」
 大物になれば、影武者が何人もいて当たり前だから。
 どのハニーが本物で、どのハニーが影武者でも、意志統一さえできていれば、実用上は、何も差し支えないわけだ。
 つい、ため息が洩れる。
 もう、バカンスは終わってしまったのだ。
 これからはまた、神経を張り詰めさせる日々になる。
 過去の経験から、それはそれで、充実した日々だと知ってはいるけれど。
「本当はもう少し、あの小惑星で、あなたと二人で暮らしていたかったわ」
 するとシヴァは、照れたような困り顔になる。
「そりゃ、俺だってそうだが……きみは、店が心配だったんだろ?」
「ええ、それはそうだけど……」
 あの平和な小惑星にいるうちに、マックスと暮らした過去のことは、夢のように薄れていた。
 でも、こうなってみれば、これこそが現実だ。シヴァの胸に顔を埋め、彼の背中に腕を回す。温かくて頑丈な胸板。安定した鼓動。筋肉の盛り上がった腕。堅い脚。わたしだけの騎士。
「どうした、怖いのか?」
 店を運営することなら、問題はない。一番大切なのは、シヴァが側にいてくれること。
 シヴァもわたしの背に腕を回して、ぎゅっと抱きしめ、髪にキスしてくれた。新しい環境で、わたしが不安がっていると思うらしい。
「困ることは、何でも俺に言えばいい。そのための番犬だからな」
「ええ」
 今≠ェ幸せ。
 この今≠ェ、ずっと続けばいい。
 そのために、わたしも不老処置を受けることになるだろう。今≠フ容姿を保たなければ、遠慮なくシヴァにすがりつくことが、できなくなってしまうもの。

イラスト

 一週間もしないうちに、二人の女性がセンタービルに到着した。シヴァとショーティが手を尽くして捜してくれた、わたしの護衛だという。
「俺が、女専用ビルをうろうろするわけにいかんだろ。後方から全体を見てはいるが、現場はこの二人に任せることになる」
 ショーティはただの犬のふりをして、わたしたちの近くに寝そべっている。
 ショーティが口をきくのは、最高幹部会の面々を除けば、わたしとシヴァの前だけ、ということらしい。
 警備兵に案内されて入ってきた二人の新来者のうち、一人はわたしより背が高く、精悍な顔立ちをした、焦がしたバター色の肌の、がっしりした筋肉質の美女だった。
 短い黒髪と、鋭い光をたたえた灰色の瞳を持っている。腰に重たげな銃を吊るし、迷彩柄の戦闘服に身を固めているさまは、いかにも軍人上がり。
「ルーンと申します。どうぞよろしく」
 と握手の手を差し出してきたけれど、女性としては大きく、筋張った手だった。耳につけた小さな金のピアスの他、飾り気もない。まるで、修行に打ち込んできた武芸者のよう。
 もう一人は、艶やかな赤毛を、くるくるしたショートカットにした、愛らしい顔立ちの美女だった。
 白い肌に、ぽってりした甘い唇をして、悪戯そうな光をたたえた、大きな緑の瞳を持っている。やはり迷彩の戦闘服だけれど、しなやかで柔らかそうな肉体。人を惑わす、魅惑的な猫のよう。
「カーラです。よろしく」
 と愛想よくにっこりする。あまり強そうには見えないけれど、そこがカーラの強みなのかもしれない。
 本人がそれほど強くなくても、兵を的確に指揮できればいいのだから。
「雇って頂いて、光栄です。以前から、《ヴィーナス・タウン》には興味ありましたから」
 カーラは確かに、お洒落が好きそうに見える。耳たぶには大粒の真珠が光り、短く切った爪は夕焼け色に塗られている。手は白くふっくらとして、およそ、荒事には向かないように見える。それでいて、シヴァがわたしの護衛に相応しいと認めたのだから、底知れない。
「よく来た、ルーン。それと、カーラ」
 暗色のサングラスをかけたままのシヴァが前に出て、わたしに説明する。
「ルーンが、おまえの警備隊長ということになる。カーラは、副隊長だ」
 ショーティやシヴァが選んでくれた人物ならば、わたしに拒否する理由はない。
「よろしく、ルーン。カーラ。わたしには警備や戦闘方面のことはわからないので、このシヴァから全体的な指図を受けてちょうだいね」
 きっとそれぞれ、得意な戦い方があるのだろう。なるべく早く、気心が知れるようになりたい。
 シヴァは、いかにも冷徹そうな声音を作って言う。
「俺は大抵、奥の隠し部屋にいて、全体の様子を見ている。おまえたちが判断に困った時は、俺の指示を求めろ。しかし、何か事件が起きない限りは、俺は人目に触れない場所に引っ込んでいる。対外的には、おまえたちが警備責任者だ」
「はい、心得ています。男子禁制のビルですものね」
 ルーンは他組織で、女性幹部の護衛を長く務めていたという。その人物が上の組織に引き抜かれて、お役御免になったので、新たな仕事場を探していたそうだ。
 カーラは弱小組織で下級幹部として働いていたが、そこでは飽き足らず、上の組織に移るチャンスを狙っていたという。
 ルーンはわたしに宣告した。
「まず、わたしがハニーさまの生活パターンを理解し、お仕事の内容を把握する必要があります。しばらくは付ききりになりますが、わたしの存在は気になさらないで下さい。影のようなものです。警備上の必要がある時のみ、わたしの指示を聞いて下されば結構です」
 ルーンがわたしから離れる時は、カーラが付くという。二人のどちらも側に付けない時は、シヴァが直接、わたしを守る。
「ハニーさまがシヴァさまと私室にお入りになれば、わたしたちは近くで待機に入ります。お一人で私室からお出になる時は、必ず、わたしたちのどちらかをお供させて下さい」
 生活全般にわたって、細々とした注意を受けた。外で飲食する時。他組織の人物に会う時。気晴らしのドライブに出る時。
 でも、今度はもう、ここから誘拐されることはないだろう。わたしには、最高幹部会という後ろ盾があるのだから。

 一緒に暮らしていても、わたしがシヴァの寝顔を見ることは、滅多にない。
 彼はわたしより遅く眠り、わたしより早く起きるから。
 それに、こちらが生理の時は、色々と差し障りがあるので、彼には自分の寝室で眠ってもらうことにしているし。
 でも、たまに、夜中に目を覚ました時など、彼が横にいるのを感じて、しみじみ安堵する。
 陸に上がった鯨のように、大きな図体で、ベッドの半分以上を占領している姿が、まるで子供のように愛しくて、顔がゆるんでしまう。ベッド自体が広いので、わたしの寝場所がなくなることはない。
 夢ではないのだ。《アヴァロン》で暮らし始めたことも、新しい店を持つことも。そして、シヴァがわたしの番犬でいてくれることも。
 わたしたちはまだ、センタービルの上層部のワンフロアで暮らしている。繁華街に手に入れたビルは、全面的に改装中だ。そこで働く女たちも、広く募集して毎日のように面接し、採用している。
 並べる商品も、郊外に確保した従業員宿舎内に専用の工房を用意し、そこから運ぶ態勢を整えている。他組織から買い入れる部分もある。
 独自商品のデザインは、元の一号店のデザイナーが行うけれど、いずれはここにもデザイナーを入れたい。
 忙しい生活が回り出すと、わたしはすっかり、経営者に立ち返ってしまった。
 シヴァと顔を合わせるのは食事時と、夕食以降の時間だけ。あとはひたすら、会議、視察、面接、相談。
 ルーンとカーラは影のようにわたしに付き添い、商売には口を出さず、護衛に徹している。
 どこへ行くのも、誰と会うのも、全て彼女たちの警護の元。車に乗るのも、降りるのも、階段を昇るのも、室内に入るのも、何か口にするのも、全て彼女たちの許可があってから。
 まるで、暗殺を怖れる中央の政治家みたい。
 でもまあ、ここは辺境なのだから、仕方ないのだろう。
 各階の責任者に選んだ女たちは、接客を任せるバイオロイドの娘たちの教育に力を注ぐ。
 人間の女だけでは、大きなファッションビルを維持管理できなかった。売り場で主力になるのは、バイオロイドの女たちだ。
 もちろんわたしは、
「彼女たちを使い捨てにはしないわ」
 と宣言していた。
 きちんと教育を授け、普通の人間に近付けていくつもりだ。それを知って、人間の女たちも安堵している。そういう女たちだから、わたしも部下に選んだ。
 はるかな《カディス》の一号店とも連絡を取り――偽ハニーと画面越しに顔を合わせたのは、不思議な体験だったけれど――そちらの従業員を二割ほど、こちらに回してもらうことにした。経験者が入れば、この旗艦店の立ち上げが楽になる。
 偽ハニーはうまくわたしの身代わりをしてくれたようで、こちらに移送されてきた女たちは、わたしが以前から旗艦店の計画を持っていて、準備を進めていたのだと信じている。
 偽ハニーが、安全対策のための影武者だということも、素直に信じてくれた。辺境では、影武者は珍しくないのだ。
 この店はうまくいく。その手応えがあった。
 シヴァもそれを理解してくれ、わたしを支えてくれる。
 バイオロイドの娘たちの暮らす宿舎の手配や、職場への送り迎え、休日の外出時の護衛など、相談すれば、ルーンやカーラを通じて、うまく計らってくれた。
 それも、嫌々などではなく、芯から『重大な任務を請け負った』と感じているように。
 マックスなら、おそらく、全身で『ぼくは寛大だから、女のわがままを聞いてやっているんだ』、と匂わせたろうに。
「助かるわ」
 わたし一人で一号店を切り回していた頃より、はるかに楽だ。
 一号店の偽ハニーは、このままわたしの代理として一号店を統括してくれるというから、わたしは旗艦店に集中すればよい。
「あなたにこんな裏方の仕事をさせて、申し訳ないけれど」
 とシヴァに言ったら、
「まともな仕事だ。任せてもらって、感謝する」
 とごく普通に答えてくれたので、内心で感嘆した。
 マックスは、女相手の容易い仕事、と軽く見ていたのに。基地や戦闘艦やアンドロイド兵士を造るような仕事だけが本物で、美術や映画や文学、雑貨や服飾品など、生活を豊かにするものは、片手間の仕事と思っているのがありありだった。
 つくづく、自分の幸運にため息をついてしまう。他の女たちには、こんなチャンスも、こんな素晴らしいパートナーも巡ってこないのに。
 毎日、シヴァの姿を見る度、あまりの贅沢さに、空恐ろしい思いがする。
 わたしなんかが、この人を独占していいの。
 美しい女、有能な女はたくさんいる。いつ何時、シヴァの目がよそに向いても不思議ではない。
 でも、毎日、彼は真っ先に、わたしの意向を気にかけてくれる。何か足りないものはないか、何か困っていることはないか。
 そして、自分が一つでもわたしの荷を軽くできると、この上なくいいことをした、という満足げな顔をする。
 そんな器用な芝居をする人ではない。
 シヴァは本当に、わたしを愛してくれている。
 これは、わたしの人生に降ってきた奇跡。
 マックスの元では、こんな浮き立つような嬉しさはなかった。イレーヌが誘拐してくれなかったら、一生、こんな喜びを知ることはなかったのだ。
 そのイレーヌは、今は犬の姿で近くにいる。他人の前ではしゃべらないけれど、わたしとシヴァだけの時は、監視役の正体をさらすのだ。
「あなたに感謝するには、牛の骨でもプレゼントすればいいのかしら?」
 わたしが冗談で言うと、ショーティはのんびりと寝そべったままで尻尾を振る。
「自分の食事は、自分で栄養を考えて用意しているので、ご心配なく。きみに心配してもらいたいのは、シヴァの食事だ」
「ええ、わかってる」
 彼が肉料理ばかりでなく、野菜もきちんと食べるように、配慮しているつもり。
 センタービル内にもわたしたち専用のジムがあるから、運動不足にはならないと思う。
 たまに、彼が運動している姿を見せてもらうこともあるけれど、泳いだり走ったりはともかく、アンドロイド兵士相手の組み手は恐ろしくて、まともに見ていられない。まるで、稲妻が行き交っているかのよう。間違って、大怪我したりはしないのかしら。
「大丈夫だ。無理な訓練はしていない」
 とシヴァは言うのだけれど。
 わたしはその間、自分で運動していた方がよかった。
 ルーンとカーラがメニューを考えてくれたので、美容と健康のためにほぼ毎日、軽い運動をする。
 わたしとシヴァの居住階にあるジムは、彼女たちと共同で使うことにした。他の従業員の女たちは、旗艦店内のスポーツクラブを利用できる。
 ルーンとカーラはそれぞれ、ハードな訓練をしていた。シヴァほどの高速ではないにせよ、アンドロイド兵士との組み手も行う。
 見るからにたくましいルーンはともかく、猫のようなカーラもまた、強靭な闘士なのだと納得して驚いた。
「守ってくれる人のいない女は、強くなるしかないんですよ」
 カーラは汗をタオルで拭きながら言う。
「わたしのように、見た目が甘い女は、しょっちゅう、ろくでもない奴に口説かれますのでね」
 わたしはずっとマックスに守られてきたので、自分を恥じるしかない。自分で戦う覚悟もないくせに、辺境に出てきたのだ。
 ルーンもカーラも、あまり過去を口にしないけれど、相応の修羅場をくぐってきたのは間違いない。
「ここに来られて、本当に嬉しいんですよ。男にはもう、うんざりしてるんです」
 とカーラは笑う。
「あら、シヴァさまのことじゃないですよ。あの方は、チンピラじゃありませんもの。辺境では貴重な、まともな男性ですね」
 そうなのだ。
 辺境には、ろくでもない男が多すぎる。
 彼らがバイオロイドの女たちを犠牲にしなければ、辺境の問題はかなりの部分、解決できるのに。

 秋になると、《アヴァロン》中心街の一等地で、新しい《ヴィーナス・タウン》がオープンした。
 立地からいっても規模からいっても、今後はずっと、ここが旗艦店であり続けるだろう。
 元の一号店のスタッフが中核になり、新規採用したスタッフの研修を行った。
 《ヴィーナス・タウン》の評判が広まっているので、応募者には事欠かない。
 各組織への宣伝も行き届いていたので、旗艦店は初日から、大勢の女性客で賑わった。一号店からの馴染みの顧客もいるし、新規の来店者も多くいる。
 わたしは各階を回って新旧の顧客たちに挨拶し、スタッフの相談に応じた。何か不足はないか、もっとよいアイディアはないか。
 品揃えは現在、どちらの店も共通だけれど、いずれはデザイナーやプランナーやシェフを増やし、店ごとの特色を出す方がいいだろう。
 女ばかりのビルの中で、シヴァはただ一人、存在を公表していない男性≠セった。
 普段は警備管制室の最奥にある特別室に籠もっているので、わたしとショーティ、それにルーンとカーラ以外、誰もシヴァの姿を見ることはない。
 ビルの警備主任に任じたティルダ(一号店から呼んだ部下の一人)にも、シヴァは姿を見せることはない。女たちの中で、シヴァに会える者はルーンとカーラだけだ。
 もっとも、ティルダとその部下たちには、わたしの恋人が、こっそりビル内に出入りすることだけは告げておいた。
 でないと、わたしが空き時間にどこに消えているのか、彼女たちを悩ませることになるからだ。
「紹介できなくて、ごめんなさいね。彼は仇持ちなので、人に姿を見せられないの。個人的にはわたしの大切な人なので、もし彼から指示が下ることがあったら、その通りにしてちょうだい」
 と説明しておいた。
 デザイナーやシェフの中にも男性がいるので(美的センスや料理センスには個人差もあるが、性差というものもある。男性の感覚は、やはり必要だった)、完全な女の城でないことは、皆に納得してもらっている。
 数少ない男性のスタッフは、それぞれ郊外宿舎の工房や、レストラン奥の調理室などにいるので、女性の顧客たちの前に出ることはない。彼らの宿舎は、女たちとは別棟で用意してある。
 一号店で前から働いている女たちは、わたしがマックスと別れ、次のパトロンを見つけたのだろうと考えているらしい。もっと地位の高い男、たとえば、最高幹部会の誰かとか。
 それで大筋、間違ってはいない。そう思ってもらえれば、支障なく過ごしていける。

イラスト

 朝、センタービルの特別階の一室で目覚めると(ジムやプールや小庭園のある贅沢なワンフロア全体を、わたしとシヴァだけで使っている。ルーンとカーラの部屋は、すぐ下の階にある。そこも十分、贅沢なフロアだ)、既に起きて一運動済ませてきたシヴァと一緒に朝食を摂り、ルーンかカーラの差し向けてくれる車で、繁華街にある旗艦店ビルへ行く。
 シヴァは他人に姿を見せないけれど、昼間はずっと、本店ビルの最奥にいてくれる。わたしは昼食の時間やお茶の時間は、大抵、シヴァの元で過ごす。
 夕方まで顧客の相手や経営会議などをこなし、シヴァとルーン、あるいはカーラに付き添われて、センタービルに戻ってくる。それから彼女たちは、センタービル内の自分たちの私室に引き上げる。
 夜の時間は、シヴァと二人でゆったり過ごすことに決めていた。
 花の咲く庭園にランプを灯し、音楽付きの夕食を楽しんだり。サングリアを片手に、市民社会で製作された映画を見たり。あとは、床に敷いた人工毛皮の上に転がって、いちゃついたり。
 わたしは充たされていた。
 こんなに充たされたことは、これまでにない。
 愛されるというのはこういうこと、と初めて実感した気がする。
 マックスは、自分の仕事の片手間に、わたしの存在を楽しんでいる≠セけだった。
 女はあくまでも、自分の人生の彩り。なくてもいいが、あれば楽しい贅沢品=B他の男たちに差をつけるための、高価な持ち物。
 でもシヴァは、自分の全てを、わたしに捧げてくれている。尊敬と熱情を持って。
 わたしの仕事に気を配り、働いている女たちの安全にも、細かく神経を使ってくれる。彼女たちの宿舎の安全、往復の警備、休日の外出にまで。そして毎日、
「何か困っていないか」
「何かして欲しいことはないか」
 と尋ねてくれる。
 わたしが何か頼めば、徹底的に叶えてくれる。新しい部下が欲しいと言っても、もっと大きな工房が欲しいと言っても。
 警備部隊の訓練が足りているかも見てくれるし、装備や警備体制について、ルーンやカーラの気付かない点を指摘してくれたりする。おかげで、わたしは顧客対応や新商品の開発に集中できる。
 辺境において、安全面を気にかけなくていいということは、とてつもなく有り難いことだ。
 それはもちろん、最高幹部会の後ろ盾という、大前提あってのことだけれど。
 もしこれがマックスなら、自分がどんなに細かく気を配っているか、休みなく働いているか、恩着せがましく、繰り返し指摘してきただろう。
 でも、シヴァは当然の任務として、淡々と警備面の統括をしてくれる。強化体の体力があるからだろうけれど、疲れた素振りなど、かけらもない。そして、わたしの負担をもっと軽くできないか、それだけに心を砕いてくれる。
 本物の男性というのは、こういうものなのだ。
 マックスといるだけでは、わからなかった。
 わたしを拉致してくれたイレーヌに、つまりショーティに、今では、どれほど感謝しても足りないくらい。
「いや、感謝はよくわかっているよ。きみたちが幸せなら、わたしも満足だ」
 と犬の姿のショーティは言う。
 彼は好きな場所で寝そべっていたり、のそのそ歩いたり、シヴァの横に番犬のような態度で付き添っていたりする。
 彼専用のランニングマシンで、思い切り走ることもある。
 わたしに付いて、ビル内を歩くこともよくあるので、女たちも、警備のサイボーグ犬の一頭なのだと受け入れている。
 それでも用心は忘れていないので、ショーティがしゃべっているのを聞いた者は、わたしとシヴァの他には誰もいないはず。
 夜の間、ルーンとカーラはセンタービル内の、それぞれの私室にいる。自分の訓練をしたり、本を読んだり、たまには二人でお酒を飲んだりしているようだ。
 私的な外出を禁止しているわけではないけれど、やはりセンタービルからは出ない方が望ましい。娯楽なら、ビル内でほとんど叶えられる。ここは六大組織の一つの直轄地だから、センタービル内にいる限り、他組織に誘拐されたり、勧誘されたりという危険はない。
 朝になり、わたしが出勤する時刻になると、どちらかが迎えに来てくれる。
 ルーンはあくまで生真面目で堅苦しく、カーラは陽気で艶っぽい。
 わたしは彼女たちに馴染み、冗談を交わし、決まりきった職場への往復を繰り返す。
 時には、三人で酒宴を開くこともある。彼女たちは、そんな時でも、決して飲みすぎないけれど。
「正直、時々、くらくらします」
 笑いながら、カーラが言ったことがある。うらやましくて、気が遠くなると。
「あの方、本当に、ハニーさまにぞっこんなんですね。わたしにも、いつか、あんな人、現れてくれるかしら。そうしたら、男は絶滅しろなんて思ったこと、撤回するんだけど」
 本当は、その願いは無理だと思った。
 シヴァは、この世に一人しかいない。
 でも、まだ若いカーラに悲観的なことは言えないので(カーラの実年齢は知らないけれど、話の端々からすると、五十歳以下だと思う。それは、辺境では小娘の部類だ)、
「いつかきっと、現れるわよ」
 と言うしかなかった。
「いい男も、いないわけじゃないわ」
 カーラより年長のルーンが、寂しげに言う。
「でも、そういう男は、辺境で長生きできないのよ」
 そうかもしれない。悲しい真実だ。
「いい男は、みんなで保護しなきゃ。絶滅危惧種みたいに」
 とルーン。そうかもしれない。辺境は、まともな男が生き残るには、苛酷すぎるのだ。

 そんな風にして、わたしたちは、この街での暮らしに慣れていった。
 いったん仕事に復帰してしまえば、規則正しく、忙しい日々に心身が馴染んでいく。
 ずっとあの別天地にいたのでは、早晩、退屈しきっていただろう。あれは、ちょうどいい人生の中休みだったのだ。
 おかげで、新鮮な気持ちで仕事に没頭できる。
 わたしがいない間、元の一号店を偽ハニーがうまく切り回していたことが明らかになったので、余計な気負いが消えた。
 部下に任せられることは、どんどん任せて構わないのだ。その方が、部下も成長する。業務にも、新しい展開が見えてくる。
 現代美術や古美術の作品、インテリア、様々な趣味の品の取り扱い。それぞれ、その方面に興味のある者が追求すればよい。
 それで、わたしは主に、新規採用者の面接を引き受けることにした。
 品物は簡単に増産できるけれど、人材はそうはいかない。わたしの理念を理解してくれ、心底から協力してくれる幹部たちが必要だった。
 要所にそういう女たちがいれば、下働きのバイオロイドたちの教育を任せられる。いずれはそのバイオロイドの中から、チームの責任者、フロアの責任者に引き上げられる者が出てくるはず。
 最高幹部会は、特例として保証してくれた。外部に宣伝しない限り、バイオロイドの女たちを、五年を超えて使うことを認めると。
 それが何より、一番有り難かった。いつ断罪されるかと、びくびくしていなくて済む。
 本当は、五年で処分など野蛮なことだと、リュクスもメリュジーヌも言っていた。
 ただ、男たちの欲望に歯止めをかけることが困難なため、やむなく、そのようにしてきただけだと。
 バイオロイドに人権を認めず酷使する以上、彼らに組織的な反乱を起こさせないためには、命に上限をかけるしかなかったのだ。
 わたしはわたしの正しさに確証が得られて、嬉しかった。
 人権を認め、正当に扱い、仕事に誇りを持ってもらえれば、反乱など起こるはずがない。人間とバイオロイドは共存できる。少なくとも、女同士に限っては。
 いずれはバイオロイドの新規製造を止めさせられたら、それが一番いいのだけれど。
 男たちが権力を握っている限り、それはいつになることか。
 でも、希望はある。
 シヴァのように、心底から女を愛し、尊重してくれる男がいるのだもの。
 それは、嘘や演技などではない。一緒に暮らしている日々の中、自然に納得できる。
 マックスから離れられて、よかった。
 もう二度と、あの過去には戻りたくない。マックスについてきたからこそ、シヴァにも出会えたのだとは、わかっているけれど。
「今はもう、リリス≠窿Oリフィンの仕事より、きみの事業の方が、世界のためになっている」
 シヴァはわたしを膝の上に乗せ、頬や額にキスしてくれて言う。
「ハニー、きみがこの世界の希望だ。だから、働きすぎて、倒れないようにしてくれ。俺には、きみの代役はできないんだから」
 わたしは幸せだった。
 こんなに幸せな女、他にいない。
 だから、わたしの下で働く女たちにも、その幸せの幾分かを分け与えたい。シヴァだけは、わたしが一人占めしていたいけれど。
 神さま、どうか、この幸せが一日でも長く続きますように。わたしは精一杯、自分の仕事をしますから。

18 シヴァ

 俺はどうやら、女に指図されて暮らすことに、向いているらしい。
「今日は工房の方に行くから、護衛をお願いね」
「新人の採用面接をするから、あなたも陰から見ておいて、感想を教えてね」
「どこかの都市に三号店を出すとしたら、どこがいいかしら?」
 毎日、何をするべきか、わかりやすく示してもらえるのが有り難い。課題を設定されれば、俺は安心してそこに集中できる。
 宿無しの野良犬から、飼い犬になったようなものだ。
 最高幹部会の奴らは笑っているだろうが、構うものか。
 犬で何が悪い。
 俺の頭脳も肉体も、誰かの役に立つことで、初めて意味を持つのではないか。
 ショーティは、またしても正しかった。俺はすっかり、ハニーに惚れ込んでいる。
 《ヴィーナス・タウン》を仕切る有能さ、そこで働く女たちの目標となる、上品で優雅なたたずまい。
 何よりも、彼女たちが誇りを持って働き、日々を楽しめるように配慮する包容力。
 こんなに偉い女が、よりによって、俺と暮らしてくれている。これまでの不運を全て補って、なお余りある幸運だ。
(今度こそ、絶対、失わない)
 ハニーがしようとしていることは、昔、リアンヌが目指していたことと同じだ。
 辺境の女たちの地位の向上。
 それによって、世界をよい方向へ動かすこと。
 自立した女たちは、男たちの身勝手に歯止めをかけてくれる。
 それは、もっと昔、茜を失った後に誓ったことと重なる。不幸な奴隷を減らすこと。
 ハニーの夢が実現すれば、茜の魂も喜んでくれるはず。
(わかってくれるよな)
 おまえは守ってやれなかったが、あの後悔は、もう二度と繰り返さない。俺だって、少しは賢くなっている。
 少なくともリアンヌのことは、死なせなくて済んだ。
 メリュジーヌたちの言う通り、リアンヌは辺境の男たちを怖れさせたせいで忌避され、追い払われる羽目になったのだろう。
 俺のことなど忘れていいから、生きて、幸せでいてくれたら、それでいい。市民社会で子供を育て、孫を見守り、満足して老いてくれれば、それで。
(絶対、ハニーだけは守り通してやる)
 それこそが、俺の人生の意味であり、神聖な任務だった。
 辺境の全都市に《ヴィーナス・タウン》の支店ができ、そこが女たちの駆け込み寺になれば、辺境の大きな枠組みは変わらないとしても、女たちの気持ちに救いができる。
 そこから少しずつ、男たちの意識も変わっていくかもしれない。男は結局、女なしではいられないのだから。
 どんなスケベ根性からであっても、男が女の意向を気にかけることは、いいことだ。
「百年かかっても、二百年かかっても、少しずつ前進すればいいのよ」
 ハニーはそう言い、にっこりする。
「不老処置を繰り返せば、そのくらいの時間はすぐ経つわ」
 目指す方向はリアンヌと同じでも、剛直だったリアンヌより、ずっと柔軟だ。
 いや、リアンヌも、俺に心を許してからは、別人のように女らしくなっていたが。
 それまでの不幸のせいで、あまりにも男たちを敵視しすぎていた。男は本質的に臆病だから、女に憎まれることに耐えられないのだ。そのせいで『アマゾネス軍団』は、長く続かなかった。
 しかし今度からは、ハニーの元に女たちが集まる。見かけはただの洋服屋だから、男たちが恐れることはないだろう。彼らが気づかないうち、女たちの領域を広げてしまえばいいのだ。
 幸い、最高幹部会の二人の魔女は、ハニーを気に入っているらしい。
 いまや辺境の、多少なりとも地位ある女たちの間では、まとまった休暇を取って《ヴィーナス・タウン》に泊まりがけで遊びに行くことが、当然の楽しみになっている。
 どこの組織も、組織内の幹部級の女たちには、そういう便宜を提供しなければならない。さもないと、他の組織に移られてしまうからだ。
 おかげで、次の支店をうちに出してくれという熱烈な要望が、辺境の各都市から届いている。
 ハニーは、新規採用の女たちを教育するのに忙しい。
「人材が揃わないと、新しいビルはオープンできないのよ」
 一つのビルを運営するには、大勢のスタッフが必要だ。
 レストラン部門には最低でも、シェフとパティシエ、バーテンダーとソムリエが要る。
 ホテル部門には支配人と、その部下が大勢いなければならないし、パーティ会場やイベントの担当者も必要だ。
 衣装や宝石の店には、何人ものデザイナーと職人、たくさんの接客係が要る。新たに建てた工房ビルの管理者も要るし、全体の警備や維持管理を行う担当者も要る。
 裏方の単純作業はアンドロイドに任せるとしても、人間相手の部署には、バイオロイドの女たちを置くことになる。すると、彼女たちの教育係や世話係が要る。
 要所に据える人間の女たちを選び、教育するだけでも、ハニーにとっては大変な仕事だが、幸いなことに、《ヴィーナス・タウン》で働きたいという希望者はたくさんいた。
 むしろ、他の組織が本物の人間の女を失って、悲鳴を上げるほど。
 辺境には元々、本物の人間の女は少ないから、ハニーが支店を増やしていくと、他組織からは人材の流出が続くことになる。
 《ヴィーナス・タウン》の便宜を優先せよという最高幹部会からの通達があっても、不満は鬱積していくだろう。
 他のことに気を散らす余裕は、俺にもなかった。従姉妹たちの安全は、既に二代目のグリフィンが守っている。
 俺は、ハニーの事業を守ることに専心すればいい。辺境では、ハニーこそが最重要人物ではないか。
 バイオロイドが虐待されずに済む世界を作るには、人間の男の理屈より、人間の女の感性の方がはるかに重要なのだ。
 こういう形の革命もあるのだ、と俺は感嘆していた。
 艦隊を増強して、武力で連合≠討伐するのではない。
 人気の店を広げることで女たちの心を掴み、その女たちが、接する男たちの意識を変える。
 男は常に、女の方を見ているものだからだ。
 俺一人では到底考えつかなかった可能性を、ハニーが示してくれた。
 いずれ最高幹部会がハニーを用済みにしようとしたら、その時は、何としてでも戦う。
 だが、まだ当面は……少なくとも、向こう何十年かは……ハニーは必要とされ続けるだろう。

19 カーラ

イラスト

 女はスカートの時、脚を開いて座ったりしない。
 どれだけ空腹でも、大口を開けて、がつがつと食べたりしない。
 女優のように、常に周囲の視線を意識する。
 ワイングラスを持つ時は、指の美しさを見せびらかすように。紅茶のカップを受け皿に戻す時も、そっと優しく置く。
 歩く時は、優雅に腰を揺らして進む。
 軽いスカートが、風に翻る感覚を楽しむ。イヤリングが揺れることも、計算に入れて動く。
 頭で理解しても、簡単に習得できることではなかった。
 男としては当然だった動作が、全てそぐわなくなる。歩き方、しゃべり方、腕の使い方。
 小手先の技術ではない。
 在り方そのもの、発想そのものが違ってくる。
 自分を抹殺し、ばらばらにし、欠片を組み上げていくような作業。組んだと思えばひびが入り、瓦解してはやり直し。

 仮想空間で、何度も高速シミュレーションを繰り返した。実時間では一日でも、仮想空間では数週間分の訓練を積むことができる。
 立ち方、座り方、笑い方。
 舞踊のように動きを抑制し、静かに、なめらかに。咳をすることがあっても、遠慮がちに。
 まるで神経戦だ。
 苛立ちが昂じて、全てを投げ出したくなる。
 だが、中途であきらめてなるものか。
 この自分に、できないことなどないはず。これまで、常に勝ち残ってきたではないか。人類同士の戦いでは。
 自分の端体の動きを自分で見て、徹底的に修正した。
 より優雅に。より美しく。
 誰からも、生まれながらの女に見えるように。
 有能で教養の深い女性に見えなければ、ハニーの課す採用試験に受かるはずがない。

 何とかシミュレーションを終了すると、ぼくは意識の一部をバイオロイドのボディに入れた。
 身長百六十八センチ、白い肌に緑の瞳、ほどよくグラマーで、しなやかな肢体の赤毛の美女だ。
 意識の一部とはいっても、これまでのマックスの知識と経験のエッセンスは……人格の本質は備えている。
 それから、マックス本体との連結を切った。
 これでもう、超越体としての能力は使えない。
 たった一つの肉体に宿った、もろい命にすぎない。何か事故にでも遭えば、ひとたまりもない。この任務が完了するまで、マックス本体と連絡を取ることもない。
 まるで、天上世界から下界へ突き落とされたようなもの。
 さすがに不安を覚えたが、それには耐えてみせよう。
 この自分が死んでも、マックス本体は生き続けるのだから。

 それにしても、だ。
 いったん超越体としての自由を経験すると、人間の肉体というものは、単なる檻だとわかってしまう。
 目は二つしかない。背中は見えない。手は二本しかない。足も二本しかない。何日か眠らなければ、意識が混濁する。食べ物が足りなければ、たちまち活力を失う。
 高度な知性がこんな檻に閉じ込められるとは、何という不条理か。
 だから、もし、本当に人間であることを捨て去り、ハニーへのこだわりも消し去るのなら、こんな檻に入ることはない。記憶装置と超空間ネットだけでいい。
 そうすれば、好きな仮想空間で暮らし、人間世界とは間接的に接触するだけで済む。怪我をすることもないし、空腹や渇きを感じることもない。眠る必要もない。
 だが、ぼくはまだ、人間であることをあきらめていない。
 超越化の研究はしていたが、それはまだ、遠い未来のことだと思っていた。
 ぼくを実験材料にしたい連中の手で、強制的に超越化させられたが、ぼくの意識は依然として男≠ナあり、生きていくのに女≠……魂の伴侶を必要とする。
 いかに便利で快適でも、自分一人しかいない世界に、何の意味があるだろう?
 たとえば、今のぼくなら、自分の記憶領域の中にハニーの仮想人格を作り、そのハニーと共に仮想空間で過ごすこともできる。
 永遠に幸せに。
 だが、それはマスターベーションのようなものだ。真の人間関係とはいえない。
 親密な関係を欲するという点が、ぼくの弱点だとしてもだ。
 いつか自分が、人類社会にもハニーとの関係にも、何の未練もなくなったら、それは、超越体としては進化なのかもしれない。
 だが、それはマックスという個性の死でもあるだろう。
 その先にどんな人生が続くのか知らないが、今のぼくに、その道は黄泉路のように思える。
 完全な孤立。
 それが完全な充足なのだとしたら、それは、死そのものではないのか。
 外部とは関わりを持たず、自分の魂一つが全世界となってしまう。
 ぼくはまだ、煩悩まみれでいい。
 人間社会と関わっていたい。
 ハニーを取り戻してこそ、初めて、男として先に進めるのだ。

 ただ、ハニーが自分も超越体になることを望んだら、その時はどうするか。
 自分は、ハニーが自分の掌に納まる限りにおいてしか、ハニーを愛せないのではないか。
 いや、それは、その時にまた考えよう。
 きっと何か、道はある。二人で神になれるような、新しい宇宙を創るとか。

 今のハニーは、すっかり洗脳されてしまっている。
 あいつを見るだけで、あんなに顔が輝くのだ。
 心底から嬉しそうに、あいつの腕に飛び込んでいく。あいつの胸に、顔をすりつける。
 こんな様子では、ぼくが助けに来たことすら、打ち明けられない。ぼくの正体をささやいたが最後、ハニーは悲鳴をあげて、シヴァやショーティに助けを求めるだろう。
 今は、耐えるしかない。
 黙ってひたすら、部下に徹するのだ。部下として信頼されれば、いつか隙が生じる。たとえ、何年かかろうとも。

20 シヴァ

 俺は毎朝、張り切ってベッドから起き出す。
 ハニーが起きる前に一運動して、シャワーを浴びる。新しいニュースをチェックし、二人で一緒に朝食を楽しむ。
 ハニーの紅茶好きに合わせて、俺も紅茶を飲むことが増えた。同じ食卓で、コーヒーと紅茶の香りがぶつかるのはうまくない。コーヒーが飲みたければ、俺一人の時に飲めばいい。
 それから、ルーンかカーラと共に、ハニーを職場に送り届け、社長室に入るのを見届けてから、警備管制室の奥に隠された特別室に入る。
 《ヴィーナス・タウン》も立派な違法組織かもしれないが、ハニーは、市民社会の会社のようなものだと、部下たちに説明するのが好きだった。だから、ハニーは社長だ。
 俺は特別室から、管制室にいる女たちの様子を見たり、ビル全体の状況を見たりする。
 客として出入りする女たちの背景も、俺が調べる。どこの組織の、どんな立場の女か。中には、ハニーに敵意を隠し持つ者もいるかもしれない。
 あとはショーティにあれこれ相談を持ちかけ、他都市で手頃な物件を探したり、非番になっているバイオロイドの娘たちの様子を見たり。
 何か悩んでいる娘はいないか、同僚たちとの仲は良好か、外出先でのトラブルはないか。
 基本的に、ルーンとカーラ、それにティルダの指揮で、警備体制には問題ない。
 警備部隊でも次々に新人の採用をして、訓練を行い、陣容を厚くしていった。ここで鍛えた女たちは、いずれ新しい支店に廻すことになる。
 これといって、事件らしい事件はない。
 たまに客が紅茶をこぼして軽い火傷したり、仲の悪い客同士が鉢合わせして口喧嘩したり、従業員が些細なミスをしたりするくらいだ。各部門の長で足りなければ、ハニーが出ていって、巧く捌いてくれる。
 仕事を持つ女というのは、毅然としていて美しいものだ。
 ハニーがビルの中をゆったりと巡回し、客と談笑したり、従業員の女たちに何か教えたりするさまを、俺は警備モニターで眺めて満足していた。
 なんて優雅で、賢い女だ。
 これこそが、女というものだ。
 どの客も、ハニーに相手をされると上機嫌になり、いたく満足して引き上げていく。
 従業員の女たちには、女神のように憧れられている。

(おまえみたいな女闘士、もう時代遅れかもしれないぞ、紅泉)
 あいつはあいつでたいしたものだが、剛直すぎ、知恵に欠ける。
 まあ、それを探春が補っているから、ハンターを続けていられるわけだが。
 紅泉のやり方は、ぶつかった敵を殺して、脅して、また殺して、脅していくだけだ。
 小悪党など、いくら退治してもきりがないし、本当の巨悪には、決して手が届かない。
 本人も、それを承知の上で正義の味方≠続けているのだが。
 もちろん俺も、自分の立場が半端なことはわかっている。巨悪に利用されて、どうにか生き延びているだけだ。
 ハニーをマックスから横取りしたことにも(主犯はショーティだが、奴は俺のために企んだのだ)、いくらか気がとがめている。
 だが、今では、ハニーなしの生活は考えられない。
 ハニーもまた、マックスは過去の存在になったと言ってくれる。彼にはただ、利用されていただけだと。
「いま振り返ってみると、わたし、マックスに恋をしたことはなかったのね。ただ、感謝していただけ」
 ハニーはあっさり、朗らかに言う。
「市民社会から連れ出してくれて、《ヴィーナス・タウン》という生き甲斐を与えてくれたわ。それが、あなたと出会うきっかけになったのだもの」
 だから俺も、
(ハニーの気持ちを大事にしなかった、おまえが悪いんだ)
 と考え、マックスのことは忘れるようにしていた。
 ショーティはどうやら、彼を超越化の実験に使っているらしいが、その経過がどうなのか、何も語らない。
 ショーティ自身、もう俺の理解の限度を越えている。
 俺というこだわりの対象がなくなれば、もはや悪魔に近いのかもしれない。
 そのこだわりも、いつまで続くか、何の保証もない。
 いいだろう。なるようになる。全て。
 永遠なぞ、俺には届かない。いつも、この一瞬の積み重ねなのだから。

 ハニーは夕方、俺と一緒にセンタービルに引き上げると、仕事から頭を切り替え、俺の相手をしてくれる。一緒に食事をして、古い映画を見たり、静かな音楽を流してダンスをしたり。
 ハニーは、ゆったりした曲に合わせて踊るのが好きだった。俺も、そういう時間が好きだ。
 ふわふわの髪、花のような甘い香り、しっとりと柔らかい肌。この世の美しい物全て、ハニーのために贈ってやりたいと思う。
 ダンスが終わると、ハニーは背伸びして、俺にキスしてくれる。
「イレーヌは正しかったわ。こんなに誰かを好きになったこと、一度もないわ」
 その言葉を信じたい。信じるしかない。
 心配しようとすれば、きりがなかった。いつか、もしもショーティが俺たちの敵になったら、俺に何ができるのか。
(あてにできるとしたら、紅泉だけか……)
 あいつが何か決意すれば、市民たちの大部分が味方してくれるに違いない。
 何十年もかけて、それだけの実績は積んでいる。誘拐された市民を取り戻し、政治家の暗殺を防ぎ、重犯罪者はどこまでも狩り立てた。リリス≠ヘ依然、正義のシンボルだ。

イラスト

 いざとなったら、紅泉の前に土下座して頼む。助けてくれ、一緒に戦ってくれと。
 その紅泉が、もしも正義の味方≠ナなくなったら、その時は……この世の終わりだろう。
 結局、俺は、一族を信じているのか。
 皮肉なものだ。ぐれて、一族を飛び出した俺なのに。
 だからこそ、今ではわかる。助け合うことの大事さが。
 人類がいつか、新種の怪物どもに負けて滅びるとしても、それは、やむを得ない滅びなのかもしれない。
 自ら怪物になって生き延びるよりも、愛する心を持ったまま滅びる方が、幸せなのではないだろうか。
 超越体――奴らにはきっと、幸せなどという感覚は、なくなっているに違いない。
 永遠に生きられ、無限に拡大できるとなれば、焦りや不安もない代わり、喜びも悲しみもないに決まっている。
 そんなものに振り回されていたら、とても永遠≠ノ耐えられないだろう。

21 カーラ

イラスト

 わたし≠ェハニーの部下になってから、一年以上が過ぎた。
 まだ、大きな失敗はしていない。
 周囲の女たちとは、良好な関係を保っている。
 ドレスの選び方や、化粧の技術も向上した。
 非番の時には、ミニスカートやタイトスカートにハイヒールで、優雅に歩いている。最初は30分が限度だったが、訓練を重ね、必要な筋肉をつけて、やっとハイヒールを履きこなせるようになったのだ。今なら、朝から夕方までは大丈夫だ。
 もちろん、警備の仕事の時は、戦闘服にブーツだが。
 カーラとしての架空の経歴も、完璧に作り上げてある。
 市民社会での日々。
 違法組織に加わってからの日々。
 シヴァやハニーがどう遡って調べても、わたしの存在が作り物≠ニは見抜けまい。
 ショーティは、カーラの邪魔をしない約束だ。少なくとも、大きな状況の変化がない限り。
 毎月の生理にも、何とか耐えている。
 昔の男たちが、穢れ≠ニ言って忌み嫌ったのも無理はない。こんな厄介な現象を抱えながら、何食わぬ顔をして社会生活しているのだから、女が常習的な嘘つきになるわけだ。
 女の図太さ、冷酷さは、このような肉体的条件から発生しているのだろう。
 生理や妊娠や出産に耐えることを考えたら、男同士の闘争など甘いもの。女が本気でかかれば、男を操ることも、簡単にできるはず。

 それにしても、男が持っている女への幻想というもの……自分も知らず知らずのうちに持っていたもの……それが、ごっそりはがれ落ちるショックを、幾度も味わった。
 男であれば、見なくてすんだ舞台裏。
 こんな経験をしてしまったら、前のように無邪気に『女は可愛いものだ』とは思えない。
 それどころか、『怖い』という感覚が強くなる。
 逆に女から見たら、男はさぞかし単純で、愚鈍な生き物に思えることだろう。
 女が男に憧れることなど、ほとんど不可能なのではないか?

 だが、それでも、始めたことは完遂させる。
 それが、マックスの生き方だ。
 ハニーを取り戻して、洗脳を解く。
 そうすれば、そこから未来を構築できるのだ。超越体との戦いも、それからのこと。
 いざとなれば、この銀河を捨て、遠くへ逃げてもいい。それはまあ……逃げ切れないかもしれないが。

「だから、やんわり、恋人がいるって言ってやったのよ。自分を何様だと思ってるのかしら」
「まったく、勘違い男ばっかりよね」
「俺とデートできて嬉しいだろって思ってるの、見え見えなんだから」
 マックスとしては相槌に困ることもあるが、カーラとしては、そういう女たちの会話に混じって、共に笑うしかない。
「聞いてよ、この間なんかね……」
 時には自分から、笑いを誘う話も披露しなければならない。
 実際、ハニーの護衛で外を歩いたり、他組織の幹部と会ったりするうちに、口説いてくる男を適当にあしらうしかない場面も出てきた。なまじカーラを、華麗な美女に設定したからだ。
「ごめんなさい、暇がなくて」
「わたし、女性にしか興味ないの」
「あなた、わたし以外の女と付き合わないと約束できて?」
 その場その場で適当に断ってはいるが、女の立場で見ると、確かに勘違いした自惚れ男≠ェ多いのはわかった。たいした才覚もないくせに、女は自分に感心するものだと思っている。
 こんな贈り物一つで、このわたし≠口説けるつもりなのか?
 マニアックなうんちくを語れば、女が感心するとでも?
 そんな隙だらけの言動で、どこが切れ者だ?
 以前は、ハニーに贈り物を送りつけてくる男をあざ笑ったものだが、自分が獲物≠ニ見られる立場になるのは、確かに不愉快なことだった。

 安く見ないでくれる?
 あんたなんかに、手の届く女じゃないのよ。

 ルーンやティルダが、修行僧のように質素な生活をしている気持ちもわかってきた。
 わざわざ他都市から船に乗り、女たちが《ヴィーナス・タウン》にやってくる理由もよくわかった。
 好きでもない男にまとわりつかれるのは、女にとって、迷惑でしかないのだ。
 あるいは、恐怖。
 あるいは、嫌悪。
 うっかり街歩きをした結果、何度もしつこい男を振り払うことになるのなら、最初から外出などしない方がいい……欲しいものは、《ヴィーナス・タウン》に全て揃っているのだから。

 そういう目でハニーを見ると、他の女たちと比較して、ハニーの幸福度が光り輝いて見える。
 シヴァがいるからだ。
 毎日、彼のために装い、彼のために空き時間を作る。彼の視線が自分を向くと、花が咲くような笑みで応える。
 自分がマックスとして一緒に暮らしていた時、ハニーはあんな顔をしていたか?
 まるで、生まれたての赤ん坊に夢中の母親のように、誇らしく、まばゆい笑顔。
 シヴァもまた、心底からハニーを崇め奉っているように見える。女神に仕える下僕のように。
 これは、本当に本気なのか?
 それとも、途方もなく狡猾な演技なのか?
 イレーヌは……ショーティは、シヴァを単純な男と言っていたが、それを鵜呑みにすることはできない。何年もグリフィン≠フ役を務めた男なのだ。ただの間抜けであるはずがない。

イラスト

 そのシヴァが、ある朝、わたしに向かって言った。
「カーラ、おまえは肉体を乗り換えているな」
 わたしは一瞬、目を見開いたまま固まった。
 ハニーの出勤に付き添うために、続き部屋の入り口で控えていた時のことだ。奥の寝室から先に出てきたシヴァが、わたしから二メートルの距離に立って言う。
「詮索するつもりじゃない。おまえの訓練の様子を見ていたら、動きに妙な癖があるのがわかった。自分で修正しようとしているが、しきれていない。おまえの基本動作は、今より手足が長い時代に身につけたものだろう」
 採用試験の時に、アンドロイド兵相手の格闘は披露したが、シヴァはそれ以降もこちらを観察していたのだ。
 わたしは、ゆっくり息を吐いた。
 その通りだ。
 身長が百八十センチの時には、二メートル級のアンドロイド兵士相手に組み手をしても、向こうが出力を加減している限りにおいては、そこそこ打ち合えた。
 だが、百七十センチに満たないカーラの肉体では、それができない。
 たった十センチ少々の差が……男と女の肉体の差が、実戦では大きな不利になる。
 小柄で俊敏な利点を生かすよう、動きを工夫してはいるのだが、たまにはどうしても、昔の動きが出てしまう。
 自分の突きや蹴りが、届くはずだと思ってしまう錯覚。もっと威力があるはずだという錯覚。その失敗を挽回するための動作。
 それを、シヴァに見抜かれていたとは。
「以前……ある人物に、しつこく、つけ狙われたことがあって。姿を変えました」
 シヴァの浅黒い顔には、何の波立ちもない。脳移植や性転換は、辺境では珍しいことではないからだ。
 まさか、目の前の女がマックスとは思うまい。
「過去はどうでも構わない。今、おまえたちがどれだけ戦えるかだ。よければ、俺が稽古をつけるが。悪い癖は、早く修正した方がいい」
 これは、単なる親切なのか? それとも……?
 だが、カーラとしては、承知する選択肢しかない。
「お願いします」
「それじゃ、次の非番の時間に」
 そこでハニーが、奥から出てきた。涼しげなサファイアのイヤリングに、白いブラウス、揺れるベージュのスカートで。守られている幸福で、肌は薔薇色に照り輝いている。
「お待たせ。行きましょう」

 夜中、ふと目を覚ました時など、考えてしまうことがある。
(いったい何をしているのだ、カーラ?)
 マックス本体との連結を断ち切って、単独で敵地に入り込むなど。
 今の自分は、シヴァの拳一つで、簡単に殴り殺されてしまう。
 それなのに、いまだ、ハニーを取り戻す手段も発見できていない。
(もしかしたら、このまま何十年も、身動きできないのか)
 その間に、本体のマックスがどう変化しているのか、それすらも知りえない。
 もしかしたら、本体の方が先に消滅することもあるかもしれない。
 カーラとは、本国が滅びた後も残る、ささやかな植民地か。

 朝になればカーラとして起き上がり、女の下着をつけ、ルージュを塗る。他の女たちに、笑顔で挨拶をする。
 シフトの間は戦闘服を着ているが、それ以外の時間には、甘いドレスを着る。宝石も身につける。
 そうでないと、悪目立ちしてしまう。ハニーの元で働く女たちはみな、それぞれに装いを凝らしているから。
 外部の男が見たら、まさしく夢の花園だろう。
 警備隊長であるルーン、ビルの警備主任のティルダ、その片腕のユージェニー、服飾部門のスーリヤとマイ、美術品担当のアーヤ、ホテル部門のグレイス、レストラン担当のレネ……各フロアの責任者たちとは、親しく付き合う。
 ランチを共にし、冗談も飛ばす。一緒に酒を飲めば(任務の性質上、決して深酒はしないが)、過去に付き合った男の悪口も言う。
 シヴァとの稽古は、恒例になってしまった。
「おまえには格闘技の才能がある。せっかくだから、暇な時間に修行しろ」
 とは、有り難いやら、迷惑やら。
 シヴァ自身は、格闘技の天才だった。肉体的に強健なだけでなく、強さを極めることに集中できるのだ。
 市民社会ではリリス≠ェ最強と思われているが、実際に素手で対戦したら、シヴァの方が上だろう。
 その彼から見ると、手頃な弟子を見つけたということらしい。ルーンは既に完成された戦い方を持っているが、
「カーラ、おまえは肉体を乗り換えた混乱を克服できれば、もっと強くなるぞ」
 ということだ。
 ハニーは時々、ジムにそれを見物に来て、感心したり、呆れたりしている。
「シヴァ、やりすぎないで。カーラが壊れてしまうわ」
 するとシヴァは驚いたように、
「手加減してる」
 と答える。
 もちろんそうだが、それは普通人のはるか上のレベルでの手加減であって、強健なバイオロイドの肉体を持つカーラだから、何とか耐えられるだけのこと。ハニーの目には、おそらく打ち合いの残像しか見えていないだろう。
 激しい稽古にも、いい点はあった。
 カーラは確実に強くなっているし、夜には疲れてぐっすり眠れる。余計な悩みに囚われる暇がなくなる。
 日々は、カーラとして過ぎていった。
 ハニーの警護、ティルダたち警備部隊の訓練監督、女たちの外出警護。
 合間には、新しい衣装や宝石の買い物もしなくては。話題の映画も見るし、女たちとピクニックにも行く。中央のファッション情報もチェックする。でないと、流行に置いていかれてしまう。
 たまにはっと気付いて、身震いした。
 しっかりしろ、マックス。
 何のためにここにいる。
 そんなに馴染んでしまったら、この暮らしから抜けられなくなるぞ。

 だが、カーラの人格は日々、強固になる。
 好きな花は薔薇、牡丹、ポピー、チューリップ。愛用の香水はミュゲとシトラス。
 ドレスは鮮やかな色を選ぶ。赤毛に似合う金色やクリーム色、深いワイン色、モスグリーンやオリーブ色、エメラルド色。きっぱりした純白も好きだ。黒や濃紺も着る。
 それに合わせる、たくさんのハイヒール。きらきら光る、愛らしいバッグ。
 所用で他組織の男に会う時は、相手の目に浮かぶ賛嘆の色を見て、
(ふふん)
 と軽い快感を覚えた。
 カーラは美しいのだ。大輪の薔薇のように。
 鏡の前で自分の髪を整える時、化粧をする時、うっとりしてしまうことがある。ドレスと宝石と化粧の調和がうまくとれた時は、一日中、気分がいい。
 マックスでいた時も、自分が伊達男であることには満足していたが……これほど、自分の美しさにはまる♀エ覚はなかった。
 顔の輪郭も、豊かな胸も、腰のくびれも、すんなりした足も、爪の形も、何もかも美しい。
 だから、磨き上げる甲斐がある。
 飾ってやらなくては、勿体ない。
 他の女たちが、親しげにハグしてくるのにも慣れた。柔らかいキスを頬にし、互いに衣装を褒め合い、新作のジュエリーに目を留め、新しい香水を品評する。
「それ、すてきね」
「あら、わたしちょうど、色違いのを買ったわよ」
「どこの香水? ちょっと試させて」
 お茶や食事も、毎日の楽しみだ。
「新作のマロンパフェ食べた?」
「《京都》の新しいランチコース、いいわよ」
「夜は上のバーに行かない? 相談があるの」
 女同士の距離は近い。男同士は互いに武装したまま対面するが、女たちは進んで悩みを打ち明け合うのだ。
 自分に相応しい男がいない、うっかり友達を傷つけてしまった、新しいイベントのアイディアに詰まっている……ぺちゃくちゃしゃべる中で癒されたり、アイディアをもらったり。
「おやすみ、また明日ね」
「おやすみ、お疲れ」
 くるくると踊り回るように、カーラは組織の中を泳ぐ。
 もしかしたら、女でいることは、楽しいことなのではないか。
 強いふりをしなくていい。それどころか、弱みを打ち明けることで好意を得られる。男でいた時は、常に自分を大きく見せなければならなかったのに。あれは、無限の軍拡競争だったのではないか?

 時には、ハニーと差し向かいで、お茶の時間を過ごすこともある。すると、マックスとしては絶対に聞けなかった話が出てくる。
 自分の前の男≠ヘ、いかに傲慢で冷酷だったか。鈍感だったか。

イラスト

 それが自分のことだとわかって、戦慄する。
 何もかも見抜いているつもりで、ハニーの気持ちは、まるで見えていなかった。
 バイオロイドの女たちが使い捨てられていくことを、ハニーがどう感じていたか。
 それがどれほど、重大なことだったのか。
 他の女に起こる不幸は、いつか自分にも降りかかる。そう感じることが、女の本能なのだ。
「シヴァと暮らせるようになって、初めてわかったの。守られるってことが、どんなことなのか。今は幸せよ。夢みたい。本当は、全ての女が、こういう人と出会えるといいんだけど」
 内臓が冷えるような気持ちで、それを聞くしかない。
 そんなつもりではなかったと、弁解したかった。
 甘い顔をしては、部下になめられる。他組織に潰される。きみのことは、できうる限り大切にしてきただろう!?
 だが、カーラとしては何も言えない。精々、最小限の相槌を打つだけ。
 心臓が苦しくなり、胃がねじれた。
 ハニーの部下として暮らして、もはや三年近い。嫌でも思い知る。これは、洗脳などではないのだと。
 シヴァは、本気でハニーに尽くしている。それを、自分の名誉とすら思っている。
 だからハニーは、シヴァを信じる。彼を見ると、一日に何度でもすがりつき、胸に甘える。
 かつてハニーが、こんな風にマックスに甘えたことがあったか。
 こちらが必死で口説いて、食い下がって、それでようやく、マックスのものになることを承知したのではないか。
 ハニーは、自己防衛が強すぎるのだと思っていた。ぼくと暮らし、ぼくに慣れれば、芯から甘えてくれるようになるはずだと。
 だが、《ヴィーナス・タウン》の商売を許したことで、ハニーの関心がそちらに逸れた。
 だから、ハニーがぼくに甘えて暮らすことと、商売に集中することは、両立しないのだとあきらめていた。
 それが、シヴァに対しては違う。ハニーは好きな男と好きな仕事の両方を手に入れ、満足している。
 むろん、当時の自分には自分の仕事があった。ハニーのお守りだけにかまけることなど、できるはずもない。
 シヴァは条件が良すぎるのだ。
 なぜ、こんな奴が、ショーティの全面的な庇護を受けられる。ただ、昔、ショーティの飼い主だったというだけで。
 ああ、くそ、それが特権階級に生まれるということだ。
 奴には最初から、辺境での特等席が用意されていた。リリス≠烽サうだ。
 マックスはひたすら、自分の力だけに頼るしかなかったのに。
 いや、落ち着け。冷静になれ。
 カーラの役割から、はみ出してはならない。いくら時間がかかっても、それは仕方ない。
 カーラとしてハニーの信頼を得た時、初めて、ハニーを誘拐するチャンスが……いや、奪回するチャンスが巡ってくる。
 畜生。
 ハニーの身柄を奪回しても、それからどうする。
 それこそ、洗脳でもしなければ、ハニーはシヴァを忘れないだろう。
 だが、今の自分はマックスではない。カーラなのだ。カーラになったからこそ、ハニーが打ち明け話もしてくれる。
 もし、これから先、男の肉体に乗り換えても……それはもう、元のマックスではないのだ。
 この記憶を抱えて、元には戻れない。
 だからといって、この理解を捨て去るつもりもない。男としては、世界の片面しか見ていなかったのだから。
 これからは、違う存在として生きるしかない。
 マックスを超えた何か。
 新たなマックス。
 それはいったい、どんな存在なのだ?

 本をあさった。心理学や進化生物学の本を。恋愛映画も見た。小説も読んだ。何らかの手掛かりを求めて。
 人生を間違えたとしたら、どこで間違えたのだ。
 マックスとして始めた人生は、どこで間違った分岐に入り込んだのか。
 やがて、人類文明は、最初から構造的な問題を抱えているという分析に行き当たった。突き詰めて言えば、女にモテない男をどうするか、という問題だ。
 歴史の中で、幾つもの女集団が、男種族の絶滅を企んだ事件があったことも、改めて掘り下げた。
 その女たちは、確信したのだ。科学文明が進歩した現在、もはや人類に男は必要ないと。
 動物の雄も雌を得るために戦うが、それは繁殖期だけのこと。人間の場合は高い知能のおかげで、その争いが限りなく拡大してしまう。元はといえば女を得るための闘争心が、国家レベルの侵略や搾取や虐殺にまで発展してしまう。
 女は本能として、優秀な男を求めるからだ。
 取り柄のない男や、平均以下の男は、女から選ばれない。
 優秀な男が複数の女を集めてしまう世界では、あぶれた男たちは恨みをくすぶらせ、危険な武装集団となる。
 少数の優秀な男たちは、多数の劣位男の逆恨み(否、正当な恨みかもしれない)を避けるため、婚姻制度を考えだした。男であれば、最低でも一人の女をあてがわれる制度。
 そうすれば、劣位の男でも、威張る相手を得られる。
 人類の半数を占める女たちは、自分より下位だと思って安心できる。
 彼らが不平不満を抱いても、それが上位の男に向く心配は大幅に減る。男は妻を殴ってもいい、娘を犯してもいいということにすれば。
 結婚制度は、すなわち、女にとっては奴隷制にすぎない。
 何千年もの間、暴力で男たちに従属させられてきた女たちが、どれほどの抵抗を続けてきたか。そして、どうやって少しずつ、本来の権利を取り戻してきたか。
 それがすなわち、人類の歴史なのだと学者たちはまとめている。

 その戦いは、まだ終わっていない。
 中央ではともかく、辺境ではまだこれからだ。
 もしかすると、永遠に解決しないかもしれない。男というのは、取り扱い要注意の兵器のようなもの。永続する平和が欲しければ、兵器を捨てる方がよいと女たちは考える。
 シヴァを憎むマックスが、そうか。
 ハニーを取り戻すために、女の肉体に潜るという決意をしたことも、闘争本能の暴走なのか。

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 カーラになってから、確かに、以前より温和になった自分がいる。以前なら許せない屈辱だと思ったことも、苦笑して受け流すことが増えている。
 温和というよりも……見切りがつけられるようになったのか。
 男なんかとまともに争って、どうなるというのだ。野蛮人相手に、理屈が通じるものか。迂回して通り、奴らが自滅するのを待てばいい。
 それが、女の知恵。
 男より弱い肉体をもって、男の築いたルールの中で生き延びるため。
 自分は、どうすればいい。
 カーラとして得たこの悟りを、マックス本体は認めないだろう。カーラが汚染されたものとみなして、抹消しようとするかもしれない。
 戻れないのか、もう。
 こうなることが、ショーティの予定だったのか。
 だとしたら、ショーティにも負けた。
 女の目から見れば……女を尊敬しない男になど、存在する意味はないのだ。
 女に愛されたければ、シヴァのように下僕に徹するのみ。
 あるいは、女に愛されようなどとは望まず、自分の道を行く。科学でも芸術でも、好きなことを極める。それならば、女たちの敬意だけは得られるだろう。
 市民社会では、伴侶や恋人の選択権は女にある。それに満足できない男たちは、辺境へ逃れた。そして、従順なバイオロイド美女を創り出した。
 もし、辺境でも女優位が確立されたら、不満な者は、他の銀河を目指すことになるかもしれない。
 そこでもまた、奴隷として生み出される女たちの悲劇が続く。男が男をやめない限り。
 では、男を全て滅ぼしてしまえばいいのか。
 新たな男を誕生させず、女だけの社会にしてしまえば、平和が永続するのか。
 しかし、ハニーはそれを望むまい。シヴァを必要としているのだから。
 そう、男に対する愛着は、女の内に深く根付いているはずだ。男に甘え、すがりたい。それは、生物としての本能だ。優秀な男なら、自分を守ってくれる男なら、いてほしい。
 自分は、そういう存在になるはずだった。
 ハニーを愛し、守ったつもりだった。
 なのに、ハニーはもう、マックスを切り捨てた。
 自分は、どこへ行けばいい。何のために、カーラであり続けなくてはならないのだ。

22 ハニー

 他の女たちには申し訳ないけれど、この世界に、わたしほど幸せな女はいない。
 だって、シヴァは一人しかいないのだもの。
 毎日が輝いていて、無我夢中のうちに過ぎていた。
 自分が幸せな分、周囲の女たちにも、幸せに過ごしてほしい。
 顧客と話す時も、部下たちと話す時も、良かれと思って心を砕いた。そのためにまた、善意や好意が返ってくる。
 自分から豊かな波紋が広がり、それが大きな共鳴を引き起こしながら、宇宙に広がっていく気がした。
 これが、正しく生きるということ。
 今ならわかる。わたしはあのまま市民社会にいても、たぶん、幸せになれただろう。
 中年になって、自分の醜さを気に病むことから解放されたら、きっと気楽に整形できた。他人にどう思われるかなど、もはや気にかけず。そして、好きなドレスを着て、楽しく笑い、容貌で悩んだことなど、忘れてしまっただろう。
 マックスには、感謝している。わたしに、逃げ道を示してくれた。その道を歩いたからこそ、シヴァの元へたどり着くことができたのだ。
 彼と暮らした年月も、無駄ではなかった。マックスの冷酷さに苦しんだからこそ、シヴァの優しさが身に染みる。
「マックスの親切には、いつも値札がついていたのよ」
 ルーンやカーラには、そう話せるようになった。
 これだけ親切にしてやったのだから、これだけの貸しになるのだと。返済の重みが、わたしを疲労させていた。
「でも、シヴァは違うわ」
 彼はわたしを守り、いたわること自体を喜んでいてくれる。そのことが、心苦しいくらい。
「あなたたちにも、いつか、いい人が現れるといいんだけど」
 午後のお茶の時間にわたしが言うと、ルーンは肩をすくめる。
「市民社会から、素直な男の子をさらってくるしかありませんね。でも、その子が素直なままでいられるとは思えないし」
 ルーンは今のところ、女同士の友情だけで足りていると言う。
 カーラは力なく苦笑した。
「自分好みの男性を、赤ん坊の頃から育てるしかないかしら」
 カーラに元気がないので、気にかかっていた。
 以前はもっと明るく、冗談も多かったのに、近頃ではしゃべる言葉が少なくなり、ぼんやり遠くを見ていることが多い。職務は淡々とこなしているけれど、楽しんでいる感じがしなかった。
 考えたくないけれど、思い当たることはある。
 シヴァが彼女の戦闘訓練を引き受け、個人指導するようになってからだ。
 わたしから見ても、シヴァは親身に指導していた。何の悪気もなく、ただカーラの才能を伸ばしたいがために。
 シヴァもまた、周囲の女たちの幸福を願っている。彼もまた、過去に色々な傷を負っているから。彼の願いとわたしの願いが一致しているから、同じ方向を向いて歩んでいけるのだ。
 そういう日々の中、カーラがシヴァに特別な感情を抱いてしまい、それで苦しんでいるなら、わたしがしてあげられることは、ない。
 他の女がシヴァに恋い焦がれるなんて、これから先、何度でもあるだろう。
 でも、わたしは絶対に彼を譲れない。
 シヴァを失うくらいなら、いっそ死にたい。
 一人に戻るなんて、想像することすら恐ろしい。いつか、この幸福が終わる時が来るなんて。
 ああ、心配はよそう。その時は、その時のこと。先の心配で、今の幸福を曇らせることはない。
 とりあえず、わたしがカーラのことを相談できるのは、ショーティしかいなかった。

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「カーラをたとえば、五号店か六号店の警備主任として送り出した方がいいのかしら。それとも、そんなことをしたら残酷かしら。苦しくても、シヴァの姿を見られる日常の方がいいのだと思う?」
 床に寝そべった大型犬は、ふさふさの尻尾を揺らしながら言う。
「それは、カーラが決めればいい。彼女が転属願いを出してきたら、応じてやればいいことだ。きみが先回りして決めることはない」
 彼にそう言われれば、そうかとも思う。
 とにかく、カーラは変わってきた。服が地味になり、口数が減り、その分、性格に重みが加わったようで、周囲の女たちに頼られることが増えた。
 それなら、これはカーラの成長なのだと思おう。告げられない片思いが、彼女を鍛えている最中なのだ。

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