永劫戦士

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永劫戦士 1章

 その時、私はフランスのある地方都市にいた。
 ある事件について、詳細を知るためだ。
 その事件はまだ発生していないが、今後、かなりの確率で現実化する。それを止めるべきか、それとも進行させるべきか……
 既に人間界は、福島の原子力災害を経験している。地震や津波自体は仕方のないことだが、放射能災害については人災だ。
 我々がそれを止めなかったのは、世界に対する大きな教訓になると考えたからである。
 だが、それでもまだ、愚かな人間たちは悔い改めていない。世界はまだ、破滅へと傾斜し続けている。
 今度は怒れる若者たちが、原子力発電所にテロ攻撃を仕掛けようとしていた。社会から見捨てられて絶望し、根深い怒りを抱えている彼らには、他に現状打破の方法がわからないのだ。

 駅前の雑踏で、私はテロを企む青年たちが集まってくるのを待っていた。戦乱と貧困に苦しむ故郷から逃れ、フランスに渡ってきた両親の元で育ったものの、この土地で、うまく幸せを見つけられない若者たちである。
 私が彼らのうちの一人を選び、そっとささやきかければ、彼は弱気になって、仲間の企みを司法当局に密告し、原子炉破壊計画は事前に阻止されるはずなのだが……
 我々の直接介入は、天界の掟に抵触する。人間たちは、自らの力で救われなければならないのだ。
 だが、人類絶滅につながる危機を回避できるかどうか、事態はぎりぎりのところにきている。今ならば、ごくわずかな介入は許されるのでは……

 その時、後ろから私に抱きついてきた者がいる。
 薔薇の甘い香り、豊かな胸。私の胴に回された白い腕には、宝石がきらめく金の腕輪。
「だーれだっ?」
 他に、誰がいるというのだ。
 この私に、気配を隠して忍び寄れる者など、天界、人界、魔界を通して、指を折って数えられるほどしか存在しない。
「ミカエル、離しなさい」
 振り向かずに、低くささやいた。
「きみは目立ちすぎる」
 駅前を通り過ぎる大勢の人間のうち、ある者は足を止め、ある者は歩きながら振り向いて、驚いたようにこちらを見る。だが、長く留まることは許されず、自分が何を見たのかも忘れて、本来の目的に向かって歩み去っていく。
 大天使ミカエルは、長い金髪を波打たせた、夢のような美女の姿をしていた。
 着ているのは普通の黒いワンピースに、ベージュのトレンチコートだが、あまりにも粋なので、映画かCMの撮影でもしているのかと、人々が疑うのがわかる。
 天使はそれぞれ、その場に相応しい姿で人間界に現れるのだが、ミカエルは美女の姿を好んでいた。我々に性別はないが、個性はあり、その個性が望む姿というものがあるのだ。
 私の場合、それは地味な容姿の、屈強な青年ということになる。人間たちから見れば、訓練を積んだ軍人か情報部員というイメージになるだろう。
「いやあん、もう、ウリエルったら、冷たいんだからぁ。堅すぎるのよ。堅いのは、一箇所だけでいいのにぃ」
 思わず脱力するようなギャグを飛ばすのが、ミカエルの趣味である。私の背中に胸をこすりつけながら甘えるので、周囲を流れていく人間たちが、ますます呆れるようだ。
黙って立っていれば高貴な美女に見えるのに、茶目っ気のあるミカエルは、自らその印象をぶち壊す。
「何をしに来た?」
「あらぁ、あなたの考えることくらい、私にわからないとでも?」
「私もまだ、考えを決めていない」
「そうでしょ。私にもわからないわ」
 私の背中に張りついていても、冷笑する気配はわかる。
「人類の文明はまた滅びて、一からやり直すことになるのかしらね。せっかくここまで来たのに、なんて惜しいこと」
 そうだ。何万年もかけてここまで進歩したのに、また元の木阿弥になってしまう。
 この星では、何度繰り返しても、精神の進化は遂げられないのか。
 ごくわずかな者は、悟りを開いて次の段階へ進むことができるが、大多数は、泥の中でもがき苦しむだけ。

 その時、雑踏の中で騒ぎが起きた。古いコートを着た若い娘の頭から、赤毛のカツラがむしり取られ、地面に投げ捨てられる。カツラの下には、固く結った長い黒髪が隠されていた。
「さあ来い、この恥さらしが!!」
「戻れ、結婚式は明日なんだぞ!!」
「俺たちに恥をかかせるつもりか!!」
 左右から、黒髪で浅黒い肌の男たちが娘の腕を掴み、無理に引きずっていこうとする。もう一人の男が、古い小型車のドアを開けて待っている。
「いや、離して、誰か」
 同じく黒髪で浅黒い肌の娘は、必死になって抵抗しようとしていたが、恐怖と絶望で手足に力が入っていない。手荷物を取り落としたまま、ずるずると男たちに引かれていく。
 親の決めた結婚から逃げようとして、失敗したのだ。彼女を連れ戻しに来たのは、兄や従兄弟たちである。
 イスラムは本来、弱者を守るための宗教なのに、それが未だ男たちに悪用され、女たちを苦しめている。もしも彼らが、女たちに自由を認めれば、男たちの明日も明るくなるのに。
 しかし大抵の場合、裕福なイスラム教徒はもっと余裕がある。家族の女を踏みつけにするのは、貧しい者たちであることが多い。
 ところが、その一行の前に、ふわりと立ち塞がった男がいた。白い革ジャケットを着た、モデルかホストのような美形の優男である。
 肩に届くくらいの栗色の髪、混血のような小麦色の肌。
 だが彼は、人々がはっとするような冷気をまとっていた。妖気と言ってもいい。
 娘の腕を掴んでいた男たちも、思わず立ち止まる。
「何だ、おまえ」
「そこ、どけよ」
 そう抗う声も、震えを帯びていた。蛇に睨まれた蛙も同然である。妖気をまとった美青年は、穏やかに言う。
「その娘さんを、置いていきなさい。ぼくが保護します」
 遠巻きにしていた群衆から、おお、と安堵の声が上がる。
「な、何の権利があって」
「あなたたちこそ、何の権利があって、嫌がる女性を連れていくんです」
「こ、こいつは俺たちの妹だ」
「妹を売るような兄なら、兄の資格はないですね」
 美青年はにこやかに言うが早いか、空手家のような鋭い蹴りを入れて、兄と従兄弟の二人を昏倒させた。車で待っていたもう一人の従兄弟は、唖然として、身動きもできない。群衆も、あまりの容赦のなさに声を失っている。
 美青年は、呆然としている娘に手を差し出し、優しく言った。
「さあ、いらっしゃい。あなたの行きたい場所へ送ってあげます」
 周囲の市民たちは、それぞれに納得して散り始めた。これで一応、決着はついたと考えて。
 だが、この美青年は、白馬の騎士などではない。堕天使として知られる、魔王ルシフェルなのだから。

 ルシフェルはこの娘を、悪質な連中に売り飛ばすつもりだ。この娘は麻薬を打たれ、売春させられる地獄へ堕ちることになる。
 この場合は、私が介入してもよかろう。
 魔界の者が人間界に介入した場合、それに対抗する範囲内でのみ、天界の介入が許される。
 もっとも、〝許される〟、〝許されない〟という区別もしょせん、我々が自発的に決めた行動指針にすぎないが。
 私は彼らの所へ歩いていき、落ちていた小型の鞄を拾うと、腹を抱えて倒れている男たちの横で、娘に声をかけた。
「お嬢さん、こっちへ来なさい。その男はヤクザですよ。我々があなたを、保護してくれる市民団体に連れていってあげます」
 娘はためらい、美青年と私を交互に見た。決め手になったのは、私の横に寄り添って立つミカエルの存在だろう。
 女連れの男の方が、信用しやすい。それにミカエルは、気に入らない男と渋々付き合うような娘には、絶対見えない。
『私が選ぶ男なんだから、世界最高水準に決まってるでしょ』
 という高慢オーラを発散している。
 娘はよろけながらも、怪しい美青年から離れて、我々の方に来た。
「あの、助けて下さいますか? わたし、パリにある女性団体の事務所に行きたいんです」
 この娘は友達の助けを借りて、その事務所と連絡を取っていた。カツラも服も手荷物も、友達が用意してくれたものだ。
「いいですとも。お兄さんたちが起きないうちに、列車に乗ってしまいましょう」
 私は鞄を彼女に渡し、赤毛のカツラも拾ってきた。娘は、用のなくなったカツラを、着替えの詰まった鞄に押し込む。
 その間にミカエルが、ルシフェルと会話を交わしていた。彼らの会話は高い次元で行われるため、周囲の人間たちには聞こえない。
「魔界の帝王が、こんな場所で何をしてらっしゃるの?」
「大天使が二人も揃っているのでね。興味が湧いたんだよ」
 ミカエルは優雅な美女の姿をしていても、その本質は、冷徹な戦士である。何といっても、天使の軍団の最高司令官。相手が魔王であっても、少しも臆することはない。にこやかに畳み掛ける。
「本当はあなたが、テロ活動を後援しているのではなくて? ヨーロッパ全土を、放射能で壊滅させるつもりなんでしょ?」
 ルシフェルもまた、冷然と微笑むだけだ。
「人間たちが、自由意志でしていることだ。神のご意志の通りにね」
 ルシフェルはかつて、天使の中の天使だった。
 あらゆる天使が憧れる、天界の明星。
 それが神に反逆して、天界を追放され、悪魔になった……と言われている。
 だが、本当のところ、彼は――しばしば美青年の姿をとることから、便宜的に彼と呼ぶが――冷酷な悪魔などではない。神に逆らったわけでもない。
 神は我々天使にも、自由意志を与えたからである。我々が自分の思う通りに行動することこそ、神の意志。
 ルシフェルはあまりにも正直すぎ、感情的すぎただけである。彼は人間たちを愛するあまり、天界の掟に収まりきれなかった。
 哀れな娘を売春組織に売り飛ばそうとしたのも、彼一流の善意なのである。
 もし売られていれば、この娘は生き地獄で苦しみ、早くに死んでいたかもしれないが、逆に、したたかな女戦士に変貌していた可能性がある。数字でいえば、五パーセントくらいのものか。
 その場合、彼女は娼婦たちを集めて自衛のための組合を作り、フェミニストの闘士として、世界に知られることになっていた。そのことが、虐げられている多くの女たちに、勇気と希望を与えることになる。
 だが、我々の介入で、その可能性は消えたのである。
 どちらが善いことで、どちらが悪いことか、誰に決められるだろうか?
 ルシフェルは、この娘が戦士に育つという、わずかな可能性に賭けたのだ。
 だが、私は安直な解決を選択した。この娘を女性団体に預け、普通の幸福な主婦にしてしまう道を選んだのである。
 あらゆる選択には、その先にまた無数の分かれ道がある。
 そのどれが成功の道なのか、本当にはわからない。
 と言うより、どの道も、それなりに正しいのだ。
 地球に小惑星が激突し、恐竜たちが滅びたことは、彼らには悲劇だったが、それが哺乳類の繁栄につながった。原子炉破壊のテロも、それが先で、本物の核廃絶につながる可能性がある。
 また、生態系破壊で絶滅ぎりぎりにまで追い込まれた人類が、強烈な危機感から、高い精神レベルに進む可能性もある。
 だが、未来はあくまでも無数の可能性を含む。
 今回のテロを止めるべきかどうか、我々には計算しきれないのだ。
 ことによったら、人類絶滅こそが、正しい未来なのかもしれないし。
 ルシフェルは、私にも話しかけてきた。
「相変わらず、渋くてかっこいいな、ウリエル」
「いや。かっこいいのはきみだ。憎まれ役に徹している」
 ルシフェルは、天界の掟に納得しない天使たちを引き連れ、魔界を作った。彼らは、人類の存続を望んでいる。人類には、その価値があると信じている。そのために、せっせと人界に介入する。
 虐殺や戦争は、はたして悪なのか。
 それは科学の進歩を促し、人口の圧力を減らす。そうして、人類絶滅までの時間を稼ぐ。
 人類には天敵がいないから、定期的に戦争を起こさないと、人間が増えすぎ、自らの生きる場を食い尽くしてしまうのだ。
 人間たちが自覚的に人口抑制をしなければ、他の種を滅ぼし尽くして、自らも絶滅するより他ないのである。
「ふん。またな」
 ルシフェルは微笑んで、立ち去っていった。駅前の雑踏は、すぐ彼の姿を隠してしまう。
 我々も、娘をはさんで駅の中に入った。その後で、ようやく動けるようになった従兄弟の青年が、倒れた二人の青年を助け起こしている。
「畜生、何だ、あいつら」
「余計な真似、しやがって」
 気の毒だが、結婚式は中止になるだろう。そのことで、娘の一族がどう変わっていくか、それにも色々な可能性がある。

 パリに向かう列車の車内に落ち着くと、疲れていた娘は、ミカエルにもたれて眠ってしまった。それでいい。予定外の出来事だったが、本筋に戻る時間は十分ある。
 我々が駅前で人間たちに干渉してしまった結果、世界の事象の流れが少し変わり、テロを企む若者たちの行動も、少しずれてしまったからだ。
 ミカエルの気まぐれが、ルシフェルの注意を惹いてしまった結果である。私だけなら、当初の予定でよかったのだが。
 一つ何かが起こると、その先の出来事が連鎖的にずれていく。だから、未来予測は難しい。小さな可能性が実現してしまったり、些細な出来事が大きな影響を広げたりする。
 ミカエルはスマホを取り出して、ファッション情報のチェックを始めた。人間界に来た時は、なるべく新しい情報を取り入れておく方がいい。さもないと、時代遅れになって、次の降臨の時にまごついてしまう。
 私は車窓の風景を眺め、町や村の変化を確認していく。新しいビル、変わらない牧場、新型の車、新しいスラム……
 我々はルシフェルが好きだし、彼も我々を仲間だと……少なくとも、理解し合えるライバルだと思っているはずだ。
 どちらも、悪意というものは持っていない。我々の精神レベルでは、負の感情は持ち得ないのだ。
 天使にしても悪魔にしても、その行動原理は愛である。
 ただ、愛の表現が異なる。
 だから多くの人間たちは、誤解したままだ。この世は、善と悪の戦いの場所だと。
 本当はただひたすら、理想の世界を目指すための試行錯誤があるだけなのに。
 それとも実際には、理想の世界というものは幻にすぎなくて、こうして永遠にもがき続けることそのものが、存在の意味なのだろうか?

 我々は娘をパリまで送り届け、それから瞬時に、元の地方都市に舞い戻った。
 今度は、テロを企む若者たちの集会所の近くである。
 人々が行き交う歩道に立つと、噴水のある広場と、それを取り巻くカフェやレストランが見渡せる。
 繁華街に近いアパートの一室が、彼らの拠点になっていた。今、そこでテロ実行前の、最後の会合が開かれている。我々は路上にいながら、会合の様子を〝見る〟ことができる。
 天使は、人界の物理法則に拘束されない。人間たちに余計な影響を与えないよう、できるだけ目立たないように振る舞うが、それでもこうして時折、人間界に干渉してしまう。
 何かせずにはいられない。
 そもそも我々が存在するのは、人間たちを見守るためだろう。
 人間たちが、あまりにも危ない方向へ行こうとする時は、見るだけでなく、少しばかり手助けしてもいいだろう。
 少なくとも、我々はそう思っている。もしかしたら、それは間違いなのかもしれないが。
 神の意図は、実際のところ、我々にも不明なのだ。
 多くの人間たちは、我々天使が神の足元にいて、神の命令で動くと思っているらしいが、そうではない。
 神はこの世界を創りはしたが、その後は放置したきりである。
 放置することが、神の愛なのだ。
 我々天使もまた、放置されている。神が存在することは知っているが、どうせよという命令は受けていない。
 だから我々は自分たちで考え、自分たちを律する掟を作った。人間たちを信頼し、彼らの自由意志を尊重するという方針で。
 その掟に納得できない天使がいても、不思議はない。堕天使ルシフェルは、彼なりの考えで、人類のために行動する。
 私がテロを止める気になったと知ると、ミカエルは笑った。
「結局、そうなのよねえ。あなたって、お節介なんだから」
 そうだ。迷った時には、結局動いてしまうのが私の個性。いや、欠点。これで何度も、後悔しているというのに。
「やらせておく方が、いいと思うか?」
 するとミカエルは、苦いものを甞めたような顔をする。
「私の予想では、あまりいい結果にならないわ。絶望が絶望を呼んで、破滅の連鎖になりそう。それを回避して、正の連鎖に持っていける可能性は、三パーセントくらいかしら。ルシフェルなら賭けるかもしれないけれど、私は気が進まないわね」
 そうか。やはり。
 私の予想でも、そうなる。
「ルシフェルは、その三パーセントに手を貸して、もっと可能性を引き上げるつもりだったのだろう」
 おそらく、最初から近くにいたのだ。わたしが降臨したことで、彼の邪魔をしてしまったのではないか。
 ミカエルは、再び花のような笑顔になった。
「でも、あなたに声をかけられた時点で、彼は、今度の件から手を引くことにしたと思うわ。あなたがテロを止めてくれるんなら、私も引き上げるから、お別れのキスをして」
 ミカエルのお茶目である。性別のない我々には、友情はあっても恋愛はない。しかし、広場の外れでは、我々のキスは、恋人同士の別れのキスに見えたことだろう。
 一人になると私は新聞を買い、カフェに入って、しばらく時間をつぶした。人間界の事件のあれこれを、新聞を通して知る。
 それから、集会所のあるアパートから出てきた若者の一人を尾行した。
 彼の精神を読み取り、弱点を探る作業は、既に済んでいる。
 適当な角を曲がった瞬間、私は、別の姿に変貌していた。長い黒髪を布で隠した、地味な服装の若い娘。
 テロを企む若者の、別れたばかりの恋人の姿になったのだ。この姿で、若者に声をかける。
 彼は後顧の憂いをなくすため、作戦前に、親しい人々から遠ざかっていた。だが、別れた恋人が目の前に現れ、妊娠がわかったと泣いて訴えれば、彼は動揺する。決意を揺さぶられる。
 そして、生まれてくる子供のために、放射能テロを止めようとするだろう。たとえ、仲間を皆殺しにしてでも。
 その結果、この若者もまた撃たれて死ぬことになり、恋人の妊娠が現実ではなかったことは、知らずに済む。
 今回のテロは、それで回避されるはずだ。
 私は、その可能性に賭ける。
 そのことが、次の新たな災厄につながるとしても。

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