星雨記

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   1

 ――やはり、怖い。
 胸騒ぎが、どんどん強くなる。
 ハナは織り機から離れ、戸口から外へ出た。まだ昼前のはずなのに、しかも、空の大部分は晴れて青いというのに、いぜん、あたりは曇天のような薄暗さのままだ。
 いつもなら、涼しい風が通り抜けていく中庭も、よどんだ空気のためか、生気を失っているように見えた。夫のタキが木から吊るしてくれたブランコも、子供たちの遊び転がした桶も、馴染みのない別世界のもののようだ。
 草木がそよとも動かないだけではない。鳥の姿がないのだ。
 蝶や蜻蛉はたまに通るが、それも、いつもなら、人間が手で払って通らなければならないほど、あちこちに濃く群れ飛んでいるのに。
 そういえば、ここ数日、村内でほとんど獣を見ていない気がする。
 山に仕掛けた罠を見に行ったグン伯父たちが、おかしい、いつもの半分もかかっていないと言っていたのは、昨日のことだ。
 やはり、あれのせいだ。
 あれが来たからだ。

 ハナは家の前の土手に出て、空を見上げた。空にある、異様な黒い帯を。
 昨日はちょうど、太陽の通り道を覆い隠すような細長い帯だったが、その帯は今日、かなり左右に広がっている。
 黒い影のように見える帯は、かなりの高みにあるらしい。空の高いところにできるうろこ雲よりも、更に高い高いところ。
 細かい様子は見分けられないが、それでも、大小の不揃いな粒が集まった、固体の群れであることはわかる。
 もちろん、これだけの距離があるのだから、一番細かい粒であっても、家より大きな巨岩なのだろうけれど。
 粒の材質は分からないが、おおまかに見て、黒いもの、灰色のもの、白いものの三種類があるようだ。
 全体として、光を通さないため、隙間のある黒っぽい帯に見える。
 時折、高空の風に流されるのか、互いにぶつかり合うのか、粒が動いて、きらりと光をはじくことがある。
 その粒の帯の向こうに、太陽が通っているのだ。粒の隙間から、光の筋が洩れているのが分かる。
 空にかかる長大な橋のように、その帯は、東の山向こうから、西の水平線まで、切れ目なく伸びている。
 それを見ているうち、ハナは、火であぶられるような苛立ちをおぼえた。
 不安が昂じて、怒りになりかけている。
 どうして、こんなことになったのだ。
 なぜ、あんなものが、わたしたちの頭上にのしかかるのだ。
 これから先も、ずっと空にかって、わたしたちを脅かすつもりか。太陽を隠し、鳥や獣を怯えさせ、やがては草木まで枯らしていくつもりなのか。
 あの帯の元が何なのかは、分かっていると思う。
 村の男たちの大半は(父親について海のことを教わる娘も、夫と共に漁に出る妻もそうだが)、何日も沖合に出て魚群を追ったり、南部の港まで交易に出掛けたり、更に南海の島まで旅をしたりしているので、ほとんどの者が、豊かな星見の知識を持っている。夜空に新しい星が現れれば、すぐに誰かが気づき、皆に教えるのだ。
 その星は、二十日ほど前に夜中の空に発見され、それから夜毎に、少しずつ大きくなってきた。
 太陽と反対方向に、わずかな尾を曳いていたので(目のよい者は、もう一本、かすかな尾が見えると言っていたが)、昔から繰り返し出現してきた旅星の一つ、と思われていた。
 旅星は、太陽と反対側の空に現れ、日毎に尾を長くしながら大きくなり、太陽に近付き、やがては通り過ぎ、来た時とは逆側に遠ざかって消えていく。
 それだけのことなら、災厄でも何でもなかった。子供たちが喜ぶ天の見物、というだけのことである。
 けれど今度の旅星は、わたしたちに近付きすぎたのだ、とハナは思う。
 四日前の明け方に、旅星は三つに割れた。三日前には、それがもっと細かく砕けていった。そして、昼間でも見えるようになり、どんどん広がって、ついに空の端から端まで届く帯になったのだ。
 星のかけらの帯。
 おそらく、我々の住むこの世界を、ぐるりと取り巻く輪をなしているに違いない。
 ハナには納得しきれていないが、この大地が月と同様の球体であることは、どこの国の学者たちも認めていることだという。
 この村から都に出て、何年か勉強してきた若者たちは、戻ってくると、目一杯の知識を子供たちに伝えてくれる。だからハナも、その切れ端くらいは聞いているのだ。
 けれどもちろん、こんなことは、若者たちの話にも、村の古老たちの記憶にもない。
 偉い学者について学んだ若者たちにも、これが吉兆なのか、凶兆なのか分からないという。
 けれど、ハナの胸騒ぎは、何か途轍もない災厄が近いことを告げていた。
 空の帯そのものが災いなのかもしれないが、あれはまだ、単なる前触れに過ぎないのではないか。
 でも、何が起こるというのだ。
 地震か、噴火か、それとも津波。あるいは嵐。
 そんなことなら、過去に幾度も経験がある。ハナ個人が知らなくても、村の言い伝えにある。火山の噴火は、北の大島で交易団が見てきたことがある。そういう災厄は、過ぎ去るのを待てば、いくらでも再建ができる。
 けれど、空の帯は、初めての出来事なのだ。
 そんな、ありきたりの災厄で済むのだろうか。
 村の者たちも不安がり、いざという時には、子供と老人を村の集会所に集めようか、それとも海岸の洞窟へ避難させようか、と話し合い始めている。
 ――そんなことでは、とても済まない気がするのだけれど。

 ハナは生まれてこのかた、こんなに強い胸騒ぎを感じたことがない。
 少女の頃、村の奥にある崖が崩れることを予見して、下の数軒に避難を勧め、崖崩れの後で感謝された時も、こんなに強い不安ではなかった。
 もっともその頃は、自分の命より大切なものがなかったから、地震でも台風でも、半分は面白がっていたものだ。
「ヒガ! ヨナ! お昼にしますよ! 戻っておいで!」
 子供たちの名前を呼び、土手の下を目で追う。森から流れてくる川筋、仲良しの子供たちのいる家々の軒先、お気に入りのガジュマルの大木。
 いない。どこまで遊びに行ったのだ。遠くへ行ってはいけないと、ここ数日、繰り返し言い聞かせてきたのに。
 いつもなら、山に入ってハブを獲ろうと、誰かの舟に便乗して沖へ出ようと、九つと六つの機敏な男の子、さしたる心配もしないのだけれど。
 早いところ、お腹を空かせて戻ってこないだろうか。それとも、誰かの家に上がり込んで、昼寝でもしているのだろうか。
 冷たい予感に浸され、胸が絞られる。
 お願い、当たらないで、この勘だけは。

「あっ、サト小母さん、うちのチビたちを見ませんでしたか?」
 ちょうど出てきた隣家の老母を見て、ハナは駆け寄った。
 昨日も水汲みの時にしばらく話したが、やはり、誰かと不安を分かち合いたい。
 よく日に焼けて元気なサトは、昔よりは縮んだものの、いまだにしっかり者だ。同居する娘一家に対する威令も、失っていない。
「おや、戻ってないのかい。さっき、うちで魚をあぶって食べていったけど」
「まあ、また御馳走になって、すみません」
「なんの、食べてくれた方が助かるよ。一日おきに、上の息子が野菜、下の息子が魚を届けに来るんだからね。干しても、浸けても、うちだけじゃ食べきれないのさ」
 空の災厄など気にしていないように、サトはからから笑う。
 村のどの家にも、食べ物は溢れていた。島は年中暖かく、周囲は豊かな海である。
 庭先に茂る野菜、根菜、繰り返し実る果物。男たちが沖から戻る都度、浜に積み上げられる魚。子供たちが少し潜れば、大きな貝がいくらでも獲れる。
 夫が南方への交易団に加わって、長く留守をしているハナの家でさえ、食べ物が足りないことはない。
 もしも、息子たちがあるものを食い尽くしたら、村の誰かの家を訪ね、余っているものを分けてもらえばいいのだ。どこの家でも、積んだまま腐らせるよりはと、喜んで分けてくれる。
 もっとも、自分の家で食べられる限度はみな、わきまえているので、無意味に溜め込むよりも、少なく収穫し、必要な都度、畑や海に新しいものを取りに出る方が賢いとは、わかっているのだが。
 それでもつい、収穫を取りすぎる。まあいい、明日も食べればいいと思い、持ち帰ってしまう。
 豊かで平和な島。
 西の大陸では、部族同士の大きな争いがあり、負けた部族が土地を失って、北の方へ流れていく、という話も聞くのだが。
 この島で暮らす限り、悪いことなど何も起こるはずがなかった。
 嵐で船が行方知れずになったり、家が壊れたり、誰かがハブに噛まれたりという事故はあっても、それ以上の災厄は――
「あれ、雨かね」
 サト小母が手をかざした。ハナも感じる。ぽつぽつと顔や腕にかかる水滴。
 それがすぐ、はっきりとした雨になった。ハナの肌や髪が、しっとり湿っていく。
 この島では、雨は恵みである。
 地上の熱気を払い、山に染み込み、湧き水の源になってくれる。
 簡素な手織りの衣服は、ずぶ濡れになったとしても、脱いでかけておけば、すぐ乾く。子供たちなら、土砂降りでも気にせず遊び回る。若者たちは、涼しくて気持ちがよいと、濡れるために散歩に出たりする。
 ハナは空を見上げたが、不思議なことに、それとわかるような雨雲は出ていなかった。
 しかし、少し風が出てきたようだ。無風は気持ちが悪いので、これは有り難い。
 その時、土手下から、子供たちの元気な歌声が上がってきた。
「母ちゃん、母ちゃん、お腹が空いた、背中とお腹がくっつくぞ♪  ごちそう、ごちそう、はーやく来ないと、なくなるぞ♪」
 子供たちがよく歌う、その都度に歌詞が違う即興の歌である。ハナはほっとして、雨の中を数歩、踏み出した。
「お帰り。もう今日は、外に出ないで遊ぶんですよ……」
 その途端、ザクッと鋭い音がして、ハナの足元の地面に、何か突き刺さった。
 まるで黒曜石のような、鋭く尖った石片である。大人の拳よりも大きい。
 危ない。ヒガたちが投げたの?
 とんでもない。きつく叱らなくては。
 それに、この石、このままにしておいたら、誰かが転ぶわ。
 拾おうとして、はっと手を止めた。
 石が熱い。
 触れる前にわかるほど、熱を放っている。
 ハナは顔を上げた。雨に混じって、小さな石が降ってくる。一つや二つではない。見渡す限り、何百、何千。
 それらが地面や茂みに当たって、バラバラと音を立てている。かなり大きな石も混じっているようだ。人の頭くらいのものが。
 強い恐怖と、そして理解が走った。
 これだ。
 わたしが恐れていたものは。
「危ない、みんな家に入って!!」
 ハナは叫び、ぽかんとしている子供たちの手をひったくるようにして引き寄せ、サト小母の家の軒先に飛び込んだ。自分の家に戻るより、こちらの方が近い。
「小母さんも!! 早く、早く!!」
 ハナは足踏みしながら叫んだが、サト小母は不思議そうに、空と地面を見比べている。
「何だろうね。石が降るなんて……」
 ドカンという音がして、サトの頭が吹き飛んだ。拳ほどの石が、血まみれになって地面に刺さる。
 頭を失ったサトの躰は、血染めのまだらになって地面に倒れた。その上にまた、バラバラと石が降る。
 ヒイッ、と小さな悲鳴を吞み込んで、下の息子のヨナが、ハナの腰にしがみつく。
「小母ちゃん、怪我したよ。助けないと、死んじゃうよ」
 もう死んでいる、とハナは思った。
 このままでは、わたしたちも死ぬ。
 昔、あの崖崩れがあった時、逃げ遅れた年寄りが、やはり岩に潰されて死んだ。
 それにしても、こんな小さな石ころで、人間の頭が消し飛ぶとは。少しくらいの勢いでぶつけても、こうはならない。それだけ勢いがあったということか。
 無理もない。あの高みから降ってきたのなら。
 上の息子のヒガは、悲鳴こそ上げなかったものの、蒼白になり、軒下から、石の雨を凝視している。
 野菜が打たれ、果物が打たれ、見慣れた赤茶色の道は、みるまに白や黒の小石で覆われていく。
 二人を両脇に抱えたまま、ハナは見た。左右の山にも、前方の湾にも、世界一面に、雨と石が降り注いでいる。
 空に広がっていた星のかけらが、とうとう落ちてきたのだ。
 あの幅広い帯を成している石が、全て降り終わるまで、誰も外に出られない。
 いや、家の中にいても、無事では済まないだろう。もう少し大きな石なら、屋根も突き破るに違いない。補強しようにも、家の中にはたいした材料はない。
 洞窟だ。
 海岸の洞窟が一番いい。あそこなら、山の端にあたるから、厚い岩盤が守ってくれる。
 しかし、あそこまで行き着けるだろうか。
  途中で、サト小母のように吹き飛ばされるかもしれない。
 この家でしのぐべきか。でも、どのくらい耐えればいいのだ。一日か二日なら、汲み置きの水もあるし、干魚も漬け物もある。でも、それ以上の日数にわたったら。

「どうしたの? 雨?」
 屋根に当たる雨と石の音で、目が覚めたのだろう。赤ん坊に添い寝していたらしいナミが、寝ぼけ眼をこすって奥から出てきた。夜中に幾度も授乳しなければならないナミは、昼間、眠くて仕方ないのだ。
 ハナが遮る前に、ナミは庭に倒れた母親に気がついた。
「お母さん!? お母さん!!」
 裸足で庭へ飛び出そうとするナミを、ハナはかろうじて抱き止めた。勢いを増した雨に混じって、無数の小石が降り注いでいるのだ。
 地面に刺さり、あるいは跳ね返る様子を見ているだけで、かなりの勢いだと分かる。
 まともに打たれれば皮膚が裂け、骨が折れるだろう。下手をすれば、サトのように一撃で死ぬ。
「だめ、外へ出てはだめ!! 石が降っているの!! 出たら死ぬわ!! ヒガ、一緒にナミを押さえて!!」
 ヨナも協力して、ナミを引っ張ってくれた。三人がかりで押さえているうち、ナミも理解した。空から降るものが、母親を殺したのだと。
 それから、恐怖で目を見開いたままで言う。
「うちの人は!? 今日は、集会所に出掛けたのよ。避難の相談をするからって。でも、昼には戻ると言ってたわ。今、どこにいるのかしら!?」
 甘い乳の匂いをさせるナミを、両腕で抱きしめながらハナは言う。
「大丈夫よ。集会所の屋根は、ここより丈夫だわ」
「でも、もし、帰る途中だったら!? どこかに隠れられたかしら!?」
「もちろん、隠れてるわよ。木の下か、誰かの家にじっとしてるわ」
 じっとしていてくれればいい。でも、ナミの夫のイノは、若い妻と、生まれたばかりの娘を熱愛している。妻と娘を心配するあまり、無理をして戻ろうとしていたら。
「お母さん、これ、空から落ちてきたけど、石じゃないよ」
 どこかへ離れていたヒガが、軒伝いに戻ってきて、掌に載せた白いものを見せた。
 ヒガの掌に、水が溜まり始めている。
 ハナはそっと指で触れて、確かめた。冷たい白い塊が溶けて、水になっていくのだ。
「これが、雪? 氷?」
 ヒガはこんがり焼けた顔に、不思議なものを見るときの、心を奪われたような表情を浮かべている。
 ハナたちは、話に聞いたことしかない。はるかな北の土地では、冬場、空から白く冷たいものが降るのだと。大地は一面、白く冷たいもので覆われるという。池には、堅い透明な蓋ができるとか。
 雪と氷。
 どちらも、水が冷えて固まったものだという。暖かい所では、溶けて水に戻るのだと。
 これがそうなのか。
 では、星のかけらの中には、水が冷えて固まったものが混じっていたのか。
 空の帯の中で、たまに日の光を反射して光っていたのは、これだったのかもしれない。
「ヒガ、危ないから、外で何か拾うのはやめなさい。奥へ行って、ユウナを見ていましょう」
 ナミ一家が寝るのに使う部屋には、木の台に板を張った寝台が三つあり、いずれも蚊帳がかけてある。その一つに、小さなユウナが寝かされていた。外の騒ぎを知らず、祖母の死にも気づかず、ぐっすり寝ていてくれるのが有り難い。
 ナミは崩れるようにして、ユウナの寝台の前に座り込む。
 ナミに水を飲ませ、少し肩を撫でて、落ち着くのを待ってから、ハナは息子たちを手招きした。
「ヒガ、ヨナ、おいで」
 蚊帳をめくって、サト小母の使っていた寝台に座り、まだ細くて子供子供した息子たちを左右に座らせ、ハナは一息ついた。
 さて、何と話そうか。
 そうしている間にも、雨は強くなり、屋根を次々に石が叩く。石は軒先に転がり落ち、庭に層をなして積もっていく。
 この災厄は、まだ始まったばかりだ。
 はるかな南の海のどこかにいるタキも、はたして無事で済むかどうかわからない。
 この石の雨は、どのくらいの範囲に降り注いでいるのだろう。
 もちろん、無事で済む土地もあるだろう。しかし、かなりの範囲が打撃を受けるのではないか。
 局所的な台風や地震とは違う。もしかしたら、ここよりもっとひどく、大きな石に打たれる土地があるかもしれない。この村にどれだけの被害が出ても、よその土地からの助けは期待できそうにない。
「いいこと、よく聞いてね」
 子供たちの幼い心に、どれだけ伝わるだろう、と思いながら、ハナは言う。
「父さんはまだ、とても遠くにいるから、しばらくは帰ってこられない。だから、母さんは、おまえたちが頼りなの。ヒガ、おまえはお兄ちゃんだから、ヨナと、ユウナの面倒を見てやってね。ヨナはヒガから離れないようにして、ユウナの世話を手伝ってね。もしも、母さんとはぐれることになっても、二人で仲良くするのよ。ユウナのことを妹だと思って、守ってやってね」
 自分が死ぬ、という予感はなかった。しかし、その場合を想定しておくべきだ。サト小母だって、何を言い残す暇もなく、死んでしまったのだから。
 しばらく様子を見て、石が止むようならそれでよし。
 ひどくなるようなら、頭の上に板を渡して、集会所まで行こう。
 そうすれば、男手が集まっているはずだから、屋根の補強もできるだろうし、水汲みにも、野菜採りにも、数人で板を掲げて行くことができる。
 そこでもこらえきれなかったら、洞窟に避難する。
 その状況では、おそらく何人もの死者が出るだろうが、仕方ない。すばしこい子供たちだけでも、洞窟に走り込めればいいのだ。当座の食料を抱えて。
「ぼく、前からちゃんと、ヨナの面倒見てるよ。ユウナのことだって、妹だと思ってるよ」
 ヒガがいくらか傷ついたように言うので、ハナは微笑んだ。
「ええ、そうよね。ちゃんと面倒見てくれてるわ。ヒガは頼りになる。これかせも、ずっとお願いね。母さんを助けてね」
 兄に負けまいとして、ヨナも言う。
「ぼくだって、ユウナのめんどう、みられるよ。だっこできるし、お尻だってふいてやれるよ」
 誇らしさが、胸に溢れた。
「ええ、ヨナも、ユウナのお兄ちゃんだものね、ユウナがしゃべれるようになったら、お兄ちゃんと呼んでくれるわ。楽しみね」
 その時、ズドンという大きな音がして、椀ほどの大きさの石が屋根を突き抜け、空いている寝台にぶつかり、蚊帳を引き裂いた。
 ナミはひっと叫んで飛び上がり、自分の寝台に寝かせておいたユウナを慌てて抱き上げる。目を覚ましたユウナは、声を張り上げて泣き出した。
 ヒガもヨナも恐怖で目を丸くし、屋根に開いた穴を見上げている。そこから雨と小石が吹き込み、壊れた寝台を更に痛めつけていく。
 ハナは左右を見渡し、イノの使う大工道具の箱を隅から引き出した。もう、猶予はないかもしれない。
「ヒガ、手伝って。寝台の板をはがして、みんなが入れるだけの頭覆いを作るの」

 吹き込む雨に濡れながら、ハナとヒガはありったけの板を重ね、縄や麻布でくくり、不格好ながら、小石よけになる盾を作り上げた。
 ナミはぐずるユウナをヨナに預けておき、持てるだけの食料を集め、布にくるんだり、革袋に入れたりして、みんなの背中や腰にくくりつけた。
 石が当たっても怪我の少ないようにと、ありったけの衣類も重ね着する。
 最後に、ヒガの胸に、布でしっかりくるんだユウナを抱かせ、紐で厳重にくくりつけた。
 少年のヒガには重い荷物になるが、背丈からいって、ハナとナミが前後で板を支えなければならない。子供たちは、その間にはさむことになる。
「行くわよ」
 用意ができると、みんなで盾の下に固まり、雨と石の降り注ぐ表に踏み出した。
 既に地面は、くるぶしあたりまで、びっしり小石や氷の塊に埋もれている。ごろごろして、歩きにくかった。
 女二人で頭上に支えた板には、ばらばらと小石が当たり、左右にこぼれ落ちる。板を支える腕に当たる石もある。地面で跳ね返って、足を傷つける小石もある。
 しかし、そんな傷は気にならない。一撃で人を殺すような、大きなものに当たらなければ幸いだ。
 集会所に向けて、道を下る途中に、ナミの兄夫婦が暮らす家があった。そこの軒先に入って、ほっと息をつく。
「兄さん、義姉さん、いる?」
 ナミが声をかけ、中に入る。屋根にはやはり、幾つも穴が開いていた。室内は、雨と氷粒で水浸しである。
「いないわ。やっぱり集会所に行ったのね」
「ちょっと一休みしたら、行きましょう」
 言いながら、裏手の畑の方を見て、ハナはぎょっとした。誰か、男が倒れている。
 背中が血染めになり、腕や足に氷と小石が積もりかけていた。うつ伏せで、顔はわからないが、緑色をした草木染めの服地には見覚えがある。あれは、染め物の得意なヨナが、夫に作ってやった服だ。
 では、家に戻ろうとしていたイノか。
 畑を突っ切り、近道をしようとしていたのだ。
 だが、あれではもう、息はあるまい。背中に、あれほどの穴が開いていては。
 いま、ナミに知らせてはいけないとハナは考えた。絶望で、ナミの力が抜けてしまう。ここから動けなくなってしまう。しかし、ナミはユウナを守らなくてはならないのだ。
「ナミ、さあ、行きましょう。集会所に行けば、みんないるわよ。ぐずぐずしていると、また大きいのが落ちてくるかもしれないわ」
「ええ、そうね。それにしても、兄さんも冷たいんだから。わたしたちを迎えに来てくれればよかったのに」
「だって、男の人たちは、石が降り出す前に集会所へ行ったんでしょう。あそこから往復するのは、危険すぎるもの」
 ナミが畑の方を見ないうちにと、ハナは一行を急き立て、また盾をかついで小道を歩きだした。
 途中、何軒かの家に立ち寄って休憩し、また歩き、何とか、海岸近くの広場にある集会所にたどり着く。
 五十年ばかり前、村中で集まって普請した大きな建物で、毎年の台風にもよく耐えてきた。
 むろん、繰り返し補修され、酒や食べ物も常時蓄えられている。普段は宴会や婚礼、葬式に使われていた。よその村からの交易団が泊まったり、島巡りの修行をする若者たちの宿になったりもするので、必要な道具類も揃っていた。
「おお、ナミ、ハナ、無事だったか」
「チビどもも無事だな、よかった」
「おお、その盾はいいな」
 既に集まっていた村人たちが寄ってきて、ナミとハナの手足の怪我を手当てしてくれた。知らない間に、跳ね返った小石で怪我をしていたらしい。
 年輩の女たちがユウナを抱き取ってあやしてくれ、ヒガとヨナには果物や魚の塩漬けを食べさせてくれる。
 ここには若い男、壮年の男が何十人もいるので、屋根の補強もできていた。ここならば、今夜一晩は何とか、命の心配をせずに眠れそうだ。
「兄さん、兄さん、うちのイノを知らない?」
 ナミが小柄な兄を見つけ、夫の行方を尋ねるのを聞いて、座って髪を結い直していたハナはひやりとした。
 いずれはわかることだが、もう少し後の方がいい。ナミは、母親の死を見たばかりなのだから。
「いや、朝に一度、見たきりだ。そこらにいないか? それより、母さんは一緒じゃないのか?」
 逆に問われたナミは、思い出したくない光景を思い出したのだろう。濡れた髪のかかる額を、手で押さえた。
「ああ、石が……石が母さんを殺したの。ハナが見ていたわ。まばたきする間のことだったって……」
 ナミの兄も、その妻も、声を放った。
「母さんが!!」
「あのサト母さんが!!」
 しかし、村人たちのうち、既に何人もが、ここへ避難する途中で死んでいた。
 幼児や病人を抱えて、家から出られない数家族がいることもわかった。
 男たちは迎えに出られるかどうか相談し、頑丈な盾をこしらえたり、雨水を溜める容器を探しに行ったり、近くの畑から野菜を素早く採ってきたりと、分担して動きだしている。
 ぼんやりそれを見ていると、
「ああ、ハナ、大丈夫だった?」
 やはり避難していた従姉妹たちが、びしょ濡れのまま抱きつきにきた。
「ええ、わたしたちは大丈夫。あなたたちも、怪我はなかった?」
「かすり傷よ。だけど、怖かったわ!! 家のすぐ横に、こんな大石が落ちたのよ!!」
「もう少しずれていたら、わたしたち、ぺしゃんこだったわよね」
「いったいどうして、こんなことになったのかしら!!」
「あの星よ、あれが凶星だったのよ」
「星って、岩でできていたのね。それが砕けて、落ちてくるなんて!!」
「冷たい、白い塊も混じってるわ」
「それが、氷ってやつなんでしょ!?」
「いつか見たいと思っていたけど、まさか空から降ってくるなんてね!!」
「話では、空から氷が降る時は、ひらひら舞うように降りてくるはずだったじゃない?」
「それは雪よ。池の水が冷えると、氷になるのよ」
「とにかく、あの星は岩と氷でできていたのね」
 いつも通りにおしゃべりな従姉妹たちに囲まれ、ハナはようやく、自分の夫を心配するゆとりを取り戻した。
 無事でいるわよね、あなた。
 帰ってくるわよね、この災厄が終わったら。

 この列島を船で離れ、西か南へ船で進むと、大陸の端に着く。そこには大きな町や港が幾つもあり、はるか奥地からの商品が商われているという。
 ハナ自身は行ったことがないが、祖父は若い頃に幾度も旅をし、死ぬまで、それらの町を歩いた自慢話をしていた。
 人の言葉を真似する鳥。器用な手を持つ猿。長い鼻を持つ怪力の象。立派な馬具をつけた馬。
 きらきら光る皿に盛られた果物、宝石をはめこんだ首飾りや腕飾り。
 真っ黒い肌に白い歯で笑う人々。白い肌に金色の髪や赤い髪の人々。長い旅をしてきたという、何十人もが乗れる大船。
 その話を聞いて育った父は、憧れやまず、新婚の妻と娘を置いて旅立ったが、その年の交易団はどんな事故に遭ったのか、誰一人戻ってこなかった。
 母は何年も父の帰りを待っていたが、やがて気落ちして、再婚もしないうち、病気で亡くなった。
 ハナは優しい伯父夫婦に引き取られ、従姉妹たちと転げ回って遊んだり、織物の腕を競い合ったりして育ったのである。
 島巡りの旅の途中だったタキと出会ったのは、十四の頃だ。タキは一度郷里の島へ戻り、親の許しを得てから、この村で暮らすためにやってきてくれた……
 けれど、タキもまた、旅に誘われる性格だった。
 二人の息子をもうけて、ある程度心配のない年齢になると、やはり、世界の広さを見るために出ていった。
 それは構わないと、ハナは思う。自分には伯父たちも従姉妹たちもいるし、隣家のナミとも仲良しだし、子供たちも元気だから。
 わたしは待てる。何年かかろうと、帰って来てくれさえすれば……
 悲鳴が上がった。窓辺から、外を見ていた女たちのものだ。
 誰かの家が、降ってきた大岩に潰されたらしい。
 あれだけの岩が降るなら、ここも安全ではなさそうだと、男たちが話し合う。
 ――ああ、神さま。
 全ての命を生み出す、大地の女神さま。
 あなたはご存知だったのですか。空から降る石が、わたしたちを打ちのめすと。
 この石は、あなたのお怒りなのですか。それとも、あなたにも、どうしようもない災厄なのですか。
 子供たちがしおれた顔で寄ってきて、両側にすがりつく。ハナは微笑んで、二人の背中を撫でてやる。
 こんな災厄が来ると知っていれば、タキもいてくれたろうに。
 いいえ、他の土地では、こんなにひどくないかもしれない。タキが安全な土地にいられるのなら、その方がいい。
 空気を裂く音がして、ハナははっとし、子供たちを抱く腕に力を込めた。
 来る、大きなものが。
 大地が揺れ、雷鳴のような音が轟き、人々がなぎ倒された。ハナも子供たちと共に投げ出され、叩きつけられる。
 集会所が傾き、屋根から壁に大きな亀裂が入り、そこから雨と小石が吹き込んだ。
 あちこちで、赤ん坊や幼児が泣く。つられて、もう少し年かさの子供も泣く。怪我をした人々が、うめきながら身を起こす。
 すぐ前の広場に、大きな穴ができていた。吹きつける雨の中でも、その穴からは焦げ臭い煙が上がっている。
「みんな、ここはもう駄目だ!! 洞窟へ行こう!!」
 怪我の少ない男たちが、老人や怪我人をおぶった。女たちは、小さな子供たちを抱き上げる。
 歩ける年齢の子供たちは、空の見張りを命じられた。大きな石が降ってきたら、皆に知らせるのだ。
 それぞれ頭上に板を渡し、あるいは荷物を載せ、小石混じりの豪雨の中を進んでいく。
 試練はまだ、これからなのだとハナは思った。
 この石の雨は、おそらく何日も、ことによったら何十日も続く。
 誰も洞窟から出られないうち、飢えと病気が始まる。もしかしたら、食べ物を奪うための殺し合いも始まる。
 石の雨がやんだ時、生き残っているのは何人か。
 その時には、無事な家や畑は残っていない。苦労して引いた水路も、石を積んで作った港も、台無しになっている。山の獣たちも、どれだけが生き残るのか。
 しかし、生きねば。
 子供たちを守らなくては。

   2

 水位が上がっている。
 海岸の洞窟に避難してから、四日経つ。
 洞窟の入り口ぎりぎりを浸していた海水が、明らかに、これまで届かなかった位置まで上がってきているのだ。
 厚い岩の天井があるので、空から落下する石の打撃にはもちこたえているが、このまま海水面が上がり続けたら、どうなるのか。
 五日目、六日目。
 海水がじりじり上がり、みんなの居場所が狭くなる。
 外は相変わらず、岩と氷と雨が降り続いている。
 地面が岩と氷で覆い尽くされたように、海もまた、かさが上がっているのだろうか。
 また、気温もはっきりと下がっている。もう何日も太陽が出ていないのだから、当たり前だ。太陽の光は、空に広がった岩の帯にさえぎられて、地上まで届いてこないのだ。
 前は雪や氷というものに憧れたハナだが、もう死ぬまで見なくていいと思う。寒い土地で暮らしている人たちは、大変だ。ずっとこんな、肌が縮む思いをしているなんて。
「もっと着る物を持ってくれば、よかったな」
「あの時は、水と食べ物しか心配していなかったから」
 若者たちが、ぼそぼそとしゃべっている。まだ秋口だったから、寒さの心配など、誰もしていなかったのだ。ハナたちは着込んできただけましだが、それでも余分な衣類は、寒そうな女や子供たちに譲っている。
 排泄は、隅にある岩の裂け目から行った。亀裂が深いので、小さな子供の場合は、落ちないように大人が支える。
 困ったのは、月のものが訪れた女たちだった。いくらかの用意はしてきているが、避難生活が長くなると厄介である。布はこっそり、男たちの目に触れないようにして洗った。海水が洞窟の中まで入り込んでいるのが、多少の救いである。
 その分、居場所は狭くなり、遊び盛りの子供たちは窮屈そうだった。騒いで大人に突き当たっては、叱られている。
 水は洞窟の外から氷の塊を拾い、壺に入れておけばよい。
 怖いのは、食料が尽きかけていることだった。空腹が、みんなの顔に表れている。
 大人はまだ我慢できるが、ヒガのような食べ盛りの子供たちは惨めな顔だ。ただ、我慢しなければならないことはわかっているので、じっと耐えている。
 子供たちの飢えを考えると、ハナは身を刻まれる思いがした。いつもあれほど、たらふく食べていた子供たちなのに。
 生き残りの村人たちが、洞窟から海面に網を投げたり、釣り糸を垂らしたりしているが、魚はほとんどかからなかった。この石の雨に驚いて、海の深くへ潜ってしまっているのだろう。
 捕まえられるのは、小さなカニや貝だけだった。それでは、ほとんど足しにならない。
 ついに、子供たちの一人が飼っていた犬が殺された。子供は泣いたが、仕方ない。連れてきた山羊も鶏も、もう食べてしまったのだし。
「いつまで続くの、これは」
 ユウナを抱いたナミが、低くささやいてくる。
「ハナ、あんたは予感が働くでしょ。崖崩れも、舟の遭難も当てたでしょ。迷子も見付けたでしょ。教えてよ。いつになったら止むの」
 ナミはどこかの時点で、夫のイノが戻らないことを納得したらしい。泣くことは少なくなり、代わりに目が据わってきた。ユウナのことだけ、しっかり抱き続けている。
「わからないわ」
 ハナは答えた。言っても、いい結果にはならない。ハナの勘では、この石の雨はまだ数十日続く。
 水面が、更に上がってきた。
 みな洞窟の奥にひしめきあい、砕けた珊瑚礁のかけらの上で身を寄せ合う。
 洞窟の外から風が吹き込むと、寒さで震え上がった。この島では、真冬でさえ、これほど寒いと感じたことはない。
  ハナは、子供たちとくっついて眠った。ヒガとヨナは細いが、温かい。空腹で力が出ないので、昼も夜も、くっついてうとうとしている方がいい。
 やがて、若者たちが決死の食料調達隊を結成した。村に戻り、畑や家から、食べられるものを取ってこようというのだ。
 六人が頭上に板を渡して出ていき、四人だけが戻った。四人も怪我をしていたが、芋や野菜や衣類を持ち帰ってくれたので、村人たちは涙を流して感謝する。
 次は五人出ていって、三人しか戻らない。持ち帰った食料も、たいした量ではない。
 あと何回、これを繰り返せるか。
 石に打たれて傷だらけの若者たちが、次は老人の番だと言い出した。
「この調子で、俺たちがみんな死んでみろ。誰が村を再建するんだ」
 彼らがそう言うのはわかる。各家の年寄りたちが、出掛けることを承知した。子供や孫のためだ。
 ナミはユウナを抱いて、隅で黙っていた。幼い子供のいる女は、行かなくていいとハナは思う。これから子供を産める、未婚の女たちも。
 でもわたしは、いずれ行かなくては。
 さもないと、ヒガとヨナが飢え死にしてしまう。
 年寄りの戻る率は、少なかった。やはり、足腰が弱いからだとハナは思う。それでも、五人のうち二人が戻り、干した魚や海藻、芋類を持ち帰ってくれた。
 次は、中年の女たちの番だ。村の大人が全滅するまで、これを繰り返すことになるだろう。
 ハナはヒガを呼び、くれぐれも後のことを頼むと言い残す。
 ヒガはしゃくりあげながらも、約束した。
「わかってる。ヨナとユウナを守るよ」
 他の女たちと、頭上に厚い板を掲げて外に出た時、ハナは驚いた。景色が一変している。浜も野原も、道も畑も、見渡す限り、大小の岩や小石に埋もれている。氷の塊もあちこちにある。それが溶けかけて、石とくっついている部分もある。
 脚を踏み出すと、ざくざく、ごろごろする。何度も足を取られて、転びそうになる。
 海は海で、無数の波紋に覆われていた。海の底にも、無数の石が降り積もっているだろう。
 板を盾にした女たちは、どうやら村までたどり着いた。
 家は無惨に壊れ、畑も道も、石と氷に厚く覆われてしまっている。だが、山の斜面の畑は何とか無事だった。
 手分けして、畑の土を掘り起こし、食べられるものを探している間も、雨と氷と小石が降り注ぐ。小さなかけらが当たっても、ざっくり皮膚が切れてしまう。ゆっくり手当をする暇も ないので、全員、血だらけだ。
 それでも帰り道では、奇跡的に全員揃っていた。
「運が強いわ、あたしたち」
「早く戻ろう」
 死んだ鳥と、野菜の入った籠を背負い、板を頭上に渡して、ごろごろする石と氷の上を歩いていく。転んでも、また起き上がる。
 しかし、洞窟まであと少しのところで、ナエが大きな石に打たれた。助けようはなかった。躰に大穴が開いてしまったのだから。
 ナエの運んでいた食べ物は飛び散ってしまったので、皆で手分けして拾う。ハナは悪いと思ったが、ナエの着物をはいだ。血で汚れてしまったが、洗えば、小さな子供たちをくるんでやれる。空腹だと、寒さが耐え難いのだ。
 残った皆と板を掲げ、ようやく石の当たらない洞窟に入ると、ほっとした。今回は、何とか生き延びられた。
「母さん!!」
 ヒガとヨナが、泣きながらしがみついてくる。
「怪我してるよ。痛いでしょ」
 ヒガが自分の袖で、頭に流れる血をぬぐってくれた。
「大丈夫、たいしたことないわ」
 あともう少し。
 ハナは、そう感じるようになったきた。先が見えてきたのだ。今日までと同じくらいの日数を耐えれば、石の雨は止む。まだ人は死ぬが、村は再建できるだろう。

 翌日の晩、ハナは誰かに肩を揺すられて、目を覚ました。
 暗くて、誰だかわからない。けれど、低いささやき声でわかった。若者の一人、ゲンだ。
 子供たちに潜り方や、舟の扱い方を教えてくれた、遠縁の若者である。もっとも、村の者は、ほとんど親戚同士なのだが。だからこそ、タキのような、外部の若者の血が大切なのだ。
「なあ、いいだろ、頼むよ、ハナ」
 低くかき口説きながら、ゲンはハナの乳房をまさぐってくる。ハナは驚いた。
 狭い洞窟に何十人もひしめき合っているのだから、これまでも、若者と娘が、隅で何かしていることはあった。回りは眠ったふりをして、知らん顔していたものだ。そのくらいのことは、避難生活が長引けば、やむを得ない。
 しかし、子供が二人もいる女に、挑みかかってくるとは。
 目当ての娘には、振られたのか。それとも、好きな娘は死んでしまったのか。
 すぐ隣で、ヒガとヨナが寝ているというのに。
 こんな時に、よくも。
 ハナは腹が立ったが、多少の哀れは感じた。次はまた、若者が外に出ていく番だ。これが最後の楽しみ、とゲンは覚悟しているのかもしれない。それならば、一度くらいは許してやるべきなのかも。
 だが、夫のタキが帰ってきた時、もしも自分が、他の男の子供を産んでいたら。
 そんなことには、なりたくない。タキはわかってくれるかもしれないが、きっと悲しい顔をするはずだ。
 それに、昨日の昼間、不運なナエの着物をはいだことが、まだ頭に残っていた。
 ナエの躰はもう、石と氷に埋もれてしまっているだろう。そして、無意味に腐っていく……
 勿体ない、という思いが浮かんだ。
 勿体ない。
 今からあそこまで引き返し、ナエの骸を掘り起こすのは無理だ。あの時、かついで戻ればよかったのに。
 今だから、わかる。これまで、何という、勿体ないことをしてきたのか。
  老人や怪我人が死ぬ度、冥福を祈っては、洞窟の外に捨ててきた。そして、石の下に埋もれるままにしてきた。
 食べ物が尽きれば、みな死ぬのに。
 人も、死ねば肉ではないのか。
 ハナの頭は冴えた。
 恐怖もためらいも、飢えには勝てない。
「ここじゃだめ。子供たちが起きるから」
 そして、ゲンの手を引くようにして、洞窟の端へ向かった。雨が吹き込むあたりから、外の様子をうかがう。
 外は夜の闇だが、空には、うっすらと光があるような気がした。月が出ているのかもしれない。
 ハナは雨の幕を透かして、空に目を凝らした。天に広がる岩の帯の隙間から、星も幾つか見える。
 やはり、岩の帯は薄くなっているのだ。これだけ雨と石と氷が降り注いだのだから、砕けた星のかけらも、残り少なくなっているに違いない。
 あと少し。飢えずに生き延びられれば。
「おい、危ないぞ」
 ゲンが心配そうに、ハナの腕を掴んで引き戻す。
「岩の出っ張りの下なら、大丈夫よ」
 ハナが落ち着いているので、ゲンも安心したようだ。
「さ、ここで」
 と岩壁に背中をつけて着物の裾をまくり、脚を開いてゲンを誘った。ゲンはすぐさま、むしゃぶりついてくる。
 こういう時の男は、哀れなほど無防備である。ゲンの体熱は、ハナに、娘時代を思い起こさせた。タキと最初に出会った頃。
 しかしハナの右手は、とうに尖った石ころを探り当てていた。ゲンに恨みはない。こんなことがなければ、頼もしく気持ちのいい若者、というだけだったろう。
 ごめんなさい、許してね。
 いえ、許してくれなくてもいい。
 わたしはただ、子供たちを守るだけだから。
 ゲンの頭に、尖った石を振り下ろした。ゲンはぎゃっと叫んで、洞窟の外に転がり出た。
 ハナはゲンを追って雨の中に飛び出し、無我夢中で石を振り上げ、繰り返し彼の頭や顔に叩き付けた。
 骨が砕け、肉が潰れる手応え。だが、それを悔やむようなゆとりは、もうない。
 やがて、動かなくなったゲンの足を掴んで、洞窟の内側に引きずった。ずぶ濡れになったが、自分が石に当たらなかったのは、幸いだ。この肉を、子供たちに食べさせるまでは死ぬものか。
 しかし、重くて、これ以上動かすのは無理だ。助けが要る。
 石の雨が岩壁に叩きつける音のせいで、眠っている村人たちは、ゲンの悲鳴に気がつかなかったようだ。
 ハナはそっと奥に戻り、ナミの寝場所を探り当てた。
「ナミ、起きて。一緒に来て」
 どうせ、料理をする女たちには隠せない。刻んで煮込んでしまえば、子供たちにはわかるまい。
 運良く、石に当たった犬が死んでいた、とでも言えばいい。それとわかる骨だけ、料理中に拾って捨てておけばよい。薪ならまだ、戸板に隠れて外に出れば、近くの茂みで何とか手に入る。
 眠るユウナを置いて洞窟の端まで出てきたナミに、ゲンが石に当たって死んだ、と説明した。
「無駄にするのは、勿体ないわ」
 と言うと、ナミはすぐわかってくれた。もう、乳もほとんど出なくなっているのだ。ユウナのためには、まずナミが生き延びなくてはならない。
「手伝うわ。あと何人か、起こしてくる」

 翌日、村人たちは久しぶりに、煮込んだ肉を食べた。子供たちは喜んだし、大人は誰も、余計なことは言わなかった。問題はただ、次に誰が犠牲になるか、ということだけである。
 あと半月、と初めてナミは皆に話した。
 空の石が、だいぶ少なくなっている。あと半月、ここでしのげばよいと。
 石の降り方がまばらになれば、食べ物を求めて、もっと遠出することもできる。海にも、魚が戻ってくる。
 災厄の峠は越えた、とナミは話した。あと、もう少しの辛抱だと。

 ついに、太陽の光が地上に届いた。
 雨が切れ切れになり、空を覆っていた石の帯も、はっきりと薄くなっている。落ちてくる石や氷も、かなり減っている。
 地上を埋めていた無数の石ころも、氷が溶けた分だけ、かさが減っている。
 ただ、水面は前より高いままだった。洞窟の入口が、ほとんど海面に沈んでしまっている。
 陸に降った水と、溶けて流れた氷の分、 そして海に降った石や雨の分、海は増えたままだろう。
 村人は、元の人数の半分ほどになっていた。だが、若者と子供たちは大部分、生き残っている。怪我人は多いが、今日まで死ななかった者たちは、回復するだろう。
 村は、再建できる。
 犠牲になることを受け入れてくれた、年寄りたちのおかげだ、とハナは思っていた。
 グン伯父も死んでくれた。子供たちのために。
 彼らが進んで身を捧げてくれたから、避難生活の最後の日々、無秩序な殺し合いにならなくて済んだのだ。
 生活が落ち着いたら、石碑を作り、慰霊の儀式をしなくては。
 子供たちはいずれ、災厄のことを忘れて、村中を走り回るだろう。だが、大人は忘れない。そして、何とかして語り継ぐ。自分たちが、どうやって生き延びたかを。
 村の決まりとして、代々、受け継がせていこう。避難所を用意して、食料を蓄えておくことを。
 ヒガにもヨナにもユウナにも、繰り返し、言い聞かせておこう。自分の子供や孫に、この災厄のことを語り伝えるようにと。
 いつかまた、遠い将来、空から石の雨が降る。
 自分が年老いて死んで、子供たちも死んで、その子供たちも死んで、この災厄が遠い昔話になってしまった頃に。

 石の危険がほとんどなくなると、まずは皆で、集会所の建て直しをした。一軒ずつの家を建てるより、その方が早い。海が高くなった分、元より高い位置を選んで、整地する。
 男たちは山から木を切り出し、女たちは畑から石を取り除いた。子供たちも、それぞれに手伝いをした。薪集め、貝拾い、幼い子供たちの世話。
 山の木々も、畑の果樹もかなり傷んでいたが、生き残った動物たちが戻ってきて、罠にかかるようになった。
 石の下で枯れていた野菜も、太陽の光が当たると、新しい芽を伸ばしてくる。魚も戻ってきた。気温はまだ例年よりだいぶ低いが、重ね着をしていれば済む。
 翌年の春。
 青い海の上に、帆を張った船の群れが見えた。
 ハナは家の前の土手からそれを眺め、涙をにじませる。
   あの人が帰ってきた。
 きっとそうだ。ここ何日も、胸がどきどきしていたもの。
 別れていた家族が、また一つになる。
 大地の女神よ、感謝します。天からの災厄は、あなたにも、どうしようもなかったのですよね。わたしたちは、生き延びました。どうか、次の災厄まで、この記憶が受け継がれていきますように。

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