ブルー・ギャラクシー 泉編

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泉編 1 ダイナ

 最初は、その男性が誰だかわからなかった。
 屋敷の玄関ロビーの奥にある大階段の手前で、こちらに背中を向けて立っていたから。
 短い黒髪をしていて、着ているものは、よくある濃紺のビジネススーツ。ただ、こちら向きのヘンリーお祖父さまと親しげに話していた様子から、
(一族の誰か)
 だとは思った。
 他都市にいて滅多に会わない、第二世代か第三世代のおじさまが来訪したのだろう。
「ああ、ダイナ、お帰り」
 あたしを見たお祖父さまが声をかけてくれたので、その人物もあたしを振り向いた。その途端、あたしはぎょっとして、足が止まってしまった。
 うそ。
 何が起きたの。
 これは……シレール兄さまよね。そっくりな親戚の誰か、じゃないわよね。
 だけど、髪が……背中まであった長い黒髪が、ばっさり切られてしまっている。前髪が幾筋か、はらりと額に垂れるだけの、ただの短髪になっている。普通の男の人みたいに。
 どんな天変地異!?
 生まれてから今日まで十八年、あたしは長い髪の兄さましか、見たことなかったのに。料理や何かをする時は、きちんと後ろで一つに束ねていた。それが、兄さまだと思っていたのに。
 あたしが凍りついているのを見て、見知らぬ兄さまが言った。
「どうした、挨拶も忘れたのか?」
 この静かで皮肉の効いた言い方は、まさしくシレール兄さま。ようやく、声が出た。
「兄さま……あの……ただいま……ただいま帰りました。ちょっとだけ、なんだけど……」
 あたしは自分の部屋に、残りの荷物を取りにきたのだった。
 基礎教育と、それに続く研修期間が終わり、本格的にヴェーラお祖母さまの秘書を務めることになって(一族の総帥であるお祖母さまには、本物の有能な秘書が三人いる。あたしは四人目の、秘書見習いだ。うまく何年か務めれば、見習いから本採用になるはず)、この屋敷から、職場になるセンタービルの一室に引っ越すことになっていたから。
 屋敷から通えないわけではないけれど(地下道を通って車で通勤すれば、二十分くらいのもの)、職場住み込みの方が仕事に集中できるし、夜中や早朝の呼び出しにも素早く対応できるから。夜間の緊急対応は、まず下っ端のあたしがするべきだとお祖母さまに言われた。
「どうして……どうして……」
 つい一週間ほど前まで、兄さまは長い髪をしていたはず。
 ここ何日かは、あたしがお祖母さまの第三秘書に連れ回されて、あちこち挨拶や下見に出歩いていたから、会っていない。あたしがなぜ驚いているのか、何を疑問に思っているのか、兄さまにもわかっているはず。
「役目が終わったからだ」
 兄さまが、にこりともしないまま言う。まるきり、どこかの冷徹なビジネスマンか……違法組織の幹部みたいに見える。あたしにホットケーキやアップルパイを焼いてくれたことなんか、一度もないみたいに。
「おまえはもう、わたしの手を離れた」
 それは、お弔いの鐘のように聞こえた。あたしと兄さまの立つ大地に、深い亀裂が走ったように響く。兄さまが、亀裂の向こうの対岸に遠ざかる。
「今度からは、マダム・ヴェーラがおまえの上司であり、監督者だ。わたしは子育ての任務を終了したから、髪を切って願掛けをほどいた」
「願掛け……?」
 言葉の意味はわかる。神さまに何かをお願いすること。
 けれど、兄さまは宗教なんて信じていないはず。
 古代の宗教は、生きることの辛さや、死への恐怖を紛らわすための発明だったと、兄さまから教わった。人類が科学技術を進歩させたので、宗教の必要性は薄れ、今ではごく一部に残っているだけだと。
 横から、お祖父さまが優しく言う。
「ダイナ、シレールはおまえが一人前になるまで、祈りを込めて、髪を長くしていたのだよ。おまえが無事、成人するようにとね。おまえの学業が終わって、職業生活がスタートしたので、いったん区切りをつけたのだ」
 そうなの?
 そんな願いが込められた髪だったの?
 知らなかった。それは、とても有り難いけれど……おかげで今日まで十八年、何とか無事だったけれど……まるで、宙に投げ出されたような気持ち。
 これからはもう、関係ない存在だ、と宣告されてしまったようで。
 お祖父さまに、きちんと挨拶をするようにと促され、慌てて、見慣れない男性に頭を下げた。
「シレール兄さま、今日まで育てて下さって、ありがとうございました……色々、とっても、お世話をかけました。おかげで、ようやく一人前に……いえ、まだ半人前ですけど、これから一生懸命、仕事を覚えます」
 兄さまの、よく磨かれた靴の爪先を見て言いながら、あたしの頭の周りには、激しく疑問符が飛び交っている。
 兄さまは、いつまでもあたしの兄さまでしょ? 家族でしょ?
 まるで契約期間が切れたみたいな、他人みたいなこの挨拶、何の意味があるの?
 本当なら、成人のお祝いにケーキを焼いてくれるとか、一緒に祝杯をあげるとか、楽しい雰囲気のイベントがあってもいいんじゃない?
 けれど、たまたまここで会わなければ、この会話すらできなかったのだ。
「では、しっかり働いて、皆の役に立つように」
 と言い残して、シレール兄さまはお祖父さまに何か確認してから、去っていった。車で外出するらしい。
 兄さまもここ数年は、徐々に一族の仕事を増やしていたから、自分の職務に向かうのはいいのだけれど……
 あたしがお祖父さまを振り向くと、温厚な黒髪のハンサムは、見慣れた苦笑を浮かべた。あたしが悪戯や失敗をすると、お祖母さまや兄さまたちにとりなしてくれた時と同じ。
「シレールは、おまえと距離を取ろうと努力しているんだ。自分が甘い顔をしていては、おまえがすぐ、甘えに帰って来ると思っているんだろう」
 まさか、いまさら、べたべた甘えるなんて。
 そんなこと、したくても、できない。
 兄さまは、あたしが十四、十五歳になった頃には、めっきり冷たくなっていたのだから。

 それから三日、四日、一週間、一か月、秘書見習いの仕事に忙殺されるうち、兄さまの断髪姿を見たショックは、徐々に薄れていった。
 兄さまは好きで長髪にしているものと思っていたけれど、そうではなかったんだ。子育ての責任を果たすまではと、約束の印のように髪を伸ばし、養育係に徹してくれていただけ。あたしから解放されたら、普通の独身男性の生活に戻りたいんだ。
 男性の長髪なんて、歌手とか芸術家とか、よっぽど特殊な人でなければ、あえて望まないものね。
 でも、屋敷に戻れば、兄さまはいるはず。昼間は外回りに出ていても、夜には帰宅して、くつろいだり、読書したりしているはず。
 けれど、ようやく半日、休みをもらってセンタービルから屋敷に戻ってきたら、夕食の席にシレール兄さまの姿がない。ヘンリーお祖父さまとヴェーラお祖母さま、それにマーカス大伯父さま夫妻はいるのに。
「あの、シレール兄さまは?」
 と尋ねたら、サラ大伯母さまがあっさり言う。
「一昨日、《サラスヴァティ》に出発しましたよ」
 この《ティルス》から何日もかかる、姉妹都市へ。それも短期の旅行ではなく、数年の予定の赴任だという。
「向こうで、業務の補佐役が必要なのでね。シレールが行けば、ヴァネッサやリカルドたちが楽できるわ」
 まさか。そんなこと、誰も教えてくれなかった。お見送りさえ、できなかった。
 あたしが口もきけないでいると、マーカス大伯父さまが、苦笑して言う。
「ダイナも、そろそろ親離れしないとな。シレールがいなくとも、我々がいるのだから、何も困ることはないだろう? 通話なら、いつでもできるのだし」
 困るって。通話って。
 そういう問題じゃ。
 仕事のことは先輩秘書に聞けばいいし、愚痴はお祖父さまや大伯父さまが聞いてくれるけど、あたしの落ち着く場所が……帰る場所がない。
 いくら冷淡でも、兄さまが屋敷にいるのといないのでは、大違い。
 食事の後、ふらふら二階に上がって、兄さまの部屋に行ってみた。中庭を見下ろす居間と寝室、書斎。
 きちんと片付いているのはいつも通りだけれど、よく机の上にあった手帳とかペンとか、愛用の品々がなくなっていて、廃墟のように物寂しい。
 悪いと思いつつ、そっとクローゼットを開けてみたら、日常着のシャツやスーツ類があった場所が、大きく空いている。
 主がいない部屋が、こんなに空虚だなんて。
 しかも、数年? そんな長期の赴任、あたしに何も言わずに行くの?
 それが、区切りをつけたということ?
 あたしはもう、兄さまの妹じゃないの?

 それでも、毎日、仕事に駆け回らなくてはならなかった。秘書見習いとして、あちこちに使い走りに行く。付き合いの古い組織との会合の下準備、新規参入の弱小組織の代表者との面談。
 付き合いの長い相手との会合の場合、初回だけは先輩秘書が連れて行って紹介してくれるけれど、次からはあたしが《ティルス》の総督代理ということになる。失敗はできない。こちらから伝えるべき内容は伝え、向こうの言い分を聞き、お祖母さまの元へ持ち帰れる案件なのか、その場で断るべき案件なのか、判断できなくてはならない。
 お使いの内容も、少しずつ高度になっていった。あたしの裁量に任される部分が、徐々に増えていく。
 公園の植栽の再検討。ビル改装の認可。清掃部隊のチーム再編。組織間の契約の仲介や立ち会い。暗殺事件や乱闘事件の後始末。百万都市を維持するための仕事は、無限にある。
 やがて《ティルス》の管制宙域を守る防衛艦隊の演習計画の作成や、その実施を任されるようになった。
 子供の頃、確かに艦隊指揮≠ニいうものに憧れていたけれど、実際にそれを担当する段になったら、かっこいいとか勇ましいとかではなくて、ひたすら細かい調整の繰り返し。もろに事務仕事。
 事前に他組織の艦隊の移動状況を把握したり、兵器のお試し演習をして性能を把握したり、現場指揮官の話を聞いたり、艦長の配置換えをしたり、新入りの技術担当者と面談したり。
 全てうまく進行して当たり前で、何かトラブルが発生したら、あたしの責任。
 夜、しばしば、仕事の夢を見るようになった。会合に遅刻しそうになって、焦って知らない建物内をさまよう夢とか。何か大事なことを連絡し忘れていて、大事故を起こしてしまった夢とか。
 目を覚まして、悪夢だったとわかると、心底からほっとする。
 実際には、先輩秘書たちがそれとなく注意してくれるし、管理システムの補佐もあるから、まあ滅多に大失敗はないのだけれど。
 自分で気付いてはっとするような、細かいミスならたくさんある。三つ連絡すべきところを、二つしか伝えていなかったとか。後にしようと思って忘れ去り、締め切りぎりぎりで思い出したとか。
 その都度、
(次は気をつけよう)
 と自分に誓い、管理システムにも記録するから、少しずつ進歩はしていると思う。都市内で発生する細かいトラブルの解決も、かなり自分の裁量でできるようになってきた。
 わからないこと、判断に迷うことは、それぞれの部署の責任者であるおじさまや、おばさまたちに尋ねればいい。
 総勢で三十人ほどの一族が、手分けして三つの小惑星都市と、それに付随する工場群や防衛艦隊、輸送艦隊を切り回している。
 人数的には、本当に最小限の布陣だ。あたし一人の参加であっても、
「とても助かるよ」
 と年輩者がみんな言う。
 眠ることも忘れることもない管理システムが控えているからこそ成り立つ、綱渡りのようなもの。
 一族の人数を増やすことには、最長老である麗香姉さまが、厳しい関門を設けている。
 一族内で新たに生まれる子供は、姉さまが遺伝子操作で生み出す、最新鋭の強化体だけ。
 一族の誰かと結婚して入り込む場合も、麗香姉さまやヴェーラお祖母さまたちの許可が要る。軽はずみな恋愛沙汰では、絶対に一族の内部には入れない。
「人数を増やすと、内部崩壊する」
 というのが、麗香姉さまの昔からの考えだ。
 だから一族は、勢力範囲を三つの姉妹都市とその周辺の無人星系だけに限り、拡大しない。
 その代わり、研究部門に力を入れ、高度な技術力を保ち続ける。
 その最小人数で他組織と張り合い、交渉し、時には戦闘になることもある。
 本格的な戦闘は滅多にないけれど、都市運営の邪魔にならないよう、防衛艦隊や、各星区に伏せてある予備艦隊を動員して、速攻で片付ける。
 それができるのは、常に最新鋭の戦闘艦を配備し続けているから。
 一族の指揮下で働く人員は、あちこちでスカウトする。中央から出てきて、違法都市をうろうろしていた若者とか。若返りを求めてやってきた老人とか。
 働かせて適性を見たり、配置換えをしたり。
 時には裏切り者の記憶を抜いてから、追放することもある。きちんとした待遇をしているつもりでも、不満を持つ者は出るものだとわかった。人は、自分のことを客観的には見られないものだから。
「人事が一番、難しいのよ」
 とヴェーラお祖母さまは言う。
 能力の低い者は、それを自分できちんと認識できない。だから、能力の高い者が、他人の能力を正確に判定し、相応の場所に配置するべきなのだと。
 つまり、あたしも、十分な能力を示さなければ、一族の中での落ちこぼれと判定されてしまう。
「ダイナ、あなたは十分に有能よ」
 と麗香姉さまは言ってくれるけれど、それには励ましが籠もっている。自惚れてはいけない。あたしは、常に自戒していた。何よりシレール兄さまに、
「自惚れたら、命を失うぞ」
 と戒められて育ったのだから。

 無人星系での採掘基地や研究施設の新設、他組織の動向に関する情報収集など、仕事の幅は広かった。短い睡眠で足りる強化体だから、何とか勤まるようなもの。
 あたしが秘書として名乗る名前は、クレシンダと決まっていた。ダイナという本当の名前は、一族の中でしか使わないものだから。
 あたしが他組織に素顔をさらしていいかどうかは、また一つの問題だった。
 紅泉姉さまと探春姉さまは、正義の味方のハンターとして世界に存在を知られてしまっているから、辺境で暮らす一族との関係を、外部に知られないよう厳重に注意している。《ティルス》に戻ってくる時も、他人に跡をたどられないよう、用心を重ねている。
 でも、あたしに関しては、市民社会で顔をさらして活動した期間は、ごく短い。これからまた、司法局に仕事を頼まれるかどうかも、わからない。
 必要な場合は整形なり変装なり出来るのだから、今から神経質にならなくてもいいでしょうと言ってくれたのは、一族の最長老である麗香姉さまだ。
「今のあなたは、違う名前で呼ばれるだけで、十分疲れているでしょうからね」
 一族の元になった第一世代の科学者たちの、唯一の生き残り。
 本人は伴侶を持たず、子供も産んでいないけれど、数百年にわたって一族を導いてきた女性なので、敬意を込めて「大姉上」とか「お姉さま」とか呼ばれている。
 年齢的には、第二世代のお祖母さまやお祖父さまよりはるかに上だ。自分自身を不老処置の実験台にしてきた人でもあり、一族の誰も、姉さまには頭が上がらない。
 第四世代の末っ子のあたしなど、ひよこもいいところ。
 それで、あたしは素顔のまま、精々、かつらとサングラス程度の偽装で、あちこちに顔を出す。他組織の幹部たちにも、総帥秘書のクレシンダとして覚えられていく。
「その調子で、あと何年かは勤めなさいね。その後はまた、あなたに相応しい役目を考えます」
 と麗香姉さまは言う。
 一族の総帥であるヴェーラお祖母さまも、麗香姉さまの計画の枠内で動いているにすぎない。
 真の権力者は、真珠の首飾りの似合う、この麗しい黒髪の貴婦人だと、あたしも小さい頃から承知していた。
 怖い者知らずに見える紅泉姉さまが、唯一、この貴婦人には畏怖混じりの敬意を示していたから。

 一族の第一世代である麗香姉さまは、はるか昔に地球で生まれたという。たった一つの惑星上に、たくさんの国家≠ェひしめいていた時代に。
 第二世代以下はみんな、後になって辺境の宇宙で生まれたから、人類の故郷である地球のことは、映画や歴史書や観光映像でしか知らない。
 麗香姉さまが生まれた当時の地球は、大移民時代の初期だったという。
 人類がようやく、太陽系の中で、他惑星の探査や開発を行えるようになっていた頃。
 その頃の地球には百億人近い人間が溢れ(何という過密。信じられない!!)、争いが絶えず、疫病が流行り、資源は枯渇しかけ、自然環境は汚染されていたから、新天地が欲しいという情熱は、今のあたしたちには想像もつかないほど強かったらしい。
 人類は、まだ未熟な技術で外宇宙探査に乗り出し、繰り返し、各方面に調査船団を送り出した。
 歴史資料で当時の宇宙船を見ると、信じられないくらいちっぽけで、お粗末なものだ。
 こんな玩具みたいなものに命を託すなんて、ご先祖さまたちは、途轍もなく勇敢だったのだ……さもなければ、途方もない楽天家。
 やがて他の恒星系で、有望な地球型惑星を幾つか発見すると、彼らは総力を結集して移民の準備にかかった。そして、短期間のうちに必要な技術を開発し、志願者を募り、悲惨な失敗を繰り返しながらも、何とか外宇宙移民を成し遂げた。
 いったん他星系に足がかりができると、あとはもう熱狂的な移民ラッシュ。
 汚れた地球を捨てて、新しいエデンの園を創ろう、というわけ。
 けれど、科学者だった姉さまは、人類がいずれ、遺伝子操作で自分自身を作り変えていくのが当然の時代がくると考えた。そして、それを認めない人と、推進する人に分かれるはずだと。
 常識が変わる。
 正義も変わる。
 姉さまは科学者仲間をまとめ、野心的な資産家たちからの協力を得て移民団を結成し(それは、ほとんど詐欺だったかもしれない。実際に新天地に到着した者は、姉さまが、それに相応しいと認めた者だけだったらしいから)、一気に遠い辺境の宇宙に出た。そして、そこで生活の基盤を築いた。
 どこからの干渉も受けない、独立した小惑星都市。
 地球時代の古い道徳に縛られることなく、あらゆる研究や探求が認められる場所。
 そこでは、不老不死を目指す人体改造や、人造生命の研究が大きな柱となる。
 当然、自分たちを守る武力も必要となる。生活基盤や研究成果を横取りしようという連中は、繰り返し襲ってくる。
 やがて、辺境には、そういう自由都市が幾つも誕生した。そして、法に縛られたくない人々を集めて繁栄した。
 一番の売り物は、不老処置や人造奴隷。
 あたしが育った都市《ティルス》も、そういう自由都市の一つ。地球周辺の中央$ッ域にまとまって存在する市民社会からは、違法都市と呼ばれ、恐れられているけれど。
 違法都市は決して、荒んだ暗黒都市ではない。
 法律も道徳もないから、個人レベルの殺人や抗争は野放しだけれど、強い者たちが合意して、大枠となるピラミッド構造を作り上げたから、それなりの秩序はある。
 強い者こそが、正義なのだ。
 勝った者が、全てを取る。
 それが嫌な者は、古い価値観が残る市民社会に引き返せばいい。そして、老いて死んでいけばいい。
 でも、あたしの尊敬する紅泉姉さまは、そういう冷酷な『正義』を嫌って、『弱い者を守る』ことを理想とする市民社会の側に付いた。
 あたしだって、心を持つ奴隷を使い捨てにすることが、いいことだとは思わない。簡単に他人を殺したり、洗脳したり、奴隷化したりする世界は、恐ろしい場所だと、よくわかっている。
 あたしはたまたま、都市を支配する特権階級に生まれたから、手厚く保護されて、無事に育つことができただけだ。例外的に恵まれている。もしも市民社会に生まれて、単身で辺境にやってきたとしたら、どんな苦労をしたことか。
 それでも、辺境には辺境の存在理由がある。
 ここでなければ、あたしも紅泉姉さまも、探春姉さまも、強化体として生まれることはできなかったのだ。
 普通人よりはるかに強健で、活力に溢れ、長生きできる肉体。
 有機体としての限界はあるけれど、不老処置を繰り返していけば、おそらく、何千年でも生きられる。それ以上の年月を望むことも、不可能ではない。
 生まれながらに、こういう特権を持っているのだから、市民社会に生まれるよりも、はるかによかったと思う。
 あたしは市民社会で学生生活もさせてもらったので、両方を冷静に比較できるようになった。
 中央の市民社会は、表面上、平和だけれど、実際には、違法組織の目に見えない触手が無数に侵入している。
 政治家や財界人や軍人への誘惑、洗脳。科学者の誘拐。逆らう者の抹殺。
 市民たちは、その実態から目をそらせている。
 口では平和とか正義とか言うけれど、強力な違法組織と、まともに戦う勇気を持っている者は滅多にいない。もし違法組織に食い物にされることになったら、普通の市民は、まず助からない。
 だったら、辺境にいて、戦う準備をしていた方がいいのではないか。
 力を持たない者がお題目を唱えても、何の助けにもならないだろう。
 だから、今のあたしのすることは、この都市を経営するお祖母さまやお祖父さまの手伝いをして、実務を覚えること。そして、一人前の大人になること。
 いずれは、一族を支える柱になれるように。
 必要なら、辺境を支配する連合≠サのものとも戦えるように。
 あたしが一人前になれば、ヴェーラお祖母さまだって、あたしの意見を重んじてくれるようになるだろう。シレール兄さまだって、あたしを一方的に叱りつけたりできなくなる。
 そう思って、ずっと努力してきたのだけれど……
 側に居て見守ってくれるはずの兄さまが、遠くへ行ってしまうなんて。
 そりゃあ、こちらから通話はできるけれど……あの時の様子では、
『何の用だ。手短に話しなさい』
 と冷たく言われそう。
 事実、兄さまからは何の連絡もないまま、時間が過ぎていく。
 あたし、もしかして、何か間違っていたのかしら。
 兄さまは、一族内での義務だから仕方なく、嫌々、あたしの世話をしていただけだったの?
 あたしを手放して寂しいなんて、かけらも思わないのかしら?

 ヴェーラお祖母さまの実務教育は、厳しかった。
 あたしに何かをやらせてみて、失敗したら、なぜ失敗したか分析させる。成功しても、特に褒めてもらうことはない。出来て当たり前。すぐにまた、別の任務を与えられる。同じ失敗は、二度と許されない。
 あたしは予定表を見ながら走り回り、他組織との付き合い方を覚え、都市内のあらゆる仕事をこなしていった。
 やがて見習いから、一人前の秘書に昇格した。
 仕事着のスーツも地味一辺倒から脱して、少し華やかになった。大きめのイヤリングも付けられるようになった。給料も増えた。人に指示を下すことにも慣れた。
 それに対する不満は、聞いたことがない。
 あたしの昇進や、指揮ぶりに不満があっても、それを簡単に口に出す者はいないということだ。
 そもそも、総帥付きの秘書という立場自体、普通は何年も働いて、能力や功績を認められ、やっとたどり着く場所。小娘がいきなり見習いになること自体、特別扱いに他ならない。
 都市内の職務をこなす何百人もの一般職員からすれば、あたしは支配者一族の一人なのだ。
 だから、あたしの発した言葉は、あたしが思うよりもずっと重く、彼らに受け止められてしまう。用心して、言葉を選ばないといけない。軽薄な態度も、よくない。特権階級の一員だからこそ、慎重に振る舞わなくてはならないのだ。
 何度か痛い目を見て、それを思い知った。一般の職員と友達になろうとして、それは無理だとわかったのだ。
 あたしが遊びに誘えば、彼らは付いてくる。業務命令だと考えて。くつろいでくれと言っても、彼らは緊張している。本音を話してくれと望んでも、それが不利になるのではないかと身構える。
 じきに、理解した。あたしは彼らに、無理なことを要求しているのだと。
 一族の中でしか、本当の名前を使わないというのは、そういうことだ。
 あたしがダイナとして振る舞っていいのは、一族の間だけなのだ。

 気がついたら、二十歳を幾つも過ぎていた。
 何か失敗しても、もう、子供だからという言い訳はできない。
 長寿者の多い辺境では、まだまだひよっこだけれど、それなりに責任を負わせてもらっている。自分でも、かなり成長したと思う。
 だから、そろそろ、シレール兄さまに会いに行ってもいいのではないだろうか。
 おかげさまで、ダイナも一人前になりましたと、改めて挨拶できるのでは。
 兄さまは《サラスヴァティ》に赴任したきり、通話もしてきてくれないけれど、あたしが休暇をとって遊びに行くくらい、許されるはず。兄さまも、《ティルス》のお祖父さまやお祖母さまには、きちんと業務上の報告や、時候の挨拶をしているというし。
 他の秘書たちに留守を頼み、あれこれと仕事の手配をつけ、ようやく2週間の休暇をもらって、あたしは自分の船で旅に出た。
 今はもう、自分専用の戦闘艦も持っているのだ。護衛艦隊は、お祖父さまに貸してもらった。子供の頃なら、この船旅だけで大はしゃぎしたことだろう。
 でも、今はまだ少し不安。
 兄さまに会ったら、どんな挨拶をしよう。
 もう、昔にみたいに、飛びついて甘えることはできない。一人前の淑女だもの。
 でも、四、五年分のあれこれを報告し、差し向かいでお茶を飲むことはできるだろう。食事だって、できるかもしれない。
 そうだ、久しぶりにケーキを焼こう。それを手土産にすればいい。
 あたしが大人としての礼儀をもって接すれば、兄さまだって、お客としてもてなくてくれるはず。
 航行中の艦内で、試作品のケーキをたくさん作った。一番うまくできたレモンケーキを、箱に入れておく。
 それから明るいクリーム色のワンピースを着て、金色のボレロを羽織った。
 子供の頃は兄さまに、深緑色や灰色の地味な服ばかり着せられていたので、一人になった直後のあたしは、怨念を晴らすかのように、赤やピンクやオレンジの服を買い込んだものだ。忙しい新米秘書としては、暗い色のスーツの下に差し色としてあしらうか、わずかな休日の気晴らしに着るかが精々だったけれど。
 そういう挑戦が一巡りすると、やはり赤毛には落ち着いた緑や、ブルーグリーン、深い紺、茶色や煉瓦色、モノトーンが似合うことを再認識するようになった。特に緑は、あたしの目の色を引き立てる。
 でも今日ばかりは、特におめかしして、明るい服にした。真珠のイヤリングもつけた。これなら兄さまでも、趣味がいいと認めてくれるだろう。もしかして、
『綺麗になったな』
 くらい、言ってくれるかも。
 びっくり目≠フ童顔には変わりないけれど、我ながら、少しは大人っぽくなったと思う。年上の女性たちを手本にして、香水や宝石類も、少しずつ増やしている最中だし。

 艦隊が《サラスヴァティ》管制宙域に入ると、普通に上陸許可を得て、乗艦を桟橋に付けた。
 都市の総督であるヴァネッサ叔母さま夫妻には通話で挨拶したけれど、シレール兄さまには内緒にしてくれるようお願いした。
 兄さまには予告せず、びっくりさせてやるんだ。以前、あたしが兄さまの断髪にびっくりしたように。
 センタービルの管理責任者をしているサーシャ叔母さまが、シレール兄さまの居場所をあたしに教えてくれた。兄さまは湖に面した屋敷を持っていて、そこで寝起きし、必要な時だけ外出するという。
 繁華街を避けて、広大な丘陵地帯を車で抜けていくと、緑の森に囲まれた細長い湖に出た。湖畔には隠れ家のような小規模ホテルや、他組織の幹部たちの屋敷が散っている。
 季節は秋なので、水遊びをする人影はないけれど、湖上を行く船は何隻か見えた。紅葉し始めた木々が、湖水に鮮やかな影を落としている。
 入り江に面した兄さまの屋敷も、湖に突き出した桟橋を持ち、中型のクルーザーが停めてあった。あれに乗せてもらうのも、楽しいだろう。
 屋敷の管理システムにはセンタービルから連絡が行っていたので、あたしはすんなり屋敷の地下に車を入れられた。ケーキの箱を持って、階段を上がる。
 屋内は白とベージュ、焦げ茶を基調にした内装で、上品な家具や絵画で飾られていた。あちこちの花瓶には、赤い薔薇やピンクのコスモス、白い百合や紫の桔梗も生けてある。いかにも兄さまの趣味。あたしが小さい頃も、いつも花を飾っていた。
 兄さまはどこだろう。今日は仕事は休みで、屋敷にいるはずだと聞いた。湖の見える部屋で、お茶でも飲んでいるかも。
 居間らしい部屋の扉が開いていたので、そっと入ってみた。誰もいない。でも、お酒の瓶とグラス類がテーブルに残されていた。それから、板張りの床に転がっている片方だけのハイヒール。深い青紫の、優美な靴だ。
 あたしはそこで、立ち尽くした。
 目の前の現象は見えているけれど、頭が理解を止めている。
 そのまま、何分間、凍りついていたものか。
 扉の向こうにある奥の部屋で、人の動く気配がした。誰かが、こちらへ歩いてくる。それも、複数の気配。
 あたしはパニックを起こし、来た道をいっさんに駆け戻った。車に飛び乗り、屋敷から走り去る。
 林道を闇雲に飛ばしながらも、心臓が激しく脈打ち、頭ががんがんしていた。理屈での理解より、肉体の反応の方が正直なのだ。
 しばらく走ってからようやく、ケーキの箱を紛失していることに気がついた。
 でも、もう、あそこへは戻れない。
 戻ったら、絶対、見たくないものに直面する。
 あたしは森の中で車を停め、深呼吸して、心を落ち着けようとした。少なくとも、サーシャ叔母さまや総督夫妻に挨拶しなければ、この都市を去ることはできない。
 ダイナ、冷静になりなさい。
 兄さまには、付き合っている女性がいるのよ。ただ、それだけのこと。
 何度も深呼吸したけれど、それでは足りず、拳固でぽかすか自分の頭を叩いた。
 何という馬鹿。大馬鹿のダイナ。
 子育てから解放され、一人暮らしに戻った兄さまが、恋人を作ることを考えていなかったなんて。
 礼儀からいえば、きちんと二人に挨拶するべきだ。でも、出直す勇気などなかった。恥ずかしくて、顔も合わせられない。昔のまま、兄さまを独占できると思うなんて。

2 シレール

イラスト

 まあ、いつかは来るはずの時だ。
 それにしても、あんなに慌てて逃げなくてもいいような気がするが。
 床に落ちている箱を取り上げ、蓋を開いてみたら、手作りらしいケーキが入っている。レモンクリームを塗った表面には、蜂蜜浸けらしい、薄切りのレモンが敷き詰められていた。わたしが教えたレシピの通りだ。
 デコレーションは少し崩れてしまったが、食べるのに支障はない。ダイナが作ってくれたものなら、大事に食べよう。
「わたしの靴、どこかしら」
 素足のまま、ハイヒールの片方を持った泉が、バスローブ姿で現れた。
 昨夜、ここのソファでもつれ合った後、わたしが抱えて寝室へ連れていったので、靴がばらばらに落ちることになったのだ。
「あら、それはなに?」
 わたしは箱をテーブルに置いた。冷静な声が出せるといいが。
「ケーキだ。後で食べよう。いま、取り落としてしまって、少し形が崩れたが」
「あら、珍しい。あなたが取り落とすなんて……」
 泉は疑わず微笑んで、近くの床から靴の片方を取り上げた。
「支度してくるわ」
 と言って、自分の寝室に消える。
 この屋敷には既に、彼女専用の部屋があった。衣装も靴も宝石も、山ほど揃えてある。
 ほとんど、わたしが贈ったものだ。一族の女性が愛顧する店であつらえた、四季おりおりのドレス。宝石類。真珠に翡翠、ピンクの珊瑚、サファイア、ルビー、エメラルド。
 端麗な黒髪の美女に相応しい、選び抜いた品々ばかり。
 欲しいものは自分で買えるようになった娘だが、昔、サマラに教わった心得だ。女は、自分がどれだけ大切にされているか、贈り物で判断すると。それで泉がいい気分になれるのなら、贈り物を積むなど容易いことだ。
 わたしは厨房へ向かい、アンドロイド侍女に指図して、遅い朝食を作らせた。
 ダイナは、戻ってくるだろうか。それとも、このまま逃げ去るだろうか。わたしのことを、女遊びにうつつを抜かす、だらしない男と思っただろうか。昔の厳格さは、ただの体裁だったのかと。
 わたしだって、自分から望んで、こういうことになったわけではない。
 わたしに近付いてきたのは、泉の方だ。
 もっとも、彼女の正体を知ってからも、彼女を遠ざけなかったのは、わたしの選択だが。

 泉と差し向かいで、朝食を済ませた。
 森と湖を見渡せる、明るい食堂だ。入り江の一つを独占しているので、他の建物が視野に入ることはない。許可のない者が、近くに入り込むこともない。
 湖面は昼の光を受けて、穏やかに輝いている。本格的な寒さが訪れる前の、穏やかな秋の日だ。
「ケーキを切りましょうか」
 少し崩れたケーキにナイフを入れながら、泉は一瞬、動きを止めた。しばし考えてから、わたしを見る。
「もしかしたら……ダイナが来たの?」
 勘のいい娘だ。いつかこういう日が来ることも、わかっていただろう。
 ただ、自分がどんな顔をしてダイナに向き合うかは、まだ決めかねているようだった。
「わたしに顔を見せる前に、逃げていった。たぶん、女性の存在に気付いて、動転したのだろう」
 わたしが説明すると、泉の顔に皮肉な笑みが浮かぶ。
「そうだったの」
 しかしそこには、怨念や敵意はなかった。負の感情は、既に浄化されたのだと思う。わたしと過ごした、穏やかな時間のうちに。
 わたしもまた、この娘に癒された。意識してダイナから離れることは、わたしにとっても、かなり辛いことだったから。

 自分から転属を希望して、《ティルス》からこの《サラスヴァティ》に来たのだが、さすがに都市管理の仕事だけでは、自分をごまかしきれない。
 職務から離れた時間、本を読んでも音楽を聴いても、何かが足りない気持ちにまとわりつかれる。元気な足音、無邪気な笑い声。ダイナが小さい頃は、どんなに楽しい日々だったか。
 秘書として働くダイナのことが気にかかり、幾度もマダム・ヴェーラに連絡を取ろうとしては、思い止まることの繰り返し。自立しようとしている娘を、わざわざ引き戻すような真似をしてはならない。
 心に、大きな隙間があったのだ。
 そこへ、泉がやってきた。最初は、取引のある中堅組織の使者として。
 わたしの感傷かもしれないが、この子はどこか、サマラに似ている気がする。それも、わたしを教え導くようになる以前の、まだ完成されていない頃のサマラだ。
 この複雑な世界と、どう折り合っていけばいいのかわからず、体当たりで試行錯誤していた若い娘の頃。
 その頃のサマラはきっと、背伸びして大人の男と付き合い、彼らから、貪るように何かを吸収していたのではないか。
 順送りに、次の世代が同じことを繰り返す。
 今はわたしが、若い娘を教え導く役回りだ。サマラが見たら、きっと笑うだろう。
(シレール、あなたも大人になったものねえ)
 黒髪の娘は、わたしとの間でも、所属組織における通り名の桜≠使っていた。だが、わたしは彼女の本当の名前を知っている。
 牧田泉。
 かれこれ七、八年前、市民社会の女学校を舞台に、ダイナと死闘を演じた娘だ。
 泉はダイナがリリス≠フ縁者だと知らされ、誘拐して人質に取ろうとした。
 少女を操ったグリフィンにとっては、失敗しても損はない、たくさんの試みのうちの一つ。
 市民社会の英雄であるリリス≠捕えたり、殺したりできれば、市民たちの受ける打撃はいかほどか。
 結果、泉は重傷を負って記憶を失い、それでも犯罪者としての刑を受け、ある植民惑星の山奥にある隔離施設に収容された。更正の可能性が高い犯罪者、もしくは心に傷を負った犯罪被害者など、特殊な患者だけを入れる施設だ。
 そこからどうやって脱出したのか、正確にはわからない。
 おそらくは、グリフィンの采配だろう。連合≠フ懸賞金制度を統括する、謎めいた人物だ。特定の個人ではなく、地位を示す称号かもしれない。
 実際に辺境から手を伸ばして泉の脱走を助けた人物は、グリフィンの部下の誰かだろうが、後にバイオロイドの偽者を残し、発覚を防ぐ周到な細工を施した。司法局がいつか囚人のすり替えに気付いても、ここまで泉を追跡してくることはできないだろう。
 泉は辺境の一角で顔をいくらか整形し、声や指紋・網膜紋なども微妙に変え、桜という新しい名を与えられ、中規模組織の新人として舞台に上がった。
 そこから数年で、彼女はぐんぐん昇進し、下級幹部の地位を手に入れた。その昇進速度から見ると、失った記憶の一部は取り戻したらしい。たぶん、ダイナに負けたという屈辱の記憶も。
 そして、泉はこの《サラスヴァティ》へやってきた。艶やかな黒髪を鋭角なボブにし、深紅のスーツに身を包み、真珠とルビーを光らせ、艶然と微笑んで。
「わたし、この街は初めてで、勝手がわかりませんの。よろしければ、食事をするのに良い店を教えていただけません?」

 彼女がわたしに近付いてきた理由の半分は、おそらく、グリフィンの命令だ。
 わたしは多分、リリス≠フ協力者としてマークされている。いくら偽装工作をしても、リリス≠フ活動は長く続きすぎたのだ。
 リリス≠ェ辺境のどこで、どのような援助を受けているか、グリフィンは既に突き止めているだろう。使用した武器や艦隊の特徴を分析すれば、追跡はできる。
 ただ、辺境に根を張るわが一族と、真正面からぶつかることは避けて、偵察しつつ、付け入る隙を狙っているのではないか。
 だが、泉を行動に駆り立てる他の理由も、じきにわかった。
 この娘は、ダイナに対する執着を持っている。羨望、反感、嫉妬、何かそのようなもの。
 想像はできる。学生時代の泉の目に、屈託のない天才肌のダイナは、耐えられないほど、まぶしく輝いて見えたのだろう。
 泉はダイナにたどり着く手掛かりとして、わたしに張り付くことにしたのだ。
 わたしは知らん振りして、彼女の誘いに応じた。わたしの目の届く範囲に置いておく方が、ダイナのためにもなると考えて。
 だが、交際が始まると、わたしは泉を痛々しく感じるようになった。
 この子もまた、漂流者なのだ。
 それが、わたしのいる浜に流れ着いた。
 ならば、ここに居て何の不都合がある。わたしもまた、世話をする誰かが欲しかったのだから。

 《ティルス》で暮らすダイナの様子は、総帥夫妻から聞けた。賢くて強い娘だから、心配はない。予想通り、秘書の仕事もすぐに覚えた。いずれは、新たな総帥になる娘だ。それで当然。
 生きて、元気なら、それでいい。
 少なくとも、ダイナがリリス≠フ一員になるより、ずっとよかった。重犯罪者を狩るハンターなど、命が幾つあっても足りない仕事だ。そんなことは、軍や司法局という組織に任せておけばいい。
 ダイナの戦闘方面の師匠である紅泉が、
『あんたは、別の道を探しなさい。小悪党狩りは、あたしと探春だけで沢山だから』
 と宣告してくれて、助かった。
 一般市民を食い物にする重犯罪者など、後から後から湧いて出るのだから、放っておけばいいのだ。どうせそのほとんどは、もっと狡猾な犯罪者に食われ、淘汰されていく。
 そもそも、繁栄する違法都市を経営している我々こそ、最も成功している犯罪者ではないのか?
 市民社会の禁じた肉体強化や遺伝子操作を、我々はもう何百年も行っているではないか?
 それが悪いとは、わたしは思っていない。科学の恩恵を受けること自体は、当然の権利だ。
 ただ、それが他の誰かに犠牲を強いることなら、それにはいくらかの躊躇を感じる。それが、我々がリリス≠援助する理由だ。
 正義は、人の数だけある。
 紅泉たちの正義≠ェ我々の生存を脅かさない限り、我々も彼女たちの正義≠認める。
 だが、いつかダイナが、一族の総帥を引き受ける時代が来たら?
 ダイナの正義は、一族を守るだろうか。
 それとも、市民社会の理想を重んじて、違法組織を淘汰する方向を望むだろうか。自分の育った組織でさえも。

 ダイナの教育係を卒業したわたしは、《サラスヴァティ》の管理仕事で大半の時間を過ごしている。
 別に、心躍る仕事ではない。
 都市内にオフィスや店舗や工場を持ちたがる中小組織を選別する。繁華街を見て回り、悪質すぎる商売を止めさせる。組織同士の対立が、治安の悪化を招かないよう調停する。土地やビルの賃貸料、つまり上納金をきちんと取り立てる。都市の管制宙域に出入りする艦船の監視をする……
 ほとんどは、神経を使う対外業務だ。
 上の世代の負担を軽くするためにも、第四世代の最年長者であるわたしが引き受けるしかない。
 何しろ、同じ第四世代のシヴァは家出したきりだし、紅泉と探春はほとんど市民社会に入り浸りである。
 第二世代の筆頭である総帥、マダム・ヴェーラは、紅泉たちのことは既にあきらめている。
「あの子たちは、何年経っても、違法都市の経営などする気はないわ。わたしだって、いつまでもこんな重荷に耐えていられないから、いずれ、ダイナに仕事を継いでもらいます」
 ダイナ自身はまだ知らないことだが、それが一族の総意になっていた。
 不老の一族といえど、世代交替は必要だからだ。
 肉体が若くても、心は老いる。飽きる。疲れる。古い考えから、なかなか抜けられない。
 そして、ダイナが新たな総帥となる時、わたしにその補佐を任せるというのが、年長者たちの心積もりだ。
「シレール、あなたなら生涯、立派にあの子の補佐を務めてくれるでしょう」
 ダイナ本人が、それを認めてくれればの話だが。
 現在、マダム・ヴェーラやマダム・ヴァネッサの補佐を、それぞれの夫がしているのと同じこと。
 わが一族は麗香大姉上以来、代々、女性主導なのである。
 過剰に好戦的になったり、つまらない見栄や沽券にこだわったりする男より、緻密で冷静な女性の方が指導者に向く。いざという時の度胸も、女性の方に分がある。
 それならば、わたしが《サラスヴァティ》の中核業務を経験しておくことは、将来、ダイナの役に立つ。
 そう思えばこそ、ややこしい仕事に立ち向かう気力も、少しは湧く。
 そもそも、紅泉や探春の両親たち(第三世代の中核)がこの世界を嫌い、銀河系外移民団を率いて出ていって以来、一族は慢性的に人手不足なのである。
 わたしの恋人だったサマラも第三世代だが、彼女は他組織との抗争で死んでしまった。
 長い年月の間には、他にも何人もの欠員が生じている。だが、新たな誕生には、最長老が制限をかけている。
 やたら人数を増やすと、一族の分裂・弱体化につながるというのだ。
 我々としては、そのうちまた、最長老が新しい子供を創って≠ュれるのを待つしかない。
 一族の新しいメンバーは、麗香大姉上が自分の研究室で創り出す≠フである。
 非常に凝り性な人なので、納得がいく強化体を生み出すのに何年、何十年もかかるのだ。
 もちろん、かつては一族内でも普通の妊娠・出産が行われていたのだが、遺伝子操作による肉体強化が進むにつれ、自然妊娠は困難≠烽オくは無謀な賭け≠ノなってしまった。
 一族内の仕事はトラブルが少ないので(都市に付属する小惑星工場の運営や、都市内のインフラ整備、生態系の管理など)、第二世代と第三世代の年長者たちが(つまり、他組織との戦いに倦んだ者たちが)引き受けてくれている。
 一族の者はそれぞれに遺伝子操作を受けて誕生する上、最新の不老処置を繰り返しているので、肉体的には強壮な者ばかりだが、精神的な疲労は蓄積していく。希望を持つことに倦み、安定を好み、新たな冒険をしなくなる。
 伴侶を失った記憶、大きな失敗をした記憶、友人に裏切られた記憶。
 そういう疲労の沈殿を防ぐには、定期的に記憶を抹消する他ないだろうが、それを望む者はあまりいない。
 喜びと悲しみは表裏一体なので、悲しみだけ消すわけにはいかないのだ。
 わたしもまた、中央の市民たちから見れば老人の部類に入る年齢だが、これでも、一族の中では若手なのである。責任の重圧は、わたしが引き受けていくしかない。
 だが、ダイナと長く離れているつもりではなかった。
 精々、十年。
 そうすれば、育ての親としてのわたしの記憶は、ダイナの中で薄れていくはずだ。
 わたしはいずれ、一人の男として、新たにダイナの前に立てるだろう。その前に、あの子が他の誰かに惚れ込んでいなければ。
 泉は、わたしが予期していなかった因子だった。自分がまさか、こんな風に情を移してしまうとは。

3 泉

 わたしは過去を捨て、名前を捨てた。
 家族も故郷も忘れた。
 拳法の稽古に明け暮れた学校時代も、友達の誰彼も、全て前世のことになった。
 敗北に終わった前世など、思い出すのも時間の無駄。
 いいえ、思い出すと言うのは語弊がある。
 写真や動画、書類や関係者の証言、報道局のニュース番組、ジャーナリストの分析本、司法局の公式記録、たくさんの証拠を見せられて、それが自分の過去なのだと納得しただけの話。
 大量出血による記憶の破壊があったので、十歳以降の記憶は、今も断片的にしか取り戻せないままだ。
 ダイナのことすら、本当に覚えているのか、それとも記録によって知っただけなのか、よくわからない。
 中央星域の植民惑星。首都から遠い山奥にある隔離施設で、わたしは十七歳からの二年あまりを過ごした。
『泉、あなたは重い病気だったのよ。だから、ここで静養しているの』
 とスタッフに言われ、何の疑いもなく勉強したり、ボールや人形で遊んだり。山を巡る小道で、自転車を走らせたり。
 けれどそのうち、不満が生まれた。肉体はすぐに回復し、知的能力も再度、育っていったから。
『わたしはどうして、家に帰れないの。学校に行けないの。町に出られないの』
 病気のせいだからとなだめられては、引き下がり、また不満をふくらませる。
 真実は、わたしが重犯罪者だったからだ。
 生涯、前科者として監視される身の上だったから。

 かつてわたしは、辺境の大物であるグリフィンにそそのかされて――いいえ、それよりは自分の意志で――ダイナを捕まえる役目を負った。
 辺境生まれの強化体であるダイナは、有力議員の娘を護衛するため、わたしの在籍していた女学校に、転入生としてやってきたのだ。
 そのダイナを誘拐して人質に取れば、グリフィンの仇敵であるリリス≠おびき寄せられるという話だった。
 そしてわたしは、ダイナを生かしたまま、首だけを切断して運ぼうとして、失敗した。ダイナの手刀に心臓を破られ、危うくショック死するところだったのだ。
 治療が間に合い、かろうじて命は助かったけれど、わたしは記憶の大半を失って、人生を子供時代からやり直すことになった。司法局の厳重な監視の元で。
 若かったから、肉体の回復は早かった。旺盛な知識欲もあり、失った知識はすぐ補充できた。それと同時に、生来の負けん気も頭をもたげてきた。
『いったい、わたしはなぜ、こんな場所に閉じ込められているの』
『同級生はみんな、大学に進んだり、仕事に就いたりしているのに』
『パパもママも、たまに面会に来てくれるだけで、なぜそそくさと帰ってしまうの』
『どうしてわたし、お祖母さまのお葬式にも出られなかったの』
 わたしの疑問に答えてくれたのは、わたしを可哀想な子供∴オいする施設のスタッフではなく、遠い辺境の宇宙から、違法アクセスによって接触してきた人物だった。
『泉、きみは自分の過去を封印されている。未来も制限されている。本来は非常に優秀なのに、あらゆる可能性を奪われてしまっているんだ。きみが望むなら、わたしが真実を教えてやろう』
 その時のわたしは再教育のおかげで、十四、五歳程度の知的能力を取り戻していた。だから、謎の人物の説明が理解できた。
 ――わたしはまだ何年も、この施設から出られない。
 いつか出られても、生涯、危険人物として監視の対象になる。望む仕事にも就けないだろうし、まともな市民≠ゥらは、友人としても、結婚相手としても忌避されるだろう。
 既に、家族からも見放されているのだ。家族は身内から犯罪者を出したことを恥じ、わたしの存在を忘れようとしている。
 何より、祖母が心労で寿命を縮めたことがわかってしまった。わたしを愛し、将来を期待していてくれた人を、わたしは深く絶望させてしまったのだ。
(ごめんなさい。お祖母さま、ごめんなさい)
 何日も泣き暮らした。何週間も沈み込んでいた。それから少しずつ、感じ方が変わってきた。
 ――どう考えても、理不尽だ。
 今のわたしは、身に覚えのない罪で軟禁されている。グリフィンの手先となり、誘拐未遂と殺人未遂をやってのけた重犯罪者は、わたしの知らない、過去のわたしではないか。
 わたし自身が覚えていない罪のために、なぜ、このわたしが未来を奪われるのか。
 それを見透かしたように、グリフィンから、新たな誘いが来た。
 彼は辺境の宇宙にいながら(本当に男性かどうかは知らないが、男性の声を用いていた)、市民社会の通信ネットワークに侵入し、施設内のわたしにアクセスできる。
『泉、きみが自由になりたいのなら、手を貸そう。ただし、きみがわたしの部下になることが条件だ』
 つまり、そういうこと。
 いったん悪の手先になってしまったら、もう戻る道はない。
 あとは、とことん突き進むだけ。
 こう考えるわたしだから悪いのか、それとも、わたしを許さない市民社会が愚かなのか。

 わたしは指図された通り、他の患者の見舞い客の車に隠れて、施設を出た。後には、わたしにそっくりの、無邪気なバイオロイドの偽者が残された。
 施設のスタッフの異動も重なり(それもグリフィンの手配のうち)、牧田泉の変化に気付く者は、まずいない。
 精密検査によってすり替え≠ェ発覚するのは、一年か二年は先のことだという。発覚しても、その時、わたしの行方は誰にもわからない。
 辺境に出たわたしは、リザードという男に預けられた。連合≠フ権力ピラミッドでも、かなり上層に位置する人物だという。
 そこで再度、必要な教育を受けてから、彼の影響下にある組織に託されたのだ。
 それからは、がむしゃらに働いた。ある程度の地位が得られなければ、辺境に出てきた意味がない。
 人より遅れた分、取り戻さなくては。
 わたしは組織内で何とか昇進し、自分自身の資産も持てるようになった。これなら、いずれは独立して、自分の組織を立ち上げることもできるかもしれない。
 そこでまた、リザードから指図があった。《サラスヴァティ》に職場を与えるから、ある人物に接近するようにと。
 その人物は、連合≠フ仇敵であるリリス≠ヨの手掛かりらしい。
 通常の職務をこなしつつ、その人物と親しくなるのが、わたしの新たな任務。
 その人物、シレールの属する一族には、秘密が多かった。
 三つの違法都市と多数の無人星系を所有することはわかっているが、その他にどれほど、隠れた財産を持っているのか。グリフィンにもまだ、その一部しか探りきれていないらしい。
 何でも、人類が辺境に進出したごく初期に、最初の違法都市を築いた、古い一族だとか。
 拡大主義ではないため、広く知られてはいないものの、彼らの技術水準は高く、権力基盤は堅い。大組織の集まりである連合≠ナさえも、手出しをためらうほどの相手だという。
 だからわたしは、時間を得ることができた。シレールと親しくなり、彼の言動をリザードに報告するための時間。
 その情報をどう使うかは、リザードやグリフィンの考えること。
 シレールという名前も、親しくなってから教わっただけだ。当初は、ランズデールという対外的な通称しか知らなかった。
 黒髪に黒い目をした、理知的なハンサム。
 強化体ではあるけれど、武器を持って戦うことより、勉強や研究を好む人物。
 最初は、ほとんど無理かもしれないと覚悟していた。わたしは到底、妖婦になどなれない。わたしの親より年上だという男性に、取り入る隙などあるのか。
 でも、シレールはわたしを受け止めてくれた。信じられないほど誠実に、忍耐強く。
 もし、彼を失うことになったら……それをもはや、今のわたしは考えたくない。考えるのが怖いのだ。
 計算違いだ。辺境に出てしまってから、こんな感情に囚われるなんて。

 いま、シレールは、はるばる訪ねてきたダイナが逃げ去った後も、恬然として、わたしと向き合っている。ダイナが焼いたケーキを二人で食べるなんて、何という皮肉だろう。
 命より大事なダイナを、追いかけなくていいの?
 あんな女はただの遊び相手だと、言い訳しなくていいの?
 でも、わたしにはそれが言えない。
 シレールを失いたくない。
 最初はただ、リザードに命じられるまま、情報源として利用するだけのつもりだったのに。そして、機会があれば、わたしの記憶と人生を奪ったダイナに、一矢報いるつもりだったのに。
 今ではもう、強さ≠ヨの渇望は消え失せている。憑き物が落ちたかのように。
 強化体だらけの辺境で暮らすようになって、ようやくわかった。
 肉体の強化になど、たいした意味はない。
 辺境では、ほとんどの男女が何らかの肉体強化を行っている。だからといって、何か有利になるというのか。
 成人してから薬品強化や遺伝子操作をしたところで、純粋な戦闘力では、リリス≠フような生まれながらの強化体に及ばない。
 そもそも、人間の肉体では、機械の兵士のパワーに勝てない。
 超人的な闘士であるリリス≠ナさえ、自分で機械兵と戦うより、配下の機械兵をぶつけることをまず考えるだろう。
 健康であることは重要だが、辺境で生き延びるには、肉体的な強さは特に必要ないのだ。
 それよりも、今の若さを保つためにこそ、遺伝子操作を行う必要がある。
 肉体が老いてしまえば、精神も活力を失うだろう。
 わたしがグリフィン陣営に属している限り、必要な不老処置は受けられる。年長の幹部たちは、みな若い容姿を保っている。
 今はそれよりも、わたしがこのままグリフィンの支配下にいるべきなのかどうか……それが、最大の悩みになっている。
 シレールがリリス≠フ側にいて、これからもリリス≠支援するつもりならば、わたしは……
 いずれ、選ばなければならない。
 連合≠フ側で生き延びるのか、そこから離反して、命を狙われる側に移るのか。
 死ぬのは怖い。
 せっかく得た地位や財産にも、未練はある。
 でも、シレールを失ったとしたら、その後、わたしは何を日々の支えにすればいいのだろう?

 落ち葉の散った湖面を、冷たい風が吹き渡り、さざ波を起こしていく。赤や黄色の落ち葉が、森を映す湖の縁取りとなっている。
 この屋敷は周囲に広い私有地を持っているので(それが権力の証だ)、入り江を見下ろすバルコニーにいても、他の屋敷やホテルなどを視界に入れなくて済む。侵入者がいたら、警備システムが警告して追い払う。
 特に大きな屋敷ではないけれど、二人で過ごすには十分だった。岸辺に降りる階段の周囲には、季節の花が咲きこぼれる。今は、赤や白の山茶花が綺麗だ。桟橋からクルーザーに乗って、湖から川へ、そこから別の湖へ、長い船旅に出ることもできる。
 冬には、ハーブの茂る半地下の温室で、暖かく過ごせる。本を読んだり、花をスケッチしたり。わたしの好きな薔薇や百合は、年中咲き続けていて、好きに摘むことができる。わたしの地位では、こんな屋敷を持つのはとても無理。
 頭上に雲がかかり、人工の日照が陰ると、湖面は灰色になり、風の冷たさに耐えられなくなってくる。
 部屋に入ろうかと思っていたら、シレールがわたしのショールを持ってやってきた。それを肩にかけてくれ、わたしの隣に立つ。
 たったそれだけのことが嬉しくて、彼の腕にそっと頭を寄せた。シレールが使う整髪料の、わずかな香りを感じる。それと、上質のスーツの生地の、暖かな肌触り。
 男性に寄り添える喜びを、知らないまま終わるのでなくて、よかった。
 女に生まれてよかったと、ようやく思える。
 子供の頃から、ずっと自分を追い立ててきた。人より強く、賢く、油断なく。そうでなければ、父に認められないと思って。
 今になって振り返れば、子供だった。父を尊敬していたから、特別に愛される娘でありたかったのだ。今の自分ではまだ力が足りないから、振り向いてもらえないのだと感じていた。
 そんなことはない。
 わたしは十分に努力していたのだ。たとえ人生をやり直しても、あれ以上は努力できないだろう。
 だから、もういい。
 わたしは凡人だ。
 これから先も、リリス≠フような、真の英雄には決してなれない。
 何よりもまず、自分が可愛いのだ。
 いつか、出世か愛情かという二者択一を迫られたら、きっと、愛情の方を選ぶ。
 ただ、シレールがわたしのために、自分の地位や生活を捨てることはない。彼の一番大事なものが何なのか、わたしは知っている。
「わたしのこと、ダイナに話す?」
 シレールの腕にすがったまま、尋ねた。彼は、湖を見下ろしたままで言う。
「ダイナが、自分からまた、ここへ来ればね。だが、きみの靴を見ただけで、逃げ帰った。また出直すのに、どれだけかかることか」
 少なくとも、シレールの方から、ダイナを追っていくつもりはないのだ。
 とりあえずは、そのことに安堵した。シレール自身、まだ、ダイナに対して遠慮があるらしい。保護者の立場からは降りたけれど、ダイナからは、まだそのように見られているからだ。
 彼女に反発されるのを恐れるあまり、慎重になりすぎている気もするけれど。
「それだけ、彼女は、あなたを大事に思っているのよ」
 といっても、今のダイナがどう変貌しているか、わたしは知らない。
 かつてのダイナのことも、記録から想像しただけのこと。ダイナがじかにわたしを見た時、どのように反応するかも、わからない。
「育ての親としてはね。もう昔のようには、わたしに甘えられないとわかって、どうするかな」
 それでも、ダイナが強いことはわかっている。精神的にも、肉体的にも。
 すぐに気を取り直して、戻ってくるのではないか。最愛のシレールに取り入った、不審な女の正体を確かめようとして。
 わたしは、怒ったダイナに殺されるかもしれない。シレールだって、選択を迫られたらダイナを選ぶ。
 それなら、すぐにここを立ち去って、二度とシレールに会わないという未来もありうる。
 警戒されて遠ざけられたと報告すれば、リザードも認めてくれるだろう。スパイとしては役立たず、と評価を下げられるとしても。
 でも、そんなことはできない自分を知っている。仕事の合間を縫ってここへ来るのが、今のわたしの最大の喜びだから。
「ダイナが、わたしの正体を知ったら……」
 わたしの不安を、シレールは穏やかに否定した。
「だからといって、きみを憎んだり、殺そうとしたりすることはない。あの子は、きみのことを好いていたよ。きみに重傷を負わせたことを、ずっと悔やんでいた。中央から立ち去る前には、きみを見舞ってもいる」
 そう言われても、わたし自身は、施設でダイナと向き合ったことすら覚えていない。
 気がついた時には、手元にダイナという名前の人形が残っていただけ。
 だから、ダイナの感情を肌で理解したという自信がない。
「それは、わたしが無力な存在になったと思ったから。勝者の余裕で、わたしを哀れんだだけ。こうして懲りもせず、あなたにまとわりついているのを知ったら、きっと怒るわ」
 シレールは苦笑したらしく、上体がかすかに揺れた。
「あの子が、どこかでいい男に出会って、わたしのことなど、どうでもよくなる可能性もある」
 そうだろうか。シレール以上の男姓なんて、わたしには想像がつかない。
 ほっそりした優男に見えるけれど、実際には強化体であり、リリス≠ルどではないけれど、戦闘訓練も積んでいる。学者並みの教養があり、違法都市の采配も任されるほど優秀で、弱点らしい弱点がない。
 いえ、弱点はダイナだわ。
 ダイナを手放すのに彼がどれほど苦しんだか、わたしは知っている。
 いつかダイナが、自分を一人の異性として見てくれることを願って、あえて突き放したのだ。
 今回のダイナの訪問は、その願いが実現する日が近いことを示しているのではないだろうか。
 ダイナが他の女≠フ存在にショックを受け、自分の気持ちを見つめ直したら、きっと気がつく。シレールこそ、自分の求める伴侶であることに。
「きみがあくまでも桜として振る舞えば、ダイナに過去を探られる心配はない。知らん顔して、桜で通しても、わたしは構わない」
 でも、いつまでも演技をするのは無理だ。
 わたしはきっと、何かの拍子に、自分が泉であることを暴露してしまう。そもそもシレールにも、過去を隠し通せなかったのだし。
 とりあえず、その日のうちには、ダイナは戻ってこなかった。翌日になると、ダイナが《サラスヴァティ》を去ったことがわかった。
 対決は、次回以降に持ち越されたことになる。
 わたしも、覚悟を決めなくてはならない。身を引くのか。それとも、無駄に足掻いてダイナに殺されるのか。

 辺境に出てきた当初は、リザードを保護者のように思っていた。彼から辺境の常識や、事業のあれこれを学び、出来のよい生徒だと思われるよう、懸命に努力した。かつて、父の関心を惹こうとしたのと同じように。
 たぶんわたしは、重度のファザコンなのだ。
 けれど、リザードにとってわたしは、たくさんの手駒の一つにすぎないと、やがてわかった。
 彼は他にも、たくさんの新人の面倒を見ているのだ。彼らはそれぞれ任務を与えられ、成果を上げ、連合≠維持するための歯車となっていく。
 辺境に、甘えられる相手などいない。
 自分が強くなり、戦い抜くしかない。
 だから最初は、シレールにも期待は持っていなかった。ただ、ダイナを育てたらしい男、というだけだ。
 でも、彼は、わたしが怯えた小娘であることを見抜いた。化粧とドレスとハイヒールで武装していても、世慣れない乙女であると。
 ようやく二人きりになった肝腎の場面で、わたしが震えを止められないでいると、彼はわたしからそっと離れた。そして、ドレスの紐がずり落ちた肩に、自分の上着をかけてくれ、
「無理をしなくていい」
 と言った。
 わたしは激しい恥辱に襲われ、ますます震えが止まらなかった。覚悟はしていたはずなのに、なぜ、大人の女として優雅に振る舞えないのだ。
 泉から桜になった時、短かった髪をボブの長さまで伸ばすことにしたし、化粧も学び、女らしいドレスも着るようになった。甘い香水を選び、ハイヒールで歩く練習もした。それなのに。
 でも、シレールはまた会ってくれた。
 食事やドライブだけでも、嫌な顔をせずに付き合ってくれた。
 どの時点でわたしの正体を知られていたのかは、今もわからない。彼は知らん顔して、わたしを桜として扱ってくれていた。
 わたしがダイナの首を切断して、グリフィンに引き渡そうとしていたことを、なぜ許せたのか。
 わたしが本当に、シレールに身を許せるようになったのは、初めて会ってから、一年近く過ぎてからだった。
 女は、心が開かないと、躰も開けない。
 彼と二人きりになっても、わたしが震えなくなり、それどころか、自分からしがみつくようになるまで、彼は辛抱強く待ってくれたのだ。
 彼はわたしに、本当の名前も教えてくれた。ランズデールは仕事用の通称で、本当はシレールだと。
 その名前は、彼の属する一族の中でだけ使うものだという。リリス≠フ二人も、本当の名前を持っているのだと。
 わたしの方は、自分が牧田泉であると白状したのは、ごく最近のことだ。どうやってリザードに再教育され、この都市に送り込まれたのか、全て話した。
「あなたの一族について、探れることは何でも探って報告しろと言われてきたの」
 今ではシレールが、わたしの安住の地になっている。リザードに報告することは、シレールが、報告しても差し支えないと教えてくれたことだけ。
 もう、ダイナのことは忘れてもいい。リリス≠フことも、どうでもいい。彼女たちは、わたしとは別の世界に生きている。
 わたしには、世界を変えようなんて野望はない。ただ、シレールとの時間さえ失わなければいい。
 わたしが本当に欲しかったのは、無敵の肉体などではなかった。
 自分が安心して居られる場所。
 ただ、それだけ。
 今のわたしなら、強化処置も不老処置も受けられる。自分が使える艦隊もある。だからこそ、強さへのこだわりがなくなった。
 真に貴重なものは、愛してくれる誰か≠ナはないか。
 皮肉なものだ。泉のまま市民社会にいれば、友達も恋人も、はるかに簡単に手に入ったろうに。
 あの頃のわたしには、慕ってくれる女生徒たちは、ただの重荷でしかなかった。ただひたすら、ダイナの強さと明るさに焦がれた。いつだって、手に入らないものに焦がれてしまうのだ。
 とにかく、自分はここまで来てしまった。いずれ、ダイナとの決着はつけることになるだろう。というより、ダイナがわたしを許さないだろう。彼女の大事なシレールを、わたしが、よこしまな意図で籠絡したと思って。

4 ミカエル

イラスト

「人間は少し、不幸な方がいいのよ」
 それが、麗香さんの考えだ。
「幸福だと、そこに安住してしまう。気持ちがゆるんでしまって、進歩が止まってしまう」
 無力と知りつつ、ぼくは言い返した。
「進歩しなくてもいい、と思う自由もありますよ」
 もうここまででいい、あるもので満足する、という生き方だってあるだろう。
 でも、麗香さんはうっすらと微笑んで言う。
「そして、進歩した誰かに食われるのね」
 その通りだ。
 だから、ぼくも立ち止まれない。
 麗香さんの望む通り、人間の肉体を捨て、超越体として歩み始めている。
 食われるより、食う側に。
 自分が麗香さんの抱えている、たくさんの実験材料の一つとわきまえているからこそ、見切りをつけられないよう、努力しなければならない。
 ミカエル本来の肉体は、既に記憶装置と接続して、その一部となっていた。もう二度と、カプセルの外に出ることはない。
 保存用の液体に浮かぶ子供の肉体は、脳に栄養を届けるだけの存在となり、やがては機能を停止する。
 だがその頃には、その肉体が宿していた脳組織も、もはや用済みとなっている。ミカエルの意識は、記憶装置を起点にして拡大し続けているから、元の脳は、ごく些細な貢献しかしていないからだ。
 現在、ぼくの意識は拡大されて何百もの記憶装置に宿り、互いに融合し、また分裂し、大きな知性体の一部として生き続けている。ある部分は艦隊のうちの一隻に潜み、ある部分は小惑星工場に宿り、また別の部分は都市を歩く人間の一人に擬態して、情報を集め、必要な工作を行う。
 どこの組織で、どんな新発見、新発明がなされているか。
 それを、自分の進化のために利用できないか。
 また、リリーさんを害する可能性がある者を、あらかじめ排除しておくべきか。それとも、好きなようにやらせておいて、最後の瞬間に阻止するべきか。
 更にはその事件を、政治的に利用できないか。軍や司法局の中で誰が昇進すれば、ぼくやリリーさんの利益になるか。
 拡大されたぼくは、毎日、一人の人間には不可能な量の業務をこなしている。グリフィン事務局が数百人のメンバーを抱えて行っている業務を、ぼく一人が全て監視し、援助しているのだ。
 休みのない活動。
 超越体に睡眠はなく、休養もない。
 ある部分が維持管理のために休止しても、他の部分は動き続ける。
 昨日と今日の区切りはなく、今日がそのまま永遠に続く。
 例えて言えば、多くの構成員を抱えた巨大企業のようなもの。無数の事業を行う企業を、たった一人の意志が動かしているだけ。
 やがて、現場の活動を行う部分と、全体を見渡す部分が、自然と役割分担するようになってきた。
 どちらもミカエルなのだが、担当が違う。ただ、しばらく経つと、担当を交替する。
 あまり役割分担を徹底すると、それぞれが専門化しすぎてしまうからだ。すると、統一体としての安定が弱くなる。それが、分裂の危機につながる。
 遠い未来には、分裂こそが自然になるかもしれないが。
 麗香さんは言う。もうしばらく、ミカエルという一つの存在でいた方がよい。分裂すべき時が来たら、その時は自分で決断できるはずだと。
 まだ試行錯誤の途中だが、超越体であることには慣れてきた。ただの少年だった頃が、はるかな大昔であるように感じられる。
 違法組織の奴隷だった頃。脱走の計画を練っていた頃。脳腫瘍という病気を抱え、絶望していた頃。リリーさんと出会い、舞い上がった頃。自分はあれから何千年、何万年、生きてきたのだろうか。
 実際には、わずか数年のことなのだが。

イラスト

 リリーさんは相変わらずハンターの仕事で飛び回り、合間には、ヴァイオレットさんとバカンスを楽しんでいる。ぼくだけが、長い長い遠回りの旅をしてきたかのようだ。
 毎日、ぼくの知識と経験は増える。人間だった頃の記憶は、いずれ、ただの参照記録となってしまうだろう。
 一番の重しとなっているのはリリーさんへの思慕だが、それすらもいつかは風化し、枯れ葉のように粉々になってしまうのかもしれない。
 それがいつなのか、自分でも見通せない。
 それとも逆に、リリーさんへの思いが、人類全体への愛情に進化するのだろうか?
 ありそうにないな。
 人類の大多数は、ぼくにとって、たいした興味の対象ではない。彼らは真にものを考えることをせず、安楽に流れ、覇気を持たないからだ。
 市民社会で安穏と暮らし、自分こそは善人と思い込んでいる者たちよりも、無法の辺境に出て、何とか野心を叶えようと足掻いている小悪党の方が、まだ見所がある。
 まあ、凡人がある日、非凡に変化することもあるのが、人間の面白さだが。
 辺境に生まれ、大勢の小悪党を殺しながら、なおも市民社会の理想を信じるリリーさんは……極めて危ういバランスをとっているからこそ、鮮烈な光を放つ。
 ぼくがまだ、ぼくでいられるのは、この世に貴女がいるからなのですよ。
 貴女のことなんてどうでもいいと思うようになったら、それが、ぼくの人間としての終わりになるのでしょう。

5 ダイナ

 あたしは人生で初めて、無能になっていた。
 《ティルス》に戻ってきて半月にもなるのに、仕事の段取りができない。頼まれた連絡事項を忘れる。何もない場所で転びかける。廊下で人にぶつかる。階段を踏み外す。デスクの上でコーヒーカップを倒す。
 資料を読んでも、頭に入らない。会議で、人の話が聞けていない。先輩秘書からの質問に、答えられない。新しいアイディアを求められても、何も思い浮かばない。
 とうとう、ヴェーラお祖母さまに呼ばれてしまった。
「ダイナ、しばらく休暇を取りなさい。今のままでは、皆の迷惑です」
 総帥の命令は絶対である。あたしは怖々と確認した。
「あのう、いつまででしょうか」
「あなたが冷静になり、職場に復帰できるようになるまでです」
 それでは、いつのことか、自分でもわからない。もう二度と、ここへは戻れないかも。
 戦力外通告を受けたあたしは、ふらふらと、センタービル内の自室に戻った。
 どうしよう。
 一人でこの部屋にこもっていても、落ち込むばかりだ。気分を変えよう。どこかへ行かないと。
 でも、どこへ。
 こんな時、同性の友達が身近にいればと、心から思う。
 中央にいるリーレン・ツォルコフとは、司法局の黙認の上で、たまに連絡を取り合っているけれど、彼女はいま新入社員として、希望する企業に入ったばかりで、忙しい。こんな話、司法局経由の通話回線なんかで話せないし。
 リーレンのことを思い出す時、必ずセットで思い出す泉のことは……
 友達になり損ねたことを、今でも悔やんでいる。
 もしもあたしが、もっとうまく話せていれば。あんな重傷を負わせなければ。
 けれど、記憶を失った泉は再教育施設にいて、新しい人生を歩んでいるのだから、それこそ、接触してはいけない。グリフィンに利用された過去は忘れて、再出発してもらわないと。
 グランド・ツアーで知り合ったルディも、いい友達なのだけれど……彼に相談したらきっと、
『ぼくが一人前になったら求婚しますから、他の男のことなんか忘れて下さい』
 と言うだろう。
 でも、ルディはまだ大学生。これから先、どんな仕事でも選べる。どんな女性とも付き合える。
 もっと大人になったら、きっと冷静になって、辺境の人間なんか伴侶にできない、と悟ってしまうわ。
 うちの一族は、悪質な商売は極力避けているけれど、それでも、人身売買や誘拐や洗脳という仕事をする組織からの上納金を集めているのだもの。
 お祖母さまの秘書をする中で、そういう組織との付き合いも必要なのだと、納得するようになってきた。
 紅泉姉さまたちのように、一族から遠く離れて、市民社会に参加するというのでない限り、あたしもまた、『違法組織の一員』という非難を受けなければならない。
(そうだ、ミカエルなら)
 同性ではないけれど、少年の姿をしているから、話しやすい。ミカエルならば、きっと冷静な助言をくれる。彼自身、恋愛問題で悩んだ経験者だし。

 あたしはミカエルに連絡を入れ、《ティルス》から船で三十分ほどの移動をした。自分専用の船があるから、身一つで飛び乗れる。
「ダイナさんが来てくれたら、賑やかになって嬉しいですよ」
 と言ってもらえたので、一安心。《ティルス》の勢力圏内にある麗香姉さまの隠居小惑星なら、安全この上ないし、あたしがどれだけ滞在しても大丈夫。
 あそこには、麗香姉さまとミカエル、それにミカエルの秘書のセイラ、たった三人しか住人がいないのだ。
 紅泉姉さまとの婚約を取り消した後、ミカエルは麗香姉さまの研究助手として、ひっそりと暮らしていた。セイラはミカエルの身の回りの世話をしたり、庭園の花を集めて香水を作ったり、お使いであちこち出掛けたりしている。
 ミカエル自身は今でも紅泉姉さまを愛しているのに、紅泉姉さまだって彼を愛しているのに、距離を置いて生きるしかないという理不尽。
 でも、それは彼らが選んだ解決策だから、おまえは口を出さないようにと、もう何年も前、シレール兄さまからきつく言い渡されていた。
 その時のあたしは内心で、
(好き合っているなら、障害なんか打ち破ればいいのに)
 と思ったけれど、今は……少しなら、わかる気がする。
 紅泉姉さまは、自分の恋愛の成就よりも、探春姉さまの心の平和を優先したのだ。
 探春姉さまの世界には、紅泉姉さましかいない。
 それが我欲だろうと妄執だろうと、他人の口出しすることではない。
 紅泉姉さまにとっても、幼馴染みの探春姉さまは、魂の半身なのだ。探春姉さまが不幸になる道を、紅泉姉さまは選べなかった。
 それはもしかしたら、姉さまたち三人の、不幸の総量を増やす決断だったかもしれないけれど。

 隠居用の小惑星に着くと、船から車で降りて、ミカエルの住む桔梗屋敷へ向かった。姉さまの薔薇屋敷には寄らなくていいと、通話画面のミカエルは言う。
「麗香さんは、何か研究に没頭したいということで、挨拶にも来なくていいということです」
 それなら、それでいい。どうしても会いたい相手、というわけではないから。
 麗香姉さまはいつも優雅で寛大だけれど、その寛大さは、底知れない冷徹さに裏打ちされている。
 だからこそ、地球を出発してから何百年も、一族の指導者でいられるのだ。
 過去にどれだけの敵対者を葬ってきたか、ヴェーラお祖母さまでさえも、全容を知らないという。
 今現在、どんな恐ろしい研究に没頭しているのか、知らない方がいい気もするし。
 一族には、あたしの後、新しい子供は生まれていない。
 それは、総帥である麗香姉さまが、次の子供の遺伝子設計をじっくり考えているから、のようだ。
『ダイナ、あなたはわたしの最高傑作なのよ。知性と体力のバランスがとれて、人格的にも安定しているわ。あなたを超える子供でなければ、あえて生み出す意味がないと思うの』
 と言われている。
 そんな、無限にハードルを上げていかなくてもいい気がするけれど。
 だいたい、あたしが最高傑作だなんて、このざまを見てから言ってほしい。自分でも、自分に呆れてしまうくらいの情けなさ。
 でも、麗香姉さまにとっては、より優れた子供を創り上げることが、一族を繁栄させる正道だという確信があるのだろうから、仕方ない。
 次に生まれるのがどんな子供であっても、あたしは姉の立場になれるから(それでようやく、末っ子から脱却できる!!)、楽しみにしていることは確か。
『ダイナお姉さま』
 なんて慕われたら、嬉しくなって、何でもしてあげたくなってしまうだろうな。
 ああ、でも、尊敬される姉になるためには、まず、この現状を何とかしなくては。

 ゆるやかな起伏のある広大な緑地帯を走って、和風の別館に着いた。
 エアロダインで一直線に飛んでくれば早いけれど、蛇行する地上のドライブもいいものだ。森や川や小さな滝を見て走ると、宇宙空間の旅が遠ざかる。
 この桔梗屋敷は、ミカエルが自分の趣味で建てたものだ。本物の木材でできているので、いい香りがする。縁側を巡らせた畳の部屋、丸窓に雪見障子、床の間には生け花という日本趣味。
 これは、地球出身の麗香姉さまの影響だろう。姉さまの生まれた日本は、当時、古い伝統と最新の文化芸術、科学技術が入り混じる刺激的な国だったとか。
 ミカエルの設計した庭には丸い築山と、橋のかかった池、椿や山茶花の小道、桜と山吹の小道、涼しげな竹林などが巧みに配置されていた。
 ここの季節は常春だけれど、微妙な温度差はつけてあり、季節の花が途切れず咲くようになっている。ぐるりと歩いていけば、白砂を敷いた石庭も、木立の奥に隠された茶室もある。
 ミカエルはここがお気に入りで、姉さまに呼ばれた時しか、本館には行かない。確かに、とても落ち着く場所だ。ここなら、あたしも頭を冷やせそう。後で、座禅でも組んでみようかな。
 あたしは敷石で靴を脱いで、縁側から座敷に上がり、彼の居場所を探し歩いた。書斎、茶の間、客室。木立と竹間垣の向こうには、離れになっている茶室の屋根が小さく見える。
 屋敷の室内は板敷きか畳のどちらかで、最小限の家具しかなく、見通しがいい。四方が開け放ってあるので、気持ちのいい風が通り抜ける。
「ダイナさん、ここですよ」
 ミカエルは庭石に座り、植え込みの花を眺めていたらしい。白や青紫の桔梗が群れ咲いている。上品で理知的で、ミカエルによく似合う花。
 彼がそこから離れて近付いてくると、あたしは縁側にへたり込み、救いを求めて訴えた。
「ミカエル、お願い、聞いて。あたし、頭が変なの。おかしくなっちゃったの」
 彼は藍色の作務衣を着て、縁側の手前に立ち、困ったように笑う。
「あなたはとびきり、現実的な人のはずですけどね」
 栗色の髪をショートボブにした、女の子のような美少年だけれど、それは彼が自分で、自分の肉体的成長を止めてしまったからだ。
「それが、だめなの。お祖母さまにも見放されて、追い出されてしまったの」
 彼はそんな相談など、毎日受けているという風だった。
「そうですか。ゆっくり聞きますから、まずはお茶でもどうですか。美味しい水羊羹がありますよ」
 彼は元々、知能強化型バイオロイドとして、違法組織の中で誕生した。そして何年か、人間の科学者の助手として使われていた。自分の意志で奴隷の境遇から脱出した今でも、他人に接する態度はとても丁重だ。
 紅泉姉さまに言わせると、それはミカエルが非常に用心深いからだという。奴隷として暮らした年月は、彼に根深い人間不信を植え付けたのだ。
 それでもミカエルは、紅泉姉さまと出会った。彼の人間不信を吹き飛ばすような、強烈な個性に。
 けれど、せっかく紅泉姉さまと愛し合うようになったのに、ミカエルは結局、自分から別れを告げた。
 紅泉姉さまには、探春姉さまがいたからだ。紅泉姉さまを愛することでしか、生きていけない人。
 あたしとしては、探春姉さまの方こそ、身を引けばいいと思ったこともあるのだけれど。
 それは、第三者の身勝手な考えだったと、今にしてわかる。あたしこそ、シレール兄さまの個人生活から距離を置くことができないのだから。
 あたしはミカエルの寛大さに甘え、悩みを語った。
 シレール兄さまが恋人を作り、永遠にあたしから離れていってしまうこと。素直に祝福するべきとわかっているのに、それができず、仕事も手につかないこと。
「そうですか、なるほどね」
 座布団に正座したミカエルは、思い出したように、玉露の茶碗に口をつけていた。
 あたしも正座しているけれど、あと何分、この姿勢に耐えられるか自信がない。秘書のセイラはお茶とお菓子を運んできて挨拶したきり、遠ざかっている。
 セイラはミカエルに相応しい、有能で物静かな秘書だ。そうやって秘書に徹していられるのは、奴隷だった時代の辛い記憶があるからに違いない。バイオロイドとして生まれた者は、大抵の場合、普通の人間よりはるかに辛抱強い。
 たぶんミカエルは、常識的な慰めを言うだろうと、あたしは思っていた。そのうち楽になりますよ、とか、あなたもボーイフレンドを作ってみたら、とか。親が再婚する時の子供は、きっと多かれ少なかれ、こうやって混乱するのだろうから。
「意見を求められたので、言いますが……」
 薄手の茶碗を茶托に戻したミカエルは、宝石のような緑の目で、まっすぐあたしを見た。
 思わず、吸い込まれそう。
 あたしの目も緑だけれど、髪は赤毛の癖っ毛だし、性格がおっちょこちょいだから、逆立ちしても優美にはなれない。その点、彼はさらさらの栗色の髪と冷静な性格をしているから、絵本に出てくる、高貴な少年王子という感じ。
「ダイナさん、貴女は何にでも挑戦する人でしょう。だったら、今回も挑戦してみたらどうです」
「挑戦?」
「つまり、相手の女性に戦いを挑むんです」
 え。
「要は、その女性から、シレールさんを奪い返せればいいんでしょう」
 奪い返す!?
 あたしは空しく口をぱくぱくしてから、ミカエルが、話の要点を掴み損ねているのだと思った。
「違うの。あたし、兄さまの幸せを邪魔するつもりはないのよ。兄さまは、遊びで女性と付き合うような人じゃないんだもの。絶対、その人と、末永く付き合うつもりなんだから……」
「だからこそ、貴女の側に奪回するんですよ。貴女こそ、シレールさんと結婚すればいいじゃありませんか」
 今度こそあたしは、言葉を失った。
 まさか。
 そんな。
 家族と結婚なんか、できるわけない。
 なのに、ミカエルは平然として言う。
「それほどうじうじ悩むというのは、シレールさんを、誰にも渡したくないからでしょう? 気持ちはわかりますよ。だって、ダイナさんにとっては、世界で一番大切な人なんですものね」
 世界一?
 そうなのかしら?
 そういう比較で考えたことは、ないような気がする。というか、比較なんかできなかった。兄さまは、ただ一人しかいないんだもの。
「大事なのは、紅泉姉さまも、ヴェーラお祖母さまも、一族みんなそうだし……友達だって……ほら、あなたのように……」
「もし、何かの事件や災害があって、誰か一人しか助けられないとしたら、貴女はシレールさんを選ぶでしょう?」
 あ。
「幼い頃から、ずっと守り育ててもらったのだから、当然ですよ。しかも、実の父親ではない。ただのお守り役です。成人すれば、対等な大人同士。だったら、体当たりで、その女性から奪い取ったらどうです。失敗しても、今より悪くなるわけではないでしょう」
 世界がぐるぐる回ってしまい、視座が定まらない。
 赤ん坊の頃から、兄さまに育ててもらった。ミルクを飲ませてもらい、げっぷをさせてもらい、お風呂に入れてもらった。兄さまから見れば、あたしは永遠に赤ん坊であるはずだ。誰が、おしめを替えた相手を、恋愛対象にできるだろう。
 でも、ミカエルは当然のように言う。
「貴女の悩みは、恋の悩みそのものですよ。恋愛は戦いなのだから、戦って勝ち取ればいい。戦って負けたら、それはそれで納得できるでしょうし」
 しばらく、立ち上がれなかった。
 ありえないと思う半面、妙に納得してしまい、それしかないという気もしてくる。
 小さい頃のあたしに、毎日、食事を作ってくれたのは兄さまだ。枕元で絵本を読んでくれたのも、夜中のトイレに付き合ってくれたのも、木から落ちた時の傷を手当してくれたのも。蜂蜜を味見しようとして蜂に刺された時も、泣きながら飛んで帰って兄さまに訴えた。
 あの頃があまりに幸せだったから、あたしは、そこに戻りたいのかもしれない。
 それは、恋愛といえるのか。
 ただの甘えではないのか。
「貴女の一族は、みな遺伝子操作で誕生しているのだから、血の近さというのは、考えなくてもいいはずですよ。そもそも、辺境は何でもありの世界でしょう。好きという気持ちがあれば、それでいいのではありませんか」
 だって、好き≠ノも種類がある。あたしはただ、幼稚な独占欲に苦しんでいるだけ。
 恋愛は、いつか、素敵な王子さまとするものと思っていた。ただ、どんな男性が理想なのか、わからなかっただけ。
 会ったらきっと、電流が流れたみたいなショックを受けるはず。少なくとも、恋愛小説や恋愛映画では、そういうことになっている。確かルディも、そんなことを言っていたのでは。
「それとも、このまま泣き寝入りして、何十年も悔やみ続けますか。ダイナさんの人生ですから、ぼくは一向構いませんけれど」
 ミカエル自身は、大好きな紅泉姉さまのことをあきらめた。たぶんそのために、自分で自分を、少年のままに留めることにした。
 大人の肉体になってしまえば、愛欲の衝動に負けてしまうかもしれないから。たとえ探春姉さまを傷つけても、自殺に追い込んでも、紅泉姉さまを奪ってしまうかもしれないから。
 そういう自分を保つだけで、ミカエルは十分に大変なはずだ。あたしの悩みなんて、彼の孤独に比べれば、きっと些細なこと。
 迷いながら、あたしは口を開いた。
「でも……戦うって、どうやって?」
 敵対する組織を潰すとか、テロの犯人を追うとかなら、まだ方策が立て易い。でも、こういう感情の問題は?
「まず、会うことですね。シレールさんと、その相手の人に」
 それこそ、怖くてできないのに。
「ど、どんな口実で?」
「しおらしく、無邪気な妹のふりをして、ご機嫌伺いに行けばいいじゃありませんか。シレールさんに、相手の女性を紹介してほしいと頼むのは、ごく普通のことだと思いますよ」
「会って……それから?」
「懐に潜り込むんですね。祝福するふりをして。そのうち、相手の女性の弱点や欠点もわかるでしょうし。徐々に、二人の仲を裂く作戦を練っていったら?」
 あたしは悲鳴をあげそうになり、頭をかきむしった。そんなの卑劣だ。いやらしい。最低だ。
「あたしが兄さまだったら、そんな妹、嫌いになるわ。とても許せない」
「そうやって嫌われたら、あきらめられるでしょう」
 そんな。
 でも、ミカエルはあたしに、悪あがきしてみろと言いたいのだ。そうしてシレール兄さまに嫌われ、見下されたら、あとはどん底から浮上するしかなくなると。
 それしかないのか。
 ぶつかって、失敗して、あきらめるしか。
 そうしたらあたしは、本当に大人の女性として、自立できたことになるのか。
「ねえ、みんなそうなの? そんなにドロドロしなくちゃいけないの?」
 それって、美しくない。
「ダイナさんがそうやってうじうじしていることが、既に泥沼じゃありませんか」
 そうだけど。そうなんだけど。
 あたしは自分が、もっとさっぱりした気性だと思っていた。明朗快活で、合理的で、前向きだと。これが他人のことなら笑えるし、呆れたりもできるけど、自分で自分が制御できないなんて。
 その時、縁側に人が来た。雪見障子の外に膝をつき、一礼する。
「ミカエルさま、ダイナさま、お夕食は何がよろしいですか」
 上品な桜色のワンピースを着て、首に控えめな金のネックレスを巻いたセイラだ。長い巻き毛の黒髪に白い肌の、しとやかな美女である。あたしは急いで、しゃんと背筋を伸ばす。
「どうも、お世話をかけてすみません」
「いいえ、お客さまがいらして、嬉しいんですよ。離れのお風呂も、いつでも入れるようになっていますから」
「ありがとう」
 ここのお風呂は地下水を熱した温泉なので、いつも楽しみにしているのだ。
 セイラこそ、口には出さないけれど、ミカエルを熱愛していることを、あたしは知っている。でも、ミカエルの気持ちが誰にあるか知っているから、黙って秘書に徹している。
 どんなに苦しい日々かと思うのだけれど、彼女はただ、ミカエルの側にいられるだけでいいと言う。他に、望むことは何もないと。
 人はどうして、なかなか両思いになれないのだろう。それとも、叶えられない想いを抱えている方が、鋭い幸福感を得られるのだろうか。
 夕食が決まると、セイラは一礼して立ち去った。ミカエルも席を立つ。
「それまで、散歩でもしてくるといいですよ。ぼくは少し用事がありますから、また後で」
 ミカエルには彼の研究テーマがあり、麗香姉さまから託された業務もあり、忙しいのだ。一族には大きな研究施設が幾つもあるけれど、そこに委託する課題の幾分かは、姉さまやミカエルが前もって当たりをつけると聞いている。
 知能強化されたバイオロイドって、凄いものだ。これではいずれただの人間≠ヘ、人類社会の傍流になってしまうかも。
 あたしはとりあえず、離れのお風呂に向かった。庭を見ながら入浴できる、露天風呂のしつらえだ。明るいうちからお湯に浸かるなんて、最高の贅沢。
 檜の浴槽で手足を伸ばし、じんわり汗をかくまでお湯に入った。
 自分が思っていた理想の自分に、とても到達できていない。幼稚でみっともないダイナ。
 でも、とにかく、もう一度、兄さまに会いに行くべきだろう。どんな結果になろうとも。それが、くぐり抜けなければならない関門なのだとしたら。

 ミカエルの屋敷に泊まって、朝を迎えた。といっても、あたしは夜明け前に目を覚ましてしまって、和室に敷いた布団の中で、何度も寝返りを打っている。
 やっぱり、今度ばかりは、ミカエルの助言が間違っているのでは。
 彼はとても聡明で、科学技術や政治経済についてなら頼りになるけれど、こと人間関係となると、やはり十分に理解しきれていないのではないだろうか。
 彼はバイオロイドとして生まれ、違法組織の中で奴隷暮らしをしていた。その後、市民社会に保護されたけれど、わずか数年で、また辺境に舞い戻ってしまった。正常な人間関係を、十分に経験したとは言いがたい。
 おまけに、恋をした相手が、普通の女性ではなかったわけだし。
 ミカエルに頼った自分が、やはり気弱だったのではないか。子供の頃は、自分には何でもできると思っていたのに。あのハイヒールの幻影に、まだ打ち勝てない。
 兄さまが付き合う相手なのだから、完璧な才女に決まっている。特別に美人ではなくても、優雅で聡明で、深い叡智を備えた女性だろう。
 そんな人の前に出ていって、どう振る舞える? うんと卑屈になるか、逆に意地悪な小姑になるか、どちらかだ。
 人生修行を、やり直さないと。
 どこかの山奥にでも籠もって、滝に打たれるとか。
 それから改めて、自分の将来を考え直さないと。
 確かに子供の頃は、紅泉姉さまに憧れていた。いつかリリス≠フ仲間に入れてもらうのだと、張り切って戦う稽古をしていた。
 でも、今ではわかっている。いかに超人的な戦士であっても、個人の戦闘能力など、世界全体から見れば、さしたる問題ではない。
 大事なのは、組織力だ。
 紅泉姉さまだって、一族の財力や科学力を背景にしているから、悪党相手の戦いを続けていられる。
 だから、あたしにできる最大の援護は、一族の利益を最大化することだと思うようになった。それならば、お祖母さまの秘書として働くことに、大きな意味がある。母胎となる違法都市の経営がうまくいってこそ、姉さまたちの援護も可能なのだから。
 そう思って、努力してきた。それが、こんなことで挫折するなんて。
 もしかして、人生で初の挫折なのだろうか。
 自分で呆れる。あたしは本当に、何の悩みもなく、うかうかとこの歳まで過ごしてきてしまったのだ。
 悩んだことといえば、泉の人生を壊してしまったことくらいか……それすらも、もう滅多に思い出すこともなくなっていた……
 人生修行の行く先をあれこれ考えながら、起き上がった。あたりはもう、すっかり明るくなっている。
 身支度して食堂に行くと、セイラが楽しげに食卓を整えていた。ミカエルの側にいられることを、心底から幸せだと思っているのだ。
「おはようございます。いま、起こそうと思っていたところです。さっき、アンドロイド兵がダイナさん宛の手紙を持ってきたので」
「ありがとう」
 通話ではなく、手紙とは珍しい。しかも、紅泉姉さまから。
 明るい縁側でその手紙を開いたあたしは、ずしりと重い氷塊を抱いた気分になった。紅泉姉さまらしく簡潔に、大事なことを伝えてくれている。
『司法局から知らせを受けたので、伝えておく。聖カタリナ女学院の卒業生で、ダイナが護衛したリーレン・ツォルコフが、施設にいる牧田泉の見舞いに行って、何かおかしいと司法局に知らせてきた。本来の泉とは、別人のようだと。精密検査の結果、泉と思われていた娘はバイオロイドの偽者で、本物は行方不明と判明した。
 すり替えには数人の職員が関与したらしいが、異動になった者、記憶操作を受けた者がいて、詳しい経緯は調査中。過去の定期診断をクリアしていた点から見て、グリフィン関与の疑いが濃厚。
 牧田泉は、おそらく辺境だ。逆恨みで一族に迷惑をかけられると困るので、この件は、ヴェーラお祖母さまにも伝えておく』
 リーレンは、二度と泉には会わないと言っていたけれど、思い直して、面会に行ったのだ。リーレンにとっては、憧れの先輩だったのだから。いくらその先輩が、犯罪者になったとしても。
 そしてたぶん、妙に素直に、無邪気になった泉を見て、おかしいと感じたのだろう。いくら記憶の大半を失っても、泉の本質までは変わらないはずだと。
 グリフィンの仕業だ。
 泉をまた何かに利用するつもりで、中央から脱出させたのだ。
 でも、ということは、本物の泉は、記憶を取り戻したのだろうか。そしてまた、自らの意思で、戦いの中に乗り出していったのだろうか。それとも、グリフィンにうまく騙されただけなのだろうか。闘志のない者など、利用したくても利用できないはず。
「ダイナさん、おはようございます」
「ミカエル!!」
 白いブラウス姿で現れた栗色の髪の美少年の肩に、あたしは手をかけて揺さぶり、訴えた。
「大変なの。泉が、辺境に脱出したらしいの。あたしが心臓を突き破って、殺しかけた相手よ」
 それでもミカエルは、涼しげな態度のままだ。
「ああ、ええ、前に話を聞いたから、覚えていますよ。それは、リリーさんからの手紙ですか」
 愛する女性からの手紙の方が、ミカエルには重要なのだとわかってしまう。
「ええ、あなたも読んで」
 あたしはミカエルに手紙を渡した。ミカエルが欲しければ、あげてもいい。
 司法局が今から追跡調査しても、手遅れだ。泉はとうに、辺境のどこかにいる。たぶん、顔や名前を変えて、別人として活動しているだろう。
 驚きがおさまると、納得の気分と、火がついたような対抗心が湧いてきた。
 さすがは泉だ。おとなしく、残りの人生を施設で過ごすことなんて、できなかったのだ。
 ふやけていた自分に、電流が通った。頭も冴え、動きたい気分が湧いてくる。悩んでも仕方のないことを悩むなんて、後回しだ。
 泉は、今どこに。
 連合′n列の組織のどれかだろうか。そこで、地位を固めるのに必死だろうか。もしや、あたしへの復讐を考えたりしていないだろうか。
 あたしに向かってきてくれるなら、それは受け止める。受け止めて、もう一度、友達になる努力をする。あの時だって、あたしは泉を殺すつもりなんかなかったのだ。
 でも、もし、あたしを恨むあまり、一族に対して、あるいはリリス≠ノ対して、何か仕掛けようとしていたら? 泉を殺すしか、止める方法がなかったら?
「そういうことなら、まずシレールさんに相談したらどうですか」
 ミカエルに言われ、彼を振り向いた。彼は姉さまの手紙を大事そうに畳んで、胸に押し当てている。一瞬だけ、痛切に、姉さまがうらやましい。
「お祖母さまにではなくて?」
「マダムには、もう知らせが行っているのでしょう。ぼくが心配なのは、あなたの最大の弱点が、シレールさんだということですよ」
 その途端、兄さまが、遠くから狙撃されて死ぬ場面が浮かんだ。あるいは、爆弾を仕掛けられて、車ごと吹き飛ぶ姿。
 こうしてはいられない。
「ごめん、また来るね!! ありがとう!!」
 あたしは叫び、自分の車に飛び乗って桟橋の船に向かう。
 急いで《サラスヴァティ》に行かなくちゃ。でも、その前に通話。兄さまに、用心してと言わなくちゃ。
 いえ、それだけなら、わかったと一言返されて、おしまいだ。それでは足りない。
 そうだ。あたしが兄さまのガードに付けばいい。兄さまに恋人がいても、関係ない。
 それなら、まず押し掛けることだ。これから行くと予告したら、来なくていいと言われるに決まっているんだもの。

5 泉

イラスト

 人間は平等ではない。わかりきったことだ。
 愚かな者、賢い者、勇敢な者、卑劣な者。
 指導者になる者もいれば、命令に従うことしかできない者もいる。特殊な才能を持つ者もいれば、何の取り柄もない者もいる。
 いや、取り柄を求めること自体、価値判断の押し付けになってしまうが。
 いずれにせよ、同じ価値であるはずがない。人に価値をつけるのも、個々の人間なのだから。
 でも、市民社会は欺瞞の上に成り立っている。みんな平等だ、同じ権利を持つのだ、などと。
 だから、民主主義などという制度は、すぐ腐りはてる。
 二流の人間は一流をねたみ、恐れ、ありとあらゆる手を使って、ひきずり落とすからだ。
 そして、世界の大半を占める三流の人間には、二流と一流の区別がつかない。飾り立てた二流を有り難がって、自分には理解できない一流を遠ざける。結果、真に有用な者たちの意見が通らない。
 世界の不幸は、愚か者や卑怯者が高い地位を占めることから引き起こされるのだ。
 それでも、わたしは我慢していた。自分は、この市民社会で生きるしかないと思っていたから。
 良識があるふり、人に優しいふり。教師には信頼され、同級生や下級生からは憧れられる役回り。
 自分でかぶった殻が固くなりすぎて、自分で息苦しくなっていた。わたしはいつまで、このお芝居を続ければいいの。
 いいえ、きっと死ぬまで、この重い殻を脱ぎ捨てることはできないのだろう。本音を口にしたら、市民社会では爪弾きにされてしまう。
 そこへ、ダイナがやってきた。天から舞い降りたかのように、きらきらと好奇心に輝いて。
 圧倒的な知力、体力、そして明るさ、愛らしさ。曇りも汚れもなく、太陽のようにあたりを照らす。自分のしたいように行動して、それがそのまま、理想の少女の姿になっている。
 資質が違う。
 わたしがどれほど努力したところで、足元にも近寄れない。
 なぜ、そんなに朗らかに生きられるの。辺境生まれの強化体のくせに。いえ、それだからこそ?
 あまりにも妬ましく、目障りだった。だから、賭けたのだ。捨て身でぶつかれば、あるいはと。
 でも、無駄だった。
 努力で埋められる格差ではない。ダイナは辺境の特権階級の娘。何百年もの歴史を持つ遺伝子操作の成果から生まれている。最高級の頭脳と肉体を持って。
 けれど、誘拐や殺人未遂の罪で犯罪者となったわたしを、拾ってくれた者があった。
 市民社会ではもはや未来のない身なのだから、その手を取るしかない。弱肉強食の辺境は、いっそ、わたしに向いているのではないか。
 そうして、グリフィンやリザードに仕向けられた通り、わたしはシレールに近付いた。不老の肉体を持つ特権階級の一員であり、ダイナを育てたという男に。
 自分では、ささやかな報復のつもりだった。ダイナ本人には勝てないから、せめて、彼女の大事なものを奪ってやろうと。
 いいえ、本当に奪うことなどできはしないけれど、わずかなりとも、この男に爪痕を残せたら。そのことが、いつかダイナを苦しめることになれば。
 でも、わたしはシレールに癒された。初めて、女として振る舞うことが嬉しいと感じられた。
 美しいドレスを着て、揺れるイヤリングを下げ、彼とダンスすること。
 蝋燭の光の下で向き合って、食事すること。
 強い腕に抱き上げられて、ベッドに運ばれること。
 優しくされるのが嬉しい。甘えられる時間が好き。もはや組織内で出世することよりも、彼との時間を作ることの方が大事になっている。
 こんなざまで、もしダイナに会ったら、どうすればいいのだろう。
 いえ、悩むまでもないことか。ダイナが怒って、わたしを追い払おうとすれば、シレールも当然、それに応じるだろうから。
 彼にとってわたしは、たまたま情けをかけた捨て猫のようなもの。ダイナの心情を害するよりは、わたしを捨てる方を選ぶに決まっている。
 そう思いながら、またしても彼と会うために、湖畔の屋敷へ向かっていた。あと何日の猶予かわからないが、ダイナが乗り込んでくるまでは、わたしがシレールを独占できる。
 彼は最初から、わたしに甘かった。雨の中で、哀れな捨て猫を拾ったかのように。
 わたしもまた、その甘さにすがってきた。まるで、父に甘える娘のように。
 それが、わたしの弱点。
 実の父に見放された痛みを、他の誰かに癒してもらおうとする。そうわかっていて、止められない。砂漠で迷った旅人のように、やっとたどり着いた泉水から離れられないのだ。やがてここにも、苛酷な砂嵐がやってくるのだろうに。

 車を屋敷の地下に入れ、階段を上がって、お気に入りのバルコニーに出た。湖面は冬の灰色に閉ざされ、岸辺に打ち寄せられた枯れ葉も茶色く縮んでいる。
 紫のワンピースの上に、厚手のベージュのコートを羽織っていて丁度いい。足元は、同じベージュのハイヒール。
 市民社会にいた頃、こんな靴を履いたことはなかった。女らしいドレスを着ることもなかった。金のイヤリングや、真珠のネックレスを愛用することも。甘い香水をまとうことも。
 辺境に出て、初めて女装≠ナきるようになったのだ。学生時代は、ひたすら強さを目指していたから。髪は短く、着るものは質素にし、女学校での貴重な男役≠ノ納まっていた。
 でも、そんな突っ張り、本物の男の前に出たら、何の意味があるというのか。
 噂に聞くリリス≠ネら、強さと女らしさを共に持てるのかもしれない。でも、わたしには無理だった。
 もう、疲れることはしたくない。女として暮らしたい。違法組織の幹部として振る舞うだけで、十分な重荷なのだから。
 今夜は暖炉に火を入れて、その前でシレールと寝そべって過ごしたい。カクテルを片手に、好きな映画や小説の話をすればいい。そのうちに彼が、わたしを抱き上げて寝室に運んでくれる。彼の腕の中でなら、身をくねらせ、甘い声を上げる自分を許すことができる。 
 灰色の顔をしたアンドロイド侍女が現れて、何か用はないかと尋ねてきた。管理システムの末端である機械人形だから、気を遣う必要はない。
 わたしは紅茶をもらうことにして、暖かい室内に入ろうとした。じきに日が暮れる。小惑星都市には、人工的に導かれた陽光しかないけれど。夜になれば、繁華街の明かりが遠くにきらめくのが見える。
 その時、屋内から誰か出てきた。この屋敷で、シレール以外の人間を見るなんて。
 くるくるの赤毛をショートカットにして、大きな緑の目をした若い女。
 白いタイトなワンピースに、革のジャケット。すんなりした足には、茶のショートブーツを履いている。
 わたしは息を止め、立ち尽くした。
 ダイナも止まり、二メートルの間をおいて、わたしと睨み合う。背丈はわたしの方が少し高く、ハイヒールの分もあるから、こちらが見下ろす形だけれど。
 懐かしい、と感じるのは変だろうか。
 わたしはダイナのことを、本当には覚えていないのだ。ただ、後から見せられた記録の数々を元に、当時の状況を自分なりに組み立て、知ったような気になっているだけのこと。
 その記録のダイナと、目の前にいるダイナはほとんど変わらない。女学校の制服姿とは、洗練度が違うだけ。
「やっぱり、泉なのね。そうだったのね」
 あっさり断定された。
 多少の整形はしていても、身長や骨格はそのままだから、全体の雰囲気はそう変わっていないのだろう。自分では、別人のように女らしく、美しくなったつもりでいたけれど。
 つい、皮肉な笑みが浮かんでしまう。こうなったら、意地を張り通すしかない。
「わたしを殺しに来たの?」
 ダイナがその気なら、わたしは勝てない。ここはダイナの一族の屋敷だから、管理システムもアンドロイドたちもダイナの味方だ。
 ダイナはぶるっと首を振った。真正直なところは、変わっていないのだろう。
「まさか」
 それなら、わたしはまだ生きられる。ダイナは、つまらない嘘をついたりしないだろう。そんな必要などない身分なのだ。
「あたし、泉が辺境に出てきたのは、わかる気がする。一生、山奥の施設に押し込められたままなんて、我慢できなくて当然だもの。たとえ町に降りられても、仕事は制限されるだろうし、周囲にも敬遠されるだろうし」
 わたしの顔には、うっすら、苦笑が浮かんだと思う。そこまでは、許してもらえるわけか。
「だけど、あなたが、どうして、兄さまと」
 憤りを押さえられない声で、ダイナは言う。白いドレスの横で、ぎゅっと拳を握りしめて。
 もしかしたら、わたしは既に、勝利しているのかもしれなかった。ダイナが愛する男を、わたしは横取りしたのだ。ほんの一時のこととはいえ。
「シレールとつながっていたら、いずれ、あなたにも会えるでしょう」
 最初は確かに、そう思っていた。リザードがあちこちに配置しているスパイの一人に、わたしもなっただけ。そこに、たまたまわたしの私怨が重なっても、問題はない。
 けれど、そのうち、ダイナのことは遠景に消えてしまった。わたしは自分が優しくされたい男性に、出会ってしまったのだ。
 自分が真に求めていたものが、市民社会ではなく、辺境の違法都市で得られたことだけが、運命の皮肉。
「じゃあ、兄さまのことは、ただ利用しただけ?」
 そんなに器用な性格ではない。
「いいえ。今は、彼を愛してる」
 誰に信じてもらわなくても、構わない。シレールと一緒にいたいという気持ちには、何の嘘偽りもない。
 市民社会にいた頃の自分の方が、嘘つきだった。
 誰よりも、自分に嘘をついていたのだ。強いふり。信念のあるふり。
 だから、生きていることが苦しかった。
 努力は重ねていたけれど、心底から強くなりたかったのではなく、ただ、父に振り向いてほしかっただけ。優等生のふりをしていたのは、自分の位置を守るため。
 護衛任務を引き受けたダイナや、何十年も戦い続けているリリス≠フように、正義を実現しようという意欲はなかった。
 弱いわたしを認め、愛してくれる人がいれば、それでよかったのだ。
 それに気がつくのが遅かったから、こういうことになっている。
 ダイナは、わたしに刺されでもしたような顔をした。何か言うかと思ったのに、後退り、くるりと背を向けて立ち去っていく。やがて、地下から出た車が、湖畔を走り去っていくのがわかった。
 わたしは、ダイナを傷つけたのだろうか?
 そう思っても、何も嬉しいとは感じない。
 ダイナが逆上してわたしに掴みかかったり、殴りかかったりしたら、その方が嬉しかったのだろうか?
 ダイナと入れ替わるように、シレールの車が来た。彼はダイナが来て、去ったことを知っているらしい。居間にいるわたしの所に来て、
「ダイナと、何か話せたのか」
 と尋ねる。あえて、そのための時間を作ってくれたのだろう。
「少しだけ」
 どうせ屋敷の警備システムに、録画がある。シレールが様子を知りたければ、それを見ればいい。
「わたし、まだここにいていい? それとも、出ていった方がいい?」
 怖いことを尋ねてしまった。
 出ていけと言われたら、わたしはどうするつもりだろう。この湖に、身を投げればいいのだろうか。どうせ、死ぬことなんかできず、泳いで上陸してしまうのに。
「おいで」
 シレールは両手を広げ、わたしを抱き寄せてくれた。わたしの髪を撫でながら、静かに言う。
「きみを、遊び相手にしたわけではない。ダイナも大事だが、きみのことも、守るべき相手と思っている。ここはもう、きみの家でもあるんだよ」
 安堵で力が抜け、ずるずる崩れ落ちそうになる。そのわたしを、シレールはしっかり支えてくれた。
 それなら、ダイナがどう思おうと、わたしは生きていける。
 涙が溢れて、止まらない。
 以前のわたしなら、人に泣き顔を見せるくらいなら、死んだ方がましだったのに。
「よしよし、いい子だ。わたしがいるだろう。大丈夫だよ」
 シレールが頭を撫でてくれ、自分のハンカチで頬をぬぐってくれた。
 これは奇跡だ。
 いつか、彼を失う時が来るかもしれないけれど、この奇跡に出会わないまま、一生を終える可能性もあったのだから。

6 ダイナ

 滅茶苦茶、車で走り回った。
 都市を何周したのか、わからない。
 湖岸を走り、森の中の林道を走り、繁華街を通り抜け、川沿いを走り、野原を突っ切り、何時間も走り回った。
 気がついたら、水も飲まず、食事もせず、夜中になっている。
 さすがに疲れて、森の外れの空き地に車を停め、積んである非常食に手を伸ばした。がつがつと食べて、水を飲み、外に出て深呼吸をする。冬の夜気を吸って、少し頭が冷えた。
 みっともない。馬鹿みたい。思春期の男の子みたいな、荒っぽい運転をして。
 身内の経営する都市だから、あたしがどこにいても、常に都市の管理システムに守られるけれど、そうでなかったら、どんなトラブルを招いているか。
 そこは、真っ暗な湖に面した空き地で、背後は深い森林だった。兄さまの屋敷がある湖とは、別の湖だ。遠い対岸に明かりが幾つか見えるけれど、こんな時間に林道を走る物好きはいない。
 何やってるんだろう、あたし。
 理屈ではわかる。泉はようやく落ち着き所を得たのだから、喜んであげなくては、と。
 でも、それがなぜ、兄さまの所なの。
 他の誰かの元であれば、心から祝福できるのに。
 泉の背後に誰がいるにせよ、泉自身が兄さまを好きになったことは間違いない。兄さまを害することなんか、しないだろう。たとえ、グリフィンにどう命じられても。
 兄さまもまた、泉を大事にしているのだろう。でなければ、ああして自分の屋敷に出入りさせるはずがない。
 サマラおばさまを失ってから、ずっと独り身を通していた兄さまなのだから、これは喜ぶべきことだ。紅泉姉さまなら、きっと言う。よかったね、と。
 なのに、あたしときたら、何も言えずに逃げてきてしまった。
 兄さまが後から知って、呆れているわ。ダイナは、まだそんなに幼稚なのか、と。
 あたし、兄さまを失望させてばかり。
 ハンターになりたいと言って、修業のためにリーレンの護衛役を引き受けたのに、あんな結果だったし。
 ヴェーラお祖母さまの秘書役だって、結局、馘にされてしまったわけだし。
 これから、どこへ行って、何をすればいいのだろう。もう、指図してくれる人もいない。子供の頃なら、ああしろこうしろと、常に誰かが教えてくれたのに。
 わかっている。自分で決めなければならないと。それができなければ、甘ったれの末っ子≠フまま。いつか妹か弟が生まれたとしても、何も教えてあげられない。
 その場で空に足を蹴り上げ、突きを繰り返し、躰が火照るまで動いた。それで少し、楽になった。
 ぐちぐち悩んでいても、煮詰まってしまうだけ。紅泉姉さまなら、
『動いてから後悔すればいい』
 と言うところだ。
 車に戻り、しばらく眠ろうと思った。小型トレーラーの内部には、最低限の生活設備がある。センタービルに泊まる必要はない。
 ところが、林道の向こうから、車がやってきた。この距離まで管理システムが警告してくれなかったということは、不審者ではないということだ。
「ダイナ、こちらへ来なさい」
 通話システムから流れてきた声は、シレール兄さまに間違いない。
 あたしは車内で固まってしまった。叱られるに違いない。何という礼儀知らずかと。前にも、ケーキの箱を落として逃げ帰ってしまったわけだし。
 でも、ここでまた逃げたら、もっと叱られる。
 というより、あたし、いつまで、兄さまに怯えていないといけないの?
 子供の頃は、叱られても、お説教されても、仕方なかった。でも、今は一応、社会人としての経験を積んでいるのに。
 紅泉姉さまなら、誰が相手だって、平然として能天気を通す。ああ、あたしも豪傑になりたい。少なくとも、一人前の女性として、きちんと対応したい。
 あたしは車を降りて、枯れ葉の積もった砂利道をざくざく歩き、闇の中でライトを灯している兄さまの車に近付いた。移動オフィスになる中型のトレーラーなので、側面の扉から中に入れる。
 黒髪を短く整えた兄さまが、見慣れた濃紺のスーツ姿で立っていた。
「久しぶりだな」
 冷静なこの声。じかに聞くのは、何年ぶりなのだろう。
 あたしが黙っていると、冷淡な顔のまま、
「何か挨拶はないのか」
 と言う。
 急に、胸に怒りが湧いた。兄さまこそ、あたしに泉のことを報告するべきではないか。大きな変化があったのは、兄さまの方なのだから。
「おめでとう」
 泥団子を投げつけるように、言ってしまった。
「素敵な恋人ができて、さぞ楽しいでしょう」
 兄さまは少し沈黙したけれど、表情は変えないまま、
「そこに座りなさい」
 と作り付けのソファを示す。
 あたしが座ると、車は動き出した。あたしの車も、追従してくるようだ。兄さまはテーブルをはさんで、斜め横に座る。
「泉は、おまえのことを覚えているわけではない。グリフィンの手配で市民社会から脱出したわけだが、おまえのことは、後から記録で教えられただけだ。だから、実際のおまえがどういう人格で、泉とどう触れ合っていたのか、よくわかっていない」
「そうなの。だから?」
「泉は上からリリス♀ヨ係者のスパイを命じられて、わたしに接近してきたわけだが、辺境での緊張の日々に疲れていた。わたしもまた、おまえが巣立ってから、寂しい毎日だった。お互い、心に隙間があったわけだ。だから……こういうことになった」
 他人事みたいに言う。そのこういうこと≠ェ、あたしを打ちのめしたのに。
 だいたい、寂しいって何よ?
 兄さまが?
 そんなはず、ないでしょう。
「泉には、優しいんだ。あたしには、ずっと冷たかったのに」
 怒りを隠せず言ってしまったら、兄さまは、わずかに苦い顔をした気がする。
「わたしが突き放さなければ、おまえは独り立ちできなかっただろう」
 そうなの? それって、親心?
 とても、素直に感謝できる気分ではない。
「おかげさまで、お祖母さまに鍛えられました。最近は失敗続きで、お暇を出されてしまったけど。またこれから、どこかへ行って、修行してきます」
 といっても、行くあてはない。紅泉姉さまたちに頼るのも、違うだろうし。
 あたしはつくづく、したいこと≠フない人間なのだと思う。
 子供の頃はハンターに憧れていたけれど、それはもう、醒めてしまった。あたしには、紅泉姉さまのような無限の情熱がない。
 だって、小悪党を退治したところで、根本的な解決にはならないんだもの。辺境の違法組織がすなわち、邪悪の根源というわけでもないのだし。
 悪というものは、市民社会にもある。苦しんでいる人たちに対する無関心、それが最大の悪だろう。
 でも、凡人に何ができる?
 あたしだって、いま、辺境の改革のために何かしているかと問われたら、答えられない。姉さまたちを援護するという意欲も、どこかへ消えてしまっている。今はただ、兄さまに怒りをぶつけたいだけ。
「何の修行だ? おまえが安全でいられるのは、一族の都市にいる時だけだ。その外をふらついて、無事でいられると思うのか」
 わかってる。
「じゃあ、市民社会に行きます」
 もう、売り言葉に買い言葉。
「司法局を頼るのなら、仕事をさせられるぞ。そのざまで、護衛や追跡の任務が務まるのか。紅泉には性格的な問題があるが、それでも仕事には真剣だ。おまえには、それだけの使命感はないだろう」
 うう。
「本気で市民社会に根を下ろすつもりなら、それなりの覚悟が必要だろう。ただ縁故に甘えて遊びに行くつもりなら、向こうにとっても迷惑だ」
 ああ、また。
 いつものパターンだ。
 兄さまには、あたしが幼稚に見えて仕方ない。あたしも、自分が途方もなく甘ったれの役立たずだと感じてしまう。お祖母さまの元で働いていた時は、少なくとも紫のハイヒールを見るまでは、それなりに役立っていたはずなのに。
「もう関係ないでしょう!!」
 あたしは立ち上がって、自棄のように叫んでいた。
「もう兄さまの元から巣立ったんだから、お説教なんかされたくない!!  自分で決めて、自分で責任とるから、放っておいて!!」
 違う。
 あたし、お説教されて、半分はほっとしているのに。
 兄さまがあたしのことを心配していなかったら、こうやって追いかけてきてくれるはず、ない。あたしはまだ、気にかけてもらっている。泉に対する気持ちの、十分の一くらいでも。
「ダイナ」
 兄さまが、難しい顔のまま、あたしに手を差し伸べてきた。
「戻ってきても、構わない」
 え。
 何ですって。
「おまえはもう成人したのだから、確かに自由だ。しかし、元通り、わたしと一緒に暮らして悪いことはない」
 あたしは虚を突かれた。
 そんなこと、できるの。
 兄さまは、あたしから解放されて、ほっとしているのだとばかり。
「あたしがいたら、邪魔でしょう? だって……」
 泉にとっては、邪魔に決まっている。でも兄さまは、あたしの心配を取り除いてくれた。
「泉は普段、自分の組織で仕事をしている。わたしに会いに来るのは、月に一度か二度くらいのものだ。おまえは別に、泉と顔を突き合わせる必要はない」
 本当に?
 シレール兄さまは、あたしが毎日、身近にいても構わないの?
 はっと気付いた時は、兄さまの手に手首を掴まれている。温かくて、器用な指を持つ、大きな手。
 あたしは声も出ず、身動きとれない。兄さまは手を離さないまま、少しあたしに近寄って座り直す。
「ここにいるのなら、おまえにできる仕事を探そう。マダム・ヴェーラには、許可を取る。《ティルス》以外の姉妹都市で働くのも、いい経験だろう」
 あたしが呆然としていると、兄さまは苦笑した。
「せっかく来たのだから、少しは落ち着きなさい。明日、ヴァネッサ叔母上たちと相談して、おまえの仕事を決めるとしよう」

  

 奇妙なことになった。
 あたしは《サラスヴァティ》でも、総督秘書の役目を仰せつかってしまったのだ。
 仕事自体は、すぐに慣れた。《ティルス》で鍛えられていたから、それと同じことをすればいいだけ。ヴァネッサ叔母さまに指図を受けて走り回り、忙しいことは忙しいけれど、合間に息を抜くことはできる。
 変わったことは、センタービルではなく、湖岸にある屋敷で寝泊まりするようになったこと。
 兄さまも、毎日そこから仕事に出掛け、そこに戻ってくる。だから、朝晩は大抵、兄さまと顔を合わせることになる。
 あたしが食堂で食べ始める時間に兄さまが出掛けていったり、逆に、兄さまが起きてきた頃にあたしが出掛けたり。それでも、
「おはよう」
「行ってきます」
 という挨拶はできる。夕食は大抵、一緒になる。
 たまに、泉が兄さまに会いに来ると聞いた時だけ、あたしがセンタービルに泊まるようにすれば、顔を合わせることはなくて済む。
 奇妙に安定した日々が、しばらく続いた。
 毎晩、兄さまとあたしはアンドロイド侍女に給仕され、同じテーブルの両端で料理に向かう。ぽつぽつと、都市であった事件や、新しい店、他組織の動向などを話題にする。それから、おやすみと言って、それぞれの部屋に引き上げる。
 これなら、同居人というだけのことだ。少なくとも、あまり親密な家族ではない。
 それでも、毎日、顔を見られるのは嬉しい。夜の間も、兄さまが同じ屋根の下にいると思えるのは、幸せなことだ。
 なのに、何だか苛々する。
 そわそわして、心が落ち着かない。
 何だろう。何が不満なのか。
 たぶん、兄さまとの距離が、開いたままだからだ。兄さまは余計なことを言わないし、あたしも聞かない。あたしより、泉と一緒にいる方が嬉しいんでしょ、本当は泉をここに置きたいんでしょ、なんていうことは。
 結局、あたしが兄さまと泉の間に居座って、邪魔をしているだけではないの?
 だから兄さまも、どこかに気を取られているような、他に大事な用を残しているような態度でいるのでは。

イラスト

 粉雪がちらつく夕方、あたしは外から帰ってきて、暖炉のある居間に入った。あたしも兄さまも本物の炎が好きなので、冬の間、暖炉ではよく薪を燃やす。
 仕事の資料を見ながらココアを飲んでいるうち、兄さまも帰宅してきた。一緒に食事できると思って食堂に行ったら、兄さまがテーブルに大きな紙の箱を置いている。
「ダイナ、おまえにお土産だ」
「あ、ありがとう」
 でも、なぜ今日? まだ誕生日でもないし、何かの記念日でもないと思うのに。
 箱の大きさと軽さからして、中身は開ける前にわかった。ドレスだ。しかも、パールホワイトのロングドレス。デコルテを大きく出すデザインで、薄い半透明の裾が幾重にも重なって、ふわりと広がっている。まるで、雪の精みたい。
 これなら、合わせるのは真珠かダイヤ、それに白かベージュのハイヒール。
 すぐにでも着てみたいけれど、これを着て、行くような先がない。
 市民社会ではよく職場のパーティや、地域のお祭りがあるけれど、辺境には『誰もが参加できる楽しい集まり』というものがない。ビルの落成式だの研究所のお披露目だのは仕事がらみだし、他組織との会合は、常に厳しい緊張を伴うものだ。楽しく出席できるのは、精々、一族内での季節の行事や、誰かの誕生日程度のもの。
「あの、誰か、おじさまかおばさまの誕生日だったかしら?」
 あたしがあやふやに尋ねると、兄さまは言う。
「いいや。たまたま新人デザイナーの腕試しで、おまえのサイズのドレスを作らせてみただけだ」
 あ、そう。
 でも、経緯はどうあれ、新しいドレスは嬉しい。仕事用のスーツばかりでは、飽きてしまう。
「着てみてくれるか」
 と言われた時も、デザイナーのセンスが確かか、確認したいのだと思った。でも、
「これを一緒に」
 と差し出された小箱には、あたしが思い描いた通りの宝石と靴が入っていた。ダイヤと真珠の、白いジュエリーだ。さすが、兄さまは抜かりがない。
「じゃあ、待ってて。すぐ着替えてくる」
「急がなくていい。わたしも着替える。それから、食事にしよう」

 急に、ただの夕食が、正式な晩餐会になった。
 身支度して上階から降りてくると、食堂には銀の燭台で長い蝋燭が灯され、複雑な光と影の模様を織り成している。窓には幾つもの明かりが映って、宮殿の一室にいるみたい。低く、穏やかなクラシック音楽も流されている。
 兄さまも、黒の正装で現れた。泉が見たら、きっとうっとりするだろう。そもそも、際立った美形なのだ。ただ、憂鬱そうな表情の時が多いだけ。
 兄さまは手を差し出してきて、あたしの左右の手を軽く握ると、真正面からあたしを見下ろす。
「ちょうどいいな。わたしのイメージ通りだ。次のドレスも彼に作らせよう」
 ほうらね、これも仕事の一部なのよ。あたしがどきどきする必要はない。兄さまにとっては、あたしはドレスの台なのだから。
「男性デザイナーなの?」
「そうだ。男に作らせると、夢のあるデザインになる」
 夢なんて。いつも現実的な兄さまが、珍しい言葉を使う。でも、女性のデザイナーだと、自分が着たいものを作ることが多いから、確かに、もっとシンプルで実用的になってしまうかも。
 真っ白なふわふわドレスを汚さないよう、慎重に椅子に座った。シャンパンで乾杯し、アンドロイド侍女の運んでくる前菜を食べる。
 話題は中央の政治家のこと、ヒットした映画のこと、兄さまが昔読んだ小説のこと。
 それも、あたしに何かを教え込むのではなく、ただ、穏やかな時間に相応しい話題だからという感じ。
 これまではずっと教師と生徒≠セったから、いまようやく大人同士≠フ会話になっているのかも。
 そういえば、《ティルス》の屋敷では、夕食は正装というのが決まりだった。でも、紅泉姉さまたちがずっと留守で、他の親族も仕事で欠けることが多かったから、あたしは内心で、
(普段着で構わないのに、面倒くさい)
 と思っていたものだ。子供のあたしが着るのは大抵、白い襟のついた地味色のワンピースだったし、当時は食欲優先だったから。
 でも、こうしてドレス姿で席に着いていると、たまにはいいか、と思えてくる。
 だって、気軽に出掛ける先のない違法都市では、こうやって自宅で優雅な時間を作らないと、永遠にドレスの出番がない。兄さまも、礼装が似合って素敵だし。
 デザートが済むと、兄さまが静かに立ち上がった。もうお開きなのかと思ったら、
「せっかくだから、踊ろう」
 と手を差し伸べられたので、びっくりする。
 兄さまの合図で、音楽もワルツに変わった。食堂の隣には広い客間があり、そこの家具は既に邪魔にならない配置になっている。これも、兄さまの命じたこと?
 音楽に乗ると、躰は勝手に動いた。兄さまのリードは、あたしの記憶にあるよりソフトだ。子供時代に兄さまと踊った時は、あくまでもダンスの稽古であり、貴婦人に必要な教養という位置付けだった。あたしは細かく注意されながら、必死でリードについていったものだ。
 あの頃は、毎日、新しいことを教えられ、懸命に駆け足していたようなもの。
 兄さまの要求水準はかなり高かったので、後で女学校に通った時は授業が楽に感じられ、改めて感謝したものだったけど。
 でも、今日のダンスは堅苦しくなく、ただ、楽しい時間を少し引き延ばすためのものだった。
 それなのに、背中に置かれた手が気になる。兄さまに淑女みたいに扱われるなんて、逆に気恥ずかしくて、それを隠すため、ぺらぺら軽薄にしゃべってしまう。
「あのね、このドレス、宝石も、とってもすてき。ありがとう。デザイナーの腕試しであたしがこんなに得しちゃって、いいのかしら。あ、今度、紳士服のデザイナーと関わることがあったら、兄さまのスーツを注文するわね。たまには、濃紺以外の色もどうかしら。薄紫とか、明るいグレイも、きっと似合うわよ」
 すると、あたしと踊りながら、兄さまはふっと微笑んだ気配。
「男の服は型が決まっているから、新調しても、あまり面白くない。それより、明日のダンスも予約したい。明日はまた、違うドレスを贈るから」
 あたしは唖然として、ステップが止まりそう。心臓まで、どきどき激しく打ち出した。まるで、プレイボーイの口説き文句みたいじゃない?
 そうしたら、兄さまは足を止めて身をかがめ、あたしの額にそっとキスをした。
「今夜は楽しかった。お姫さまを独占できて」

 どうやって二階に駆け上がり、自分の部屋のドアをばたんと閉ざしたのか、よく覚えていない。淑女にあるまじき、品位に欠ける退場だったのは間違いない。
 兄さま、どうしちゃったの。
 ううん、あたしが変。
 あたしは耳まで熱くなり、頭に血が昇って破裂しそうだった。懸命にこらえていないと、壁に体当たりして悲鳴をあげてしまいそう。
 兄さまが、泉にならともかく、あたしにあんなことを言うなんて。
 だいたい、ドレスや宝石を贈ってくれるのも変。新人の腕試しなら、自分の秘書のドレスでも命じればいいんじゃないの?
 どうしていいかわからず、ドレス姿でうろうろと歩き回って、自分の頭をぽかぽか叩いた。
 自分が度を失っている。これじゃあ、まるで……
 いつかミカエルに言われたことが、頭に甦った。ダイナさんが、シレールさんと結婚すればいいんですよ……
 まさか。そんな。
 兄さまには、泉がいる。
 なのに、心臓がどくどくいって、収まらない。あたし、爆発しそう。
 兄さまにキスされた瞬間、悲鳴を上げてしまいそうだった。あたしの全身が、それを喜んで溶けてしまいそうだったから。

 翌日は、仕事が終わる頃(細かいミスは幾つかしたけれど、大事には至らなかった)、兄さまからの使いのアンドロイド兵が来た。
『この服を着て、使いに付いて来るように』
 届けられたのは赤いロングドレスと、それに合わせたハイヒールで、金のイヤリングとネックレスも箱に入っていた。胸元に白と金色のレースが使ってあるので、赤毛のあたしが着ても、それなりに似合う。誰にデザインさせようが、兄さまの趣味が反映されているのだ。
 身支度して、同じセンタービル内にあるホテル区域に行くと、広い続き部屋で兄さまが待っていた。やはり、正装だ。
「赤も似合うな」
 と言われたので、あたしは自分の戸惑いを隠すため、文句をつけた。
「子供の頃は、地味な服ばっかり着せたくせに!! しかも赤毛の子には、赤やピンクは似合わないって言ってた!!」
 でも、兄さまは悠然たるもの。
「子供のうちは、物事が制限されていた方がいい。その方が、早く大人になろうと思って頑張れるだろう」
 うう。やはり勝てない。
 でも、赤いドレスだと気分も浮き立ってしまい、それ以上の文句はつけられなかった。あちこちの鏡に映る自分を見ただけで、わくわくする。今夜のあたし、けっこう綺麗なんじゃない?
 案内されたテーブルに着いて、白ワインを使ったカクテルで乾杯した。
「ひょっとして、兄さま、退屈してるの? だから、こうやって……」
 デートごっこみたいなことを。
 でも、その言葉が口から出ない。デートと言ってしまったら、とても気まずい気がする。
「長く生きていると、生活に飽きることがある。そういう時は、いつもと違うことをして、気分を変えるんだ」
 そんな、老人みたいなことを。
「兄さまは、まだ若いでしょ」
 少なくとも、一族の中では若手に分類されている。だから、色々な仕事を譲られているのだ。
「中央の基準で言えば、もう老人だ。老人の楽しみは、若い子が元気にしているのを見ることだ。わたしにそのくらいの娯楽を与えてくれても、いいだろう?」
 どういうんだろう。本当に、あたしを見て大きくなったな≠ニ感慨にふけっているのかしら。
「老人のふりなんか、しないで。まさか、泉にもそんなこと言ってるんじゃ……」
 思わず口からこぼれた台詞に、自分でストップをかけた。
 これまで、泉のことは、極力、口にしないできたのだ。考えたくない。兄さまが、泉と二人きりの時、どんな表情をして、どんな言葉を口にするのかは。
 でも、兄さまは澄ました顔だ。
「泉にとって、わたしは保護者のようなものだ。あの子は他で気を張っているから、わたしと一緒の時だけ、安心して甘えられるのだろう」
 あの泉が、兄さまに甘えるですって。
 それを想像したら、こっちが赤くなってしまう。
 聖カタリナ女学院にいた頃、泉はしっかりしていて、みんなの憧れだった。でも、わずか十七か十八の少女だったことも間違いない。自分の弱さを見せまいと努力して、疲れきっていたのかもしれない。
 急に気がついた。
 もし、兄さまも、厳格なふりをし続けて疲れているなら、それはどこで癒されるの?
 兄さまがあたしに求めているのは、そういうこと?
 あたしに、可愛い妹になれと望んでいるの?

 それからしばらく、贈られたドレスを着て、兄さまと向かい合い、正餐を楽しむ日が続いた。
 昼間のビジネススーツを脱いで、女らしいドレスをまとい、美味しい料理とお酒を味わうことは、一日の終わりには、ちょうどいい気晴らしだとわかった。
 あたしが美しいドレスを着ることが、兄さまの目を楽しませているなら、それは嬉しい。いまだ優雅な美女とは言えないにしても、少しは大人になったと思うし。
 お互いに、頭を痛めるような話はしない。そんなものは、明日になれば、また押し寄せてくるのだから。
 貴重な夜の時間の、ほんの二時間か三時間、世界の果てにいるかのように、他のことを全て忘れて、二人でいられることを祝福する。
 毎晩、別世界へ小旅行しているかのよう。
 部屋には新しい花が飾られ、違う音楽が流される。
 兄さまと何曲かダンスすることも、最後におやすみのキスを受けることも、毎晩のことになれば、それなりに慣れてくる。
 それでも、兄さまに引き寄せられる時の嬉しさは格別だった。背中を支えてくれる手の温かさ、額に受ける慎重なキスの感触は、こそばゆくて癖になる。
 もっと長く一緒にいたい気もするけれど、そうしたら際限がない。また明日の晩、こうして向かい合えるのだから。
 あたしはようやく《サラスヴァティ》に碇を下ろしたようで、安心していた。兄さまとも、以前とは少し違う形で、また親密になれたと思うし。
 あたしが子供だった時は、兄さまも、厳格な教師でいるしかなかったのだ。でも、あたしが自立できるようになれば、もうがみがみ叱る必要もない。
 泉も、だから、兄さまと一緒にいたいんだろうな。
 あたしがほとんど毎日、仕事以外の兄さまの時間を奪っているのは、泉にしてみたら不公平かも。
 いいえ、かも、じゃない。
 不公平そのものだ。
 本当は泉に、今の組織から抜けて、こっちに来るように言うべきでは?
 別組織への移籍は、上手く話をつければ、可能なことだ。兄さまなら、遺恨が残らないよう、泉を引き抜くことができるはず。
 でも、その提案は、あたしの口からは出なかった。このままでいたい。もう少しだけ。いいでしょう? 泉はもう何年も、兄さまの優しさを味わってきたのだもの。

7 ミカエル

「そうか。そういうことなら、ダイナとシレールの邪魔はしないでおこう」
 久しぶりに帰郷したリリーさんとヴァイオレットさんは、マダム・ヴェーラや麗香さんに挨拶した後、ぼくの桔梗屋敷に遊びに来てくれた。
 シレールさんを巡る三角関係は、いずれ穏便に決着がつくだろうとぼくは話した。これがダイナさんの乗り越えるべき試練だという点も、リリーさんたちと共有できた。
「あの子ももう、子供とは言えなくなったもんね。それどころか、総帥の座を継がなきゃならないんだから。恋敵の一人や二人、抱え込む度量がないと」
 とリリーさんはおおらかに言う。
 リリーさんならたぶん、ハレムを構えるくらいの度量があるとぼくは思うが、それを許さない人が側にいるから、ぼくは撤退せざるを得なかったのだ。
 ふと、思うことはある。もしもぼくが人間のままでいて、リリーさんと暮らすようになっていたら、どんな日々だったろうか。
 きっと、幸福の絶頂と絶望の地獄の間を行き来する、ジェットコースターのような毎日だったろう。リリーさんが危険にさらされる度に寿命が縮み、生還してくれる度に天に感謝する。ぼくは自分に十分な力がないことを嘆き、悪魔に魂を売ってでも、リリーさんを守りたいと願ったはずだ。
 だから、こうなることはむしろ必然だった。ぼくは、望んで堕天したのだ。
 悪魔の側に堕ちたからこそ、いつまでもリリーさんを愛することができる。
「あなたが総帥を引き受ければ、ダイナに重荷を負わせなくて済むのよ」
 とヴァイオレットさんは微笑んで言うが、根っから自由人のリリーさんには、そんな制約だらけの生活は、とても耐えられないだろう。それはヴァイオレットさんにもよくわかっていて、言うのである。
「あたしより、シヴァが戻ってくれればねえ。ダイナの助けになるのに」
 リリーさんは、あえて言う。彼の名前をヴァイオレットさんが聞きたくないのは、よくわかっていて。
 シヴァは現在、《ヴィーナス・タウン》の番犬と化しているが、それはこの二人の知らないことである。いつ彼らが再会するのかは、麗香さんの考え次第だ。
「リリーさま、お夕食のご希望を伺いたいのですが」
 セイラに呼ばれて、リリーさんは厨房についていった。その間、庭を眺める和室に残ったヴァイオレットさんは、ぼくに白い顔を向けて言う。
「わたし、あなたには謝らないわよ」
 そう口にするだけ、敵意は和らいでいる。ぼくが年に一度か二度の逢瀬で我慢していることを、それなりに評価してくれているからだ。
 ぼくも、うっすら微笑んで言う。
「あなたに謝ってもらう必要は、ありません。ぼくがリリーさんを愛することは、誰にも止められませんから」
 リリーさんを害する者がいれば、ぼくが間に合うように発見して、対処する。あえて攻撃させてから潰すか、未然に潰すかは状況次第。
 リリーさんが英雄でいられるように、時々は危険が降りかかった方がいい。だが、命を失うような危険は防ぐ。それが、麗香さんに与えられたぼくの使命。
 今はもう、ただの人間に戻りたいとは思わない。人間が進化の階梯を遡り、海の魚に戻りたいと思わないのと同じこと。たった一つの肉体に依存して生きるなど、あまりにも運任せで恐ろしい。
 ぼくもいつか、超越体として生き続けることに疲れてしまい、永眠したいと願うかもしれないが、まだ当面はこのままでいい。
 人類社会を裏面から操ることは、知的なパズルのようなものだ。いつか、人類そのものに関心を失うまでは……

8 ダイナ

 どうしよう。あたし、兄さまが怖い。
 姿が見えないと寂しくて、帰宅してくれると嬉しいのに、近付いてこられると全身の産毛が逆立つようで、飛び上がって逃げてしまいたくなる。
 食事だけは何とか一緒にできるけれど、ダンスをしようと誘われると、忙しいとか、疲れているとか言い訳して、自分の部屋に逃げ込んでしまう。
 いい加減、変に思われるわ。
 いえ、とっくに変なんだけど。
 考えてみたら、あたし、男性とまともに付き合ったことがない。これまで、仕事を覚えるのに懸命で、そんな余裕はなかった。それに、特に惹かれる男性もいなかった。誰かに口説かれても、平気で断っていた。
 いつも、シレール兄さまと比べていたからだ。
 兄さまの方が教養がある。冷静で頼もしい。料理も上手。男性の基準が、兄さまなのだ。
 泉もファザコンだったらしいけど、あたしもそうだということね。
 問題は、兄さまが父親じゃなくて、もしかしたら、恋愛対象になりうること。
 だから、全身の皮膚が敏感になって、兄さまがたとえお休みのキスをしようとしただけでも、近付かれることに耐えられない。ちょっとでも触られたら、悲鳴をあげてしまいそう。想像しただけで、心臓の鼓動が乱れてしまう。
 ミカエルに相談したら、軽く笑われた。
「ぼくもそうですよ。リリーさんの姿を見るだけで、平常心がなくなります。でも、それがまた幸せなんだと思いますよ」
 だけど。
 兄さまには泉がいるのよ。
 月に一度か二度、今日は泉が来ると、兄さまから知らされる。その日、あたしはセンタービルに泊まって、湖畔の屋敷には近付かない。同僚たちとバーで飲んだり、話題の映画を見たり、プールで泳いだりして、なるだけ頭を空っぽにする。
 二人が一緒にいる姿を想像すると、頭がぐらぐらして、おかしくなりそう。思わず、壁に頭を打ち付けてしまって、自分で呆れることがある。
 ダイナ、あなたどうかしてるわよ。
 いっそ、ここを出て、王子さまを探しに行ったらどうなの。どこか他の違法都市に、運命の相手がいるかもしれないでしょ。
 でも、兄さまから離れる決心は、とてもできない。
 そんな決心、したくない。
 あたしが離れている間に、どこかの組織に狙撃されたり、吹き飛ばされたりしたら、どうするの。
 まあ、あたしがいても、そんな事件を防げるとは限らないのだけれど。少なくとも、防衛艦隊を鍛え上げたり、警備部隊の様子を監視したりはできるのだから。

 季節は春に向かい、花壇ではクロッカスが咲き、チューリップの芽が伸びてきた。梅が終わると寒さがゆるみ、光が強くなるよう、気候調整されていく。
 仕事で忙しい毎日でも、春の到来は嬉しかった。湖岸の森には桃や桜が咲き始め、小道には菫の花が群れをなす。黄色い山吹が、あちこちの茂みを明るく彩る。
 仕事が一段落した午後、兄さまにお花見に誘われた。断る口実がないので、兄さまから数メートル離れて、ゆっくり歩いていく。
 屋敷の周辺の森には遊歩道が通っていて、季節の花が楽しめるようになっていた。ピンクと白の豪華な花桃。頭上高くで白や、淡いピンクの花を咲かせる桜の大木。
 湖面が見られる場所には、どっしりした木のベンチもある。私有地の内側だから、他人が入り込むことはない。
 たまに桜の花が散りかかる中、兄さまに促されてベンチに座った。兄さまは横に座り、あたしの方に上体を向けて言う。
「ダイナ、大事な話をするから、最後まで聞いてほしい」
 もしや、泉のことでは。
 たとえば、泉が妊娠したとか。
 自分で想像して、震え上がる気がした。そんなことになったら、兄さまが完全にそちらの方を向いてしまう。だって、兄さまはきっと子供を望んでいる。無理に押しつけられたあたしのことさえ、あれほど真剣に育ててくれたんだもの。
 そうしたら、泉を一族に迎え入れるという話になるわ。あたしには、反対する権利がない。子供には、家庭が必要なのだし。
 兄さまの手が、あたしの手に重ねられた。思わず手を引っ込めようとしたけれど、ぎゅっと力を込めて握られてしまい、逃げられない。
「ダイナ、おまえはまだ若い。だから、焦る必要は何もないと思っているだろう」
 え、あたしが何を焦るって?
「だが、わたしはもう若くない。それに、明日、何かがあって、そこで人生が終わるかもしれない」
 兄さまったら、何を言ってるの。一族の中では、一番下の世代じゃないの。だから、第二世代の大伯父さまや、お祖母さまたちに期待されているんでしょ。第三世代の伯父さま、叔母さまたちだって、重荷の一部を預けられてほっとしているわ。
「だから、今日、話すことにした。わたしは、人生の伴侶が欲しいと思っている」
 途端に、あたしの心臓が跳ね上がる。
 逃げたい、聞きたくない。
「一族の中にいて、それなりに安定した暮らしをしているが、それでは足りない。足りないものは、妻と子供だ。ずっと、それが欲しいと願っていた。サマラを失わなければ、もっと早くそれが実現できたのに」
 手が汗ばんできた。
 兄さまは、サマラおばさまを失った痛手を癒やすためにも、泉を妻にすると言うのでは。そして、それを祝福しろと言うのでは。
 いや、それは聞きたくない。
 でも、この手を振りほどく力も出ない。
 せめて、泣きわめくことだけは避けたい。醜態をさらしたら、泉に笑われる。
「おまえはまだ、そんなことを考える年齢ではないだろうが、少なくとも、約束だけは取り付けておかないと、わたしは心配で夜も眠れない。わたしが気長に待っているうち、誰かが、おまえの人生に入り込むかもしれないだろう。そんなことになったら、今日まで耐えた意味がなくなってしまう」
 え、誰が何ですって。
 兄さまが、何を耐えたっていうの。
 なんか、違う話の流れになっていない?
 でも、今、自分の判断力に自信がなくて、問い返せない。
 兄さまが片手であたしの手を握ったまま、片手で薄い小箱を開いていた。大きなルビーの嵌まった、金の指輪が輝いている。
 なんて綺麗なの。炎が燃え立つよう。よくある合成石ではなくて、貴重な天然石だわ、きっと。
 指輪に見とれているうち、何か、言われたと思う。
 でも、言葉が耳を素通りして、事態がわからない。
 ただ、どうやら兄さまが、あたしにその指輪を差し出しているらしい。あたしの薬指のサイズに合わせた、と言っているように聞こえる。
「あの、あたし……あたしがこれ、もらえるの?」
 あやふやなまま尋ねたら、返事が聞こえた。
「この石が気に入らなければ、新しく作らせる。将来、わたしと結婚してくれる気があれば、婚約指輪として受け取ってほしい」
 えーと。
 えーと。
 頭の中がぐるぐるして、考えがまとまらない。これって、もしかして、プロポーズ? あたし、兄さまに必要とされている? 何か都合よく、話を誤解しているわけではないわよね?
 兄さまは、なおも話し続けた。あたしを育てている間、ある時点で、
(この子を他の男に渡すことには、耐えられない)
 と感じたこと。
 それから意識して、あたしを突き放す努力をしたこと。そうしなければ、将来、結婚相手として見てもらえる望みがなくなると思ったから。
 おまけに、とどめの台詞。
「もし、間違って、おまえが子供のうちに手出しをしてしまったら、紅泉に蹴り倒されて、土の下に埋められていただろう」
 まるっきり馬鹿になったみたいで、言葉が出ない。
 気が抜けて、溶け崩れてしまいそう。
 悲しい話じゃなかった。
 それどころか、夢みたい。
 兄さまはずっと、あたしを愛してくれていた。長い年月、あたしの成長を見守りながら……
 あれ、でも、ちょっと待って。
「泉は? 泉のことは?」
 あたしが向き直り、真正面から問うと、兄さまはあたしの手を離さずに言う。
「おまえが許してくれないのなら、やむを得ない。泉とは別れよう」
 あれ?
 あれ?
 だって泉は、兄さまを愛していると言ったのよ。泉はそんなことで、嘘や冗談なんか言わない。
 兄さまだって、泉が可愛いからこそ、今日まで何年も……
 あたしは急に立ち上がった。ようやく、頭がはっきりする。兄さまがあたしの手を握ったままなので、ベンチからは離れられないけれど。
 兄さまの端正な顔を見下ろして、あたしははっきり言った。
「そんなの、だめ。泉は、兄さまが頼りなのよ」
 ここは市民社会ではない。無法の世界だ。違法組織の中の地位なんて、いつ覆っても不思議ではない。いざという時、泉が本当に頼れるのは兄さまだけだ。
 辺境には、女が信頼できる男はごく少ない。
 泉を捨てるなんて、絶対にだめ。兄さまにそんなことをさせたら、あたし、自分を許せない。
 今日こそわかった。あたし、泉に会わなければ。そうしないと、前にも後ろにも動けない。
 もっと早く、そうするべきだった。
 あたしは愚かにも、あたし個人の心配ばかりしていたから、身動きとれなかったのだ。
 何て馬鹿なんだろう。紅泉姉さまに迷いがないのは、いつも人のために動いているからだ。あたしは、そういう姉さまに憧れ、手本にしてきたのではなかったか。
「兄さま、返事は保留にするわ。あたし、泉に会って話をするから。すぐに連絡して、泉を呼び寄せてちょうだい」
 兄さまは驚いたようだけれど、その時既に、あたしの腹は決まっていた。あたしが泉を説得できれば、あたしたち三人とも、幸せになれるのだ。
 辺境は、何でもありの世界。
 だったら、夫が一人で妻が二人でも、何が悪い。
 それにしても、兄さま。
 話が長いわ。黙ってあたしの唇にキスしてくれれば、それで済んだことなのに。

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