ミッドナイト・ブルー 茜編

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茜編 1

 俺は、それほど欲望の強い方ではない、と思う。
 普段は、女を必要とせずに暮らしていられる。身の周りの雑用は、無個性なアンドロイド兵で事足りるし、仕事上の相談は、相棒のショーティがいればいい。
 ただ、それでも年に何回かは、女の肌が恋しくてたまらず、頭がおかしくなりそうな時がある。
 失敗が続いた時、落ち込んだ時、寂しくなった時。
 誰かを抱きたい。
 誰かの腕に、抱いてもらいたい。
 柔らかい胸の谷間に、頭を預けたい。
 飢える自分に自分で苛立ち、ますます気持ちが荒む。
 仕事が手につかない。
 まともなことを考えられない。
 仕方がないので、手近の違法都市に寄り、安いバイオロイドの娼婦を買うことになる。後で虚しくなるとは知っているが、それが一番、後腐れがなくていい。
 〝本物の女〟はそういう行為を嫌悪し、軽蔑するが、それこそ身勝手だ。男の感じる根源的な飢えや孤独を、女種族は、決して本当には理解するまい。女に生まれたというだけで、大威張りで男を振り回せるのだから。
 本物の人間の女たちは、傲慢で冷酷だ。
 男が自分を欲しがっていると思えば、調子に乗って、途方もない要求を突きつけてくる。わたしだけを愛して。仕事よりも大事にして。呼んだらすぐに、どこからでも飛んできて。
 そのくせ、心底では、男を馬鹿にしきっている。愚かなケダモノと蔑んでいる。男が少しでも気に入らないことをすると、あっさりクビを言い渡す。自分は、すぐに次の男を手に入れられると知っているからだ。
 そんな女どもの前に這いつくばって、やらせてくれと頼むのか。
 あほらしい。
 金が買える女がいるなら、金で済ませる方が、はるかに賢いというものだ。

 俺は小艦隊の指揮艦を、ある小惑星都市の外周桟橋につけた。標準より小さい二級都市だ。直径五百キロほどの小天体の内部に、約四十万の定住人口がある。
 そのうち、本物の人間は一割程度。辺境の人口のおよそ九割が、人工遺伝子から培養された奴隷――バイオロイドだ。兵士、侍女、娼婦、店員、事務員、下級技術者。
 そして、人間とバイオロイドの総数の十倍ほどのアンドロイドが、末端の雑用をこなす。警備、輸送、修理点検、清掃、工場や建設現場の作業。こいつらは命を持たないので、備品扱いになる。
 俺は艦内のアンドロイド兵に、車の用意を命じた。こういう違法都市の繁華街には、ピンからキリまでの娼館がある。美少女、美少年、痩せたの、太ったの。グラマーな若い女というのが一番多いが、ありとあらゆるバイオロイドが揃えられている。尖り耳に尻尾つきとか、紫色の皮膚で頭に角とか。人魚型や半人半馬型もあるが、俺はそういうゲテモノは好かない。ごく普通の女でいい。
 しかし、俺がそういう気分の時、相棒のショーティは、哀れなケダモノを見るような顔をする。
「わたしは、船で留守番しているよ」
 と部屋の隅で寝そべりながら、気のないふりで言うが、内心ではこちらのことを、
(発情期の猿……)
 と思っているのだ。上着に手を通しながら、つい、ひがみ口調で言ってしまう。
「おまえ、俺を軽蔑してるだろ」
 腹側は白。額と耳から、背中、尻尾にかけては暗灰色。
 密生した硬めの毛皮に覆われたサイボーグ犬は(こいつの先祖は寒冷地のソリ犬、アラスカン・マラミュートだ。だから、新しいボディもその犬種を土台にした)、太い尻尾で床を掃きながら言う。
「そんなことはない。わたしにも、〝ただの犬〟だった頃の記憶があるからね。発情期の牝犬の匂いには、他の全てを忘れたものだ。きみを責めるつもりはない。生物としての本能が命じるのだから」
 しかし、こいつは〝ただの犬〟として老衰死に近づいてから、サイボーグ犬のボディに脳移植されて若返った。
 他の誰でもない。この俺が苦労して、脳細胞の活性化処置や、補助脳の埋め込み、声帯の改造など、あれこれの機能強化を施してやったのだ。
 その結果、途中からは、知能の向上したショーティ自身が、自分に新しい機能を付け加えていくようになった。
 性本能を封印したのも、当人(当犬?)の意志。過去に、飼育場の牝犬の相手に呼ばれた経験で十分だからと言って。動物の相手などに身を落とすのは、もはや耐えられないらしい。
 現在のショーティは、悟りすました高僧のようなものだ。
 高みから人間社会を観察し、培養奴隷の娼婦しか相手にできない俺を、寛大に哀れんでいる。
 仕方がないだろう。
 辺境星域に根を張る大小の違法組織は、ほとんど男の世界である。保守的な市民社会から脱出してきた男たちが、〝永遠の繁栄〟を求めて争うジャングル。
 たまには、組織に君臨する〝本物の女〟もいるが、彼女たちは、なまじの男より有能で冷酷だ。大抵はバイオロイドの美少年や美青年を小姓として侍らせているから、人間の男など、ほんの〝デザート〟に過ぎない。
 怒らせたら殺されるとわかっていて、誰が勃つか?
 中央星域の市民社会に行けば、少しは優しい女がいるかもしれないが、『生まれながらの違法強化体』である俺が、のこのこ中央に入り込むことはできない。
 もしも、市民社会に入れて欲しければ、哀れな亡命者として頭を下げ、前非を悔いるしかないのだ。望んで辺境に生まれたわけではないのに、人里離れた再教育施設に隔離され、市民道徳を叩き込まれた上、施設を〝卒業〟する時にはパイプカットされる。
 そんな目に遭うとわかっていて、誰が亡命などするか。
 とすれば、違法都市で安い娼婦を買うしか、女に触れる機会はない。
 かつての飼い犬、今は唯一の親友に軽蔑されたからといって、この頭は冷えはしない。
 男が金や権力を求めるのも、結局は、より多くの女を『モノにする』ためではないか。

 気密桟橋に接続した船から車で降り、長い連絡トンネルを抜けて、市街に入った。護衛の小型トレーラー二台は、適当な距離を保ってついてくる。
 街路樹が葉を落とす季節になっていた。多くの小惑星都市が、地球本星の北半球に合わせた気候設定を選んでいる。人類はまだ、魂の尻尾を地球に残しているのだ。辺境で培養されるバイオロイドたちは、太陽系の座標すら知らないのに。
 繁華街に並ぶ雑居ビルの一つで車を降り、中に入って適当な店を選んだ。いつものように、黒いゴーグルで目許を隠している。
 どの建物に入ろうと、どの道を歩こうと、あらゆる方向から種々のセンサーでスキャンされるのだから、たいした用心とはいえないが、少なくとも、一族の誰かにばったり、という事態は避けたいのだ。
 家出してから十年以上経つから、もはや、耳をつままれて連れ戻されることはないと思うが。
 これまで、どの違法都市を訪れても、そんな遭遇は起きなかった。あの一族は、滅多に自分たちの領宙を出ないのだ。進取の気性に溢れていたのは昔のことで、今はすっかり貴族的になり、澄まし返っている。実際には、猥雑な繁華街からの上がりで暮らしているくせに。
 ホテルのフロントのような受付には、黒服を着た、特徴の薄い男たちが並んでいた。汎用のバイオロイドだ。
「いらっしゃいませ。お一人さまですね。どのようなお好みでいらっしゃいますか」
 俺の背後に控えた三体の護衛は、一目でわかる機械人形なので(屈強な男の姿だが、黒いゴーグルをかけた顔に表情はなく、何より、皮膚が灰色なのだ)、女を必要とするのは、当然、俺一人である。
 俺は敵娼に細かい要求はしないが、一つだけ譲れない点があった。多少、割高にはなるが、やむを得ない。
「使い古しの女はごめんだ。新品を見せろ」
  この俺が、他の男たちが繰り返し汚した〝穴〟など使えるか。
 女たちの健康管理は万全だと知っているが(伝染病などの深刻なトラブルが発生すると、都市の管理組織に店ごと抹消されるからだ)、それでも、他の男が舐め回した後では不愉快だ。
「かしこまりました」
 曖昧な笑顔を浮かべた黒服は、すぐ近くの部屋へ俺を案内する。
「こちらの娘たちは、つい先週、工場から仕入れて研修を済ませたばかりの〝初物〟です。何人でも、お好きな女をお選び下さい」
 俺は頷き、部屋に踏み込んだ。
「女は新品に限る。他の野郎の体液が染みついた後では、気色が悪いからな」
 とうそぶきながら。
 護衛たちは戸口に残った。白い壁と、古典的な板張りの床。大きな横長の鏡を載せた、木製の化粧テーブル。床に置かれた花瓶に、こぼれるほど盛られた百合の花。
 甘い香りが強いのは、女たちの香水も入り混じっているからだ。妙に生暖かいのは、女たちに薄着をさせておくため。
 厚地のカーテンがかかった窓が幾つかあるが、夕暮れの市街に見える景色は、ただの風景映像だ。こういう施設では、女たちの逃げ道になりそうな開口部は、あまり作らない。
 脱走を図る女はまずいないが(どうせ、逃げる先などない。野良バイオロイドがうろつくのは見場が悪いので、都市の警備部隊か清掃部隊が始末する)、飛び降りて死のうとする女はたまにいる。いくら従順に作られていても、目の前で仲間の女が責め殺されれば、神経をやられるのは無理もない。
 色とりどりのドレスを着た七、八人の女たちが、アンティーク風の布張りの椅子や、優美な曲線を持つ長椅子に散らばっていた。
 艶やかな赤毛の巻き毛、ふわふわの金髪、滝のような黒髪、短いプラチナブロンド。
 ファッション雑誌を眺めたり、レース編みをしたり、互いにしゃべったりしていたものが、一斉に顔を上げて俺を注視する。そして、仕込まれた通りに微笑む。
 どの女も人形のように整った顔立ちで、しかも、笑顔がひきつっていた。当たり前だ。運が悪ければ、最初の客に首を絞められる。
 気の毒だが、まあ、バイオロイドの宿命だ。俺だって明日、どこかの組織に吹き飛ばされるかもしれない。
 さて、どの女にするか。
 俺は自分が黒髪、黒い目なので、それとは反対の、明るい髪、明るい目をした女が好みだが……
 視線を巡らせ、奥の椅子にいた女に目を留めた。
 そして、息をするのを忘れた。
 ふっさりと切り揃えた前髪に、大きな金茶色の瞳。
 白い顔を縁取り、肩にこぼれる長い茶色の髪。
 紫の地に白い花の散った着物を着て、赤い帯を締めている。
 まさか。
 視野が暗くなるほどの恐怖、衝撃。心臓の鼓動が激しくなり、周囲に聞こえるのではないかと思う。
 ――落ち着け、違う。
 あいつは、故郷の屋敷の奥深くで、幾重にも守られているはずだ。間違っても、こんな場所に売り飛ばされたりするものか。たとえ、一族がどう零落したとしても。
 喉から飛び出しそうだった心臓が、元の位置に収まってきた。偶然の一致で、そっくりの顔になっただけ、とわかってくる。
 俺を見ても、その女の表情はほとんど動かなかったからだ。ただ、俺の凝視に対して、わずかに困惑しただけである。
 これがあいつなら、たちまち嫌悪にこわばり、顔を背けるはずだ。
 俺には、その女を指名するつもりはなかった。安物のバイオロイドなどに、動揺させられてたまるか。
 そちらに背中を向けて、他の女を物色するふりをした。しかし、首筋が緊張してしまう。他の女がみな、像を結ばない。その女のことだけ、ひりつくように意識してしまう。
 その時、新手の客が来た。やはり黒いゴーグルをかけた、俺と同じくらい大柄な、金髪の若い男。いや、遺伝子操作や不老処置が当たり前の辺境では、実年齢はわからない。そいつは壁際に控えている黒服に向かい、慣れた様子で言う。
「茶色い髪がいいな。この間は黒髪だったから」
 そして、俺の背後にいた着物の女に目をつけた。
「おお」
 と満足そうな声を出し、俺の横を抜けて近づこうとする。
 俺は反射的に腕を伸ばして、女の顔の前に防壁を作ってしまった。女ははっと息を呑む。
 金髪の男はたたらを踏んだが、素早く俺と距離をとった。喧嘩を売られたと思ったか。
 通路に残した双方の護衛兵が、さっと銃を構えて対峙する。女たちは凍りつき、黒服は悲鳴のように叫んだ。
「撃ち合いはおやめ下さい!! 警備兵を呼びますよ!!」
 こうなったら仕方ない。俺が買わなければ、他の男がこいつの上に乗るのだ。
「悪いが、俺が先に選んだ。他の女にしてくれ。料金は俺が持つ」
 俺自身は銃など抜かず、なるべく穏やかに言ったつもりだが、まだ威嚇的だったかもしれない。俺は上背があるし、あまり平和的な人相ではないからだ。
 金髪男は面食らったようだが、刺客や当たり屋の類ではないと理解したようだ。懐の銃を抜きかけた手を、脇に戻す。俺が横入りしてしまった形なので、にやりとして尋ねてきた。
「三人選んでいいか?」
 割高の処女を、三人だと。
 ぶん殴ってやりたかったが、執着を見せた時点で、俺の負けである。
「承知した」
 と答えると、
「じゃあ、そこの赤毛と黒髪。それから、そこの金髪だ」
 と指名して、すぐに女たちの肩を抱き、部屋を出ていった。俺の気が変わる前に、と思ったのだろう。護衛兵たちは銃をホルスターに戻し、俺は密かにほっとする。
 撃ち合いをしたところで、負けるとは思わないが(俺は最高水準の強化体だ)、この店から放り出されるのも、間違いないからだ。巻き添えで、女たちを死なせるのも困る。
 紫の着物の女は、深いトパーズ色の瞳で、困ったように俺を見ていた。まだ直接、俺が声をかけていないからだ。
「来い」
 と手を差し出して言うと、慌てて立ち上がる。このままずっと座っているわけにはいかないと、わかっているのだ。客に指名されなければ、ただの無駄飯食いにすぎない。
 指名率の下がった古い女たちがどうなるか、この部屋にいる新品の女たちは、まだ知らないだろう。だが、俺は知っている。安く転売され、生物兵器や化学兵器の効果を試すために使われるのだ。
 知らないで済むなら、知らない方が幸せというものだ。最後の瞬間まで。

 金を払う段になって(しかも四人分!)、黒服に確認された。
「しゃべれないタイプですが、構いませんか」
 つい、暗澹としてしまう。そういう女を望む男がいるから、あえて声を潰されるのか。まさか、目を潰された女や、手足のない女など、別室に用意されていないだろうな。
「別に、構わない」
 世の中には、歪んだ男も多いのだ。
 というより、辺境ではそれが多数派か。違法都市自体、ご清潔な中央の市民から見れば、邪悪と狂気の巣窟らしいから。
 俺もまた、女を買うという時点で〝人間失格〟だろう。
 とにかく、客室の一つに女を連れて入った。護衛兵の一体は通路に残り、あとの二体は室内の適当な位置に立つ。こいつらは上位システムの端末にすぎないので、何を見ようが聞こうが、考えることも悩むこともない。ただ異変があった時に、主人を守って戦うだけのこと。
 俺は室内を見渡した。天蓋がついた古典的ベッド、アンティーク調の椅子とテーブル、怪しげな小道具が並んだ飾り棚。厚いカーテンがかかった、見せかけの窓もある。それに平凡な浴室が付いただけの、つまらない部屋である。
 メインの照明が、古びた燭台に立てた、何本かの蝋燭というのもお笑いだ。これで、雰囲気を出しているつもりか。
 別に文句はない。くつろぎたくて来ているわけではないからだ。一晩分の料金は払ったが、用さえ済めば、さっさと出る。
 テーブルには何種類かの飲み物とグラスが出ているが、口にするつもりはない。辺境で暮らす者なら、当然の用心だ。食事は船で済ませてきたし、喉が渇いたら、兵に持たせてある容器の水を飲む。
 女はやはり、安物のバイオロイドだった。
「ここへ来い」
 と言えば、おとなしくベッドの横に立つし、
「脱げ」
 と言えば、おとなしく帯をほどきだす。
 そう、この、着物というやつも悪かったのだ。おかげで、錯覚が強くなった。あいつもよく、一族の女たちに、花模様の着物を着せられていたからな。
 長い髪を複雑に結い上げ、豪華な帯を結んださまは、生きた人形のようだった。ごつごつした自分とは、別世界の生き物。何をしても魔法のように優雅で、花が咲いたように明るい。
 ガキだった俺は、遠くから呆然と見るだけだった。たまに優しく声などかけられた時は、うろたえてしまい、ぶっきらぼうな返答をするのがやっとだった。
 それが恋だとわかるのに、何年もかかったものだ。
 わかったからといって、何もいいことはなかったが……

 女は花模様の着物を脱ぎ、緋色の長襦袢を肩から落とす。脱いだものを椅子の背にかけると、スリップドレスのような、膝までの下着姿で振り向いた。
 半透明の布を押し上げている二つのふくらみは、満月のように丸くて豊かだ。薄赤い乳首が、透けて見える。
 あれを、この手で味わいたい。白くなだらかな肩に、噛みついてもみたい。いや、痕が残るほど強くはしないつもりだが。
 女はそのまま、もじもじと立ち尽くしている。それがまた、俺の攻撃欲を刺激した。闇に揺らめく蝋燭の明かりは、確かに、女を数段、魅惑的に見せる。
「そこへ上がれ」
 と命じた。女は素足に履いていたサンダルを脱いで、広いベッドの上に乗り、こちらを向いて、きちんと正座する。
 そのさまがまた、あいつを思わせた。今だけ本当に、あいつだと思ったらどうだろう。
 しかし、あいつはもっと小柄で華奢だった。胸にはわずかなふくらみしかなく、白い手足も、俺が少し力を入れれば、折れてしまいそうな細さだった。わずか十三歳の少女だったのだから、細くて当然だが。
 あれ以後、少しは豊かに育ったかもしれないが、成人した彼女を間近で見ることなく、俺は故郷を捨てた。
 だから、俺の記憶の中では、いつまでも少女のままだ。おかげで、俺の罪悪感も凍りついたまま。
 泣いて嫌がる少女を、押さえつけて強姦した。
 いま思えば、ひどく不当で残酷なことだ。
 しかし、決して悪意からではなかった。俺は彼女が好きだった。向こうの気持ちは不明だったが、無理にでも『そういう関係』に持っていけば、彼女もあきらめて、俺に付き従うようになると思った。
 十五歳の俺は、その程度の認識しか持っていなかったのだ。
 女というものは、男に征服されるのを待っているものだと。最初に抵抗してみせるのは、儀式のようなものだと。
 言い訳になるが、育った環境が悪かったのだ。屋敷の敷地を一歩出れば、そこは、あらゆる悪徳の渦巻く違法都市だった。いくら屋敷内の保護者たちが俺の目を塞ごうとしても、俺は外界から学んでしまった。力のある者は、欲しいものを何でも手に入れられるのだと。
 だから、俺が強く出ればいい。多少の抵抗になど、くじけずに。
 その結果、どうなったか。
 俺は彼女に呪われ、嫌悪された。
 永遠に、汚いものを見るような、冷たい軽蔑の目でしか見られない立場に落ちた。
 土下座して詫びても、無駄だった。澄んだトパーズ色の瞳は、何の哀れみも浮かべていなかった。
 ――本当に悪いと思っているなら、死んでみせて。
 俺は石段の下に土下座したまま、凍りついた。屋敷の中庭に、無数の薔薇が咲き誇る季節だったが、氷の剣で処刑されたような気がした。
 ――それができないなら、二度と、わたしの前に現れないで。
 彼女は白いドレスの裾を翻し、テラスの上から、奥の室内に消えていった。
 はかなげに見えた少女の、純粋だからこそ、容赦のない拒絶。
 だから、俺は逃げ出したのだ。実務の勉強のためという名目で預けられた先の姉妹都市から、数年後、一族の船を盗んで逃亡した。
 たとえ何百年経っても、あいつは俺を許さないだろう。俺はもう二度と、まともな女とは付き合えない。俺のしたことを知ったら、まともな女は、決して俺を受け入れてはくれないだろう。

   2

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 失敗だった。
 新品がいい、などと言うのではなかった。
 声が出ないため、俺が何をしても悲鳴はあげないが、痛そうな顔、怯えた身動きをされると、こちらは罪悪感で一杯になり、猛っていたものが萎えてきてしまう。
 乳首を優しく口に含んでも、感じるというよりは、ただ痛く、恐ろしいだけのようだった。客には絶対服従と躾けられているために、逃げ場はないと、観念しているだけなのだ。
 念のため、下の方を手で探ってみたが、やはり乾いている。これまで、他の〝初物〟を抱いた時は、少なくとも、そいつらが濡れるまでは持っていけたのに。
 娼館用に培養されるバイオロイドだから、その方面では成熟しているのが普通なのだ。というより、俺が、成熟した頃合いの女しか選ばなかったからだが。
 今回は、俺がいつもより余裕を失っているということか。それとも、たまたま成熟度の足りない女を選んでしまったのか。
 濡れていなければ突入してはならない、ということは知っていた。男にとっては、多少摩擦があるというだけのことだが、女にとっては、大変な苦痛なのだという。傷を負うこともあるという。それをガキの頃、知っていればよかったのだが。
 棚には潤滑剤が置いてあるが、それを使っても、本人の緊張が解けない以上、苦痛はさして変わるまい。
 仕方ない、時間をかけるしか。
 もう一度、キスからやり直した。なるだけ慎重に、壊れ物を扱うように。
 しかし、女の硬直はほぐれない。ぎゅっと閉じた目から、涙が流れているのを見ると、もういけない。
 まるで、あいつをもう一度、犯しているかのようだ。呪われるという結末が、わかっているのに。
 ――無理だ。出直そう。他の店で、男に慣れた女を買おう。
 他の男の使い古しでも、別にいいではないか。どうせ俺も、裏通りをうろつくチンピラの一人にすぎないのだから。いきがって、妙なこだわりを持つ必要もない。
 俺がベッドから降り、シャワーも使わずに服を着はじめると、あいつにそっくりの女は、途方に暮れたような顔をする。少なくとも、俺が満足しなかったことはわかるのだ。そして、それを自分の落ち度と思っている。
「心配するな。おまえが悪いわけじゃない。支配人には、満足したと言っておくから」
 しかし、女は長い髪を乱したまま、惨めそうに首を振る。監視モニターで査定されることを、知っているのか。それで持ち点が低くなれば、処分が早まることも。
 どこの組織でも、バイオロイドの生存期限は五年と決まっている。反抗や脱走を防ぐため、余計な知恵のつかないうちに廃棄処分に回すのだ。
 泣き顔など見なかったことにして、さっさと出ていくべきだった。どうせ、どこの違法都市でも、毎日、たくさんのバイオロイドが売買され、使い捨てられていく。その中の一人に同情したところで、焼け石に水。
 いつか、遠い未来には、俺とショーティが力を持つようになり、そういう常識を変えられる日が来るかもしれないが……
 夢物語だ。
 今はまだ。
 俺の故郷の一族ですら、六大組織が作る〝連合〟の支配体制に吞み込まれずにいるのがやっと。
 俺は女を振り向かず、ゴーグルをかけて通路に出た。前後を兵にはさまれ、店の出口へ向かう。
 ちょうどその時、幾つか先の部屋で扉が開いた。黒服の従業員が、細長い搬送台を運び出していく。
 白い布をかけているが、その輪郭から、死んだ女と知れた。台の端から、長い金髪がこぼれ落ちている。赤い切り傷のついた腕が、妙な角度で布の下に垂れている。
 サディストの客に当たったのだ。それに見合うだけの料金を払えば、生きたまま皮を剥ごうとも、部屋に内臓を撒き散らそうとも、娼館側は文句を言わない。黒服の男は静かに台を押して、従業員用区画に消えていく。
 俺は足を先に進めようとしたが、内臓がねじれる気がして、できなかった。
 何かが警告している。
 全身の細胞が、引き返せと言っている。
 あいつを置いて船に戻ったら、俺は一生、思い出して悔やむのではないか。
 息を吸ってから、踵を返した。
「泣きやめ。起きて支度しろ」
 蝋燭の明かりだけの部屋で、白いシーツの上にうずくまっていた女は、驚いてベッドから飛び降りた。落ちていた下着を拾い上げ、着物をまとっていく。
 だが、慌てているので、帯がうまく結べない。待たせると俺が怒るのではと怯えて、また失敗する。
 俺はため息をついた。
「急がないから、ゆっくりやれ」
 と椅子にかけて待つ。手伝おうにも、どうすればいいか、わからないのだ。
 やがて俺は、身支度のできた女を連れてフロントに戻り、紺のスーツ姿の支配人が言うだけの身請け代を払った。この店にいる〝本物の人間〟は、この支配人だけだろう。どこの組織も末端はバイオロイドであり、人間は要所にいるだけだから。
 まったく、予定外の散財だ。
 といっても、実はたいした値段ではない。俺が乗ってきた武装車一台より安いのだ。培養工場からじかに買えば、もっと安いだろう。
 中央からさらわれてきた〝本物の人間の女〟だと、公開の競り市で、のげぞるような高値がつくことも珍しくないのだが。
「こいつの私物は?」
 と尋ねたら、支配人は、整形らしいハンサム顔に薄笑いを浮かべた。
「お客さま、バイオロイドに財産などございません」
 それはそうだが……着替え一枚、口紅一本すら、付けて寄越す気はないのか。
 別に欲しくもないが、せこい奴らだ。辺境の人間たちは、バイオロイドの労働の上に生きているのに。

 こいつはおそらく、他の新品の女たちと共に店に〝配送〟されてから、一度も外に出たことがないのだろう。俺と一緒にビルの地下駐車場に降りただけで、夢中になってあたりを眺め回している。
 移動基地として使われる大型トレーラー、中型輸送車、平べったいスポーツ車、使い走り用のバイク。
「こっちだ」
 俺のランドクルーザーの後部座席に収まってからも、大きなトパーズ色の目で、車内をまじまじと見回している。そして、運転席や助手席にいるアンドロイド兵たちを、珍しそうに観察する。娼館にも警備兵くらい、いるだろうに。
「半分は有機組織だから、呼吸してるし、体温もあるが、人間じゃない。頭の中身は、通信装置や記憶装置だけだ」
 俺が説明すると、あやふやな顔をしている。口がきければ、おそらく、あれこれ質問したいのだろうな。
 車が発進して斜路を上がり、外の道路に出ると、今度は市街の夜景に目を奪われたようだ。闇の中にそびえるビル群が、無数の窓から控えめな明かりをこぼしている。はるかな頭上には、円周対岸の市街の明かりが、半ば雲に隠されながらも、大きな幾何学模様を描いている。
 まるで、初めて遠足に来た小学生のように(俺は学校というものに通ったことはないが、中央製の映画ではお馴染みだ)、女は口を開けて左右の窓を見、更に身をよじって後ろの窓に気がついた。
 そちらの方が視野が広いとわかると、ついには完全に後ろ向きになり、座席に膝をついて、白い手で背もたれをつかみ、飛び去る街の景色に見入っている。
 ふと、気がついた。もしかしたら、あの生暖かい部屋にいた女たちに、別れの挨拶をさせてやるべきだったのか。彼女たちの間に仲間意識や、友情らしきものがあるとしての話だが。
 しかし、この女に何が説明できる。
 客に買い取られた、と身振りや筆談で伝えられても、それが幸か不幸かまでは、本人にも不明なのだ。
 他の女たちはおそらく、良い想像をしないだろう。いや、もしも良い想像をしてしまったら、その方がはるかに悪い。
 バイオロイドの娼婦が〝まともな男〟に引き取られることなど、おそらく、百万回に一回の奇跡だろうから。娼館に残される女たちには、この先、何の希望もない。
 しかし、それでもなお、お馴染みの、腹を寒風が吹き抜けるような虚しさはなかった。むしろ、宝物でも盗んできたかのような、気恥ずかしい高揚感がある。
 ついに、〝専属の女〟を手に入れてしまったのだ。
 俺の一族は、屋敷内でバイオロイドを使うことをしなかったから(それが唯一、人道的な配慮だった)、俺もまた、アンドロイド兵士を使用人にするだけで済ませてきた。しかし、これからは。
 やがて、自分がはしたない真似をしていると気づいたのか、女はおずおず、俺と兵の間に座り直した。着物の裾を直し、膝の上で手を重ねる。
 何か言ってやるべきだ、と思った。何か、寛大な主人らしいことを。
「あー、心配しなくていい。俺の船に連れていくが、何も怖がることはない」
 嘘だな、と自分で思った。
  目的は一つだけだ。安全な船内に連れ込んだら、今度こそ、最後までじっくり楽しむつもりなのだから。
 これからは好きな時、好きなだけ撫で回せる、と期待しているだろう?
 その通りだ、何が悪い、と自分で開き直った。最初から、そのために作られている女ではないか。
 俺は、五年で殺したりしないのだから、こいつにとっては、最高に望ましい〝主人〟のはず。
 邪魔なゴーグルを外して胸ポケットに入れ、直接、女の目を見て言った。
「これからは、俺が〝主人〟だ。おまえは、俺の言うことを聞いて暮らせばいい。わかったか?」
 女は真剣な様子で、大きく頷いた。まるで、厳格な院長から、孤児院の規則を説明された捨て子のように。
 といっても、そんな施設は、もはや歴史映画の中にしかない。市民社会では、親を失った子供がいても、祖父母か親戚、もしくは、きちんとした養父母に引き取られるのが普通だ。
 いや、実際に、バイオロイドというのは孤児そのものか。設計された遺伝子から、親なしで生み出される孤児だ。
 いかなる幸運でか、市民社会に引き取られた数少ないバイオロイドたちは、再教育施設に入れられ、そこで『人間としての教育』を受けるという。それこそが、現代の孤児院か。
 兵の運転する車は、遠心力で一Gを保つ市街を抜け、車両用エレベーターに乗って、巨大な回転円筒の中心軸に上がる。
 上がるにつれ躰が浮きだすので、俺は女にシートベルトをかけた。驚いて騒ぐかと思ったが、どうやら小惑星工場からの搬出時に、0G空間を経験しているらしい(眠らされたままの移送も多いのだ)。髪がふわふわ浮きだしても、それを手でまとめ、じっとしていた。
 そういえば、着物の時は本来、髪を結うものではないのか? しかし、どのようにして?
 考えてみれば、こいつの着替えや何か、街で買ってくるべきだったのか。
 しかし、俺には必要なものがわからない。こいつにも、わかっているか怪しいものだ。ここまでの様子を見る限り、一人前の女というより、ものを知らない子供のような気がしてきたぞ。
 車は桟橋区域に入る長いトンネルに入り、電磁推進に切り替えて進んだ。女は髪を手で押さえたまま、食い入るようにトンネル前方を見つめている。培養カプセルにいる間、最低限の日常知識は植え込まれているはずだが、本当に最低限であるに違いない。
 段々と不安になってくる。船には、ショーティがいることを思い出したのだ。奴は何と言うだろう。
『世話もできないくせに、女など連れてきて』
 か?
 捨て犬を拾って、母親に叱られる子供の気分だ。俺はもしかして、馬鹿かもしれない。いい年をして、犬に叱られながら暮らしているとは。

 車ごと、船内格納庫に乗り入れた。動力区画や貨物区画は0Gだが、船内居住区だけは1Gを保つように回転している。
 居間として使っているラウンジに入り、内心でびくびくしながら、女を見せた。到着寸前に、連絡だけは入れてある。
 すると、ショーティは俺にではなく、女に対して優しく言った。
「ようこそ、お嬢さん。シヴァに引き取ってもらって、よかったね」
 あ、そうか。俺はまだ、自分の名前を名乗っていなかった。
 というか、名乗る必要を感じていなかった。長いこと、俺はショーティとだけ暮らしていたから。
 他に人間関係……というか、〝本物のつながり〟を持っていないのだ。仕事用には、数種類の名前を使い分けている。こちらは単なる記号にすぎず、数年で別の名前に切り替えていく。外部に、余計な情報を漏らさないためだ。
「店にいるより、はるかにましな暮らしができるはずだ。ここでは誰も、きみに〝意地悪〟したりしないからね」
 おう、そう来るのか。
 両手を胸の前で握りしめた女が、不思議そうに目をぱちくりする。言われた内容より、言った相手に驚いているようだ。
 警備用のサイボーグ犬なら珍しくないが、自分の意志で主体的にしゃべる犬は、俺だって他に見たことがない。
 もちろん、知能強化されたペットなら、いくらでもいる。違法組織の幹部たちはよく、見せびらかし用に虎や豹を飼う。しかし、そいつらは、ご主人さまに命令された時に、哀れな犠牲者に飛びかかるだけだ。主人に楯突く 意志など持たないように、調整される。主人に説教する犬など、銀河系中探しても、こいつくらいのものだろう。
 もちろん、当人(当犬)は、もはや、俺を主人だなどとは思っていない。それどころか、自分が導くべき哀れな子羊とみなしている。今はただちに、この女の保護者になることに決めたらしい。
「どうぞよろしく。わたしはショーティ。知能強化を受けたサイボーグ犬だ」
 と紳士のように自己紹介する。いや、辺境に紳士が存在するとしたら、こいつだけかもしれない。
「この女は、しゃべれないんだ」
「わかっているよ。兵から報告を受けている」
 船の管理システムを通して、兵のメモリーを検索できるのだ。ということは、俺が『中途であきらめた』ことも確認済みだな。
 こいつにとっては、人間の交尾など、学術的興味の対象に過ぎないから、護衛兵の視点で記録された映像を見られても……まあ、いい気はしないが……実害はない。
「必要な時は、筆談で意見を聞こう。お嬢さん、字は書けるかな?」
 女が頷くと、ショーティも満足そうに頷いた。犬の顔にも表情はあるのだ。というより、全体の雰囲気でわかると言うべきか。
「これから、わからないことや、困ったことは、何でもわたしに言うといい。シヴァと喧嘩したら、わたしが守ってあげるからね」
 おいおい、誰がこの船の持ち主だ、と言いたくなる。
 しかし、言えない。
 ショーティの知恵のおかげで、俺の財産は(いや、俺たちの財産は)何倍にも増えたのだ。無人星系で掘り出した鉱石を、どの組織に売るか。剰余の資金を、どんな商売に投資するか。違法都市での店番には、どの若者を採用するか。ショーティの読みがなかったら、もっと苦労していたはずだ。
 家出の直後は、本当に船の数隻しかない貧乏暮らしだった。俺の一族は金持ちなので、領宙を守る艦隊の予備艦船の一部を盗み、できる限りの物資を積み込んで、出奔してきたのだ。
 倉庫破りをして悪かったが、俺には、どうしても必要な原資だった。金やプラチナなど、一族は、また資源惑星から掘り出せばいいのである。
 しかし、他の何よりも、ショーティの知能強化をしたことが、俺の運を開いてくれた。船の管理システムとリンクし、体内の補助脳に続く第三の脳として使えるショーティは、大学教授千人分くらいの教養を自分のものにしているからだ。必要に応じてアンドロイド兵たちも制御してくれるから、心強い。
 ショーティもまた、老衰死を免れ、二度目の人生を与えられたことを、俺に感謝してくれている。いくら俺でも、たった一人で一族から離れるのは心細かったのだ。だから、死の寸前で凍結しておいた老犬を、カプセル詰めのまま持ち出した。
 それが、これほど強力な相棒になるとは、自分でも予測しなかった結果である。
「まず、きみの部屋を用意しようね。それに、服も揃えなくては。繁華街のブティックから取り寄せるから、楽しみに待っておいで」
 ショーティが言った途端、女のトパーズ色の目がきらきらと輝き、頬がピンク色に上気し、大きな笑みが浮かんだのには驚いた。感謝と尊敬を込め、祈るような仕草で犬をみつめている。
 失敗した、と俺は悔やんだ。
 そんなもので買収できるとわかっていたら、娼館を出てすぐ、何十着でも買ってやったのに。
「シヴァ、きみは夜食が欲しい頃だろう。お嬢さん、きみもお腹が空いているはずだ」
 女が大きく頷くと(お嬢さんなどと呼ばれたのは生まれて初めてだろうに、それが自分のことだとわかるらしい)、ショーティは俺たちを食堂へ入れた。子羊を誘導する牧羊犬さながらだ。そして、アンドロイド兵に給仕を命じ、自分はどこかへ消えていく。
「まあ、まずは食うか」
 俺たちはテーブルをはさんだ席に着いたが、妙なものだった。ついさっきまで娼婦だった女と(まだ生娘のままだが)、こうして正面から向き合うとは。
 向こうは平気かもしれないが、あれだけ悪戦苦闘した後では、こちらが照れる。
 やがて、暗緑色の制服を着た兵たちが、何皿もの料理をワゴンで運んできた。美味そうな匂いが漂うと、女はおずおず、許可をうかがう態度になる。
「好きなだけ食え、遠慮しなくていい。食べたいだけ、自分の皿に取ればいい」
 すると、ほっとしたように、取り分け用のスプーンやフォークに手を伸ばす。
 俺も空腹だったので、とりあえず食うことに専念した。強化体は基礎代謝が高いのだ。俺の場合、一日に五回、たらふく食べないとエネルギーが欠乏する。食べるものがないという非常事態なら、飢餓モードに切り替わる仕組みだというが、そのモードに落ち着くまで、あまりにも辛そうなので、まだ試したことはない。
 料理はいつも、栄養のバランスを考慮して、ショーティが指定する。俺に任せておくと、肉ばかり食べるのでよくないそうだ。自分はドッグフードと肉しか食わないくせに(たまにはパンやホットケーキも欲しがるが、高度な味覚があるわけではないと自分で認めている)、頭で人間の食べ物を理解するのだ。
 柿と胡桃とカッテージチーズのサラダ、サフランライスを添えたチキンカレー、豆とトマトとハーブのサラダ、焼いて塩とオリーブオイルをかけた野菜、オレンジソースをかけたローストポーク、牡蠣と白身魚のフライ、何種類かのパン、果物のシャーベット。
 レトルト物が多いが、最高級の品ばかりなので、味は悪くない。料理担当の兵には、一流シェフの技能を入力してある。他の面は質素でいいが(服は、気に入った数枚を擦り切れるまで着る。古びた頃が、着心地がいい)、食べ物が貧しいのだけは我慢ならないのだ。
 俺は冷やした白ワインを飲み、女のグラスにも注いでやった。別に、酔わせてどうこうするつもりではない。俺がいい酒を飲むのに、相伴させないのは悪いからだ。
 しかし、向こうは酒に慣れていないとみえ、途中からは、もっぱらレモン水を飲んでいた。それなら、次の食卓にはアイスティでも用意するべきか。
 もちろん、大皿の料理のほとんどを取り分けて食べたのは俺で、彼女は全種類を、少しずつ味見しただけだ。太らないよう、厳しく食事制限されていたのかもしれない。
 満腹して、食後のコーヒーを飲んでいたところで、ショーティからお呼びがかかった。回転居住区の通路を歩いていくと、空き部屋の一つに、大量の荷物が運び込まれている。
 戸口から見るなり、女が息を呑んだ。もしも声があったなら、歓喜の叫びを上げていたかもしれない。白やピンクのクッションを幾つも積んだベッドの上に、様々なドレスが広げられている。
 薔薇色、水色、銀白色、深紅、オレンジ、ベージュ、サーモンピンク、レモン、クリーム、若草色、抹茶色、菫色、濃紫。
 いかつい兵たちが、黙々とそれらをクローゼットに収めていく。靴やサンダル、バッグ類もあった。帽子、手袋、コート、スカーフ。こちらの目がくらみそうな、レースやフリルの下着類。
 女はのぼせてしまって、茫然自失という様子である。娼館では衣装も化粧品も、代々の女たちの共通財産だったのだ。
「このくらいあれば、当面、不自由はないだろう。この部屋に入りきらない分は、隣の部屋に入れておくからね」
 収納作業を監督していたショーティが言うと、女は長い袂をひらめかせ、ぎゅっとサイボーク犬の首に抱きついた。この幸福をどう表したらいいかわからない、という様子で、大きな犬に身をすりつける。
 おい。見ている方が恥ずかしいぞ。犬に甘えるなんて。
「気に入ってくれたかい。それはよかった」
 ショーティは鼻面を、女の頬に押し付ける。女は目を細めて笑い、身をよじって嬉しがる。
 あほらしい。
 隅で突っ立っている俺は、いったい何だ。
「小物もあるよ。見てごらん」
 幾つかの箱に、櫛や髪飾り、香水や化粧道具、その他、俺にはよくわからない、きらびやかな品々が詰まっている。
 この分だと、生理用品まで抜かりなく用意してあるに違いない。おおかたのバイオロイドの女は、人間の女と同様の妊娠能力を持たされている。
 ただし、実際にそういう役目を負わされることは、まずない。辺境の男には、子供など必要ないのだ。不老処置を繰り返していけば、何百年でも、何千年でも、元気なまま生きられる。子供など作ったら、危険なライバルになってしまうだけではないか。
 しかし、俺はようやくわかった気がする。
 こいつは犬の牝より、人間の女が好きだったのだ。ことによったら、人間の女をペットにしたいという、密かな野望を抱いていたのかもしれない。
 まさか、そのうち、おかしな真似はしないだろうな。動物相手では屈辱だが、人間相手ならという理屈で……いやいや、まさか。
 するとショーティが、俺を見てにやりとした。いや、そういう雰囲気を見せた。よもや、俺の邪推を見抜いたわけではないと思うが。
「きみをここへ連れてきたのはシヴァだから、彼にもお礼をした方がいいね。でないと、すねるから」
 内心、かっと熱くなった。礼とはどのように、という様子で女が首をかしげる。
「そうだな、ほっぺたにキスしてやるといい」
 俺は、犬に馬鹿にされていると思った。 いや、哀れまれているのか?
 ショーティにも、俺の従姉妹たちの記憶はあるのだ。当時はまだ、ただの犬だったから、顔形よりも、声や匂いで覚えているという。俺がなぜこの女を選んで買い取ってきたか、とうに察しているのだろう。
 しかし、まともに受け止めた女が立ってきて、俺の前で懸命に背伸びするので、仕方ない。
 頭を下げてやると、向こうは本当に、俺の頬にキスしてきた。そして、任務を果たした満足顔で後ろに下がる。俺はいったい、どんな顔をすればいいのだ。
 やがて、収納作業を終えた兵たちが退出すると、ショーティは俺に向き直った。
「ところでシヴァ、このお嬢さんの名前だが」
「あ?」
 初めて気がついた。俺はまだ一度も、こいつの名前を尋ねていない。ほとんど……まるきり……品物を買ったような気でいたからだ。さすがに、気がひけた。
「すまん。まだ聞いてない。本人に確かめてくれ」
 新たに据えられた鏡台をうっとり眺めていた女は、何か自分に用らしい、と気づいて振り向いた。
「では、書いてもらおう」
 ショーティは新たに兵を呼んで、女に筆記用ボードを持たせた。すると、女がそこに指文字で書いたのは、「BROWN」という文字列に続く三桁の数字である。どうやら店では、髪の色と番号だけで識別されていたらしい。
 哀れなのは、本人がそれを別段、おかしなことだと思っていなかった点である。それどころか、文字や数字が書けることを披露できて、誇らしいような顔をしている。俺とショーティが顔を見合わせると、ようやく、何か足りないのかと、不安そうな顔になる。
 するとショーティは、新たに名前をつけよう、と言い出した。
「これから、新しい生活を始めるのだからね。そんな数字は、忘れてしまえばいい」
 そして、俺に責任を振る。
「シヴァ、きみが彼女の運命を変えたのだから、幸先のいい名前を選びたまえ」
 俺は後込みした。女の名前など、無数にあるではないか。どうやって、たった一つに決めればいいのだ。
「おまえ、俺にそんなセンスがあると思うのか」
 自慢ではないが、俺は衣類も日用品も、実用の観点だけから選んでいる。絵や骨董品を飾る趣味もない。上に載っている料理が美味ければ、皿など何でもいいと思っている。
 過去の芸術家の作品も、どこがいいのか、よくわからない。女の裸だけは、描いたり彫刻したりする値打ちがあると思うが。
 ショーティの名前も、俺がつけたわけではない。箱に入って、子供時代の俺の前に置かれた時、既にそう命名されていたのだ。
「もちろん、思っていない。いま、わたしが候補を揃えるから」
 ショーティは船の管理システムに指示して(奴は体内の補助脳と通信機を使い、首輪の中継機能を利用して、無言のうちに船でもアンドロイド兵士でも操れる)、華やかなカードを用意させた。
 花の写真、絵画や彫刻の女神たち、映画や小説のヒロインのイメージイラスト。そして、その中から一枚選べという。
「目をつぶって引いてもいい。どれを選んでも、悪くないはずだ」
 女は祈るような顔で、俺とカードを見比べている。どうやら、名前の重要性を理解してきたらしい。すぐそこに新品のソファがあるのに(他の家具と同様、床に固定済みだ)、ショーティと同じ高さにいる方が安心らしく、着物姿で床に正座して待っている。
 頼むから、俺のセンスに期待するなと言いたかった。本当は、こいつが自分で決めればいいのだろうが、やはり、ある程度の教養や判断力がなければ、相応しい名前を選べないだろう。
 名前というものは、この世に新しく誕生する誰かに対して、周囲の人間が用意する最大の贈り物である。せっかくショーティが命名権を譲ってくれたのだから、俺も、このくらいの貢献はするべきだろう。
 俺の場合、シヴァという名前は、一族の最長老――俺の育ての親が決めたものだという。古代の神話に出てくる、破壊神の名前だ。
 古い秩序を壊し、新しい秩序を打ち立てるという神なので、俺は気に入っているのだが、ことによったら〝名前負け〟という人生になるかもしれない。
 女の場合は、平凡な幸福に相応しい、控えめな名前の方がいいのではないだろうか。
 俺は、ざっとカードを広げていった。ローズ、リリー、ジャスミン、リラ、マーガレット、デイジー、サクラという花の名前。お次はダイアナ、アテナ、セレネ、イリス、フレイア、サクヤという女神の名前。これは立派すぎる。あとは、シンシアやリサ、サラやエレナという普通の名前。だから、どういう基準で、たった一つに絞れというのだ。
 もう一度、最初に戻って吟味していくと、華麗な花々に混じって、目立たない、ごく小さな花の写真があるのに気づいた。野草のような、薄緑に近い黄白色の、米粒くらいの花。漢字一文字に、「akane」とルビが振ってある。
 漢字そのものが上品で美しいし、こいつには、派手な花よりしっりこないか。
「これでどうだ?」
 とカードを抜いてショーティに見せた。暗灰色の耳を立てた犬は、満足そうに頷く。
「茜の花か。みかけは地味だが、美しい緋色の染料が取れる植物だ。昔から、多くの人に愛されてきた。いい名前だと思う。どうかな、これは」
 ショーティが女に話しかけると、女は俺が差し出したカードを受け取り、まじまじ眺めてから、にっこりした。そして、大事そうにカードを抱え込む。おそらく、胸の内で、その名を唱えているに違いない。
 そういうわけで、女は茜になった。
 後から気づいたのだが、俺はどうやら、漢字名前に憧れがあるらしい。二人いる従姉妹たちが、どちらもそうだから。
 そしてショーティは、それを見抜いていたのではないか。だとしたら、俺はまたしても、犬に誘導されたのだ。

   3

 茜が船室でぐっすり眠っているうち、俺たちは出航した。小惑星の外周桟橋から離れ、無人の護衛艦に取り巻かれて、再び旅に戻る。
 別の小惑星都市で売り物のレアメタルを降ろした帰り道だから、ど田舎の基地へ戻るだけだ。俺たちのような新参者は、都市や主要航路からはるかに遠い宙域にしか拠点を持てない。
 超空間転移を繰り返し、違法都市の管制宙域を出ると、もはや無法の大海である。
 肉眼ではわからないが、大小合わせて百万と言われる違法組織の勢力圏が、互いに押し合っている。間違ってどこかの縄張りに踏み込めば、ただでは済まない。
 もちろん、境界を守る警備ブイが警告を発してくる以上、間違いようはないのだが。
 他組織の縄張りを迂回、また迂回。突っ切ろうなどと考えたら、吹き飛ばされる。もしくは、莫大な通行料を払うことになる。そんなことに使う金はない。
 威圧的な艦隊に出くわした時は、横に避けてやりすごす。探知されても無視されるだけだが、避ける動作によって、こちらが格下だと認めたことになるわけだ。
 くそ。
 いつか、俺の艦隊を前にして、他組織の連中がこそこそ迂回するような身分になってやるからな。
 しかし、茜には何もかも初めての体験であり、さして広くない戦闘艦の居住区でも、退屈する暇はないらしい。
 翌日には、さっそく新しい服を着て(ライム色のタイトなミニドレスだ)、茶色い髪を頭上でまとめ、ショーティの案内であちこち見て歩く。
 厨房、ラウンジ、無人の船室、運動用のジム、食料や雑貨の倉庫、武器庫、軽工作室、小型艇の格納庫、動力区域、資源循環区域。
 俺は距離を置いていたが、ショーティは非常時に備え、気密防御服の着方、エアロックの開け方、通信機の使い方、おまけに銃の撃ち方まで、アンドロイド兵を助手に使って練習させている。俺たちのどちらかが生きている限り、この娘が銃を持つ必要などないだろうに。
 茜は生まれたばかりの子供のように(事実、そうだと言える)、無邪気な好奇心と、柔軟な吸収力を備えているようだった。ショーティに注意されたことはよく覚え、すぐに船内暮らしに適応したのだ。
 奴の指示を受けながら、簡単な食事の用意をしたり(トーストやサラダ、ベーコンエッグ程度のものだ。あとはレトルト食品の盛り付けか)、そこらを片付けたり、俺の衣類のしみ抜きをしたり。
 もしも声があったなら、きっと鼻歌混じりにそうしたはずだ。何をしても新鮮で楽しいらしく、わからないことは身振り手振り、それに筆談でショーティに尋ねている。
 正直なところ、俺は何度も当惑させられている。慣れた船内なのに、毎日、何かが違う。
 たとえば、椅子の背に淡いピンク色のカーディガンがかかっていたり、食堂のテーブルに、香水の匂いがするハンカチが残っていたり。
 男と犬だけの暮らしでは、ピンクの品物など、見ることすらなかったと思う。
 俺がいつも、中央製の映画を鑑賞するソファで(辺境で作られる映画は、悪趣味なポルノや残虐なホラーばかりだ。ガキの頃はどきどきして見たが、今はもう食傷している。それより、まっとうな製作陣によるロマンスや冒険物がいい)、ショーティに付き添われた茜が、真剣な顔で、子供向けの名作アニメに見入っていたりする。
 これまで船内で動くものといえば、暗灰色の毛皮の大型犬の他には、いつかいアンドロイド兵だけだった。茜が食事時、皿を並べてくれたり、スープをよそってくれたり、コーヒーを注いでくれたりするだけで、だいぶ眺めが違う。
 おまけに、ショーティが茜のために選んだのは、良家の令嬢風の、上品な服ばかりである。色彩は明るいが、決して派手ではない。レースの襟がついていたり、ふわりと結ぶリボンがついていたりして、少女めいている。
 顔には出さないようにしていたが、毎朝、茜がどんな格好で現れるかが、俺の密かな楽しみになっていた。髪も三つ編みだったり、結い上げてあったり、リボンやスカーフをあしらったりして、毎日違うのが物珍しい。
 茜がポニーテールにした髪を揺らし、フレアースカートの裾を翻して歩いていくと、殺風景な船内に、まるで春風が吹いたような気分になる。
 陶然としてそれを見送り、はっとして自分を叱咤することが幾度もあった。
 しっかりしろ。
 ただのバイオロイドじゃないか。
 本物の人間の女とは違う。
 まして、あいつとは比較にならない。たまたま偶然、顔立ちや髪の色が似ているだけのこと。
 それが、少女時代のあいつと同じような服を着るから、つい錯覚してしまうだけで。だいたい、グラマー度は茜の方が上だ。
 気がつくと、ショーティが適切な助言をしているらしい。たとえば、黄色とピンクを同時に着るのは難しいとか(奴の色覚を強化した成果だ)、ミニスカートの時は素足をさらさず、タイツをはくべきだとか。
 化粧品をあれこれ使いたがる茜に、普段はリップクリーム程度で十分だと言うのも聞いた。俺も同意見だ。何も、毒々しい色を塗ることはない。茜は素肌で十分美しいし、もう娼婦ではないのだから。
 ――実はショーティに、はっきり釘を刺されている。茜に、余計な手出しをしてはならないと。
「せっかく安心して笑うようになっているのに、怯えさせてしまったら、これまでの苦労が水の泡だからね」
 何が苦労だ。
 目一杯、楽しんでいるくせに。
 まあ、いいだろう。スケベ心は引っ込めておく。俺だって別に、笑っている子供を泣かせたくはないからな。
 そう、子供なのだ。
 外見が一人前の女でも、中身は幼児と変わりない。
 ショーティが基礎知識や計算力のテストをしたので、はっきりした。茜の教育程度は、市民社会で普通に育つ子供と比べて、およそ十歳児並みだと。
「十歳か」
 俺は脱力してしまった。それでは、男にのしかかられたら、恐怖以外の反応を示せるわけがない。
 せめて、十三とか十四とかの精神年齢にならないと、恋愛感情も持てないだろう。知的年齢と情緒年齢は別かもしれないが、情緒の方も子供にしか見えないし。
 とにかく、基礎教育なしでは、日常生活自体、成り立たない。
「大丈夫、知能は正常だし、理解力もある。これから、気長に教えていけばいい」
 ショーティはいそいそ嬉しげに(そうとしか見えん)、茜の学習計画を立てる。何と、十年プランだ。そして、俺にも一部を分担しろと言う。
「俺が、算数や理科を教えるのか!?」
 思わず、のけぞってしまった。
 子供時代、宿題さぼりの常習犯だった俺に、どんな顔をして人を指導しろと!?
「もちろん、その方がいいに決まっている。わたしの前足では、ペンも握れないのだから。大丈夫、教材は用意する。文学や歴史は、わたしが担当するし」
 俺は犬の子分か、と言いたくなる。ご丁寧に、文房具や参考書まで揃えていただいて。
 しかし確かに、犬のボディではできることに限りがある。それに、俺も多少は偉そうな顔がしたい。茜はどうも、この船で一番偉いのはショーティだと思っている節がある。
「よし、明日から始めよう」
 ということになった晩、ショーティがまた難題を吹きかけてきた。
「絵本の読み聞かせだと!?」
「そう、これから毎晩、茜の枕元で読んでやってくれ。できれば、茜が眠るまで」
 目眩がした。
 俺は資金を蓄え、戦闘艦隊を充実させ、この辺境で戦い抜いていこうとしているのに。
 こいつは俺に『ヘンゼルとグレーテル』だの『ジャックと豆の木』だの、『空飛ぶ木馬』だのを読んでやれというのだ。もしも『赤ずきんちゃん』だったら、どんな顔をすればいい!?
「ふざけるな。俺は保育士じゃないんだぞ。できるか、そんな真似」
「できるとも。ちっとも恥ずかしいことなんかじゃない」
 他人がするならその通りだが、俺にはできん。 絶対、ガラじゃない。
「おまえがやればいいだろ」
「わたしでは本を支えられないし、ページをめくることもできない」
「兵に持たせろ。壁の画面に出したっていい」
「シヴァ、人を育てる責任というものは、そういうものではないはずだよ。きみが肉声で読んでやることによって、茜の心の栄養になるのだから」
「だから、おまえが責任持って育てたらいいじゃないか」
「そうはいかない。ここは人間の世界だ。人間より犬の方に馴染んでしまったら、茜が不幸だよ」
 それはつまり、おまえしか話相手のいない俺も、また不幸だという意味か!?
「あいつは既にもう、おまえに懐いているじゃないか」
「そうではない。わたしの方が怖くない、というだけのことだ」
 ショックを受けた。
 俺は、あいつに怖がられているのか。
 確かに、最初の出会いでああいう目に遭わせたのだから、当然といえば当然だが。これでも、気をつけて優しく接してきたつもりなのに。
「だったら余計、おまえの方が……」
 その時、ショーティが尻尾で注意を促してきた。ラウンジの入り口で、ピンク色のパジャマ姿の茜が立ちすくんでいる。トパーズ色の目を見開き、何冊もの絵本を、しっかり胸に抱えたまま。
 もしや、俺たちが、自分のことで喧嘩しているとでも!?
 見当外れだ。俺が何をわめいたところで、ショーティの奴には、柳に風なのだから。
 声をかけようとした途端、茜は身を翻して逃げた。円周通路を走って、自分の部屋に逃げ帰ろうとする。おまけに、寝室用のスリッパのせいでつんのめり、絵本をバサバサ取り落とす。
「おい、待て」
 それを命令と受け取ったのか、茜はびくりとして、逃げるのをやめた。壁にすがるようにして、そうっと用心深く、こちらに向き直る。
 俺は落ちた絵本を拾い、まとめて差し出した。身を縮めるようにして立ちすくんでいられては、こちらが折れるしかないではないか。
「わかった、読んでやる。ただし、一晩に一冊だけだぞ。どれがいいんだ?」
 すると、ぱっと顔が明るくなった。子供と同じだ。てらいがないから、実にわかりやすい。
 俺は渋々、茜の部屋に向かった。ベッドの枕元に椅子を置いて、ご希望の絵本を広げる。男が横にいて、安心して眠れるものかと思うが、上掛けの下に収まった茜は、華麗な挿絵に気をとられているようだ。
「昔々、ある国の王さまとお妃さまの間に、それは愛らしい女の赤ちゃんが生まれました。王さまは喜んで、盛大なパーティを開くことにしました。そして、十二人の妖精に招待状を送り……」
 これから毎日、茜の就寝時間に(ショーティは、子供並みの十時と決めていた)、こういうものを音読させられるのだ。
 それにしても、『野ばら姫』とは。女はどうして、王子さまとお姫さまの話が好きなのだ。頼むから、キスシーンの前に寝てくれよ。
 扉付きの棚に収めてある絵本は、ショーティが船内工作室で製本させたのだろう。何でも売っているのが売りの違法都市だが、さすがに子供向けの絵本は売っていないはず。『かぐや姫』に『シンデレラ』、『親指姫』に『人魚姫』か。
 俺は子供の頃、海賊や一つ目巨人、火を吹くドラゴンや魔神軍団が出てくるような冒険物ばかり読んでいたぞ。さもなければ、連続殺人犯を追う探偵物とか。男と女はやはり、幼い頃から、違う世界に生きているのではないか?
「……王子がとげだらけの野ばらの垣根に近づくと、生け垣は左右に割れ、道を作りました。王子が通り過ぎると、茨は元のように閉じていきます。茨の森の奥には、小さなお城がありました」
 茜は話に引き込まれているが、それでも少しずつ目が閉じてくる。完全に眠るまで、俺は淡々と読み続ける。
「塔のてっぺんの部屋には寝台があり、美しいお姫さまが眠っていました。あまりの美しさに、王子が思わず身をかがめてキスをすると、お姫さまは目を覚まし……」
 よかった。もう眠っている。
 俺はそっと明かりを消し、足音を忍ばせて通路に出た。
 やれやれだ。
 この調子で何年か教育すれば、少しは精神年齢が上がるのだろうか。
 ……待てよ。
 教育されているのは、俺の方か?
 誰かの世話をすることで、人間として成長しろ、と誘導されているのかもしれない。ショーティの考えそうなことだ。常々、
『きみは辛抱が足りない』
 だの、
『弱い者の気持ちがわからなさすぎる』
 だのと言われているからな。
 そんなもの、わかってどうする。
 強くなければ、この世界で生きていけないだけのことだろうが。

 ショーティのいるラウンジへ戻ると、ウイスキーをグラスに注いだ。
 俺は酒を飲んでもほとんど酔わないが、寛いだ気分にはなる。できたら一度、酩酊というものを味わってみたいのだが。それは、宇宙酔いとどう違うのだ?
 グラスを持っていつもの席に落ち着いてから、ふと思いついて、傍らの床に寝そべる犬に尋ねてみた。
「なあ、おとぎ話だとしても、寝ている女に勝手にキスしたら、犯罪になるんじゃないのか?」
 すると、人間の文化に詳しい犬は、尻尾をばたつかせた。これは、笑いの表現である。
「……その心配は、ないと思うな。茨の垣根は、お姫さまに相応しい男しか通さないのだよ」
「ああ、そういう設定なのか!?」
 犬は少し考えた。補助脳を通して船のデータベースにアクセスし、『野ばら姫』の内容を確認したのかもしれない。
「城に入れてもらったこと自体、お姫さまの深層意識に選ばれた結果ではないかな。ちょうどお姫さまの心身の準備ができた頃に、折よく王子がやってきた、ということでもある」
 へえ、そういうものか。
「失敗した他の求婚者たちは、時期尚早だったのか?」
「さもなければ、求愛する資格がなかったのだろう。無理に押し通ろうとしたことも、悪かったのだろうし」
 皮肉ではなかったと思うが、ぐさりときた。
 俺はまさに、それをやらかしたのだ。あの従姉妹は、まだ花開いてもいない、堅いつぼみの状態だったのに。
 焦らずに、待てばよかった。茨の垣根にからめ取られた求婚者たちは、そのまま乾涸びて白骨になってしまうのだから。
 といって、もっと成長してからでも、彼女が俺を好いてくれたかどうか、はなはだ怪しい。俺は最初から、有資格者ではなかったのかもしれない。大人たちの決めたルールに従うことが苦痛でたまらず、何度も爆発したからな。どう見ても、王子より海賊の部類だ。
「童話というのも、けっこう深いものなんだな」
 つい、嘆息してしまった。ショーティは俺の考えを見通したかもしれないが、一般論で答える。
「だからこそ、長く語り継がれているわけだ。たとえば白雪姫というのは、家父長制度下で女同士が分断される悲劇を描いているわけだし」
「何だって?」
「若い女だけがちやほやされるので、老いた女が若い女を憎むようになる、ということだ。男が女を資源として利用する制度が変わらない限り、白雪姫はいずれ、白雪姫の母になるしかない」
 ……ええと?
「中央では、女性の自立によってほぼ解決された問題だが、辺境では、別の解決法を採用したわけだ。白雪姫が、まだ白雪姫であるうちに殺してしまう、という強硬手段でね」
 それはどうやら、バイオロイドを五年で処分する制度のことらしい。講義は有り難いが、人間の俺が、犬にそんなことを教わるとは。
 しかしそれでも、俺はもしかしたら、いいことをしているのかもしれない。
 茜が絵本に夢中になるさま、それでも昼間の疲れでぐっすり眠ってしまうさま、それを横で見ていられた時間は……何だか、俺の心も洗ってくれたような気がする。
 きっと明日にはもう、読み聞かせが楽しくなっているだろう。
 大勢の娼婦や奴隷の運命を、これまで、見ないふりをしてきたが。
 もしも、その中のたった一人でも、救うことができるのだとしたら。

 俺とショーティは、いつか、世の中に変革を起こすつもりでいる。中小の組織を一つずつ乗っ取り、〝連合〟に負けない勢力になるのだ。
 そうしたら、惑星連邦に共闘を呼びかけ、強化体や改造体の存在を認めさせる。
 こちらも人権を尊重するから、そちらも生命工学を解禁しろ。
 知能強化や不老不死が、人類の究極の夢であることを否定するな。
 そうすれば、人類社会が二つに分裂している悲劇は終わる。まっとうな市民たちと力を合わせて〝連合〟を潰せば、違法組織の非道を終わりにできる。何十億人というバイオロイドを解放できる。
 だが、それまでに何十年、何百年かかるか、わからない。
 もしかしたら、変革など起こす前に、チンピラのまま死ぬことになるかもしれない。
 不特定多数を救う遠大な理想なんて、実際には、夢想のまま終わるかもしれないのだ。
 だとしたら、今、たった一人でいいから、現実に救う方が、意味があるのかもしれない。
 もちろん、いつの日か、茜の姉妹であるバイオロイドの女たちも救ってやれるといいのだが……
 あの日、娼館で、布をかけられて運び出された女は、もしかしたら茜だったかもしれないのだ。
 だが、そんなことは無理かもしれない。男が男である限り。
 おおかたの男は、本音の本音では、自立した女など嫌いなのだ。何百年も昔の、女が二級市民だった時代、無能な男でも威張っていられた時代を懐かしんでいる。
 だから、市民社会で紳士面している男たちも、妻や娘に知られないよう、違法アクセスでこっそり、辺境製のポルノを買うのではないか。女子供を強姦し、痛めつける作品を。その利益が、違法組織を繁栄させると知っていて。

   4

  朝起きると、茜はお気に入りのエプロンをかけ、いそいそと朝食の支度にかかる。これまでは、料理用のアンドロイドの仕事だったが、ショーティの考えで、朝と昼は、茜にやらせることになったのだ。
「料理をすることは、いい勉強になるはずだ」
 そして、茜に馬鹿にされたくない俺も、一緒に厨房に立ち、手本を見せる羽目になっていた。
 これでも子供時代に、一応の基本は仕込まれたのだ。
 上手くはないが、野菜は切れる。林檎の皮も剥ける。濃縮スープにミルクを注いで温めることも、ハムエッグやパンケーキを焼くこともできる。カレーやシチューなら、材料をぶち込んで煮ればいいのだから、俺たちのような初級者向きだ。
 半熟卵のつもりで固ゆでにしてしまったり、コーヒーが濃すぎたり、油はねで軽い火傷をしたりと、毎回ドタバタはするが、何とか食卓の格好はつけられる。努力した分、食うのにも感激がある。焦がしたパンケーキを前に、茜と顔を見合わせて苦笑することもある。
 その一方で、本格的な勉強も始めていた。茜に学者レベルの教養を求めるつもりはないが、辺境の宇宙で生きていく以上、理工系の大学卒業程度の知識や技術は必須である。
「いいか、今日は一次関数のグラフを描くぞ」
 方程式、不等式、幾何学、確率、数列。
 教えなければならないことは山ほどあるが、一日に進むのは、ほんのわずかな範囲だけだ。一気に欲張ると、茜が混乱する。
 この調子でいくと、微分と積分、三角関数と複素関数に行き着くのは、何年先か。オイラーの等式の衝撃的な美しさも、その頃にならなければわからない。
 主要な星系や違法都市の銀河座標も知る必要があるし(茜は直交座標は知っていたが、極座標の理解には苦労した)、身の回りの物質の化学式も必要だ。酸素と二酸化炭素、鉄とアルミの区別がつかないと困る。
 真空とは何か。慣性とは何か。遠心力、電磁力。気圧の差が、エアロックでどういう現象を引き起こすか。遮蔽のない場所で恒星からの放射線を浴びると、人間はどうなるか。
 陽子、電子、ニュートリノ、反物質。人体の構造と機能。細胞と遺伝子。細菌とウィルス。
 茜はよく努力した。俺の命じた計算練習をこなし、重要事項をノートにまとめて暗記する。一区切りついたら、俺がテストする。合格しなければ、二度、三度と繰り返す。
 最初のうち、俺の説明が理解できなかったり、解答ミスを指摘されたりすると、うつむいてぽろぽろ涙をこぼしていたが、やがて、間違えてもいいのだ、とわかってきた。俺もショーティも、そんなことでは怒らない。こちらだって、新米教師なのだから。
 注意されたことは、よく守る。明日までにこのページを暗記しろと言えば、懸命に練習して覚えてくる。
 つまりは、人間の命令に従うよう、育成されているからだ。まずは、その特性を利用させてもらおう。
 むろん、将来的には自立的な判断力を持つべきだが、今は基礎段階だから、こちらの指示に従うだけでいい。
 休憩時間には、ジムに行って縄跳びやボール遊びをしたり、俺と一緒にケーキを食べたり、積み木で遊んだりする。折り紙で鶴を折るのは、ショーティにはできない。ざまあみろ。もっとも奴は、茜の投げたボールやフリスビーをキャッチするのはうまい。
 また、中央のニュース番組を見て(市民社会の通信網と、辺境の通信網は、あちこちで非合法につながっている。軍や司法局が接続を断っても、すぐに別の場所で接続されるいたちごっこだ)、植民惑星で行われる季節の行事や、子供たちが通う学校のクラブ活動などについて、ショーティに解説してもらうこともある。
 中央に行ったこともないくせに(俺だってないが)、知識だけはある奴だ。
 昼間、そうして目一杯張り切っている分、疲労も深いのだろう。茜は夜、枕に頭を載せると、俺が広げる絵本を前にしても、ほんの数ページ分の読み聞かせで、ぐっすり寝入ってしまう。
 手間が少ないのは助かるが、
(せっかく熱演しているんだから、もうちょっと聞いてくれんかなあ)
 と残念に思うこともある。
 一族の連中が見たら、目を疑うだろう。この俺が、『美女と野獣』だの、『竹取物語』だのを、真剣そのもので読んでやるなんて。
 しかし、茜がそれを楽しみにしているうちは、続けるしかない。勉強と経験を積んで精神年齢が上がらないことには、 『やらせていただく』ことはおろか、キスの一つもできないからだ。
 額に軽く、『お休みのキス』ならともかく、舌を使うようなやつは不可能だろう。茜が泣いてショーティに訴えたりしたら、俺の立場がない。
 そういう騒ぎにならないよう、俺は俺なりに気を遣っていた。用があって茜の部屋を訪ねる時は、入っていいか許可を求める。手狭な厨房でぶつかりそうになったら、俺の方が場所を譲る。肩や背中であっても、気安く触れたりしない。間違って襟元から谷間が見えてしまったら、その幸運に感謝してから、黙って目をそらす。
 〝本物の女〟が相手なら、当たり前の作法ばかりだ。 しかし、最初のうちは俺の頭に、
(こいつはまがい物)
(安物のセックス人形)
 という差別意識が、どうしても残っていた。それが言動の端々に出ていると、ショーティから何度も厳しく注意された。
「茜を、卑屈な奴隷のままにしておきたいのか? それとも、本物の淑女に育てたいのか?」
「何かを始めたら、とことんやるのがきみの取り柄ではなかったのか?」
 腹も立ったが、理屈では奴に勝てない。
 自分で気をつけて、
(お嬢さま扱い、お嬢さま扱い)
 と唱えているうち、気分が変わってきたのだと思う。
(どこかから預かって、育てている娘)
 という感じになってきた。
 勉強の合間には、一緒に円周通路をぐるぐるジョギングしたり、ジムでトレーニングマシンの使い方を教えたり。
 茜の希望で、フェルト布を使った縫いぐるみの熊さえ作った。この俺が、針仕事!!
 茜の作った熊は表情が可愛く、俺が作った方は不貞腐れている、とショーティが転がって笑ったくらいだ。しかし、茜が両方揃えて棚に飾ってくれたので、まあいいことにする。何度も針を指に刺した甲斐がある、というものだ。
 やはりこれは、俺の方が〝調教〟されているのだろうか。
(いつまでも、無頼を気取っていることはないだろう。家庭的な方が、ずっと楽ではないか)
 とショーティは思っているのかもしれない。
 別に、『孤高の一匹狼』のつもりはないのだ。ただ、ショーティの他には誰も味方がいない日々が長かったので、つい疑い深くなり、肩に力が入ってしまうだけのこと。
 しかし、茜のおかげで笑う回数が増えた。そうすると、無駄な力が抜ける。
 これは、いいことなのかもしれない。俺は武道の修業もずいぶんしたが、本物の達人は柔和で、水のように静かだというからな。

 そういう船旅のある朝、食堂のテーブルに花が飾られていた。
 白い一重の花と、濃いピンクの八重咲きの花が、堅い緑の葉を茂らせた枝についている。
 この船内に花とは、珍しい。というか、初めてかもしれない。これまでは、料理に使うハーブや柑橘類を、ショーティがささやかな温室で育てているだけだった。
 茜は既に朝食の支度にかかっていて(ここ何日も、俺より早く来て準備をしているので、俺のすることがあまり残っていない)、ジャムの瓶やサラダボウルや取り皿を並べていた。教養のあるところを見せようとして、
「椿だな」
 と断定したら、
「山茶花だ」
 と犬に訂正された。
 くそ。似たようなものだろうが。
 憮然としながら席に着いたら、向かい側に座った茜が、にこにこして白いカードを差し出してくる。
 何だろうと見てみたら、子供が描いたようにぎこちない、しかし、赤い薔薇とわかる花の絵が四隅にあった。中央には、練習したらしい丁寧な文字で、
『シヴァ、お誕生日おめでとう。茜より』
 と書いてある。
 俺は驚いて、横の床に寝そべるショーティを振り向いた。
「おまえが教えたのか!?」
 誕生日を祝福されたのは、十八の時が最後だ。それから今日まで十数年、そんなものは忘れ果てていた。こいつだって、これまでは無関心だったくせに。
「茜が映画を見て、誕生パーティとは何か、質問してくれたのでね。今度から、順繰りに祝うことにした。シヴァ、誕生日おめでとう。きみも、茜にお礼を言いたまえ」
 茜が尋ねたから!? そんな理由で!?
 まあいいが……つまり、それが〝文化的な生活〟なのだとショーティは思ったのだろうから……しかし……三十過ぎて今更……
 ああ、そうか。
 俺やショーティはともかく、茜については、誕生日というものを祝ってやらなくては可哀想だ。ケーキを焼いて、年の数だけ蝋燭を立てて、プレゼントを用意して。
 しかし、バイオロイドの誕生日というのは、どうやって決めればいい!? 培養カプセルから出された日のことか!? そんなもの、本人にだってわからないだろうに。
 とにかく俺は、茜に向き直った。顔がひきつりそうなのをこらえ、何とか言葉を探し当てる。
「ああ、その……この薔薇、よく描けてるな。綺麗だ。字も上手だ。ありがとう」
 しかし、ショーティが尻尾をはたはたしている。長い付き合いなので、俺との間では、『尻尾サイン』が出来上がっていた。これは、否定の振り方だ。何かが足りないのか。
「ええ、その、そうだ、額装して、俺の部屋に飾っておこう。来年もまた、こういうカードをくれ。これから毎年ずっと、おまえのくれたカードを飾っていくから」
 ようやく、尻尾がOKの振り方になった。茜も満足そうに、にこにこしている。まったく、子供をおだてるのは大変だ。
 朝食は、特にいつもと変わった料理ではなかったが、茜の淹れた紅茶は俺好みの濃さで、美味かった。初冬の花を飾った食卓には、バターとジャムを添えたトースト、スクランブルエッグ、厚切りのハム、焼いたトマト、それに蒸したキャベツにアンチョビをからめたサラダが並んでいる。
 茜も最初の頃よりずいぶん手際がよくなったので、ほとんど俺の助けを必要としない。むしろ、俺がのそのそしていると邪魔になる。たぶん、料理に適性があるのだろう。
「後で、ケーキを焼くのに挑戦する予定だ。うまくできたら、蝋燭を立てて、今夜の食卓に出そう」
 所定の位置で骨をかじっていたショーティが、生徒を誇る教師の口調で言う。嘘だろう。この俺が、口をすぼめて蝋燭を吹き消すのか。どっちを向いていいやら、わからん。
 しかしショーティは、これも茜の情操教育、と考えているらしい。これから一つ一つ、文化的な要素を生活に組み込んでいくつもりらしいのだ。
「わたしの場合、母犬から生まれた日付がわからないので、シヴァと出会った日でいいと思う。茜の場合もやはり、誕生の経緯がわからないから、きみと会った日でいいのではないかな」
 茜はにこにこして聞いているが、俺は冷や汗がにじんだ。
 そんな日を記念日にしたら、茜は毎年、いやでも、出会いの状況を思い出してしまうではないか。今となっては、土下座して、
『忘れてくれ』
 と頼みたいくらいなのに。
「そういえば、なんでいきなり、花があるんだ」
 と苦しまぎれに尋ねたら、ショーティは自慢げに種明かしする。
「茜のものを買い入れた時、一緒に注文しておいたのだよ。これからは、花を飾る機会もあるだろうと思ってね。切り花では保たないので、鉢植えで温室に入れてある。いずれ、茜に余裕ができたら、世話を任せることにしよう」
 つまり、茜がこの船に来た時から……いや、時間的に考えれば、それ以前、俺が茜を連れて車に乗った時から、既にそこまで気を回して、あれこれ準備していたのか。
 もしかして、こいつ、『赤毛のアン』や『足長おじさん』が愛読書か!?
「わたしもこれまで、記念日を祝うとか、花を愛でるとかいう心の余裕がなかったが、これからは、女の子がいることだしね。今度、違法都市に寄港したら、きみの好きな花も買ってあげよう」
 すると当の〝女の子〟は、張り切った様子で手をひらめかせる。
「ありがとう、嬉しい、という意味だよ」
 数日前から、アニメの手話講座を見せて、練習を始めているという。
「最初は、アンドロイド兵に手本を演じさせようかと思ったのだが、兵には表情筋がほとんどないからね。不気味だし、わかりにくいのだよ。オーバーアクションのできる、可愛い絵柄のアニメの方が効果的とわかった」
 いやな予感に打たれた。犬なら、尻尾を巻き込みたいところだ。しかし、茜が期待顔でこちらを見ている。
「……俺も、覚える必要があるんだな?」
「その方がいいね」
 という、あっさりした返事。
「今日から、きみも一緒に授業を受けまえ。わたしが試験をして、覚えたかどうか試すから」
 大変なことになった。
 まさか、そんなものを覚える羽目になるとは。
 だが、考えてみれば、茜とショーティの間でだけ話が通じて、俺は置き去り、というのは悲しい。茜は筆記ができるとはいえ、常に筆記用具があるとは限らないのだから。
 皿の上の料理が片付くと、茜が果物ナイフを取って、俺の好きな洋梨を剥いてくれた。まだ達人のナイフさばきとはいかないが、子供としては立派なもの。一個の三分の二を俺が食べ、残りを茜が取るという分け方も、お決まりになってきた。
「ケーキを焼くと言ってたな。俺も手伝うか?」
 と尋ねたら、茜は手を前に出し、首を横に振って、制止の身振りをする。自力で挑戦するつもりらしい。
「じゃ、頼む。少しくらい焦げても、崩れても、ちゃんと食べるから」
 茜は嬉しそうな顔になって、大きく頷いた。こちらもつい、幸福な気分になって、言ってしまう。
「おまえの誕生日の時は、俺がケーキを焼こう」
 まあ、練習すれば、何とかなるだろう。それまでにはまだ、一年近くあるのだから。
 すると、茜はショーティを振り向いて、何か自慢げに身振り、手振りをしてみせる。
(聞いた? 聞いた? いいでしょう!!)
 と言っているように思える。
 俺の方がこそばゆくて、きまり悪くなるくらいだ。こんなことで幸せになれるなら、俺にだって、してやれることが山ほどある。
 他のバイオロイドたちを助けてやれない分、せめてもの罪滅ぼしという気もあった。
 娼婦だけではない。兵士として使われるバイオロイドの男たちも、また哀れなのである。五年が過ぎれば、次の世代の兵士たちの前に突き出され、射撃演習の的にされるのだから。
 ただ、それでも彼らには、同じバイオロイドの女たちを餌食にする、という側面がある。
 結局は、バイオロイドの女たちが一番の弱者なのだ。人間の男からも、バイオロイドの男からも利用されて。
 その後、勉強部屋に移動し、いつも通りの計算練習をさせながら、俺は茜のくれたカードを眺めていた。
 自分が子供の頃は、一族の大人たちから、誕生日の都度、贈り物をもらっていた、と思い出す。 中央で流行りのスポーツ用自転車、特注のオフロード用バイク、プロ仕様の工具一式、アーチェリーやダーツの道具、翡翠のチェス盤、大型のサバイバルナイフ。
 だが、この稚拙なカードほど、思いのこもった品があったかどうか。
 ショーティに指導されてカードを仕上げる間、茜は一心不乱だったに違いない。たぶん来年は、絵も字も、大きく進歩しているはずだ。毎年、カードを壁に飾っていったら、いつか茜が笑い崩れるに違いない。
 ――いやだわ、わたし、こんなもので得意になっていたのね。恥ずかしいから、もう引っ込めて。
 だが、これは、大人には描けない貴重な作品だ。これをもらっただけで、この宇宙における自分の存在も、無駄ではない、と思えるではないか。

 俺は茜を見ても、あいつと重ねることがなくなった。
 顔立ちが似ていても、表情や動作はまるで違うのだから、当たり前だ。むしろ、最初はどうしてそっくりだと思ったのか、そちらの方が不思議である。
 もう、身代わりではない。
 便利な召使いでもない。
 茜は茜として、俺たちの家族になってくれればいい。
 だが、そういう気になって考えると、何とかしなければならないことがある。俺はショーティに尋ねてみた。
「なあ、茜はずっと、しゃべれないままか? 健康診断はしたんだろ」
 手話も覚えてきたし(俺も必死に練習した!!)、長い文章も書けるようになってきたが、俺とショーティが自由にしゃべりあうようには、言葉を操れない。本人はもしかしたら、相当なもどかしさを感じているかもしれない。
 俺たちだって、もし、茜の笑い声、小鳥のようなおしゃべりを聞く日が来たら、どんなに楽しいか。
「そもそも喉が、発声用に作られていないのだ。しかし、適切な手術をすれば、もちろん、しゃべれるようになる」
 あっさり言われ、俺は前に倒れそうになった。
「じゃあなんで、もっと早く……」
 そこで思い出した。そもそもショーティは、俺がしゃべれるように改造してやったのだ。既存の警備犬用改造マニュアルを応用したのだが、それでも、犬に人間の言語をマスターさせるのは、相当な難行だった。茜の場合は、あれより簡単に決まっているではないか。
 しかし、なぜだか茜の場合は、しゃべれないことが〝本来の姿〟であるかのように感じていた。それにまた、茜の健康管理はショーティの管轄、と思い込んでいたせいもある。俺に生理痛の相談なんかされたら、困るではないか!!
「焦ることはない。茜は最初から声を出せないのだから、自分でそれを不幸だとは思っていないよ」
「……そういうもんか?」
「まずは、勉強が先だ。ある程度の知識や教養が身につかないと、しゃべりたいかどうか、本人にもわからないだろう」
 俺は唖然とした。おかしなことを言う奴だ。
「誰々って、しゃべりたいに決まってるだろうが」
「さあ、どうかな」
 どういう意味だ。
 自分は、〝しゃべる犬〟になりたくなかったとでも?
 確かに、若返りも知能強化も、俺が一方的に押しつけた形だが、結果的にはよかっただろう?
「しかし、たぶん茜は、自分が奴隷ではないと心底納得する日が来たら、しゃべりたいと願うかもしれないね」
「奴隷?」
「きみは彼女に、自分が〝主人〟だと言ったのだろう?」
 俺はぎくりとした。つい、うろたえる。
「それは言ったが、しかし……そう言わないと、理解できないと思って……」
 なにも本当に、茜を奴隷扱いしようと思ったわけではない。いや、最初のうち、下心が強かったのは事実だが。
 今ではもう、れっきとした保護者のつもりだ。何かできるとしても、それは五年か十年経って、茜の意志が俺を向いてくれたらの話。
「それはよかった。きみが、茜の人権を認めてくれるなら」
 まるで、俺が野蛮人であるかのように言う。
「もちろん、俺はあいつを正当に扱っているつもりだ。違うか」
「そうだね。いつか茜が、我々から離れたいと望んだ時に、笑って送り出してやれるようなら、本物だろうね」
 がんと殴られたような気分になって、俺は言葉を失くした。
 そうか、そういうことか。
 俺は自分の気持ちを満足させるために、あいつを連れてきた。
 優しくして〝やっている〟のだから、あいつも満足なはずだと思っていた。
 しかし、もしかしたら茜としては、〝主人〟の機嫌を損ねないよう、精一杯〝仕えている〟だけかもしれないのだ。
 もしも何かで失敗したら、その時は、真空の宇宙空間に裸で放り出されるかもしれないと考えて。

 一か月近くかけて、ようやく、俺たちの拠点星系に戻ってきた。
 他組織の縄張りから遠い、この辺鄙な星系には、いい値段で売れる金属資源が豊富にある。
 プラチナ、イリジウム、金、銀、パラジウム、コバルト、チタン、ニッケル、クロム、タングステン、種々の放射性元素、レアアース。
 幾つもの小惑星に、無数の採掘ロボットが取りついていた。採掘され、砕かれ、選別され、溶かされ、精製され、ブロックにまとめられ、コンテナに詰められていく。
「これを他組織に売るんだ。貴金属はいい触媒になる。いずれは、俺たちの工場だけで使い切るようになるだろうが」
 船の最後尾の展望窓から、茜にその光景を見せて、説明する。
「できるだけ早く、自前の工場で、まともな戦闘艦を建造できるようになりたい。他所から買っているうちは、二流以下なんだ。どこの組織でも、本当にいい武器や船は、外に売らないからな。ことに大組織は、系列組織だけでがっちり固めてる。原材料や部品から、完成品まで全て自前調達だ。それに、出来合いの管理システムは使い勝手が悪い。俺たちで改造しようとすると、自壊することもあるし」
 どれだけ理解しているかは不明だが、とにかく、茜は真剣な顔をして聞いている。そして、指で通話パネルに書いた。
〈お仕事、手伝います。早く大人になりますから〉
 俺は思わず笑ってしまい、茶色い髪を結い上げた頭を撫でた。
「そうか、ありがとう。期待してるよ」
 それから、迂闊に触れたのはまずかったかと心配になったが、茜は気にしていないようなので、ほっとする。
 俺は茜に気密防御服を着せ、船体表面だけでなく、小惑星上も歩かせた。いい経験になる、とショーティが勧めるので。
 もちろん俺が付き添って、危険のないように配慮した。茜は最初、無駄にあちこちぶつかったり、ひっくり返ったりしていたが、やがて慣れ、0G環境や微小重力下で何とか動けるようになってきた。スラスター噴射で飛ぶ動作も、ある程度スムースになってきた。
 子供と同じだ。何でも上達が早い。
 たまたまだが、中心恒星に近づく彗星を見せてやれたのもよかった。白く輝く壮大な尾を曳いて、暗黒の中で無言の行進をする小天体だ。青く光るイオンの尾もわかる。
 茜は防御服のヘルメットの中から、魅入られたように見つめていた。船内にいて映像で見るよりも、船外空間からじかに見た方が、大きさを体感できる。
 自分が暮らしている船の大きさも、外に出て小惑星と比較すると、ひどくちっぽけだとわかるだろう。
 しかし、昔の人間は、もっと粗末な船で宇宙探険に乗り出した。初期の時代には、最初の超空間転移で失敗し、大破した船もあったという。どこでどう遭難したのか、行方知れずのままの船も、数多い。その無謀な勇気は、現代の俺たちには、もうないかもしれない。
 船内に戻ってから、
「面白かったか」
 と尋ねると、茜は手話を使って、
〈とても好き〉
 と答える。
「そのうち、もっといいものを見せてやるからな」
 と約束した。
 辺境星域には、大手組織が所有するリゾート惑星が幾つもある。青い海と青い空、緑の大地。地球本星と変わらないか、それ以上に美しい惑星だ。数百年にわたる『浄化作戦』でだいぶ回復したが、地球にはまだ、長年の環境破壊の爪痕が残っている。
 高額の利用料を取られるが、いつか茜をそういうリゾート惑星に連れていって、本物の海や山で遊ばせてやろう。
 嵐、雷、地震、火山、氷河、氷山、砂漠、熱帯のジャングル。
 ちっぽけな小惑星都市とは違う、本物の大自然を見たら、どんなに驚くか。はしゃいで駆け回るか。
 そうして、できるだけの教育をしてやって、それでもいつか、茜が俺たちから離れていくなら、仕方ない。
 ショーティの言う通り、祝福して送り出すべきだ。
 できることなら、ずっと一緒にいて欲しいが。
 それはやはり、無理かもしれない。
 茜もいつか、この世界の仕組みを理解する。人間たちが無抵抗なバイオロイドを作っては、使い捨てていく現実を目の当たりにしたら、どうするか。
 俺たちを『卑怯者』と罵るかもしれない。
 わたしをお金で買った、と怒るかもしれない。
 わたしの姉妹たちはどうなるの、と泣くかもしれない。
 この世界を変える努力をするから、一緒にいてくれと頼んで、信じてもらえるか。
 本当はきっと、中央の市民社会へ亡命させてやる方がいいのだ。惑星連邦政府は、たとえ建前だけでも、人権尊重を掲げている。(本気で掲げているなら、とうの昔に軍を送り出し、違法組織を根絶させているだろう)
 『人間の遺伝子を元にした人工遺伝子から製造されるバイオロイドも、やはり人間のうち』 と認めているのだから、茜を再教育施設に入れてくれ、市民社会で暮らす方法を教えてくれるはずだ。
 そうすれば、まともな家庭で育った、まともな男と知り合えるかもしれない。その男が茜に、
(生きててよかった)
 と思わせてくれるかもしれない。茜自身は、自分の子供を作れないとしても。
 バイオロイドの難民、あるいは強化体や改造体の亡命者に許されるのは、一代限りの生存のみ。
 古い道徳に凝り固まる市民社会で、改変された遺伝子を広めることは認められない。この俺も、ショーティも、中央の市民たちから見れば、異端の怪物だ。
 だから俺たちは、この辺境で生きていくしかない。ここを少しでも、ましな場所にしようと努力しながら。

 俺たちも一応、小惑星基地は構えているのだが、ほんの間に合わせ程度のものだ。留守の時間が長いので、本気で整備はしていなかった。無人工場に毛の生えた程度の造作にすぎない。
「船の居住区より広い……のが取り柄かな」
 しかし、茜が暮らすとなれば。
 俺たちはあちこちに緑の植え込みを作り、内装を明るくした。適当だった家具や食器も、途中の違法都市で買い込んできた高級品に入れ替えた。居間には、黒光りするグランドピアノまで据えた。
 単なる四角い水泳プールだったものは、南国ムードの遊び場に大改造した。水の流れる滑り台、ぐるりと循環できるドーナツ型の大プール、浮き輪にエアマット、ハンモック。
 プールの周囲にはオレンジやレモン、ハイビスカスやノウゼンカズラの苗木を植えた。ショーティはさすがに準備がよく、ジャスミンや朝顔、クレマチスのような花々の苗も用意している。いずれ、亜熱帯の楽園という風情の空間になるはずだ。
 おかげで茜は毎日、小学生並みに健康な生活を送るようになった。
 午前中は勉強するが、午後はプールで泳ぎ(犬かきはショーティが、他の泳ぎ方は俺が教えた)、広大な空き倉庫で犬相手にフリスビーを投げ、赤い自転車でぐるぐる走り回り(俺も、緑の自転車でお供を言いつかる)、夕食の前後に何とか宿題を済ませると、ベッドに入り、絵本の数ページでこてんと寝入ってしまう。
「まあ、子供としてはこんなものだ」
 とショーティは寛大に笑う。
 そのくせ、ピアノのレッスンも始めるというのだから、徹底しているというか、欲が深いというか。
「我々が育てる以上、どこへ出しても恥ずかしくない淑女にしなければ」
 この完璧主義〝者〟め。俺も一緒に、紳士に仕立てるつもりじゃないだろうな。
 たまに、茜のお守りから解放される時間があると、俺は一人でジムに行き、サンドバッグを蹴り、鉛入りの木刀で素振りをする。アンドロイド兵士を相手に、乱取りの稽古をすることもある。体力がありすぎるので、昼間、十分な活動をしないと、夜になってもうまく眠れないのだ。
 ひとしきり汗をかいた後、自分の部屋に戻ってシャワーを浴びていたら、躰をこするスポンジが、だいぶ傷んでいるのに気がついた。
 茜のものは新品ばかりだが、俺のものは以前通りだ。服や品物は必要最低限しか持たず、ぼろぼろになるまで使い倒す。
「おい、新しいスポンジを出してくれ」
 と浴室内の通話パネルで管理システムに言ったら、ショーティが応答する。
「いま、茜に持っていかせるよ」
 俺は慌てた。そんな用事、なぜ、アンドロイド兵士を使わないのだ。ずぶ濡れの裸のところに、あいつが来る?
 一度は確かに、裸で絡み合ったのだが、あれは遠い前世の出来事、という気になっている。
 あたふたして、やっと腰にタオルだけ巻いた時、茜が浴室の外に立つ気配がした。扉をノックして、ほんの少しだけ扉を開き、隙間から手を差し入れて、俺にスポンジを取らせてくれる。
 そうか、慌てる必要はなかったのだ。茜はちゃんと、作法をわきまえている。
「ありがとう」
 俺が何とか平静を装って言うと、タップダンスのステップのような足音がした。それがどうやら、
『どういたしまして』
 という返答らしい。
 服を着てから厨房へ行くと、茜は楽しげに料理していた。ボウルに入った白い液体を、懸命に泡立てている。
 俺は邪魔しないよう迂回して、冷蔵庫からグレープフルーツのジュースを取り出した。グラスに注いで、喉を潤す。
「あー、さっきはありがとう。ところで、足で会話する技術を覚えたのか」
 すると茜はにっこりしてボウルを置き、軽く足を踏み鳴らしてみせた。俺が意味を理解しかねていると、手話で教えてくれる。
〈手がふさがっている時。姿が見えない時。足音でサインを送るから、覚えてね〉
 そして、何通りかの鳴らし方を実演してくれた。肯定、否定、保留、安全、緊急など。
「ありがとう。覚えたよ」
 茜なりに日々、進歩しているのだ。いや、俺の方が遅れをとっている。
「この分だと、いずれおまえに勉強を教わるようになるかもな」
 すると、茜は表情だけて笑った。声があれば、もっと自在に自分を表現できるだろうに。
 もしかしたら、俺たちに遠慮して、胸に隠していることがあるかもしれない。何でも好きなことを望んでいいんだ、俺たちは怒らないからと、繰り返し伝えてはいるのだが……
 俺はジュースの残りを飲みながら、しばらく茜の料理の手際を見ていた。壁の通話パネルに映したレシピからすると、苺のババロアになるものらしい。そういえば、少し腹が減った。
「その苺、一粒くれないか」
 と言うと、茜は振り向いて、大皿に盛った苺の山から一つ取り、へたをはずしてから、すっと俺の口に入れてくれる。
 俺はびっくりした。手渡されるものと思っていたし、茜の指が、俺の唇に触れたので。
 なぜだか、ひどく動揺した。自分でも、なぜこんなに混乱するのか、わからない。
 しかし、苺は甘かった。苦みのあるジュースの後だから、余計そう感じたのだと思うが。
 俺の狼狽が伝わったらしく、茜は不安そうな顔になった。何か失敗したとでも思ったのか。
「いいんだ、別に、何でもない」
 俺は言い訳し、ふと思いついて、自分も苺を一粒取った。へたを取ってから、茜の口許に差し出す。
 茜は理解して、素直に口を開いた。小さな白い歯並みの、可愛い口である。そこへ苺を入れてやると、口許を押さえながらもぐもぐして、にっこりする。
 ままごとのようで気恥ずかしかったが、ほっとした。茜は、俺を嫌っていないと思えたので。
 最初にあれだけ怖がらせたのだから、これは奇跡的なことではないか。
 もしかしたら。
 こうして何年も経てば、茜は俺を愛してくれるかもしれない。
 単にセックスの相手をしてくれるという意味ではなく、心から望んで、俺と暮らしてくれる、ということだ。
 一緒に料理をしたり、映画を見たり、仕事の相談をしたり、何でもないことで笑いあったりする。
 本当はずっと、そうしてくれる女が欲しかったのではないか。
 それが得られないから、世界を変えるなどとうそぶいて、ハードボイルド面をしていただけで。
 従姉妹の時は、確かに失敗した。しかし、今ならわかる。女が男に求めるものは、何なのか。
 全力で優しくするのだ。
 ショーティがそうして、茜の信頼を勝ち得たように。
 茜はよく、奴の首を抱いて、背中を撫でている。俺もいつか、茜に抱きついてもらえるようになりたい。そう願って、その日のために努力してもいいだろう。

   5

 すっかり家庭的になった小惑星基地で、クリスマスと新年を過ごした。茜と二人で詰め物入りのチキンも焼いたし、飾り立てたクリスマスツリーの前で、記念撮影もしたのだ。
 茜は薔薇色のロングドレスを着ておめかししたし、ショーティはいつもの首輪の代わりに赤と緑のリボンを結ばれて、苦笑いという姿。
 俺はまあ、いつも通りの普段着だったが。スーツなんか、逆立ちしても似合わないのだから、それは勘弁してもらいたい。
 今回はショーティが茜に、真珠のネックレスとイヤリングをプレゼントしたから(何て用意のいい奴だ!!)、来年は俺が、金とルビーのネックレスでも贈ってやろう。茜なら、どんなドレスでも宝石でも、よく映えるからな。
 ショーティの発案で、茜に社交ダンスを教えたら(俺は子供の頃、一族の中で、教養として叩き込まれた)、すっかりワルツがお気に入りで、以来、毎日のように相手をせがまれることになった。
 同じ曲ばかり聞かされる俺は(茜が大好きなのは、チャイコフスキーの『花のワルツ』だ)、いささか辟易しているのだが、茜が夢中のうちは、まあ仕方あるまい。ダンスの時は、公然と抱き寄せられるわけだし。
 それからまた、レアメタルを売る旅に出た。
 あちらの組織に数十トン、こちらの組織に数百トン。代わりに精密機器や特殊装置を仕入れたり、ちょっとした情報を聞き出したり。
 そのついでに、幾つかの小惑星都市に出している店舗を回る。
 小火器や護身用品、雑貨などの小さな店だ。合計で十数名の若者を、店番に雇っている。彼らには、近隣の小惑星工場の管理も任せてある。弱小組織から買い取ったり、分捕ったりした工場だから、まだたいした生産能力はないが、おいおい強化していく計画だ。
 野心に駆られて辺境に出てきたばかりで、まだ邪悪に染まっていない若者たちを、ショーティがうまくスカウトして、引き入れてくれた。日頃、回線経由で必要な指示は出しているが、たまには実際に対面して、不満を聞いたり、励ましたり、活を入れたりする必要があるのだ。
 とはいえ、今回は彼らに対して、内心、忸怩たるものがあった。
 俺はこれまで彼らには、バイオロイド所有を禁じてきたのだ。下働きにはアンドロイドを使えばいいのだから、男であれ女であれ、組織内でバイオロイドを使役することは認めないと。
 さすがに、休日の娼館利用までは禁止しなかったが(そんなことまで禁じられるとは、思っていない)、個人的に奴隷を所有することは、超えてはならない一線だと思っていた。それを許したら、彼らは次々に新しい女を買い入れることになるだろうから、組織内の規律はなし崩しに乱れ、そこらの三流組織と同じになってしまう。
 その俺が茜を買い取ってしまったのだから、自分で決めたルールを、自分で破ったことになる。
 もちろん、俺は茜を奴隷にしているわけではないし、俺の私生活を彼らに説明する必要もないわけだが、
(さすがに、ズルだな)
 という苦い自覚はある。
 まあ、いつか、彼らが気晴らしの女ではなく、本当に愛する相手を求めるようになったら……その時は、
「何とかしよう」
 とショーティも言っている。
 要は、一人の女を大切にする男が、組織の構成員であればいいのだ。そうやって自分たちの組織の中から、少しずつ変革していくのもいいではないか、とショーティは言ってくれる。
 むろん彼らは、俺の横にいる犬が本当の管理者だとは、夢にも思わない。たまに現れる俺を恐れ、頼っている。年齢的には、俺も彼らとたいして違わないのだが、こちらは何しろ辺境で生まれ育っているから、場数が違う。違法都市の裏側もわかっている。
 彼らは俺を畏怖していれば、それでいい。俺が犬に『尻尾サイン』で操られているなんて、気づく必要はないのだ。
 取引のある他組織とは、おおむね、うまくやっていた。
 市民社会で作られる映画では、辺境の違法組織は互いに抗争してばかりのように描かれるが、実際には違う。無駄な戦闘は組織を消耗させるから、理由のない諍いはしない。
 大きな組織が小さな組織を吸収することはあるが、そういう時には力の差がありすぎて、争いなど生じない。一瞬で食われるだけのこと。
 ましてや〝連合〟の系列組織同士なら、きちんとピラミッド構造に組み込まれているから、下克上も滅多に起こらない。上の組織の者が、下の組織から有望な者を引き抜くついでに、組織の再編を行う程度。
 俺たちのような新参者は、試し程度に利用されるだけだ。その結果、見所ありと判定されれば、〝連合〟に勧誘されることもある。
 だが、それは『上納金地獄』に引き込まれることでもあるから、無視されている方が楽かもしれない。
「旅ばかりで、すまないな」
 と船内の勉強机で茜に言うと、
〈ここが家だから、大丈夫〉
 という明るい返事。
(そうか、家なのか)
 ほっとする一方、もっと広い世界を体験させてやらなくては、とも思う。茜には、女友達もいない。
 だが、違法都市は、女子供を連れ歩くには向かない場所だ。華やかな繁華街の裏通りには、客引きのバイオロイド娼婦たちがたむろしている。それぞれの組織から見張られて、客引きをやらされている悲しい女たちだ。
 車で通り過ぎるだけでも、茜がそんな女たちを見てしまったら、どう説明すればいいのか。
 それに、俺が茜を大事に連れ歩くのを見たら、他の男たちは、茜を『本物の人間の女』と思うだろう。すると、何を企むかわからない。誘拐して売り飛ばすとか、自分の愛人にするとか、ろくでもないことを。
 といって、まさか、のこのこ故郷の《ティルス》に戻るわけにもいかない。
 茜の顔を見たら、一族の連中は驚き、呆れるはずだ。あんな事件を起こしておいて、まだ従姉妹に未練たらたらなのかと。
 今は違う、と説明して、わかってもらえる気がしなかった。
 茜だって、誰かと似ているから引き取られた、などと聞かされたら傷つくだろう。
 それに、俺が一族の連中に、『出来損ないの不良息子』扱いされるのを見たら、どう感じるか。
(当面、この暮らしで我慢してもらうしかないな)
 俺もまた、茜がいれば退屈することはない。茜は依然ダンスに夢中で、暇さえあれば、俺に相手をしてくれとせがむ。
 たぶん、絵本に出てくる『お城の舞踏会』に憧れているのだ。城には連れていってやれないが、ワルツの相手ならできるからな。
「本物の城は、地球にしかないんだ。そのへんの小惑星都市やリゾート惑星にあるのは、全部、真似て作った偽物だ。地球は中央星域のど真ん中だから、俺たちは、たぶん、一生、行くことはない」
 と解説した。
 しかし茜は、微笑んで手話で言う。
〈地球には、行かなくていいの。シヴァが踊ってくれれば、それでいいの〉
 聞き分けがよくて、助かる。
 まだ世界が狭い分、余計な欲が発生していないのだろう。すると、いつかはもっとわがままを言って、俺たちを困らせるようになるだろうか?
 だとしたらその時は、こっちが、わがままを叶えてやれる実力を備えていないとな……
 俺と組んだ茜が頬を紅潮させ、フレアースカートをひらめかせて踊る様子を、ショーティはよく、寝そべって眺めている。
「やはり、教養は大事だな」
 俺が子供時代、料理からダンスまで(嫌々ながら)、幅広く仕込まれたことを言っているのだ。ピアノや弦楽器はあまりにも適性がなかったので、早々に免除されたが。
 〝理想の淑女〟を課されている茜は、そうはいかない。一室に稽古用ピアノを用意され、音楽教師の技能を入力されたアンドロイド兵士に付き添われ、毎日、練習曲を弾かされているのだ。
 そのうち上達するだろうが、今は雨垂れ状態だった。本人も苦労しているが、傍で聞く方も逃げ出したくなる。
 ショーティの掲げる高い理想までは、遠い道のりだ。だから、ゆっくり歩いていけばいい。俺たち二人と一頭で。

 幾つ目かに立ち寄った違法都市で、繁華街に面したビルの売り物があることを知った。公開期間の後、入札が予定されているという。
 立地がいいので、落札価格は高くなるだろうが、後学のため、検分に行くことにした。
 複数の都市にある俺たちの工場や店舗は、そこそこの利益を上げているので、事業の拡大を考える時期だとショーティは言う。
「すぐに大型ビルを持とうというのではないが、下見くらいは始めてもいいだろう。組織が大きくなれば、いつかは〝連合〟に加盟を迫られる。嬉しくはないが、それも、通らなければならない道だ」
 しかし、俺は上納金システムが気に入らない。中央の企業が連邦政府に払う税金とは違い、明確な徴収基準がなく、使途も不明だからだ。
 辺境の社会基盤の整備に使われるのはごく一部で、あとは大物連中のポケットの中だろう。それでは永遠に、形勢逆転は起こらない。何とか、迂回する道はないものか。
「茜、おまえは留守番していろ。いや、していてくれ。すぐ戻るから」
 くたびれた革の上着に手を通しながら、そう言った。
 違法都市の市街には、本物の昆虫に紛れて、無数の探査虫が放たれている。偵察鳥も飛んでいる。茜を連れ歩いて、俺が大事にしている様子を撮影されては困る。
 辺境では〝本物の人間の女〟は希少なので、売り飛ばせば高値がつくのだ。
 いや、俺にとってはとうに〝本物の女〟なのだが、金目当てに茜を誘拐した連中が、もしバイオロイドと知って腹を立てたら、どんな八つ当たりをするか。たとえ後から救出できても、心に取り返しのつかない傷を負ってしまうかもしれない。
 まったく、男が作るのは野蛮な世界だ。
 人類の歴史の大部分は、男の暴力の歴史と言っていい。最近の俺は、女性学や男性学、心理学、教育学の本を読んでいるのだ!!
「戻ってきたら、午後にはドライブだ」
 と約束した。車から外の景色を眺めるだけだが、茜には、いい気晴らしになるだろう。
 もちろん、繁華街の裏通りなどは通らない。緑地や湖を回ればいい。
 違法都市の面積の大部分は森や草原なので、鹿や狼、兎や山猫やリスなどの動物もいる。観光牧場には馬や牛、羊も豚もいる。いずれ茜に、乗馬を教えてやらなくては。
 サーモンピンクのワンピース姿の茜はにこにこして、手話で答えた。
〈お昼を作って、待っています〉
「いい子だ。何か土産を買ってくるからな。欲しいものは?」
 とエレベーターの前で尋ねたら、飛び上がる勢いで喜んだ。
〈薔薇の花〉
 と壁の通話パネルに指で書く。
 前の違法都市で草花の苗や球根を買ってやって以来、すっかり花狂いになっているのだ。今では空き部屋を一室、自分専用の温室にしているほど。
「わかった。薔薇だな。苗も切り花も、一山買ってきてやる」
 笑ってエレベーターに乗り込もうとしたら、背中にどんと衝撃を受けた。
 息が止まるかと思ったのは、衝撃が強かったからではない。俺の脇の下を通って、茜の腕が俺の腹に回ってきたからだ。
 その腕は、俺の胴体をしっかり抱きしめる。そして背中には、頭をすりつける感触がある。
 ――茜が、ダンス以外で俺に飛びついた。
 頭が真っ白になり、硬直したようになって、動けない。声も出ない。
 だが、それはほんの一瞬のことだった。茜はぱっと飛び離れ、後退りながら、照れたような笑みで俺に手を振った。エレベーターの扉が閉まり、その姿を視界から隠す。
 何てこった。
 何てこった。
 回転居住区から0G格納庫へ移動する途中、俺は阿呆のようになっていた。胸の中が嵐のようで、何も考えられない。ただ、一つのことだけ強烈にわかる。
 ――俺の人生は、このためにあったんだ。
 他の誰でもない、茜を幸せにすること。ただそれだけ。
 何と単純なのだ。世界なんぞ、どうでもいい。ただ、茜とショーティと一緒に暮らせれば。
 他の誰を羨む必要もない。俺はもう、この世で得られる限りのものを得ているではないか。

 ショーティは先に車に乗り込んで、定位置に寝そべっていた。いつもの武装トレーラーだ。
 俺が難しい顔を繕って乗り込み、座席に収まってシートベルトをかけると、運転席のアンドロイド兵が車を始動させる。船はもう桟橋に接続しているから、あとは車両用エアロックの扉を開けるだけでいい。
 護衛車両と共に船を離れると、犬用シートベルトに守られた犬が、声をかけてきた。
「もうそろそろ、お出かけのキスと、お休みのキスくらい、してもいいのではないかな」
 俺は危うく、動揺丸出しになるところだった。心臓がばくばくいうのを感じながら、
「何だ、急に」
 と平静そうな声を出す。
「別に、急でもない」
 こいつには全て、お見通しなのか?
「茜もだいぶきみに慣れたし、そのくらいは許されるだろう。もちろん、頬か額に軽く」
 家族としてのキスか。
 そういえば最初の日に、こいつの勧めで茜がキスしてくれたことがあった。あの時は茜も、言われるままに動いただけだったが。
 さっきのは本当に、茜が自分から抱きついてくれたのだ。もちろん、薔薇のお土産がそれほど嬉しかったからなのだろうが。
「茜が怒ったら、どうする」
「たぶん、怒りはしないよ」
「しかし、遠慮して、厭と言えないだけだったら?」
「そこまで心配できるようになれば、たいしたものだ」
 すました態度で、実は笑っていやがる。俺をからかっているのか。
「よかったよ。わたしも嬉しい。きみが一生懸命、茜の答案を添削しているのを見るとね」
「変なところを観察するな」
「変ではないよ。人間の素晴らしいところだ。わたしは犬だから、やはり足りない面があるしね。きみに愛する女性ができれば、一番いいと思う」
 今度こそ、俺は耳まで熱くなった。
 まさしく、それこそが俺の真の望み。
 愛し、愛されて暮らすこと。
 ずっと、心に飢えがあったのだ。人工子宮から取り出された時、俺には既に、親がいなかったから。

 俺の母親は、冷凍の受精卵だけを残して、行方不明のままだった。
 一族の中でも相当な変わり者だったらしく、他組織に殺されたのか、自発的に行方をくらませたのか、手掛かりなしだ。
 父親は、存在するのかどうかも不明。辺境で暮らす女は、好みの人工精子を使って、受精卵を作れるのだ。
 だとしたら、俺も半分、バイオロイドのようなものではないか。
 実験の結果、作られた受精卵。
 優秀なことは間違いないが、愛情など関係なく、計算の上に誕生させられたのだ。
 そう考えるのは惨めだったので、俺の母親は、許されない相手と密かな恋愛をしたのだ、という空想に逃げていた。
 しかし、おそらく実際には、そんな可愛い女ではなかっただろう。一族の誰からも、優しい女だったとか、可愛い女だったとかいう思い出話を聞いたことがない。残っているのは、何枚かの写真くらいのもの。
 俺はつまり、誕生の以前から捨てられた子供だった。
『自分が戻らないまま一定の年月が過ぎたら、冷凍を解除して育ててよい』
 という口約束に従って培養され、誕生させられただけ。
 育ての親はいた。一族の最長老だ。
 しかし、科学者である彼女にとっては、俺は実験体の一体でしかなかっただろう。優れた強化体を設計し、育成するのが彼女の趣味だったから。
 いや、あれは趣味というより、一族の生き残り戦略だったか。
 俺も従姉妹たちも、親世代と同様に、生殖細胞の段階で遺伝子操作を受けた。成長の過程でも、ずっと冷静な観察をされていた。
 知能は。体力は。気質は。
 一族の守り手として、どのくらい役に立つか。
 そういう最長老の態度に反発を覚えていたことも、家出の原因の一つだ。
 俺は、工業製品じゃない。
 一族に尽くすための、ロボットじゃない。
 今になってようやく、あの時、家出しなかったら、一族の中でそれなりに居場所を築いていたかもしれない、と思えるが。
 しかし、それならばショーティという盟友を得ることも、茜を引き取ることもなかっただろう。

「何か……風向きが違うじゃないか。茜で出ていくとか言って、俺を脅したくせに」
「そういう可能性もある、と言っただけだ。このまま歳月が過ぎれば、中身と肉体が釣り合うようになる。そうしたら、一人前の女性として、きみを愛してくれるのではないかと思う」
 俺は言葉がなく、窓の外を眺めるふりをした。連絡トンネルを抜けると違法都市の市街が現れ、車は幹線道路の往来に紛れていく。
 そんな、都合のいい期待をしてもいいのか。
 しかし、もしも本当に、そんな日が来たら。
 俺は一生、あいつ一人を守る。浮気などしない。多分、しないと思う。たとえ、何かの拍子に一時の浮気をするとしても……
 だめだ。それはやめよう。バレた時が怖い。茜を泣かせたり、失望させたりしたくない。
 男の人生に、女は一人で十分ではないか。

 目的のビルは、《フェンリル》という老舗組織の持ち物だった。他に大きなビルを手に入れたので、こちらは用済みなのだという。まともな売却話と考えていい。有力組織の動向は、辺境中から注視されているからだ。
 売買を仲介する組織に手数料を払い、立ち入り許可を得た。二時間後には別の組織が下見に来るから、それまでに引き上げてくれとのこと。
 地下駐車場で車を降り、ざっと内部の構造や設備を確かめながら、上階へ昇っていった。
 オフィスビルとして使われていた建物だが、一部にはホテル階もある。護衛兵を伴い、ビル内に偵察鳥や探査虫を飛ばしておくのは、標準的な用心である。予備の護衛車両も二台、近くの路上で待たせてある。
「このままでも使えるが、商業ビルにするならテナントを入れないとな」
「ホテルとしてはどうだ?」
「場所はいいが、信用度が問題だな。我々は無名だ。安心して泊まってもらうには、〝連合〟に加盟するのが一番いい」
「それで、儲けの半分、持っていかれるわけだ」
「必要経費、という考え方もできる」
 ビルの管理システムは休眠状態で、暖房や照明のための最低限の電力しか使っていない。あれこれ調べ、盗聴はないと見込んでの会話だった。
 犬が俺の命綱だということは、他組織には知られたくない。ショーティが誘拐されて、研究材料にされてしまう。
「まさか、娼館を入れようとは思っていないだろうな」
 俺が皮肉で言うと、ショーティは笑う。
「商売としては悪くないが、それは考えていないよ。茜に説明できないからね。将来、中央の市民たちに憎まれたくないし」
 どのみち表通りに面したビルで、下品な商売は許されない。
 そういう点、妙な言い方だが、違法都市は潔癖である。猥雑な店は、裏通りの一区画に押し込めるのがお約束だ。
  俺はもう、そういう場所には行かないだろう。心の飢えがなければ、肉体の飢えは耐えやすい。
 茜が本当に俺を受け入れてくれるまで、まだ何年もかかるだろうが、希望がある限り、待つのは辛くない。一日、一日を楽しんでいるうち、その時が来るだろう。

 かなり上の階まで昇って、壁面一杯の窓から、下の大通りを見下ろした。冬枯れの街路樹が、車の流れる幅広い道路を縁取っている。周辺のビルも、美しい銀灰色で統一された偉容を誇っている。
 空は曇っていて、時折、ちらちらと白いものが舞っていた。気象は都市の管理組織に制御されているので、大雪にも暴風にもならないが、季節感を出すために、冬期にはよく小雪が舞う。
 美観のための規則があるので、全てのビルの屋上に庭園があった。大通りに面した側は垂直の壁面だが、ビルの裏側は、緑の植え込みを配した階段状の作りになっている。各階のバルコニーで、外気を楽しむためだ。
 茜がバルコニーからの眺めを喜ぶのではないか、と思った。たとえば、ここをホテルにして、その一室を俺たちの専用にしたら。
 警備の行き届いたホテルの中なら、茜も安全に暮らせるし、出入りする客たちを眺めるだけで、世間勉強になるだろう。
 もちろん、まだ、この規模のビルを買える身分ではないが、うまくすれば、数年以内には……
 その時、背後で奇妙な音がした。振り向くと、俺たちの通ってきた扉が勝手に閉じていく。その向こうでは、非常用の隔壁も降りていく。
 他の部屋に通じる扉も、同様に閉ざされていった。同時に、あちこちから白いガスが噴出してくる。
 まさか、《フェンリル》ほどの組織が、嘘の広告を!?
 のこのこ検分に来る馬鹿を捕まえて、洗脳するのか!?
「吸うな!!」
 とショーティに警告したが、俺より賢い相棒には、余計なお世話だったろう。護衛兵たちには簡易防毒マスクを持たせているが、皮膚から浸透してくるかもしれないし、ガスだけで済む保証もない。
 とりあえず、兵の持っている小型爆弾で隔壁を破ろうとした。しかし、白い霧の中で俺が伸ばした腕を、アンドロイド兵が乱暴に振り払う。そして、ぎくしゃくと踊るような身振りをする。他の兵たちも、身を折ったり、傾けたりして、奇妙なダンスを踊りだしている。
「!?」
 アンドロイド兵士の骨格は機械だが、人工筋肉は有機質である。ガスの作用を受けて、何か被害が出たのか。
 次の瞬間、霧の向こうで、別のアンドロイド兵士が腰のホルスターから銃を抜いた。俺の目はその動きを捉え、銃口が左右に震えながら、俺の胸をめがけて上がってくることを認識した。そして、撃たれる前に撃っていた。自分の懐から抜いた、愛用の銃で。
 やられた。
 兵の人工脳が狂ったか、乗っ取られたかだ。
 他の兵士も、ぎくしゃく踊りながら、俺に銃口を向けてくる。この白いガスに、電子機器を狂わせるナノマシンが仕込まれているのかも。
 俺は息を止めて霧の中を走りながら、自分の護衛兵たちを撃ち倒した。強烈な炸裂弾を入れてあるから、アンドロイド兵士は一撃で半壊させられる。
 ついでに、大通りに面した窓を撃ち破った。頑丈な強化窓だが、弾丸も強烈なので、数発で、俺がくぐれる程度の穴が開く。
 周辺のビルでは、窓の穴から吹き出したガスを見て、何事かと思っているだろう。もっとも、違法都市ではこの程度の騒ぎ、珍しくもないが。
 銃を右手に持ったまま、左腕でショーティを抱え上げた。大人の女くらいの体重はある奴だが、この重さには慣れている。
 そして、窓の穴から外へ飛び出した。罠だらけのビル内を駆け下りるより、自由落下の方がましだ。
 冷たい空気を切り裂いて落下しながら、犬が呑気に尋ねてくる。
「飛び降りて、どうする」
「何とかする!!」
 頭を使うのはショーティの役割で、肉体を使うのは俺の担当だからな。
 まず、巻き添えの出ない方向に銃を撃った。弾丸のモーメントの反動で、ビルの壁面に近付く。
 弾丸の尽きた銃を懐にしまい(予備の弾丸は、まだ服のあちこちに入れてあるのだ)、ブーツに仕込んである電磁ナイフを取り出した。ビルの壁面に、垂直に突き立てる。本体の構造材には刺さらないが、外装材で十分だ。
 うまくいった。俺たちの体重がかかっているので、強化繊維の外装材は、そのまま下に切り裂かれていく。落下自体は止まらないが、多少のブレーキにはなる。
 途中でナイフから手を離し、壁を蹴った。狙った通り、銀杏の街路樹の一本に激突する。
 最初の枝を掴み損ね、落下しながら途中の枝を何本かへし折ったが、おかげで速度がなお落ちた。どこかでショーティを離してしまったが、奴も丈夫なサイボーグ犬、この高さならもう大丈夫だろう。
 太い枝をバウンド台にして衝撃を殺し、下の柔らかい地面に転がることができた。ショーティも、近くに四肢を広げて着地する。互いに傷は負っているが、大怪我ではない。
「何とかなったろ」
 と自慢したが、奴はにこりともしなかった。
「急いで船に戻ろう。悪い予感がする」
 言われるまでもない。
 ビルの地下駐車場に入れた車も、予備の車もあきらめ(既に通信不能だった)、無人タクシーを拾って、雪のちらつく市街を走った。
 最初に目についた武器店はやり過ごし、次の店に入って、汚染された通信機や小道具を捨てた。店側に利用されないよう、その場で高温処理したのは当然のこと。
 エアシャワーを浴びてから、新しい装備を身に付ける。
 髪や服に多少のナノマシンが残っていても、増殖性のないタイプなら構わない。向こうも都市内で、無制限に増殖するナノマシンは使わないだろう。そんな真似をしたら、都市全体が機能を停止してしまう。
 中型の武装トレーラーを二台買い、標準型のアンドロイド兵士も二ダースほど詰め込んだ。来た道を逆に走って、桟橋区域へ向かう。
「俺たちが狙われたのか? それとも、下見に来た者なら誰でもよかったのか」
「さあ。しかし、いずれは何かあってしかるべきだった」
 ショーティは落ち着いて言う。
 緊急時ほど冷静になるのは、やはり年の功だろう。暦上は俺の方が長く生きているが、奴はいったん老衰死に近づいたことで、俺にはない一種の〝見切り〟を身につけている。
「我々が育つということは、その分、他の組織の領域を削るということだ。それを愉快に思わない連中が、必ずいる。これまでが順調すぎたかもしれない」
 些細な小競り合いに過ぎないと思う。この程度のことは。しかし、茜がいる今は。

 異変は明らかだった。
 桟橋にいるはずの指揮艦が、こちらからの通信に応答しない。
   近傍の宇宙空間で待機させていた予備の無人艦六隻も、指揮艦からのアクセスで乗っ取られた様子だ。
 他の経路で調べて、指揮艦がまだ桟橋にいることだけは確かめられた。意外なことに、船を乗っ取った連中は、俺たちと正面から戦う気はないらしい。俺たちの車が桟橋にさしかかる前に、車で船から飛び出して、反対方向に逃げていく。そこらの枝道から消え去るつもりだ。
 もし、茜があの車に乗せられていたら。
 あるいは、あれを追う隙に、他の車が茜を連れ去ったら。
 俺は後続の車に船の見張りを命じておき、車載の小型ミサイルを発射させた。逃げる車はレーザーで迎撃してくれたが、ミサイルが空中で爆発すると、その爆煙が次のミサイルの隠れ蓑になる。
 枝道への分岐点を曲がりきる前に、二発目のミサイルが命中した。逃げる車は後部を吹き飛ばされ、電磁推進の機能を失って0G空間に浮き上がった。慣性を保ったまま気密桟橋の内壁にぶつかり、壁に傷を残しながら減速していく。
 茜が乗せられていたら大怪我かもしれないが、ここで見失ったら、おそらく永遠に取り戻せない。
 大破した車から、二体のアンドロイド兵士が飛び降りた。それぞれが大型のグレネード・ランチャーを構え、俺たちの車に向けてくる。主人を逃がすための時間稼ぎだ。
 俺は既に、車の天井扉から身を乗り出して撃っていた。中型のレーザー銃である。人間は、純粋な速度では機械に敵わないが、価値判断がからむ場合は別だ。機械は人間の主人からの指示待ちになるから、一拍遅くなる。
 奴らの榴弾がランチャーの砲口からさして離れないうち、レーザーが命中した。二つの爆発が起こり、その間にこちらの車が突っ込む。二体の兵は、もはやスクラップだ。
「危ない、兵に行かせろ!!」
 警備犬用の安全ベルトの中からショーティが叫んだ時、俺は車から飛び降りていた。前方には、残りのアンドロイド兵に守られ、車の残骸から離れて、あたふたと逃げていく人間の男たちが二人いる。0G空間での身動きに慣れていない連中だから、俺にとっては容易い的だ。
 今度は、愛用の銃で撃った。人体など、炸裂弾に当たれば、ぼろ人形と化す。盾になった兵たちも、それぞれに吹き飛んだ。
「運べ!! 医療カプセルに入れておけ!!」
 どちらも瀕死だが、まだ息はある。こいつらの脳が生きているうち、情報を取るのだ。
 アンドロイド兵の記憶装置は普通、ボディが一定の損傷を受けると自動的に中身を抹消するが、人間の脳は違う。どこの組織が背後にあるのか、尋問して確かめなくては。
 破壊した車内に茜がいないことを確認すると、自分の車に戻り、大急ぎで船に引き返した。
 予備車両からの報告では、新たに船から逃げた車や小型艇はない。茜は船内にいるはずだ。とうに拉致されているのでなければ。
 こんなことなら、一緒に連れて出るのだった。
 いや、それではやはり、守りきれなかっただろう。
 俺たちの好奇心が悪かったのか。買えもしないビルを見てみよう、などと。
 だが、《フェンリル》は何のつもりで、あんな罠を。
 俺たちなんか、老舗組織にわざわざ罠を用意されるほどの大物ではない。他の誰かを捕獲するつもりで、手違いを起こしたのか。
 しかし、有力組織がそんな手抜かりをするか? それとも、何者かが《フェンリル》の名を騙った? そんなことをしたら、後でどんな報復を受けるか知れないのに?
 指揮艦のかなり手前で、ショーティは車を停めさせた。戦闘用装甲服のアンドロイド兵だけを突入させるから、俺にはここで待てと言う。
「管理システムを乗っ取られた船に入るのは、棺桶に入るようなものだ。ここなら、他の船を巻き込むような攻撃はしてこないだろうから」
 車内にあった装甲服は、全部、兵たちが着ていってしまった。エアロック近辺で撃ち合いが始まり、こちらの兵が押し入っていく。
 俺はといえば、車内で、残りの兵たちに腕を押さえられているのだ。暴れてもいいが、装甲服対素手では分が悪い。
「茜がいるんだぞ!! 防衛装置なんか、端から潰していけばいいだろう!!」
 レーザー砲に機銃、電磁ネット、麻痺ガス、粘着弾、金属針。船内のどこに何が仕掛けてあるか、こちらは知っているのだから。
「きみが乗り込んだ途端、船が自爆したらどうする」
 うっと詰まった。しかし、それならあのビルで、もっと確実に俺を始末したはずではないのか。
「いや、待て」
 ショーティが頭を上げた。
「交信が回復した。船の制御を取り戻したぞ」
 首輪につけた新しい通信機で、うまくアクセスできたらしい。ショーティの体内の補助脳と通信機は無事なので、この車内から指揮艦の管理システムを診断できる。
「〝禊〟プログラムが働いて、汚染されたシステムをリセットしてくれた。独立ユニットを、多重に仕掛けておいてよかったな。留守番の兵士たちも、こちらの駒に戻った」
 これまでは、向こうの駒として使われていたのだ。心を持たない機械人形は、これだから困る。
 いや、だからといって、心を持つバイオロイドを奴隷にするのも何なのだが。そうしたら、そいつらの人生に責任を持つことになってしまう。俺はまだ、茜一人すら、きちんと守りきれないのだから。
「茜は!?」
 返答までに、わずかな間があった。管理システムがセンサーや監視カメラを通して、艦内をチェックしているのだ。それをショーティが吟味している。
「向こうの兵士が船内に残っているので、混乱している。警備用のカメラも、あちこち潰されている。まず、邪魔者を片付けないと」
 車で船内格納庫に乗り入れると、不規則な震動が伝わってきた。船内が戦場になっている。
「完全自爆の心配はもうないと思うが、警備システムに死角ができて、茜の居場所がわからない。偵察虫を飛ばすから、少し待て。待てというのに!!」
 俺は兵を振り払って車から飛び降りると、奥へ向かった。エレベーターが使えず、非常階段で回転居住区に降りたら、あちこちで銃撃音が響いている。
 黒煙と異臭も立ち籠めていた。おまけに、茜は呼んでも返事ができないときている!!
 俺の横を猛禽型のサイボーグ鳥がすり抜け、ショーティの声で警告していった。
「五分待て、流れ弾に当たると困る。向こうの兵は、残り数体だから」
 待てるか、そんなに。
 俺は向きを変え、手近の第一武器庫を目指した。戦闘用装甲服を着れば、文句あるまい。
 煙の流れてくる通路を曲がった途端、ぎくりとした。床に、茜の着ていたサーモンピンクのワンピースが落ちている。無惨に引き裂かれて。
 その向こうには、下着とサンダルの片方が転がっている。点々と、血の跡も残っている。
 かっと目の前が燃え上がった。
 血が逆流するというのは、こういうことかと思い知った。
 くそ。畜生。
 ケダモノどもが。
 茜にはまだ、人間の悪意に立ち向かう力は育っていない。
 どんなに怖かっただろう。どんなに 泣いただろう。
 だが、それでも、命さえあれば。
 傷は癒せる。俺が治してやる。

 どこかに茜が隠れていないか、呼びながら、その先へ進んだ。自分が装甲服を着ることは、もう忘れていた。
 途中、向こうのアンドロイド兵と行き合ったが、装甲服を着ていず、損傷を受けてふらついていたので、銃弾一発で倒した。
「よし、それが最後の一体だ」
 サイボーグ鳥が俺の肩に止まり、ショーティの声で言う。
「偵察虫が茜を見つけた。奥の第二武器庫に隠れている。銃を握っているから、声をかけて近づけ」
 よかった。生きている。
 身が震えるような安堵があり、緊張が薄れた。それなら、取り返しはつく。心も躰も傷ついただろうが、もう二度と、こんな目には遭わせないから。
「茜、もう大丈夫だ!! 俺もショーティも無事だから!!」
 煙で曇った通路を抜け、目当ての武器庫の手前で叫んだ。扉は半ば開いていて、中から銃声が響く。
 数瞬、意味がわからない。
 銃声?
 だって、もう敵はいないのだろう?
 なぜ、茜のいる場所から。
 前へ進もうとしたのに、膝が砕けたようになって、うまく歩けない。その俺を、こちらの兵士が押しのけるようにして先へ進む。そして、扉の中へ入っていく。他の兵が、俺の肩を押さえ、扉の手前で通せんぼをする。
 どうしたんだ。
 何が起きた。
 ショーティ、教えろ。
 寄り集まった兵たちの間から、ようやく、武器庫の中を覗いた。そして、銃の棚や弾薬箱、装甲服のロッカー、あたり一面に赤いものが飛び散っているのを見た。
 混じっている白いかけらは、骨なのか。茶色い髪が絡みついた肉片も、点々と飛んでいる。
 広がり続ける血溜まりの中に、長い髪を乱した白い裸身が倒れていた。右手に銃を持ったまま。
 嘘だ。
 何かの間違いだ。
「治療を、早く」
 声が震えた。血溜まりに膝をつき、茜を抱き上げようとする。
 だが、首から上の異様な軽さに、俺はそのまま動けなくなった。顔が……茜の顔はどこだ!?
 灰色の顔をした兵たちも、俺たちの周囲で立ち尽くすだけだった。血の中に膝をついていた一体が、ショーティの声で言う。
「無理だ。顎から上を吹き飛ばしている。脳が残っていないんだ」

 俺はしばらく、正気を失くしていたらしい。
 後から聞いたところによれば、船中に響く絶叫を上げ、手負いの獣のように暴れ回ったという。
 家具や備品を叩き壊し、壁に体当たりし、頭突きを繰り返し、制止しようとする兵たちを、何体も素手でスクラップにしたとか。

 狂乱が止まったのは、非常用ホースで、滝のような高圧水を浴びせられたからだ。
 壁に叩きつけられ、息ができなくなって、苦しさにもがいた。さすがにショーティは、俺の扱いがわかっている。
 放水が止んだのは、窒息寸前の俺が手で合図したからだ。もういい、わかったと。
 兵たちが水を止めた時、非常扉で閉鎖されたその一角は、俺の腰まで水没状態だった。泳ぐようにして、ショーティがやってくる。
「シヴァ、わたしの話が聞けるか?」
 俺は壁にもたれたまま、黙って頷いた。冷水のおかげで、だいぶ頭が冷えている。これ以上暴れたら、餓死寸前まで鎖でつながれるに違いない。
「では、説明する。茜は即死だった」
 わかっていたことでも、改めて言葉にされると、事実が確定してしまうようで、たまらない。だが、ショーティは淡々と続けた。
「脳が消滅している以上、いかなる治療も意味がない。クローン体なら再生できるが、それは茜とは別人になる。中枢神経の細密記録までは、手が回っていなかったのでね。もはや、茜本人は決して取り戻せない」
 聞きたくない。
 夢なら覚めてくれ。
 目を開けたらいつもの朝で、茜がエプロン姿で料理している。俺に紅茶を淹れてくれる。手話で話しかけてくる。そのはずだ。
 しかし、いつまで経っても、ずぶ濡れの冷たさ、まといつく服の重さは変わらない。全身の打撲の痛みや、拳の裂傷も消えない。時間が、今朝まで戻ってくれることもない。
「侵入した男たちが逃げ去った後、茜は自分で武器庫に隠れたとわかった。銃を取って、顎の下から頭を撃ち抜いたのは、きみの声を聞いてからだ」
 意味がわからない。
 ショーティの奴、何を言っている。
 なぜ、茜が俺の声を聞いてから、死ぬ必要がある。
 死ぬほど怖い目に遭っただろうが、強姦など、犬に噛まれた程度のことだと(犬には悪いが)、昔から言うではないか。俺たちが帰ってくるのを、じっと待っていればよかったのだ。
「シヴァ、いいか、現実を認めろ。茜は、我々と再会しないために死んだ……正確に言えば、きみと顔を合わせないために」
 こいつ、冷静なふりをして、錯乱しているぞ。なぜ、茜が俺を待たずに死ぬ。俺たちが、もう少し早ければ。茜にはきっと、俺の声が聞こえなかったのだ。
「それというのも、きみが愚劣なことを教え込んだからだ。他の男の体液にまみれた女は、もう汚いと」

 しばらく、世界が凍りついていた。
 そんなことを教えた覚えはない、と思った。
 だが、少しずつ、記憶が甦ってきた。
 あの時。
 俺が娼館を訪れ、女たちのいる待機部屋に踏み込んだ時。
 まさか。
 そんなことが。
「兵の記録がある。きみは、女たちに聞こえる位置で言い放った。新品の女でなければ相手にできない、気持ち悪いと」
 それを、茜が聞いていたというのか。まだ、俺と顔を合わせる前に。そして、心に刻んでしまったというのか。俺が、初めての客だったから。
 だが、あれはちょっとした照れ隠し、虚勢のようなもので、それほど本気で言ったわけではない。
 だいたい、娼婦を利用するような卑劣な男が、何か偉そうに言ったからといって、聞く値打ちなどないではないか。
 そんなことのために、命を絶つほど絶望するのか!?
 俺たちの愛情は、通じていなかったのか!?
 何があろうと、俺たちが、おまえを捨てるわけがないだろう!!
「常識のある人間の女性なら、わかる。男の身勝手だとね。しかし、工場から出てきたばかりのバイオロイドには、他に判断の基準がない。自分の〝主人〟の言うことを、絶対と受け止めるしかないんだ」
 通路を満たしていた水は、ホースで吸い上げられて消えていく。俺は、びしゃりと床に腰を落とした。ショーティも濡れねずみのまま、正面に座っている。
「その後も、その考えを訂正するようなことを教わらなかった。教わったのは、ただの基礎知識ばかりでね。あとは、王子さまとお姫さまが出てくるおとぎ話。そんなものより、タフな女海賊の話でも読ませておくのだった。上品なお嬢さまではなく、殺しても死なないような女戦士を理想にするべきだった」
 そうだ。
 もう一人の従姉妹なら、確かにそっちの手本になっただろう。
 だが、俺は女戦士には惹かれなかった。
 それが、そもそもの間違いなのか。
「茜はおそらく、きみの顔に嫌悪の表情が浮かぶのを、見たくなかったのだろう。だが、きみが無事かどうかは案じていた。だから、きみの声を聞いて安心したんだ……きみさえ無事なら、それでいいと」
 安心?
 それでいい?
「それで、もう、思い残すことはないと思った。もうとっくに、きみを愛していたからね。きみに捨てられるくらいなら、その前に、消えてしまった方がましだと思うくらい」

 まただ。
 氷の剣が俺を刺す。
 どうしていつも、手遅れになってからわかるんだ。
 自分が、最低の糞野郎だと。

「わたしは何度も聞かされたよ。手話で。指文字で。きみが、どれほど素敵な王子さまかを」
 ショーティは淡々と言う。いっそ、罵倒してくれればいいのに。知能の足りない猿とでも。
「いずれ大人になったら、シヴァが本当のキスをしてくれるから、それを待つようにと言っていたんだ。残念だよ。もう少し、教育の時間があれば。いや、わたしが思い込みに気づいてさえいたら……」
 ショーティは濡れた尻尾を下げて、どこかに立ち去った。兵たちは、俺を無視して修理や後始末にかかっている。いっそ、俺も瓦礫と一緒に捨てたらどうだ。
 俺の方こそ、死ねばよかった。
 苦い涙が溢れてきて、止まらない。
 茜、おまえは、生きて幸せになるべきだったのに。そのためなら、何でもしてやるつもりだったのに。

 俺たちを罠にかけた主犯は、結局、正体不明のままだった。捕まえた男たちは、ただの雇われ者だったのだ。
 俺たちの組織を系列に組み込むかどうかの〝採用試験〟だった可能性もあるとショーティは言うが、《フェンリル》が関与した証拠はない。いずれまた、何らかの接触、あるいは攻撃があるかもしれないが、それはその時のこと。
 ショーティは兵に命じて、茜の遺体をきちんと整えさせ、花嫁衣装のような白いドレスを着せ、柩の中を花で埋めさせた。赤い薔薇、白い百合、青紫の矢車菊、香り高いジャスミン。
 そして、その柩を、通りすがりの恒星に投下すると言う。
「待ってくれ」
 俺はまだ、繰り返し涙が噴き出してしまう。
「可哀想じゃないか。そんな、跡形もなくなるなんて」
「では、このまま冷凍しておくとでも? 茜は、こんな姿をさらしていたくないはずだ」
 銃弾で破壊された頭部は、白いヴェールで覆われている。もしも心臓を撃ったのであれば、緊急処置で助けられたのに。
「せめて、花の咲く丘に埋めてやろう……海が見えるように、本物の惑星上の……」
 しかしショーティは、冷たいほどに平静だった。いや、その静けさが、俺に対する怒りの表明なのかもしれない。
「そういう星は、残らず大組織の所有だ。普通に入星するだけでも、大金を取られる。それでも人間用の墓所はあるが、バイオロイドは受け付けてくれないと思うね。それとも、一族に頭を下げて、彼らのリゾート惑星に埋葬させてもらうか」
 俺は無力だった。
 何の役にも立たない、チンピラの糞野郎だ。
 エアロックの一つから投下された柩は、すぐに暗黒に呑まれて見えなくなる。恒星の重力に招かれ、熱いプラズマに抱かれ、蒸発して消え去るだろう。
 茜の存在を覚えている者は、俺とショーティしかいない。それだけでも、他のバイオロイドたちよりましなのか?
「茜の魂は、もうあの躰には留まっていないよ」
 とサイボーグ犬は言う。魂とは、珍しい言葉を聞くものだ。
「おまえに宗教心があるとは、知らなかった」
「きみが知能を高めてくれて以来、常に人間の文化を学び続けているものでね」
 ショーティは進化しているのに、俺は愚かな猿のままだ。
 俺に、生きる値打ちがあるのか。
 この先、再び、嬉しいことや、楽しいことがあるのか。
「茜は今でも、きみの側にいるよ。きみが彼女のことを覚えている限り、いつもきみと一緒にいる」
 ついに奴は、本物の高僧のようなことを言い出した。どうやら、俺を慰めてくれているらしいが。
 俺には見えない。魂など。
 幻でもいいから、見えてくれればいいのに。
 船内のどこにいても、あいつがいた時のことを思い出す。あそこで映画を見ていた。ショーティと寝そべっていた。絵本をめくっていた。
 俺たちは、会わない方がよかったんじゃないか。
 俺は前より、もっと寂しくなっただけだ。
 茜だって、ほんの数か月の命だった。春を知らないまま、逝ってしまったのだ。あのまま娼館にいた方が、まだましだったのではないか。
 そうしたら、別な男に救われていたかもしれない。女同士の友情を育てられたかもしれない。少なくとも、まだ生きていた可能性が高い。たとえ、最底辺の牢獄であっても。
 どうせ、この世界全体、無限闘争の地獄のようなものだろう?

 ショーティが来て、俺の足元に座る。長々と寝そべって、尻尾で床を掃く。ずっと以前から、よくそうしていたように。
 茜がいま、俺の隣にいてくれればいいのに。
 そうしたら、宇宙は完璧なのに。
 もう二度と、俺を愛してくれる女など現れない。
「いつか、楽になるよ」
 ショーティが床に伏せたまま、遠い未来を見通すように言う。
「時間の経つのが薬なんだ。いずれ、茜と過ごした時間を、懐かしく思い出せるようになる。茜も、幸せだったのだよ。きみに会わなければ、愛というものを知らずに死んでいったはずなのだから」
 そうだろうか。
 俺はもっと、あれもこれも、してやれたはずなんだ。茜にくだらない暴言を聞かせ、それを信じさせたりしなかったら。人生を選ぶ自由があり、市民社会に亡命する選択肢があることを、きちんと説明していたら。
 もう二度と、こんな間違いはしない。
 ましな男になる。昨日よりは、少しでも。
 だから、見ていてくれるか。俺の隣にいて、魂だけで寄り添って。

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