恨
幕末、江戸において隆盛を誇った流派があった。一刀流の流れを組む真崎一刀流である。小野派一刀流から分離したこの流派は道場破りを修行とし、瞬く間に江戸中の道場を飲み込んだ。その中には同門も数多く含まれ、剣術指南の名家・柳生新陰流の傍流も含まれている事態となっていたが幕府は何の処断も下すことはなかった。なぜなら、倒幕派の暗躍で幕府自体が危機に瀕しており、一流派に構っている余裕はどこにもなかったのである。
真崎一刀流を率いているのは真崎伸一郎と言う。隠密に真崎のことを調べていた町奉行の湯川大膳は真崎が以前、京都で名を馳せている新選組の一員だったことを突き止めた。しかも、脱隊するときに追手として差し向けられた隊士を1人斬っていることも判明したのだがこれは新選組が処断する件ということもあって無視された。そして、その事実は世に知られることなく闇に消え去ろうとしていたときに真実は意外な形で決着することになる。
江戸も終わりに近づいてきた頃、刀を腰に帯びた男は復讐に燃えていた。松並木が並ぶ石畳の中を2人の侍が歩いてくる。男も正面から歩いていく。男の周りは殺気で満ちている。
「何者か?」
左側の侍が立ち止まって問う。
「我は死人なり」
「ふざけたことを申すとためにならぬぞ!」
右側の侍が叫ぶ。
「ふざけてはおらぬ。我は閻魔の使いなり!」
と叫んだ瞬間、男は刀を抜き去り、右側の侍の体を横一閃に斬り捨て、その勢いを殺すような動きでもう1人の侍を右袈裟に斬り捨てた。バサッと刀を振ると血の飛沫が白い石の上を舞った。男は死体を一瞥するとこれから行く道を選んで歩いて行った。しばらくすると門を支える左右の柱に堤燈を掲げた屋敷が見えてきた。何人かの侍が出入りしている。男は何の前触れもなく、刀を抜き放った。刀は非業の鬼を映し出すかのように男の顔を魅入らせた。
ザッザッザ…、足音に気づいた侍たちが男の前に立ちふさがる。
「何者か!?」
1人が叫ぶが男の耳には届かない。
「真崎一刀流の面々か?」
質問には答えずに逆に質問する。
「如何にも!ここは…」
続きはなかった。首と胴が離れていたからである。大量の血が天空に舞う。周りの空気は殺気よりも恐怖が勝った。男の鬼気に触れた瞬間、侍たちは瞬殺されていく。正面から来た者に対しては刀ごと切り落とす勇猛さを見せ、背後から襲ってきた者に対しては細かい手先の技で殺さずとも惨い傷を残した。男にとって背後から襲う者は卑怯者でしかない。生きながら苦しむことも必要、昔からそう断じていたという。門を潜ると屋敷の中からウウヨウヨと人が集まってくる。
「貴様!、ここをどこだと…」
男にとって無駄話はいらない。そこから先は地獄で話してくれ、男の心はそう叫んでいた。
「参る」
男の豪剣は全てを斬り裂く。傲慢に生きようとする侍たちに何を教えこもうとするかのように。男が通る道には死体と血だけが残った。中庭の池は真っ赤に染まり、鯉は何も知らぬかのように優雅に泳いでいる。
土足で屋敷にあがり、廊下を見る。恐怖と殺気が入り混じった妙な空間で満ちている。そんな中、1人の男が刀を片手に前に出る。
「先生!」
「先生!」
各々が叫ぶ。どうやらここの主らしい。ほっそりとした体型をしているようだが肉つきはいい。鋭い双眼をしている。
「名を聞こう」
冷静な声で主が言う。
「死人に名はない」
「ならば出自は?」
「地獄なり」
「もう一度聞くが…」
「ぐどい!」
男はいらつき始めた。それが主の作戦でもあった。じらすことにより相手の隙を突こうというのが作戦だったが男はそれを見破った。唐突に背後にいた侍を脳天から斬り捨てたのである。血が天井に飛び散る。それを見た男は瞬く間に冷静さを取り戻した。
(こやつは血を見たら冷静になるのか……恐ろしい…)
主は恐怖を感じた。
「参る」
主は静かに下段構えになり、男は刀を納めて抜刀になる。両者はしばらくの間、動かなかった。周りは弟子である侍たちが囲む。あわよくば攻撃をしようとする者もいたが大半は固唾を飲んで見守るより他なかった。屋敷の外は静けさで包まれて何の物音もしない。一陣の風がどこからともなく吹き込んだとき、両者は動いた。男は抜刀から横一閃に体を狙うが下段から左下より斜め袈裟に払い、刀の通った道を戻る。男は咄嗟に身を引いてこれをかわし、主に斬りつける。しかし、刀で弾かれて再び間合いが開く。双方にわずかばかり焦りの表情が見えた。相手の動きが読めないのだ。先読みすることが武道にとって勝ち負けを左右する。じり…じり…っと間合いを詰める。主には迷いが生じていた。中段構えになっていた男の動きがわからないのだ。一方の男のほうはある一点だけ攻撃することを決めていたが続く第二撃という段階になったときに攻撃の手段がわからなかった。それだけ緊迫した状況が続いている証拠なのかもしれない。そんな状況なだけに2人を見守る視線が重くなる。
間合いがある一定のところまで来たときに2人の動きは止まった。また重い時間が流れる。死線を越えれば2人は動くだろうが今はその一歩手前、刀がかろうじて届かない位置にいる。
「惜しいな…」
ふいに男が言う。その言葉に主はビクッと反応する。
「な!?」
「その迷いがなければ天下も取れたろうに…。現に江戸の城下を把握しているのだ。倒幕の連中でさえ一目置くだろうがそんな動きもない。どうしてか?、それはお主の優柔不断な性格にある。死地に飛び込めぬ愚かな誘惑に負けているからだ。そうであろう?、真崎伸一郎」
「貴様…、一体…」
真崎一刀流の継承者・真崎伸一郎は見破られた心を動揺させた。
「お主は忘れているだろうが俺はよく覚えている。憎き男の面を」
「何者なんだ…」
「ふっ…」
男はわずかに笑った。それがさらに真崎を畏怖させる。
「大野新三郎の名に心当たりはないか?」
「大野?」
真崎は少し考え、次第に顔を青ざめさせる。
「ま、まさか…」
「思い出したか?、お前が騙し討ちにした大野新三郎のことだ」
男はゆっくりと語り出した…。
…新選組隊士である真崎伸一郎は脱隊を考えていた。しかし、脱隊することは局中法度により禁止されている。これを破ることは命を捨てることになるからだ。そこで一計を案じた。真崎の友人であり、天然理心流に属し、永倉新八の配下として剣豪と詠われる大野新三郎を呼び出した。大野崎は私恨を抱く人間ではなく、逆に恩恵を大事にする人物として新選組総長・山南敬助からも一目置かれる存在だったが山岡の脱隊事件以来、上層部とは一線を画している。危険とは見られないものの良い顔はされていない。そのことを知っている真崎は、
「脱隊しないか?」
と持ちかけた。しかし、大野はこれを断っている。当然のことだ、新選組に属する者であれば皆同じ行動をするだろう。それでも、真崎は懇々と大野を説き伏せた。そして、数刻後には意見が一致するところまで話しは進められていた。真崎と大野はどうやって脱隊するか考えた。
「すんなり行くとは思っていないが替え玉を使おうと思う」
「替え玉?、似た者を探すのか?」
「いや、似た者じゃなくても良い」
「それならすぐに偽者だと気づかれてしまうぞ」
「そんなことはないさ」
大野に耳打ちする。
「たしかにそれならば…」
頷くのを確認した真崎にはまだ大野には話していない恐るべき考えが隠されていたのである…。
某所某日、真崎脱隊の報せはすぐに局長近藤勇に伝えられた。そして、すぐに追手を差し向けるべく素早い動きで人選した。中には大野もいた。べつに名乗りをあげたわけでもなく、そういう役目をいつも行っていたからだ。上層部からの嫌がらせとも取れる任務に隊士の間からは非難の声があがっていたが近藤を非難することは新選組を非難することにつながり、局中法度を武器にどんな罪を着せられるかわからないという隊士たちの隠れた信念が全てを封じた。しかし、近藤から与えられた任務を着実にこなす姿勢は忠実な隊士と見られていた。
案の定、大野ら3人は真崎を追った。本隊が到着するまでの先発隊である。真崎の行動を封じるというよりは居場所を確認し、本隊に知らせるというのが任務なのだが、追手になる者は手慣れた者が多く、動きは早い。真崎には大津の手前で追いついた。宿に入る真崎を確認した大野は1人に本隊に知らせるよう伝え、もう1人とともに宿を見張った。大野は裏口を見張ると言って仲間と離れて裏に回った。
「よう、素早い行動だな」
大野が来るのがわかっていたかのように真崎が手をあげる。
「まあな、早くしないと本隊が来るぞ」
「わかっている」
真崎は荷車に隠してあった死体を見せた。
「顔を…焼いたのか?」
「ああ、こいつに俺の物を潜ませてある」
大野は真崎の恐ろしさを知った。
「しかし、1体だけしかないのか?」
「ああ、これで十分だ」
そう言うと小刀を取り出して不意打ちした。
「ぐっ…」
大野はうめいた。
「こういうことさ、お前は俺と同士討ちに遭い、地獄へ行くのさ」
「な…、だ、騙した……の……か…」
「ふん、騙されたお前が悪いのさ」
そう言うともう一撃背中より受けて大野は絶命した。真崎は用意しておいた死体を荷車から下ろし、大野の横に並べた。
「じゃあな」
そう吐き捨てて真崎は去った。残された大野と名も無き死体は本隊が来るまで見つかるのが遅れ、さらにそれが足止めとなって真崎の逃亡は見事に成功したのである…。
「手際の良さは素晴らしかったが詰めが甘かったようだな」
男が言う。
「ふん、騙されるほうが悪いのさ」
大野に言った同じ台詞を男にも言う。
「だがここで死すれば同じことであろう」
「いいや、死ぬのはお前だ!」
叫ぶと同時に斬りかかる。男はこれを凌いで低い姿勢から足を斬りつける。わずかな血が床に飛ぶ。致命傷とならなくても動きを鈍らせれば十分なのだ。
「ちっ」
真崎は舌打ちしながら刀を斜めにして男の動きを見守る。
「お前こそ何の義理立てもなく大野の仇を討つのか?」
「義理はあるさ。俺の弟だったからな」
「何!?、大野には親兄弟はいなかったはず…」
「いたさ。すでにこの世から去った兄が1人な…」
男は顔の皮膚をめくる。ビリビリ…という鈍い音が道場に響き渡るとそこには真崎の知る顔が現れたのだ。
「な!?」
真崎は絶句した。
「久しいな」
男は懐かしむ表情をした。
「ば、馬鹿な!。あんたは死んだはずだ。大野の手によっ………はっ!?、ま、まさか…」
「そういうことさ」
「く、くそ!」
真崎は冷静さを完全に失っていた。構えを失った刀の持ち主は無惨にも斬り捨てられた。それは弟子の誰もが何が起きたか把握できないほどの瞬殺だったのである。当主を失った流派は衰退するしか道はない。男はゆっくりと屋敷を出た。真崎の表札が門柱から落ちている。もう帰る場所はなくなった表札は急に降り出してきた雨に濡れていく。そして、死人と化した男もまた闇に姿を消したのである…。
屯所の薄暗い奥の間、女のために脱隊を試みた男のなれの果てがここにあった。新選組において総長の地位にあった山南敬助である。畳一畳が敷かれた上に座っている。そして、目の前には義弟・大野新三郎がいた。
「首を斬るのはお前か?」
「はい、今朝、命じられました」
「お前にやられるのであれば私も本望よ」
「本当にそれでよろしいのですか?」
大野は山南のことを理解していた。逆に山南も大野のことを理解している。
「構わないさ。これも我が運命」
「此度は首実験はされぬそうです」
「ふっ…」
山南は近藤の心理を見破った。総長たる者が脱隊となれば新選組全体はおろか幕府にも影響を及ぼしかねない。そう判断したのだろう。山南の処断は山岡自身に任せるというものだった。『自害して果てよ』というのが山南に与えられた近藤からの最後の命令だったに違いない。
「左様か…」
山南は大野から渡された短刀を見た。
「殺ってくれ」
覚悟を決めた男の有終の美である。大野も刀を抜く。わずかに刀を濡らし、上段に構える。
「お覚悟を…」
最後の一句も残せない自分を強く恨んだ。そして、残した女のことも…。山南は士魂に無欲になれなかった己を恨み、無惨に散っていく己を恥じ、義弟に斬首させる近藤を憎んだ。しかし、それもここで潰える…かに思えた。
首を切られる!?と悟った瞬間、信じられないことが起きた。山南の髷だけがぽとりと落ち、長い髪はふわっと宙を舞ったのである。
「なっ!?」
「山南敬助は今宵をもって死にました。今ある男は無名の侍に過ぎません」
大野はこう言ったのである。
「逃がすというのか?、お前にも…」
「悲しいことは言わないでください。私には恩ある人物は斬れませぬ。この先に舟を待たしてあります。船頭は口の堅い男ですから見つかることはないでしょう。さあ、お早く」
山南は大野の手引きにより密かに屯所から逃れ、京から逃れた。大野は山南が離れるのを確認することもなく屯所に戻るとすぐに用意しておいた山南の偽首を近藤の前に見せた。それを検分した近藤はわずかに頷き、手厚く葬るよう大野に伝えたという。このとき何の不審な様子も見せなかった近藤は山南は生きていると思ったのかどうかは定かではないがこうして山南は生きるという道を選ぶことができた。
しかし…、山南を救った義弟は騙し討ちという手段でこの世を去った。それを報らされたとき山南は尾張名古屋の友人の屋敷に居候していた。報せは友人から受けた。当初は相打ちとされていたが不審なところが多く、色々と調べているうちに騙されたことがわかり、山南は復讐に燃えた。けれども居場所を掴めずにいたがそれは真崎のほうから姿を現した。強大流派の継承者として江戸に君臨したのである。山南は真崎の所在を確認しながらかつての新選組剣士の姿を彷彿と感じさせるには十分過ぎた。そして…。
真崎伸一郎死去の報せは江戸中に響き渡った。主を失った真崎一刀流は衰退の途を見せ、明治に入るときにはその姿はどこにもなかったのである。かつて、そのような流派があったことすら夢のまた夢の中へと消え去り、誰が真崎を斬ったのかという真実もまた幕府滅亡の影に消えていったのである…。
京のはずれにある墓地、そこにある大野新三郎の墓の前には誰が置いたのかもわからない一輪のゆりの華が置かれていたという…。
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