太田城
(探索終了)
探索日 | 場所 | 備考 |
22年8月頃 | 大門橋 | 山門があったと思われる |
23年1月27日 | 太田城毘沙門天 | 太田城の守護神と言われる |
23年2月6日 | 来迎寺 | 太田城の本丸があったと思われる |
23年2月13日 | 水攻堤跡 | 水攻めのために築かれた堤防 |
23年2月18日 | 大立寺 | 移築山門がある |
☆ 解 説 ☆
豊臣秀吉の紀州征伐での激戦地で、
日本の三大水攻めの一つに数えられる
紀伊国人衆、太田党の居城で、
時の当主・太田左近は、
雑賀孫一と同盟敵対を繰り返していたが、
秀吉の紀州征伐では利害が一致
多勢に無勢であったため、太田城に籠城した
しかし、秀吉は水攻めによる兵糧攻めを敢行し、
窮地に陥った太田左近は自らの命と引き換えに
城内の人々を救ったとされる
広範囲(太田、出水、橋向丁)に散らばっています
大立寺
文禄年間に創建されたという
紀陽銀行橋向支店の近くにあります
太田城移築山門
山門は医薬門型式で、
太田城の大門を移築したものと伝えられる
太田城落城後に功徳寺(山門以外戦災焼失)に移され、
戦後に大立寺の山門になったという
大門橋
太田城の山門があったとされる
現在も流れる大門川の由来ともなった
和歌山駅東口から真っ直ぐ行った辺りにある
来迎寺
太田城の本丸があったと言われる
寺院内に城跡を示す石碑が建っており、
裏に水攻戦で戦没した者たちを弔う慰霊碑(小山塚)がある
太田城毘沙門天
嵯峨天皇の御代弘法大師が諸国行脚の際、
毘沙門天像は東方の音浦山(現在の花山)から
総光寺に安置され、七堂伽藍が建立された
天正6年5月の雑賀一揆で
七堂伽藍は戦火にまみれたが、
毘沙門天は太田城中に逃れたという
来迎寺の東側、民家と民家の間にあります
水攻堤跡
太田城を水攻めする際に築かれた堤防の跡
きのくに信用金庫出水支店の隣にある
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