『越書 周愛伝』

 漢王朝を混乱に導いた黄巾の乱は張兄弟の死去に伴い、一応の終結を見た。しかし、黄巾党は滅びたわけではなかった。張兄弟に従っていた頭目たちは四散した勢力を集めて各地で展開した。中でも一番の激戦地と言われたのが青州と豫州だった。
 青州は管亥という武勇に優れた者が五万の兵を率いて突如州城を襲ったのである。太守襲景(きょうけい)は決死の覚悟でこれを防ぎつつ、各地の群雄に援軍の要請を送った。そして、それに応えたのが平原の相を務めていた劉備だった。当初は陶謙に送ったものだったが陶謙はそれを劉備に譲ったのである。劉備は求めに応じてすぐに兵を青州に向ける。左右には関羽・張飛の股肱の姿も見えた。彼らは城を囲む敵軍の姿を見ると無勢などもろともせずに攻撃を仕掛ける。後方より突如現れた劉備軍に少し驚きつつも、兵の少なさから楽観視していた。そこを真っ二つにされてしまったのである。二人の猛将を前に黄巾党の士気は大きく下がり、管亥は彼らを討たねば勝機はないと判断し、一騎討ちに挑む。これに応じたのが関羽だった。管亥は二人の武勇を知らなかった。いや、知らなかったというより、知ろうとしなかったのかもしれない。だからこそ、これだけの兵を集めることも可能だったのだろうか。管亥とて黄巾党では名の知られた者であったのだ。勝てるという自信がなかったら、今頃はとっくに敗走していたはず。関羽の面前に立った管亥は勢いで一騎討ちを仕掛ける。関羽はこれを軽くいなすが管亥は次の攻撃を繰り出し、関羽も反撃を行う。これを見つめる者の視野には管亥の勇猛ぶりが目に焼きついたはずだった。なぜなら、関羽は董卓配下の猛将華雄を一合で討った猛者なのだ。その猛者を相手に無知とはいえ、数十合にも渡って攻防を繰り返していた。管亥は知略も学んでいたというからもしかすると関羽とよく似た人物だったのかもしれない。それでも、最後は一刀両断で顔を割られてしまった…。もっと早く彼らが出会っていたなら、管亥は黄巾党に組みせず、関羽の股肱となり得たかもしれない。
 管亥を失った黄巾党はあっという間に四散し、青州は無事に救われた。しかし、黄巾党は滅びたわけではなく、野盗となって青州を荒廃させた。それに目をつけたのが曹操だった。曹操は青州という土地よりも黄巾党の執念深さに目をつけたようだ。曹操は彼らを配下に組み入れることで絶大な勢力を得たに等しかった。優々と居城に戻った曹操を待っていたのは父曹嵩の死である。曹嵩の存在を知った陶謙は曹操との関係を結ぼうと徐州城に招き、帰りに多数の貢物を捧げた。けれども、その護衛に当たったのは張閾(ちょうがい)という都尉だったのだが、実はこの男、元黄巾党で陶謙に捕らえられて改心していたと思いきや、多数の貢物に目が眩んで曹嵩を殺害し、逃げ去ったのである。この報せを聞いた曹操は激怒した。そして、怒りを張閾ではなく、陶謙に向けたのである。突然降って湧いてきた危機に陶謙は各地の群雄に援軍を求めた。それに応えたのがまたしても劉備玄徳だったのである。劉備は北平の公孫讃の元にいたが一軍を率いて駆けつけ、すでに徐州を包囲していた曹操軍の背後を突いて陶謙の元へ辿りついていた。不意を食らった曹操は全軍をもって徐州を攻め取ろうとしたが今度は居城を呂布が襲った。呂布は董卓の残党に敗れた後、陳留太守張遞(ちょうばく)を頼っていたが曹操が居城を留守にしていると聞くや、これを我が物にせんと奪い去ったのである。突然の伏兵の出現に曹操は徐州攻めを諦めて呂布と対峙したため、徐州の平和は守られた。しかも、劉備は陶謙より徐州を譲られて刺史として新たな領地を得たのである。

 一方、もう一つの激戦地である豫州は無法地帯と化していた。有力な太守もなく、荒廃した集落は黄巾の残党にとって格好の餌食だった。かつて、黄巾党に属していた何儀・周倉・裴元紹・劉辟など多くの頭目と呼ばれた者が割拠している状態で、曹操が後にその勢力下に置くがそれでも空白となる部分が多かった。曹操が拠点とした許昌も豫州にある。それまでの州都は汝南だったが太守の交代は激しく、董卓横暴時代に孔由が現れて以降は劉備が一時の避難場所とした以外は黄巾党の残党や山賊の類がその勢力とした。しかし、この地は寿春や徐州といったかつての激戦地に近く、張角ですら拠点とした場所でもある。統治を志した曹操の気持ちもわからぬ訳でもない。
 公玄忠の友人周愛もまたこの地に腰を下ろしていた。周愛が拠点としていたのは豫州南部にある弋陽(よくよう)だった。この地は寿春の袁術、荊州の劉表といった強大勢力に挟まれていながら、戦火にまみれることなく、平和な日々を過ごしていた。
「圓範よ、聞いたか?」
周愛は傍らに控える副将圓範に声をかける。過去の戦いで片腕を失っているものの、その武勇は周愛軍では退けを取らない。
「玄忠が交州を獲ったそうだぞ」
「おお、あの御方が…」
「かつては我らの頭目として一軍を率いていたとは思えない程の出世ぶりだな」
「ええ、玄忠様にはその器があったのでございましょう」
「うむ、我が頭目に据えた理由も今となればおのずと分かるだろう」
周愛はしみじみと語っているところに足早にやって来る者がいた。腹心として彼らに仕えている潘桓という男だった。元は野盗くずれで圓範に戦いを挑んで敗れた後、軍門に下ったのだ。
「申し上げます」
「どうした?」
「城の北側よりこちらに向かってくる軍勢が見えます」
「旗印は?」
「土煙が激しくてわかりませぬ」
「よし!」
周愛は急ぎ壁が崩れた政庁から城壁に移動すると軍勢はすでに門の外にあった。旗印は「張」とだけ記されており、それを率いている男の姿に見覚えがある。
「周愛、門を開けてもらえぬか!?」
馬上で叫ぶ張閾の姿があった。
「久しい顔を見たが門を開く訳にはいかぬな。お主、曹操の父曹嵩を殺したな?」
「ん、ああ、偶然の産物に過ぎない」
「偶然と申すか?」
「ああ、貢物をもらっただけだ」
「今のお前を見ていると大師が嘆くぞ」
大師とは黄巾党を築いた張角のことだ。
「大師?、お前は崇拝者だったからな。だが、もう大師も将軍も死んだ。今あるのは欲望だけさ」
「欲望をもっているのはお前だけだ。他の者は信念で生きている」
「信念だと!?、そんなものを持ったばかりに管亥はその命を散らした。お前もそんな運命を迎えたいか!?」
今にも攻めるぞと言わんばかりに叫ぶ。
「たいした余裕だな。我はお前と組む気はないし、曹操の怒りを受けるのも御免だ」
「ふん、後悔することになるぞ」
「後悔?、それはお前だろ。ここにいる者はお前が率いている野盗とは訳が違うぞ!。圓範!」
周愛が叫ぶと圓範が城門を開く。片腕には槍があった。手綱は持っていない。己のバランスだけで馬に乗っているのだ。これも長年鍛え上げた馬術によるものだろう。
「おおう!!、全軍かかれ!!」
統率の取れた圓範軍は張閾軍に飛びかかる。城外で乱戦となったところに城壁から周愛の合図で弓が浴びせられる。上下から攻撃を受けた張閾軍は混乱に陥り、数百の首が餌食になるか、四散するのがやっとだった。肝心の張閾が我先に逃げてしまったのだから文句など言えるはずもない。城外には死体と戦利品が残った。そう、曹嵩から奪い去った貢物だった。周愛は捨て置くよう命を出したが今度は潘桓が夜のうちに運び出して行方を晦ましてしまった。その時に蓄えていた兵糧の大半も奪って行ったのだ。
「やはり、彼奴は疫病神だったな」
「如何なされますか?、このままでは我らも飢え死にですぞ」
圓範の指摘に弋陽は危機に瀕した。本来ならば近くの集落で略奪をすれば済む話なのだが周愛はそれを良しとはしなかった。そのため、民衆には慕われていた。しかも、略奪するにしても度重なる戦火と蝗の襲来で米など残っているはずもなかった。これを打開する策を得ないまま、一夜が過ぎた頃には不満を漏らす者もおれば城を去る者まで現れた。
「潘桓を探すよりも誰かを頼ってみては…」
圓範の言葉に周愛は苦渋の選択を迫られた。頼るとなると快く迎えてもらえる者でなければ黄巾党出身というだけで殺されかねない。そこで考え抜いた結果、皆を集めて解散を命じると共に城の放棄を決定した。命が下った瞬間、配下たちは次なる主君を探すため、半日も経たないうちに去り、残った者はわずか20に満たない。
「所詮はこの程度だったのかもしれんな」
「去る者は追わず、ですね」
「うむ、圓範よ、これから行くところだが…」
「わかっております。やはり、我らの主は一人しかおりませぬ」
「ああ、彼の地まで長い道程だが皆ついて来てくれるのか?」
残った面々に確認すると皆一様に頷く。
「我らの思いは同じです」
圓範も言う。
「わかった、お前たちの命、決して無駄にはせぬ」
こうして周愛たちは弋陽を離れて旧友がいる交州へと向かった…。

 …交州の州都番禺は公玄忠の手によって整備され、中心都市としての役割を十分担っていた。港には貿易船が行き交い、商人たちは南北へ続く流通都市として利用した。そのため、番禺は自然と発展を続けるには十分だった。しかし、まだ西方には数多くの敵がいるため、いつ奪還されてもおかしくない状況でもあったがわずかな平和を得た民衆の心に安心感を与えた。そんな日々が続いている頃、玄忠の元に知らせが入る。
「何!?、城下の飯店で暴れている者たちがいると申すか!?」
「はっ、その者、熊のように大きく、歯は牙のように生えている化け物にございまする」
報せを持ってきた兵が言うと玄忠軍随一の雄を誇る劉泰が願い出る。
「某が止めて見せましょう」
「うむ、お主ならば申し分ないだろう」
と命じたものの、劉泰が向かった時にはすでに終わっていた。化け物と称された男は飯店の外で気絶していたのだ。
「これは一体…」
劉泰も呆然しているところに話しかける旅人がいた。
「中で暴れていたので取り押さえたまで、力は弱く、威勢がいいだけですな」
その旅人は笑いながら言った。他にも数人が協力して取り押さえたのだと言う。劉泰は彼らの武勇を気に入り、玄忠に会わせるべく、政庁へと案内した。玄忠はそのとき軍議の間から自室に戻ろうとしていたのだが劉泰の姿を見つけて足を止める。
「おう、劉泰、どうで……」
声をかけようとして懐かしい顔を劉泰の背後に見た。
「殿、私が言ったときには彼らが取り押さえており申した」
「しゅ、周愛ではないか!!??、それに圓範も!!」
突然の叫びに劉泰が驚く。
「お知り合いで?」
「知り合いも何も彼らは我が友だ」
友と呼ばれた二人の双眼からは涙がこぼれそうになっていた。
「玄忠、ようやく会えたな」
「まったくだよ、旦那!」
三人はまるで兄弟のように抱きついた。
「よくぞ…よくぞ、生きていたな。積もる話しもあろう、ささ中へ」
かつての同朋たちは大陸に住む限り、心は同じものだと痛感させられたのだ。周愛から様々な話しを聞いてわずかに頷いてばかりの玄忠、酒を飲んで楽しそうに語らう圓範の姿があった。
「友とはいいものだな」
軍師王循が三人の姿を見つめて言う。
「戦火を通じて心を通わせる、それが人が生きるための理想ですね」
彼らを連れて来た劉泰が言う。
 語らいは夜まで続いた。圓範は酒樽を枕に鼾を掻いている。他の者たちも眠ってしまっているようだ。
「周愛、また共に戦ってもらえるだろうか?」
「何を申す?、我らの主君はお前だけだ」
「今の交州はまだまだ荒れる。私が抑えている場は一握りに過ぎぬ。この地に平和をもたらすためによろしく頼む」
玄忠は友に頭を下げた。一介の武将に太守が頭を下げたのだ。これ以上の敬意はない。周愛は感涙を覚えたのは言うまでもなく、翌日、圓範らと共に君臣の契りを交わした。いずれ、名将としてその名が刻まれる日もそう遠くないだろう…。


外伝第二章へ続く

戻る


.