紀三井寺
探索日 | 場所 | 備考 |
23年7月2日 | 紀三井寺 | この日の天候は晴れ。しかし、災難が降り注いだ・・・(笑) |
23年7月9日 | 紀三井寺 | この日の天候は晴れ。足元を見ながらじっくり見物・・・(爆) |
☆ 解説 ☆
救世観音宗総本山
西国観音霊場第二番札所に指定され、
770年(宝亀元年)、唐の僧為光上人によって開基
開基の由来は、
諸国を巡っていた為光が名草山麓で宿を借りた際、
山の山頂付近で白く輝いている光を見つけて
山頂に近づいたところ、金色に輝く千手観音と出会い、
同地が仏縁深い霊場と悟った為光は、
自ら十一面観音像を彫って草庵に安置して、
紀三井寺を開いたという
織田信長や豊臣秀吉による紀州征伐による
戦火を免れ、天災による再建はあったものの、
数多くの建築物が現存している
正式名称は『紀三井山金剛宝寺護国院』という
祇園社の事由(いわれ)
昔、印度(インド)でお釈迦様を初め
諸弟子の住居となった祇園精舎という寺があり、
守護神として牛頭天王をまつる仏法が我が国に伝えられた
平安時代に疫病が蔓延した際に、
京都で祇園の牛頭天王をまつったところ、
疫病は静まったという
護国院楼門(国指定重要文化財)
1509年(永正6年)建立
三間一戸、入母屋造、本瓦葺の建築物で、
建立以降度々修理を施すが、安土桃山時代の様式を残している
金剛力士像を安置している
楼門を潜ると長い石階段が続く
階段も『男厄除坂』や『還暦坂』等の名前がある
清浄水
紀三井寺の三井水の一つ
紀三井寺の三井水は
清浄水と南1キロの山腹にある楊柳水、
北400メートルにある吉祥水から成っており、
縁起による伝承的なものではあるが
名草山の古道に沿って作られた貴重ななものである
芭蕉翁句碑
清浄水の隣にある
松尾芭蕉を偲んで文化年間に建立されたという
『見上ぐれば 桜しもうて 紀三井寺』
納経堂の手前を右奥に行くと楊柳水の井戸があります
楊柳水の井戸
井戸自体は蓋をされていますが、
そこから水を汲み上げて水道の蛇口から得ることができます
楊柳水の井戸の上方に空き地があるのですが、
石階段があることから何か建築物があったものと思われます
三井水の反対側の参詣路
塔頭寺院である善壽院に続きます
善壽院
紀三井寺域内にある塔頭寺院
石碑が建てられた明治時代の頃は真言宗の末寺であった
裏門
善壽院から駐車場を抜けてさらに歩いた先にあります
一旦外に出て旧熊野街道を北に走って途中右折しても行けます
階段まで戻って納経堂を撮る
階段を登り切ると六角堂があります
左に行けば本殿や鐘楼、
右に行けば仏殿がある
新物殿(仏殿)
本尊である十一面観音像がまつられています
高さは三層分あり、日本最大の仏像と言われているそうです
案内係がおり、撮影は厳しく制限されています
仏殿から和歌浦を望む
護国院鐘楼(国指定)
桁行三間、梁間二間の入母屋造、本瓦ぶきの建築物で、
1588年(天正16年)に安部六太郎によって再建されたと伝わる
大師堂
弘法大師像をまつっている御堂
ごくらく橋
本堂と大師堂の間にあります
護国院本殿(和歌山県指定重要文化財)
770年(宝亀元年)の創建と伝わる
現在の建物は1759年(宝暦9年)に再興されたもので、
桁行五間、梁間五間の入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、軒唐破風付に
後堂が付け加えた本瓦葺の建物である
本堂前の境内は広い造りになっています
春子稲荷
紀州征伐の折、
紀三井寺観音堂に仕えていた
春子という20才ぐらいの女性が
突然須弥壇の中から白狐の姿になり、
敵陣に赴いて霊刀をもって敵将を威服し、
羽柴秀長から焼き討ち禁制の書状を得て紀三井寺を守ったとされる
護国院多宝塔(和歌山県重要文化財)
本瓦葺の多宝塔で、
1441年(嘉吉元年)に元々あった仏塔が風害で崩壊し、
1449年(宝徳元年)に再建された室町時代中期の建築物
開山堂
鐘楼の隣にあり、奥は霊園墓地となっています
開山堂から本殿を望む
春子稲荷から金毘羅堂への石階段
階段は崩れており、湿って落ち葉がどっさり積もっている
途中で簡易な鳥居らしきものがある
金毘羅堂
正式名称は寺内地図にも御堂にも書いてなかったので、
御堂に貼ってあった木札(3枚程あり)が取りました
実はこの帰りの石階段で見事につるっと転倒しまして
腰を強打して動けなくなるアクシデントが発生
手の平を負傷したこともあって
楼門と裏門、吉祥水を撮り忘れましたので、
一週間後に再訪して吉祥水を除く全ての建物に行きました
吉祥水は離れたところにあるらしく、また覗きに行くつもりです
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