廃人街

 慶長五年、豊臣という強大な勢力は徳川という新しい勢力の前に敗れ去った。関ヶ原という大いなる草原は全てをひっくり返した。権力者となった徳川家康は石田三成率いる西軍に属した将兵の残党狩りを諸藩に命じた。しかし、全ての将兵を根絶やしにすることは不可能なことで諸藩は江戸からの監視の隙を突いてこれらを登用することで根絶やし令から避けることができた。登用された将兵たちは諸藩の家臣として一途の望みを得ることができたが登用されなかった者たちは己の器量を高めて諸藩に売り込むことに懸命になった。けれども、それすら行わなかった者たちは世間から追放されたかのようにある街へと逃れてきた。忘れ去られた土地にそれはある。噂を聞きつけた徳川家康は諸藩に探索するよう命じたが見つかることはなかった…。
 街の名は廃人街という。険しい谷を越えて獣が多く蔓延る山のさらに奥深い迷路のような森を抜けたところに存在した街である。その街にまた一人、男がやって来た。廃人街に入るには橋を渡らなければならない。人一人がやっとこさ通れる橋だったが男は悠然と橋の上を歩き、渡りきったところにいる老婆に通せんぼされた。
「お前さん、どこから来なすった?」
老婆が問いかけると男が答えた。
「死の淵より参った」
「そうかいそうかい、関ヶ原の地獄を見てきたクチだね。入りな、ここはそういう連中が多く集まる場所さ」
男は頷くと廃人街へ入って行った。
 街は結構な賑わいを見せている。橋から真っ直ぐと伸びた道の両脇には露店が出ている。浪人者や世間から追放された人々を相手に年増のおばちゃんたちが商売をしていた。そこを通り抜けると十字路に出た。右に行けば藁と石でできた屋根の民家が立ち並び、左に行けば鉱山に続く洞窟がある。正面は村長の大きな屋敷が構えていた。屋敷の門のところに二人の兵が槍を持って立っている。男は門に近づいた。
「何者か!?」
兵が槍の穂先を男に向けて叫ぶ。
「村長に会いたい」
「名を名乗れい!」
「紅蓮と申す」
それを聞くと兵の一人が屋敷に走っていく。もう一人は槍を構えたままだ。しばらくして兵が戻ってきた。
「村長がお会いになるそうだ」
紅蓮はしっかりとした動きで門を潜った。屋敷の中に入るまでもなく、村長が紅蓮の前に立っていた。
「千合の紅蓮か…、何しに参った?」
「人捜しに」
「ほう、このような場所に人を探しに来たのか?、笑える話だね」
「菊という女を捜している」
「菊ね…、そのような名の女はしらんな」
「そうか…」
紅蓮は振りかえった。
「待て」
「何だ?」
「仙女に会ってみよ。あの女なら知っているだろう」
「どこにいる?」
「鉱山の深き湖にいる」
「鉱山の?」
「そうだ、あの女がこの街を作らせた張本人だからな」
「作らせたとは?」
「外敵から自分を守るため」
「村長、あなたは一体…」
「紅蓮よ、お主がどのような生き方をしてきたかはおおよそ分かるが我にも運命という役目があれば御身にも運命という役目があろう。しばらく足を休められよ。そして、次なる壁に行かれるが良い」
紅蓮は最後まで聞かずに屋敷を出た。
「運命の役目、そのようなものがあるとすれば仇ただ一輪のみ」
そう言い捨てて紅蓮は足を休めることもなく地下鉱山のほうへ歩いて行った…。

 千合の紅蓮、戦国の世において剣豪であれば知らぬ者はいないとまで言われたほどの力の持ち主である。天正十七年、広大な土地を持つ陸奥国は群雄割拠の時代でもあった。北に南部氏が占めれば南に葦名が黒川を拠点に勢力を広げる。そうかと思いきや隣国の伊達氏は独眼竜という猛者を筆頭にこれと争い、その北に目を向ければ伊達と姻戚関係にありながらその領地を狙う最上一族の存在があった。この四強を筆頭に小勢力はいずれかに組みしながら戦国の世を乗り切っていた。その均衡が崩れた戦いが摺上原の戦いである。葦名、佐竹連合軍に勝った伊達政宗は翌年、摺上原において葦名軍と激突した。先の戦いで将兵の士気がかなり落ちていた葦名軍に対し、伊達軍は意気揚揚と戦に挑んだ。政宗の一騎駆けは「奥州に独眼竜あり」とまざまざと見せつけたのだがその独眼竜に対して勝負を挑んだ者があった。馬ごと相手を斬り殺すほどの大刀を片手に快進撃を食い止めようとする。
「我を政宗と知っての狼藉か!?」
「無論、参る」
互いに馬上において槍と刀が火花を散る。戦のほうは圧倒的に伊達軍だが一騎討ちとなれば話は別だった。十合、二十合、三十合…、徐々に増えていく火花の数は遠巻きに囲む伊達軍の将兵をも圧倒させたのである。異様な空間が作られようとしていたとき紅蓮の馬が過疲労のため足を折った。その直後、紅蓮は地面に叩きつけられた。
「もらった!」
政宗は槍を繰り出したが紅蓮は咄嗟に死角に回って政宗が跨る馬の脚を斬り捨てた。政宗もまた紅蓮と同じように地面に舞った。政宗は接近戦に不利な槍から刀に換えて勝負に挑む。そこからまた火花が散る回数を増やしていく。双方とも手傷となる傷は多く目だったが深手となる傷はどこにもなかった。政宗でさえ紅蓮の実力を認めていたという。
(惜しいな…)
敵でなければという思いが政宗の心を包み込んだ。全身から汗が噴出すや双方とも具足を脱ぎ捨て身軽となってさらにぶつかり合う。紅蓮の働きは葦名本陣には伝わらなかった。もはや戦は決定的なものとなっている。本陣を陥落させられた葦名軍は黒川城へ逃げ込んだ。この場には逃げ惑う残党と政宗と一騎討ちを試みる紅蓮だけしか残されていなかったのである。火花の数も二百合という前代未聞の状態になったとき政宗の刀が折れた。名刀だったらしいが紅蓮の刀には勝てなかったようだ。今度は政宗が殺られる番だった。
「死するがいい」
紅蓮は八艘構えになって政宗に最後の死を与えようとする。政宗は咄嗟に折れた刀を紅蓮に投げつけ、紅蓮がこれを弾くうちに駆けつけた片倉小十郎から刀を渡されて再び対等の立場に立った。
「まだまだ我はこのような場で死する訳にはいかぬ」
政宗は紅蓮との勝負を終わらせようとはしない。双方とも真の剣豪だと小十郎は感じ取った。また刃と刃のぶつかり合う回数は増えていく。日も西に傾き、夜を迎えようとしていたが二人の戦いは終わっていなかった。さすがの小十郎も限界だと感じた。二人の体力も精魂尽き果てたように感じていたからだ。火花の回数も千合という信じられない回数まで達しようとしていたとき小十郎が叫んだ。
「双方、退けい!、もはや勝負は決した!」
小十郎の言葉に二人は耳を傾けようともしない。さらに数合ぶつかり合う。一定の間合いに開いたとき小十郎が間に割って入った。
「小十郎、どけ、邪魔だ」
「どきませぬ、双方ともいつまでやられるおつもりですか?」
「無論、どちらかが死するまで」
「この者は良いとしても殿はまだまだ死する身ではございませぬ。殿の後ろには奥州統一というものがあります。それを見ずして無闇に死を言葉になさらないで下さい」
「ふん、小十郎、そんな小さな夢を見ていたのか?」
「な、何と申されまするか!?」
政宗は小十郎を睨みつけた。あまりの睨みの鋭さに小十郎の鼓動は早くなる。まるで殺気のようだったからだ。
「奥州統一など悲願でも何でもない。今、この者との勝負こそが我の夢だ」
そう言いきったとき小十郎は呆然としていたという。しかし、それでも主君の暴走を止めなければという強い意思が己を動かした。
「ならば父上の無念を忘れるということですか!?」
その言葉に政宗の心が大きく疼いた。
「殿、我らの悲願はどこに向けばよろしいのですか!?」
「………」
政宗が黙ると紅蓮のほうから刀を退いた。
「止めだ」
刀を鞘に納める。
「このような状態では真剣にもなれぬ。良い家臣を持ったな」
紅蓮はそう言い捨てるとくるっと後ろを振り返って颯爽と走り去っていく。囲みをしていた兵たちだったが紅蓮の疾風にはついて行けずにオロオロするばかりだった。
「真の武士とはああいう者を言うのかもしれんな」
「しかし、それも乱世の時のみでござる」
「ふっ…」
政宗は苦笑した。まだまだ甘いという表情をしていたのである。小十郎の目にはどう映ったかは知る由もない…。

 鉱山は地下へ伸びていた。緩やかな下り坂の向こうは延々と伸びる暗闇である。暗闇の洞窟を明かりもつけずに紅蓮は歩いていく。洞窟には崩落を支える杭などは備え付けられておらず、いつ崩れるかもしれない状態だったが紅蓮は一つの目的を求めるため真っ直ぐ鉱山の奥へ入り込んだ。しばらく行くとカツンカツンと音が響いてきた。廃人街の男たちが鉱山から取れる銅を掘っているのである。
「どこに行きなさる?」
紅蓮が近づくと闇の中から声が響いた。男たちは暗闇の中で作業をしている。
「湖へ」
「ほう、妖怪に会いに行きなさるか」
「妖怪?」
「村長らは仙女だの言っておるがあれは妖怪だ」
「根拠は?」
「三百年も生きてここに来る者の魂を喰ろうておる」
「喰われた者がいるのか」
「ああ、俺のじいさんも父親も喰われた。友人もそうだ。俺も時間の問題かもしれんな」
「妖怪ならば退治するのみ」
「やめたほうがいい」
「何故?」
「祟られるぞ」
「構わないさ、俺はもう亡霊に取り憑かれている」
そう言って男たちの横を抜けた。そのとき男の手の動きが止まる。
「あの男…」
まるで気配がしなかった。
「本当に…死人……なのか………?」
闇の中を歩いていく紅蓮の後姿だけが男の目に焼きついたのである。
 湖は鉱山の奥深くにあった。地下水が涌き出ているのか澄んでいて底がよく見えている。闇の中だと言うのに湖は光り輝いていた。
「ここか…」
吐く息は白く、少し肌寒い。
 紅蓮はゆっくりと湖の周りを歩いた。湖自体はそんなに広いものではなく一刻もすれば元の位置に戻ってきた。一周してから紅蓮は視線を湖に向けると中央に小さな小島のような水面から浮き出た岩場のようなものを見つけたのである。
「あそこか…」
舟らしきものはどこにもない。どうやら泳いでいかなくてはならないらしい。紅蓮はふぅーっと溜め息を吐き、目を瞑ると腰に帯びた刀の柄に手をかけた。そして、体を前屈みにすると気を落ち着かせた。洞窟の天井から伸びる氷のつららから滴が流れ落ちた瞬間、洞窟内にポトンという音が響かせた。揺れる水面が紅蓮に向かって広がってきたとき紅蓮の双眼が開眼した。鬼氣といっても過言ではない凄まじいものが紅蓮の刀から剣氣に変わって放たれたのである。剣氣は水面を真っ二つに切り裂いて岩場までの道を作り上げた。その中を紅蓮は走り抜けたのである。紅蓮が小島に辿りつくと水面はザッバァ―――ンと音を立てて元の姿に戻った。
 小島は小さいが地下に続く洞穴があるのがわかった。
「まだ下があるのか…」
紅蓮が呟く。しかし、紅蓮の足が洞穴に向かわせなかった。背後から冷たい殺気を浴びたからである。
「凄まじい威力ですね」
女の声だ。振りかえるがその姿は闇に覆われて誰かはわからない。
「他愛無いことだ」
「かのようなことをなされては水神たちが騒ぎまする」
「神など我には関わりのないことだ」
「何を求めてここに来られた?」
「人を探しに」
「ここには人はおりませぬ」
紅蓮は背後で話をしている女に苦笑した。
「人でないのならば御身は誰か?」
その問いかけに女はすぅーっと光を浴びる場所に来た。顔が光に包まれた瞬間、紅蓮の表情は一変したのである。
「お、お前は…」
「ふふふ…」
唖然とする紅蓮に対して女は微笑しているだけだった。
「誰かによく似ておりまするか?」
「…お………菊……」
そう、その顔はお菊その人だったのである。澄んだ双眼から放たれる視線は紅蓮の濁った双眼を突き刺した。
「ふふふ…、驚いておられますね」
「………」
「しかし、残念ですが私はあなたが知る女性ではございませぬ」
「ど………ういうことだ?」
「私は造られた人間です」
「造られた?」
「そうです。仙女様によって造られた人間です」
「ならば…、その仙女というのが…」
お菊である、というのが紅蓮の答えだったのだが…。
「いいえ、それも違います」
「違う?」
はっきりしない、紅蓮はそう思った。妻のお菊に似ている女の答えがはっきりしないのだ。まるで迷路の世界に陥れられている感じがしていてこのまま進んだとしてもお菊に会うどころか、悪くすれば疑心暗鬼になってしまうかもしれないとまで考えるようになっていた。
「どういうことだ?」
「お菊と呼ばれる女性もまた造られた人間なのです」
「な!?、何だと!?」
紅蓮の頭はまた混乱した。
「私はその遺伝子を受けついだだけ」
「………」
お菊が造られた人間?、そんなことはありえないと紅蓮は直感した。複製するなどあってはならないことだ。もし、それができる術があるならこの世は崩壊する。紅蓮は惑わされていると感じ、腰に帯びた刀に手をかけた。
「私が斬れますか?」
お菊の顔をした女が答える。
「私が斬れますか?」
同じ事をもう一度言う。紅蓮の心は揺らいでいた。もし、この女がお菊であるならば何らかの理由があるはず…、理由がなくともお菊はここにいると確信していた。紅蓮は気持ちを落ちつかせると殺気を消して地下へ続く洞穴へと足を進ませた。徐々に離れていく女は紅蓮の背中に言葉を浴びせる。
「逃げるのですね」
「………」
「あなたが殺した者たちの恨みからは逃げられませんよ」
恨み?、そのようなことは百も承知だ。
「…あいつは死んでなんかおらぬ」
「言い切れますか?」
「ああ…」
紅蓮は後ろを振り向くことなく洞穴の中に入って行った…。

 五年前、紅蓮は武士だった。名を丑田といった。ある戦国大名に仕えて城詰めをしていたことがある。そのときに隣国との合戦があり、勲功を立てた丑田に殿から恩賞を得た。それがお菊だったのである。お菊は家老の娘で許婚がいたが婚約寸前になってその命を落としていた。その後釜に指名されたのが丑田だったわけである。丑田は当初こそ妻を娶ることを拒んでいたが澄んだ視線に魅入られたお菊の心に揺らされて丑田はお菊を得た。そして、家が滅びるまでお菊は丑田を支え、丑田もまたお菊を愛し続けた。二人の間には子がいた。名を忠吾という。しかし、忠吾が四歳のときお菊の不注意から大火傷を負い、世間に出られぬ姿となった。そんなことになりながらも丑田はお菊を責めることはなく、共に得た心の傷を癒すため、二人を箱根に湯治に行かせた。その直後である。丑田の長い戦いが始まったのは…。
 誰もいなくなった我が家では最後の戦いのための準備に負われていた。隣国が新興勢力・伊達政宗と手を組み、我が領内へ進軍してきたという報せが入ったからだ。丑田は己の刀を見ながら、
「菊…、忠吾…」
わずかにそう呟いたのである。二人に対して想う気持ちは変わっていなかったが世間がそれを許してくれなかった。戦は圧倒的な強さを誇る伊達政宗の前に敗れ去り、殿は居城にて自害した。丑田もまた全身に刀傷を負い、瀕死の状態に追い込まれた。親族の家に逃れた丑田は生死をさ迷い続け、目を開いたとき丑田の顔は別人と化していた。常に剃り続けていた髭が胸元まで伸びていたのである。しかし、それでも丑田は復活した。そこにお菊が現れたのである。お骨を入れた箱を持って…。
「き、菊…」
「あなた…」
菊はやつれていた。
「そ、それは…」
「………」
菊は黙ったままだった。そして、涙を落とした。
「…火傷……の………傷…が………原因…で……」
「…そうか…」
予期していた事柄とはいえ、いざ突きつけられるとこれ程苦しいものはないと丑田は初めて知った。
「私…、どうしたらいいのかわからなくて…」
「もういい、菊、もういい」
それだけしか言えなかった。その日の夜、丑田はお骨を前にして悲哀に包まれていた。
「火傷…」
忠吾の火傷は重かったがなぜ火傷を負ったのか丑田は正確なところわからなかった。菊から聞いたのは熱湯を浴びたということだけ…。見たわけではなかった。このとき、丑田は城に出仕していたのだ。
「なぜ…」
丑田は嫌な予感がした。そして、それは的中する。居間から出ると暗い庭が見えた。月がよく見える夜だ。その明かりに照らされて丑田は静かな廊下を歩いた。遠くのほうでカーン、カーン、カーンと鐘が鳴る音が響く。
「またか…」
ここのところ火付けが多かった。東の空が紅く染まっている。丑田は菊が寝ている部屋の前に来た。
「菊…、菊…」
小さな声だがよく通る声で部屋の中にいるはずの菊に呼びかけた。しかし、返答がなかった。寝ているのかと思い、障子を開いてわずかな隙間を作った。
「菊…」
布団は敷かれていたものの、菊の姿がどこにもなかったのである。
「一体…どこに…」
丑田は踵を返した直後、裏口の扉が開く音がわずかにした。盗賊かと思い、千鳥足で裏口に近づいた。黒い影がゆっくりと中に入ってくる。刀を帯びていなくても武士である。素早い動きで相手に後ろに回る。
「動くな」
「ひ…」
驚く声に丑田はすぐに誰かわかった。
「菊…、こんな夜更けに何をしていた?」
「あなた…」
丑田は菊の両手が汚れているのに気づいた。
「その手…、どうした?」
「え?」
菊は驚いたように両手を見た。ぼぉ―っと眺めているうちにけたたましい笑い声をあげた。
「わっははははははは、あっははははははは、いっひひひひひひひ…」
「き、菊、どうしたんだ?」
丑田の呼びかけに菊は笑うだけだった。寝ていた親族の者たちも起きてきた。
「どうした?」
「菊が…」
菊の姿を見ていた親族は呆然としている。
「私のねぇ…、この手はねぇ…、紅蓮の炎に守られてるのよ…」
「なっ!?」
「ねぇ…、紅蓮よ…、私を守って…」
そう言うと丑田の肩をもの凄い力で押し飛ばした。
「ぐわっ!」
草木へ飛ばされた丑田は脳震盪を起こしてその場で崩れた…。
 目を開くとそこは紅蓮の炎に包まれていた。紅い炎が全てを焼き尽くしている。
「くっ…」
頭がズキズキと痛む。
「き、菊は…」
そう顔をあげたとき廊下に親族が血まみれになって倒れていた。
「くそっ!」
丑田はよろよろと部屋のほうへ向かった。部屋もまた炎上していたが怪しく輝く妖刀だけは煤すらついていなかった。妖刀・村影、人の血を吸って造られた魔性の刀である。それを手にしたとき丑田もまた理性を失った。
 追う者と追われる者、共に同じ傷を負いながらも丑田と菊の二人の心は最後の最後で一緒になれなかった。
「菊よ…、なぜ…」
丑田は絶望した。絶望のあまり、血の涙を流したのである。
「菊よ…、お前が何を企んでいたのかよくわかる…。俺を…、俺から全てを奪うためだな!」
丑田は全てわかっていた。全て合点した。それと同時に名前も改めた。
「お前が紅蓮を愛するならば俺も紅蓮を愛そう。今日から俺は紅蓮だ!」
紅蓮となった丑田は鬼と化した。行方をくらました菊を追ったがどこにもいなかった。各地を転戦しながら菊の情報を得つつ、真実のみを記憶とした。忠吾を火傷に見せかけて殺したこと、火付けを繰り返したこと、人格が変貌すること、なぜ紅蓮に近づいたか…、全てのことを得た。そして、その答えは紅蓮にあった。紅蓮の忘れかけていた事実に全てがあったのである…。

 紅蓮の足が止まった。洞穴の奥深くにある聖なる場所、青白く輝く宝石が壁の至る所に埋め込まれていた。
「ここか…」
「…何しに来た…」
低い声が響く。
「久しいな…」
「久しい?、ふん、何しに来た?」
声は男のようだ。しかし、本性は…。
「お前を殺しに来た」
「殺す?、無駄なことだ」
「造られた人間だからか?」
「その通りだ。お前が探す者もまた造られたものだからだ」
「例え…、そうであったとしても我は全ての仇を討つ!」
「できるかな…、俺が愛した者をだまし討ちした男に…」
ふぅ―――っと全ての気配が消え、聖なる場所は無と化した。紅蓮もまた居合いの姿勢となって双眼を閉じて迷いを打ち消した。静けさだけがそこにある。誰もいない空間の中に二つの個体だけがその存在を示していた。
(どこから来る…)
迷いもあったが紅蓮は全てを一撃に捧げた。
(来い!)
風がどこからか通り抜けていく。風穴があるらしい。わずかに水の流れる音が聞こえた。異様な世界だ。そう紅蓮は思った。このまま何もなければ居心地の良い場所になるはずなのだが…。敵を目の前にしているのに余計なことを考えてしまう己が嫌になるときがある。それでいて必ず敵を倒してしまうのだ。呆れて物が言えないと誰かが言ったことを思い出した直後、わずかな気配が後方から忍び寄ってきたのである。紅蓮は動かなかった。限界まで敵の動きを待った。常人ならば反撃に転じているところだが紅蓮は死線を潜り抜けてきた男である。これぐらいのことで動じることはない。冷たい風が背後から吹きつけたその瞬間、紅蓮は刀を抜き放ってそのままの態勢で脇下から体を貫いた。
「ぐっ…」
男の低い呻き声が響く。
「何の真似だ?、村長」
背後から生ぬるい液体が流れる。それは体から足に伝って地面に流れ落ちて広がっていく。
「き、貴様……は……ぁ………」
「菊は俺の妻だ。そして、一族の仇なり」
そう言い捨てると刀を抜いた。ズブッという音を立てて刀は新鮮な空気を吸った。
「………あ…だ……な………ど………しっ…た……こと………で……は………ない…」
苦しそうに言う。
「わ……れ………ら………の……せ……ん…にょ………さ………ま……に…手を…だ……す………なぁ…」
事切れてしまった。彼は信仰者として殉教してしまったのである。結果的にはそうであっても紅蓮にとっては菊は神などではない。己の妻なのだ。最後まで愛し続けた妻なのだ。その事実だけは誰にも奪うことはできない。
「菊っ!、どこに行ったぁぁぁ――――――!!!!!」
紅蓮が叫ぶ。声が反響して二重三重に広がっていく。
 ワァァァァァ―――――――――………。叫び声とは裏腹にわずかだが争う声が聞こえた。そして…。
「どんなにあがき続けても誰も私には勝てない」
声の主は目の前にいた。紅蓮の炎に包まれている。
「菊…」
紅蓮は一年ぶりに我が妻の姿を見た。昔と変わらぬ澄んだ眼が印象的だ。
「お久しぶりといったほうがよろしいのかしら」
まるで他人事のようだ。紅蓮は言葉にならない。
「ここまで来るのに長い月日を要した」
「そのようですね」
「仙女を名乗っているのか?」
「ええ、私は彼らにとって救いとなるならばそれでいいと思っています」
「救い?、災いの間違いではないのか?」
「あなたにとってはそうかもしれませんね」
「いや、お前にとってもそうだろう」
「………」
「お前は…、お前は造られたものなのか?」
「さあ…、それを知るのは自分自身だけです。あなたも造られたものかもしれませんよ」
「ふざけたことを申すな!」
「ふざけてる?、事実を言ってるまてです。所詮、誰が造ったかなんて誰にもわからないことなのです。この世も同じことです」
「けれども、俺は全てを失った事実を曲げることはできない」
「私も…、愛すべき人を失いました」
愛すべき人、それは…。
「あなたがだまし討ちにした水野様です」
「水野…」
紅蓮も水野のことはよく知っていたがだまし討ちにしたのは紅蓮ではなかった…。

 水野信勝は菊との婚約も果たし、家老前島土佐守の後継者として何の障害もなければ順風満帆にその名を名門家系図に刻むことができた。しかし、婚約してまもなく菊が夜な夜などこかに出かけることに気づいたのである。菊に問いただしても明確な返事は返って来なかった。悩む抜いた末に水野は丑田に相談を持ちかけた。水野と丑田は共に勇の者として名を馳せていた親友同士である。
「どうした?、こんな夜更けに」
「実は菊のことで…」
「お菊殿がどうかしたのか?」
「毎日、夜な夜な出ていくんだ」
「浮気でもしてるんじゃないのか?」
丑田は笑いながら言ったが水野は真剣だった。
「茶化すな!、そんなことがあるわけがなかろう。菊に限ってそんなことはありえない」
「わかったわかった、じゃあ、何か心当たりはないのか?」
「心当たり?」
「出て行く理由だよ」
「あるわけがない」
まったく知らないという。
「ふむ…、尾けるか?」
「尾ける?」
「ああ、それしか方法はないだろう。女が一人で外を出歩くんだ、危険も伴う可能性がある」
「………女を尾けるのは忍びないが………」
「お前の女房になる女だろうが!、しっかりしろっ!」
「あ、ああ…」
結局、水野は丑田の意を受け入れることにした。
 その日の夜、丑田は水野と共に菊の後を尾けた。菊は布に包まれた長い棒のようなものを手にしていたのである。
「あれは何だろう?」
水野はその包みを見て言う。
「掛け軸みたいだが…」
「そんなもん売ってどうする?」
「金にするんだろ?」
「してどうする?」
「さあな」
丑田はわからないという仕草をした。前を行く菊は商屋が建ち並ぶ城下まで足を伸ばしていた。そのとき水野の頭の中にあるものが巡った。
「まさか…」
「どうした?」
「あの包み…」
「どうしたんだ、水野」
「あの包み…、刀ではないのか?」
「刀だって!?」
「ああ」
「刀を持ち出したところで女の力量では人は殺せまい」
「普通の女ならな」
「どういうことだ?」
「菊は陰流の使い手なんだ」
「何だと!?、そんな話し初めて聞いたぞ」
「ああ、間違いない。菊の父・土佐守様は殿に従って越後に行かれたときに陰流を学ばれたそうだ」
陰流は上泉信綱が新陰流を創設するときに学んだ流派でその信綱を師事したのが柳生宗厳(石舟斎)である。過去より受け継がれてきた剣術がここにある。
「腕は?」
「土佐守様は免許皆伝の持ち主だ」
「ならば…」
菊も免許皆伝並みの剣術ができるということである。
「辻斬り…」
ありえない話しではなかった。
「ああ、最悪の場合はおそらく…」
二人とも確信はなかったがそれでも心の中では違うことを祈り続けた。菊はすぅ―――っと二人をまくようにして路地裏に入っていく。そして、姿を消したのである。
「こ、これは…」
「水野、探せ!。この辺りにいるはずだ」
「おう!」
二人は菊を捜した。路地裏にあるものは入り組んだ迷路と化した民家である。今は戦い前ということもあってほとんどの民が城のほうへ避難していたため、真っ暗闇で静かな空間が広がっていた。
「ちっ」
水野は舌打ちした。女にまかれるとは思ってもいなく、時間が経つにつれ気持ちが焦る一方だった。そんな水野に悲劇が襲ったのである。
「え…」
気づいたときには胸から刀の鈍く輝く刃に貫かれて大量の血が出ていたのである。
「な…」
考える時間も与えないまま、意識は一瞬にして飛んでいったのである。共に菊を捜していた丑田が水野を見つけたときには水野の体はすでに冷たくなっていた。
「一体…何が…」
その場で膝をついて死体を検分をしようとしたときに数人の武士がやって来た。
「丑田様、これは一体どういうことですか?」
「私が見つけたときはこのような状態だったのだ」
「殺したのは貴方様ではないのですか!?」
「何を言うか!?、戯けた事を申すな!」
「戯けたことではございません。奉行所に通報があったのでございます」
「な!?」
雄で誇る丑田もさすがに焦りを隠せずにいた。
「申し開きがあれば奉行所でなされよ」
「わ、私ではないっ!、私では…」
結局、丑田ではないことは後に立証されたがこの汚名を完全に晴らすまで長い月日を要することになる。しかし、取り調べを行った奉行は後に丑田と会い、家老の圧力があったことを伝えたのである。それでも、丑田の頭の中では答えが出ていた。
 あの夜、水野を殺したのは菊である。それは間違いない。
 その答えが今、立証されようとしていた…。

「お前が全ての原因なんだ」
紅蓮はあのときのことを思い出しながら言った。
「心の臓を一突き、陰流免許皆伝の腕があれば糸も簡単のはず…」
「それは貴方様とて同じこと」
「残念だが…、俺はどの流派にも属してない。俺の剣は力任せの荒削りなんだよ。あんな器用な真似はできん」
「………」
「菊よ、殺したのはお前だがお前ではないだろう。お前の中に棲む魔物が全てを造っているのだ」
紅蓮はそう吐き捨てた。
「だが、水野は我が親友。その仇は討たせてもらう。菊よ、覚悟致せ」
剣を構えると菊にそれを向けた。
「貴方にできますか?」
「無論、迷いはない」
「ならばそれも…」
菊は咄嗟に手を懐から何かを取り出すと、
「本望!」
という言葉と同時に砂袋を紅蓮に投げつけた。隙を突かれて目に砂を得た紅蓮の視界は真っ暗になった。それでも刀を構え続けている。紅蓮は戦いの果てに見出したものがあった。それが心眼である。
「菊よ、覚悟を決めよ。そして、共に行こう」
そう言うと紅蓮の刀は吸い込まれるようにして菊を貫いた。
「ぐ…」
菊の柔らかい体から赤い血が流れ落ちる。そして、ゆっくりと刀が抜かれた。紅蓮は無念の表情をして菊を見下ろしていた。
「お前は無益に人を殺しすぎた。そして、俺も…」
洞穴の外から聞こえる争いは激しさを増している。紅蓮の長い戦いは終わりを告げようとしていた。
「あなた…」
意識が遠のく菊の中で本来の菊が姿を現した。面影は昔と変わらない。
「菊かっ!、私だ、丑田平八郎だっ!」
「ごめんなさい…」
「もういいんだ、もう終わったんだ」
「本当に…」
「もういい、お前は何も悪くない」
悪いのは菊をここまで追い詰めた一人の男にある。菊はその犠牲になったまでだ。
「………」
菊はもう何も語らなくなっていた。涙を忘れていた紅蓮の双眼から一筋の涙が流れていた…。

 廃人街の情報が仙台藩にもたらされたのは二日前のことだった。関ヶ原の残党が集まり、何事か画策していると伊達政宗が放っていた乱破が報せに来たのである。これを聞いた政宗は一人の男に指揮を託した。側にいた片倉小十郎は怪訝な表情をしながら、
「殿、あの男に任せるのは反対にごさいまする」
「何故?」
「あの男はかつて最上に内通し、我らを脅かしたばかりか己の主君を殺すほどの野望高き男でございます」
「ならば構わぬではないか」
「後々のことを考えれば…」
小十郎は政宗の表情から何か策があると見てとった。
「お前は紅蓮という男を覚えているか?」
「ええ、摺上原で殿と一騎討ちをした男にござりますな?」
「うむ、その男が廃人街にいるらしい」
「な、何と!?」
小十郎は驚くと同時に政宗の意図を読み取った。
「仇討ちにござりますね」
「そうだ、仇討ちを成功させて奴が率いる兵の心がこちらに向けば一石二鳥ということだ」
「その場合、紅蓮は如何なされます?」
「ふ…、奴は来ぬだろう。そういう男だ。戦いがあるところに現れる」
「ならば殺すので?」
小十郎の言葉に政宗は答えなかった。わずかに笑っただけだった。
 その翌日、伊達軍は二万という大軍を廃人街へ派遣したのである…。

 鉱山の洞窟から出ると街のあちこちから火の手が上がっていた。
「幕府に歯向かう虫けらども!、貴様らは生きる価値などあらぬ!。全軍、かかれぃ!」
具足で身を固めた将兵が民たちを皆殺しにしている。紅蓮は菊の遺体を洞窟の中に隠すと街全体を見渡した。そして、街の入り口にある橋のところに馬に跨った男を見つけた。
「あいつは!?」
紅蓮は疾風の如きの速さで近づいた。
「むっ!」
馬に跨った武人が紅蓮に気づいたときには前面を守っていた兵士たちが倒された後だった。
「お前は…」
「久しいな、土佐守」
紅蓮は殺気を彼にぶつけた。馬が殺気に怯えてけたたましい鳴き声と共に暴れまくり、土佐守を振り落とした。
「くっ…」
「哀れだな」
「だ、黙れぃ!、こいつを殺れ!」
しかし、兵たちは動かない。
「な、何をしている!?」
土佐守は叫ぶが兵たちは動じない。かわりに持っていた槍を土佐守に向けた。
「なっ!?」
「政宗様の命によりあなたにはここで死んで頂く」
「何だと!?、おのれ…」
「哀れだな、土佐守。お前が殿を殺した時点でこうなることは決まっていたのだ」
「だ、黙れ!」
「ふん、幼き子を折檻することしかできぬ愚か者めが」
「なっ!?」
土佐守は驚いた表情をした。
「ま、まさか…、会ったのか?」
「ああ、先ほどな」
「くっ…」
土佐守は菊が幼き頃に折檻をしていた。そして、折檻をし続けた果てに菊が行き着いたところは精神破壊、人格形成だった。折檻から逃れたい想いから完成したもう一つの人格を得た菊は最初、血にその救いを求めた。血こそが我が救いであると判断したのだ。年が経つにつれ血を求めることにその身を委ねた。おかげで城下には辻斬りという名の暗殺者が蔓延り、さらに許婚であった水野にまでその手にかけてしまった事実を知った土佐守は共にいた丑田にその罪を被せることで真実を闇に葬った。その後、土佐守は丑田の存在に脅威を感じ、菊と一緒にさせることで丑田をとり込もうとしたのだが…。それと引き換えに菊は炎という存在に目覚めてしまった。今度は辻斬りより質の悪い放火魔となって城下を脅かした。土佐守は失脚を恐れて菊を殺そうとしたが丑田が先に箱根へ湯治に行かせたため、難を逃れた。
「ぐわぁ…」
隣国との戦いで内通者としての焦りを感じた土佐守は自らの主君を殺し、城に火を放った。優勢に戦いを進めていた味方は城の炎上を見て戦意を失い、敵に蹴散らされて四散せざる得なかった。土佐守は主君を討った功により最上家々臣となって対伊達軍の総大将になったが待遇に不満を感じてまたしても内通して今に至っている。
「全ての原因はお前にある。お前さえ余計なことをしなければ他の者は死なずに済んだ」
紅蓮は刀を構えた。
「さあ…、覚悟を決めよ」
「く、くそおおおおおぉぉぉぉぉ―――――――――!!!!!」
土佐守も刀を抜いて構える。
「来るがいい」
「てやあああああぁぁぁぁぁ―――――――――!!!!!」
気迫のこもった勢いで土佐守は攻撃を仕掛ける。しかし、これを軽くかわすと左からの横一文字で胴を斬り裂いたのである。
「ぐわああああぁぁぁぁぁ―――――――――!!!!!」
土佐守は死んだことに気づくことなく絶命した。周りを囲っていた将兵は平伏する。
「丑田様…」
「その名はもう捨てた。我が名は紅蓮。政宗殿によろしくな」
紅蓮は政宗の意図を感じ取っていた。おそらく、藩士として登用したかったのだろうが紅蓮にとっては迷惑な話しだった。鉱山に隠した菊の遺体と共に廃人街を去った…。
「俺もいずれそちらに行こう…」
紅蓮の覚悟は己自身のみが知っていた。攻められた廃人街は徹底的に破壊され、その姿を失ったのである…。

 そして、世間は廃人街の存在すら知ることなく、少しずつ徳川の世となっていった…。


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