和佐山城・和佐大八郎之墓・和佐王子
(撮影日 23/3/20)

☆ 解説 ☆

南北朝時代、紀伊国は南朝方の勢力が強く、
北朝方の畠山氏は戦局を打開するために
1356年(延文元年)、紀伊守護畠山義深が築城
これに対し、南朝方の四条隆俊(中納言)が
龍門山に布陣して合戦するが敗走したという
この合戦を龍門山の戦いと言われている

別名城ヶ峯と言い、石垣と曲輪が残されている



全景

山麓にある県道は交通量が多いが史跡も多い




山麓の県道に面したところに和佐大八郎の墓がある


 

少し山へ入っていきます




振り返って入り口を望む


  

ここは和佐家代々の墓地でしょうか
一番奥に最近作られたと思われる墓がありました
和佐家之墓とありましたので間違いないと思います






和佐大八郎和範

紀州藩射手役、後に頭役並(知行500石)
和佐実延の子で紀州竹林派の吉見経武に師事
1686年(貞享3年)、京都三十三間堂での大矢数を行い、
通し矢8133本(総矢数13053本)で天下一となった
1689年(元禄2年)に吉見より印可を得ている
しかし、1709年(宝永6年)に失脚し、
田辺藩預かりとなった後に同地にて病死(享年51)
家督は嫡子貞恒が継ぎ、和佐家は代々弓術指南役となったという




和佐大八郎の墓の近くに和佐王子社跡がある






和佐王子社跡

12世紀から13世紀にかけて皇族が熊野詣をするために
修験道により組織された一群の神社を九十九王子といい、
和佐王子は30番目、布施屋の川端王子と平尾の平緒王子の間にあった
1909年(明治42年)に合祀されて廃されたという




和佐王子の石碑
少し見えにくくなっています




全景

県道の先は矢田峠で伊太祈曽へと続いています


本来なら、和佐山城に登りたいところなんですが、
ここから先は本格的に登山になってしまうので
とてもじゃないが軽装で行ける山ではないです
城山としては良い山ですが、
簡単に行けないのも城山なのかもしれません

あと、中筋家の旧宅もありましたが、
日曜は休みなので時期を見て行きたいと思います


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