紀州藩関連

和歌山城以外で
紀州藩に関わる場所を撮ったものです

探索日 場所 跡地
22年3月20日 和歌山県立医科大学付属病院 紀州藩塩田跡
22年4月29日 岡公園 百間長屋
22年7月29日 和歌山市役所 木下次郎四郎屋敷
22年8月31日 舟津町交番付近(県道15号) 湊御殿(移築前)
22年10月26日 秋葉山付近(国道42号) 猊口石
23年1月10日 和歌山中央郵便局付近(県道17号) 三浦家(家老)上屋敷
23年1月10日 三木町 堀詰橋、表千家屋敷
23年1月23日 旧水軒駅構内 水軒堤防
23年1月23日 汀公園 朝比奈惣左衛門屋敷
23年1月23日 西汀丁交差点 御蔵
23年2月5日 和歌山市役所北駐車場 評定所
23年2月19日 岡公園 御作事所
23年3月20日 堀口整形外科病院付近(国道24号) 時鐘屋敷
23年3月26日 東急イン付近(国道42号) 馬場
23年3月26日 和歌山西警察署付近 徳川吉宗公生誕地
23年4月30日 NHK和歌山支局前(国道42号) 和歌道
23年5月4日 和歌山県庁 久野家(家老)上屋敷
23年5月4日 追廻門付近 扇之芝
23年5月14日 玉津島神社付近(和歌浦東) 不老橋
23年5月14日 株式会社世界一統(寄合町) 藩校跡
23年5月23日 丸山整形外科付近(舟大工町) 勝海舟寓居跡
23年5月23日 大和街道沿い(嘉家作丁) 嘉家作り丁 一文字の軒
23年7月28日 桐蔭高校付近(堀止) 旧白樫家屋敷跡(武家屋敷)
23年8月13日 岡公園 李眞栄・梅渓顕彰碑
23年8月13日 岡公園 陸奥宗光像
23年12月20日 大和街道沿い(嘉家作丁) 春泉堂跡
23年12月23日 オークワ食品工場(布施屋) 布施屋の渡し場
24年1月4日 西岸寺墓地(国道26号) 西岸寺の板碑
24年1月4日 寄合町(国道24号) 寄合町
24年3月13日 神田病院(雑賀屋町) 医学館跡
24年4月30日 あおい茶寮(谷町) 父母状の碑
25年1月12日 いわで御殿(岩出市) 巌出御殿跡
25年5月3日 境橋(和歌山市・大阪府阪南市の境) 日本最後の仇討ち場の石碑
25年5月6日 山中渓(大阪府阪南市山中) 旧山中宿本陣










旧山中宿本陣

1619年(元和5年)、徳川頼宣が紀州に封じられて以降、参勤交代時の本陣が設けられた
旅宿ではなく、休憩や昼食時の本陣である
藩主一向が来る時は近隣の郷から3000人もの人夫が集められて
炊飯、運搬、補給等の任に当たった

大阪府阪南市山中渓の紀州街道沿いにあります










日本最後の仇討ち場(境橋の仇討)

安政四年(1857年)土佐藩士広井大六は、同藩士棚橋三郎に、口論の末切り捨てられた
大六の一子岩之助は、当時江戸に申し出て、いわゆる「あだうち免許状」を与えられた(安政五年)
 岩之助は、加太にひそんでいた三郎を発見し、紀州藩へ改めて、あだうちを申し出たところ、
紀州藩としては、「三郎を国払いとし境橋より追放するので、
あだうちをしたければ境橋付近、和泉側にて、すべし・・・」と伝えられた
 文久三年(1863年)、岩之助は境橋の北側で三郎を待ちうけ、みごとにあだうちを果たしたとされる

橋の手前が和歌山市(紀伊国)、奥が阪南市(和泉国)になります










巌出御殿跡

古くから小山があり、妙見堂が建てられていたが
1649年(慶安2年)、紀州藩主徳川頼宣が和歌浦に移した後、別邸を創建
巌出御殿と名付けられて歴代藩主が参勤交代などで宿泊したという
吉宗も幼少の頃にここで過ごしたと伝わる

1764年(宝暦14年)に取り壊された後、大阪を経て、
現在は神奈川県横浜市にある三渓園臨春閣として国の重要文化財に指定されている
小山は御殿山と称されていたが紀ノ川の水害を解消させるために
昭和初期に山ごと切り崩されて紀ノ川の一部となった

跡地には御殿を模した大衆浴場が造られています










父母状の碑

1660年、熊野の山奥で父親殺しがあり、
捕らえた若い男が親殺しに悔いのない様を聞き、
藩主頼宣は「藩の教育に問題があった。彼一人の罪ではない。私の不徳を恥じるのみだ」と大変心を痛め、
頼宣は藩民のために「訓論」の筆を取った
「父母に孝行に法度を守り奢らずして面々家職を勤め、正直を本とする」
藩の学者李梅渓に浄書させたのがこの父母状である
料亭「あおい茶寮」の入り口右側にある




医学館跡

1792年(寛政4年)創設
紀州藩の医学館であると共に
医療に関わる藩の行政を取り扱った機関でもある
度々施薬を行っており病院としての役割を果たしていた
当初は本町三丁目にあったがすぐに雑賀屋町に移築し、
1869年(明治2年)まで存続した
東西約35メートル、南北約30メートルの敷地があったという
現在は神田病院(肺結核専門医療機関)が建ってある。




寄合町

和歌山城下内町にあり、現在の国道24号から西、堀川東岸に至る町名で、
北は橋丁、東は卜半町に接しており、
寄合・卜半・福町・駿河町は合わせて『四丁町』と呼ばれた
大きな商家が軒を並べ、四丁町の中央を東西に伸びる通りは
城下で最も栄えていた通りであった
国道24号沿いに碑がある






西岸寺の板碑

大坂夏の陣で戦死した安藤重能の供養のため、弟の直重が建立
建立年代は不明だが、寛永年間の初めと考えられている
重能は紀州藩付家老で田辺藩主の安藤直次の嫡子で
当初は大阪の長福寺に葬られていたが、
後に三河の安藤家菩提寺である妙源寺(愛知県岡崎市)に移された
板碑は大阪の一心寺(大阪市天王寺区)にあったものを移したものと言われ、
一心寺は徳川家とも縁のある寺である






布施屋の渡し場

ここから北へ300メートルほど小道(確認できず)を行くと昔の渡し船の船着場があった
古くは熊野詣の人々は紀ノ川の対岸から吐前に船で渡っていたが
やがて紀ノ川の流れの変化により布施屋に渡るようになり、渡し場が設けられた
昭和30年半ばまで交通の要所であったという






春泉堂跡(嘉家作御成屋敷)

万町の御納家(御用青物屋)村橋善兵衛の別宅で本町門外にあり、
参勤交代の際に紀州藩主の休憩所としても使われた
この付近は大和街道筋にあり、
嘉家作は城下入口の宿場町として栄えたという
明治に至り、津田出(陸軍少将、貴族院議員)の住居となり、
出が上京した後は実弟の津田正臣(初代和歌山県令)が住んだ
現在は民家となっている。






陸奥宗光(1844〜1897)

紀州藩重臣伊達宗広の子
父の影響を受けて尊王攘夷思想を持つようになり、
江戸に出てからは多くの志士たちと交流を持った
特に坂本龍馬とは親交が厚く、
龍馬が暗殺された際は同志と共に天満屋事件を起こした
明治維新が成立すると各地の藩知事や地租改正局長などを歴任し、元老院議官となる
一時政府転覆を謀ったとして投獄されたが、
特赦を経て欧州へ留学し、特に英国で多くの知識を学んだとされる
1886年(明治19年)に帰国して外務省に出仕して駐米大使として
メキシコとの対等の条約(日墨修好通商条約)を締結した
その後、農商務大臣在任中に衆議院議員に当選
第二次伊藤内閣では外務大臣として各国との不平等条約撤廃に成功
その功績により子爵、日清戦争後に伯爵となった








李眞栄 梅渓顕彰碑

李眞栄

儒学者として徳川頼宣の侍講となり、
藩政及び韓国との交易や文化交流に貢献する

李梅渓(1617〜1682)

眞栄の子
父より儒学を学び徳川光貞の侍講となる
著書も多く、中でも万治三年の「父母状」は紀州藩の藩政の規範であり、
教育の指針として親孝行の道を教え藩の風教維持に努めた

子孫に韓国の内務省長官を務めた李相煕がいる






旧白樫家屋敷跡

和歌山市内に残る唯一の武家屋敷
紀州藩中級武士の屋敷で長屋門が残っています
保存状態は良いと思いますが、現在も人が住んでおられます






嘉家作り丁 一文字の軒

城下町の北の入口で交通の要衝に当たり、
家の軒先が揃っている通路であり、
参勤交代の休憩所であった
一文字の軒と称する
大和街道沿いに3軒程現存するが老朽化が激しい




勝海舟寓居地

1863年(文久3年)、軍艦奉行であった勝海舟が
紀州藩の海岸防禦工事監督のため、
幕府より和歌山に派遣された際、この地に住した
滞在中、門下の坂本龍馬も来て勝に従ったという
舟大工町の丸山整形外科の正面玄関前に碑がある






藩校跡

浅野治世時代は家老上田宗箇の上屋敷があった場所で、
1713年(正徳3年)、徳川吉宗によって創設
当時は講釈堂(または湊講堂)と呼ばれたが、一時衰退した
しかし、1791年(寛政3年)に再興させて藩校学習館を開校する
東西約35メートル、南北約50メートルの敷地を占める
学習館は藩士及びその子弟の教育に当たったが、
1866年(慶応2年)に岡山に移転し、一般庶民にも門戸を開いた
湊紺屋町の酒造会社敷地内に碑がある












不老橋

片男波松原にあった東照宮御旅所の移築に際して
徳川治宝の命(徳川慶福の治世中)により、
1850年(嘉永3年)に着工し、翌年に完成した石橋である
玉津島神社近くにあります




扇之芝

碑がある場所から県庁前交差点にかけての三角地の通称で、
一帯に芝が植えられて松林になっており、
地形が扇に見立てて、この名がついた
西側に馬場、南側には射場が設けられていた
追廻門前に碑がある




家老久野家上屋敷跡

久野家は1619年(元和5年)に徳川頼宣に従って
紀州潘家老(8500石、後に1万石)となり、同時に伊勢田丸城主となった
上屋敷は現在の県庁から県民文化会館前庭に及ぶ広さがあり、
和歌山城下では最大の武家屋敷であったという
県庁敷地内に碑がある


 

和歌道

和歌山城下から和歌浦まで通じる街道
松並木が植えられ、東側砂丘の根上がり松は有名であった
和歌道は1880年(明治13年)に県道に仮認定され、
1945年(昭和20年)に国道となった
この道添いは武家屋敷が多く並んでいたという
NHK和歌山支局前に碑がある






徳川吉宗公生誕地

吉宗はこの地にて生まれ、
父は徳川光貞、母は側室由利の方である
1697年(元禄10年)4月に葛野藩(現・福井県朝日町)主となり、
兄・頼職の死後、5代藩主となる
その後、江戸幕府8代将軍となって「享保の改革」を行った
和歌山西警察署近くに碑がある




馬場跡

和歌山城南西部の南北に渡って設けられた藩士の馬術練習場
追廻門の名称はこの馬場での馬の調練に由来する
馬場の北側に芝を鼓の形のように植えたところがあり、鼓ケ芝と呼ばれた
国道に面した東急イン近くに碑がある



時鐘屋敷跡

藩士の登城や時報の鐘を打った屋敷があった場所で、
1600年(慶長5年)、紀伊に入国した浅野幸長の命により設置された
国道に面した西旅籠町に碑があります




御作事所跡

崩落の危険があるとして、
青いフェンスに囲まれており、中には入れない
岡公園内にある






評定所跡

1655年(明暦元年)に設けられ、
当初は寄合場または会所といった
藩の財政全般を取り仕切り、
大御番頭、寺社奉行、御勘定奉行等六役で構成され、
現在の九番丁にあった
和歌山市役所裏にある北駐車場入り口に碑がある




御蔵跡

1820年(文政3年)に藩の米蔵として設置
当時は御蔵の北、東、南側に外堀があり、
南側には城内に通じる西の丸橋が掛かっていた
また、1889年(明治22年)7月5日に
和歌山市役所が初めて置かれた場所である
毎日新聞社和歌山支局前に碑が立っている




朝比奈惣左衛門屋敷跡

朝比奈家は代々藩の重臣として、
幕末には大寄合となり、禄高は3千石
汀公園西半分と西側隣接地の広さがあり、
東隣には御家人由比楠左衛門、小池十右衛門の屋敷があったという
1972年(明治5年)1月、和歌山城砂の丸にあった
県庁をここに移し、1880年(明治13年)まで存在した
















水軒堤防

江戸時代(18世紀後半)に南北1キロに渡って造られた
石堤と土堤からなる海岸堤防で、
石は和泉砂岩が使われ、友ヶ島から運ばれたと考えられており、
切り込み接ぎと呼ばれる技法で精巧に加工、
横に目地が通るように隙間なく積み上げられています
全体として計16段4mの大きな石堤で、
陸側は緑泥片岩ですがその他は和泉砂岩が使用されている
出土は廃線になった南海和歌山港水軒線の
道路拡張工事の最中に出ており、
教育委員会の学術調査を経て
2010年(平成22年)9月に旧水軒駅構内に移築保存されました




家老三浦家上屋敷跡

三浦家は1619年(元和5年)、徳川頼宣の紀州移封に伴い
家老(1万石→幕末1万5千石)となった
上屋敷は現在の六番丁とその北側十番丁に当たり
1万7千平方メートルの広さがあった
公園前バス停(和歌山駅方向)横に碑がある




表千家屋敷跡

徳川頼宣に出仕した不審庵四代江岑宗から
十一代碌々斎に渡る表千家の屋敷が置かれた

…と書かれていたのですが、
半分字が消えていて読みずらかった( ̄▽ ̄;)

橋詰橋バス停(ぶらくり丁から三木町方向)近くにあります




堀詰橋跡

三木町堀詰西側の小路北端で堀川にかかる橋
和歌山城下広瀬のうちの町人町で天保年間に整備された
橋詰橋近くに碑がある

表千家屋敷跡を撮って、さぁ…仕事に行こうと振り返ったら
この碑が花壇に隠れるようにして立っていた(笑)
しかも、この後ろにはホームレスが寝ていたので撮りずらい(爆)
太陽光がまともに当たっていますが、何とか読めました




 

猊口石

江戸時代からの名所で、
結晶片岩の露頭でその形が獅子(猊)が
口を張った姿を思わせることからこの名がついた
命名は紀州藩の儒学者李梅渓という
秋葉山(弥勒寺山城)の近くにあります




湊御殿跡

藩主の別邸で、1689年(元禄11年)に2代光貞が造営し、
8代重倫はここを住居とし、
1832年(天保3年)に11代斉順が新たに造営、藩政をここで執る。
御殿は江戸城にならって壮美を尽くしたものであったと伝えられる
1853年(嘉永6年)に藩庁は和歌山城に戻り、湊御殿は廃されて、
現在は養翠園内に移築されている
碑は舟津町交番近くの大浦街道沿いにあります




木下次郎四郎屋敷跡

木下家は代々1700石の重臣で
御持弓頭、大御番頭等を勤め、
大正時代まで海鼠壁の長屋門があった
現在の市役所敷地内に碑がある




弁財天山を取り囲むようにして設けられた建物で、
主に御作事所の職人が居住した
すでに浅野時代の記録に御城南之大長屋・作事屋ノ丸が見え、
明治維新の際は江戸詰藩士の仮住居とされた

三年坂に面した岡公園内にあります




紀州藩塩田跡

江戸時代以前から明治末期まで、
三葛・紀三井寺を中心とする和歌川下流一帯には
見渡す限りの塩田が広がっており、
住民の多くは製塩を業としていた
この辺りの製塩は古代から行われていたと伝えられるが、
近世末期に全盛期を迎えて
塩の生産量は1500石もあり、紀州藩内外に供給された

現在の和歌山医科大学付属病院から
道路に面した場所(和歌川沿い)に
この石碑が建てられている


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