和歌山城

☆ 解説 ☆

紀州徳川家の居城

安土桃山時代以前は小規模な城があったという

天正13年、豊臣秀吉が紀州攻めを行い
信長の時代より他勢力に屈することがなかった雑賀衆・根来衆を下し
異父弟の秀長に大和・紀伊の二国を与えた
秀長は居城を大和郡山城に置いたため
和歌山には城代として桑山重晴を置いた

慶長5年、関ヶ原の戦いを制した東軍は
浅野幸長を37万石をもって和歌山に封じ
石垣の改修工事を行うが子・長晟は備後広島へ転じ
代わって徳川家康の第10子・頼宣が55万5千石をもって入封し
徳川御三家の一として紀州徳川家が誕生した
頼宣は入封にあたり将軍秀忠より
銀2000貫を与えられ、
大規模な城普請を行うがこれが幕府に対する威嚇とされ咎めを受けた
しかし、その後も改修や城下町の拡張を行った

和歌山城は以後3度の火災を経験し
全ての建物が必ず1度は炎上している
弘化3年、落雷によって焼亡するが旧観のままに再建され
明治の破却も逃れたが昭和20年の空襲により、焼失してしまった

戦後、地元の有志が立ち上がり、
再度復興天守の計画が持ち上がり、
予算の都合もあり、本来の5層とはいかなかったが
3層天守として復元され今に至っている




岡口門(切妻造り・重文指定)

慶長五年、浅野幸長により大手門となるが
元和五年、徳川頼宣の入国により搦手門と改称される
昔は向かって右に御蔵、左に二重櫓があったという
上方に見えるのは三層大天守




岡口門横の御壕

一年を通して様々な野鳥が飛来し、濠には鯉が多く泳いでいる




大手門(一の橋門)

徳川頼宣入領以降、大手門となる




大手門を内側から望む

ある女性が橋の前で鳩に餌をやって
周辺道路を糞で真っ白にしてしまったが
今も女性は餌をやり続けている




銀明水

天守台地北方丘腹の金明水と並び
日常用水及び籠城時の非常用水で城内に40余ある






本丸御殿跡

元和年間に創設
14代藩主徳川茂承正室(倫宮則子)の住居となり「宮様御殿」とも称される
屋敷の一部は移築され、 大正12年以降は上水場貯水池となる




小天守

不明門から小天守を望む




大天守

戦前は五層であったが戦後復興が決まったときに
予算の都合で三層天守になったらしい
紀州藩居城としては元に戻して欲しいところ




楠門

門の上部は渡り廊下になっており、
大天守から小天守への移動ができる
惜しいのは城門に蛍光灯があることかな?
あれが無ければ風格としては十分だったのに…




埋門

ここからけもの道のような小道を歩けば
下に下りられるが人気はまったくなし
この門は非常時のために作られた




裏坂から大天守を望む




庭園跡

庭園跡と思われるが詳細は不明
柵で立入禁止になっているため
本丸裏口から続いている小道から撮りました




表坂から少し昇ったところです
もう少し早ければ満開の桜が見れましたね




追廻門(高麗門・単層入母屋造形式)

寛永六年(1629年)創建
門外扇の芝に操練所があり
騎射の稽古のための追廻し馬場があったため
追廻門と称するようになったという




皇太子殿下(現天皇陛下)降誕記念碑

追廻門前にある




不明門

すでに門はなく、代わりに駐車場のゲートが設置されています




不明門横の壕跡

今は庭園として整備されています




御渡橋

二の丸から西の丸(大型バス駐車場)へ渡る橋で
和歌山城で最も新しく復元された(平成19年5月復元)
撮影当時はまだ未完成で西の丸側からでしか通行できなかった




砂の丸

毎年、催し物が開かれています
この日は散歩する人はおろか誰もいませんでした




護国神社

鳥居から向こうは神域となっているため、
撮影禁止になっています
奥に社務所らしい建物あり
鳥居はもう一つ旧中消防署(今は更地)の横にもあります




和歌山城 遠景(20.1撮影)

西側より望む

 

再訪による岡口門と古塀
(22.4.29撮影)

戻る


.