大年神社
(探索日 24/12/16)

☆ 解 説 ☆

鎮座の始まりは不詳だが、
1600年(慶長5年)7月28日に藩主桑山相模守により再興され、
また、木曾隠岐守より供田二町三反の寄進があったが豊臣家の検地により没収された
しかし、紀州徳川家の崇敬が厚く、和歌山城より北西の方向に鎮座しているので
「乾の宮」と称されて毎年正月四日に神主が登城して藩主に年詞を奏上し、
社地の土を奉書に包んで献上した
明治維新後は貴志村の村社となり、終戦後、産土神社となる
1910年(明治43年)に栄谷村の諏訪神社を合祀して現在に至る






鳥居

右隣に流れるのは大年川




鳥居から拝殿方向を撮る




振り返って鳥居を撮る




日曜でしたが、静かな境内でした




二の鳥居

この奥に拝殿や社務所があります




鳥居を潜って左側に由緒書があります






鳥居の正面に池上神社がある






岩神を祀る大岩

1600年(慶長5年)の秋、
桑山相模守が紀伊国名草郡貴志荘梅原の東端に大年神社を再興した際、
土地の住民に疫病や子供の眼病が蔓延していたが、
神官である田村氏の夢枕に岩神が現れて霊験を告いだ
神官は早々に社前に鎮座する大岩を
貴志荘(栄谷、中村、梅原、中野、向村、北、西土入)の岩神として祀ったところ、
蔓延していた疫病は治まったと伝わる

池上神社の右側にあります




境内の中央にある舞台






拝殿

祭神は大歳大神(須佐之男尊の御子神で穀物の神と伝わる)




拝殿の左側に合祀している諏訪神社がある




拝殿の右側に社務所がある




最後に忠魂碑の石碑を撮って終わりです

境内はそんなに広くありませんが、

背後の宮山と合わせると結構な広さになるかもしれません

拝殿に参った際にリスが供え物を食べていましたが、

人がいても気にしないところは自然の醍醐味と言うべきでしょうか(笑)


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