無量光寺
(撮影日 23/12/10)

☆ 解 説 ☆

浄土宗の寺院で西国第8番札所
1829年(文政12年)、紀州藩10代藩主徳川治宝の命より、
日高郡出身の徳本上人が開山

治宝の父重倫は徳本に教えを乞うて
自らの悔いを改めたことから
治宝の帰依が深く建立されたという



 

  

山門

左に禁殺生と刻まれ、裏に里宮山無量光寺の石碑があり、
右に禁葷酒肉と刻まれ、裏に徳本上任遺跡と記された石碑がある
さらに道路に面したところに札所の石碑もある

その門前を守るかのように・・・



猫が・・・(笑)

近づいても全然動じず、しっかり山門を守っていました




入ってすぐ右に御堂があります




御堂の隣に徳本上人の石碑があり、
造りは比較的新しいです




山門の正面に本坊があります




本坊に隣接するように本堂があり、
この本堂はかつて紀の川市打田町にあった傳法院から
1886年(明治19年)に移築されたという




この寺院にある首大仏は全国的にも有名であり、
本願成就や合格祈願、病気平癒のために訪れる参詣者が多い






首大仏様の縁起

江戸時代半ばに和歌山城下の武家屋敷に奉公する少年がおり、
若いにも拘らず手に数珠を携え、
念仏を唱える熱心な求道者だった
20歳を過ぎた頃、故郷の大橋村(現・みなべ町南部川)に戻り、
自らの菩提寺である萬福寺で剃髪出家した後に京都に登り、
浄土宗の僧侶として3年の修行を経て蓮心と名乗る
2年後、和歌山に戻って納定の一庵(後に大福寺と改称、現・宮北小学校)に住み、
念仏修行中に一丈六尺に及ぶ仏様が目の前に現れ、
その奇端を村人に語ったところ、
蓮心和尚のためにと露座唐金の丈六佛が出来上がった
その時、蓮心は30歳ぐらいで1768年(明和5年)に没した
蓮心滅後に本堂が炎上、丈六佛も燃えてしまい、
村人が本尊再建を願い出て、
第二代住職が鎌倉の大仏を目標に、まず首だけを溶銅で鋳造
1840年(天保11年)に開眼大法要が行われた
続いて仏体を継がんことを度に企てられるも世勢の騒乱に思うようにいかず
大福寺の伽藍も安政の大地震で寺全体が壊滅状態となり、
維持が困難として1908年(明治41年)に廃寺となった
そのため、首大仏は無量光寺に安置されることになったという


寺院の規模は小さく

山門から全てを見渡せるほどでしたが

見ごたえは十分だと思います


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