粉河寺
(撮影日 23/5/26)

☆ 解説 ☆

粉河観音宗総本山(天台系と言われる)
770年(元亀元年)に開かれ、
大伴孔子古(おおとものくじこ)が開祖とされる

大伴孔子古は紀伊国那賀郡出身の猟師で、
幽谷に光輝く場があり、そこに庵を建てた
その庵に宿を求めて立ち寄った童行者が、
孔子古のために等身の千手観音を造って立ち去る

時が経て、河内国の長者佐太夫の一人娘が
病を長く患っていたところに童行者が立ち寄り、
千手陀羅尼を詠んで病気を治癒したという
喜んだ佐太夫は童行者にお礼を申し出るが
娘が渡したさげさや(箸箱)と袴のみ受け取り、
「紀伊国那賀郡粉河の者だ」と伝えて去った

翌年の春、長者一家が粉河を訪れると
川の水が米を研いだような白くなっていることに気づき、
その川を遡って行くと庵を見つけた
中を覗くと千手観音が安置され、
娘が渡したさげさやと袴が持たれていたので、
童行者が千手観音の化身であることがわかった

この由来は『粉河寺縁起絵巻』(国宝指定)に記されている

鎌倉時代に至ると粉河寺は四方4キロに渡る
広大な境内を持ち、寺領は4万石を有した
しかし、次第に戦乱の世になるにつれて
粉河寺の僧侶は寺と領地を守るために
武装化して僧兵となり、寺の周囲に城を築いて守った

同じ紀ノ川流域に勢力があった根来寺や高野山と同様に
紀伊国における戦乱に立ち向かったが、
織田信長、次いで豊臣秀吉に攻められて
1585年(天正13年)に粉河寺は炎上したが、
江戸時代に至り、紀州藩の庇護と寄進により再興することになる



JR和歌山線粉河駅を北に行くと秋葉山(猿岡山城跡)があり、
その山を沿うように流れる中津川沿いを行くと大門橋が見え、
そこを渡ると大門が見えてきます






粉河寺大門

建立時期は不明だが、再興は1707年(宝永4)年とされる






大門の隣に善光寺があるが塀はなく、
粉河寺の境内の一部になっている




地蔵堂

善光寺の敷地内にあったと思われる












大門の左隣にある石垣上の私有地(境内?)




蛭子神社

大門右側にある神社があります








不動堂

山門を潜って売店の前にあります
弘法大師爪刻不動尊を安置しています




道標

右は粉河寺と読めたのですが、
左はわかりませんでした(苦笑)




不動堂から本堂を望む






子育地蔵

1734年(享保19年)建立
粉河鋳物師木村安蔵の作と伝わる
子供の無病息災の仏という
羅漢堂の隣にあります




羅漢堂

本坊に隣接しています






本坊

粉河寺座主の住居です






仏足石

お釈迦様の足跡が刻まれている石
後ろの石碑は江戸時代の僧願海上人の筆と伝わる
足の大きさが・・・人間ではない(でかい 笑)






出現池

正面に鎮座しているのは童男大士石像と記されている
三角堂は確認できましたが、馬蹄石き確認できず・・・






童男堂

1679年(延宝7年)建立
願主は粉河寺権大僧都円英、
大工は徳屋甚左衛門とされる
童男堂は正堂と礼堂よりなり、
江戸時代の廟建築の形を模している






念佛堂(光明殿)
江戸時代後期の建築物で阿弥陀如来を安置している






太子堂

聖徳太子を奉っている御堂






阿弥陀如来座像

1862年(文久2年)建立
粉河鋳物師増井盛信が刻印したもので、
紀州藩主徳川重倫や光安院の生母清信院によって寄進された








実学社猛山学校跡

現在は橋以外は現存していません
資材置き場になっています


 

大畑才蔵翁彰功乃碑

大畑才蔵(紀州藩測量士)
農民であったが高い技術力を買われて
55歳の時に紀州藩に仕えて藩内の様々な工事に携わる
中でも小田井、藤崎井と呼ばれる30キロにも及ぶ水路を
水盛台という測量器具を開発して正確な測量をし、
創意工夫を加えて短期間で築いたとされる
現在も水路は改良を重ねながら現存している






盥漱盤(かんそうばん)

1775年(安永4年)、
粉河鋳物師蜂屋薩摩操五代目源正勝の作と伝わる










中門

1832年(天保3年)建立
「風猛山」(産土神社の裏山)の扁額は
紀州10代藩主徳川治宝の直筆という
この門を潜ると本堂が見えてきます




中門から境内を望む




中門を潜ってすぐのところに石碑があります
「粉河寺 遍路の衆の 打ち鳴らす 鉦々きこゆ 秋の樹の間に」
牧水という詩人の作です


 




丈六堂

1806年(文化3年)の再建で、
1丈6尺の阿弥陀如来像を安置としている
二層式の建築物で、1982年(昭和57年)に解体修理をしている
中門を潜って売店を通り過ぎたあたりにあります






六角堂

1720年(享保5年)建立
西国三十三観音を安置している
1995年(平成7年)に解体修理した
本堂の目の前にあります


 

湯浅櫻

平安末期、紀伊国において最大の武士団湯浅党を率いて
在田郡(現・有田市)から紀ノ川流域に勢力を築いた
湯浅宗重の祖父(または父)である藤原宗永が、
粉河寺の本尊である千手観音のお告げにより、
本堂より巽の方角(東南)に植えた櫻である






本堂

770年(元亀元年)建立
1720年(享保5年)に再建された
江戸時代中期の寺院建築で西国第三番札所である
本尊は千手千眼観世音菩薩が祭られている



本堂東側



本堂西側






千手堂

1760年(宝暦10年)建立
千手観世音菩薩を安置
その他、紀州藩歴代藩主やゆかりの人物の位牌を安置している
本堂の西側にある






粉河産土神社

大伴孔子古の子である船主が延暦年間に創建したと伝わる
社殿は江戸中期の春日造の建築物
本堂と千手堂の間を通った先にあります


  



行者堂

建立時期はわかりませんが、
御堂の前にある灯篭は元禄十巳年建立と記されている
役行者像を安置している
産土神社の脇を登った先にあります




鐘楼

本堂の東側にあります






クスノキ(市指定)
鐘楼の前にある






薬師堂

薬師如来が安置されており、平癒祈願の仏という
本堂の北東にあります






法華塔

紀州徳川家に関わる人物が奉られている
左 徳川重倫(8代藩主)付老女・初島
中 水戸藩主7代徳川治紀正室・方姫(紀州藩9代治貞の養女)
右 徳川重倫側室・於八百
と、記されている






修徳院

粉河寺塔頭寺院の一つ(もう一つは円修院)で、
秋葉山の麓にあり、少し高台になっている

天候が芳しくない状態でしたが
粉河寺の他に猿岡山城(秋葉山)、矢倉城(粉河寺境内)も見れました
雨は帰りの道中でどしゃ降りになりましたが、
この日は車で行って正解でした(笑)
根来寺の時は悲惨でしたから(爆)


戻る


.