木本八幡宮
(探索日 24/12/1)
☆ 解 説 ☆
『紀伊続風土記』所引「(紀伊)国造家旧記」に、
神武天皇の東征に際して、別働隊として神鏡と日矛という
2種の神宝(後の日前国懸神宮の神体とされる)を奉じた天道根命が
両神宝の鎮座地を求めて紀伊国加太浦(現在の和歌山市加太付近)に来着
次いで当地へ遷り、その後更に毛見浦へ遷った事を伝え、
また紀伊国造家の別の古伝として天道根命が日前国懸両大神を奉じて淡路国御原山に天降り、
葦毛の馬に乗って加太浦、木本、毛見浦へと遷ったとの伝えを載せているが、
社伝によれば、この時に天道根命が日前国懸両大神を厳橿山の橿の木の根本に奉安して祀ったのが起源で、
そこから神社を「木本の宮」、地名を「木(ノ)本」と名付けたという
なお、『紀伊国名所図会』には日前国懸神宮の南に「飛山」という小丘があり、
それは同神宮が現社地に鎮座する時(垂仁天皇16年の事という)に
当神社から良土が飛来して積み上がった丘で、
神宮の宮域に不浄の事が起きた時にはその土を撒いて清める習いであると記し、
『紀伊続風土記』も日前国懸神宮の現鎮座地への遷座に際しては
旧鎮座地の所以を以て当神社の土を使って宮地を築き、
また宮地の南にはその土が盛られた「小山」と称する小丘(「木ノ本山」とも称した)があって、
宮域に不浄があればその部分を除いてこの山の土で填める習慣があった事を伝えている
その後、神功皇后が三韓征伐を終えて凱旋の途次、かご坂・忍熊両皇子の乱のために
誉田皇子(後の応神天皇)が武内宿禰とともに当地に上陸して頓宮を営み、暫時滞在して難を逃れたという事があり、
後に欽明天皇の勅命でその頓宮跡に、
「しばらく」滞在した故事に因んで「芝原八幡宮」と称する八幡宮(祭神、応神天皇、神功皇后)が創建されたといい、
遙かに降った1618年(元和4年)にこの木本・芝原の両宮が合祀して「木本八幡宮」と称するようになったという。
1861年(文久元年)に孝明天皇による攘夷の祈願がなされるとともに、
正一位の神階が授けられ、1873年(明治6年)4月に村社に列し、同8月10日に県社へ昇格した
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
住宅地の奥にひっそりと佇む
権殿(かりどの)鳥居
境内は遊具が置かれて広場になっている
境内から鳥居を撮る
鳥居の横に応神天皇頓宮古跡碑がある
権殿
豊臣秀吉の紀州征伐の折に全焼したが、
1618年(元和4年)に紀州藩の支援を受けて再建された
権殿の隣に社務所がある
社務所の裏にあり、参道に面したところに玉垂神社がある
頓宮を築いた武内宿禰を祀っている
境内にある保育園脇から本殿方向を撮る
参道に敬宮愛子内親王の生誕を記念して植えられた樹がある
この先に本殿があります
振り返って参道を撮る
本殿鳥居
右側に無料駐車場があります
鳥居の左側に八幡宮の木碑がある
行啓記念の楠
皇太子殿下(後の昭和天皇)が大正11年(1931年)に来県した記念に植えられたという
鳥居の右側にある
楠の隣に由緒書がある
鳥居から本殿方向を撮る
階段を少し上がると稲荷神社がある
さらに少し上がったところにある石垣
石垣の前に百度石がある
逢拝殿
この御殿を通して神宮をはじめ、天神地祇八百万の神々、信仰する神を通じることが出来るという
末社である諏訪神社と蛭子神社の社がある
本殿
奈良時代にはすでに奈良大安寺の荘園となり、
早い時期から開拓されてきた地域で、
社伝によれば木本宮の始まりは欽明天皇の命により八幡宮が創建されたと伝わる
神社に所蔵されている古文書(市指定文化財)には室町時代前半な田畠寄進状があり、
中世には当地の鎮守として所在したことを示している
現在の社殿は1585年(天正13年)に兵火で焼失した社殿を1618年(元和4年)に再建したもので、
三間社流造、檜皮葺の建物で全体に桃山時代の様式を伝えている
末寺の案内板
井戸跡
悪戯好きの雷が八幡宮の木に落ちた際に、時神が怒ると雷が井戸に逃げた
時神は井戸に蓋をして閉じ込めたところ、雷は詫びて謝ったという
本殿奥から境内を撮る
本殿前に額田王(天武天皇の妃で宣化天皇の曾孫と言われる)が詠んだ万葉集の石版がある
閑静な住宅地の奥に荘厳と佇む神社でありました
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