紀伊国分寺跡
(撮影日 24/2/11)

☆ 解 説 ☆

新義真言宗の寺院
741年(天平13年)、聖武天皇の命により国家鎮護を祈願して
全国60余ヶ所に建立された国分寺の一つで、
当時は紀ノ川流域で交通の便も良く、穀倉地帯であったという
後、879年(元慶3年)に焼失してしまうがすぐに一部復興し、
12世紀後半まで国分寺としての機能を果たした
しかし、時が経つに連れて紀ノ川流域に高野山、根来寺、粉河寺が勢力を広げ、
国分寺はその狭間の中で衰退の一途を辿ったという
広さは2町(220m)四方、約5uあったことが確認されている
史跡全体(宅地部分を除く約44000u)は旧打田町指定を経て、
紀の川市指定文化財になり、紀伊国分寺跡歴史公園として整備されている

JR和歌山線下井阪駅の北側の住宅地にあり、
公園の北東には日吉神社がある



正面入り口
左側にある紀の川市歴史民俗資料館では、
国分寺から出土したものや紀の川市の歴史を見ることができる




入り口にある寺碑
裏に昭和10年創建とある




入り口の脇に案内図があります




南門跡

国分寺伽藍の正門で、寺地を囲む四周目にある築地の南側にある門と言われる






中門跡

南門より内側にある門で、廻廊の南側正面中央にあったとされる門






廻廊跡

伽藍の周囲を囲み、他の場所と区切るために
設置された廊下で屋根も備わっていたと言われる




中門を過ぎると左側に池が見えてくる










塔跡

中門を潜ると右側にあったとされる仏舎利を安置した御廟






金堂跡

寺の本尊である薬師如来を祀る御堂で創建期の本堂とされる










現存本堂(創建時は講堂)

説教と教典の修行を行う御堂
後、本堂としての役割を果たし、1700年(元禄13年)に再建された本堂が残る




軒廊跡

講堂と僧房をつなぐ廊下で屋根が備わっていたとされる






僧房跡

講堂の北側にあり、軒廊とつながっている僧侶の住居とされる






鐘楼跡

金堂の左奥にあったとされる




講堂裏から鐘楼方向を望む






経蔵跡

金堂の右奥にあったとされ、教典を収納した蔵があったという




講堂から経蔵方向を望む

何というか・・・

寺というよりは、思いっきりただっ広い広場でした

本当に本堂がぽつんとありました

近くの日吉神社は覗いていませんが、

時間があれば覗いてみても良かったと思います


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