恵運寺
(探索日 25/5/14)

☆ 解 説 ☆

曹洞宗の寺院、山号は大宝山
西国和歌山三十三箇所第十番札所。

1619年(元和5年)、徳川頼宣が紀州に封じられた際、
随伴した三河国室城主山本図書正春が祖父長昌のために寺を建立し、長昌院と号した
後に頼宣の要請で鎌倉から来た天厳玄達大和尚を開山として長昌院から広厳寺に改名した
さらに、1789年(天明8年)に恵運寺に改名したと伝わる

本尊の十一面観世音菩薩像の胎内にある観音菩薩像は
810年頃、空海が刻んだ十一面観音菩薩を模刻して、
さらに南北朝時代に新田義貞が模倣して小型の金仏にしたものを自分の守り本尊としたものを
山本正春が手に入れて菩薩の胎内仏となっているという





寺町通りに面したところに寺があります




山門を入ったところに「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑がある




石碑を通り過ぎると「めぐみ観音供養塔」があります
左側が駐車場です




供養塔を右に向くと本坊があります
普通の一軒家ですね




本坊に隣接して本堂があり、「龍門山」の扁額がある




一番奥に地蔵堂



地蔵堂の手前に稲荷社がある




本堂の前から境内を撮る




つい最近『正忍記』翻訳の外国人からの問い合わせで
見つかった紀州藩重臣名取三十郎の墓が墓地の一角にあります




名取三十郎正澄(生年不詳〜1708年)

祖父名取正俊は甲斐武田家に先手者として仕え、山本勘助に陣法や築城等を学んだ

父正豊は徳川頼宣に仕えて紀州に随伴した藩士

三十郎正澄は1654年(承応3年)に小姓として仕えて、御書院番、近習詰、大御蕃を歴任し、
先祖伝来の甲州流軍法と楠流軍法を学び名取流をもって軍学指南役として頼宣に仕えた

名取流は新楠流とも言われるがこれは頼宣の命名という
後、藩財政が行き詰まったため、伊都郡大野村(現・高野口町)に蟄居
没後は親戚と高弟が明治維新まで受け継いでいたが維新後の兵制改革で断絶したという
著作の「正忍記」は三大忍術伝書の一つと伝わっている

紀州藩重臣でありながら、今まで墓の存在が知られておらず、
日本人ではなく、外国人からの指摘を受けて
住職が過去帳を調べて見つけたのだという

墓は滅多に取らないのですが、つい最近見つかった史跡に思いを馳せつつ合掌


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