射箭頭八幡神社
(探索日 25/1/21)

☆ 解 説 ☆

鎮座時期は不明だが、息長足姫尊(後の神功皇后)が
三韓より帰国し、加太浦に着船した際、
弓を携えて矢を射って紀水門飽浦の下地尾の崎に止まった
神功皇后と品陀皇子がその場所を訪ねて来て鎮座したと伝わる
住民は弓の弦で餅を切って献上したことから地名を糸切と称した

また、日本武尊が西国に御幸した際に飽浦に滞在したことを受けて
天児屋根命の22世孫である天寿麿が下地尾に社を建立し、
応神天皇を主として日本武尊、神功皇后を相殿とし、
射箭頭八幡三神大神と称して飽浦の神廟として祀り、
戦神として代々朝敵を討つべく祈りを捧げてきたという

古くは大塔宮護良親王もこの地で祈願に行い、
八幡大菩薩の五文字と掛物一軸を奉納したと伝わる
また、神功皇后が懐妊されていたことから安産の神とも言われている

当初、社があった場所は現在より北に二百間(約364m)先にあった三池峠にあったらしいが
天正年間に中村左衛門九郎忠政が神託を受けて移築したという



県道7号の三ノ池南側交差点を南に入った住宅地の中にあります




鳥居の近くに社碑がある






手水舎と社務所に由緒書の案内が2つある




境内のクロガネモチは和歌山市指定保存緑になっている




手水舎の隣に社務所がある




社務所から境内を撮る




社務所の左隣に大国主社(左)、蛭子社(右)があります




拝殿の右側、駐車場に至るところにある住吉社




拝殿の左手前に百度石の石碑がある






一番奥に拝殿があります

小さな神社ですが、長年に渡り、磯脇(磯の浦+本脇)の地を見守っています


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