伊太祁曾神社
(探索日 25/1/12)
☆ 解 説 ☆
紀伊国一之宮
祭神 五十猛神
妹神 大屋津比売命、都麻津比売命
鎮座の時期は定かではないが、
『続日本紀』に記された702年(大宝2年)の記事が初見とされ、
古くは現在の日前宮の地に祀られていたが、
垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、
その地を開け渡したと社伝に伝える
その際、現在地の近くの「亥の杜」に遷座し、
713年(和銅6年)に現在地に遷座したと伝えられる
『延喜式神名帳』では名神大社に列し、紀伊国一宮とされ、
1918年(大正7年)に官幣中社に列格して
戦後、神社本庁の別表神社となった
和歌山電鐵貴志川線伊太祁曾駅から5分の距離にあります
神社の木碑には、昭和40年に神社本庁顧問に就任した徳川宗敬の名があり、
宗敬は旧水戸藩主家第12代当主・徳川篤敬の次子です
鳥居の左側に由緒書がある
櫛磐間戸神社
櫛磐間戸神、豊磐間戸神が祀られている
鳥居を潜ってすぐ左側、集会所の横にあります
櫛磐間戸神社前から鳥居を撮る
二の鳥居
この先に拝殿があります
この鳥居の向かい側には古墳もありました
鳥居を通らず、拝殿に行くことが出来ますが、こちらの参拝路は帰路だと思います
なので、鳥居から入ることにしました
鳥居を潜ると池を渡した橋があります
池に面したところに石碑がある
拝殿(五十猛命)
左脇殿(大屋津比売命)
右脇殿(都麻津比売命)
五十猛命は木の神様であり、
国土緑化の神として三柱の妹神と共に
全国の山々に木を植えて青山と成された御神徳は高く、
紀伊国の祖神として崇められています
また、父神須佐之男神と共に浮宝(浮船)を造り、
住民に漁業を教えたことから航海、交通安全を司る神として名高く、
大国主命が八十神に命を狙われた時は
当社へ身を寄せて木の俣を潜って難を逃れたことから
「いのち神」として災難厄除の信仰も起こったと伝わる
左脇殿の隣に氣生神社があり、
五十猛命の荒魂が祀られています
氣生と社務所の間に蛭子神社があり、
蛭子大神と氏子地区内の22の神が祀られている
蛭子神社の前に霊石と伝わるおさる石があります
猿の頭の形をしたこの石は首より上の病に霊験が著しいといわれています
拝殿の右隣には社があります
有功殿(旧社務所)
拝殿の右奥にあります
常盤殿(現社務所)
境内にある二層式の社です
御井の社
境内山中の井戸より湧く水は、古くから「いのちの水」と呼ばれてきました
病人に飲ませると活力を得ると伝えられている
常盤殿の左奥の通路を入っていきます
彌都波能売神、御井神が祀られています
社の手前に井戸があり、普段は蓋がされています
常盤殿の左隣に月詣五十年記念碑の石碑があります
境内の左端に祇園神社があり、
素盞鳴尊、天照皇大神、埴安比売命が祀られています
磐(いわくら)
須佐之男神と十五猛神は高天原より天降る時、
新羅の曾尸茂梨に降り立ちますが「此国には居たくない」として東に渡り、
出雲国の簸川上の鳥上峯に至り、
須佐之男神は大蛇を退治して五十猛神は妹神と共に全国に木を植えて回り、全て青山とした
五十猛神は有功之神と称えられて紀伊国にお鎮まりになったと「日本書記」に記されています
祇園神社から御井の社方向を撮る
その他にも進入禁止の通路がいくつもありました
中規模の神社ですが、古墳や全ての通路などを入れると
結構広大な神社だと思います
由緒正しい神社にて、初詣をさせて頂きました
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