藤白神社
(探索日 24/11/16)

☆ 解 説 ☆

創建年代については不詳であるが、景行天皇の代の創建とされる
また、社殿は斉明天皇の牟婁の湯行幸の際に建立されたと伝わる

中世熊野御幸の盛期には、九十九王子の中でも
特に格式の高い五体王子のひとつとして崇敬され、熊野詣の途上における要所であった。
吉田経房の参詣記(『吉記』所収)承安4年(1174年)9月25日条に「於藤代王子行里神楽」、
藤原経光の参詣記(『良経記』所収)承元4年(1210年)4月25日条にも
参拝の折には馴子舞や藤代王子におかれていた巫女による里神楽が行われたと記され、
後鳥羽院参詣記(『明月記』所収)建仁元年(1201年)10月9日条に
「御経供養」「白拍子」といった文字が見えるなど、歌会・里神楽・相撲などの奉納が行われるのが通例であった

境内東通用口から西へ抜けてゆく道はかつての熊野参詣路で、
北側にある正面参道は近世の熊野街道の道筋につながっている
後鳥羽院の建仁元年(1201年)の熊野詣の際には藤白の次の宿泊地であった湯浅で歌会が催され、
その歌会で詠まれた歌が藤白王子に献納されている
このときの後鳥羽院らの詠歌が熊野懐紙として3通が残されており、陽明文庫などに所蔵されている

応永7年(1400年)付の禅林寺文書に「藤白王子免」として3町3反の記載があり、大野郷で最大の神田を有していた
しかし、戦国時代の兵乱で社殿や神領を失ったが、
慶長6年(1601年)に浅野幸長から藤白村に6石の寄進があった(『続紀伊風土記』)
さらに、同年および寛文6年(1666年)に社殿の造営が行われた
江戸時代後期に紀州藩が編纂した地誌『紀伊続風土記』は藤白若一王子権現社として記載し、
境内東西二八間・南北三〇間、本社三扉、庁、御供所、鐘楼、石鳥居、末社三社などがあり、
和歌山雲蓋院末の寺院が別当をつとめたと記している

明治以降には村社に列格され、次いで昭和初期に郷社、昭和14年(1939年)には県社に列された
明治42年(1909年)には祓戸王子を合祀した

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋



鳥居

上部に藤白神社の扁額があります


 

芭蕉翁藤塚

もとは祓戸王子社内にあったとされ、芭蕉を尊敬する二夕坊が建立したとされる
鳥居を入って左側にある






御歌塚

後鳥羽上皇建仁元年、熊野御幸の際に催された藤白王子和歌会の熊野懐紙が納められている
芭蕉翁藤塚の裏側にあります






聖皇三代重石

平安時代、宇多・花山・白河の三上皇の熊野御幸を記念して建立された






宮水「紫の水」

川の上流に日に映えて紫に輝く石があり、
土地の人々は自然の真水の恩恵として「紫の水」と呼ばれるようになったという
境内の中央にあります




反対側から境内を撮る




儀式殿

聖皇三代重石と楠神社の間にあります




楠神社

古来「子守の宮」として広く信仰され、この神様から楠・熊・藤等の名前を授かる人が多い
南方熊楠もその一人と言われ、背後のクスノキは霊木と伝わる




社務所(旧茶店跡)




社務所の奥に拝殿がある






藤白神社権現本堂

藤白五躰王子の神宮寺として栄えた中道寺の熊野三所権現と藤代若一王子の本地仏を祀る
熊野本宮の阿弥陀如来坐像、熊野速玉の薬師如来坐像、
熊野那智の千手観音坐像、藤代若一王子の十一面観音立像は平安末期の造像である
また、毘沙門天と不動明王三尊は熊野口の守り神と伝わる


 

境内から熊野古道に通じる道で
左側(境内)に有間皇子神社、右側に藤白坂があります






有間皇子神社

由緒書には、今から千三百年前、孝徳天皇の皇子であった有間皇子は
皇位継承を巡る争いの中で十九歳の若さで散る
政敵であった中大兄皇子が蘇我赤兄を誘って有間皇子に謀反を勧めて、
罠に掛かった皇子は釈明のため、白浜にいる斉明天皇の許に赴いた帰路にこの地で殺害されたという
万葉集には有間皇子の二首が納められている




住吉神社

社務所の左側にある




藤白王子跡

熊野九十九王子社のうちでも切目・滝尻・発心門王子等と共に五体王子と呼ばれ、
本宮の若一王子をはじめ五所王子を勧請して、五座の神々を祀った王子社のひとつとされる
社殿の施設なども他より優れ、奉幣の儀式も丁重で格別の崇敬を受けていたと伝わる


 

石碑には「これより熊野路の初め」と刻まれた石碑であり、
熊野三山の入り口と言われたとされる






藤白王子の鳥居跡前にあるクスノキ群の案内板


規模ではそんなに広くない神社ですが、

天皇家の熊野御幸に欠かせない九十九王子の一つが鎮座する

由緒正しい場所であり、悲劇の場所でもある

複雑な感情が混在した閑静な神社でした


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