長保寺
(探索日 24/11/23)

☆ 解 説 ☆

天台宗の寺院で、紀州徳川家の菩提寺で知られる

長保2年(1000年)、一条天皇の勅願により創建
開基は慈覚大師円仁の弟子で播磨国書写山円教寺を創建した性空とされる
本堂、多宝塔、大門、鎮守堂等の御堂は鎌倉時代に再建された

寛文6年(1666年)、紀州藩主徳川頼宣により菩提寺と定められ、
背後の山の斜面に約1万5千坪の広大な御廟が造営されると共に
和歌山城落城の際は不明門から船に乗って
この地に逃れた上で陣地とすることを定めていたという

また、御廟の中には盗賊などに荒らされないために
墓標に字が刻まれていないものもある

※天候不良で不鮮明な画像も多くありますが了承願います



寺の駐車場に車を置いて撮る
綺麗な紅葉でした






大門(国宝)

後小松天皇の勅宣を受けて実然が嘉慶2年(1388年)に再建
三間一戸の楼門で入母屋造りの本瓦葺の建物で
組物は和様を基調とした三手先斗栱に尾垂木を組み、
軒を受けるなど室町初期の特徴を表している
仁王尊は弘安9年(1286年)の堪慶作とされる




扁額は紀州藩初代頼宣が儒学者李梅渓に命じて模写させたもの




大門から境内を撮る
右に行くと御成門があります




振り返って大門を撮る






御成門

徳川家が代々御廟へ参る専用の通路
この奥に霊園が広がる




霊園脇を通って階段を上がる




中門

普段は封鎖されており、徳川家のみが通ることを許されている


 

福蔵院

塔頭寺院の一つで、寺の境内に現存している天台宗の寺院






本行院跡

塔頭寺院の一つだったが早くに廃寺となり、
現在は歴史民俗資料館となっている




本行院跡から本堂方向を撮る
ここより先は観覧料(300円)が必要
本堂や御廟の簡単な説明をしてくれる






パンフレットももらえるので御廟で迷うことはない




本堂(国宝)

延喜4年(1311年)に再建された
桁行五間、梁間五間、一重入り母屋造、向拝一間、本瓦葺の建物で、
建立以来、度々修築があったらしいが記録に乏しく、
寛文年間に徳川家の菩提寺となった際、かなりの破損があったことが
「当山諸堂絵図面」の記録に残っている
本尊は釈迦如来

この日は本堂から読経が聞こえていました




鐘堂

本堂の左端にある




阿弥陀堂

鐘堂と護摩堂の間にある




護摩堂

本堂の左側奥にある




多宝塔(国宝)

創建時期は不明だが、三間多宝塔の本瓦葺の造りで、
康永3年(1344年)の弘法大師御影堂建立の勧進状には塔の名が見える
延文2年(1357年)に再建された

本堂、多宝塔、大門の3つが揃っての国宝寺院は法隆寺と長保寺のみで、
国史跡としての大名墓所は全国一の規模があるという




奥から境内を撮る




多宝塔の奥から御廟に上がります
「順路」に沿って歩けば最短15分程で回れるそうです
自分は1時間かけて歩き回りましたが(笑)






鎮守堂(重要文化財)

創建時期は不明だが、享保10年(1725年)の記録には永仁3年(1295年)とされる
この御堂は鎮守八幡堂、八幡社とも呼ばれていたという

多宝塔から御廟に上がる道沿いにある




鎮守堂から多宝塔を撮る




この門を潜ると御廟に入る




この階段を上がっていくと墓所が見えてくる






徳川綱教(1665年~1705年)

光貞の嫡子で、3代藩主
幼名は長光丸、長福丸
元禄11年(1698年)、父の隠居に伴って家督を継ぐが、
宝永2年(1705年)に父に先立ち病死、享年41歳






徳川治貞(1728年~1789年)

宗直の次子で、9代藩主
初め伊予西条藩松平頼邑の養子として家督を継ぐが、
紀州藩8代藩主徳川重倫の隠居に伴って本家の家督を継ぐ
藩政改革を行って藩の財政改革に貢献したという
寛政元年(1789年)に病死、享年62歳




綱教と治貞の墓は同じところにある




綱教と治貞の墓から左奥に向かう






徳川頼職(1680年~1705年)

光貞の三子で、4代藩主
幼名は長七で、初め越前高森藩主となるが、
兄の死を受けて本家の紀州藩の家督を継ぐ
しかし、相続の1ヶ月後に病死、享年26歳




道を戻って順路を歩く






徳川重倫(1746年~1829年)

宗将の次子で、8代藩主
父の死後、家督を継ぐが、
素行の悪さが目に余るものがあり、度々登城停止があったという
幕府の命で半ば強制的に隠居させられた後は
約50年間の長きに渡って隠居生活を送ったという
文政12年(1829年)に病死、享年84歳






徳川光貞(1627年~1705年)

頼宣の嫡子で、2代藩主
元禄11年(1698年)の隠居までの31年間、藩政改革を行い、
文武両道の方針を掲げて明律学に精通し、狩野派にも師事し、
領民にも慕われていたという
宝永2年(1705年)に病死、享年80歳




重倫と光貞の墓は同じところにある

この右へ行く通路にも墓がある




墓標には「幻妙院」と刻まれている






徳川茂承(1844年~1906年)

伊予西条藩主松平頼学の六子で、14代藩主
幼名は孝吉、賢吉
紀州藩13代藩主徳川慶福が江戸幕府14代将軍になることを受け、
慶福改め家茂の命を受けて紀州藩の家督を継ぐ
第二次長州征伐で総督に選任され、
戊辰戦争では新政府軍の脅威にさらされるが釈明に励み、
金銭や兵の援助や勅命などで難を逃れた
1884年(明治17年)に侯爵、1990年(明治23年)に貴族院議員となる
1906年(明治39年)に病死、享年63歳




茂承の墓から少し戻ってここより最奥の廟に上がります






徳川宗将(1720~1765年)

宗直の嫡子で、7代藩主
父の死後、家督を継いだが藩政には消極的だったという
1765年(明和2年)に病死、享年46歳

階段を上がった真正面にある

 



貞恭院(1765年~1794年)

治宝の正室、初名は種姫
御三卿徳川宗武の娘で、江戸幕府10代将軍徳川家治の養女
1794年(寛政6年)に病死、享年29歳

鶴樹院(1800年~1845年)

治宝の四女で、初名は豊姫
父の隠居後、江戸幕府11代将軍徳川家斉の七子斉順と婚姻する
1845年(弘化2年)に病死、享年45歳

宗将の墓の右の階段を上がるとある






徳川頼倫(1872年~1925年)

田安徳川家8代徳川慶頼の六子で、紀州徳川家15代当主
幼名は、藤之助
1880年(明治13年)、茂承の養子となる
武道(剣道、柔道、馬術)に通じ、書籍の愛好者として南葵文庫を1902年(明治35年)に創設
1906年(明治39年)に家督を相続して、襲爵の上、貴族院議員となり、
1922年(大正11年)、宗秩寮(宮内省)総裁となる
1925年(大正14年)に病死、享年63歳






徳川頼貞(1892年~1954年)

頼倫の嫡子で、紀州徳川家16代当主
1913年(大正2年)に欧州に留学していたが、第一次世界大戦により帰国
生涯を通じて、音楽文献や古楽器の収集を行った
1925年(大正14年)に家督を相続し、貴族院議員となる
戦後にも1947年(昭和22年)に参議院議員に初当選して2期務めた
1954年(昭和29年)に病死、享年64歳

徳川頼韶(1917年~1958年)

頼貞の嫡子で、紀州徳川家17代当主
1954年(昭和29年)、父の死後に家督を継ぐが、
生来病弱であったためか、1958年(昭和33年)に病死、享年42歳

解脱院(1872年~1963年)

茂承の長女で、俗名は久子
1890年(明治23年)、父の養子となった頼倫の妻となる
1963年(昭和38年)に病死、享年91歳

茂承の墓から左の通路を通ったところにあり、
頼倫と歴代の墓は並んで置かれている






徳川斉順(1801年~1846年)

江戸幕府11代将軍徳川家斉の七子で、11代藩主
初め異母兄の死後、清水徳川家の家督を継いでいたが、
治宝の隠居に伴って紀州藩主となる
しかし、治宝が藩の実権を握っていたこともあり、藩政で対立して度々衝突した
1846年(弘化3年)に病死、享年46歳






徳川斉彊(1820年~1849年)

江戸幕府11代将軍徳川家斉の二十一子で、12代藩主
初め清水徳川家の家督を相続していたが、
異母兄の死後、紀州藩主となる
治宝と新宮藩主水野忠央との対立の中での就任だったが、
主だった実績もなく、1849年(嘉永2年)に病死、享年30歳

斉順と斉彊の墓は同じところに置かれている




御廟の一番奥にあがる階段








徳川治宝(1771年~1853年)

重倫の次子で、10代藩主
在任中、藩政改革に行い、領内の各所に学問所を設け、
藩士の子弟の教育を義務化させた
また、表千家や楽家の庇護、文化や芸術面での功績が大きかったと伝わる
しかし、1823年(文化6年)に起きた大規模な一揆の責任を取って隠居
その後は藩の実権を握って、後継藩主の斉順から慶福の代まで強い影響力を与えた
1853年(嘉永5年)に病死、享年82歳

御廟の一番奥に墓が置かれている








徳川頼宣(1602年~1671年)

江戸幕府初代将軍徳川家康の十子で、初代藩主
初め常陸水戸、次いで駿河駿府を領した上で家康に養育された
大坂夏の陣の後、紀州和歌山に移って御三家の一つを興す
1651年(慶安4年)に起きた慶安の変では謀反の疑いをかけられるも
幕府からの嫌疑を自ら晴らすことで無事帰国を果たした
その後、城下町の整備を積極的に行い、幕府に再び疑われる程の広大な城下町を築いた
甥の家光(3代将軍)、兄の義直(尾張徳川家)の死後は一族の長老として幕府を支えた
1671年(寛文11年)に病死、享年70歳

廟門の左側の階段上に墓が置かれている








徳川宗直(1682年~1757年)

伊予西条藩初代藩主松平頼純の五子で、6代藩主
幼名は甚太郎、後に松平頼致と名乗る
初め父の死後、西条藩主となるが、
紀州藩5代藩主徳川吉宗が江戸幕府8代将軍就任に伴い、
本家である紀州藩の家督を継いだ
在任中は藩財政の立て直しを図り、藩札の発行や銅銭の鋳造に尽力した
1757年(宝暦7年)に病死、享年76歳

頼宣の墓の右奥に墓が置かれている








少し鮮明ではありませんが墓標に「一生院」等と刻まれた墓がある

廟門の真正面にありますが途中の階段が崩れています




廟門の右側にある階段で左右は石垣が積まれている






瑞観院?(?~1779年)

宗将の側室
太政大臣一条兼香の娘で、俗名は高子
1779年(安永8年)に病死

出家後の名や享年も記されているのですが苔が酷くてわかりませんでした

石垣上、右側に墓が置かれている






浄眼院(?~1757年)

宗将の正室、俗名は徳子
今出川公詮の娘で、伏見宮貞建親王の養女
1757年(宝暦7年)に病死

背後の枯れ木が折れて墓に覆いかぶさっており、
枝の類なら取り除こうとも思いましたが、
結構太い木でしたので帰り際に世話人の方にお伝えしました






観如院(1822年~1853年)

斉彊の正室で、俗名は豊子
関白近衛忠煕の娘
1853年(嘉永6年)に病死、享年32歳

石垣上の一番奥に墓が置かれている




廟門

順路ではこの門が出口になります

尚、歴代藩主のうち、吉宗と家茂は将軍となったため、
東京の上野寛永寺に御廟がある




徳川家御霊屋(おたまや)

1669年(寛文7年)に創建された位牌堂
頼宣は生前に仏殿を建立したが、死後、この地に埋葬された際、
遺言により、仏殿を位牌堂とし、新たに陽照院(塔頭寺院の一つで本坊に当たる)を造営して院室とした




納経所

御霊屋に棟続きで隣接している




ここを潜れば御成門に続いている(普段は閉鎖)
納経所の向かいにある






陽照院の門だが順路になっている




客殿

1779年(安永8年)に徳因により再建された
治宝治世の時にも修築されたと推測されている

この塀の下を通り抜けると受付のある建物の前に出る

これで長保寺の散策は終わりですが、もう少し歩きました






長保寺の駐車場から見えたので気になって撮りました
「十六善神」の石碑と石碑に面した池です

長保寺の向かって右側にあります




少し離れたところから寺全体を撮る




上と同じ位置から下津町(現・海南市)を撮る

最後に・・・

浄眼院の倒木の件で世話人の方とお話しをした際、
長保寺には檀家が無いことを聞かされました
人件費削減で定期的に手入れをする人もいないそうです
菩提である紀州徳川家も東京在住で法事以外参詣しないらしく、
寺の維持も行き届かない今の状態を嘆いておられました

後継者不足で無住寺が増えてきていますが、
県下の寺院では大規模な寺院だけに何とか生き残って欲しいですね
少しだけ未練が残りましたのでまた来ようかと思います

携帯の充電の関係で近くの善福寺と冷水浦の了賢寺に寄れなかったので、
また下津町に来る予定です


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