番所(ばんどこ)庭園
(撮影日 23/1/15)
☆ 解 説 ☆
安政元年(1854年)9月15日、
ロシアのプチャーチン提督がディアナ号一隻で日本に再来し、
日ロ間の条約締結のために幕府や朝廷に圧力をかけるために紀伊水道に現れた
紀州藩領海を威嚇するように行き来し、翌々日には大阪湾に至り、
天保山沖に停泊。幕府は下田で交渉すると返事したため、
10月4日に加太浦に寄港。ここで下田奉行宛ての通行証を得て翌日下田に向かった
寄港した折りに藩校学習館教授岩橋藤蔵、海士御代官見習小島備源、藩絵師野際蔡真の3人が
応接を兼ねてディアナ号の艦内を見学した際にあまりの技術差に驚いた。
紀州藩では安政元年正月に海防計画を策定し終わっていたこともあり、急遽計画の実施に踏み切った
6000人の藩士と4000人の住民を動員して
加太友ヶ島と下津大崎との間のお台場の構築と大砲、鉄砲、要員の配備を強行した。
詳細は『異船記』(全8巻、和歌山県立図書館蔵書)に記されている
お台場は紀州藩家老三浦長門守が責任者を務め、
新たに新設された海岸防御掛藩士852人、地元住民数百人が守りに付き、
大小合わせて32挺の大筒が配備されたことが、
『異船記』第1巻に記されている
…ということは、案内所でもらえるパンフレット(↓)に書いてある(笑)
ちなみに入場料有料です(爆)
番所庭園
駐車場から撮影(駐車場も有料です)
長く真っ直ぐ伸びる庭園で
今は多くの植物が植えられている
案内板
駐車場に面した場所に置かれています
鷹ノ巣
有り難いことに現在通行止となっている鷹ノ巣を見ることが出来ます
雑賀崎城跡
現在の雑賀崎灯台が建っているところに
雑賀孫市が顕如上人を守るために城を築いたという
来た道を振り返る
目の前に見えているのは旅館ですね
通路の所々に万葉集の一句を書いた板があります
雑賀崎
あいにくの天気でしたが良い景色でした
紀州藩元番所台場
庭園の先端にあり、左側に双眼鏡もありました
右手前に案内板と碑(↓)がありますが、
実は崖を下りれる階段があったのですが、
階段が台風により壊れており、
現在立入禁止になっています
お台場の右手前に碑があります
これはお台場の中央奥にあります
大島
お台場の先端から見えます
一周回ってきてもう1枚撮りました
和歌山在住ですが、初めて行きましたヾ(≧▽≦)〃
が…
人気がない(笑)
しかも寒い(爆)
なんともまあ…寂しい場所でした( ̄▽ ̄;)
ただ、案内所の職員さんが丁寧に対応してくれて、
帰りに観光客数人とすれ違ったのが幸いかな
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