幕末の名残 〜宗康の章〜

 幕末、倒幕のために活躍した志士たちも明治になると姿を次々に消していった。その中の一人、尾張藩主徳川慶勝の下で影として生き、暗躍した武士がいた。名を金子玄十郎宗康という。宗康は武士でありながら、名古屋探索方棟梁という忍びの頭になり、二足のわらじをもって京都に潜入し、長州や薩摩などの諸藩と協力して新撰組や幕府方と戦った。明治に入ってからも政府の裏方のような仕事をする傍らで一族を政府の高官にするなど表裏で動いた。そんな彼であったが病には勝てず、床に伏せっていた。彼には左腕がない。別に病気で失ったわけではなく、我が子に斬られたのだ。
「父上…」
生い茂る森の中を入って行くと広い広場があり、木造平屋建ての屋敷がある。木に覆われて満足に空も拝めない場所に徒党を組んだ集団が現れた。声に応じて障子が開かれる。
「忠康か」
「久しぶりですね」
「そうだな」
口調はお互いに冷たい。忠康が家を出てから久しく、飛び出す際に宗康を闇討ちにしようとした経緯があった。宗康に恨みを持つ者が忠康に近づいて言葉巧みに騙したものだが、忠康自身も父より会得した剣術を使いたいという欲望にかられて、暗殺を試みたが晩年に入っていたとはいえ、幕末を生き抜いた宗康を暗殺するなど到底不可能だった。さらに宗康の周りにいる高弟たちも忠康の動きには逐一気付いており、忠康は裸にされているも当然だった。いざ、実行の段になり、数人の助っ人と共に襲ったが宗康に届く前に立ちふさがった人物がいた。
「父上を殺す気か?」
「あ、兄上…」
宗康の嫡子で父より幾天神段流の奥義を伝授された宗平であった。忠康よりも遥かに強い宗平に対して一瞬躊躇する。
「その程度の腕で父を殺すとは笑止な!」
恫喝する。しかし、忠康の後ろから現れた男を見て宗平の表情が変わる。
「忠康殿、ここは任されよ」
「あ、ああ…」
忠康は男の脇を通って宗康のほうへ走って行く。
「き、貴様ぁ…」
「久方ぶりですな、宗平殿」
淡々とした話し方に宗平はさらに激昂する。
「おめおめと来れたものだな!、貴様を殺らねば我の面目が立たぬわ!」
「何の面目か知らぬが師といえども大業のためには斬らねばならぬ」
「大業だと!?、己の欲のために得た災いであろうが!、正十郎!」
宗平は名を叫ぶ。正十郎の元の名は津田正十郎直方といい、かつては新撰組に属して宗康とは敵対関係にあったが純粋な性格を見抜いた宗康によって新撰組から宗康直臣となり、幾天神段流を会得。明治に入ってから宗康の推挙により、皇宮抜刀隊で隊長を務めていたのだが、私利私欲に走る政治家たちを目の当たりにして国を任せておけないと野に下った。その後、政府の高官を中心に闇討ちを仕掛けて行ったが当時子爵として宗康の後を継いでいた宗平に返り討ちにされた。しかし、捕縛されることなく姿を消していたのだ。双方が同時に鯉口を切るが宗平のほうがわずかに早く、正十郎の近くで刀が交差した瞬間に刀を砕いた。剣圧で刀を砕く「砕撃」という技である。以前、刀を交えた時は互角であったが今は宗平のほうが数段上回っている。宗康より厳しい修業を課せられてきた賜物である。
「面白くない」
刀を砕かれたというのに一向に臆することはなく、後ろに飛んで間合いを一気に開く。刀を投げても届かない位置に。
「逃げるか!」
「やり方を変えるのさ」
懐から何かを取り出して投げ付けてきた。宗平の刀に鎖のついた分銅が巻き付く。
「笑止な!、この程度で我を殺れるとでも思うてか!」
「我の役目はお前の相手をすること。それ以外に目的はない」
その言葉を受けて宗平ははっとする。後ろでは忠康が宗康に近づきつつあった。

忠康は宗康を前にして刀を抜き放つ。刀は瞬間摩擦で高熱を発し、赤く染まる。
「幾天神段流秘技、紅熱剣」
刀を構える。自らに近付け過ぎると酸欠状態に陥る諸刃の剣である。しかし、触れた相手は斬られるのではなく、焼かれるのだ。体の油に引火して燃え上がる。
「それが出来るようになったか。なれど人としての心は失ったようだな」
宗康は刀を抜かずに言うが忠康は返事をせず、打ち込んでくる。上段からの振り下ろしに宗康は前転しながら刀を抜いて忠康の太ももを斬り付ける。傷は浅いが一瞬怯む。その間に間合いを開く。刀が冷えるのを待っているかのような動きに忠康は苛立ちを隠せない。
「くそっ!」
広場の中央でまた対峙する。宗康は刀の切っ先を下に向けたまま、自然体で立っている。
「今からお前に知らぬ技を見せてやろう。宗平でも会得できなかった技だ」
「知らない技?」
宗康の体が二つ、三つ、四つ…と分かれていく。分身の術だった。宗康は忍びの棟梁をしていたことを忠康は知らなかったため、驚きを隠せない。分身は忠康を囲み、幾重もの壁を作った。
「ゆくぞ、幾天神段流極意、無双乱舞」
四方八方から無数の刀が浴びせられる。避けることが許されない絶対死の技である。しかし…
「こざかしい!」
忠康は一喝してたった一つの剣筋を見抜いて刀で弾いた。その反動で宗康が体勢を崩す。
「なっ!?」
「もらった!」
忠康は刀を振り下ろす。
「やむなし!」
宗康は咄嗟に左腕で刀を受け止める。
「紅熱剣を素手で受けとめるとは笑止な!」
しかし、剣は時間の経過と共に冷めつつあった。それを見極めての行動だったがそれでも紅熱剣、皮膚に触れた瞬間に肌を焦がし、血を蒸発させ、骨を露出させる。
「ぐおおおぉぉぉ…」
焼き尽くされる前に脇差しを抜いて忠康の左目に突き刺した。
「ぎゃあ!!」
悲鳴をあげてのた打ち回る忠康を余所に宗康もまた左腕を切り落とすことで死を免れたが耐え難い痛みに襲われ、意識を失った。
「父上!」
正十郎と対峙していた宗平が叫ぶ。その叫びは高弟たちにも届き、一斉に駆け付けてくる。宗平を引き付けていた正十郎は掴んでいた分銅を離して一飛びで忠康の体を抱えると暗い森の中へと気配を消した。一方で宗康はすぐに屋敷に運ばれて昔から金子家に仕えていた榊原玄斎の懸命な治療を受けて一時は命の危険もあったが三月後には意識を取り戻した。

「違和感があるな」
無くなった左腕を気にしながら、縁側に出て忠康を見据える。
「死ぬ覚悟はできましたか?」
「碧眼になって少しは変わったかと思っていたがまだ己の過ちに気付いていないようだな」
「過ち?、私に過ちなんてものはありませんよ。あるとすればそれは疎ましい父の存在だけです」
「ほう、言うようになったではないか。だが、わしの命はそう簡単に殺れんぞ」
宗康の声を皮きりに高弟たちが集まる。嫡子宗平、師範代小笠原政尚、その妻の直弘、居候をしている松平儀勝、頼勝父子である。政尚は信州の名門小笠原家の庶流で父の死後、兄が家督を継いだため、自由奔放な人生を歩む一方で宗康の親友として幕末の京都を生き抜いた。妻の直弘の実家は金子家に代々仕えてきた長居家の嫡流で父が男子を産めなかったため、娘の直を嫡子として名も直弘と改めた。しかし、政尚は直弘の女らしいところに魅せられて妻に迎えるに至った。松平儀勝は遠州松平家の出身だったが祖父頼常が幕末の筆頭家老を務めた松平頼清の祖父頼定の陰謀で家督を奪われて以来、狭き思いをしてきた。そのため、早くから剣術を嗜み、金子藩が独自に編み出した金子幕心流の免許皆伝となり、明治に入ってすぐに宗家を継いだ。圧政を敷き、藩主を暗殺しようと目論んだ頼清を暗殺するべく宗康を導いた張本人でもある。嫡子頼勝は我に厳しく、剣のために一時は家を捨てた。幕末を知らずに生きた男であったが剣客として名を馳せた。しかし、次第に虚しさを感じるように
なり、剣客として最後に宗康に挑むが完膚無きまでに叩きのめされて剣客を捨て、父の許で一から出なおす決意を示した。後に父と共に確立した金子幕心流を幾天神段流に組み込むことにし、自らの流派を廃流にした。この決意は二人を更に強くし、本気で戦えば全盛期の宗康でも勝てないかもしれなかった。

「やはり出てくるか」
「忠康よ、正十郎はどうした?」
「わからぬか、すでに来ておるわ」
忠康の背中に移る闇から正十郎が姿を現した。黒の軍服姿である。しかも、正十郎の背後にも軍服を着た若者が無数にいる。
「こいつらは…」
宗平が彼らを見て思い出す。
「知っているのか?」
「かつて東京府を賑わせ、民衆を恐怖させた集団があった。名を赤雷組…」
政府転覆を目的に無差別に人々を惨殺していた集団だったが警視庁に属し、幕末の京都で人斬りと謳われていた男の前に屈し、多くの仲間が捕縛されたという。それ以来、闇に息を潜めていたが今になって現れたことに宗平は目を細めた。
「散開しろ!」
正十郎の号令で赤雷組は四方に散る。宗康は赤雷組の動きを確認しながら忠康を見据える。
「向こうは任せる」
「承知」
宗平、政尚らが刀を放ちながら赤雷組のほうへ向かう。
「忠康、殺ろうか」
宗康は抜刀せずに前に出る。忠康は殺気凄まじい宗康にわずかに下がるが負けじと刀を抜き、刃先を下に向ける。仕掛けたのは忠康が先だった。
「流牙散布八連」
八つの刃が宗康を襲うが流牙散布八連は宗康が最も得意とする業で軽くいなしていく。宗康は一瞬にして間合いを詰めると柄頭で忠康の鳩尾に打ち込む。「点撃」という業だ。衝撃で忠康の体が後ろに飛んだかに見えたが当たる寸前で自ら後ろに飛んだのだ。まともに入っていれば衝撃で意識を飛ばす程の威力がある。しかし、宗康は流れるような動きで追い打ちを仕掛ける。刃と刃が交じり合うが片手持ちの宗康にとっては不利になり、すぐに劣勢になる。一時間合いを開いて体勢を立て直す。
「やはりこれしか無いか」
宗康は刀を鞘に納め、左足を引いて抜刀の姿勢になる。
「忠康、わしは嬉しいぞ。心が荒んだとはいえ、剣ではわしを上回る力量を持っている。もし、お前が剣に打ち込んでいれば奥義を伝授したのはお前だったやも知れぬ」
「戯れ言をほざくなぁ!」
「さらばだ…」
それは一瞬であった。宗康の動きは忠康の目には映らなかった。抜刀した宗康の後ろには血塗れで絶命している忠康の姿があった…。

「分が悪いようだな」
宗平らを相手に善戦していた赤雷組だったが力量の差は大きく、次々に倒れていき、更に忠康の死が拍車をかけるが如く、恐れをなして逃亡する者まで現れた。そうなってしまうともはや勝負は決まったも当然だった。赤雷組を率いる正十郎はわずかに呟くと対峙していた宗平から一気に後ろに飛んだ。
「また逃げるか!」
「ふ…、忠康の余興と後始末に付き合っただけだ。それが済めば用はない」
「後始末?」
「赤雷組の後始末だ。弱者に用はない。それに奥義を放てるとはいえ、宗康はもはや古い人間。我らが倒すべきはお前だ」
「我らだと!?」
「そう…、我が主が次に狙うはお前だ」
そう吐き捨てるとすうっと背後の闇に消えようとする。その寸前に一塵の風が闇を切り裂いた。風は油断していた正十郎の左肩を抉る。
「ぐっ!」
突然の痛みに気配を消すことを忘れる。
「お前の悪いところは気配を消す時に無防備になることだ。故に真空も避けられないのだろう」
「真空」は剣圧で風の刃を起こす業だ。遠距離攻撃のため、しっかり気を配っていれば避けられる業でもある。
「む、宗康…」
歯ぎしりをしている。
「帰って主に伝えよ。我らを甘く見るな、とな」
「ふん、負け惜しみが…」
どっちがと言いたかったが宗康は黙って見据えている。正十郎は肩を押さえながら闇に消えた…。

「父上…」
縁側に腰を下ろした宗康に宗平が近づく。脂汗が流れている。
「わしの…役目……は……これで…終わりだ…。あ、あとは…た……の…む…」
宗康は忠康に一撃を与える際に不覚にも脇腹に致命的な一撃をもらっていた。すでに絶命してもおかしくなかったが強靭な精神力で何とか持ちこたえていた。
「ち、父上!!」
「宗康!!」
「玄十郎!!!」
宗平が、政尚が、儀勝がそれぞれ叫ぶが宗康の耳には届いていなかった…。

この世は儚き夢であった。

祖先で戦国の世を生き抜いた金子宗康が死ぬ間際に残した言葉である。同名、同遺言の言葉は最後まで魂を受け継いだ宗康から離れることはなかった。

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