幕末の影

 幕末。尊皇攘夷で吹き荒れる京都で事件が起きた。京都所司代が相次いで殺されたのだ。一人は神君家康公の時代より京都を預かっていた松倉重信、もう一人は重信の嫡男が幼少ということもあって急遽派遣された元尾張藩名古屋城留守居役館林政勝である。政勝は京都に拠点を築きたかった徳川慶勝の思惑で京都所司代となったが長州派維新志士からは迷惑な話で幕府の権力を増そうとする企みだと思ったようで、すぐに暗殺の対象にされた。しかし、この館林政勝という男はかなりの手練で刺客を何度も切り捨てた。噂を聞き付けた剣豪たちですら一目置く存在となり、業を煮やした長州藩はある男に殺しを依頼した。当時、幕末の京都を中心に裏で暗躍していた剣豪で、長州藩では知られた人物でもあった。
「頼めるかね?」
「ああ」
灯籠の光だけが部屋を明るくしているが全体に行き届いておらず、剣豪の顔は見えなかった。
「では、近いうちに」
「承知した」
藩の重鎮から殺しの依頼を受けた剣豪は直後にその気配を消していた。
「相変わらず、無愛想の男よ」
そう言って重鎮も立ち上がる。灯籠の光が男の顔を照らした。その男は長州藩でも一番の切れ者とされ、幾度も新撰組に命を狙われた桂小五郎であった…。

「お前も京都に来たのか」
「はい、殿の命により」
「左様か、尾張は変わりはないか?」
「はい、藩内は慶勝様を始め、団結しておりまする」
「うむ、藩内で不穏な噂は聞かないからな。お前は今は何をしている?」
「今は尾張藩名古屋探索方棟梁をしております」
「何!?」
探索方と聞いて館林政勝が驚いた。
「探索方と申せば忍びだぞ。その棟梁に武士がなるなぞ聞いたこともない!」
声を荒げる。しかし、相手は至って冷静だった。
「父上が殺された折、仇を討とうにも私は無力でした。頼れる者もおらず、その力ですら無いに等しく、ましてや国元から命を狙われる身でございます。藩公よりは森山家を継ぐよう命じられましたが、仇を討ちたい私には到底受け入れられぬこと。幸い、森山家には勝治様の甥勝満様が継ぐことが決まりましたので森山の屋敷を出まして、以前、松平伯耆守様がお住まいになられていました屋敷を賜り、そこに移り住みました。そんな折でございます。伯耆守様に仕えていた忍びの蝉翁がこう私に言ったのでございます。『尾張には探索方という忍びがいる』と」
「それで探索方になったわけか」
「身寄りもない独り身に失う者はありません。探索方の試練は厳しいものでありましたが今はこうして皆に棟梁として認められることになりました」
「苦労したのだな?」
「いえ…」
「それで、備中を暗殺した下手人は捕まったのか?」
「それもまだ。京都に潜伏したとの知らせを受けて、尾張藩の京都屋敷に参った次第。しばらくは滞在するつもりです」
「左様か。今、京都は長州藩の連中が尊皇攘夷を掲げて暗躍しておる。お前も幕府側の人間故、命を狙われるやもしれぬ。心してかかれ」
「承知しました。師匠はお変わりありませんか?」
「ああ、問題ない。玄十郎、鍛練は怠っておらぬな?」
「はい」
弟子の微笑に政勝は不安を消し去った。しばらく、政勝と玄十郎は話をして別れた。付き従っていた松川宣十郎直視(なおみつ)は懐かしい顔をする。
「久しぶりに見ました」
「玄十郎をか?」
「ええ、先代伯耆守様に剣術を叩き込まれていた頃が懐かしく思います。立派になられた」
暗闇に二つの提灯が浮かぶ。
「今は尾張藩名古屋探索方の棟梁をしているそうだ。忍術と剣術を融合させた剣法は後にも先にもあやつ一人であろうな」
「金子玄十郎、乱世の奸雄になるか…」
剣術に忍術を合わせるなどありえないことだと直視は揶揄したが、政勝はそれも一つの理だと諭した。
「今は表向きは平和だが裏を返せば戦国の世と同じ。一つの油断が死を誘い込むのだ。玄十郎のやっていることは間違いではない」
「……」
「金子玄十郎、どこまで成長するかもしれんが、あの器はわしを越えておる。あやつがいる限り、幾天神段流は安泰よ」
「……」
「直視、どうした?。黙って…」
政勝はふっと後ろに向いた。すると、後ろにいるはずの直視の姿がなかった。
「直視!」
咄嗟に柄に手をかける。しかし、辺りに気配はない。それでも、警戒は緩めない。じり…じり…と足を動かしつつ、壁を背にする。提灯を左右にゆっくり振るが人気はない。額に汗がたまる。いくら話をしていたとは言え、気配を感じさせずに直視を討つのは困難極まりない。それをいとも簡単にやってしまえるのは“死人”ぐらいなものだ。辺りには静けさだけが漂う。
(どこだ……?)
提灯を正面に照らした時だった。
「ここだ…」
背後から声が聞こえ、重いものが襲い、吐血した。しかし、咄嗟に体をひねったことで急所は外れている。
「ば、馬…鹿な…」
後ろは壁で敵が入る隙間はない。提灯を敵に向ける。全身が黒く、目だけが白く輝いている。
「逝ね…」
敵が動く。黒い影が政勝に向かってくる。政勝は無意識に抜刀の姿勢になっていた。極限まで高める集中力が敵の力量を上回った瞬間、抜刀術はその威力を発揮する。刀は鞘から自然と素早く放たれて敵の体に吸い込まれていく。鬼気に勝る剣気に敵は横に真っ二つにされたかに見えた。
「死んだか…」
政勝はすでに絶命している。直前で政勝の魂が消え去ったのだ。生きていれば死んだのは敵のほうだったのかもしれない。
「見事…」
絶命した骸に合掌して消え去った…。

  翌朝、京都は混乱した。京都所司代が続けて殺されたことで幕府方の失墜が目に浮かぶようである。それに乗じて京都を乗っ取りたかった長州派維新志士たちだったが、幕府も愚かではない。直ちに会津藩主松平容保を京都守護職に任じて厳しい弾圧を行った。その弾圧の任を受けたのが新撰組である。“壬生狼”と称された獣たちが『誠』の旗のもとに、正義という剣を奮った。捕縛や惨殺された志士たちの屍だけが京都に残され、長州のみならず、京都の民たちまで恐怖したという。
  師が殺される。間近にいながら、それを救うことができなかった金子玄十郎は屋敷の一室に籠もって骸と対面していた。骸が見つかった翌日、板に乗せられた政勝は尾張藩の京都屋敷に運ばれてきた。理由は幕府の正式な任命を受けていないためと言われたが、幕府の意向もあって実現した京都所司代に礼を尽くしたとは思えない程の扱いの悪さに尾張藩の面々は激怒した。京都屋敷を預かる家老は幕府に対して抗議したが相手にされなかった。この行為は尾張藩の者にとって幕府から心を引き離すには十分過ぎたのである。
「如何する?」
家老は玄十郎に言う。本来であれば年下の若造に敬語など使うことはないだろうが尾張藩名古屋探索方は藩主の側近に当たり、家老と同じく直属の家臣になる。
「今は動かないほうがよろしいかと。江戸の弾圧も強くなる一方ですし、得策ではありません」
「うむ」
大老井伊直弼による攘夷派に対する弾圧は強くなる一方で大名であろうが容赦無い処分を加えている。そんな中で動くのは得策とは思えなかった。
「今は我慢の時」
「相解った」
家老が下がると探索方の者が入ってくる。初老の男だ。
「御頭、政勝様は背後から襲われております。これは…」
政勝ほどの男が背後から簡単に斬られるということはあり得なかった。玄十郎は一つの可能性を見いだした。
「忍びの仕業だな。しかも、かなりの手練」
「御意」
「そうなれば我らも動きやすい。直ちに探索に入れ」
「承知致しました」
初老の男の気配が消えた。
「師よ…」
骸を前にして言う。
「この仇は必ずや」
そう言って他人には絶対に見せることがない号泣をしたという。

  数日後、京都のある商屋にて、桂小五郎は影と会っていた。
「珍しいな。あんたが続けてここに来るとは」
「それだけ周りが騒がしいということだ」
「なるほど」
「また一人頼みたい」
「新撰組か?」
「いや、新撰組よりも先に我らに迫ってくる者がいる。そいつを頼みたい」
「名は?」
「尾張藩に仕える金子玄十郎宗康という男だ」
「尾張藩…」
影が呟いた。
「知ってるのか?」
「昔の因縁だ」
「ほう」
桂も興味があるような表情をしたが殺気がそれを止めさせる。
「余計な口出しは無用だ」
「ならば、やってもらえるな?」
「ああ」
桂は前金を置いて部屋から出ていく。影は金子を手にすることなく、目を瞑っていた。

  数年前、尾張。
  藩主徳川慶勝が施政を敷いてから、尾張は強くなった。幕府に対する発言力も増し、疼き始めていた尊皇攘夷論も高まりを見せている時だった。尾張藩では改革派が藩の実権を握り、その中心となった人物がいた。名を森山備中守元忠と言い、元の名を金子元忠と言った。遠州金子藩主金子義忠の子で、藩政にも関与していたが筆頭家老松平備前守頼清の謀略で父に命を狙われる事となり、妻子を連れて脱藩。尾張藩重臣森山勝治に匿ってもらい、その死後は慶勝の命で森山家を継ぎ、改革派の一員として藩政を支えていた。しかし、保守派から見れば余所者に藩を荒らされるようにしか見えず、次第に緊張感に包まれた状態になっていった。そして、ある夜半のこと、同じ改革派の友人の屋敷で酒を飲み、帰りに供を一人連れていた。籠を用意しようと言われたが酔いを覚ましたいと元忠が言ったため、夜道を歩いて帰った。別名紅葉坂と呼ばれる緩やかな石階段を下りている時だった。闇を舞う風が吹いた瞬間、強い殺気が二人を包んだ。咄嗟に刀に手をかける二人に一瞬の躊躇もなく、惨殺
された。擦れる意識の中で元忠は黒い影を見ていた。
「な、何…者……」
「我が名は陰影…」
影はそのまま消え去るようにして姿を消し、暗殺された二人は翌朝になって発見された。世間は刀を抜かずに殺されたことに武士の恥と揶揄されたが嫡子であった玄十郎宗康が素早い対応を見せたため、改革派は失墜することなく、未だ藩政を牛耳っている。

  玄十郎は忍びたちを縦横無尽に放って長州藩に近い者たちから順々に捕らえては容赦無い尋問を加え、その悲鳴を聞いた者から恐怖すら覚えたとの訴えもあったが下主人を探す玄十郎には誰も口出しはできなかった。尋問された者のうち、番士の隙をついて突破した者があった。その者が駆け込んだ先は長州藩京都屋敷である。話を聞いた桂小五郎は一抹の不安を覚え、陰影に玄十郎暗殺を依頼した、というのが事の顛末だが逃がしたのは故意で下手人の動きを探るための玄十郎が仕組んだ罠だった。その罠を知ってか知らずか、陰影の動きは素早く、その日のうちに尾張藩の別邸に姿を現した。痺れ薬を施した煙で護りを手薄にすると悠々と中に入った。人気はない。中庭から屋敷内に潜入しようとした時に一塵の刃が飛んできた。陰影は跳躍で軽く交わし、小太刀を構える。
「我が屋敷に土足で上がるとはたいしたものだな」
「…何者?」
「尾張藩名古屋探索方棟梁、金子玄十郎宗康」
「貴様が…」
「陰影だったな」
「…我が名を知るか…」
「当然だ。父を殺し、師を殺し、挙げ句に下手人が抜け忍だと知ればな」
陰影がかつて名古屋探索方に属していた忍びだと棟梁になった時に聞かされていた。
「…これも因縁だな…」
「まったくだ」
微動だにしなかった玄十郎から縦に横に刀が放たれる。剣圧を帯びているため、離れていた陰影にも届いた。しかし、陰影はこれも交わして間合いを一気に詰めてきた。玄十郎は刀を放って頭を守る大鎌の構えを見せる。近づく陰影の顎を狙って攻撃を加えるが後転して間合いを再び開けた。
「龍牙散布を交わし、陰陽塵をも交わすか…ならば…」
玄十郎は刀を納めて抜刀の姿勢になる。館林政勝が最後の一刀に放った技と同じであった。静けさだけが漂う中庭で鬼気だけがぶつかり合う。これも因縁、陰影は一気に跳躍して頭上を襲う。その突如、光が陰影を包んだ。
「何だ…これは…」
光は陰影の魂を昇天させた。体が下にある。
「そうか…、これが…」
死というものを陰影が初めて体験した。そして、最後の体験となった…。

「見えたか?」
「いや、わからなかった」
「脅威だな」
「ああ…」
そこにいたのは新撰組局長近藤勇、副長土方歳三、一番隊隊長沖田総司の三人だった。三人は気配を消しながら、玄十郎と陰影の戦いを見ていた。抜刀の姿勢から陰影を斬った剣筋を誰の目にも見えなかったことに三人は武者震いした。
「不逞浪士に入れておきますか?」
「いや、その必要はない。仮にも尾張藩の重臣だ。我らの頭の中に奴のことがあれば良い」
「では、行きますか」
「ああ、そうだな」
三人のわずかな気配は玄十郎に感じ取られていたが気にすることもなく、その場から立ち去った。後に玄十郎も徳川慶勝の影響を受けて尊皇攘夷に傾倒するが、新撰組からは長州派に対して尾州派と呼ばれることになる。

 翌日、玄十郎は藩に報告した。藩主徳川慶勝はわずかに頷いただけであったが影に身を落とした玄十郎にはそれで十分だった。尾張の地に葬られた館林政勝の墓に参るとニ束の仏花が咲いていた。そして、その間には線香が煙を漂わせている。
「これは…」
線香に残る僅かな匂いが玄十郎を警戒させた。しかし、気配はない。わずかな気配も感じることはなかった。
「陰影…」
姿形はなくとも最後の謝意だったのか、玄十郎はそう判断し、天を見つめていた…。

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