外伝 血霧
ある街にかつてDRAGON KINGという暴走族があった。県下最強と言われた暴走族もすでに過去の遺物となり、それを率いた神野雅儀も引退すればただのおっさんである。久しぶりに戻ってきた神野はようやく知り合いを通じてボロいアパートの一室を借りて住まいとした。親友の橘雄二にさえ居場所を教えていない徹底ぶりで静かに暮らしたいと願う神野の本音が見え隠れしていた。
「ふわぁ〜〜〜…」
大きなあくびをして枕元に置いてある目覚ましを見ると午前8時を少し過ぎている頃だった。
「もうこんな時間か…」
神野は最近購入したパソコンの電源を入れると共にその隣にあるTVにも光を灯した。
「さあて…、始めるかぁ…」
そう呟いて取り組み始めたのがパソコン通販の顧客リストの確認だ。カタカタ…と動きの良いタンピングで仕事を進めていく。手慣れた手つきだ。今まで暴走だけが生きがいだった男が真剣に打ち込んでいる。そんな神野に一本の電話が鳴った。
「よう」
聞きなれない声だ。
「誰だい?」
「俺や」
関西弁だが神野に覚えはない。
「誰だ?」
「だから俺やっちゅうねんっ!」
「………」
「もしかしてわからへんのか?」
「まあな、お前みたいな馴れ馴れしい奴に知り合いはいねえよ」
「馴れ馴れしいって…、まあ、10年ぶりやしなぁ…。忘れてて当たり前か…」
「10年ぶり?」
その頃はまだDRAGON KINGの頭として暴走を繰り返していた頃だ。
「橘敬介だ、覚えてるか?」
名前を教えられてようやく神野にピンとくるものがあった。
「ああ、あんたか…」
「やっと思い出したのかよ」
橘は苦笑している。
「まったく誰かと思ったぞ。どうしたんだ?、いきなり電話をよこすなんて…」
「お前、今もあの街にいるんやろ?」
「ああ、いるよ」
「今日、仕事でそっちに行くんやけど会えるか?」
「ん、ああ、いいよ。どうせ暇だし」
「暇かよっ!、ええなぁ、こっちはくそ忙しいのに…」
「何の仕事してるんだ?」
「警察」
「げ…、マジかよっ!」
神野にとって警察は天敵なのだ。
「警察といっても民間なんだけどな」
「民間?」
「ああ、まぁ、詳しい話しは会ってからにしよう」
「おう、じゃあ、雄二の店は知ってるか?」
「雄二の?、知らんって…。あいつとも10年は会ってないんやから…」
「付き合いの悪い兄弟だなぁ…」
「あいつとは仲が悪いからなぁ」
橘は苦笑した。
「じゃあ、駅前広場で待っててくれ。車だろ?」
「ああ」
「夜7時に迎えに行く」
「OK、んじゃまた」
電話が切れた。
「まったく懐かしい奴がまた現れたか…」
神野は電話を置いてキーボードの横に置いてあった煙草を手にした。1本取り出すと口にくわえてパソコンの画面を見る。リアルタイムで売買が行われている。ライターで火をつけると一気に吸って吐き出した。パソコンの向こうには窓がある。昨日から降り続いた雨がようやくあがったところだ。
「明日は晴れるか…」
そう呟いて画面を睨んでいた…。
夜、眠っていた者たちが一気に起き出す時間である。暴走族たちも動き出す頃合だ。橘は約束の時間に遅れそうになりながらも快調に愛車を飛ばして高速から市内に入る。そこから港湾地区を突っ切って商業地区に入ろうとしたとき暴走族が集会を行っていた。潰れたコンビニの駐車場でそれは行われている。何台ものバイクに囲まれるようにして2、30人の若者が特攻服に身を包んで座り込んでいる。昔の橘なら素通りもするのだろうが今は警察関係者である。無線を手にするとこの街を仕切るAPCに連絡した。
「こちらAPC和歌山に所属する橘というものです。今、商業地域にある潰れたコンビニに集会らしきマル暴の集団を発見、指示を願う。どうぞ」
「…了解。至急、車輌を向かわせますので待機してください」
「了解した」
ふぅっと溜め息をついて無線を切ろうとしたときに声が聞こえた。
「橘か?」
かすれた声だ。
「そうですがあなたは?」
「勝又だ、覚えているか?」
「おお…、久しぶりじゃないですか!」
勝又は和歌山にAPCが創設されたときの指導員だ。
「お前がここに戻ってくるとは…、何かあったのか?」
「それはおいおいと…」
見張っていた暴走族の一団がこちらにやって来るのが見えた。
「ちょっとやばい雰囲気ですね」
「どうした?」
「連中の目に入ったようです」
「逃げれるか?」
「無理でしょう」
徐々に距離が狭まる。
「どうやら、やるしかないようですね」
「無茶はするなよ」
「しませんよ、これでも心得ているつもりです」
「お前の噂はここまで届いているからな」
「大丈夫ですよ」
「10分もちこたえたら応援が到着する」
「了解」
無線が切れた。そのときにはすでに囲まれている。手にはそれぞれバットや鉄棒を持っている。
「何か用か?」
「あんた、ここで何してんだよ!」
何か知らないがキレかかってる。
「車を止めただけで文句があるんか?」
「ああ、そうだよ。ここは俺たちの敷地だ。とっとと出て行きなっ!」
「嫌だと言ったら?」
「何だと、こらぁ!」
ガンという音が響く。車を蹴ったのだろう。
「おいおい、何を逆ギレしてんねん?」
そう言って助手席からあるものを取り出すと勢い良くドアを開けた。その勢いで話しかけていた少年が後ろに飛ばされた。
「ぐわっ!、て、てめぇ…」
「情けない声だなぁ」
橘が外に出る。
「お〜お〜、うじゃうじゃと…」
「てめえ!、俺らを誰だと思ってやがるんだっ!」
「知らんよ」
それを聞くまでもなく1人の少年がバットを振りかざした。
「死ねやあああああぁぁぁぁぁ――――――!!!!!」
ビュンッと風を切る音が聞こえた瞬間、カァンという音で弾かれた。
「ぎゃっ!?」
少年の目が橘のほうに注がれた。その手には細長い槍のようなものが握られていた。
「あんまりアホなことばっかりやってんなよ」
手にしていた棒を払うようにして少年の首に一撃与えた。
「そ、それ…」
少年が震える声で指差す。
「あん?、これか?、如意鉄棒っていうんだ」
「にょ、如意…」
その言葉を聞くと一斉に逃げ出した。
「お、おい…」
「逃げろおおおおおぉぉぉぉぉ――――――!!!!!」
あっという間に四散した。残されたのは気絶した少年1人だけだったのである。
「まったく…、”如意鬼神”は有名だなぁ…」
神野の有名さには驚きを隠せなかった。遠くのほうでパトカーのサイレンが聞こえ始めていた…。
「何しに来た?」
大遅刻した橘とかなり待たされた神野が落ち合ったのは10時を回っていた。それからすぐに港湾地区にある雄二の喫茶店に2人はいた。橘の顔を見た雄二は驚きと怒りで複雑な気持ちになっていた。
「何しに来たってないやろ」
「お前がここに来ると火種になっちまうんだよ」
「それはこいつの間違いやないのか?」
神野のことである。
「ちっ…」
「や〜れやれ、本当に仲の悪い兄弟だな」
神野が茶々を入れる。
「ほっとけ…、今に限ったことやない」
「ところで…、何しに来たんだよっ!」
「ふん、好きで来たわけやない。仕事でだ」
「仕事?、どうせロクでもない仕事をしてるんだろうが」
「警察だ」
「な…」
雄二が意外だという表情をした。昔の橘は大の警察嫌いだったのを皆知っているからだ。
「APCってのを知ってるか?」
「知らねえよ」
「そうやろうなぁ…、民間警察機構の略称だ。俺は今、そこにいる」
「ふん、だったら何だっていうんだ?」
「別に…」
「ちっ…」
これ以後、2人の会話はなかった。
「で、俺に用があったんだろ?」
「まあな」
ビールを口に含む。喉を潤してから煙草に火をつけて端にくわえる。
「実はな、昔、MADMAXってあったやろ?」
「ああ、お前がいたところだな」
「あれが復活した」
「何だと!?」
「総長だった小田桐が近頃、出所したらしい」
「たしかなのか?」
「間違いない。いずれこの街にも噂は広がるやろ」
しばらく沈黙が広がる。
「…辛いな…」
「ああ…、あの人は表裏ともに伝説だったからなぁ」
橘はしみじみと言った。
小田桐哲司、『MADMAX』という名前の暴走族を率いた男で最初、20人にも満たなかった数があっという間に100人に達し、この街を制するには時間はかからなかった。警察でさえ手を焼いたほど強大化した暴走族は自由と強さだけを求めて各地に出没した。最強の名を欲しいままにありとあらゆる犯罪に手を出し始めたとき小田桐は幹部を呼び寄せた。ドラム缶をガソリンで濡らして火をつけたものが幹部たちの前にある。その中には橘敬介の姿もあった。
「皆、聞いてくれ」
深刻な表情の小田桐はゆっくりと話しを始めた。
「MADMAXは大きくなりすぎた。もうメンバーの動向でさえ抑えきれないものがある。最初の目的はもう見えていないだろうなぁ…、やつらは…」
もう嘆きとも言えた。幹部たちの心に痛々しく届いてくる。
「どうするんです?」
親衛隊の幹部を務める浦本が言う。
「解散しようと思う」
「………」
皆、絶句するしかなかったが副総長を務めている橘はわずかに頷いた。
「それしかないでしょうな」
「ああ、そう言ってくれると有り難い」
橘の声を聞いた幹部たちは不本意ながら頷く。小田桐の決定に賛同しているのはほとんどいないだろう。それでも小田桐に逆らおうと思う奴は1人もいなかった。それだけ慕っていたからである。
「でもなぁ、小田桐、解散するんなら盛大にやらんとな」
タメで話せるのは橘だけだ。
「ああ、そうだな。皆の思いはそれぞれだろうがMADMAXの名前は消えることはない。記憶に消されない伝説を最後に作る」
そう言って小田桐はバイクに跨った。けれども解散式は訪れることはなかったのである。
翌日、異様な空気が街を包み込んだ。MADMAX解散の噂はあっという間に街に広がったためだ。昨日の敵は今日の友という言葉はあるが今はその逆が大半を占めていた。
「聞いたか?」
「ああ、もうびっくりしたぜ」
「マジだったなんてな」
「でも、あの人がなんで英雄を捨てる気になったんかなぁ?」
「そんなの知るか!」
という会話から、
「…さんたち、動くらしいぞ」
「ああ、聞いた聞いた。解散式に殺っちまうかもな」
「おもしろくなるぞ」
という物騒な会話までちらほら聞こえてくるのだ。それでも解散するまではMADMAXは最強のままなのだ。陰口は叩けても表立ってそんなことを言えばあっという間に殺されても文句は言えない、そんな状況がもろくも崩れ去るときが来る。それが待ちわびている者も多い。
街の中心部、官庁があるところに12階建てのマンションがある。そこに小田桐の住居があった。
「もう噂は広がったなぁ」
浦本が言う。
「ああ、どうする?。小田桐さん」
特攻隊の宮間が聞く。ソファに座ってTVを眺めていた小田桐が憂鬱そうな声で言う。
「どうもしねぇ…、来るなら来いってことだな」
「そうだな、それしかないな」
「そのとき初めてわかるだろうよ。誰が敵で誰が味方か」
そう吐き捨てた言葉の語尾に殺気が残っていたのを聞いていた2人は寒気を感じた。。そのとき、間抜けなぐらいに鳴り鈴が響く。
「開いてるよぉ〜」
また間抜けなほどの返事が小田桐の声から出た。
「入るぞ」
「ん、ああ、お前か」
そこにいるのは橘だった。
「暇な連中が3人か…。ぐうたらな奴らめ」
「うっせいなぁ、お前こそ何しに来たんだよ」
「用もなく来るかって言うの。大体、男3人で固まって何やってんだよ」
「ん…、暇だしな。で、用ってのは?」
「望月のおっさんが解散式に族狩りをするらしい」
望月とは交通機動隊にいる”族潰し”の異名を取る警察官のことだ。小田桐たちにとっては天敵に近い。
「物好きなおっさんだねぇ」
それでも小田桐は気にしている様子もない。逆に浦本たちが何か考えているようだ。
「どうした?」
「噂…、聞いてます?」
「ああ、解散式に俺らを潰すっていう話しだろ?」
「ええ…」
「そんなことほうっておけ。どのチームが解散するときも同じことが起きた。それが早いか遅いかの問題だな」
橘もさして気にするふうでもない。
「さあて…、行くか…」
「うん?、仕事か?」
「まあな、これでも忙しい身なんだ」
「結局、お前、何しに来たんだ?」
「言わせる気か?」
この言葉が出たとき橘から凄みのある殺気みたいなものが流れた。その原因が何であるか小田桐は承知している。
「いや…、来るなら来いってことだな」
「まあな」
そう言って橘は部屋から出て行った…。
MADMAXの解散の日が近づくにつれて街にはびこっていたそれぞれの暴走族にも不穏な動きが見え隠れしてきた。中でもMADMAX親衛隊を自称する狂暴連合がその勢力を拡大しつつあった。
「手を打っておくべきじゃないのか?」
幹部の一人である斎藤が言う。
「手を打ってどうする?、もう抑えきれないところまで来ている」
「………じゃあ………」
「今ここで決断するしかない」
橘が言う。小田桐は沈黙したままだ。
「どうする?」
それぞれが小田桐を見る。
「………夜霧だ」
かすれる声で言った。夜霧とは裏切り行為を行った人間もしくは族に対して血祭りにあげるMADMAXの掟である。
「…わかった。みんな、聞いたな?」
無言で頷く。
「覚悟はいいな?」
「小田桐、今更、何を言うことがある?。俺たちはお前の言うことに従う、それだけだ」
「…すまんな、行くぞ!」
一斉に倉庫内にエンジン音が広まる。そして、獲物を得た狩人たちは一斉に飛び出したのである…。
夜霧の血祭り、通称”血霧事件”とも呼ばれたそれはこの街で最も凶悪で犯罪史上類を見ない殺人事件だった。場所は街の郊外にある開発予定地区、バブル崩壊の後、放置され続けビル群は廃墟と化した。たった3日で狂暴連合の数は300を超えた。狂暴連合に大半の族がついたことを意味していた。
「見ろよ、すげえ数だな」
「ああ」
橘の言葉に小田桐が頷く。暗闇に突如現れた無数の光が視線に眩しく入ってくる。
「行くぞ!」
小田桐の号令と同時に幹部連が死地へと向かってバイクを走らせた。最初は勢いが良かった幹部たちも1人、2人…と倒れていくうちに劣勢となり、たとえ有利な状態にあっても勝ち目などという言葉はどこにもなかった。あっという間に仲間とのルートを寸断された小田桐は近くにいた浦本に近づく。
「囲まれたな」
小田桐が呟いた。
「ええ…、どうします?」
浦本が言う。
「突破するしかないだろう。解散集会をする前に潰されたら今までの苦労は水の泡になる」
「やりますか」
「そうだな」
小田桐は怒鳴った。その声はそれぞれ孤立していた仲間たちに響き渡る。
「伝説は絶やすな!、お前たちが伝説の語り草になるんだっ!。そのためにはここから突破しなきゃならん!。去りたい者は去れ!、残った者こそ我らの夢となるんだっ!」
そう叫んだ。その直後だった…。
その場にいた誰もが予期できなかった事態がそこで起こったのだ。一言で言ってしまえば無茶苦茶だった。見た者でしかその凄惨な現状はわからなかった。1人は目をえぐられてのたうち回り、1人は刃物のような鋭いもので腕を斬り落とされ、1人はまるで手術用のメスを入れられたかのように胸の上から下までスパンと斬られ内臓が飛び出していた。あるいは拳銃の弾らしいもので滅多打ちにされ、はたまた、違う者は獣に殴られたかのように顔面の半分がなかった。心臓だけをえぐられてぽっかり体に穴が開いている者もいたぐらいだ。この様を見た警察官の大半は胸焼けや吐き気を催して見続けることができなかったらしい。それだけ惨い場所だったのだ。一夜して300人もの連中が血祭りにあげられてしまったのだ。しかも、つい先程まで仲間と呼んでいた幹部たちも巻き添えにして…。残ったのはたった一人…。いや、二人と言うべきか…。狂った小田桐に対し、唯一、生き残った人物がいた。それでも全身に傷を覆い、意識不明の重体で病院に担ぎ込まれたのである。悠然と立ち尽くす彼を見つけた警察官の話しでは小田桐の目は金色をしており赤い血を流していたという。そして、全身真っ赤に染まり、死体の真ん中に立ち尽くしていたそうだ。声をかけられたとき、彼はこう話したという。
「目の前に天使が舞い降りてきて俺に条件を与えたんだ。ここにいる連中を殺せってね。そうすれば俺は天使にしてくれるそうなんだ。俺は必死になってこいつらを殺した。怖いとも思わなかった。俺を見捨てた連中に死ぬなんて誰も思いもしなかっただろうな」
こう供述したのだ。話しをいくら聞いても彼はこれ以外の言葉は口にしなかった。
その後、事件は風化されることなく口伝えに後世まで受け継げられ、小田桐哲司は全国屈指の精神病院に送られてしまった。重病患者だけが集まる脱出不可能の精神病院に…。
「俺はあのとき奇跡的に助かった。気づいたときには病院のベッドの上にいた。今でもあの悪夢を覚えている…」
話しを終えた橘はゆっくりと顔をあげた。目の前には雄二がいた。
「あの男が帰ってきたとなるとまた始まるのか…、あの伝説が…」
神野が言う。悪夢の伝説の後、夜霧の血祭りは若者が必ず通らなければならない試練として美化され未だに違った形で受け継げられている。名前だけを借りた単なるリンチの連続でそれを突破すれば一人前になれると言われている。
「まぁ、来るなら来いじゃないですか?」
奥で聞いていたらしい久保岡通が言う。その隣には高橋毅が座っている。共に神野や雄二たちと名を馳せたDRAGON KINGの幹部たちだ。
「そうだな…、来るなら来いだな」
神野も言う。彼らの姿を見ていた橘は雄二のほうを向いて、
「良き友を得たな」
そう言うと橘を立ちあがった。
「行くのか?」
「ああ、何かわかったらまた連絡する」
そのとき神野に嫌な予感が巡った。
「まさか…」
神野は出て行く橘の後を追う。
「敬介!」
「何だ?」
橘が振り向く。
「お前、行く気なのか?」
「はぁ?、どこに?」
何が何やらわからないといった仕草をした。
「だから小田桐のところに」
「行くわけないだろ。だが…」
「?」
「もし、奴が俺の前に現れたのなら俺は全精力をもって奴と戦う」
「死ぬかもしれないのにか?」
「ああ、それが俺に課せられた試練だ」
「…そうだな…、そうかもしれんな…」
「雅儀、お前のところにもいずれ奴が来ると思う。気をつけろよ」
「ああ」
橘は車に乗り込むとエンジンをかけた。そして、無言のまま走り去ったのである。残された神野はまた来た道を戻って行った…。
早朝、商業地区。数台のパトカーが1件のバーに集まっていた。続々と鑑識やら交通整理やら出勤前の野次馬たちが現場で動き始める。
「ひどいもんだ」
県警捜査一課の望月警視正が言う。それを聞いている者はいない。ベテランの刑事でさえ見るのもおぞましい程の残忍な現場だった。
地下にあるバー、薄暗い空間にあるのはにぎやかとは裏腹の血の臭いと警察用語が飛び交う警察官だけだった。1人は内臓が飛び散り、1人は腕があらぬ方向にへし折られている。はたまた違う者は首がなかった。バラバラ死体もあれば心臓だけ抉られたものもあった。
「惨い…、血霧事件を思い出したよ」
望月は鑑識課長に言う。
「ほんとうに…」
「また始まるのか…、悪夢の伝説が…」
望月はそう呟くとPCの無線のマイクを手にして、
「望月だ、すぐに血霧事件の資料を集めろ。そして、小田桐哲司の潜伏先を探せ」
てきぱきと指示を出す。
「悪夢は復活させてはならないんだ」
そう言うとPCに乗り込んでにぎやかな繁華街へと走らせた。
「今回の事件も小田桐の仕業でしょうか?」
同僚の刑事が言う。
「さあな、だが、その可能性が大きいだろうな」
「もし、小田桐の犯行とすればなぜあのような真似を?」
「見せしめだろうな」
「見せしめ?」
「かつて、自分をムショに送り込んだ連中に対する…な」
望月は自分に言いかせているように言った。
「しかし…、そうなってくると…」
腕を組みなおすと、
「小田桐の仲間だった連中が戻ってくる可能性もあるな。現に神野たちも戻ってきているしな」
「警戒しておきますか?」
「ああ、頼む」
刑事が電話を使ってどこかに電話を始めたと同時に望月の携帯も鳴る。
「はい、望月ですが…」
『久しぶりにその声を聞きましたよ』
「ん?、誰だ?」
『忘れたのですか?』
「あ!、お前…」
『今から会えますか?』
「今から?」
『ええ、忙しければ構いませんが…』
「いや、行こう。お前には聞きたいことがある」
『俺も話しがあります』
「場所は?」
『APC本部』
「何!?、APCだって!?」
『ええ、嫌ですか?』
「いや、そうじゃないがお前からその言葉が出るとは思わなかった」
『ははは…、では、お待ちしています』
電話が切れた。
「誰からですか?」
「昔の友人だ。昔のな」
小田桐の乗せたPCはまっすぐ繁華街を通り抜けて商業地区にある県警本部に車を滑り込ませた。
APC本部、各県にある民間警察機構、通称APCの拠点である。その応接室で2人の男が会っていた。
「まさか、お前まで帰ってきてるとは思いもしなかった」
「残念ながら帰ってきたわけではありませんよ」
橘敬介が望月を前にして言う。
「じゃあ、なぜ?」
「仕事です」
「APCのか?」
「ええ、今の俺はAPC和歌山支部第三小隊の小隊長を務めています」
「ほう、警察嫌いのお前がな…」
「皆の同じことを言いますね」
「そりゃあ、言うだろうよ。お前がMADMAXの副長をしていた頃を考えると…」
「ははは…」
橘は苦笑する。
「で?、話しというのは?」
「小田桐のことです」
「やはりな」
「概ねのことはわかっておられる様子なので話しは簡単でよろしいですね?」
「ああ」
「小田桐は昔の自分を取り戻そうとしています」
「昔の自分?」
「伝説と詠われた小田桐の復活です」
「復活させてどうする?」
「族狩りの異名をもっていた望月さんの言葉とは思えないな。MADMAXの復活ですよ」
街を恐怖に陥れた最強最悪の暴走族の復活は何としても阻止しなければならない。
「副長だったお前がなぜそのようなことを…」
「俺がこの街に来たのは小田桐を止めるため」
「理由でもあるのか?」
「また血霧を見たいのですか?」
「血霧…」
望月が恐怖した最大の殺人事件である。今の県警に血霧事件についてどれだけの者が記憶しているか数知れない。あの壮絶な現場を見て県警を去った者も少なくないのだ。
「またあれを行うと言うのか?」
「もう見せしめをしたではありませんか?」
「あれか…」
「ええ、実際には小田桐の仲間がやったことですがその影響は大きい」
「証拠はあるのか?」
「ないですね」
「だったら、なぜそう言いきれる?」
「言いきれますよ。小田桐の近くで何年いたと思っているのですか?。奴の強いところも弱いところも全て知っていますよ」
「ふむ…」
望月は腕組みをする。
「お前はどうしたい?」
「小田桐を止める、ただ、それだけです」
「それだけのために戻ってきたわけではあるまい」
「まあ…、それだけではありませんが…」
「弟との関係修復でもしに来たか?」
「ははは…、望月さんにはかないませんわぁ。まったくもって、その通りですわ」
「そういえば…」
「何です?」
「お前、関西弁だな」
「ははは…、もう和歌山が染み着いてますさかい」
「なるほどな。お前のことだから望月の潜伏先は掴めているんだろう?」
「正確な場所はわかりませんが必ず現れるとすれば一つだけ」
「それはどこだ?」
「それは…」
望月は橘の話しを聞いて絶句する。
「本当にあそこなのか?」
「小田桐の立場になって考えればあそこしか考えられません」
「よしっ!、お前を信じよう」
「でも、気をつけてくださいよ。奴の強さは化け物並です」
「それはわかってる。心配するな」
かつて”族狩り”の異名をもった望月の眼差しは真剣なものになったのである。
住居地区にある24時間経営の飲食店で一つの事件が起きた。
「きゃあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――!!!!!」
「く、来るなあああぁぁぁぁぁ――――――!!!!!」
阿鼻叫喚の世界が店内に広がった。ついさっきまで静かに食事をしていた男が急に暴れ出したのだ。手には包丁が握られている。発狂したかと思うと真後ろに座っていた男の首を刎ねたのだ。大量の血が連れの女性と犯人を染め、女性は悲鳴をあげながら腕を切り落とされたのに気づいていない。頭が混乱してしまって痛みが感じないほど気づく様子がない。そんな姿を見て犯人は笑っている。そして、隣に驚きの表情をしながら声にならない男が目を見開きながら立っている。そして、何か叫んでいる。しかし、男の訴えは犯人の耳には届かなかった。足を斬りつけてわずかな血を浴びる。それをおいしそうに舐める姿が恐怖を呼ぶ。通報を受けて駆けつけた警察官や救急隊員は吐き気を催した。玄関から店内に続く通路には死体が並び、窓には逃げ様として後ろから刺された男の苦悶の顔だけが残っていた。
「こいつは酷いな…」
望月の部下である片桐が言う。係長として望月の右腕を務める。
「片桐さん、全員、刺し傷のようです」
「では、犯人は包丁か鋭利なナイフってところか」
鑑識の言葉に頷く。
「片桐さん」
「おう」
同じ捜査課の村木が言う。若いが修羅場は幾度も潜っている。
「目撃者が出ました!」
「おう!」
振り向くと村木の横には作業着を着ている男がいた。20代といったところか。
「犯人の顔は見ましたか?」
「ええ、長髪の若い男でした。耳にピアスをしていました。少年かもしれません」
「高校生ぐらいですか?」
「そうですね…。店から飛び出してきた後、包丁を振り回しながら向こうのほうへ」
南のほうを指差しながら言う。
「村木、すぐに手配を」
「もうやっています」
「相変わらず早いな」
「初動捜査のミスは命取りですから」
「そうだな。他に何か気づいたことはありますか?」
村木の言葉に感心しながら、目撃者に尋ねる。
「何か叫んでいましたね」
「叫んでいた?、どんなことを?」
「殺すとか…死ねとか…、あ、そうだ!、次は彼奴だとも言ってましたね」
「次は彼奴…ですか…」
その言葉を信じるならば犯人は次に誰かを狙っていることになる。
「わかりました、ありがとうございました」
目撃者に礼を言うとPCの無線で望月に報告する。望月は別の場所で待機していた。報告を受けて首を傾げる。
「事件が発生したときの外の状況はどうだった?」
「といいますと?」
「時間は何時頃だと言ってるんだ」
「通報があったのは午後7時頃でしょうか」
「それを前後したとしてもすでに日が暮れていると見ていいわけだな」
「ええ、そうです」
「店の外に街頭は?」
「ありますが幹線道路から中に入っていますので暗いですね」
「ふむ…、だったら目撃者の証言はおかしくなるな」
「それはどういうことですか?」
「目撃者は犯人の顔を見たと言ったな」
「ええ」
「街頭で表情は見れたとしてもピアスまでは普通わかるか?」
この言葉に片桐は即座に反応する。
「無理ですね、村木!、目撃者は!?」
「証言の再確認をしています」
「すぐに確保しろ!」
「了解!」
村木は急いでPCの近くにいた男に近寄る。
「すいません、確認したいことが出てきまして…」
「何ですか?」
「少しこちらへ」
男の目に片桐と数人の警察官の姿が目に映った瞬間、村木の背中を押して走り出した。
「ま、待て!」
すぐに刑事と警察官数人が追いかけ、近くの公園で取り押さえた。
「は、離しやがれ!」
「事情は警察で聞いてやる。お前が犯人の仲間だと言うこともな!」
身柄を確保された男はPCで所轄の警察署に連行された。
「そうか…、わかった」
望月が無線を切る。
「犯人がわかった」
隣にいる橘に言う。
「地下バーと飲食店を襲った犯人は同一ですか?」
「ああ、同一だ」
「では、やはり…」
「いや、小田桐ではないそうだ」
「ほう、では誰です?」
「斎藤研治。元MADMAXの幹部だった斎藤蓮治の弟だ」
「斎藤の…」
斎藤は血霧事件で小田桐に殺されていた。発見されたときは腕と心臓がなかった。
「そして、薬物中毒になっているそうだ」
「薬物…」
「早く身柄を押さえないと大変なことになる」
「無差別殺人…、薬物も殺人もやはり小田桐の…」
「そうだ、奴が敷いたレールの上に皆乗っているということだ」
「小田桐は斎藤を使って血霧事件を思い出させようとした。そして、次の狙いは…お前だ!」
そのとき、PCの天井に何か重いものが落とされた。一気に天井がへこむ。2人は後ろの座席に逃れて何とか脱出した。天井を見ると大きな岩が転がっている。上を見上げるが真っ暗で何も見えない。そこに爆音と共にライトが一斉に点滅した。かなりの数がいると思われる。
「いよいよ、お出ましというところかな」
「ですね、望月さんは応援を」
「わかった」
携帯で至急応援を呼ぼうとするが圏外になっている。仕方なく、PCの無線で応援を呼ぶ。その頃には橘は単身、バイクの前に立ちふさがっていた。
「ここに来ると思っていたぞ」
呼びかけに応じて姿を現したのは小田桐ではなかった。
「敬介か?」
「ん?」
ライトの前に影が帯びる。
「雅儀、なぜお前がここにいるんや?」
「それはこっちのセリフだ。俺たちはここで小田桐を待っていたんだが…」
「俺もそうや。望月さんもおる」
「だったら…」
その時だった。物凄い爆音が彼らを囲んだ。あまりの凄さに地響きすら感じる。
「向こうのほうが一枚上手だったというところだな」
神野の言葉に橘は苦笑した。そして、あるものを取り出す。それを見た神野も苦笑する。2人とも同じものを持っているからだ。それを見ていた望月が近寄る。
「如意鬼神の到来か」
「懐かしいですね」
神野が言う。
「ああ、お前たちを見ていると負ける気が失せるよ」
「望月さんは応援が来るまで隠れていたらどうです?」
「おいおい、俺の異名を忘れたか?」
「よく存じていますよ。ですが、相手は化け物ですよ。運悪くすれば…」
「死ぬだろうな」
はっきり言うが目は死んでいない。光が見えている。
「何か策があるようですね」
「わかるか?」
「ええ、長い付き合いですから」
「だったら、気にするな。お前たちこそやられるんじゃないぞ」
「警察官ともあろう人が喧嘩を薦めたらダメでしょうに」
「ふん、俺が何を言おうがお前らは勝手に動くだろうが」
「ま、確かに」
神野が笑うと橘も笑った。
「雄二は来ているか?」
「ああ、いるぜ」
後ろを指差すとその先に弟の姿があった。兄は弟に近づく。
「雄二」
「何だよ?」
「相変わらず、つれない奴だな」
「あんたに言われたくないね」
「ふん、嫁はどうした?」
「連れて来られると思ってるのか?」
「いや、連れて来たらお前を半殺しにしているところだ」
言葉使いが関西弁から昔の言葉に戻っている。
「あんたにやられる程、耄碌しちゃあいないぜ」
「それだけ口が叩けりゃ十分だな」
「俺はまだあんたを許しちゃいないからな」
「別に許してくれと言う気はないが今日の相手は一筋縄ではいかない。死ぬんじゃないぞ」
「誰に言ってるんだ?、これでも…」
「雄二!」
兄が突然叫ぶ。
「なめるな!」
凄みすら感じる兄の姿に弟が怯んだ。初めて見る表情だった。
「いいか、絶対に死ぬな。小田桐に背中を見せても誰も逃げたとは言わない。だが、もし、危ない時は俺がお前を守る。こいつは彼奴との約束だからな」
「約束?」
「こいつを渡しておく」
それは指輪だった。何の変哲もないシルバーの指輪が弟に渡される。
「こいつは…」
「もし、生きて帰ることがあれば姉さんのところにでも行こう」
「………」
「俺はそのために戻ってきたんだから」
そう言うと再び神野のところに戻る。
「今生の別れは済んだか?」
「まだ決まったわけじゃない」
「当たり前だ。地の利は互角、だったら実力でいこうや」
港湾地区はMADMAXとDRAGON KINGが共に生まれた場所なのだ。そして、奇しくも結成集会を行った場所も同じだった。
「それにしても凄い音だな。心地よく感じる」
「ははは…、俺もそうだ。だが、この音が静かになるとき、この戦いにも終わりを告げる」
「さあて、向こうも焦れてきただろうから動くか!」
神野の言葉に全員が喚起する。
「雅儀」
「ん?」
「お前は小田桐だけに狙いを絞っていけ」
「いいのか?」
「構わないさ、小田桐との決着はお前自身でつけろ」
「すまんな」
「なあに、いずれはこうなる運命だったのさ」
「運命か…」
運命の針はあの時から始まった。そう、あの時から…。
望月からの連絡を受けた県警本部は直ちに全警察署員を港湾地区に向けた。海上にも海上保安部が展開し、空には航空警察隊が監視体制に入ったものの、中には入れずにいた。港湾地区は人工島になっている。そこに繋がる出入り口には橋が掛けられているが幾重ものバリゲードと多量のガソリンが撒かれていた。その向こうにはライターを持った少年が1人。何かの拍子に火がガソリンに引火すれば大惨事になりかねない。警察は人工島を囲むぐらいしか手が打てずにいた。それを知ってか知らずか、島のあちこちで喚声が沸きあがる。1対複数が血みどろの戦いを繰り返していた。
「死ねやぁぁぁぁ!!!」
金属バットを持った少年が殴りにかかるがカァーンっという音と共に棍棒が少年の歯を砕く。怯んだところに次の攻撃が来るがこれも簡単に交わして肘打ちで目を貫いた。仰け反ったところに腹部に蹴りを入れて体を飛ばした。
「どうした?、その程度か?」
神野の不敵な笑いに数で勝る少年たちが怯む。そこをすかさず蹴散らして次の集団の飛び込む神野の顔には少年たちの返り血だけが残っていた。疲れを知らない神野の速攻についてこれない少年たちは徐々に押されていく。それは他の者たちも同じだった。雄二や高橋、岡野たちもかつて最強と言われた暴走族の幹部として知られ、今でも伝説化した者たちである。神野が彼らを認めるように彼らも神野という男を認め、未だに崇拝している。そんな彼らでさえ小田桐という男の伝説は耳にして恐怖している。それに立ち向かっていく勇気は計り知れないが橘敬介という男の存在は彼らの恐怖を拭い去った。避けられない道にいる橘が自らの足で進み続けている姿を見て黙っているわけにはいかなかった。共に同じ道に乗ることで過去の伝説を消し去ろうとしているのだ。彼らの意地は小田桐が連れてきた少年たちにも染まっていく。何のためにここにいるのか、そんなことはどうでもよくなった彼らに神野たちの心は熱く輝いていたのかもしれない。次第に情勢は神野たちに傾いていく中、2人だけがある倉庫にいた。
「やはり、ここにいたか」
「ああ、俺たちにとって忘れられない場所だからな」
「そうだ、ここで俺たちは生まれて消えた」
「消えたんじゃない、お前が殺したんだ。血祭りという名のもとにな…」
「ふっ…」
「何がおかしい?」
「お前も俺も所詮は同じムジナということだ」
「そいつは否定しない。だが、俺がお前になれないように、お前は俺になれることはない」
「当たり前だ、だからこそ、お前との決着をつけなければならない」
「そうだな」
橘は棍棒を手にした。
「ほう、まだそれを持っていたのか」
「ああ、あのときの事を忘れないためにな」
「甘いな、その甘さが命取りになるぞ」
小田桐が手を翳すと柱の後ろから斎藤が現れた。
「こいつは痛覚を失っている」
「ヤクでか?」
「ああ、重度の薬物中毒だ」
「そう仕向けたのはお前だろ?」
「ふっ…、違うな」
「違う?」
「こいつの弱さがそうさせたんだよ。心が強ければ意思が強ければそうなることはない。斎藤、こいつをやったらこれをくれてやる」
袋に入った覚せい剤をちらつかせる。すると斎藤の目の色が変わった。包丁を片手に橘に襲いかかる。棍棒で斎藤の目を射抜くと小手先の動きだけで真上から頭に一撃を与えた。普通なら失神していてもおかしくないのだが痛覚を失っている斎藤には効果がないようですぐに起きあがってくる。そしてまた襲いかかる斎藤を後ろ目に小田桐の姿が見えなくなっているのに気づいた。殺気は感じているため、まだ倉庫内にいるようだ。橘は斎藤を牽制しつつ、一定の間合いを空ける。
「いつまで遊んでいる気だ?」
暗い倉庫に小田桐の冷たい声が響く。その声が橘の心を貫いた後、持っていた棍棒を斎藤に投げつけると同時に今までの行動とは違い、一気に間合いを狭める。そして、急所である点穴(鼻と口の間にある急所)に一撃を加えて失神させた。
「そうだ、それこそお前の真骨頂だ」
突然、耳元で声をかけられた橘は驚くよりも先に体を飛ばされる。
「驚いたか?、武道を極めているのはお前だけじゃないんだぜ」
「ちっ…」
「嬲り殺しにしてやる」
気配を消しながら動く小田桐に昔の面影はない。気配を殺し、冷徹なまでの殺人鬼と化した男に橘は一度投げ捨てた棍棒を再び手にする。
「そんな玩具で俺がやれるか?」
「お前は俺の異名を忘れたか?」
「如意鬼神か?」
「あれは別に誇張されて言われていた訳じゃない」
体の前で棍棒をクルクル回転させて身構える。
「行くぞ」
橘は小田桐に向かって突進すると相手はすぅっと気配を消す。まるで煙にまかれたかのように…。それでも、橘は闇雲に暗闇に向けて攻撃を繰り出した。すると、グッという鈍い声が聞こえる。攻撃が当たったのだ。さらにそこに向けて連撃を加えて、小田桐を追い詰める。
「なぜ…見える?」
「わからないか?、お前が言った言葉だぞ」
「何?」
顔をうっすらと腫れを見せる小田桐の顔が月の光に照らされる。
「あの後、俺は日本から姿を消した。そして、ある場所を訪れた。棒術を己のものとするために…。そこで得たものは俺にとって新鮮味を与えるに十分過ぎた。それがこれだ」
無数の棍棒が小田桐の視界を覆う。
「気配を消すことができても、殺気は消せない。そして、お前が動くことで空気が揺れる。それが欠点なんだよ」
「なるほど…、お前もあのまま終わらなかったわけか」
「さあ、勝負をつけよう」
橘は一歩前に踏み出した。
「終わったか?」
「ああ」
望月の声に神野が頷く。対岸から突破できない警察に代わり、海上保安部の巡視船が海上より接岸に成功し、内部から攪乱していた神野たちの奇跡的勝利に終わった。実力もさることながら、数で圧倒的に負けていたにも関わらず、勇敢に立ち向かって行った彼らの天性とも言えよう。
「あとは向こうだけか…」
「敬介なら何とかなるだろう」
「だが、相手は化け物だぞ」
「敬介はそれ以上の化け物だよ」
「ほう」
「彼奴は血霧事件の後、この町から姿を消した。誰にも告げることなく…。小田桐がなぜあのとき、自分だけ殺さなかったのか、ずっと悩んでいた。そして悟った。自分は生かされたのではなく、相手にされなかったのだと」
「………」
「自分に力があれば小田桐の狂乱を止められたかもしれない、奴はそう感じていたよ」
「それで姿を消したのか…」
「ええ、そのまま中国にある寺で自分の特技を磨いた。わずか1年足らずで棒術を極めたらしい。そして、俺は帰ってきた敬介の棒術に魅せられて奴の後を継いだ」
「それが如意鬼神という訳か」
「ああ、MADMAXという族がなければDRAGON KINGという族もできなかっただろうな」
しみじみと語る神野に望月が苦笑する。
「そのせいで俺たちは忙しい毎日だったわけだ」
「まあまあ…」
「だが、最後に決着をつけるのはあの2人だけだ。周りがとやかく言ったところでどうにもならない」
「そうだな…」
最強を欲しいままにした天敵はお互いの気持ちを共有することで理解し合った。
2人は殴り合っていた。姑息な真似をせずに徹底的に殴り合った。それこそが2人が初めて出会ったときの事でもある。2人が初めて出会ったのは中学のときだった。彼らは当時から別に有名ではなかった。普通にいる学生に少し不良という言葉がかかった程度だった。そんな2人が直接関わったのが空手の地方大会に出場したときの事、2人は初出場ながら予選を勝ち抜いて決勝で顔を合わせようと緊張感を持って臨んだ神聖の場に多数の暴走族が現れたのだ。彼らは金属バットや木刀を手にして無差別に襲いかかった。当然、中にいるのは空手の心得のある者ばかりですぐに取り押さえられるものと思われたのだが、彼らの中にも暴走族の仲間がおり、苦戦を強いられてしまったのだ。騒ぎを聞いた2人は暴れ狂う暴走族たちを片っ端から片付け始めたのだ。止めるためとは言え、空手道に反する行為に違いなく、たった2人で暴走族を全滅させたという事実とは裏腹に自分たちの所属する道場から破門されてしまったのだ。しかし、破門されたからといって空手を失うわけでもなく、やる事を失った2人が魅入られたのはバイクだった。当時は街は幾つもの暴走族が割拠していて統一性がなかった。しかも、それぞれがやりたい放題に暴れており、弱い者たちも犠牲になっている姿を見て、小田桐と橘はコンビを組んだ。そして、彼らの武勇を知っている者が1人、また1人と集まってきて初期メンバーが集結した。それがMADMAXの誕生である。港湾地区で行われた結成集会はわずか10人足らずという少なさだったがそれを潰そうと攻めてきた暴走族を返り討ちにしたことで名は一気に広まった。そこから血霧事件まで全盛期を誇るには十分過ぎた。
お互い顔から血を流し、皮膚は腫れあがり、息を切らした。それでも2人は倒れない。お互いの持つ信念だけが彼らを動かしていた。一発殴る事に血飛沫が舞う。
「はぁ…、はぁ…、はぁ…」
体を支えるのがやっとという状態の2人は美化された伝説など必要なかった。殴り合いの末に見たものは何だったのか、それは同じ舞台に立ったものでしかわからなかった。ほぼ同時に2人の体は倒れ、小田桐が地面に屈する姿を見た後、すでに意識が飛んでいた橘もその体を地面に落とした。その場に駆け付けた弟の呼びかけに応じることなく…。
再び起きた血霧事件は終わった…。今回も多大な被害を被ったには違いなかったが二度と悪夢を繰り返してはいけない、それが残された者たちの願いだった。小田桐は傷害で逮捕された後、警察病院に移送された。橘もまた別の病院で10日間も目を覚ますことなく、眠り続けた。
「ん…うう…」
視界が白く感じ、はっきりとしない視点で病室の天井を見る。
「ここは…」
「敬ちゃん、起きた?」
女性の声が響く。見ると姉の美加子と弟の雄二の姿があった。
「姉ちゃん…」
「良かったぁ!、もう目を覚まさないのかと思った!」
抱きつかんばかりの姉を前に呆然とする。
「雄ちゃんが救急車まで背負ってくれたんだよ」
姉の言葉に弟を見る。
「お前が?」
「あ、ああ…」
「そうか…」
「何だよ?」
「ありがとう」
「えっ?」
礼を言われてきょとんとする弟に姉が背中を叩く。
「あんたもいい加減素直になりなさいよ!」
「うっせぇよ!」
「ぷっ!、わははははは…」
嫌がる弟に兄が笑う。
「な、何がおかしいんだよ!」
「ははははは…」
姉も笑い、弟だけがムスッとしていた。笑い終わると姉は花瓶の水を替えると言って病室を出た。
「雄二」
「あん?」
「今まで悪かった。俺はあのとき…」
「もういい、神野さんから大体の話は聞いた。兄貴も辛かったんだろうな。俺がもし同じ場所にいたら発狂してるかもな」
「発狂したほうが楽だったかもしれんな。でも、その思いがあるからこそ、今の俺があるのかもしれん」
「これからどうするんだ?」
「友が待つ場所に戻る」
「友?」
「APCの仲間のところへ、だ」
「兄貴にも友と呼べる者がいたのか」
「おいおい…」
「はははは…、冗談だ、冗談だよ」
「なぁ、雄二」
「ん?」
「姉ちゃんと神野を頼むぞ」
「ああ、わかってる」
「お前には迷惑をかけてばっかりだな」
「もう慣れたさ。それに、神野さんも姉ちゃんもこの街が好きなんだってよ」
「俺もそうだぞ」
兄弟の絆は修復に向かっているようだった。
「APCかぁ…、俺も入ろうかなぁ」
「お前には嫁がいるだろ、哀しませるようなことはするな」
「危ないのか?」
「銃撃戦の中に飛び込んでいける自信はあるか?」
「げ…」
「それに警察にも嫌われているしな、やってることは同じでも関係は昔と一緒だな」
「ははは…、警察嫌いの兄貴らしいわ」
「だがやりがいはある。獲物は変わっても、走るのは好きだしな」
「ん?、走る?」
「今は走り屋をやっている」
「おお!、マジで!?」
雄二は本気で驚いている。そこから好きもの同士、今まで話せなかったことを色々と話した。病室の外で聞いている美加子が笑っている。そこに見舞いに来た望月と神野が見つけた。
「やぁ、美加子さん」
「あら、珍しいところで」
「敬介の容態はどうです?」
「意識が戻って、今は兄弟水いらずってとこかしら」
「あの2人も不器用だからなぁ」
神野は笑いながら言う。
「お前も似たようなもんだろ」
望月の絶妙な突っ込みにこけそうになる。それを見た美加子の笑い声が廊下に響いた。
「まぁ、中に入りませんか」
そう言って3人は病室の中へ入った。
かつて吹き荒れた狂風は爽やかな優しい風となって街を包み込んだ…。
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