シベリア鉄道ツアーインユーラシア大陸
日本から比較的近いがビザ手続きが有り、訪れる人も少ない中国、モンゴル、ロシア、ウズベキスタン 、カザキスタン、キルギスタンを旅行した。中国までの無料チケットがあるので天津経由とした。CISに入るにはビザを取らねばならない。申請にはインビテーションといって現地からの招待状がいる。これが途方も無く高いので手数料の安いエージェントを探す。インターネットで検索する。カザフビザはアルマトイのトランアジアで35ドル、ウズベクビザはタシケントのサイラムツーリズムで25ドルである。電子メールとファックスでやりとりする。キルギスは7月から査証免除になった。中国,モンゴル、ロシアもちろんビザがいる。難関はロシアである。インツーリストからのホテル、飛行機料金支払済みのバウチャーがビザ申請にいる。まともにやれば10万円ぐらい軽く吹っ飛ぶ。頭を使わねばやりきれない。 トランジットビザは1,000円でできる。ただし72時間しかない。これを屁理屈つけて1週間に伸ばすのである。10万円と1,000円の差100倍,誰だって無駄金はいやだ。インターネットを使う。ロシアのトランジットビザにはCIS ビザがいる。カザフ,ウズベクのビザを先にとらねばならぬ。カザフ はダブルで6,000円、ウズベクも6,000円いる。さらにモンゴルからの列車チケットがいる。そんなもの日本で手配できない。モンゴルのエージェントにコンファメーションといってウランバートルからノボシビルスクまでの列車の予約書類をファックスしてもらう。大阪のロシア領事館では列車のチケットを見せろいうが、この確認書で粘る。飛行機の場合は旅行会社の確認書でいいのだから。スケジールを日本から中国、モンゴル、ロシア、カザフ、キルギス、カザフ、ウズベク、中国、日本の順番に期日、時間を書いていく。ロシアビザはなかなか面倒だ。領事館でも文句をつける種が尽きるようで10日後にきてくれという。やれやれ。ロシア経由でないと旅費が馬鹿たかい。しかもシベリア鉄道に乗れない、バイカル湖も見えない。どうしてもロシアビザを取らねばならぬ。モンゴルは簡単、中国はせこい、エージェントとつるんでいる。6,000円ですむのに1万円を取られる。結局インビテーションをいれて5カ国のビザ代が35,000円である。これ以上の方法はない。究極の代金だ。旅行行く前に疲れてしまう。 5ヶ国の概要を示す。                
中国 モンゴル ロシア カザフスタン キルギスタン ウズベキスタン
首都 北京 ウランバートル モスクワ アスタナ ビシケク タシケント
面積(対日本)
通貨 人民元15円 トグルグ0.11円 ルーブル4円 テンゲ0.92円 ソム5円 スム0.12円
訪問地 天津、北京 ウランバートル、テレルジ ノボシビルスク アルマティ ビシケク タシケント、ヒバ、プハラ、サマルカンド
交通手段 バス、飛行機 バス、飛行機、列車 列車 バス、列車 バス バス、飛行機、メトロ


2001年年8月14日(火)関空―天津―北京
全日空関空発は3時間ほどで天津空港に着く。北京空港より田舎だ。ビザチェックの後、人民元に両替。リムジンバスはなさそうだ。タクシーで東駅まで50元である。メーターがついている。市内は埃っぽいが,道は広い。人はそんなに多くない。駅に近くになるにつれ車が多くなる。鉄道駅は市の中心地、北京行きの列車の切符も売っている。やはり北京へはバスの方が手軽だ。高速道路をとおって30元である。2時間ほどで北京のバスターミナルに着いた。残念ながら北京のどの場所かわからん。ガイドブックを見るがさっぱり。タクシーを使おう。中国の国境の町二連浩特行きの長途汽車站へ行く。20分ほどでつく。大きなターミナルだ。バスが一杯。レストラン,待合席なんか立派だ。時刻表と運行経路が壁一杯に書いてある。 じっと見ると首が痛い。12時と16時にバスがある。臥車だから寝台バスだ。今15時でぴったりだ。コンピュータ端末がある。さっそく切符を求める。キーをたたく音。応えは没有、ないのだ。困った。汽車の切符に変更。前門へタクシーだ。ものすごい人だ。北京の中心だ。小さい切符窓口だ。大きくすればよいのに。きくと北京駅に行けいう。仕方が無い。歩いていける。地下鉄もある。外国人用売り場がある。英語で国際飯店に行けとかいてある。やれやれ。幸い歩いていける。駅前はたいへんな人。北京駅は新装なってぴかぴかだが、人と車は相変わらず。そろそろ疲れてきた。CITSはホテルの1階。17時まで営業で10分ほど遅れた。バスも汽車もだめもう飛行機しかない。タイムテーブルはわかっているから,西単の航空会社に行く。リムジンバスが発着している。オフィスは24時間営業だ。明日の中国航空の朝発のチケットを買う。35,000円。バスであれば10,000円もあれば楽勝。明日までホテルに泊まらねばならぬ。ホテルは5,000円、それに空港税1,350円、タクシー代1,000円、合計30,000円以上の無駄出費だ。飛行機は一日早くモンゴルに着く。遠東飯店は外国人が泊まれるホテル。周りには中国人用の旅館がたくさんある。一桁廉いのだろう。街に出てみる。暑いので床机を出して涼んでいる。50年前の日本の風景だ。レストランは中国人と同じ料金,魚の甘酢あんかけ、酸拉湯が皿一杯だ。ビールを飲んで20元、とてつもなく廉い。中国人にとっては安い値段ではない。天津から動きどうしで疲れた。エアコンがきいて快適。
天津空港

2001年8月15日北京―ウランバートル
北京空港まで白タクを使う。まんまとドライバーに乗せられた。相客がいる。チェックインは空港税を払ってから。中国は金には徹底している。9時半の出発が少し遅れる。乗客は3分の一程度、がらがらだ。埃っぽい中国の大地の上を飛んで、少したつと緑っぽい景色になる。砂漠か草原かわからぬ。どうも大地が高度を増しているようだ。2時間のフライトはあっという間。ウランバートル空港はひっそりとしている。北京の喧騒が信じられない。ビザチェックも形式的。空港から市内へバスが出ている。英語が空港で使える。中国とえらい違い。中国元を全てモンゴルトグルグにかえる。割とかっこいいバスにのり飛行場を後にする。市内がはるかかなたに見える。飛行場は少し標高がある。首都が1,351mだからおそらく1,500mはある。ミアットモンゴル航空が機体を休ませている。バスはカーブを切りながら悪路をのろのろ進む。乗客は田舎くさい身なりである。何にも無いところで全員降りてしまう。雨にぬれた泥んこの道を進み橋を渡り、次のバスに乗り換える。200トグルグ、20円というところ。やっと町らしくなってきた。タクシーやらバスの停留所が見える。電話局のところでみんな降りてしまい、続いてわたしも降りる。どうやら終点。ガイドブックによると平和大通りにいるらしい。ロシア文字を使っている。漢字は一切無い。スフバ−トル公園、スフバートルの銅像など。この国の独立の立役者だ。国営百貨店がある。英語標記でよくわかる。目指すあずさやはもう少し。日本人の溜まり場でドーミトリだ。4ドルで泊めてもらう。日本人夫婦がオーナーだ。宿がすんだらエージェントに行って列車の切符の購入だ。オーナーに聞くとINTERROUDEを知らないという。そんなに有名ではないようだ。イフトイーロ通りといって北の方向にあるようだ。アパート群を歩いていく。ソビエト時代の建物の手入れが悪い。ぬかるみの道を行く。銀行、博物館、タクシーが集中している地域がある。革命家通りだ。バヤンバヤドという建物にあった。小さい首都だから割と簡単に見つかった。名前を言うと社長が出てきて、ウランバートルからノボシビルスクのチケットとノボシビルスクからアルマティまでのチケット2枚を買う。一等で座席指定だから乗車日と寝台番号が記されている。314ドルだ。ノボシビルスクまではモンゴルとシベリア鉄道、アルマティまではカザフ鉄道でそれぞれ2泊づつである。ざっと5,000kmの列車の旅だ。日本では到底、世界でもこれほどの長距離列車は無い。これで一安心。明後日まで何もすることが無い。ウランバートル郊外にテレルジという保養地がある。120ドルで車とホテルをつけるという。少し高いので決断はしなかった。現在14時だ。ザナバザル美術館に入る。チベット宗教の絵が多い。織物も立派だ。銀行に寄って見る。チェックをドル現金に換えてくれるかどうかだ。1.5%のコミッションで可能とのこと。日本では5%は取られる。ドルキャッシュは一番便利。結局この作戦が後のCISに役立った。あずさやに帰ってテレルジツアーを聞くと40ドルという。即金で払う。一泊、食事、足つきだ。昼飯と、晩飯のちゃんぽんを食いに外に出る。コアンズというのがモンゴルの大衆食堂だ。キャベツサラダ、ノゴートイシュルという野菜スープ、ビールはビーボというが無い。パンがついて1,500トグルグ。満腹で腹がパンパン。国営デパートで少し食料品を買う。ミルク、ぶどう、マンダリン、英語標記が無い。2,000トグルグだ。コアンズのほうが廉い。あずさやでは日本人のパーティをやっており、少しうるさかった。明日は10時に迎えに来るという。
ウランバートル風景

2001年8月16日ウランバートルーテレルジ
あずさやに1月ほど滞在している日本人のさよならパーティなんかで夜遅くませ騒いでいたようだ。ドーミトリーでは音が筒抜けだ。10時に迎えがきた。あずさやからもう一人参加した。全日空で着いたそうだ。モンゴルだけで帰るという。もったいない。来るのに14万円ほど払っている。10時きっかり出発。すぐに町を抜け国道に来たようだ。緑の丘がうねっている。交通量はさほど無いがトラックが多い。ぼろバスを待っている人が一杯。標高があるから寒いくらいだ。列車が通りかかる。ザミンウード行きだ。ディーゼル機関車が引っ張っている。大きな汽車だ。モンゴルはロシアと同じ広軌だからゆったりしている。中国は少し狭い標準軌道だ。日本は狭軌。車は100kmhで飛ばしている。少しも速いと感じない。ガソリンスタンドに停車。バスの停留所に人がいてポリスが立っている。ポリスが相乗りさせてくれないかといっている。運ちゃんは断っている。テレルジに入る前に料金所がある。観光税なのだろう。緑の地道に入る。大きな亀石が見えてきた。turtle rockなんて書いてある。rockと単数だから一枚岩だろう。ゲル群が見えてきた。煙突がついている。ゲルに入ると天窓が有りほんのりと明るい。おばさんが馬乳をどんぶり一杯魔法瓶からくれる。円形の室内にベッドが4つ。真中にストーブ兼台所。続いておばさんが羊の肉とジャガイモ、たまねぎ、にんじんをいためだした。シチュウだろう。少し時間がある。12時を過ぎている。あずさやの客と二人で散歩する。子供が馬に乗っている。ゲルがちらほら。緑の草原、小さい川、どこまでも続く緩やかな丘、標高は1,500mあるだろう。付近にトイレは無いようだ。ゲルに帰るとシチュウの出来上がり。煮込みが足りなくてやや物足りない。馬に乗らないかと誘われる。手綱とあぶみの操作方法を教わるが、怖いから手綱を引っ張ってしまう。そうすると馬が後退する。あぶみが足に食い込んで痛い。小学生の餓鬼の後をついて馬で行く。少年は裸馬でも平気。乗馬は上下動がある。地道でゆれるから尻が痛くなる。のぼりとくだりが交互にあるのでバランスが難しい。くだりが難しい。落ちそうになる。川に出た。さすがに渡れず引き返す。少し馬は速度を速める。落とされそうだ。怖くて馬がいやになった。女性を含んだ馬グループが通りかかる。みんな姿勢をピンと伸ばしてなれている。ゲルが見えてきた。馬から下りてほっとした。魔法瓶から馬乳をのむ。牛乳より薄い味。フランスパンが置いてある。チーズらしき乳製品もある。パンに一杯つける。もう一人の彼氏は寝るらしい。ゲルを出て一本道を歩く。亀石が再び出て来る。大きな岩だ。子供が上に乗っている。しばらく行くとキャンプ場がある。子供たちがバスケやらサッカーをやっている。霧が出て寒い・。コッテージが散在している。家族や学校団体で使うのだろう。これもソ連の援助なのか。モンゴルの識字率は高いようだ。ただしキリル文字。キャンプ場を抜けるとホテルがある。これで散歩は終わり。真夏の盛りだというのに殆ど人と会わない。霧雨がきた。セーターを着ても寒い。トイレが無いので適当に済ます。明日は鉄道に2晩乗るので着替えが不足する。洗濯をしておかねば。おばさんが石鹸と洗面器を貸してくれる。ものすごい冷たい水。干すのはゲルの中。紐が通してある。夜になり薪を焚く。なあるほど煙突が要るはずだ。冬の寒さはいかがなものか。ぱちぱちと木の燃える懐かしい音。知らずに寝てしまい夜にトイレに外に出る。同じゲルがあるので間違わないように。でないと凍死する。満天の星。大気汚染はゼロ。モンゴルの夫婦が我々のゲルで寝ている。
テレルジのゲル

2001年8月17日テレルジ―ウランバートルーナウシキ
10時に迎えに来ることになっている。日本人の彼氏はもう一泊するらしい。同じことの繰り返しなのに。エンジンが聞こえ2人の日本人と入れ替わり。同じ道を引き返す。相変わらず車は少ない、列車に出会う。昨日と同じ時刻。テレルジとウランバートルは70km、 1時間もかからぬ。日本人彼氏があずさやに寄ってシャワーを使わせてもらったらという。なるほど。あずさやでは奥さんに頼むと無料で使わせてくれた。有りがたい。ゲルでは体は洗わなかった。もしここでシャワーが無かったら3日連続で体を洗わないことになり不潔だ。列車は13:50分発車。3時間ばかりある。デパートによって少し列車用食糧補給、果物、ラーメン、牛乳など。列車には湯がある。コアンズに寄って昼飯。温かい肉料理。あずさやの主人が駅まで送るという。ウランバートルの駅は田舎の駅、ホームは乗客がちらほら。時刻表がある。キリル文字だが何とか読める。外国人もいる。大きな列車が入ってくる。女の車掌。コンパートメントはすぐに見つかった。白いシーツがベッドに敷いてあり清潔だ。1等だから2人だけ。2等なら4人で2段になる。pectopanという車両がある。英語ではrestaurantになる。時間どおり発車。モンゴルさようなら。ゆっくり走り時々停車。コンパートメント同室は学者のおじさん。ロシア語しか話さない。英語のパンフレットを渡される。森林学会に出席したそうな。日本の学者も記されている。スフバートルがモンゴル最後の駅。22時着だ。出国スタンプをぽんと押して終わり。夜なのでよく見えない。20kmほど緩衝地帯を走行する。ロシアの最初の駅ナウシキに到着。車掌が来てトイレに鍵をかけ、車両に鍵をかける。少し緊張する。ここから列車時刻はモスクワ時間になる。5時間の時差。ただし現地時間はモンゴルと同じ。時刻表では20時発車となっている。3時間の停車だ。長いこと何も無い時間が過ぎる。外は煌々とサーチライト、いや電気が照らしている。鉄条網で覆われた駅。これなら誰も密入国はできない。やっとポリスがきた。ロシアビザの提示と領事館からもらった紙切れを見せろという。紙切れを残しておいてよかった。パスポートを持って行ってしまった。静かな時間が流れる。スタンプとパスポート持ってポリスがやってくる。ガチャンとやって終わり。やれやれ。列車は相変わらず止まったまま。疲れが出たのか。寝てしまう。時間の感覚が麻痺してしまう。
ウランバートル鉄道駅



2001年8月18日ナウシキーウランウデーイルクーツク
ブリヤート共和国のウランウデに入ったようだ。待望のバイカル湖が見えてきた。国道が線路と湖の間を走っている。掘っ立て小屋か農家かわからん。粗末な家がちらほら。白樺が続く。自家用車、テント、ボートなんか現れる。ロシアも夏休み。岬が出ては消える。釣りざおを持っている人もいる。列車の旅もまんざらでない。透明度はさほどでないが、船で少し出れば世界一の水質が見れるのだ。キャンプなんかで酒盛りもやっている。シベリアの夏は短い。モンゴルの金は要らない。車掌に頼んでみる。ルーブルに換えてもらう。9時にイルクーツクに着いた。実際は14時である。雨に煙っている。たくさんの女の人がホームに集まっている。乗客ではない。買い物客なのだ。この3番列車はモスクワまでの買出し列車なのだ。モンゴルの商人が衣類を売っている。道理でウランバートルで途方も無い荷物を積み込んでいる理由がわかった。飛行機なら何十万円も荷物代を取られる。汽車はおそらく無制限だ。列車に近づいてきた売り子からピロシキ、バイカル湖産の鱒の燻製、ビールを買って40ルーブルだ。燻製は大きなやつが3匹、とてつもなくうまい。こんなうまいものが世の中にあったのか。ピロシキはカレー風揚げパン、熱熱が応えられん。えらい別嬪さんが親父さんに入れ替わりにコンパートメントに乗ってきた。同じコンパートメントで1夜過ごすのだ。何も起こりませんように。モスクワまで行くそうだ。彼女ロシア語の小説を読んでいる。クラスノヤルスクなんかも過ぎる、列車が着くたびに相変わらず買い物女性がホームに群がっている。ロシアでは物不足なのか、値段が高いのかわからん。とにかく3番列車に群がっている。レストランカーがあるので寄ってみる。顔色の悪いおばさんがタバコをすぱすぱやりながら注文をとりに来る。鶏のシチュウとビールで400円ほど。高くは無いが、レンジで暖めただけだ。とても食える代物でない。駅売りの食料とすっぽんの差だ。
バイカル湖


2001年 8月19日イルクーツクークラスノヤルスクーノボシビルスク
相変わらずシベリアの原野を走っている。バイカル湖を過ぎると景色は単調だ。 農家、白樺、汚い道、工場、の繰り返し。ノボシビルスクについた。列車を降りる。ノボシビルスクは極東ではイルクーツクに次ぐ大都会。 モスクワとは3時間の時差。16時着だから19時ということか。ややこしい。大きな駅で地下道もある。カザフ鉄道の始発駅だ。時刻表を確かめる。相変わらずキリル文字に悩まされるが、予定の列車がかかれている。明日はこの列車に乗るのだ。ウラジオストック、モスクワへ頻繁に列車がある。新幹線の大阪、東京に相当する。ただし距離が1万km、20倍だ。複線電化だ。ロシアの大動脈。同室の彼女が言っていた。飛行機ならすぐだが、金がかかる。やはり鉄道ねということらしい。ノボシビルスクの待合室は途方も無く大きい。切符売り場も一杯ある。ロシア語を知らなければ少しややこしいかも。こちらは切符を持っているからなんとも無い。外にでる。ノボシビルスクホテルが目の前にある。ロンプラでのお勧めだ。宿泊カードがロシア語のみでフロントに聞くが要領を得ない。シベルといっている。ホテルかと聞くとそうだという。ここもホテルなのによくわからん。ともかくシベルホテルに行く。あっちというだけで説明が無い。英語を解さないから仕方が無い。あっちの方向へ歩くと、ピザハットが出てきた。マクドもある。広い道に白タクっぽい車が走っている。重厚な建物が多い。ノボシビルスクはバレエ団が有名。通行人にシベルホテルを連発したら、何とかたどり着いた。駅から直線距離で500mほど。英語の宿泊カードが有り、フロントも英語ができる。ノボシビルスクホテルはロシア人専用なのか。シベルホテルは朝飯がついて5,000円ほど。鍵をもらい部屋に入る。シングルベッドにシャワーとトイレだけ。エアコンは暖房のみ。8階にあるので市内がよく見える。冬だったらモスクワより寒いだろう。夏でもひやりとする。列車で買った食料があるのでどこにも行かない。テレビがニュースをやっているがさっぱりわからん。洗濯をして明日からの旅に備える。
一等寝台車


2001年8月20日ノボシビルスクーロコト(ロシア)
朝飯はホテルのレストランで。バイキングかと楽しみにしていたら、一人前だけである。コンチネンタルスタイルのシンプルなメニュウ。ぶどうが少しあった。町を散歩する。遠くへ行けないので駅まで歩く。百貨店、スーパー、ショッピングモールなどで車、靴、衣類、電化製品を売っている。値段は日本と変わらない。フードマーケットで列車用の持ち込み食料をあたっておく。乳製品、果物など。ノボシビルスクホテルにレストランがある。ランチに少し早いが暖かい煮込み料理なんかある。言葉はどうでもよい。朝飯がお粗末だったのでこってりした料理がほしい。きれいなレストランでビールもある。薄味で美味だ。パンが白くて感激だ。アルマティ行きの列車は14:30発だ。実際は17:30発である。先ほど検討をつけておいた食料品店で乳製品と果物を買う。荷物はフロントに預けてある。駅のコンコースには多くの乗客がいる。昨日とおんなじ光景。アルマティ行きの表示が出ないのでホームがわからん。14時を過ぎている。20分を過ぎてやっと出た。大きな荷物を持った人に続いてホームへ。列車はもう入っている。今度はぼうず頭の男車掌。一等に入る。シベリア鉄道よりぼろい列車だ。毛布を貸してくれる。と思ったら10ルーブルとられた。おばはんが入ってきて同室らしい。大きな荷物を入れるのにふうふう言っている。豚みたいに肥えて荷物を運び込んでいるから、心臓が悲鳴をあげているのだ。このおばはん英語がからっきしだめで、子供をいつもベイビーという。赤ん坊と思ったら一人はイギリスに、もう一人はイスタンブールにいるという。イギリスにベイビーがいるわけが無い。おばはんと話ははずまない。列車はシベリアの原野と違って広広とした平野を走っている。家は少ないが畑が続いている。田舎の駅に着いた。まだロシア領内だ。大きな魚の干物を売っている。においがぷんぷん、ますの燻製を食っていたので魚はいらない。海から遠いので川魚だ。サラダや、ロールキャベツ、ピクルスなんかうまそうだ。魚のから揚げがいいにおい。思わず買ってしまう。値段も飛び切り安い。暖かい料理が何よりだ。列車に持ち帰り一人酒盛りだ。おばはんは冷たいチーズなんか食っている。ざまあみやがれ。ロシアはおいしい食料が一杯。たらふく食べて飲んで、持込の乳製品も詰め込んで大満足。カザフ大平原を走っている。おばはんが広島、長崎といっている。馬鹿な一つ覚えと思っていたらどうやら、核実験をここで行ったらしい。樹が燃えた後がある。しかも延々と続いている。CIS旅行中に何度も広島、長崎を聞かされることになる。核実験、原爆投下は人類歴史に強烈な汚点を残している。ロシア最後の駅はロコト、23時を過ぎている。出国手続きだ。列車を降りて詰め所に行く。ビザチェックと領事館からの紙一枚を渡す。なにやら電話をかけている。ビザには入国と出国日が書いてあるがいずれも期間内だ。やっと納得したらしくスタンプを押す。いがぐり車掌が心配してついてくる。えらい寒い。真夏でもこんな寒かったら冬は生きてられない。
マスの燻製

2001年8月21日ロコトーセミパラチンスク(カザフ)
カザフに入ってビザチェックがあると思いスタンバイしていたがポリスがこない。どうでもよくなり、おばはんに聞いたがしらんといっている。おばはんカザフ人らしく入国手続きは無いらしい。とうとうポリスがこないまま寝てしまった。セメイという大きな駅に止る。おばはんのだんなが乗り込んできて荷物を運んでいる。正式にはセミパラチンスクである。ソ連の核実験場である。依然として気温は低い。駅の売店においしそうな、ソーセージの煮込み、魚、酢の物なんか並べてある。ソ連だからおいしくて廉い。金を支払う。お釣りが無いので売り子はうろたえている。ほおかぶりして人のよさそうな感じ。ビールを買って100ルーブル紙幣を使い切ったら売り子大喜び。列車の中は食料の山。食いきれるかなと心配になる。暖かくて、塩気が少なくて、新鮮で、栄養のバランスがとれて、アルコールつき。言うことなし。部屋には男が入ってきた。今度は気が合いそうだ。ロシア語のみを話すが親切そうだ。携帯番号なんか教えてくれて、アルマティにきたら電話しろといっている。名刺もくれる。列車はカザフ大平原をひた走る。ビザチェックなんか忘れた。地平線がどこまでも続いている。牛なんか時々現れる。彼氏は広島、長崎をやはり繰り返す。やくざ、侍、腹きり、空手という単語が出る。腹が一杯になって、アルコールが回っていつのまにか寝てしまったらしい。外は真っ暗。
核実験跡



2001年8月22日セミパラチンスクーアルマティービシケク(キルギス)
列車がスピードを落としている。乗客の動きがあわただしい。アルマティだよといって彼氏降りる。駅名はアルマティTである。殆ど下りたが残っている乗客がいる。アクセスはアルマティUが良い。英語のできるやつがいないので、車掌にUへ行くかと聞くとそうだという。1時間ほどで出発して10分ほどでついた。中国行きの列車の待合室がある。U駅からはアブライハン大通りが南に通じている。両替商が一杯ある。テンゲを少し買う。ルーブルを変えてくれない。不思議だ。トランアジアに行ってインビテーションを払わねばならぬ。40ドル。zanatといって男かなと思ったら別嬪が出てきてびっくり。英語では男と女の区別が難しい。メールの返信があまり遅いのでどやしつけてやったが、こんなかわいいやつだったのかと申し訳なく思う。レジストレーションはどうしますかという。外国人登録である。冗談じゃない。72時間以内の滞在は不要である。料金も30ドルくらいとられる。キルギスタンにすぐ行くから、ビシケクへのバスを教えてくれと頼む。市内バス停留所まで連れて行ってくれる。バスターミナルはオフトバグザールという。車掌にはこの単語を繰り返す。20テンゲでターミナルに行く。ターミナルの周りには乗合タクシーが多い。バスの切符売り場がある。ビシケクとキリル文字でかかれている。口で言って確認をしてから切符を買う。380テンゲ、国境を越えるのだから距離はあるはず。午後1時に出るようだ。アルマティは以前首都だったが、今はアスタナに変わっている。しかしカザフ最大の都市に変りは無い。熱くも寒くも無く絶好の気候、9月になると急に寒くなる。バスはキルギスへの国道をひた走ると思いきや止ってしまった。オイルかエンジンか知らないがともかく修理である。乗客が外に出てタバコなんか吸っている。女の人のチェーンスモーカがいる。頭を抱えながらすっている。よせばいいのにと思っているとしゃがんでしまった。そのうちふらふらと立ち上がったと思うと、ゴツンと頭を地面にぶつけてしまいのびてしまった。救急車が来るのかなと思ったが、その人はまた立ち上がりもう一度地面に頭をぶつけてのびてしまった。今度は足がねじれたように思う。別の人が水をぶっ掛けている。直射日光が容赦ない。男の人が助けようとするが、びくともせず。やがて自分でふらふらして男に支えられて着席した。のびたままだ。足に負担がかかっているはず。頭は大丈夫だろうか。カザフ内では特に景色に印象は無い。もうすぐキルギスに入るところでポリスがきた。ビザチェックである。当然ながらスタンプは無い。詰め所にパトカーで連れて行かれる。尋問される前に事情を説明せねばならぬ。ロシアのビザを見せて出国スタンプはちゃんとあるのに、カザフでは列車にポリスはこなかったんだ。だからカザフのビザにはスタンプは無いと言ってやった。ポリスはビザを見つめていたが納得したかどうか知らない。とにかくスタンプを押した。これで一件落着。もし文句をいうようだったら列車のチケットを見せて顛末を説明する用意はできていた。いよいよキルギスに入る。入国審査は無い。陸路ではカザフ側のチェックだけでよいのだろう。空港ではチェックはあるだろう。キルギスはビザはいらない。30分も走るとバグザールについてしまった。ビシケク西バスターミナルである。アルマティから4時間200kmぐらいだ。ビシケクは殆どカザフに接しているということだ。アルマティのバグザールと同じくらい立派だ。アルマティ、タシケント、チョルボンアタなんかにバスが出ている。カザフからウズベクへはビシケクをとおるのがメーンルートなのだろう。ガイドブックに示されたホテルはサリチェレック、バスで行けないことは無いが面倒だ。タクシーと交渉して80ルーブル、少しぼられたかも。シベックショル大通りを行くようだ。運ちゃんぴたりとつけてくれる。部屋代は300ソム、800円ほどか。天山山脈が雪をいただいてすばらしい景色だ。向こうは中国だ。温水シャワーは出ない。乾燥はしているが夜は冷えそうだ。市内に出てみる。通貨ソムはあまり無いから両替したい。フルンゼ通りを行けといわれた。なるほど店屋が増えてきた。ちょうど店じまいの両替商に飛び込む。ホテルの前は音楽演奏つきの野外レストラン。ビールとチーズ、串焼きなどで150ソム。まだ満足でない。温かい煮込み料理を食べたい。両替商のところまで戻る。中国レストランが有り、キルギスの別嬪さんがチャイナドレスで迎えてくれる。なんともいえずセクシーだ。汁麺を注文。スープのだしがもう一つだが何とか食える。外は20時を過ぎている。真っ暗だがCISは犯罪が少ないと聞いている。かまわず歩いて帰る。暗闇で不安であったが女、子供もいるので何とも無い。ホテルに帰ると電話がある。間違いかなと思ったが女の誘いである。外貨が不足している国では手っ取り早い商売だ。
ビシケクから天山山脈を見る



2001年8月23日ビシケク−イシククル湖
市内見物に出る。天山山脈を見ながら南に歩くとバンフィロフ公園 にでる。国立博物館の前は広い石畳広場、日差しはきついが暑くは無い。標高はかなりあるのだろう。中に入るとイベントをやっているようで結構な人がある。2階が見物場所である。ソ連時代の宣伝くさい彫刻、レリーフが目に付く。武器も多い。共産党革命によって民衆が自由になったのだという意味なのだろう。スターリン、レーニンが出てくる。ロシア語の説明なので詳しくはわからない。入場料は要らない。博物館を出てチュイ、モスコフスカヤ大通りを歩く。銀行、レストラン、航空会社、両替商なんかが整然とならんでいる。道行く人はロシア、キルギス、アジア、出身と民族色豊かだ。信号が短いのですぐに車が突っ込んでくる。キルギス自体が田舎の国なので首都といってもひっそりとしている。英語が結構通じる。美術館に行く。少し迷ったが何とかつく。入場料は100ソム。ハイアットのホテルも近くだ。あまり日本でも美術館には行かなかったが、キルギスに入ってみてびっくり。ロシア語とともに英語の説明があるのがうれしい。風景画が多い。キルギスが山国だから景色はすばらしい。農夫の収穫、休憩、家族なんかが見事にかかれている。有名な画家は少ないようだ。それだけ新鮮味を感じる。結局2時間ほど滞在した。キルギスは独立したといってもソ連の影響が色濃く残っている。ロシア文字、ロシア人、ロシアの車など。ホテルに帰り西バスターミナルに向かう。タクシーはいやだ。シベックショル大通りを知っているから、バスは簡単に捕まる。乗合タクシーだ。オフトバグザールを聞けばよい。5ソムで行ってくれる。実に30分の1の値段。イシククル湖へのベースはチョルボンアタ、乗合タクシーが行く。130ソム。客が集まるまで30分ほど待つ。市内をすぐ抜け山道に差し掛かる。鉄道が平行している。乾季だからいいが雨が降れば土砂崩れが有りそうな山道。アルマティからイシククルには直接行くことができる。ただし山越えで道は悪い。途中トイレ、食事休憩がある。みんな豚マンなんか食って楽しそうだが、バスがいつ出るかわからぬ。常に視界におかねばならない。道は結構いい。4時間を過ぎている。イシククル湖は山を背にして見事な青色の水をたたえている。チョルボンアタといった気がするが誰も降りない。すぐに発車してしまう。タクシーはバスターミナルの中に入らないので見逃してしまう。結局乗り過ごした。タクシーに乗って戻る。100ソム、乗合で節約した金が吹っ飛ぶ。さてチョルボンアタに着いたが、ホテルが見つからない。キルギスの人のリゾートとなっているようで、コッテージ、ホテルなんかが湖岸にある。適当に入っていくが言葉がわからずチェックインできない。真っ暗な中をあっちへ行ったりこっちへ戻ったり、湖岸の方へみんなぞろぞろ歩いていくのでついていく。屋台が酒やら食料を売っている。ゲートをくぐると大きなステージがある。どうやらリゾートコンプレックスらしい。バーやらディスコやらレストランやら集まっている。肝心のホテルが見つからぬ。きれいな建物に飛び込むと、みんなテレビを見ている。英語を介する人がいる。フロントらしい。20ドルだという。晩の9時を過ぎておりレストランはしまっている。腹が減って仕方が無い。1kmほど歩いて国道に出る。店屋が一杯ある。みんなわいわいやっているところに入る。中国レストランだ。ビールを注文、串焼き、サラダ、を食べる。そんなにおいしくは無い。コックの腕がいまいち。英語を話す客がいる。観光客なのだろう。そのうち青年が座ってもよいかと聞く。断る理由も無いので了解する。たどたどしい英語だ。どうやら政府に不満があるらしい。キルギスの金融システムサポートのためにIMFから専門家が派遣されているということは聞いた事がある。ソ連から独立して経済状態が悪いのかもしれない。適当に彼と1時間ほど話をしたようだ。握手をして別れた。彼氏えらい喜んでいる。飲んで食って170ソム。ホテルに帰ったのが晩の10時を過ぎている。
イシククル湖



2001年8月24日イシククル湖―ビシケク-カザフ国境
イシククル湖はキルギスの最高の観光地、真夏のこととて多くの家族連れが各地から来る。湖岸に出てみる。水はきれいだ。砂浜で寝ている人、泳いでいる人、魚つりをしている人、などどこの国でも変わらない光景。真っ白なクルーザーが湖面をすべる。海の無いキルギスでは水泳ができる貴重な保養地だ。ホテルのプライベートビーチでなく、パブリックになっているのがいい。レストランに戻り西洋式の朝食だ。白い壁、屋根、テーブル、清潔な感じがする。オムレツ、トースト、コーヒなどシンプルで値段は93ソム。ビシケクへ向かうバスターミナルは国道にある。乗り場がはっきりしている。カザフ、ウズベクへも便があるようだがともかくビシケクに戻ることとする。バス代は100ソムでタクシーより廉い。快適なバスでどんどんふっとばす。となりの別嬪さん英語ができるのでいろいろ聞いてみる。カザフではキルギス人は肩身が狭いらしい。人種的にもロシア人が実権を握っているという。週末はイシククルに来る人でバスは混雑するという。道中雨が降ってよくバスは谷底へ転落するらしい。途中トイレ休憩が有り。今度は小龍包等思う存分買った。羊の肉がたっぷりだ。ビールを飲むわけに行かぬ。尿意をもよおせば死ぬ思いをする。4時間はあっと過ぎる。西バスターミナルに到着。このままウズベクに行くというと彼女目を丸くする。チケットを買ってもらう。230ソム。18時に出るという。チケット売り場では英語が通じないので非常に助かる。1時間ほどあるので食事をしたい。ターミナルにレストランがあるが、客は昨日中華レストランで食ったラグマンという面料理を食っている。あまり食欲は出ない。トイレに行きミネラルウオーターを購入する。タシケント行きバスは非常にぼろい。14時間というハードスケジュールなのに、もっとましなバスは無いのか。しかも満員だ。今回の乗り物で最悪だ。となりのおばはん馬鹿ほど肥えている。座席に入らない。こんなに醜くなるまで食いまくった結果だ。座席の間隔が狭くつらい。後ろに倒すと文句を受け、前の席が倒れてくると文句をいう。ぜんぜん快適でない。お互い辛抱する。中にはとんでもないやつがいて、自分だけ倒して平然としている。こんな乗客のいるバスに乗った自分を責める。とにかくバスは走る。キルギスを出た。だポリスチェックは無い。すぐにカザフに入る。外国人はわたしとアメ公の2人。バスを降りて詰め所に行く。ランプがこうこうと照らしている。少し緊張したがスタンプをぽんと押してくれた。これでカザフに入国。再び走り出し夜の10時前に食事休憩がある。運転手はなれたもので豪華パーティをやっている。こちらはわけがわからん。運ちゃんの隣に座り、彼らと同じメニュウとする。スープ、パン、肉料理など大満足だ。ただトイレには気をつけねばなるまい。アルコールは飲まない。55ソム、本当はテンゲなのだろう。大満足でバスに戻る。車内は相変わらず満員、おばはんシートの背を倒したまま。どうにでもなれ。
ビシケクのバスターミナル

2001年 8月25日カザフ(国境)ーシムケント―タシケント(ウズベク)―アルガンチ
殆ど乗客の入れ替えは無く満員のままバスは走る。シムケントにさしかかる。もう国境は近い。夜明けを迎えて乗客もうきうき。キルギスを越えてカザフに入ったが、地元の人にとってはとなりの県を行き来する感じ。ターミナルに着いてみんな降りる。タシケントだろう。ウズベクの入国審査だと思ったがカザフのところにスタンプを押す。バスの表示がややこしい。カザフが検問を作ったからバスがウズベクに行けないのだ。ウズベクの入国スタンプをもらうために歩いていると、客引きがうるさい、いやに親切に案内してくれる。イミグレ、カスタム等。スタンプを押さずに入国日をビザのところに小さくペンで書いてある。税関申告は一回も無かった。これをしとかないと出国のときに有り金全部没収される。ロシア語で書いてあるのでわけわからん。英語版は無い。ロシアの申告書といっしょみたいなので、ガイドブックを見ながら書く。氏名、パスポート番号、所持金など、どこの国もいっしょだ。カスタムはぐるぐるとペンで囲んでサインして終わり。客引きはついてきて離れない。途中でこれは金を取られるなと思いきややはり。50ドルを呉れという。いろいろ教えてやり案内してやったじゃないかという。冗談じゃない。勝手に来やがって。どう相手を振り切るか厄介だ。言いなりになると後の日本人のためにならん。ここは交渉だ。思い切り値切ることにする。彼氏もあまり威張れる商売でないはず。20ドルに下がる。こちらは払う気が無いから2ドルしか払わんといってやる。とっても怒っている。無視して歩き始めると、10ドルにするという。最初からいわれのない金を一切出すのがいやだから、5ドルを押し付けて歩き出す。何やら罵声が聞こえたようだがかまわず歩く。このやりとりを見ていた白タクの運ちゃんがどこに行くのかといってくる。次々の誘いにうんざりする。キルギス、カザフではこんなこと無かったのに。ウズベクはすれている。空港だと応える。タシケントの国境から空港は距離がわからん。5ドルにせよというととんでもないという。いやならやめとけといってやる。10ドルで話をつける。国境は町外れにあるだろうから、市内を抜けて空港は遠いのだろうと思ってしまう。白タクは市内に入り鉄道を越える。30分ほどすると空港である。市内にあるようだ。ゲートで2ドル取られる。本当に必要なのか。運ちゃんがなおもついてくる。もうどうでもよくなってきてアルガンチに行くと言ってやる。親切からかたかりからかわからないが、運ちゃん勝手に航空会社事務所に入っていく。女性が出てきて相談している。すばらしい美人だ。72ドルという。ウズベキスタン航空は中央アジアの中では大手だ。発券までなかなか時間がかかる。パスポートを渡せと言う。コンピュータがあると思うが実態は不明だ。1時間はかかったと思う。パスポートとチケットを持ってきてくれた。手書きでていねいに書いてある。これなら時間がかかる。13時発という。2時間ある。運ちゃんから両替してスムに換えてあるので昼飯に行く。空港だからやはり割高。ビールとラグマンで3500スム。400円ぐらい。チェックインの警備が厳重だ。センサーが鋭敏ですぐ反応する。荷物も検査する。ボーディングパスを何回もチェックする。テロでもあるのか。ジェット機で1時間半あっという間に着いた。客は定員の半分、観光客もいるようだ。ビシケクからのぼろバスの客とはぜんぜん違う。冷たい感じ。こうなるとあつかましいシートの背を倒したままの豚おばはんが可愛いらしくなる。飲み物とサンドイッチが出る。着いたアルガンチのターミナルビルは新装なったすばらしい建物だ。タクシーの客引きが待ち構えている。トロリーバスがヒバまで行くと書いてある。少しケチることにする。がらがらのトロリーが市内に行く。ホテルなんかがあって結構きれいな町。鉄道駅を過ぎる。タシケントから線路が伸びている。トルクメンスタンにまで行く。ヒバへの道は国道なのだろう。乗合タクシーが飛ばしている。トロリーは各駅に止る。あまりの遅さに後悔したが地元の人に触れ合うのも悪くない。乗客は年寄りが多い。 トロリーの調子が悪いのか運転手がどこかに行ってしまった。道の両側は綿の畑。日本の技術が入っている。運転手が戻り再びバスは出発して、2時間ほど経過してヒバの特徴である城壁が見えてきた。終点である。運賃は100スム。廉いが疲れた。南門からは入れぬ。西門に向かう。空はあくまでも澄み渡り砂漠気候である。小さなバザールを通り抜けると西門がある。入場料を払う。城壁の中の見物は入場するごとにお金を払う。合計1,000スムだったように思う。ホテルアルガンチがお勧めらしい。25ドルで2食ついている。ツーリストが一杯、家族づれもいる。幸い飛び込みで部屋がある。2階のファンつきだ。大きなベッドにシャワー。ヒバまで長い間ホテルに泊まってない気がする。ビシケクからシムケント、タシケントからアルガンチ、3国を一気に駆け抜けた。 ヒバはユネスコの世界遺産に指定されており、城壁の中の建造物すべてが見学の対象になる。まずイチャンカラを目指す。小さいガイドがすばしこい。英語を話す。生活がかかっているのか要領が良い。遺跡の中に普通の生活がある。小さい子供、母親、洗濯物など昔からの伝統が今も生きている。子供のガイドは急なはしごをすばしこく駆け上がり、おいでおいでというが、こちらは怪我したらえらいこと。慎重にあがる。ミナレット、神学校、モスク、宮殿などがよく見える。ウズベク自体が中央アジア屈指の観光国であり、外国からの訪問客が多い。トルコ人をよく見る。キルギス、カザフではロシア人をよく見たが、ここではまったくいない。ウズベク人、トルコ人が多い。言葉もキリル文字がまったく無く、ローマ字である。英語で事足りる。ちびっ子ガイドとはチップを払って終わり。しっかりしている。一人で歩いても迷うことは無い。城壁の中を散歩するって感じ。モスクも入ってみる。ちゃっかりお土産なんか売っている。織物、彫り物なんか。ミナレットにくる。螺旋階段を上りきって見ることになる。ちびっ子ガイドにつれられて行ったイチャンカラのベランダから見た風景と変わらぬ。少し高いだけだ。あちこち移動した後の見学だから疲れが出てくる。ホテルは食事付きだからレストランを探す手間が省ける。日本人の女性がいる。アルガンチの飛行場であった人だ。タクシーで来たとのこと。食事は割と充実しておりパン、肉、サラダのボリュームに満足。果物がふんだんにあるのがうれしい。スイカ、メロン、ぶどう、オレンジなど。アルコールはビール、ソフトドリンクもある。一人で食うより話しながらのほうが気分がいい。彼女はウズベクだけらしい。ソウル経由のアシアナ航空だ。ロシア経由のツーリストなんてまずいない。中国、モンゴルも合わせてとなると正気の沙汰でない。ヒバはこれでおしまい。
ヒバのイチャンカラミナレット


2001年 8月26日アルガンチープハラ
朝食は茶、パン、バター、ジャム、果物。彼女はもう1日泊まるという。勘定をしてチェックアウトする。東門から城壁に沿い南門に行く。アルガンチへのタクシー乗り場だ。1,500スムだ。トロリーでないから速いこと、恐ろしいくらいだ。鉄道駅に近づくとバグザールかと運ちゃん。ブハラに行くからそうだという。バスターミナルで呼び込みをやっている。タシケント行きだからブハラに止るか確かめる。ウズベクの旅行でアルガンチからブハラまでが1番距離がある。およそ500kmだ。運賃は4,000スムである。ウズベキスタンでは観光地ならどこでも両替ができる。昨日ヒバの城壁の中で切符売りのおばさんからスムに両替した。100スムを40枚数えるだけでも骨は折れる。切符売りのおっさん大きな袋に札束をどんどん放り込んでいる。出発までの間にトイレに行く。おっさんがお茶を飲んでいけと呼び止める。彼氏手紙を呉れという。それと家族の写真も。パスポートを見せてくれといわれたが断る。ソ連が千島列島を奪い、アメリカが原爆を落とした話を聞かされる。あまり愉快でない。早々にバスに乗り込みまもなく出発する。砂漠気候のようで殆ど緑が無い。ウズベクの1号線なのだろう。100km以上で飛ばす。バスが停車。ポリスが来る。検問だ。パスポートの提示とビザのチェック。再び出発。後ろの青年が英語で聞く。医学生という。月50ドルの奨学金をもらっているとのこと。日本の援助で大きな図書館ができた。医学書はロシア語であるが古いという。ウズベクの東大生といったところ。英語の発音が正確で聞き取りやすい。彼氏を介して周りの人が日本の事を聞いてくる。月給、新幹線、地下鉄など。再びバスが停車、ポリスが来る。検問だ。午後3時を過ぎている。朝飯を食ったからいいものの、やはり腹が減ってくる。砂漠から緑の多い風景になる。綿畑である。ポリスによるチェック。ええ加減にしてほしい。野原で停車。立小便。もうもうと砂煙が上がる。アイスクリームを売っている。手を洗うところもないのに。かまわずに買う。医学生が買ってくれる。代金を渡す。再び発車。5時半に国道で下ろされる。500kmを6時間ほど。ものすごい速さだ。ブハラだという。町ではない。タクシーが待っている。600スムでホテルザラフシャンへ。タクシーのおっさん、あまりよいホテルで無いよというがかまわずに行ってもらう。外観は立派だが入ってみてなるほどと思う。4,000スムとホテル代は廉いがとんでもない部屋だ。水は一定時間しかでないし、窓ガラスが割れている。鍵も不十分。いまさらキャンセル言っても金は返して呉れそうもない。ウズベクの舞踏団の定宿らしく、踊り子が廊下でラジカセに合わせて稽古している。ロケーションは悪くなくレストラン、酒屋、土産物屋が隣接しており、前の道路はタクシーがひんぱんに走っている。ただホテルは町の中心にないので地図に位置が出てない。とにかく道を渡り北に向かえば見所につく。ブハラは小さな町、車に乗る必要はまったくない。6時を回っているが外は明るい。CISは治安問題ないはず。 バハウッディ・ナフシュハンディ大通りに出る。川に沿って歩くとラビハウズだ。ハウズは池という意味でなるほど大きな池の周りに、茶店、案内所、土産物屋がある。ナディル・ディバンギ・メドレセが向かいにある。神学校だ。シルクロードの唐草模様の織物の土産物屋がある。ヒバが土の建造物が多かったが、ブハラは褐色のタイルの建造物が多い。スーパーが近くに有り、ミネラルウオーターや果物を買う。ホテルにはレストランがあるが団体客で一杯。ディスコの音楽で耳がつぶれそう。裏にレストランが有り、誰もいない。シシカバブがあるという。ポテトフライとビール。600スムである。ボーイは人のよさそうなおっさんでメニュウが少なくて申し訳ないといっている。部屋に帰ると廊下で踊り子が練習している。布切れを頭に巻き柄もようのワンピースを着て、ウズベクの伝統衣装だ。部屋にやっと水が出るようになる。時間が決まっているのだろう。石鹸もなければ、温水も出ない。早々と寝ることにする。安いホテルゆえ蚊の攻撃に悩まされた。耳元でぶんぶんうなっている。結局睡眠不足ですごすことになる。
バスから見た綿花畑

2001年8月27日プハラーサマルカンド
ブハラの町をゆっくり見ることにする。部屋を出るとおっさんが廊下で待ち構えている。朝飯を食っていけという。トースト、卵焼き、ティーで200スム。商売上手。値段は良心的。ラビハウズに行きアルク城に向かう。レギスタン広場に面した堂々たる城だ。1,000スムの入場料。ガイドをさせろとうるさい。観光国所以か。 お城だから壁に囲まれている。階段を上ると市内が見える。ミナレットが一番高い。みやげ物を買えとうるさい。ゆっくり見物できない。もちろん英語はオーケーだ。便利ではあるが売り込みに辟易する。キルギス、カザフではこういうことは無かった。正面の門とぐるりと取り囲む城壁は圧巻だ。カランモスクに向かう。大きなミナレットがどこからでも見える。再びレギスタン広場に戻り、道路を渡りアブドルハーン、モダリハーンの神学校に行く。最後はイスマイルサマニ廟だ。入場料を払わなくても遠くからも充分見れる。このあたりは公園になっていて樹が生い茂り影に入ると涼しい。ラビハウズにもどりホテルまで歩く。数回通ると道を覚えてしまう。ブハラの建造物は見事なまで褐色のタイルで統一されている。ザラフシャンへの道はすっかり覚えた。タクシーなんて使う必要は無い。カラーンモスクのミナレットを目指しラビハウズを過ぎれば、住宅街に入る。10分歩けばもうつく。ブハラの町はもうおしまい。400スムでバグザールへタクシーを使う。サマルカンドへは1,300スムでバスが行く。相変わらず検問がある。一帯何があるというのか。パスポートとビザのチェック。オビールとかいっている。外国人登録のことだ。ウズベクでは一切必要がなくなったのに。綿畑が広がっている。この国の最大道路ゆえにテロなんかにねらわれたら、えらいことになるんだろう。サマルカンドまで距離はあんまり無いので気楽である。バスの中はウズベク人ばかりでロシア人は一人もいない。俺の腕時計を見たがるには閉口した。高々500円もしないのに、彼らは持っていない。時計を見せて勝手に時間を判断しろといったゼスチャーをする。女の人は殆ど持っていない。サマルカンドまでくればもう安心。大きなターミナルである。タクシーが2,000スムでレギスタン広場まで行ってくれる。タクシーは廉くないが時間の節約と体力の消耗予防になる。ガイドブックの宿に行くように言うと、運ちゃんお勧めのホテルに行きたがる。値段も変わらないのでそのとおりにする。35ドルである。中庭で将棋見たいなのをしている。ホテルのおっさんがガイドはいらないかと聞く。やはりかなり観光でスポイルされている町だ。日没が近づいている。レギスタン広場がライトアップされている。コンサートでもあるのかな。モスクか神学校かよくわからんが壮大な建造物がイルミネーションに輝き幻想的だ。観客席が有りステージがある。レーザーを使っているのだろうか。見事な光線の色だ。ウズベクなんて田舎だと思っていたがさにあらず。イスラム建造物をライブの道具に使っていいのだろうか。登場するキャストは豪華絢爛。世界のアーチストを網羅しているのかと錯覚してしまう。英語によるアナウンスがある。韓国、中央アジア、アフリカ、ヨーロッパの踊り、歌が次々と登場する。これが無料だからうれしくなる。観客は地元サマルカンドの人のほかに、観光客もちらほら。いつ果てるとも無く上演しているので外に出る。晩飯を食っていない。サマルカンドはろくな食い物しか無いとガイドブックは言う。そのとおりだ。シシカバブしか見当たらん。串3本とたまねぎで4,000スム。ぼったくりかなと思った。野菜が不足しているので果物屋でトマト、ぶどう、バナナ、牛乳を買う。こちらは廉い。これがまともな値段だ。
イスマイルサマニ廟

2001年 8月28日サマルカンドータシケント
レギスタン広場に3つの神学校がある。ディラカリ、ウルクベク、シェルドルだ。ブハラの褐色タイルに対してサマルカンドは青のタイルだ。シルクロードのガラスの技術は高度である。ガイドは要らない。地図があればどこでもいける。国立文化歴史博物館が前にある。ウズベクの歴史、文化のオンパレードだ。なかなかよくできている。民芸品、絵画、織物なんかもある。1時間以上を費やす。前庭にはウズベク遊牧民のテントがある。モンゴル、キルギスにもあった。タシケント通りを北上するとバザール、レストランが有り人の往来が激しい。ビヒハニモスクが2つの青いたまねぎドームを表す。イスラム世界最大のドームだ。確かにでかい。でかいだけで外は工事中だ。ドルからスムへの両替を持ちかけられる。スムは外国では紙くずだ。となりに果物市場がある。こちらは面白い。桃類が一杯。名前はわからない。バザールでは揚げパン、ピロシキなんかにおいをぷんぷん放っている。ガラクタから日用品まで何でもある。ジャーヒジンダ廟群はバザールの3差路を右折する。少し車の多い道を歩くが歩道がちゃんとある。えらい人のお墓のマンションだ。おじいさんが子供たちにコーランを読んであげている。通り抜けると野外に顔写真つきの石の墓が一杯。墓主の名前なんて知らないが、日本でもウズベクでもやることは違わない。墓にかなりお金を払っているようだ。くぼ地にむかって用を足す。誰もいないことを確かめた後だ。タシケント通りに時々噴水がある。サマルカンドはオアシスの町。レギスタン広場から今度はルハバット、クリアミル廟を見る。外から見る。ガイドブックのとおりだ。サマルカンド随一のアフラシャブホテルがある。4つ星の立派なホテル。100ドルはとられそうだ。タシケントへは今日中に着きたい。サマルカンドではおいしい食事に有りついてない。朝食はホテルで食べたがオムレツぐらい。屋台が集中しておりシシカバブが多い。ロールキャベツ、から揚げがおいしそうだ。ここの呼び込みは強烈だ。隣から注文もしないのに飲み物を持ってくる。ぼられるから逃げる。ここの食事はファーストフードで無く、じっくり煮込んだ屋台料理で量、味ともすばらしかった。ビールも入れて2,500スム。怖い兄ちゃんだったが大満足。タクシー600スムでバグザールへ。まずトイレに行く。ビールは後できいてくる。ポリスに呼び止められる。パスポートとビザのチェック。たかるねたを探しているのか。お金を落としているのにうんざり。乗り場にもポリスがいる。さすがに今度は何も言わない。1,500スムでタシケントに行く。途中やはり検問がある。この国は一体どうなっているのだ。5時間くらい乗ったように思う。やはり時計を見せてくれといわれる。安いのに自分で買えばよいのに。この国で1号線にいる限り必ずタシケントの表示がある。タシケントまで何kmなど。タシケントはアルマティ、ビシケクにも近く重要な都市なんだろう。あまりにもウズベキスタン中央部から離れている。スターリンがソ連の戦略上からのみ首都、国境を定めたから旅行者には不便極まりない。カザフ、ウズベクのダブルビザ、ウズベクの都市間の移動にトルクメンを通らねばならないことなど。自然の摂理にそむいた国境線なんておろか過ぎる。このバスも検問がしょっちゅうだ。けっこうすいているから我慢ができるが、満員でもポリスが乗り込んでくるのだろうか。道が縦横に交差し始めたと思うと終点だ。メトロだよと運ちゃんが言う。タシケントには地下鉄があるのだ。Mのマークを目指す。モスクワの地下鉄と似ている。キリル文字だ。急に人種が変わる。民族衣装のウズベク人に代わり、金髪、スーツのロシア人にとって代わる。男も、女もロシア人ばっかりだ。地下鉄に乗るために50スムのトークンをいれてレバーを押すと改札が終了。カビールラヒモフから中心部まで30分ある。乗り換えのいらないホテルウズベキスタンを目指す。ウズベク最高のホテルだ。200ドルはするらしい。ボーイやフロントは完璧に英語を話す。見学だけだ。チョルスーホテルが手ごろな値段。タクシーいや白タクは交渉で600スムの料金。市電が走っている。大きな町だ。シングルが30ドル。部屋に入ってびっくり、汚いベッドに冷たい水、壊れたテレビに暗い照明、くさい排ガスが入ってくる。いいとこなし。救いは20階にあるので蚊がこないこと。おりしも高校生の民族舞踏団がきており、餓鬼どもがうるさくてかなわん。1階のレストランへ行きたいがエレベータがなかなかこない。やっと降りると番兵がエレベーターホールを監視している。モスクワのホテルと違わない。レストランでの食事は4,000スムでチキン、サラダ、スープ、ビールだ。まあまあだ。田舎に比べて少し高め。汚い部屋で辛抱しながら寝る。
サマルカンドレギスタン広場

2001年8月29日タシケントー北京 朝食は800スムでパン、ジュース、ソーセージだ。エージェントにインビテーション代25ドル払わなければならぬ。白タク運ちゃんにエージェントまでの地図を描いたコピーを渡すがなかなか着かない。サイラムツーリズムは2ヶ所あるみたいだ。看板の無い倉庫みたいな建物にそれはあった。臍の出たきれいな姉ちゃんが日本語を話す。ポリスの検問にあったかと聞く。ウズベクではお祭りが有り、外国人の訪問が多いのでテロ対策のためやっているとのこと。みんなパソコンにむかって仕事をしている。インターネットが無ければ商売にならないのだろう。外に出ると先ほどの運ちゃんが手招きをしている。しかたが無い。空港へやってもらう。結局ホテルから、サイラムを経て空港まで2,200スムだ。国内空港に比べて国際空港は乞食ハウスみたい。警備は厳重だ。チケットのチェック。カスタムへの申告書の提出。入国のときの書類もいる。無かったら所持金没収の恐れもある。荷物のチェック。次にパスポートとビザのチェック。搭乗口にはいる前にボーディングパスのチェック。待合室は汚い。ビールを飲んでスムを使う。便所なんて汚すぎる。ぞろぞろ歩いてタラップに行く。後ろから空港職員が追い立てる。最後は銃を持ったポリス。とにかく飛行機の中に押し込められてしまった。国際空港とは名ばかりとんでもないぼろ空港だ。国内線の整備だけで手が回らないのだろう。ウズベキスタンという国は袋小路みたいだ。周りをロシア、カザフ、タジク、キルギス、アフガン、トルクメンに囲まれ、政情不安な国ばっかりだ。ビザ無しでいけるのはキルギスだけで、しかもルートはフェルカナファ盆地経由である。ものすごく不便で国境が開いているかも不明だ。その他の国へ陸路で出国するのはインビテーションをとってからビザをもらうことになる。手間と時間の無駄遣い。やはり空路ということになる。中近東へはイスタンブール、カラチ、デリー、共産圏へはモスクワ、アルマティ、ビシケク、アジアへは北京、大阪、ソウルである。外国人ではウズベクだけ訪問するケースが多い。今回の訪問国で日本人に会ったのは、中国、モンゴル、ウズベクであり俺のように複数の国に行くという人はいなかった。ビザだとか、インビだとか面倒くさい。ウズベクだけではもったいない。中央アジアへのフライトはアシアナ、ウズベキスタン航空しかなく割高だ。ロシア経由でシベリア鉄道を使うとぐっと廉くなる。訪問国も増える。中国は高くなり観光に値せず。ロシアの観光はモスクワ、極東ぐらい。バイカル湖を見るのが今回の目的だった。モンゴルは草原を見ればよい。カザフはカスピ海に油田が有りビジネスオンリーの国、キルギスは自然が豊か。歴史的価値のあるのはウズベク。ヒバ、ブハラ、サマルカンドが観光地。タシケントから北京行きのフライトのチケットはノーマルなので60,000円する。痛い出費だが陸路をとる気はまったく無い。5時間のフライトであっという間に北京についた。時差が3時間ありすぐ日が暮れる。
タシケントのトラム

2001年8月30日北京―関空
ホテルは同じ遠東飯店だ。近所の食堂で肉料理を朝から食う。日本へのフライトが12時過ぎだから余裕を持って空港へ行く。今度はリムジンバスを使った。搭乗した全日空のサービスはよい。競合会社が多いからこうなる。時間どおり関空につく。2週間ほどで6つの国を駆け抜けたから忙しいが、お金も7種類使った。 622ドル 77,700円、1,251元 18,765円、1,764ルーブル 7,056円、350テンゲ 300円、1,830ソム 4,500円、8,850トグルグ 1,000円、42,450スム 5,300円で 合計 114,621 円 インビテーション、ビザ、航空券など101,000円 総合計 215,621円となる。