では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。 (ローマの信徒への手紙4:13 

 パウロはローマ書321節以下において、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」という福音の真髄を明確に述べた。ところが、この福音に対しては、律法を行うことを重視するユダヤ人からの反論が予想される。そこでパウロは、イスラエルの歴史上の人物の具体例を取り上げて、信仰と行いとの関係を問い直す。
 まず最初に、ユダヤ人の父祖アブラハムを取り上げる。彼は神の言葉に従ってハランを出発し、与えられた息子イサクを献げるように命じられてそれを実行しようとした。その行いが評価されるようにも思えるのだが、パウロは標記のように、聖書(創世記156)には「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書かれていることを指摘する。
 ところが、ここでも信仰という善い行いが評価されるとの誤解をされる恐れがある。そこで今度はダビデの例を持ち出す。彼はウリアの妻バト・シェバを自分のものとするために、ウリアを先頭の最前線に送って戦死させるという大きな罪を犯したが、その罪を預言者ナタンによって指摘されたとき、ダビデは自分の罪を告白して赦された。そのことが詩編で、「不法を赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである」(詩編3212)と歌われている。「罪を覆い隠される」とは、罪を誤魔化したり、蓋をするということではなく、神との間の傷ついた関係が修復されることであり、そのことが決定的に行われたのがイエス・キリストの十字架である。
 更にパウロは、ユダヤ人の割礼について論じる。ユダヤ人は割礼を受けた者が救われると考えていたが、神が割礼のことを定められたのは、先にアブラハムの信仰が義と認められたのより後のことであったことを指摘して、割礼は救われるための条件ではなく、神の恵みによって罪を赦され、義とされたことの幸いの証し(しるし)として与えられていることを述べている。私たちが受ける洗礼も同様である。では、どうすれば救いを受けることができるのか。パウロは、アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従うことだと言っている(12)。アブラハムやダビデの歩みは、決して理想的な信仰の歩みではなく、時には不信仰が顔を出したのであるが、そんなアブラハムやダビデを神は見捨て給うことなく、御自分の約束を貫き通され、決定的にはイエス・キリストの十字架と復活による贖いという形で、罪の赦しを恵みとして与えることによって、救いを完成し、約束を実現されたのである。そのことを信じて受け入れることが、私たちにとってのアブラハムの模範に従うということである。

主日礼拝説教<要 旨> 2016年4月17日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙4:1-12 
 説教題:「
義と認められる」 説教リストに戻る