序.信仰と行い――歴史上の実例から

 月一回、ローマの信徒への手紙から御言葉を聴くことにしております。先月は受難節と復活節がありましたので、ローマ書は取り上げませんでしたが、2月に取り上げたときには、今日のすぐ前の321節以下でありました。そこは、この手紙の中心的なメッセージが語られている箇所で、小見出しは「信仰による義」となっていました。「義」というのは<正しさ>ということであります。321節より前では、「正しい者は一人もいない」ということが語られていました。当時のユダヤにおいては、神様から与えられた律法を守ることによって、正しい者とされる(義とされる)と考えられて来ました。しかし、この手紙を書いたパウロは、320節で、「律法を守ることによっては、だれ一人神の前で義とされない」と述べた上で、21節で、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる」と言い切ったのであります。そして、24節では更に、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と述べて、私たち人間の側の功績が問題にされるのではないことも明確に語っています。これが福音であります。
 ところが、このような福音は、律法を守ることによって義とされると考えて来たユダヤ人にとっては受け入れられないことであります。そこで予想される反論は、ユダヤの長い歴史の中で起こった出来事や歴史上の人物として尊敬している人のことを挙げて、律法を守ることによって神様の恵みを受けるのではないか、ということであります。
 ユダヤ人はアブラハムを彼らの先祖として尊敬しておりました。イスラエルの民のルーツはヤコブとされていて、その十二人の息子たちがイスラエルの十二部族となったのですが、そのヤコブの祖父に当るのがアブラハムで、創世記では、そのアブラハムが神様の召命を受けて、生まれ故郷のハランを離れてカナンの地に移住したところからイスラエルの歴史が始まるわけであります。
 アブラハムは神様の召命を受けると、行く先を知らずに出発を致しました。実際に行動に移したのであります。このアブラハムについて最も感動的な物語は、長く子供がなかったアブラハムに与えられた息子イサクを、神様は焼き尽くす献げ物とするように命じられたのでありますが、この時もアブラハムはその御命令に従って祭壇を築いて、屠ろうとしたという出来事です。このようにアブラハムは神様の御命令通りに行なったことによって、神様から祝福を受けることが出来たのだとユダヤ人は考えて、このアブラハムの従順な行為を見習って、神様の与えて下さった律法に従うならば、その功績によって義とされるのだと理解していたのであります。
 このような信仰と行いとの関係、別の言葉で言うと福音と律法の関係とも言えますが、これは私たちが実際の信仰生活をする場合にも、大変重要なことになります。信仰生活というのは、頭の中で神様を信じているだけのものではありません。日常の実際の生き方、行動に現れるのでなければ、本当に信じているのかどうかが怪しいと言えます。逆に言うと、本当に神様を信じ、救いを確信しているなら、生き方や行動も変わって来る筈であります。そういう意味では信仰と行い、福音と律法の関係は切り離すことの出来ない裏表の関係にあると言うことが出来ます。信仰を持っていると言いながら、行いが伴っていなければ、その信仰は怪しいということになります。ところがそこに、ともすれば間違いやすい落とし穴があります。信仰と行いとが直接に結びつくものだと考えて、信仰を持っているなら立派な行いが出来るのは当然で、行いが出来ていないのは信仰がないからだと決めつけてしまって、行いの良し悪しで、自分を誇ったり、満足したり、逆に他人を批判したり、落ち込んだりするということが起こってしまいがちであります。そうなると、信仰を持っていることの意味が分からなくなって、教会に行っても意味がないと考えるようになってしまいます。それは、結局、行いにだけ思いが捕らわれていて、そこでは信仰が忘れられ、神様から離れてしまっているのであります。なぜ教会に行かなくなるか、礼拝に喜びを感じなくなるかと言えば、結局、信仰のこと、神様との関係のことが忘れられて、自分や他人の行ないのことだけに関心が向いてしまうからなのであります。当時のユダヤ人は、正にそのような状態になっていたので、パウロが「信仰による義」ということを言っても、直ちに反論が帰って来ることが予想されました。
 そこで今日の箇所でパウロは、イスラエルの歴史上の人物の具体例を取り上げながら、信仰と行いの関係を問い直すことによって、福音の本質を明らかにしようとするのであります。

1.アブラハムの義認

 まず最初に取り上げたのが、先ほども触れましたアブラハムであります。今日の箇所の冒頭の1節で、パウロはこう問いかけています。では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。――「得た」と訳されている言葉は「見出した」とか「手に入れた」とも訳せる言葉です。創世記の12章から22章あたりにはアブラハムと神様との関係の物語が記されていますが、それらの出来事の中で、アブラハムは何を得たのか、何を見出したのかを問いかけています。これはまた、私たちが神様と関係を持つ中で、何を得るのか、何を見出すのか、という問いかけでもあります。
 こう問いかけた上で、2節では、もし彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません、と記しています。ユダヤ人はアブラハムが神様の召命に従って、ハランの地から出発してカナンに向かったという行為、また、息子イサクを献げよとの命令に従って、イサクを屠ろうとした行いが功績として評価されて、義とされたと理解していたようですが、パウロはそのような行いによって義とされたのではないので、行いによって誇ることは出来ない、と言い切っております。そして3節ではこう述べます。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。――「聖書には何と書いてありますか」と言っております。パウロは自分の考えを主張しようとするのではありません。信仰のことは聖書に裏付けられていない人間の考えでは間違ってしまいます。そこでパウロが引用したのは、先ほど朗読した創世記15章の6節に書かれている言葉であります。アブラハムは先の12章の召命の記事の中で、神様から「わたしはあなたを大いなる国民にする」と約束されました。これは子孫が増えて、繁栄するという約束であります。ところがアブラハムは既に高齢になっていましたが、子供がありません。そこで、僕(奴隷)であるエリエゼルに家を継がせようと考えていたのであります。そこには神様の約束に対する不信仰が顔を出し始めています。そこで神様は、彼を外に連れ出して満天の星を仰がせて、「あなたの子孫はこのようになる」とおっしゃいました。その神様の言葉をアブラハムは信じたのでありました。そして、そのことが神様によって「彼の義と認められた」と言うのです。
 しかし、ここでも注意しないと、信仰による義認ということを間違って読み取ってしまいます。アブラハムが神様の言葉を信じたということを、ユダヤ人たちは、<人間の常識ではあり得ないことを、神様がおっしゃるので信じるというすばらしい信仰の行為を行ったので、神様がそれを評価して義とされたのだ>と考えました。これだと信仰に基づく善い行いをしたことが評価されたということであって、パウロが言う信仰義認(信仰が義と認められること)とは違います。そこでは、信じるということ(信仰ということ)が善い行いになってしまっています。では、パウロが言う信仰義認とはどういうことでしょうか。

2.ダビデの幸い――罪を覆い隠される幸い

 そのことをはっきりさせようとしているのが、次の4節以下であります。45節でこう言っております。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。――働いた者に対して支払われる報酬というのは、恵みとは違いますね。雇い主の方に支払うべき義務があります。信仰ということを、私たちが神様のためにする善い行いのように考えると、その善い行いに対する報酬として、神様が恵み(救い)を報酬として支払わなければならないことになります。神様が負い目を持っているということになってしまいます。そんなことはありません。全く逆です。私たちの方が神様に対して「不信心」という罪の負い目を持っています。私たちが神様を蔑ろにし、神様の御心に背いてばかりいます。そして神様との関係を壊しています。それが私たちの現実であります。しかし、そんな「不信心な者」をも義としようとされるお方が神様であります。「働きがなくても、その信仰が義と認められます」と言っております。神様に喜んでいただけるような働きが私たちにはなくても、義としようとなさるのが神様であります。そのためにこそ、御子イエス・キリストを送ってくださって、その贖いの御業によって、私たちが支払うべき負い目を代わって負ってくださったのであります。それが赦しということであります。私たちの信仰という善い行いが評価されて義とされるのではありません。神様の方が一方的に、不信仰な私たちを赦されるのです。それが福音であります。

 その福音を示す歴史的な事例として、68節でダビデのことを取り上げています。6節で、同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています、と述べたあと、78節に引用されているのは詩編32編の12節からのものですが、「不法を赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである」と歌われています。ご存知のように、ダビデは自分の部下であるウリヤの妻バト・シェバを見初めて、ウリヤを戦闘の激しい最前線に送って戦死させて、彼の妻を奪うという大きな罪を犯したのですが、そのことを預言者ナタンによって指摘されて歌ったとされているのが詩編51編で、32編とよく似た内容となっています。32編の続きを見て行きますと、5節でこう歌われております。「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました。『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」――このようにダビデは自分の罪を告白して赦されたことを「いかに幸いなことでしょう」と歌っているのであります。これは正に、行いにはよらずに、罪を赦されたことの幸いを感謝しているのであります。これをもってパウロは「信仰義認」ということを、罪が赦されることと同じことだと考えていることが分かります。つまり、信仰が義と認められるということは、信仰という行為が評価されて正しいと認められるということではなくて、あくまでも神様の恵みによって、一方的に赦されることなのだ、ということであります。

 なお、詩編を引用した7節に「罪を覆い隠された」という言葉があります。この言い方は、罪を隠し、誤魔化すような意味にもとれますが、ここではもちろんそういう意味ではありません。罪をそのまま放って置いて蓋をするというようなことではなくて、きちんと償いをして、赦してくださるということであって、神様との間の傷付いた関係が修復されるということであります。そのことが単なる人間の夢や勝手な期待ではないということが、最終的に明らかになったのが、イエス・キリストの十字架の出来事であります。

3.信仰と割礼――義認の証し

 9節以下には「割礼」のことが論じられています。最初に、では、この幸いは、とあります。この幸いというのは、78節で「幸いである」とあるのを受けていますが、それは行いによらないで、信仰によって義と認められるという幸いであります。その幸いは割礼を受けた者だけに与えられるのか、割礼のない者にも及ぶのかということです。「割礼」というのは、ユダヤ人の男の子が生まれて八日目に肉体に刻まれる印(しるし)のことで、そのことが定められたのは創世記17章に書かれています。アブラハムが九十九歳になったとき、神様は「あなたは多くの国民の父となる」と言われ、「カナンのすべての土地を、あなたとあなたの子孫に与える」と約束されて、彼に続く子孫、即ちユダヤ人はその約束の印として割礼を受けるべきことを命じられたのでありました。ですからユダヤ人は、この割礼を受けていることが神様の救いにあずかるための条件だとして、異邦人は救いにあずかることが出来ないと考えていました。それに対してパウロは10節でこう言います。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。――つまり、「割礼」のことを定められたことが書かれているのは創世記の17章ですが、「アブラハムの信仰が義と認められた」ということが書かれていたのは、それよりも前の15章でありました。そこでパウロは11節にあるように、アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました、と言っているのであります。つまり、割礼は救われるための条件ではなくて、神様の恵みによって罪を赦され、義とされた、その幸いの証しとして(印として)与えられたものである、ということであります。罪を赦され、義とされたということは、目には見えない出来事であります。霊的な現実であります。それを目に見えるしるしとしたのが割礼であります。
 このユダヤ人の割礼と同じ意味を持つものとして私たちに与えられているのが、洗礼であります。洗礼も、救われるための条件ではありません。形の上で洗礼を受ければ救いが保証されるというものではありません。洗礼は救いを受け入れた証しとして(印として)授けられるものであります。――それでは、どうすれば救いを受けることが出来るのでしょうか。12節でアブラハムのことをこう記しています。更にまた、彼(アブラハム)は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。――つまり、アブラハムは割礼を受けたユダヤ人の父でありますが、それだけではなくて、アブラハムが割礼を受ける以前の創世記15章で、天を仰いで満天の星を見て、神様の言葉を信じた時に信仰を持っていました。更にはそれ以前の12章で、神様の召しに従ってハランを出発した段階から与えられていた信仰がありました。その信仰の模範に従うことが必要だということであります。あのアブラハムの歩みに私たちの歩みを重ね合わせることが必要だということであります。

結. 実現する神の言葉

 しかし、アブラハムの歩みに重ね合わせるということが、アブラハムの信仰の行為を形の上で真似るということになったのでは、行いによって救いを得ると考えたユダヤ人の考えに戻ってしまいます。アブラハムの歩みも決して理想的な信仰の歩みではありませんでした。神様の約束を信じられなくなって、不信仰が顔を出しそうになることもありました。ダビデも大きな罪を犯してしまいました。そんなアブラハムやダビデを神様はお見捨てにならずに、彼らをお赦しになって、御自分が約束されたことを貫き通されたのでありました。そして、決定的には、すべての人の罪を主イエスの十字架と復活によって贖うという形で、罪の赦しを恵みとして与えられることによって、救いを完成され、約束の言葉を実現されたのであります。そのことを信じて受け入れということが、私たちにとってのアブラハムの模範に従うということであり、信仰によって義と認められるということなのであります。 祈りましょう。

祈  り

アブラハムを導き、ダビデの罪を赦し給うた父なる神様!御名を賛美申し上げます。
  あなたはまた不信仰な私たちにも、このように御言葉をもって出会ってくださり、約束してくださっている救いの道、信仰の道から外れることがないように導いてくださいますことを感謝いたします。
  私たちは迷いやすい者であり、罪の深みに陥りやすい者であります。どうか、絶えず御言葉をもって導いて下さい。どうか、素直にあなたの御前にぬかずき、従って行く者とならせてください。そしてどうか、信仰による義を貫く生涯を歩み通すことが出来るようにして下さい。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年4月17日  山本 清牧師 

 聖  書:ローマの信徒への手紙4:1-12 
 説教題:「
義と認められる」         説教リストに戻る