イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
                       (マルコによる福音書112728 

 主イエスは神殿から商人を追い出して、宮清めを行われた。それは神の権威が行使されるべき所で、人間の利益や安心のために神が利用されていたからで、主イエスはそこで神の子としての権威を行使されたのだ。だが、祭司長、律法学者、長老たちは、自分たちの権威の場が損なわれたと脅威を感じて、標記のように主イエスの権威を問うた。彼らは、主イエスの権威を認めたくないのである。主イエスの弟子たちも、自分たちの立場や権威が高められることを期待していて、主イエスの権威が十字架に至るまで人に仕えることによって、人の罪を赦し、人に命を与える権威であることを理解していなかった。私たちもまた、自分の人生や生き方に変更を迫る権威者に立ち入ってほしくないところがあるのではないか。
 祭司長たちの問いかけに対して、主イエスは逆に、「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と問い返された。これは、ヨハネが行なっていた洗礼の権威を問うものであり、罪を認めて悔い改めて、神の権威の下に立ち帰ることを求める問いであった。だが彼らは、ヨハネの権威も主イエスの権威も認めることが出来ず、群衆を恐れて、「分からない」と答えた。こうして彼らは、悔い改めて神の権威に服する機会を捨てた。それに対して主は、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」との厳しい言葉を返された。
 これは、主イエスがうまく彼らの追及をかわされたということではない。
  主イエスはこれで彼らとの関わりを終えられたのではなく、この後、彼らとの対決は一層厳しくなり、ついには十字架に架けられることになる。こうして、人間の目には主イエスの権威が失墜し、彼らの権威が保たれたかに見えたのであるが、真の権威とは、十字架に至るまで御自分の名誉を棄てて神の権威に従順であられ、罪深い人に対する愛を貫かれたところにこそある。この十字架の権威によって神殿(礼拝)の権威が建て直され、神の国の支配が始まったのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2016年4月10日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書11:27-33 
 説教題:「
教会を建て直す権威」 説教リストに戻る