序. 何の権威で?――私たちの問い

 イースターの前後1か月はルカによる福音書によって、主イエスの十字架と復活の場面から御言葉を聞いて参りましたが、今日からは、福音書についてはマルコ福音書に戻って、順に読み進んで参りたいと思っております。
 マルコ福音書の今日の箇所から後には、主イエスとユダヤ教指導者たちとの五つの問答(論争)が書かれていて、その最初が「権威についての問答」であります。この日も主イエスと弟子たちの一行はエルサレムの神殿に来られていました。前回学んだ15節以下には、いわゆる「宮清め」と呼ばれる出来事が書かれていて、神殿の境内で売り買いをしていた人々を追い出されたのでありましたが、これを聞いた祭司長や律法学者たちは、「イエスをどのようにして殺そうかと謀った」と書かれていました。というのは、神殿は彼らが権威をもって治めているつもりの場所でありますが、その場所で主イエスが神殿の権威者であるかのような行動をとられたからであります。そこで今日の箇所では、祭司長、律法学者、長老たちがやってきて、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」という問いをしかけて来ました。祭司長、律法学者、長老たちと言えば、ユダヤの最高議会であるサンヘドリンを構成するメンバーであって、宗教的・政治的に高い権威を持つ人たちであります。それに比べると、主イエスは何の権威も持っておられません。主イエスは地方の会堂で説教されることはあったようですが、ユダヤ教の正式なラビ(教師)としての資格をお持ちであったわけではありません。一介の大工の子に過ぎません。当時の仕組みの中では、主イエスは何の権威もお持ちではなかったのであります。
 けれども、主イエスは地方の会堂では「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」ということが、この福音書の122節に書かれていました。また、2章には、四人の男によって運ばれて来た中風の者に対して主イエスが「あなたの罪は赦される」と言われると、そこにいた律法学者たちが心の中で「神を冒涜している」と考えていることを見抜かれて、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われて、中風の者を癒されたことが書かれていました。このような主イエスの権威ある言動に、当時、自分たちこそ権威を持っていると思っていたこの人たちが脅威を感じて、敵意を覚えたのは当然であったかもしれません。彼らは自分たちの権威を守るために、攻撃を仕掛けて来たのであります。
 今日の箇所を、このような当時のユダヤの権力者と、権威をもって行動されている主イエスとの単なる権力争いとして見るならば、私たちとは関係のない出来事になってしまいます。主イエスがこの日、神殿にやって来られましたが、神殿とは礼拝するところであります。主イエスは私たちの行なっているこの礼拝の場所にも来られます。宮清めをされた時に、主イエスは「わたしの家は、すべての人の祈りの家と呼ばれるべきである」とおっしゃいました。この礼拝の場所も「わたしの家」すなわち、「主イエスの家」であります。主イエスこそ、この場所の主人公であり、私たちの礼拝を司り、御支配なさるお方であります。そのことを正面切って否定する人はここにはいないと思います。しかし、私たちが主イエスを本当にそのようなお方として受け入れて、その方に相応しく、自分の全てを主イエスに差し出しているかどうか、ということになると、極めて疑わしいのではないでしょうか。私たちは、それぞれに自分の人生を持っております。人生というものは、なかなか自分の思い通りには行かないものではありますが、それでも私たちは、自分の人生はそれなりに自分が支配していると思っているのであります。そこへ、自分の人生を侵すように入り込んで来るものに対しては警戒をいたします。自分が支配していると思っている領域に立ち入ってほしくないのであります。そのような私たちの前に、服従を迫るような別の権威者が迫って来ることは脅威なのであります。主イエスは神の権威をもって私たちの前に立たれます。そして私たちの生活の中、人生の中心に入り込もうとなさいます。これは私たちにとって脅威であります。私たちはそのような権威者に素直には従えないのであります。そして、祭司長、律法学者、長老たちと同じように、「何の権威で、このようなことをするのか」と、主イエスの権威を問うことによって、自分を守ろうとするのであります。――では、主イエスはこのような問いにどのように対応されるのでしょうか。

1. 神殿から商人を追い出したイエス

 その主イエスの対応を見る前に、先の「宮清め」の時に、主イエスがどのように言われたか、そしてそれに対して祭司長や律法学者たちがどう考えたかを、もう一度振り返っておきたいと思います。
 主イエスはイザヤ書の言葉を引用しながら、「『わたしの家は、すべての国の人の、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった。」17)と言われました。当時の神殿で祈りが行われなかったわけではありませんが、動物の犠牲を献げる儀式が中心になっていて、心からの悔い改めや献身の祈りが失われていました。神様の前に自分が打ち砕かれて、御心に聴き従うということがなければ、祈りの家とは言えません。主イエスが「強盗の巣」とおっしゃったのは、祭司や商売人が不当な利益を得ているという意味も含まれているでしょうが、それ以上に、本来神様に属するべきものを神様から奪っているという意味での「強盗」とおっしゃったのであります。神殿は神様が権威を行使されるべき所であります。しかし、神様の権威が損なわれて、人間の利益や人間の安心のために神様が利用されているとするならば、それは「強盗の巣」であります。「祈り」とは、神様に属するものを神様に帰することであって、自分に欲しいものを神様から奪い取ることではありません。私たちの教会での礼拝もそうなっていないかが問われているのであります。
 そのような問いかけを聞いて、祭司長たちや律法学者たちは、主イエスをどのようにして殺そうかと謀りました。そして主イエスは十字架への道をまっすぐに突き進んで行かれることになるのであります。主イエスの十字架とは、それまでの犠牲の動物の代わりに、御自分が人々の罪のために犠牲の供え物となられることであります。神の子である主イエスが犠牲になられれば、もはや動物の犠牲は要らなくなります。そうすれば、神殿の境内で動物を売る必要がなくなり、礼拝の仕方も全く変わるのであります。そして、イザヤが「祈りの家と呼ばれるべきである」と言ったことが、本当の意味で実現するのであります。主イエスはそのようにして、神殿の建て直し、つまり礼拝を改革し、新しく教会を建てようとしておられたのでありました。

2. 権威の衝突

 しかし、そのことを理解できない祭司長、律法学者、長老たちは、自分たちの権威の場が損なわれることに脅威を感じてしまいました。そこで、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そういう権威を与えたのか」と論争を挑んで参りました。ここで彼らの言う権威とは、直接的には神殿の運営に関する決定権とか、ユダヤ教のラビだけに与えられる権威のことでしょうが、主イエスと彼らとの間では色んな権威についてぶつかって来ました。先ほど触れましたように、主イエスは罪を赦す権威を行使されましたが、彼らはそれを冒涜だと考えました。彼らは主イエスが徴税人と一緒に食事をされているのを見て批判しましたが、主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われて、彼らの「人を審く権威」に対して「人を赦す権威」を行使されました。また、弟子たちが手を洗わないで食事をしていることを彼らは非難しましたが、主イエスは「人間の言い伝えを大事にしているが、神様の掟をないがしろにしている」と言われて、彼らの偽善を指摘され、人間の言い伝えではなくて、神様の御言葉にこそ権威があることを示されました。

権威に対するこのような誤った理解は、当時の指導者たちだけでなく、弟子たちの中にもありました。主イエスが一回目の受難予告をされた時、ペトロは主イエスをいさめ始めました。そこで主イエスは「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われ、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。自分の権威を高めることではなく、自分を捨て、十字架道を歩むことにこそ使命があることを示されました。二回目の受難予告の後では、弟子たちは誰が一番偉いかを議論していましたが、主イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられました。三度目の受難予告の後では、ヤコブとヨハネが「主が栄光をお受けになるとき、わたしどもをあなたの右と左に座らせてください」と願いましたが、主イエスは「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と言われて、人の上に立つことに権威があるのではなく、十字架に至るまで人に仕えることにこそ、人に真の命をもたらす権威なのであります。――このように、当時の指導者だけでなく、弟子たちも、そして私たちも、自分たちの権威を高め、権威を振りかざすことに腐心しているのでありますが、主イエスの権威は人のために仕え、人のために命を与える権威なのであります。

3. ヨハネの権威――悔い改めを求める権威

 さて、主イエスは祭司長、律法学者、長老たちの問いかけに対して、逆に主イエスの方から問い返されました。29節です。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
 ここで主イエスが洗礼者ヨハネを持ち出されたのは、一つにはヨハネが主イエスの先駆者として、主イエスが来たるべき救い主であることを証ししたということがあると思われます。そのヨハネが天から、即ち神から権威を与えられているとすれば、ヨハネが証しした主イエスも神からの権威を与えられているということになります。
 しかし、ここでの主イエスの問いで大事な点は、「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、人からのものだったか」と、ヨハネが行なっていた洗礼の権威を問うておられることであります。14節によれば、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ました。マタイ福音書によれば、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(378)と言って、罪を告白して悔い改めた者に洗礼を授けたのであります。悔い改めというのは、単に<自分が悪かった>と認めるだけのことではありません。神に従っていなかった自分の罪を認めて、神の権威のもとに服従するということであります。ですから、ヨハネの洗礼を受けるということは、自分の罪を認めて、神の権威のもとに立ち帰るということであります。それは即ち、ヨハネが救い主メシアとして指し示した主イエスの権威のもとに服するということにもなります。――主イエスはここでヨハネを持ち出されることによって、御自分が神から権威を与えられているのであり、この神殿でも、その権威によって振舞っておられることをお示しになったのであります。祭司長、律法学者、長老たちは、自分たちがこれまで持っていた地上の権威にしがみついて、自らの罪を悔い改めることをしませんでした。そして、ヨハネの洗礼の権威を認めることをしませんでしたし、従って主イエスの権威も認めなかったのであります。
 主イエスの問いに対して、彼らは困惑して論じ合います。彼らはヨハネの悔い改めの洗礼の信実性を認めざるを得ません。そして、その背後に神の権威があることを認めざるを得ません。そうすれば、ヨハネが指し示している主イエスの権威を認めることになってしまいます。
 彼らは、3132節にあるように、「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば……」と論じ合いました。彼らは群衆を怖がっていました。群衆はヨハネの洗礼を支持しており、ヨハネを預言者だと思っていたからであります。
 こうして主イエスがヨハネのことを持ち出すことによって、うまく彼らに反撃されたことを、私たちはただ感心している場合ではありません。この主イエスの言葉によって、私たち自身が問い返されていることに気づかなければなりません。――私たちのことに引き戻しますならば、私たちも主イエスのお言葉や御業の権威を問いながら、それに素直に従おうとしない者たちであります。そんな私たちに対して、主イエスは、「ヨハネの洗礼は天からのものだったのか、それとも、人からのものだったか」と問い返されます。これは、<あなたは神の御前に悔い改めるべき罪があるのではないか>という問いかけと同じであります。<あなたの生き方は、自分中心であって、神様を脇の方に追いやった生き方をしているのではないか>という問いかけであります。主イエスの問いかけに対して、私たちは素直に「天からのものだ」とは答えられないのであります。そう答えたら、自分のすべてを主イエスの前に差し出さなければならないからであります。本気で回心して、自分がこれまでにしがみついて来たものを捨てなければならないことになるからであります。

4.「分からない」/「わたしも言うまい」

 さて、主イエスの問いに対して、困った祭司長、律法学者、長老たちは、論じ合った結果、「分からない」と答えました。彼らは決断を放棄したのであります。悔い改めの決断をする機会を捨てたのであります。私たちはこれを笑うことはできません。私たちは権力者ではありませんから、群衆を恐れる必要なないかもしれませんが、私たちには家族や隣近所のことが気になるかもしれません。伝統的な習慣や宗教とどう折り合うかという問題をすっきりと割り切ることが出来ないよう思えます。日曜日に家族や世間の人と同じように付き合うことが出来なくなることへの抵抗があるかもしれません。なるほど聖書にはすばらしいことが書いてあるけれども、自分はまだそれに全部を委ねるところまで行けない、という思いがあるかもしれません。
 「分からない」という答えは、一番安易な逃げ口上であります。<聖書に書いてあることは難しいし、キリスト教の教えは深くて、私にはまだ十分分かりません>と言っておれば、誰も責めはしません。――これは、まだ信仰を告白していない求道者のことだけを言っているのではありません。長く信仰生活を続けて来た人であっても、「分からない」ということが往々にして言い訳になり、逃げ口上にされるのであります。
 しかし、主イエスは「分からない」と答えた人たちに対して、こう言われました。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」――こう言って主イエスはうまく彼らの攻撃をかわされたと感心している場合ではないでしょう。これは私たちに対しても、大変厳しいお言葉ではないでしょうか。自分たちの権威や立場が崩れることを怖れて、真実の権威を認めることの出来ない人の前では、主イエスもそれ以上、神の権威について語ることをお止めになるのであります。主イエスの権威を認めて、その権威の前に素直に跪くことをしない者は、もはや真実の権威について聴くことが出来ず、サタンの権威の前に跪くことになりかねないのであります。

5.十字架の権威

 しかし、主イエスはこれでもって、彼らとの関わりを終えられたわけではありませんし、私たちを見捨ててしまわれるわけでもありません。この後、祭司長、律法学者、長老たちとの対決は一層厳しくなって行きます。そして、ついには、主イエスは十字架に架けられておしまいになります。こうして、人間の目には、主イエスの権威は失墜し、彼らの権威が保たれたかに見えるのであります。彼らは主イエスを十字架に架けることが出来てホッとしたかもしれません。彼らは<これで勝利できた>と思ったでしょう。
 ところが、本当の勝利は逆転していました。十字架に至るまで御自分の権威を捨てて、神の権威に従順であられ、人々に対する愛を貫かれたところに真の権威が示されたのであります。それは、形式や人の評価に囚われない、自由な権威であります。御自分の権利や名誉を捨てて、徹底的にへりくだって人に仕える愛と自由の力による御支配であります。――ここに真の権威があります。真の勝利者、真に権威を持つお方は主イエスであります。私たちは、「分からない」と言って、決断を先延ばしにして、その場を凌いで、自分の支配領域を確保することによって、自分の権威を保とうとする愚かな者でありますが、主イエスはそんな私たちのためにも、御自分の権威を立てずに、私たちを神様の権威の下から見捨てられないように救ってくださいました。そこにこそ本当の権威があります。

結. イエスの権威による礼拝の開始

 主イエスはこうして、十字架の権威によって神の国を打ち立てられました。そして、その主イエスの権威のもとに、私たちの礼拝は行われています。そこでは神の国が既に始まっています。神様の御支配は罪多い私たちにも及んでいます。頑なな私たちをも、主イエスは悔い改めへと導いてくださり、主に従って行く者に変えてくださいます。主を真の権威者として仰ぎつつ、主に従って歩むことの出来る者へと変えてくださいます。その恵みを、感謝を持って受け取り、応答する者とされたいと思います。 祈りましょう。

祈  り

真の権威者であられるイエス・キリストの父なる神様!御名を賛美いたします。
  主イエスが今日も、御言葉の権威をもって、この礼拝に来てくださり、この世の諸々の権威や自分の権威にしがみつこうとする私たちを解放してくださいましたことを感謝いたします。
  どうか、すべてを主イエスに委ねて従って行く者とならせて下さい。
  どうか、まだ「分からない」と言って、主に委ねることをためらっている人々にも、あなたの愛と赦しの恵みに満ちた権威を覚えさせてくださり、素直に御前に跪く者とならせてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年4月10日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書11:27-33 
 説教題:「
教会を建て直す権威」         説教リストに戻る