話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。             (ルカによる福音書241516  一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 (同243031

 十字架につけられ墓に葬られ主イエスが、三日目の朝に復活されたその日、十二人以外の二人の弟子がエルサレムを離れてエマオに向かっていた。彼らは主イエスこそイスラエルを解放する方として大きな期待をかけていたが、十字架に架けられたことで落胆してしまい、この日の朝、婦人たちが墓に行ってみると空であったことや天使が現れて「イエスは生きておられる」と言ったことなどの情報も得ていながら、主イエスが復活されたと受け止めることが出来ず、もはやエルサレムに留まっている理由を見出せなかったのである。
 こんな二人に、主イエスの方から近づいて、一緒に歩き始められた。だが、彼らの霊の目が閉じられていたので、目の前の主イエスをそれと認識することが出来なかった。そんな二人のために、二つのことをされた。
 第一は、二人が話し合っていたこの日の出来事について質問することによって、彼らに一連の出来事をもう一度思い起こさせると共に、旧約聖書の中でメシアは苦しみを受けて栄光に入ることが預言されていることなどを説き明かされた。彼らはそれを聞いて、聖書の預言と主イエスの御業が少しずつ結びつくことによって、心が燃える思いを覚えた。
 しかし、それだけでは彼らの霊の目はまだ開かれなかった。一行がエマオに着いて、一緒に泊まることになって、食事の席についたとき、主イエスが標記のようになさる様子を見て、二人の目が開けて、イエスだと分かった。ところが、その途端に主イエスの姿は見えなくなった。それは、霊の目(信仰の目)が開かれたので、もはや主イエスのお姿を肉の目で見る必要がなくなったからである。
 主イエスは私たちの礼拝においても、不信仰な私たちに近づいて来て一緒に歩いてくださる。そして、御言葉の説き明かしと共に行われる聖餐にあずかる時に、霊の目が開かれ、主イエスの復活を信じる者とされ、罪赦されて、私たちの新しい命に甦ることができるのである。
 二人の弟子は、復活の主に出会ったので、直ちに方向転換してエルサレムに戻った。そこは失意のどん底に突き落とされる体験をした場所であったが、そこが、仲間と共に復活の出来事を語り合い、救いの喜びを人々に伝える教会の働きの場となったのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2016年4月3日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書24:13-35 
 説教題:「
復活の主と共に」 説教リストに戻る