序. 復活の知らせを聞いたものの

 先週のイースターの礼拝では、子供たちと一緒に、フランネルグラフを用いて、主イエスの復活と弟子のペトロの復活の物語を聴きました。ペトロはどんなことがあっても主イエスに従って行こうとしていたのですが、主イエスが捕らえられ、裁判にかけられると、主イエスのことを知らないと言って、主を裏切ってしまいました。そんなペトロでしたが、復活された主イエスは彼をお捨てになるのではなく、赦しの愛をもって出会ってくださって、立ち直らせてくださり、もう一度弟子として復活させられたのでありました。そして、このペトロの復活の物語は、不信仰で主イエスを裏切ってしまいがちな私たちをも、主イエスの愛と赦しをもって立ち直らせてくださるという、私たちの復活の物語にもつながることを聴いたのでありました。
 そのように、私たちは主イエスの復活の命にあずかることが出来る者たちとされているのでありますが、日常の生活に戻って、現実の様々な問題にぶつかる中で、自分が復活の命に生きている者であることも、復活の主イエスが私たちと一緒にいてくださることも忘れてしまうのであります。そして、主イエスが復活して今も生きて働いておられることが信じられなくなったり、主イエスと共に歩む生活から遠ざかってしまったりしてしまうのであります。
 そんな私たちのために、今日は先ほど朗読していただいた「エマオで現れる」という小見出しの記事が与えられています。ここに記されている出来事は、先週のイースター礼拝では取り上げませんでしたが、十二弟子以外の二人の弟子が復活の主イエスに出会った物語であります。主イエスが復活なさった日、彼らも主イエスの復活に伴う色々な情報を耳にしていたのですが、主イエスの復活を信じられなかったようであります。そんな二人を、復活の主イエスは放っておかれませんでした。復活の主は、この二人の弟子の物語を通して、今日、私たちにも出会ってくださろうとしておられるのであります。

1. 遮られた目、暗い顔――打ち砕かれた望み

 さて、今日の箇所の初めの1314節にはこう書かれています。ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。
 ちょうどこの日」というのは、主イエスが復活された「週の初めの日」、日曜日のことであります。「二人の弟子」の一人の名前は18節にクレオパと書かれています。もう一人の名前は記されていませんので、色々推察されています。クレオパの妻で、一緒にエマオの自宅に帰ろうとしていたのではないかという推察があります。また、ヨハネ福音書には十字架のそばにいた人々の中に「クロパの妻マリア」とありますが、このクロパと同一人物ではないかという説もありますが確かなことは分かりません。ある人は、無名の弟子であることによって、この人に起こった出来事が教会の共通の財産になるのだ、ということを言っております。つまり無名の弟子である私たちと重ね合わせることが出来るからであります。「エマオ」というのはエルサレムから六十スタディオンとありますから約11㎞で、歩いて23時間のところにある村であります。
 何のためにエマオに向かっていたのかは書かれていませんので分かりませんが、過越しの祭のために来ていて、自宅に帰ろうとしていたのかもしれませんし、何か所用があったのかもしれないのですが、多くの人はエマオに行く目的よりもエルサレムから離れようとしていたことに注目いたします。この人たちは主イエスの弟子であったのですから、これまでは主イエスと行動を共にすることが多かったと思われます。19節を見ますと、「この方(主イエス)は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」と語っていて、主イエスに対する心酔ぶりが伺えますし、21節を見ますと、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」とも言っており、主イエスに対して大きな期待をかけていたのであります。ですから、もし三日前の主イエスの十字架という出来事がなかったら、余程のことがない限り、主イエスが滞在しておられたエルサレムに引き続き留まっていた筈であります。しかし、主イエスが亡くなられて、もはやエルサレムに留まる理由はなくなりました。十字架の次の日は安息日でしたから、神殿に行って礼拝したかもしれませんし、移動することは許されませんので、安息日明けのこの日にエルサレムを離れたということかもしれません。
 けれども、注目すべきは、14節に、この一切の出来事について話し合っていた、とあり、2224節を見ますと、ところが、仲間の婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした、と言っているように、週の初めのこの日に起こった出来事に関する情報を得ているのに、そのことを主イエスの復活と受け取ることは出来ず、従って、エルサレムに留まっていることはせず、15節にあるように、不思議な出来事として、話し合い論じ合っているだけだったのであります。
 そんな二人に、復活の主イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められるのですが二人の目は遮られていて、イエスだとは分からず、17節によると、二人は暗い顔をして立ち止まった、と記されています。これらから明らかなことは、この人たちは目に見える世界のことしか分かっていなかったということであります。彼らは主イエスに大きな望みをかけていました。しかし、主イエスが十字架に架けられて死んでしまわれたことによって、その望みは打ち砕かれてしまったのです。この日に婦人たちから聞いた情報は何も役に立っていません。二人の「暗い顔」はそのことを物語っております。
 私たちはどうでしょうか。私たちもまた見える世界のことには望みを抱き、その実現に向けて努力もするのですが、それが実現しないと落胆して、暗い顔になってしまうのであります。せっかく聖書を通して、またイースターの礼拝説教によって、主イエスの復活の出来事について聴いても、それを不思議な出来事として話し合い論じ合っているだけでは、心の中に喜びが湧き上がることはなく、暗い顔が明るくなることはありません。では、そのような状態から脱出するには、私たちがもっと聖書をよく勉強するとか、礼拝に通い続けるとかして精進努力を積み重ねなければならないということでしょうか。そうではありません。復活の主イエス御自身が働きかけてくださいます。

2. 近づいてきて、一緒に――共に歩いてくださる主

 15節を見ますとこう書かれています。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。この日、主イエスに何が起きたのかを理解できず、ただ不思議がって論じるだけの二人の弟子に、主イエスの方から近づいて、一緒に歩き始められたのであります。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかったのであります。目が見えなくなっているわけではありません。肉体の目は開いているのですが、霊の目が開いていないので見えないのです。主イエスの復活というのは、確かに体が甦ったということであって、夢でも幻でもありません。肉体の目をもって見える筈の出来事でありますが、霊の目が開いていないと、目の前の主イエスをそれと認識することができないのであります。このことは、ヨハネ福音書に書かれている、ガリラヤ湖畔で復活の主イエスがペトロたちに現れた時もそうで、最初は主イエスだとは分からず、「舟の右側に網を打ちなさい」とおっしゃって、そのようにしてみると、おびただしい魚がとれたことで、愛弟子のヨハネが主イエスだと気付いたということでありました。このように、肉体の目が開いているだけでは、復活された主イエスに出会っていても気づかないのであります。これと同じように私たちも、主イエスの復活の出来事を、礼拝において聖書を通して聞いていながら、霊の目が開いていないために、そのことを信じることが出来ず、従ってその喜びにあずかることが出来ないでいることがあるのであります。

しかし、ここで大事なことは、二人が気づく前に、主イエスの方から彼らに近づいて、一緒に歩いておられたということであります。そしてそのことは、私たちに対しても同じであるということです。私たちは主イエスが一緒に歩いていてくださっていることに気づいていないかもしれません。あるいは一緒に歩いていてくださることを忘れて日々を過ごしているかもしれません。そして、満たされない思いの中で、暗い顔をしてばかりいるか、無関心でいるかもしれません。しかし、私たちが気づく前に、復活の主イエスは既に、私たちと一緒に歩んでくださっているということです。しかも、一緒に歩いてくださるだけではありません。私たちの霊の目が開かれるために、大事な二つのことをしてくださいます。

3. 聖書の説き明かし――説教

 一緒に歩きはじめられた主イエスが二人の弟子たちにされた第一のことは、17節にあるように、イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言って、二人の会話に入って来られました。二人はこの数日エルサレムで起こったこと、主イエスがどんな方であったか、主イエスが十字架に架けられたいきさつ、そして、この日の朝、仲間の婦人たちが墓で見聞きしたことを全部話しました。主イエスは当然、彼らが話したことは全部知っておられます。けれども、主イエスは二人に質問されることによって、彼らが十字架から復活に至る一連の出来事を、もう一度思い起こすことが出来るようになさいました。そして最後には、天使たちが現れ、「イエスは生きておられる」と告げたことも思い出して話しました。しかし、そこまで話しても、この人たちはまだ、何が起こっているのか理解しておりません。目の前におられる方が誰かが分かっていません。彼らの目が開かれるためには、もうひと押し、二押しが必要でありました。
 25節から27節を見ますと、こう書かれています。そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自身について書かれていることを説明された、のであります。
 ここで「聖書全体」というのは旧約聖書のことですが、そこに書かれていることは、ヨハネ福音書でも主イエス御自身がおっしゃっているように、「聖書(旧約聖書)はわたしについて証しするもの」であります。今日の旧約聖書の朗読で聞きましたミカ書5章も、直接にはベツレヘム出身のダビデ王のことを語っているのですが、それはメシアである主イエスのことを指し示しているのであります。メシアというのは、二人が思い違いしたように、政治的に人々を解放するのではなくて、「苦しみを受けて、栄光に入るはずではないか」と言われているように、十字架に架かって人々の罪を担ってくださることによって、悪に勝利し、栄光をお受けになる、即ち、復活の命に甦られるはずではなかったのか、と言われて、イザヤ書の苦難の僕の預言などを思い起こさせておられるのであります。
 このあと、エマオで二人の目が開かれてからのことですが、32節に、二人は、「道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った、と書かれています。主イエスから旧約聖書の説き明かしを受けて、すぐに目の前の方が主イエスだと気付いたわけではありませんでしたが、主イエスの十字架の死によって落胆していた二人に、旧約聖書の預言と主イエスの御業が少しずつ結びつくことによって、心が燃える思いを覚えたのではないでしょうか。それは、単に感動したということではなくて、そこに聖霊の働きがあって、聖書の言葉と主イエスの御業が結びつくことによって、そこで行われたことが今の自分に関わるのだという思いに結びついたということではないでしょうか。復活の主イエスが共にいてくださることに私たちが気づくには、このように、一つには、聖書の説き明かしを受けること、礼拝で説教を聴くことが欠かせないのであります。

4.パンを裂いてお渡しになると――聖餐

 しかし、聖書の説き明かしだけでは、二人の目が開かれたわけではありませんでした。一行は目指すエマオの村に近づきました。主イエスはなおも先へ行こうとされる様子だったようですが、二人はもっと聖書の話を聞きたいと思ったのか、一緒に泊まるように引き留めて、一緒に食事の席に着きました。そのとき30節以下にあるように、主イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった、のであります。そこが宿屋だったのか、二人の家であったのか分かりませんが、このときは主イエスが主人であるかのように、パンを裂かれました。それは主イエスと弟子たちが一緒に食事をするときの様子を思い出させるものであったのでしょう。その様子を見て、二人の目が開かれました。死んでしまわれたと思っていた主イエスが、今、共にいてくださることに気づいたのであります。
 このことは、私たちの中に主イエスの復活を信じる信仰がどのようにして生まれるのかを示しています。二人は「イエスが生きておられる」という知らせを聞いただけでは信じられませんでした。また、二人がその日に得た情報についてあれこれ論じ合っていても、気づくことはできませんでした。道々、主イエス御自身が聖書の説明をしてくださった時さえも、心は燃えましたが、まだ目の前の方が主イエスだとは気づかなかったのであります。主イエスの復活を信じる信仰は、主イエスと共に食事の席について、主イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったときでありました。つまり、主イエスのお体にあずかるという体験をすることによって、十字架の御業の意味と、今も生きて働きたもう主イエスに出会っていることに気づかされるということであります。これは、教会の礼拝において行われる聖餐を意味しております。御言葉の説教とともに行われる主イエスの食事にあずかるときに、主イエスの復活を信じる者とされ、罪赦されて、私たちも新しい命に甦ることができるのであります。

5.二人の目が開ける/姿は見えなくなる――信仰へ

 ところで、このとき、二人の目が開け、イエスだと分かったのですが、その途端に、その姿は見えなくなった、と記しております。これはどういうことでしょうか。二人が主イエスの復活を信じることが出来なかった間は、主イエスは目に見える姿で二人と共に歩み、言葉を交わすことも出来たのでありますが、それが復活された主イエスだと分かり、主イエスが生きて、共にいてくださることを信じることができた途端に、そのお姿は見えなくなりました。それは、もはや主イエスのお姿をこの目で見る必要がなくなったからであります。
 私たちが洗礼を受けて信仰者として生きるということは、復活して今も生きておられる主イエスが、目には見えないのですが、私たちと共にいてくださることを信じて生きるということです。これは目に見えないことですから、不確かなことのように思えるかもしれませんが、どんな困難な状況の中でも、希望が見出せないように思える状況の中でも、共に歩いてくださる主イエスによって、困難を乗り越える力が与えられるし、希望を持ち続けることが出来るのであります。私たちの教会、この伝道所の実状も、見た目には寂しい状況でありますが、主イエスが共に歩んでいてくださることを信じることが出来ますので、落胆することなく、希望を持ち続けることが出来るのであります。

結. エルサレムに戻る――復活の恵みを共有する群れへ

 最後に、33節以下を御覧ください。こう書かれています。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。――二人はエルサレムにいても何の希望も見出せなくなったと思って、エマオにやって来たのですが、復活の主イエスに出会ったことによって、時を移さず方向転換して、エルサレムに戻って来ました。失意のどん底に突き落とされるような体験をしたエルサレムでありましたが、その同じ場所が他の仲間たちと救いの出来事を語り合い、共有出来る場、教会の働きの場になりました。
 私たちが復活の主イエスと出会って、信仰者になるということも、人生においてこのように方向転換をすることであります。しかし、方向転換して向かうのは、必ずしもこれまでと違う新しい場所ではありません。同じ場所であっても、そこが失望の場所ではなくて、救いの場所、希望の場所となるのであります。そしてそこで主イエスと共なる新しい歩みが始まるのであります。  祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様!
  主イエスを見失い勝ちになり、希望を他のものに求め勝ちになる私たちでありましたが、御言葉とこのあとの聖餐において、私たちの目を開き、心を開いてくださって、主イエスが共にいて、共に歩んでくださるお方であることを覚えることが出来ますことを感謝いたします。
 どうか、この恵みを証しすることのできる者たちとしてください。またどうか、エマオの方向に向かおうとしている人たちに、主イエスが出会ってくださり、共に恵みを分かち合えるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年4月3日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書24:13-35 
 説教題:「
復活の主と共に」         説教リストに戻る