序. ペトロの復活から私たちの復活へ

 ここまで、フランネルグラフを用いて、子供たちと一緒に聞いて参りましたのは、
①漁師であったペトロが主イエスの召しを受けて弟子にされたことから始まって、
②主イエスをメシア(救い主)とする信仰告白をしたこと、
③ところが、主イエスが十字架のことを予告なさると、それを否定したために、主イエスのお叱りを受けただけでなく、裏切りまで予告されたこと、
④そして実際に主イエスが逮捕されると、
⑤主イエスのことを知らないと言って、裏切ってしまったこと、
⑥そして、主イエスは予告通りに十字架にお架かりになって死んで葬られたこと、
⑦そして三日目の朝、女たちが墓に行くと墓が空であって、そこに復活の主イエスが現れたこと、
⑧しかし、その知らせを聞いたペトロたちは信じられなかったのですが、その日の夕方に、弟子たちが集まっていたところに復活の主が現れたこと、
⑨そして、その後、弟子たちがガリラヤで漁を再開しようとしていたところに現れてくださって、特に主イエスを裏切ったペトロに対して、「わたしを愛しているか」と愛を確かめられた上で、「わたしの小羊を飼いなさい」と言って、もう一度弟子としてくださったこと、までの物語でありました。

この物語の中心は何といっても主イエスの十字架と復活の出来事でありますが、その主イエスとペトロがどのような関係にあったのかを辿った物語でもありまして、主イエスを裏切ってしまったペトロがもう一度弟子として復活させられる物語でもありました。そういう意味で、主イエスの復活物語であると同時に、ペトロの復活物語でもありました。
 けれども、ペトロの復活だけで終わったならば、<そんなこともあったのか>で終わってしまって、今日、私たちがこの物語を聞いた意味がありません。このペトロの復活物語が私たち自身の復活、私たち自身が新しい命に生き始めることにつながらなければ、イースター礼拝は卵をもらって帰るだけの行事に終わってしまいます。そこで、もう一度ペトロと復活された主イエスとの関係を辿りながら、復活の主イエスが今日、私たちに何を与えようとしておられるのか、そして私たちの命がどのようにして甦るのか(復活するのか)を聴き取りたいと思います。

1. 空になった墓――御言葉による関係へ

 まず、主イエスが復活なさった朝に、墓に出かけたのは女の弟子たちでありました。ペトロをはじめ男の弟子たちはどこかに隠れていました。女の弟子たちが御遺体に香油を塗るために墓に行ってみると、墓は空でありました。そして天使が主イエスの復活を告げます。その直後、女たちは復活された主イエスに出会います。それらのことを女たちが男の弟子たちに伝えますと、彼らは信じられない思いでしたが、ペトロは墓に行ってみました。すると、確かに墓は空になっていましたが、そこでは復活の主にお会いすることはできませんでした。
 この復活の朝の出来事で聞き落としてはならないことがあります。
  それは一つには、墓が空であったということであります。女らたちやペトロは墓で主イエスの御遺体に出会うことを求めておりましたが、墓は空っぽで御遺体はありませんでした。これは、従来の肉体的な関係とか、人間的な愛着とか親しさとか尊敬といった関係は、もはや意味のないものになったということであり、これまでの人間的な関係が、ここで行ったん、拒否されねばならなかった、ということです。このことはヨハネ福音書の復活物語の中でも示されています。復活の朝、主イエスに出会った女たちが「先生」と言って近づこうとすると、「わたしにすがりつくにはよしなさい」と言われたことが記されています。
  次にここで聴き取りたいことは、女たちに語られた天使の言葉であります。こう言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」――ここで示されている大事なことは、「生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言われているように、主イエスは遺体のままで横たわっておられるのではなくて、今も生きて働いておられるということであります。また、天使は「復活なさったのだ」と言っておられます。一旦は十字架の上で死んだ方が復活されたということです。罪のない主イエスが人々の罪を担って十字架に架かってくださった。そして私たちに代わって死んでくださった。その主イエスが復活なさったということは、罪とその結果である死が克服されたということであります。罪と死に勝利してくださったということです。
  更に、天使が「お話しになったことを思い出しなさい」と言われているように、復活後の主イエスと弟子たちの関係は、これまでの人間的・肉体的な関係が継続するのではなくて、主が語られた御言葉が信じる者に生きて働くという御言葉による関係になったということであります。この御言葉による関係は永遠に続くのであります。このことは今の私たちと主イエスの関係も同じであります。聖書を通して、また礼拝における御言葉の説教を通して、今も生きておられる主イエス・キリストの出会うことができるのであります。

2. 弟子たちに現れる――復活の証人へ

 では、主イエスの復活というのは現実のことではなくて、幻や夢の類か、観念の世界の出来事なのかというと、そうではありません。復活の日の夕方には、弟子たちが集まっているところに来られて、十字架に架けられて出来た手や足の傷をお見せになりました。ヨハネ福音書によれば、その場にいなかったトマスのために、八日後にもう一度現れてくださって、「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」とまでおっしゃいました。主イエスの復活は幻や観念の世界の出来事ではなくて、正に「体の復活」でありました。ルカ福音書によりますと、弟子たちに現れた主イエスは「何か食べ物があるか」と言って、焼いた魚を食べられたことが書かれていて、肉体をもった主イエスの復活であることを証言していますし、旧約聖書の言葉を用いて「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」と記されています。

 復活の主イエスはその後、天に昇られましたので、私たちは今、主イエスのお体を触れることも見ることも出来ません。そこで大切になるのが、復活の主イエスに出会った弟子たちの証言であります。ペトロも復活の日の夕方にも、八日目にも復活の主イエスに出会っていますし、ガリラヤ湖のほとりでも出会いました。こうして、弟子たちは主イエスの復活の証人となるのであります。後に主イエスの弟子になったパウロは、復活の主イエスのお姿を見ることはありませんでしたが、主イエスの御声を聴いて、キリスト者を迫害する者から、主イエスの復活を宣べ伝える者になりました。そのパウロはコリントの信徒への手紙の中で、こう書いています。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。」(Ⅰコリ1535)――このように、私たちもこの目で復活の主イエスを見ることは出来ませんが、ペトロをはじめ弟子たちの証言を聞いて、信じる者とされて、私たち自身も主の復活を証言する「復活の証人」とされるのであります。  

 ここまでが、今朝聴くべき第一のメッセージであります。

3. 愛の確認――赦しの愛の中へ

 さて、ペトロが弟子として復活するに当って最も大切な場面は、ガリラヤ湖畔での復活の主イエスとの出会いであります。ペトロはそれまでに何度か復活の主イエスに出会っていて、主イエスの体の復活のことについては何の疑いもなかったと思われますが、直ちに復活のことを人々に宣べ伝える活動を始めることが出来なかったのは、まだ解決されていない大きな問題があったからではないかと思われます。それは、主イエスを裏切ってしまったことに対する心の清算が出来ていなかった、罪の意識から解放されていなかったことであります。このことは時間の経過では解決されません。主イエスとの間に深い溝が横たわっていて、その溝は、ペトロの方から埋めることは出来ません。
 先ほどのフランネルグラフのガリラヤ湖のほとりの場面ですが、朝の食事を終えると、主イエスはペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と問いかけられました。これは、誤魔化したり繕ったりすることの出来ない厳しい問いかけであります。自分の愛が足りなかったこと、偽りがあったことを思わざるを得ません。自分では「愛している」と思っていたことが、どれほど脆いものであったかを思い知らされました。ですから、この問いに対して、堂々と「はい、あなたを愛しています」と答えることは出来ません。
 では、主イエスがこのように問いかけられたのは、裏切ったペトロを問い詰めて、断罪するためでしょうか。そうではありません。主イエスはペトロを愛しておられます。苦しい心の内も知っておられます。そして、ペトロの弱さ、その罪をも赦しておられます。そればかりか、このペトロをもう一度立ち直らせようとされているのであります。ペトロにもその主イエスの愛がよく分かったのではないでしょうか。そこでペトロはこう答えるしかありませんでした。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」主イエスの大きな赦しの愛の中にあることを言うほかなかったのであります。

結. 私たちの復活――「わたしの羊を飼いなさい」

 このような問答が三回繰り返されたのは、三度も裏切ったペトロを主イエスが責めておられるのではなくて、罪が赦されたことをペトロの心に刻み付けるためでした。それが、もう一度大切な役目につくために必要だからです。こうして、主イエスはペトロを立ち直らせなさいました。そして、最後に、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。もう一度弟子として復活させるという宣言であります。
 私たちも主イエスの愛を知っており、主にお従いしたいという思いは持っているのですが、心が弱いので、主イエスのことを忘れて自分の事の方を大事にしてしまう、罪深い者であります。しかし、主イエスは、裏切ったペトロを放っておかれなかったように、主イエスのことを置き去りにしそうな私たちをも放っておかれません。主イエスは私たちを引き戻すために、私たちを追い求めるようにして礼拝に招いてくださって、「わたしを愛するか」と言ってくださるのであります。
  私たちはペトロと同じように、「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えるほかありません。こうして、主イエスの愛と赦しを再確認させてくださいます。そして、「わたしに従いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言って、もう一度弟子として復活させることを宣言なさるのであります。これが、今日私たちがペトロと共に聴くべき最も大切な主の満ちた言葉であります。こうして私たちは、新しい命に復活させられ、主イエスの弟子としての新しい関係に生き始めることへと導かれたのであります。 祈りましょう。

祈  り

愛と赦しのイエス・キリストの父なる神様!
  主のためにお仕えすること少なく、むしろご期待を裏切ることの多い私たちの罪をお赦しください。私たちの信仰は弱く、愛の乏しい者でありますが、どうか、あなたの弟子の一人として、主イエスの大きな愛に包まれて、主の愛を映し出すことの出来る者として生かしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

復活節合同礼拝説教<全原稿> 2016年3月27日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書24:1-12 
 説教題:「
主イエスの復活」         説教リストに戻る