序.イエスの死と葬りに向き合う

 レントの最後の一週間である受難週に入りました。礼拝において毎週告白しております「使徒信条」では、主イエスの御受難については、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり」と告白しています。先週の礼拝では、このうちの「十字架につけられ」の部分について、ルカ福音書2332節から43節の箇所から聴いたのでありますが、今日はそのあとの44節から56節の箇所から、使徒信条の「死んで葬られ」の部分について、考えてみたいと思っています。
 先週聴いた十字架の場面では、人々が口々に「自分を救ってみろ」と叫んで主イエスを嘲りました。しかし、主イエスは十字架から降りられることなく、両側の犯罪者たちと同じように、十字架の上で息を引き取られたのであります。十字架刑というのは、ローマでは三つの極刑のうちでも最も屈辱的であり、苦痛を伴うものでありましたが、そのような恥ずべき死に方をされた主イエスの死にはどのような意味があるのでしょうか。また、主イエスが息を引き取られたのは、安息日の前日でありましたので、御遺体はその日のうちに墓に納められました。使徒信条で「葬られ」と告白するわけですが、そのことにはどういう意味があるのでしょうか。そのようなことを、今日の箇所に書かれている、主イエスが十字架上で語られた七つの言葉の最後の言葉や、主イエスの死に伴って起こった出来事、そして主イエスの死の様子を見ていた人たちの様子、それに御遺体を墓に収めた人のことなどから聴き取りたいと思っています。そして、ここで私たちが何よりも考えなければならないことは、そのような主イエスの死と葬りに私たちがどう向き合ったらよいか、ということであります。そして、来週のイースター礼拝に向けて、よい備えをもって臨むことが出来たらと思っています。

1.「父よ、わたしの霊を御手に」

 今日の箇所の中心は、何といっても46節にある主イエスの御言葉であります。こう言われました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」――これは主イエスの「十字架上の七言」の最後の言葉であります。先週は34節にあった一番目の言葉を聞きましたが、そこでは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」とおっしゃいました。どちらも冒頭で「父よ」と呼びかけられているように、父なる神様に向かっての祈りの言葉であります。34節では、自分を十字架につけている人たちのために赦しを求めるという、すごい祈りでありました。今日の箇所ではもう、何かを願われるというのではなく、「わたしの霊をゆだねます」と言っておられます。「霊」というのは、「魂」という意味ですが、それは肉体と離れた霊魂のようなものではなくて、肉体も魂も含めた存在のすべてを表わす言葉であります。主イエスは死を前にして、父なる神様を信頼して、御自分の全てを委ねておられるのであります。
 この主イエスの祈りの言葉は、先ほど朗読していただいた詩編31編の6節に出ているものです。この詩編は苦しみの中にある詩人が、神様に対する絶大な信頼を表現したものであります。詩人が苦しみを表現していることの中に、主イエスの十字架の苦しみと重なるところがたくさんあります。たとえば、10節には、「わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも、苦悩のゆえに衰えていきます」という言葉がありますが、これは正に十字架の肉体的・精神的な苦しみを思わせます。また、1213節には「わたしの敵は皆、わたしを嘲り、隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き、外で会えば避けて通ります。人の心はわたしを死者のように葬り去り、壊れた器とみなします」とあって、主イエスを亡き者にしようとした敵ばかりでなく、民衆や弟子までもが主イエスを嘲っていることと重なります。おそらく主イエスはこの詩編の全体を語ろうとされたのでしょうが、もう息を引き取る直前で、6節の箇所だけを述べられながら、全体を祈られたのでしょう。しかし、詩編の祈りと主イエスのこの祈りと違うところがあります。それは、詩編では「まことの神よ、主よ」と呼びかけられているのに対して、主イエスは「父よ」というもっと近しい間柄の呼びかけをしておられることと、詩編の6節の後半で「わたしを贖ってください」とあるのに、ここではその言葉は述べられていません。それは、そこまで言う前にこと切れたということではなくて、主イエスは贖いを求める必要がなかったからであります。しかし、何の罪もなく、贖いの必要のない方が、父なる神様の御心のままに、私たちのための贖いとして、御自身の全てを御手に委ねようとしておられるのであります。
 この詩編31編は当時のユダヤ人たちにもよく覚えられていて、人生の中で様々な苦しみに出会った時に思い起こして慰めを与えられていたのではないかと思われます。私たちもこの詩編によって、自分の苦しみと重ね合わせながら、慰めを与えられるのであります。しかし、主イエスの十字架の苦しみというのは、私たちが出会う苦しみとは量的にも質的にも格段に違うわけであります。けれども、主イエスは十字架上でこの詩編の言葉を引用しながら祈られることによって、ただ苦しみの中にある御自分を神様に委ねることを祈っておられるのではなくて、私たちの苦しみの祈りに関わろうとしておられて、私たちの苦しみをも共に担おうとしておられるのではないでしょうか。そして、主イエスと同じように私たちも、すべての苦しみ・悩み・重荷を神様に委ねることが出来るようにしようとしてくださっているのではないでしょうか。私たちの神様に対する信頼は十分ではありません。ですから不安を拭い切れません。しかし、主イエスの父なる神様に対する信頼は絶大であります。その主イエスの信頼へと私たちを伴って行こうとしてくださっているのであります。
 私たちもやがて死の時を迎えます。その時に、この主イエスの祈りを私たちも祈ることが出来たら最高です。なかなかそのような境地に達することは難しいかもしれません。しかし、主イエスが私たちに先立ってこの祈りをしてくださったことを思い起こすことができたなら、大きな慰めを与えられるのではないでしょうか。

2.イエスの死の意味

 こうして主イエスは父なる神様への絶大なる信頼のお言葉を最後に、息を引き取られたのでありますが、この主イエスの死の意味をもう一度確認しておきたいと思います。「日本キリスト教会小信仰問答」の草案というのが1958年に作られていて、それを大会で確定することが去年の大会でも議論になっているところなのですが、その「小信仰問答」の41問は「キリストはどうして死の苦しみをうけたのですか」となっていて、キリストの死の意味を問うています。その答えはこうです。「死はわたしたち人間の罪の結果ですから、罪のないキリストが死ぬことによって死を滅ぼし、罪のあがないをなしとげました。それによって神の義と愛と真理があらわされました。」――つまり、罪のないイエス・キリストの死によって死が滅ぼされたということであり、そのことによって神様が正しいお方であると同時に愛に満ちたお方であることが顯かにされた、ということであります。更に「小信仰問答」では次の42問で「キリストの十字架の死は、あなたにどんなかかわりがありますか」と、主イエスの死と私たちとの関わりを問うていて、その答えはこうです。「キリストを信じることによって、罪の悔い改めと赦しとを与えられ、古いわたしは、その邪悪な情欲とともに十字架につけられ、葬られて、今やわたしは復活のキリストのうちに生きるものとされます。」――つまり、主イエスを信じることによって、罪の悔い改めと赦しが与えられて、古い私が死んで、新しい私に生き返るという意味があるということであります。この二つの問答で述べられていることが、すべて46節の主イエスの言葉だけから聴き取ることができるというわけではありませんが、死に至るまで父なる神様の御旨に従われたことは十分に読み取ることが出来ますし、その神様への信頼こそが罪のないお方であることそのものでありまして、そのお方の死が私たちの贖いにつながり、死ぬべき私たちの新しい命につながることは明らかであります。

 なお、今日の聖書の箇所には、主イエスの死に伴って起こった二つの不思議な出来事が記されています。それは44節後半から45節にある出来事です。こう書かれています。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。――ルカが「太陽は光を失った」と記しているのは、たまたま黒い雲が太陽の光を遮ったというような自然現象を描いているのではありません。たとえこの時暗くなったことが自然現象であったとしても、聖書が述べようとしたことは、主イエスの死は、神様が世界創造の初めに光を創造されたことと逆のことが起こっているのであって、主イエスはヨハネ福音書で「わたしは世の光である」と言われたのですが、その方が死なれるということは、太陽が光を失うに等しいことである、ということであります。しかし、それは、光である主イエスが闇に負けたということではありません。世の光である主イエスを受け入れない人間に対して神様の審があることを示しているのであります。しかし、その人間への神様の審きを、主イエスが代わって受けておられる、だから、光は失われないし、全地が永遠に暗くなることはない、というのが、聖書の知らせたいことではないでしょうか。

 また、神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたということですが、この垂れ幕というのは、神殿の中で神様が御臨在なさるとされた至聖所を仕切る幕のことで、その中には一般の人は入ることが許されず、大祭司が五年に一度だけ、人々の罪を贖う動物の血を携えて入ることが出来るだけだったのですが、その幕が裂けたということは、動物の犠牲による贖いは終わった、必要がなくなった、ということを意味します。罪のない主イエスが十字架に架かって死んでくださった贖いによって、もはや動物の犠牲による贖いが無意味になって、すべての人の罪が赦され、すべての人が神のもとに近づくことが出来るようになった、――そのことを示していると聖書は語ろうとしているのであります。

3.イエスの葬りの意味

 次に、47節以下に書かれている十字架を巡る色々な人の反応については後回しにして、50節以下に記されている、主イエスの御遺体の葬りの意味について、先に触れておきます。冒頭にも申しましたように、短い使徒信条の中にわざわざ、「葬られ」という一言を入れているのは意味のあることなのであります。
  一つの大事な意味は、先ほど取り上げた「小信仰問答」の43問でも取り上げられているのですが、「『葬られ』とは何をあらわしていますか」という問いに対して、「キリストがほんとうに死んだことを証明しています」と答えておりますように、このあと主イエスの復活の出来事があるのですが、それは仮死状態にあったのではなくて、葬られて完全に死んだ人が甦ったという意味が込められているのであります。
 しかし、もう一つの大事な意味があります。主イエスは肉体的に完全に死んで葬られただけではなくて、主イエスを十字架に架けた人々は、主イエスを完全に世の中から葬り去ったと思っていたのであります。主イエスを慕う人や従って行こうとする人もいましたが、結局は自分を救うことが出来ずに、この世の中から葬り去ることによって、主イエスの影響力はここまでに出来ると思ったのであります。確かに、そのことは成功したかに見えたのであります。それが「墓に葬る」ということでありました。しかし、そのようにしてこの世の中から葬り去られた主イエスが、もう一度甦られたばかりでなく、世界中に影響力を持ち、多くの人々をも新しい命へと復活させることになるのです。そのことの予備線として、葬られたことを記しているのであります。

4.イエスの死に立ち会った人たち

 さて、今日の箇所から聴き取るべき、更にもう一つの大切なことは、主イエスの死と葬りに立ち会った人たちの反応から示されることであります。
 まず、47節には、百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した、と記録されています。
 百人隊長というのは、ローマ軍の百人単位の部隊の長に当る人で、おそらく、この人は主イエスを十字架につける役目をした兵士たちの長に当る人であります。ユダヤ人ではありませんから、真の神様を知らない異邦人であります。その人が主イエスの死の一部始終を見ていて、「本当に、この人は正しい人だった」と告白したのであります。この「正しい」という意味は、ローマ法上の罪を犯していないという意味もあるでしょう。しかしそれだけではなくて、主イエスが神様への絶大な信頼をもって祈っておられることを見て、異邦人ながらも、神様との関係において、主イエスは何の罪もない正しい人であったということを知らされたのではないでしょうか。伝説によれば、この百卒長はロンギスという名前で、後に洗礼を受けたと伝えられております。そのことの真偽はともかく、主イエスの神様に対する信頼に満ちた祈りを聞いて、異邦人の百人隊長までもが、主イエスが父なる神様との深い信頼関係にある「正しい人」であることを認めたのであります。
 この百人隊長だけではありませんでした。48節によれば、見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を討ちながら帰って行った、とあります。彼らがどのような感動を覚えて胸を打ったのかは書かれていませんが、ユダヤ人であれば皆、詩編31編を知っていたでしょうから、主イエスの祈りを聞いて詩人の言葉を思い出しながら、やはり父なる神様に対する主イエスの深い信頼を覚えて胸を打たれたのではないでしょうか。――もちろん、主イエスの十字架の死と葬りだけでは救いの御業は完成いたしません。ですから、百人隊長や胸を打った人々が、この日の出来事を見ただけで、主イエスを信じるようになったわけではないでしょうし、救いを得たのではなくて、このあとの復活の主との出会いが伴わなくてはなりません。けれども、救いの御業の中心に、主イエスの父なる神様に対する深い信頼があるということは間違いがありません。そして今日は、その信頼関係の中へと私たちも招かれているということであります。
 もう一人、主イエスの御遺体を引き取ったアリマタヤ出身のヨセフという人がいます。この人は、50節にあるように、ユダヤの最高法院の議員であって、善良な正しい人でありました。最高法院の議員ということは、主イエスについての裁判をした席にいた筈であります。51節には、同僚の決議や行動には同意しなかった、と書かれており、神の国を待ち望んでいたとも書かれています。ヨハネ福音書によれば、イエスの弟子であったとさえ書かれています。しかしながら、主イエスの十字架までは、そのことを鮮明にしたわけではなさそうであります。自分の議員としての立場が危うくなるかもしれません。主イエスに心を惹かれながらも、これまでに築いてきた人生を捨てることは出来ませんでした。しかし、そのヨセフが、主イエスの十字架の死を見て、遺体の引き取りを申し出て、自分が入るために用意していた墓に葬ったのであります。まだ主の復活のことは知りませんから、自分が死んだときには、主イエスの隣に葬ってもらおうと考えたのかもしれません。彼をこのような行動に踏み切らせたのも、十字架上の主イエスのお姿を見、そのお言葉を聞いて、そこにある父なる神様への絶大なる信頼を知って、この方こそ、神の国をもたらせてくださるお方に違いないとの思いを持つに至ったからではないでしょうか。
 このような人々の感動や行動は、キリスト者としての生き方を始めるという、決定的な変化にまではまだ至っていませんが、主イエスの復活の後には、弟子たちと共に新しい教会を形成することになるのであります。

結.主イエスとの新しい関係へ

 今日は聖書を通して、私たちも主イエスの死と葬りの場面に立ち会うことが出来ました。そして、主イエスの祈りの言葉を通して、父なる神様への絶大なる信頼を覚えさせられ、主イエスはその父なる神と主イエスとの愛と信頼の関係の中に私たちをも招き入れようとしていていてくださることも知ることができました。来週はイースター(復活節)を迎えます。そして主イエスが父なる神様への信頼だけでなく、実際に死に打ち勝ってくださった出来事に向き合うことになります。そのようにして、主は私たちと新しい関係を結ぼうとしておられることを固く信じる者とされ、新しい命、新しい生き方に生き始める者とされたいと思います。
 祈りましょう。

祈  り

救い主イエス・キリストの父なる神様、御名を賛美いたします。
  今日は主イエスの死と葬りの出来事を通して、主なる神様と主イエス・キリストとの深い信頼関係の中へお招きいただきましたことを感謝いたします。私たちの中にはなお、そのような関係に飛び込んだり、立ち入るまでの勇気や信仰が足りない者であることを告白せざるを得ませんが、あなたが主イエスを通して、なお力強く私たちに働きかけていてくださり、私たちのために神の国に席を用意していてくださることも覚えます。
  どうか、主イエス・キリストの助けを得て、素直に御心に従う者とならせて下さい。どうか、この地上に生を受けております間に、新しい命に生き始める者としてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年3月20日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書23:44-56 
 説教題:「
死んで葬られ」         説教リストに戻る