人々はイエスを十字架につけた。・・・そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った
                          (ルカによる福音書233334 

 聖書は「『人々は』イエスを十字架につけた」、「『人々は』くじを引いて」と記す。実際に行なったのはローマの兵士だと考えられるが、あえて『人々は』と記しているのは、総督や祭司長や民衆も含め、皆が主イエスを十字架につけたと言おうとしているのだ。現代の私たちも、自分の生活の中からキリストを追い出しているのであれば、それはキリストを否定することであり、十字架につけるに等しいことではなかろうか。
 十字架刑を受けた者の衣服を分け合うのは兵士の特権であったようだが、このことを聖書がわざわざ記すのには理由がある。アダムとエバがへびの誘惑に負けて、禁断の木の実を食べたことから、自分たちが裸であることを知って以来、人間は裸を隠してしか生きられなくなり、二人がエデンの園から追放される時に、神は皮の衣を作って着せられた(創世記3章)。それは神が人間の罪と恥を覆ってくださることのしるしである。またユダヤでは上着は身を守る大切なものとされ、質にとった場合でも日没までには返さねばならないとされた。だから主イエスの服が剥ぎ取られたことは、受難の底知れない深みを表わしているとともに、主がそのことによって私たちの醜い罪を覆ってくださったことを知るのである。
 また、人々は十字架の主に向かって口々に「自分を救うがよい」と言ってののしった。この世では、自分を救うのが当たり前で、自分を救えないような者を信用できない。人々は主イエスに勝手な期待を抱いたが、そのような期待には応えられないと知ると、十字架につけてしまった。私たちも主イエスに期待し、力強く働いてくださらないことに不満を抱く。それは主イエスを十字架から引きずり下ろすことになる。主イエスは自分をお救いになることなく、標記のように自分を十字架につけた者たちのために神の赦しを願われる。私たちは、真実を知らず、知ろうとしない。そして人間が罪に捕らわれている事実から誰も逃れることができない。だから、主イエスは執り成してくださり、十字架の死の代償を払ってくださる。

主日礼拝説教<要 旨> 2016年3月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書23:32-43 
 説教題:「
十字架につけられ」 説教リストに戻る