序.イエスを知り、自分を知る

 レント(受難節)の第5主日を迎えております。ここまでマルコ福音書によって十字架に向かわれる主イエスを見て来たのですが、十字架と復活の場面については昨年、マルコ福音書で取り上げましたので、今年はルカ福音書によって、今日から4回にわたって取り上げることにしております。
 今日の2332節から43節までの箇所は、これまでにも2回取り上げていますし、39節以下にある二人の犯罪人のことは松江集会でも取り上げていますので、今日は全般を取り上げるのでなく、34節にある御言葉――これは十字架上で語られた七つの御言葉の第一のものでありますが――これを中心に、その前後に書かれている人々の様子を私たち自身と重ね合わせながら、私たち自身の姿を知るとともに、十字架の主イエスの恵みを深く覚えたいと思っています。

1.イエスを十字架につけた「人々」

 33節から見て行きます。こう書かれています。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。――「されこうべ」という名前の由来は定かではありません。そこが十字架刑場でありました。そこで「人々はイエスを十字架につけ」ました。ここで「人々」と訳されていますが、以前にもお話ししたことがありますが、原文は「彼ら」で、実際に十字架につけたのはローマの兵士だと考えられますが、「彼ら」という言葉を遡って行きますと21節や23節に出て来る「十字架につけろ」と叫んだ人々や、13節の「祭司長たちと律法学者」にまで行き着くのであります。つまりルカは、十字架につけた人を、兵士とか総督ピラトとか、祭司長とかに特定するのではなく、民衆も含めて皆が十字架につけたと言いたいのであります。主イエスの弟子たちも、ユダが裏切りましたし、筆頭弟子のペトロも主イエスを否認しました。多くの弟子たちが十字架の場所から逃げ去ってしまいました。彼らも後になって、自分たちが主イエスを十字架につけたとの思いを抱いたと思われます。もしかすると、筆者のルカ自身も主イエスを十字架に架けたという思いがあったのかもしれません。積極的に手を貸したかどうかは別にして、このとき、みんなが御子イエス・キリストをこの世から取り除くことに加担したのであります。
 そのことは、当時生きていた人たちだけではありません。現代の私たちも、それぞれの生活の中から神の子イエス・キリストを追い出しているとすれば、それは主イエスを十字架につけることに等しいのであります。キリスト者であれば、主イエスのことを貶(けな)したり、見向きもしないということはなく、むしろ尊敬の念をもっていて、努めて礼拝にも出ているかもしれませんが、イエス・キリストを自分の生活の主とし、この方を全面的に信頼し、この方の御言葉に聴き従おうとしていないとすれば、それは主イエスを否定することであり、十字架につけるのに等しいことであって、それが聖書の言う罪なのであります。人間は今から2千年前に主イエスを十字架につけてこの世から消し去ろうとしただけでなく、今も自分たちの生活や歴史の中から排除しようとしているのであります。それはキリスト者も例外ではないということであります。私たちは自分が困った時、何物かを得たいとき、神様を思い出して、自分に都合の良いようにしてくださることを期待いたします。しかし、神様の期待されること、神様に栄光を帰すことをせず、神様に自分を献げることはしないのであります。生活の中心において神様を仰ぎ、神様の御心を伺うことをしないのであります。けれども、神様はそんな私たちをお見捨てになることなく、今朝もこうして聖書において、聖霊の導きをもって、私たちを主イエスの十字架のもとに招いてくださいました。それは、私たちの罪を思い知らせるためであるとともに、何とかして救いに入れようとなさっているからであります。

2. イエスの服を分け合った

 次に、34節の前半の主イエスの言葉を後回しにして、34節後半の記述に着目したいと思います。ここに、人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った、ということが書かれています。ここでも「人々」と書かれていますが、他の福音書を見ると、衣服を分け合ったのは「兵士たち」であります。ヨハネ福音書を見るとこの部分を詳しく記していて、こう書いてあります。「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、『これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう』と話し合った。それは、『彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。」(ヨハネ192324)当時、十字架刑を受けた者の衣服を分け合うのは兵士の特権であったようですが、そんなことを聖書がわざわざ記しているのには訳がありました。一つは創世記に記されているアダムとエバが罪に陥った物語です。彼らは最初、自分たちが裸であることを恥ずかしいと思わなかったのですが、へびの誘惑に負けて、神様から取って食べてはいけないと言われていた園の中央にあった「善悪の知識の木」の実を食べたことから、自分たちが裸であることを知って、いちじくの葉を綴り合せて、腰を覆いました。こうして人間は罪を犯して以来、身を隠す者としてしか生きられなくなったのでありました。そんな人間がエデンの園から追い出される時に、神様は皮の衣を作って着せられたということが創世記3章に記されています。これは、神様が人間の罪と恥を覆ってくださることのしるしであります。こうして衣服は、人間が人間らしい生活を送る上で欠かすことのできないものとなったのであります。衣服はそれほどに大事なものですから、出エジプト記では上着を質にとる場合でも日没までに返さなければならないことが定められています。当時の上着は肌を覆う唯一の着物であって、それがなければ寒くなる夜を過ごせないからであります。マルコ福音書の「盲人バルティマイ」の物語を聴きましたときに触れましたが、主イエスが「あの男を呼んで来なさい」と言われたとき、バルティマイは上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来たということが書かれていて、それは自分が生きて行くのに欠かすことの出来ない大切なものをも捨ててイエス様に従って行こうとする姿を表わしているということを申しました。そのような大切なものが衣服でありましたから、ここで主イエスの服を剥ぎ取って裸にするということほど非人間的な行為はなかったのであります。E・ユンゲルという人がこの箇所の説教でこう言っているそうです。「兵卒たちがイエスの着物を彼らのあいだで分け合ったとき、むき出しにされた一人の人間だけが十字架につけられたのではありません。そうではなくて、そこで、神ご自身がさらし者にされたのです。神の愛したもう御子は天使たちによっても守られず、彼には、わたしたち人間がいつもそれで身を包む、のみならず時には本格的にその中に逃げ込む…安全服、保護服がまったく残されていませんでした。彼を処刑した者たちが彼らのあいだで彼の着物を分け合ったということは、イエス・キリストの受難の底知れない深みに属します。」――このように衣服を剥ぐということは、その人を無防備のさらし者にするということであります。そしてユンゲルは続けてこう言っております。「わたしたちがわたしたち自身をさらし者にしたり、他人によってさらし者にされたりする時にも、その時こそ、神の愛の中にわたしたちは隠されています。人がわたしたちの最後の着物を脱がせる時にも、そして死の寒さがわたしたちに触れる時にも、わたしたちは神の愛の中に深くかつ確かに隠されていることでしょう。」――主イエスは服をはがされてさらし者にされることによって、私たちの醜い罪を覆ってくださったのであります。

3.自分を救うがよい

 続いて35節以下には、十字架の周りにいた人たちの様子が書かれています。最初に民衆のことが書かれています。民衆は立って見つめていた、とあります。彼らは何を思い、何に関心を持って見つめていたのか記されていませんが、その後で、「議員たちも」とありますから、議員たちと同じようにあざ笑っていたということでしょうか。議員たちはあざ笑ってこう言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」――議員たちも主イエスが他人を救ったことは認めております。主イエスは多くの困った人を助け、病人を癒し、虐げられている人々に慰めを与えられました。それは主イエスが旧約聖書に預言されている「来るべき」メシアであることのしるしであります。しかし、議員たちは「もし神からのメシアで、選ばれた者なら」と言っております。この「メシアで、選ばれた者」というのはイザヤ書に「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」(イザヤ41:1)と言われている「わたしの僕=メシア」を指した言葉であります。議員たちは主イエスがそこで言われているメシアであることを認めていません。そして議員たちは、「自分を救うがよい」と言います。今、自分を救えないようでは、メシアと言えない、というのであります。これは、普通の考え方であります。この世では、自分が一番大切なのが当たり前です。自分が救えないようでは信用ができません。私たちも、自分を救わない方(かた)をなかなか信用できないのであります。私たちも、困った人を助けたり、病気を癒したり、虐げられている人を慰める主イエスは好きですが、ここぞという所で力を発揮せず、御自分の力をお示しにならない主イエスが理解できないのであります。黙って侮辱を受けておられる主イエスを物足りなく感じるのであります。
  3637節には、兵士たちによる侮辱が記されています。酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、とありますが、元来は痛みを軽くするためのものであったようで、マタイによる福音書では、イエス様はそれを飲もうとされなかったと書かれています。それは、苦しみを味わい尽くそうとされたのだと見ることが出来ます。しかし、ここでは、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」という侮辱の言葉を吐いて、酸いぶどう酒を突きつけております。それは、王様に向かって僕がぶどう酒を差し出す仕草をして、茶化しているのであります。ほかの福音書では、兵士たちは王の象徴である紫の服を着せ、茨の冠をかぶらせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼したと書かれています。彼らは思いっきり主イエスを侮辱したのであります。
  38節によると、主イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてありました。ここにも、侮辱が込められています。人々は主イエスがユダヤ人の王として、自分たちをローマの支配から救い出してくれることを期待しました。しかし、主イエスはそのような期待には応えられませんでした。それで、<ユダヤ人の王であると言いながら、自分を救うことさえ出来ないではないか>という侮辱を込めた罪状書きが掲げられたのです。
  今、兵士たち、民衆、そして議員たちがこぞって、「自分を救うがよい」と言って、主イエスを嘲(あざけ)る様子を見て来ました。では、私たちはこの十字架の主イエスとどう向き合うのでしょうか。私たちが主イエスに対して期待していることは何なのかということを考えてみる必要があります。私たちも、この人たちと同じように、主イエスが十字架から降りて来られることを願っているのではないでしょうか。もっと色々な形で力を振るってほしいと思っているのではないでしょうか。自分の病気を治してくださるとか、こじれた人間関係を修復してくださるとか、自分の人生や今の社会をもっと豊かにしてくださるとか、そういうことで力を発揮してほしいと思っているのであります。
 また、今、キリストのからだである教会が弱っているように見えます。私たちは自分たちのことを棚に上げて、主イエスが教会に力強く働いてくださらないように思って、不満な思いを抱いてしまいます。
 しかし、このような思いや期待は主イエスを十字架から引き摺り下ろすことになります。もし主イエスが十字架から降りられるなら、先ほど聞いた「罪人のひとりに数えられる」という本来の目的から降りることになります。もし主イエスが自分自身の救いと誉れのために十字架から降りられたら、人を救うことは出来ません。人は皆、自分が幸せになること、自分の誉れが高まることを求めて、そこに救いがあると思っています。しかし、そこにこそ罪が現れています。そのような人間の求めに応じるために主イエスが十字架から降りられたならば、罪からの救いという本来の目的を達成することが出来なくなります。ですから主イエスは十字架から降りることはなさいません。自分を救わないで、他人を罪から救ったお方こそ、本当の王であり、メシアなのであります。主イエスは私たちの弱さや罪深さを忍耐して担っていてくださるのではないでしょうか。そこにこそ本当の救いがあります。

4.「彼らをお赦しください」

 主イエスは自らを救おうとされなかっただけではありません。主イエスは、自分を十字架につけた者たちのために、神様に祈られました。それが34節の言葉であります。「父よ、彼らをお赦しください」と祈られました。「彼ら」とは誰でしょうか。御自分を十字架につけた人々であります。それは直接主イエスのお体を十字架に釘付けにした兵士たちだけではありませんし、主イエスを憎んで陥れた祭司長や律法学者だけでもありませんし、十字架の決定を下したピラトでもありませんし、「十字架につけろ」と叫んだ民衆まででもありません。先ほども申しましたように、現代の私たちをも含めてすべての人間が主イエスをないがしろにし、十字架につけて来たし、今も十字架へと追いやっているのでありますが、そのすべての者の赦しを願っておられるのであります。私たちはこの言葉の寛容な面だけを聞いて、厳しい側面を聞き逃してはならないでしょう。赦しを願っておられるということは、そこに大きな罪があるということであります。神様から捨てられても致し方のない罪、死に値する罪があるということであります。そのような罪に対する裁きをお赦しくださいと祈っておられるのであります。「赦す」という言葉は「解き放つ」ことを意味する言葉であります。罪から自由にするということであります。人間は自らの力や努力では、罪から自由になることが出来ません。どうしても、主イエスを十字架につけてしまう愚かさを繰り返してしまうものであります。そんな私たちのために、罪からの解放を願ってくださっているのであります。
 主イエスは赦しを祈られたときに、その理由として「自分が何をしているのか知らないのです」と言われました。これは例えば兵士たちのように、深い事情を知らないで、職務として命令に従った者についてだけ弁護しておられるのではありません。知らないから責任がないということはありません。むしろ、知らないこと、無知や無定見も罪であります。パウロはコリントの信徒への手紙の中で、「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(Ⅰコロント82)と言っております。私たちは神様のこと、主イエスのことについて、もっと知るべきでありますのに、知ることを避けてしまっているところがあります。知ることが自分にとって不都合だからであります。パウロはまた、ローマの信徒への手紙の中で、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ715)とも言っております。自分が何をしているのか知っていてもいなくても、人間が根本的に罪に捉えられているという事実からは誰も逃れることはできません。だから、主イエスの執り成しが必要なのであり、そこには主イエスの十字架の代償が必要なのであります。

結. 民衆は立って見つめていた

 最後に35節の言葉に注目しましょう。民衆は立って見つめていた、とあります。当時の民衆は、ある者は主イエスを嘲りながら、ある者は軽蔑しながら、ある者は同情的な気持ちをもって、ある者は失望を感じながら、これらの様子を立って見つめていたでありましょう。しかし、これから何が始まるのか正確には誰も知りませんでした。私たちはどうでしょうか。今日こうして礼拝において、聖書を通して、十字架の主イエスの前に立っております。しかし、私たちは傍観者のままではここに立っていては意味がありません。主イエスが「父よ、彼らをお赦しください」と祈られた「彼ら」の中に私たちも含まれていることを見落とし、聞き流してはなりません。このあと、一緒に十字架に架けられていた犯罪人の一人が、「我々は、自分のやったことの報いをうけているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言い、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うと、主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と明言されました。また、このあとの47節によれば、十字架刑の執行に関わっていたローマ兵の百人隊長が、「本当に、この人は正しい人だった」と言ったことが記されています。私たちもまた、今日は主イエスの十字架の前に立っているだけではなく、主イエスの執り成しの祈りに含まれている者たちであることを覚えて、主に赦しを願い、神の国に入れられる日を待ち望む者とされたいと思うのであります。
 祈りましょう。

祈  り

主イエス・キリストの父なる神様!
  今日、十字架の主を仰ぐことを許され、主イエスの執り成しの祈りをも聞くことが出来ましたことを感謝いたします。
  私たちは十字架の周りで、あなたの御心を理解せずに、勝手なことをしたり、主イエスを嘲ったりしている者たちと変わらぬものであることを思い、死すべき者であることを思わざるを得ません。
  どうか、そんな私たちをお赦しください。どうか、主イエスの御業と執り成しの故に御国の一員に加えてください。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主日礼拝説教<全原稿> 2016年3月13日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書23:32-43 
 説教題:「
十字架につけられ」         説教リストに戻る