人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」
                 (マルコによる福音書
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 十字架を前にしてエルサレムに入城された主イエスは、その翌日さっそく、神殿の境内(「異邦人の庭」と呼ばれた場所)に入られた。そこでは、諸国に移り住んでいたユダヤ人が神殿に納める献金をユダヤの貨幣に両替するための両替人や、犠牲の動物としての鳩を売る者が出店していた。これらは礼拝の便宜のために設けられていたのである。しかし主イエスは、
  そこで売り買いしていた人々を追い出し、台や腰掛けをひっくり返し、境内を近道として者を運ぶこともお許しにならないという、過激な行動に出られた。これは、祭司が利権を高く売りつけているとか、商人たちが法外な利益を受けているといったことに反発されたということだけではない。主イエスは標記のように人々に教えられた。その中でイザヤ書56章の言葉を引用されているが、これはバビロン捕囚から帰還して神殿が再建された時期に語られたもので、「すべての国の人の祈りの家」とあるように、異邦人も参加できる新しい礼拝が始まることを告げるものであったのだが、正にその「異邦人の庭」が商売の場になっていたのである。当時の神殿で祈りが行われなかったわけではないが、神殿で宗教的な儀式は行われていたものの、心からの悔い改めや、御心に聴き従う祈りが失われて、本来、神殿に属すべきものが奪われているという意味で「強盗の巣」とおっしゃったのである。
 主イエスは、同じように私たちの教会の礼拝の場にも入って来られる。もし、自分の利益や安心のための形だけの礼拝が行われているとすれば、そこから私たちを追い出してしまわれるに違いない。
 しかし、主イエスは、神殿から商人を追い出されただけではない。主はこの「宮清め」の業を理由に最高法院に訴えられ、結局、十字架に架けられることになる。主イエスは単に現状批判をなさっただけではなく、御自分の身を挺して、神殿の改革を実行されたのである。主イエスの十字架とは、それまでの犠牲の動物の代わりに御自身を、罪のための供え物とされたのである。こうして、もはや動物の犠牲は要らなくなり、礼拝の根本的な改革が行われ、キリストの体としての教会が誕生することになる。主イエスは、私たちの礼拝のためにも、御自身の命をかけて清めてくださり、改革してくださるのである。

主日礼拝説教<要 旨> 2016年3月6日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書11:15-19 
 説教題:「
祈りの家」 説教リストに戻る